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先祖を探して

Vol.237 伊良部島の大世之主(2)

1457年に沖永良部島から伊良部島へ渡った大世之主。池間島を経由してのことだったようですが、単に経由しただけなのか理由があったのか、そこは詳しく分かりません。

池間島をはじめ琉球の島々は漁業が盛んであったと思いがちですが、実は意外にもそうではなかったようです。盛んであったのは本島の糸満地区で、それ以外の地域では農閑期や農作業の合間にリーフなどで自給的な漁業をしていた程度だったそうです。それは、琉球王国時代に首里王府が一貫して進めた農業振興政策にあったようで、明治35(1902)年以前は池間島は農業の“シマ”であったといいます。
琉球王府の取り組んだという農業振興政策そのものについての詳しいことは分かりませんが、大世之主は農業指導を行ったということですので、もしかしたらその政策のために池間島や伊良部島にやってきたのかもしれません。

それから、池間島や伊良部島、宮古島などは早くから交易が盛んだったようです。高い航海術を持っていた人たちがいて積極的に交易をしていたようで、沖永良部島も「おろそうし」などから世之主時代に積極的に交易をしていたことが伺えますので、交易関係で何か繋がりがあったのかもしれません。そうであったとすれば、何か興味深い展開がありそうですが、今のところはあくまでも推測にすぎません。

沖永良部島から渡海した大世之主、大変に興味深いので、ここまでの見解は首里王府が沖永良部島の大世之主を王府の命で伊良部島に派遣したと仮定して時代の情報とあわせて考えられることを書いてみました。
大世之主について現在知り得る情報としては、大世之主は池間島経由で伊良部島に渡り、島で農業指導を行ったという伝承のみです。もしかしたら、単なる沖永良部島からの漂着民かもしれませんし、そこは分かりません。しかし漂着民だったとしたら、大世之主を名乗るのか?本人が名乗ったわけでなく、島で農業指導などをして島民に慕わリーダーとなって島を統治したので、いつのまにかそう呼ばれていたのか?

この大世之主のことは現在調査中のこともありますので、もう少し詳しい情報があれば追記したいと思います。






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コメント一覧

yononushi
りゅうさん
時期は薩摩侵攻前あたりなのですね。
倭寇対策、薩摩対策または希望移住か?何か分かると面白いですね。
徳之島には琉球絡みの方の来島者や、その子孫の方々がわりとはっきり分かっている家が多いように感じます。
いつも色々と情報をお寄せくださり、大変ありがたく勉強になります。これからもよろしくお願い致します。
りゅう
豊見大親は、倭寇対策っぽいですが、時期が薩摩侵攻少し前ですので、薩摩対策かも知れません。ただ、玉城親方朝智とは違って、単なる移住希望の様な感じもします。なんか首里之主とは、別系統があって面白いですね。(^ ^)
yononushi
りゅうさん
貴重な情報をありがとうございます。
沖縄本島を超えて、奄美群島と南西諸島との往来がけっこうあったのですね。想像以上に島々の往来があったようで驚きました。豊見大親は、宮古島から大親子として徳之島に来たのでしょうか?時代が分かれば情報提供をお願い致します。
りゅう
こんにちは
徳之島にも先島との繋がりは色々あります。
ご存知のこともあるかも知れませんが。
まず八重山の竹富島は、四つの御嶽からなり、それぞれ、沖縄本島、久米島、徳之島、屋久島から来島した人が始祖として伝承されているそうです。徳之島の系列の人は長生きの人が多いとか冗談混じりで仰ってました。

逆に宮古島からは、豊見大親が、琉球王もしくは王府から、徳之島で居住するよう命じられ、徳之島南端の伊仙町面縄の海沿い辺りに来て大きな城の様な屋敷を立て、そのまま面縄小学校の敷地になっていて、石垣もあります。すぐ隣には豊見大親が作ったという立派な井戸もあります。
また、倭寇対策の為、豊見大親は、現天城町湾屋にも、要塞を建設しかけていましたがその途中に薩摩侵攻があって中断したそうです。
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