1743年に出された通達によって、徳之島からは与人たちの勧誘によって佐栄城、沖永良部島においては以下の3名の稽古者が決まりました。3名はいづれも与人の子供や孫にあたる者たちです。28歳の平純は当家のご先祖である平安統惟次の子供になります。
平安統惟次は、自分が横目であった1732年に漂着した中国船を琉球へ護送した経験があります。この方がどの程度中国語をマスターしていたのかは分かりませんが、自分の経験から子供にはきちんと学ばせたいという思いもあったのでしょう。そして平純は嫡子では無かったため、家の後継ぎではないので、別の道でしっかりと生計が立てれるように親心として息子を推薦したのかもしれません。
与論島の古文書を読む:先田光演より
唐通事の稽古者希望者がなかなか決まらなかった最大の理由は、自費であったことだと思われます。
募集内容を現代風に解釈すると以下のようになります。
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唐通事稽古者大募集
選出条件
①文学の功があり、人柄が良いこと。
②まず2名選出のこと。
稽古者への待遇
①横目格は与人格に任じる。
②横目以下の者は間切横目格・御用馬方・棕欄方格などに任じる。
③昇格は上国の際に仰せつける。
学習場所
①鹿児島での習得。
②帰島後に更に稽古したいときは、琉球に自由に渡航して良い。
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かなりの好待遇ですが、費用は全て実費です!
当時の貨幣価値でどのくらいの費用がかかったのかは分かりませんが、鹿児島での学習は1年はあったようですので、それなりのまとまった費用が必要だったはずです。命令しといて実費かよと、ちょっと驚くような待遇でもありますが、中国語をマスターでき、しかも役職がもらえるとなれば、親は出費も惜しまなかったのかもしれませんね。
沖永良部からの3名は、薩摩藩が学文の心がけもあり、来夏差し登ることと指示が出ていますので、3名は既に島内で学問に熱心だったのかもしれません。
このようにして、当家のご先祖様は島役人とは別の唐通事としてのフィールドでも活躍なさったようです。
ちなみに、この唐通事という役職は、他の藩には無い薩摩藩独自の役職だったようです。薩摩藩は立地や環境的に早い時代から国際派だったのですね。