1743年には薩摩藩から沖永良部島に向けて「唐通事稽古の奨励について」という文書が出されています。
与論島の古文書を読む:先田光演より
①2月27日の文書では、杢殿(家老)から戸田平次に沖永良部島に唐通事がい
ないので、修行者を上国させるように指示があり、これを戸田が沖永良部代
官の野村へ通達してしています。
②これを受けた野村が、与論島からも希望者を募るように詰役の三島連絡し
ているのが7月5日の文書です。
この文書を見ると、1726年に最初の唐通事の募集が出て以来16年が経過していますが、沖永良部島ではまだ唐通事がいなかったと思われます。
東シナ海を取り囲む中国・朝鮮・日本・琉球・そして道の島には、様々な状況で漂着船があり、相互に遭難者を国元に送還するしきたりがあったようです。薩摩藩は特に中国船に対して、琉球との関係から唐通事を置き、事後処理に神経を尖らせていたとのこと。唐通事は定期的に必要な役職では無かったが、唐船漂着時には、遭難の状況や航海の目的などの聞き出しと、遭難者への処遇の交渉には不可欠な存在でした。
沖永良部島にも遭難船は来ており、その対応をするための唐通事者が必要であったにも関わらず、ずっと不在の状態が続いていたわけですが、それは人材がいなかった訳ではなさそうです。
別の理由で唐通事の稽古者がいなかったと思われます。
お隣の徳之島では、自費をもって鹿児島に滞在し、唐通事の稽古を希望する者がなかったとする記録が、「徳之嶋前録帳」にあるそうです。この通達の後に、与人達の勧誘により佐栄城という人が自費で上国し、唐通事の修行に励み、一年後に帰島して惚横目格に任じられたことが記されているそうです。
このあたりが、唐通事稽古者がなかなかいなかった理由だと思われます。詳細については、次回に述べたいと思います。