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先祖を探して

Vol.152 要家の系図から見る繋がり


北山王の次男であり、沖永良部島の島主で世之主と呼ばれていた眞松千代。この世之主の母親の実家であるのが要家だと言われており、Vol.15などでも書きましたが、遠い昔から当家と繋がりがあったとされる一族です。いったいどんな繋がりがあったのであろうかと、ずっとお爺様の記録した書などを探していました。

沖永良部島で認知され現存する古文書で一番古いとされているのは、要家の文書です。その文書の中で、一番重要視されているのが系図です。1609年に薩摩に侵攻されて島は琉球文化から切り離されて、薩摩の体制のもとに島の統治も始まっていくのですが、琉球時代の最後の大親子であり、薩摩になって初めての与人であっただろう人の系図が4代に渡って記録されています。
この系図は大正時代には研究者の方々の研究対象にはなっていたようですが、記録されている内容が少し分かりにくい箇所もあったようで、人物の関係が明確にはなっていないようでした。
私は当家のご先祖様を調べていく上では、要家との関係を知る事は重要であると思い、この系図に書かれている内容は何とか解読したいなとずっと思っておりました。そして遂に、書かれている人物と当家との繋がりが分かりました。様々な資料をつなぎ合わせ、当家のお爺様の資料などを頼りに、やっと判明しましたので、解読した内容を書いてみたいと思います。
1つにまとめて書いた方が分かりやすと判断し、少し長い文書となっていますので、気長にお読みください。



*資料は石上英一先生の奄美諸島編年史料 上巻より抜粋しています。


この系図は「次郎かねと思みつ金」夫妻を1代目として、2代目「思かなかね」、3代目「次郎かね」と「思うしやかね」、4代目には「次郎かね」や「思うしやかね」の子供が記載されています。
資料にふっている番号で説明していきます。

①次郎かね
「次郎かね」がこの系図の1代目です。琉球時代最後の大親子をしており、1613年に薩摩の伊勢兵部と三原諸右衛門から直城之大屋(なおしぐすくのおおや)の子孫として知行地を与えられています。直城とは世之主の城があったすぐ後ろの北側の丘のことです。世之主の子孫は代々その地に居住していました。琉球からの辞令で大親子をしていたので、直城之大屋(親)と呼ばれていたのでしょう。そして大親子が廃職になり与人職になると、次郎かねは久志検間切りの与人をしていたようです。これはお爺様の記録から分かりました。
この人が生まれた年代は不明ですが、生まれた年代が分かる人から遡って、20歳で第一子誕生と計算すると、おおよそ1580年頃の生まれになると思われます。


②思みつ金
次郎かねの妻ですが、まずこの童名が接頭語に「思」接尾語に「金」がついています。これは士族階級以上の、どちらかというと王族の名前に付けられるものです。しかもこの人は「大あむしられ」です。これは琉球の第二尚氏の三代目の国王であった尚真王の時代に統治機構を一体化し、祭政一致体制を確立し、琉球神道における女性の祭司です。国王の妻や姉妹などが聞得大君(きこえおおきみ)としてノロの頂点に君臨し、大あむしられは地方のノロを統括する人だったようです。ノロは代々世襲制で、未婚や既婚は関係なかったようですが、統括する役の人の妻になっていたようです。ノロの体制については別記しようと思いますが、この御夫婦は琉球時代のこの時の島での一番の権力者だったということです。

この御夫婦が二人とも島で育ったのか?どちらかが琉球から来た人なのか?二人とも琉球の人だったのか?
世之主の母方の家だということを考えると、どちらかが島の人だったと思いますが、世之主伝説の母親の実家の叔母がノロで、、、と考えると、妻である思みつ金が要家の娘だったかもしれませんね。


③思とかね(喜美留与人女房)
この方の詳しい情報はありませんが、喜美留与人の妻です。
初代の与人は父親の次郎かねで久志検与人。当時間切りは3つあったと言われていますので、与人の情報が見れますね。父親と同じ1代目の喜美留与人であったのか、次の2代目の与人であったのかは分かりませんが、沖永良部島としてはこの年代に喜美留与人がいたのかの記録がないので、この方が妻であったのなら、喜美留与人も存在していたことが分かります。


④茶しゃうかね(茶じやうかね)
この方はVol.135で書いた茶上兼伝説の人ですね。この方が確実にそうだとは言い切れませんが、長男であるのに子孫の系図がないということは、早死したか分家や養子にいった可能性が高いです。


⑤思ふたかね(大城与人女房)
父親が1580年頃の生まれ、20歳で第一子誕生、その後は3年おきに生まれたとして、だいたい1612年頃の生まれ。当家の記録上の始祖が中城という人で、1619年頃の生まれとされています。大城与人でした。要家から眞美という人が嫁に来ています。この人で間違いないでしょう。


⑥思なつこ(生城)
1697年に子孫の為にとこの系図を書いた人です。この系図がなぜ次郎かねからスタートしているのか?
1代目の次郎かねは島外からやってきた人だったので、分家として新しく島で家庭を作ったと考えれば、次郎かねが1代目ということで納得できます。
名前の生城は漢字の当て字で、池城だったのではないかと思われます。この池城は宗家の池久保の次男で要家に養子にいった人です。叔母(思かなかねの妻眞金のこと)に嗣子がなく、養子にいったとお爺様の書には記録されています。


⑦つる松かね(佐久間)
この方は喜美留与人をしていたと思われます。島の与人の記録にも名前があり、1699年没になっています。島の上平川の殿智神社というところに、正孝像というのが祀られていて、その像に喜美留与人 佐久間 1699年没 行年35歳(1664年生まれ)と書かれているのだそうです。地元では鹿児島に上国の時に鹿児島で病死した人だと伝えられていますので、この方だと思われます。 


⑧思かなかね(時徳与人)
当家の中城の娘であった眞金が嫁にいっています。この方の子孫が書かれていますので、要家を継いだ方だと思われます。お爺様の書によると名前が先久統に該当すると思います。
兄弟である長男、次男、四男は子孫が書かれていませんので、早死もしくは分家や養子に出たのだと思われます。


⑨次郎かね(新里)
⑪で記述します。


⑩文書1
まずここには、三嶋大親子の子孫と書かれています。三嶋は徳之島、沖永良部島、与論島のことで、この3島を統括していた大親子という意味です。それが1代目の次郎かねだということです。要家の1代目の次郎かねは、3島を統括していたのですね。

実はここで、ある事実が見えてきます。徳之島に西之世之主と呼ばれた人がおり、この人が沖永良部まで統括していたのです。年代的に見て、次郎かねは西之世之主の息子ではないかと思われるのです。実際に当家のお爺様が、要家は西之世之主の家統だと書いております。徳之島には西之世之主の子孫がおられます。要家の次郎かねは、西之世之主の息子の一人である可能性が高いのです。

そして、この1代目の次郎かねの嫡子の時徳与人である思かなかねの嫡子は次郎かね(次郎かねが二人出てくるので分かりにくいのですが)
この思かなかねの息子である次郎かねには、思なつこ(生城)と思うしやかね(牛勝)がいますが、この二人は父が各別々だと書いてあります。生城(池城)は、養子として池城屋敷から下人や財産を譲り渡し、養子に来たことが書いてあります。ここでは牛勝については書かれていませんので詳細は分かりませんが、牛勝も養子だったのでしょう。やはり嫡子だった次郎かねが早死したため、跡取りとして宗家から養子を迎えたのだと思います。池城の祖母は眞美で要家の娘ですから要家の血統は続きます。


⑪文書2
最初に後三島大親子(思かなかね)と書いてあるのですが、「後」というのは、父親の後を継いで三嶋大屋子をしたという意味ではなく、三嶋大親子の後継ぎということでしょう。薩摩支配後は大親子制度が廃止になっているので、その役職はありません。よって本人は時徳与人でした。

ここには、この思かなかねの養子だけど子供であった思うしやかね(牛勝)と思なつこ(生城=池城)、その子供である佐久間と新里について書かれています。
この二人は父は別々だけど、母は両方とも三嶋大屋子の孫であると書かれています。どういった事情であったのかは分かりませんが、母親が同じということです。
この三嶋大親子の孫となっている母親は誰なのかは不明です。そしてこの佐久間と新里が喜美留与人の養子になっています。この喜美留与人なのですが、年代的に見て、新里の父である思なつ子の本当の父親である池久保の養子になったのではないかと思われます。そして、家屋敷、下人などをもらい受けています。
二人が一緒に養子になっていますが、その後のに改めにてこの二人は別家にとなっていますので、新里の方は宗家から離れて分家したのでしょう。
池城はもともと家屋敷を手放して要家に養子にきたが、息子はまた宗家の養子となって財産を継いだということです。
しかし、この養子になった二人ですが、池城の子供ではない佐久間の方が喜美留与人になっています。わずか35歳で死亡していますが。

宗家の方は、池城の弟であった5男が家を継いでいます。要家はこの系図で見る限り、4代目の跡取りになるはずの子供二人を養子に出している。これはいたいどういうことだったのか?その後の要家の子孫は今にどう繋がっているのか?
この系図を書いたのは当家から養子にいった池城です。この書き付けには詳しい説明がなされていないので分からないのですが、きっと何か事情があったのだと推測されます。

この系図の時代であった1600年代は、琉球から薩摩の時代になり、大きく揺れ動いた時期でもあったと思います。そんな中で、宗家と要家が婚姻や養子縁組で結束していたのには、血縁を絶やさないためと財産を守るためだったのか?

系図の繋がりは分かったところですが、背景などまだまだ不明な点が残るのも事実です。要家の方にもお話を聞くことが出来れば、何か分かることがあるかもしれません。
新たな情報があれば、追記したいと思います。

長い文書へのお付き合い、ありがとうございました。





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