沖永良部島では最後まで上陸戦はありませんでしたが、昭和20年頃には空襲が激しくなり、空襲警報が何度も発令され、島民は不安に怯える日々を過ごしていたそうです。
戦闘はなかったとはいえ、万が一の上陸に備えて日本軍が越山と大山のあちこちに陣地を作っていたことは前回書きました。
その陣地の1つ、越山の東と北東を担当した第7中隊(有川隊)の陣地が書かれた資料が和泊町誌にありました。

地図上から、かなりの数の坑道を掘っていたことが分かりますね。
地図の中央に走っている黒い線が道路のようですので、昭和22年の空撮の写真から場所を探してみましたら、その場所が分かりました。

中央の道路、戦車壕なども見えていますね。
この場所は確かに越山の東側から北東にかけての場所になります。
この第七中隊の陣地を作るだけでも、相当な作業だったと思います。
島民の方々が昼間は作業に参加し、夜間に農業をしていたということが納得できます。
78年前に実際にあったの島の戦時中の状況です。