奄美群島の人々は、時代に翻弄されながら激動の時代を生きてきたのだということを、私は先祖調査を通じてひしひしと感じております。そして何より凄いと思うのは、時代を生き抜く強い意志と行動力を持った人たちが沢山いたということです。
その1つが密航船を使った人々です。
ご存知の方も多いと思いますが、第二次世界大戦後に沖縄と奄美群島は日本から切り離されてアメリカ領となってしまいました。当家の先祖さまが住んでいた沖永良部島ももちろんアメリカ領となり、米軍が駐留するようになりました。
食料は少なく働く場所もほとんどない。自給自足はできたとしても、もうこの時代は現金が必要です。その現金を手に入れるための働きができないので、島での暮らしはとても大変だったようです。
船で島から出るのは容易ではなく、島から島の移動もままならない。本土に行くとなるとパスポートが必要であったため、簡単には島を出れない状況だったそうです。パスポートを発行してもらうには、身元引受人が必要であったり、色々と条件も多く時間と費用がかかったようで、そのために密航船を利用する人が多かったと聞きます。
島の人たちはなぜ密航船を使ってまで本土に向かったのか?
そこには様々な理由があると思いますが、やはり見えない将来に向けての不安が大きかったことが一番の理由だったのではないでしょうか。
このままいつまで続くか分からないアメリカの支配下での生活に、自分たちはどうなってしまうのか?大変な不安があったと思います。
奄美の本土復帰運動などを見ても、自分たちは日本人なんだ!という思いが根底にあって、日本人として日本という国の中で希望を持って自由に暮らしたかったのだと思います。
特に戦前に家族や親せきが既に島を出ていた場合は、そこを頼って島を出たケースも多かったようです。
密航船というと、言葉の響きから何やら怪しげなイメージを持ってしまいがちですが、私はこの船はアメリカ占領下において将来への希望を失った人々の、「生きるための希望を本土に向けて運んだ船」だったのだと解釈しております。
少なくとも当家の叔父が密航船で本土に向かったのには、そのような希望があってのことだったと思います。
しかしそうはいってもこの密航船は名前の通りで、その航海はとても大変なものだったようです。
先日読んだ本の中に、本土から島に戻ってくる時に密航船を使った方の話が書いてありましたので、要約してシェアしたいと思います。
前略・・・鹿児島から徳之島に向けての密航船で、30度線を境にして日本の巡視船とアメリカの巡視船が監視しているが、運が良ければ突破できるということで、この方はどうしても島に帰りたくて友人と一緒にわずか60トンの漁船に飛び乗ったのだそうです。
船にはこの2人以外に50人ほどの人が狭い船室にひしめきあっていて、油のにおいもあり、船室はむせ返るようだった。
当時の密航船は、米軍に発見されると攻撃されて沈められるという噂もあったそうです。何とも恐ろしい、、、
そんなこともあって、荒れている海の方が巡視船に見つかりにくいため、密航船は海が荒れている時に出航します。
乗船したその日は、空が鉛色に曇り、目の前にある桜島は霧がかかっていて、いつもの噴煙も見えないほどだったそうです。
密航船は錦江湾を出て佐多岬を過ぎ、外海に出ると恐怖の七島灘のうねりにあって、急に揺れだしたそうです。
海は一度荒れだすと地獄化し、60トンの小さな船は木の葉のように波に打ち上げられては落ちていく、そんな状況が延々と続いたのだそうです。
お二人は酷い船酔いになって船室に横たわって耐えていたそうですが、やがて30度線を無事に突破して、奄美大島の近海まで来た時の事。
当時の船はどんな小さな船でも無線は用意されていたようで、いまアメリカ船の巡視船が大島本島北部の名瀬港に来ているから、名瀬から北西84キロにある宝島周辺を2日間ほど漂流して欲しいとの連絡が入ったそうです。そこで密航船はやむなく宝島の沖合で漂流しましたが、その時も大きな波と風が船を襲い大変な状況だったそうです。
夜は巡視船に発見されないように明かりをつけることを禁止され、船酔いによる嘔吐やそれによる悪臭、老人のせき込む声、子供の泣き声で船室の空気はどんよりと重く、まるで墓穴のようだったそうです。そんな中でも人々は苦痛に耐え、漂流して2日目の夜にやっと大島の古仁屋港にあがったのだそうです。
そこからまた徳之島行きの船で島に戻ったそうですが、当時の密航船はこのように上下船ともいったん大島の港に入っていたのかもしれませんね。
この方の体験は鹿児島からの下りのことですが、上りも同じ状況です。
当家の叔父の話でも、小さな船にたくさんの人が乗って荒れ狂う海に暗い夜に出航したといっておりました。とてつもなく恐ろしい航海であったことは想像できますね。
そんな船旅を自ら希望するとは、相当な覚悟がいったと思います。いや、もしかしたらそんな不安など考えられないくらいに、追い詰められていて、命をかけて未来の光を追いかけたのかもしれません。
このような不遇な時代が7年程続き、昭和28年12月25日にやっと与論島までの奄美群島が本土に返還されたのでした。
この期間に密航船でどれくらいの人たちが本土に向かったり島に戻ったりしたのか、そこは正確には分かりませんが、相当な数の人々が命をかけて密航船で往来したのだと思います。
当家の叔父などは無事に鹿児島に辿りつきましたが、遭難した船も多々あったようです。
またこの密航船を操縦する船頭さん達にとっても命がけの仕事だったわけです。
苦難の時代を乗り越えて、奄美の島々に今の穏やかな生活が時間をかけて戻ってきたのですね。
さまざまな歴史が、それぞれの時代、それぞれの場所にありますね。
決して風化させてはいけない戦争時代の苦難の話の1つだと思います。
追記
密航船で本土に無事に到着しても、そこからまた1つ苦難があったそうです。
それは戸籍が日本に無いという問題でした。
そのせいで日本復帰までの間は仕事につくのが難しかったようです。