第二尚氏7代目尚寧王は薩摩が侵攻してきた時の琉球国王です。
この尚寧王には子供がいなかったようですが、以前の記事でも書きましたが子供がいた説も実はあるようです。まずはプロフィールから。
生卒:1564(嘉靖43)年 - 1620年10月14日(万暦48/泰昌元年9月19日)
在位:1589年 - 1620年
童名:思徳金
神号:日賀末按司添(てだがすえあんじおそい)
埋葬:浦添ようどれ
父:尚懿・与那城王子朝賢
第3代尚真王の孫で王家分家である小禄御殿3世の長男
母:首里大君按司加那志(5代尚元王の長女)
兄弟:尚宏・具志頭王子朝盛
1578年5月20日(万暦6) - 1610年8月21日( 万暦38)
妃 : 阿応理屋恵按司加那志 第6代尚永王の長女
童名・真銭金 号・蘭叢
生年不伝 - 1663年9月8日(康煕2年8月7日)
夫人1:西之按司 傳氏一世佐辺親方厚旨の娘
童名・真鍋樽金 号・西月
生年不伝 - 1604年9月16日(万暦32年8月23日)
夫人2:安谷屋大按司志良礼 章氏安谷屋親雲上の娘
童名・真鍋樽 号・涼月
1561年(嘉靖40年) - 1634年6月1日(崇禎7年5月6日)
伝承:殷氏真鶴金(殷氏二世庸昌長女)との間の落胤が允氏具志堅家太宗・具志堅親雲上用易であるという。
これが公表されている尚寧王のプロフィールです。伝承の子供というのが1人いますが、正史としては子供はいないことになっています。在位期間中に薩摩の侵攻にあったり、江戸上がりをしたりと何かと落ち着かない生活であったためかなと思っていましたが、夫人も2人いますし、在位したのは25歳の時で、薩摩侵攻時は45歳で在位20年目です。その前に子供がいたとしてもおかしくない年齢ですよね。しかも王なので後継ぎは必要でしょうし。
尚寧は三代尚真王の長男が廃嫡されて分家になった浦添の小禄御殿の四世になりますが、6代尚永王に男児がいなかったので、尚永王の長女と結婚すること(結婚が条件か後で結婚かは不明)で7代目の国王となりました。尚寧の母親が5代尚元王の娘だったこともあったのでしょうね。
そして妃である尚永王の長女の年齢を確認しようとじっくり見てみると、、、
生まれた年は不明ですが、亡くなったのは1663年9月8日です。尚寧王は1620年10月14日で56歳で他界。妃はそれから43年も後に亡くなっています。これは同じ年頃同士の結婚ではなかったはずと思い、父王であった尚永王の生まれ年を確認。
尚永王:1559年 - 1589年1月11日 30歳で他界
尚永王の妃と夫人2人の生卒が分からないのですが、彼が16歳~30歳の期間に娘が生まれたことになれば、1575~ 1589の期間です。
1575年生まれとしたら、88歳で他界、1589年生まれなら74歳で他界。
どちらにしても当時としては高齢ですね。
仮に1575年生まれとしたら、尚寧王とは11歳差です。尚寧王が25歳で即位した時にはまだ14歳です。14歳で妃になったのか?(もしかしたらそれ以下の年齢です)
妃の年齢を考えるなら、尚寧が王になる前にはこの妃とはまだ結婚はしていなかったでしょう。妃との結婚は王になるときか、それ以降だと思われます。
そうなれば、尚寧王は25歳まで結婚をしていなかったことになります。いや、もしかしたら妃とはもう少しあとに結婚した可能性もありますので、当時としては独身が長すぎる気がします。王族ですしね。
夫人1の生まれは不明ですが、夫人2は尚寧王と近い年齢ですので、もしかしたらこのどちらかの夫人が最初の妻で、その後に王になるので妃から夫人に下げて、尚永王の長女を妃に迎えたのかもしれないですね。
そういったことからも、尚寧王にはもしかしたら前妻や子供がいたことも考えられますね。
そのあたりが、徳之島に娘がいた説(Vol.147で書きました)などに繋がっているのかな?なんて思ったりしていたのですが、最近新たな説を知ることができましたので、次回に書きます。