沖永良部島にかつてあったとされる禅王寺については、Vol.69 幻の「禅王寺」という記事で、場所についてなど書いておりましたが、実在した時期などについては全く検討がついておりませんでした。
現在の沖永良部島には、神社と違ってお寺というものが見当たらず、1つだけ和泊町に日蓮宗の龍王寺というところを見つけましたが、他にはないようです。(もしかしたらあるかもしれませが)
この龍王寺についても、いつごろ建立されているのかは調べておりませんが、現在は島外に居住の60歳代の島出身の方がおっしゃるには、自分が子供の頃には島には寺は無かったし、お葬式などでも僧侶を呼んでお経をあげたなどの記憶が無いとのことでした。
現代においては、本土に比べると仏教との馴染みが薄いようではありますが、かつては禅王寺が存在していたはずなのです。
その寺があった時期について語る前に、そもそも琉球はどうだったかということを先に書きたいと思います。
琉球での寺事情
琉球に初めて仏教がもたらされたのは、1260年即位の英祖王の時代だといわれています。1265年~1274年の咸淳年間に、禅鑑という僧侶が那覇に漂着し、仏教を伝えたとされます。
日本本土は538年には仏教が伝来していたとされるので、琉球に伝わったのはそれから700年以上経ってからということになります。本土に比べると比較的新しいということもできますね。
この英祖王は仏教に帰依し、居城としていた浦添城のそばにお寺を建立するよう命じ、これを極楽寺と称し沖縄で最初のお寺となりました。現在の浦添ようどれ付近にあったようで、禅鑑もここに住んでいたようです。
その後も1365(貞治4)年、真言宗の僧頼重が薩摩から来琉し、宗派の明確な真言宗を初めて伝えたりしながら、寺なども建立されていったようですが、尚真王の時代には、王府家の菩提寺とも言える円覚寺が1494 年に完成し、臨済宗と王府との関係がますます強くなり、祭祀・行政、その他において密接な関係になっていったようです。
日本本土は538年には仏教が伝来していたとされるので、琉球に伝わったのはそれから700年以上経ってからということになります。本土に比べると比較的新しいということもできますね。
この英祖王は仏教に帰依し、居城としていた浦添城のそばにお寺を建立するよう命じ、これを極楽寺と称し沖縄で最初のお寺となりました。現在の浦添ようどれ付近にあったようで、禅鑑もここに住んでいたようです。
その後も1365(貞治4)年、真言宗の僧頼重が薩摩から来琉し、宗派の明確な真言宗を初めて伝えたりしながら、寺なども建立されていったようですが、尚真王の時代には、王府家の菩提寺とも言える円覚寺が1494 年に完成し、臨済宗と王府との関係がますます強くなり、祭祀・行政、その他において密接な関係になっていったようです。
この円覚寺は、尚真王が父の尚円王を祀るために鎌倉の円覚寺を模して建立し、以来第二尚氏王統の菩提寺となりました。
そして第二尚氏王統の始祖尚円王が成化年間(1465~1487年)に創建したといわれ、尚円王が王位に就く前の邸宅で、第三代国王尚真の生誕地とされる場所にあった天王寺には王妃が祀られたといいます。
第一尚氏第六代国王尚泰久が、景泰年間(1450~1456年)に創建したとされる天界寺には未婚の王子と王妃が祀られたそうです。
この円覚寺、天王寺、天界寺は三ヵ寺と称される尚家の菩提寺となり、国王の元服・即位の際には三ヵ寺を行幸するのが例となっていたのだそうです。火災や沖縄戦で、三寺とも現在は存在していませんが、琉球時代は王家の菩提寺としての役割があったそうです。
琉球王国の時代において仏教およびお寺は王家のための存在であり、一般大衆にとっては、まるで別世界のものだったようです。
檀家制度があった本土のように民衆にはほとんど普及せず、民衆は先祖崇拝が宗教のように定着していったのだそうです。
檀家制度があった本土のように民衆にはほとんど普及せず、民衆は先祖崇拝が宗教のように定着していったのだそうです。
禅王寺の建立時期は
この琉球王家の菩提寺の1つであった天王寺から「観音一体と僧一人を招致して内城に寺舎を達つとあり禅王寺是なり」という内容を当家の平安統という人が記録していたようなのですが、(Vol.69参照)、なんとその時期が1470年頃ではないかと言うことなのです。
お隣の与論島には東寺(アガリディラ)というのがありましたが、こちらは1525年頃。
他の奄美諸島の島は1600年後半以降に建立されているようですが、沖永良部島と与論島の時期が早いのは、琉球の寺院の末寺であり、大島や徳之島、喜界島の寺院は、薩摩の影響のもとに建立されたという歴史的背景によるものなのだそうです。
実際に沖永良部島の禅王寺は、琉球の天王寺から仏像や僧侶を招致しているわけですし、弁財天宮(和泊村)は薩摩藩の主導により1704年に建立です。
戒名の授与
お隣の与論島の基家の系図には戒名が記されていて、その時期と授与した寺院を見ると、1718年に沖永良部島の禅王寺より授与されているのだそうです。この時期には確実に禅王寺があったことが分かりますね。
実は当家の記録があるご先祖様で、1代目~3代目の方には仏教の戒名がつけられているのです。
1代目 1688年他界
2代目 1695年他界
3代目 1744年他界
*4代目からは神主になっており、世之主神社の歴史に関わってると思われます。(Vol.68参照)
薩摩主導の1704年建立の弁財天宮により、琉球色の強い禅王寺は淘汰されていったのかもしれませんね。
上記3名の戒名のつけ方から見ると、真言宗ではないかと言われています。
戒名を授かったということは、この時代に島に寺があったということですよね。しかも琉球の王家の菩提寺としていた天王寺の末寺として禅王寺があったということ、そしてその寺から戒名を授かった可能性があるということは、当家が王家に関わる家であった可能性が更に強いことを表しているのではないでしょうか。
まとめ
禅王寺の1470年頃という建立時期については、まだ確証がありませんが、少なくとも1688年には存在していたと思われます。
これらの禅王寺の建立時期や基家の戒名情報は、与論島の真言宗である海圓寺(かいえんじ)の住職:市来さんからによるものです。ご連絡を取らせてもらっていますが、コロナ等の所用で詳しいお話が聞けていないので、新たな情報が入れば追記したいと思います。
沖永良部島の幻の禅王寺、幻では無いと思います。北山王の次男であった世之主が1416年頃に自害して、当家はその世之主の生き延びた次男の子孫だと言われていますが、記録で確認できる先祖は1619年生まれの中城という人からです。その空白の約200年を探す旅です。
この禅王寺が、先祖探しの重要なキーの1つではないかと確信しております。