ご先祖さまが住んでいた沖永良部島は沖縄本島の2つ上にある島なのですが、その真ん中には小さな与論島があります。
この与論島は昔から沖永良部島とは兄弟島といわれており、1400年頃に当家のご先祖さまであった世之主は琉球北山王の次男の真松千代(マチジョ)、与論島は三男の王舅(オーシャン)という兄弟で、それぞれの島を統治していたそうです。
与論島は、太古の昔に女神アマミクと男神シニグクが島の瀬礁に辿り着いたところ、海底から地面が浮き上がり今の島が造られたと言う神話があります。古来より島はユルヌまたはユンヌと呼ばれていましたが、琉球や大和(薩摩藩)により漢字が当てはめられ「与論」となったそうです。
地理的には対岸に琉球(沖縄)が見えるほど近いため昔から琉球との関係は深く、1609年の薩摩侵攻以降は支配層代官の設置があり、行政区分としては今でも奄美群島に属していますが、文化や風習は琉球色の強いものが多く残る島です。
地理的には対岸に琉球(沖縄)が見えるほど近いため昔から琉球との関係は深く、1609年の薩摩侵攻以降は支配層代官の設置があり、行政区分としては今でも奄美群島に属していますが、文化や風習は琉球色の強いものが多く残る島です。
そしてヨロンといえば、白い砂浜と美しいブルーの遠浅の海。
ここは百合ケ浜です。息をのむ美しさですね。
写真は与論の観光協会のページからお借りしました。
この島には1405〜1416年頃、琉球の北山王の三男王舅(オーシャン)が築城したという城が小高い丘の上にありますが、築城の途中に親元である北山が滅亡にしたことにより未完成のままになっていると伝えられてきました。しかし近年の発掘調査で、実は未完ではなく城が使用されていた形跡があるということと、城の規模も当初考えられていたよりもはるかに広大であったことが分かってきたそうです。
この小さな島に広大な城が築かれていたことに、いったいどのような歴史があったのかと大変興味をそそられますが、現在も調査が進行中のようですので、今後の研究発表に期待です。
中央の小高い場所が与論城
与論城からの眺め
この与論島ですが、以前から少し気になる場所がありました。
それは島の南東部にある大字麦屋の小字でアマミゾの中にある上城(ウヮィグシク)という場所です。
この上城には上城遺跡がありました。
ここでは縄文時代晩末期から弥生時代の後期の住居跡や土器などが発見されたということです。城とつく地名ですのでお城があったかどうかですが、それは定かではないようですが、随分昔の遺跡だったようです。
そしてこの上城遺跡のある隣の小字は赤崎(アーサキ)と呼ばれる場所です。ここは与論島の祖先であるアマミキョが初めて上陸した地と伝わるそうで、上城遺跡から300mほど離れたところに、ノーシクと呼ばれる小高い丘がありました。ここでも石器が発見されたそうです。
ノーシクのノーは、直す、位置を変える、移動するといった意味があるそうで、シクはグシク(城)のことで、直城ということになります。
そう、沖永良部島の世之主の次男が徳之島から帰島後に住んだ場所である直城と同じ地名です。しかもどちらも小高い場所。
すぐ側に上城の地名まである。これが私の気になっている点です。
与論島と沖永良部島に共通の何かがあったのではないかという気がしています。
上城が先だったのか、直城が先であったのか?
沖永良部島の場合は、世之主が築城した場所が上城で、その後に次男が徳之島から帰島して住んだ場所が城を建て直して住んだということで、直城です。
与論島の場合は、近所に下城がないところを見て(沖永良部も同様に上城の付近に下城はなし)、先にあったのは直城で、そこから上城に移ったのではないかという見解もあるようです。城が移動したのでもとの場所は直城と呼ばれるようになったということです。
しかし、直城に昔に城があったという伝承は残っていないそうです。
この地名に城がつくところは、沖永良部島では大字でも小字でもいくつかあるのですが、城がつくから必ずしも城が築城されていたということではないようです。与論の上城も直城もどちらも集落があった場所のようですし、沖永良部の場合も上城と直城は集落があった場所です。他にも大城、新城、玉城など集落があった場所に城が使われています。
城の持つ意味は、集落を意味していたのかもしれません。
上城と直城の関係、同名の地名を持つ与論と沖永良部の関係、何かあるのかな?気になるところではありますが、現在ではこれ以上のことは分かりませんでしたので、今後何か分かれば追記したいと思います。