琉球王家の「尚」の姓は、三山を統一した巴志の時代から使われているといいます。王府の史書では、尚巴志の父親であった1代目の王の思紹のことを尚思紹としているそうですが、進貢を記録した明実録には全て「尚」抜きの「思紹」としか書かれておらず、思紹を琉球国中山王に封ずる詔でも名前は「思紹」とだけなっているそうです。
そしてこの「尚」姓は王府史記には、明の皇帝から賜ったものであり、1430年に使者柴山を遣わして授けたとなっていますが、「明史」の方にはその姓を賜った記述は無いのだそうです。しかも「世子尚巴志」と名乗っているのが、1415年の進貢の時からであるので、1430年より前に既に「尚」の姓を名乗っていたということです。
そしてこの「尚」姓の由来についても、一説には王族らしい尊ぶ意味の「尚」を使ったのではないか?または、オモロに「さはち人」「親さはち」などの人名があり、この「さはち」に「尚巴志」の漢字を当てたのではないかというような見解もあるようです。
この「尚」姓ですが、当家の「宗」の姓は、「尚」の音である「しょう」と音の響きが近いということで「宗:そう」と決めたとの1つの由来があります。
第二尚氏3代目の尚真王の長男であり世子であった尚維衡・浦添王子朝満は廃嫡にあい分家となって小禄御殿に隠居の身となったのですが、こちらは読み方は「しょう」のままで、漢字は「向」姓です。
また、奄美大島には「向:むこう」姓の琉球王族の子孫と言われている一族があります。
「向」姓は、一族であるという意識のもとで、忌字の作法にのっとって音や漢字を変化させたようです。
また徳之島の関係筋の方から興味深いお話を聞くことができました。
徳之島の記事についてはこれまでいくつか書いてきましたが、首里之衆という人の系図に「源高家」と書いてあるそうです。
首里之衆のご先祖様は、源為朝につながっているといいます。
真偽のほどは定かではありませんが、この関係筋の方は「高」という文字に注目されていました。
「尚」の文字の上の部分は3角ですが、「高」場合は上の部分は5角です。
「向」の場合は1角です。
画数で見ると「高」➾「尚」➾「向」の順番となります。
この順番が、尚家の格式の順番ではないのか?という発見なのです。
琉球には為朝伝説もあり、その子孫が王家に繋がっているとの伝承もあります。
この件、なかなか面白い発見だと思います。真偽はどうであれ、先祖調査をするにあたって、様々な視点でキーになりそうなことを発見していくことも必要であるなと改めて実感致しました。
ちなみに、これらの一族の家紋は全て同じで、左三つ巴です。
奄美大島、徳之島、沖永良部のこれらの家は、やはり琉球王家に繋がっている可能性が高いように思えますね。