島のチュラドゥールというお墓に残る屋号:上花城の墓石。1760年に与人職であった池悦という御先祖様が、上国で渡海した鹿児島の山川で父母のために購入した墓石が今でも残っています。
もう260年程前の建立ですので、随分と風化しており、ボロボロになっています。正面も石が崩れたような感じになっており、風化によるものだと思っておりましたところ、もしかしたらそれは違うかもしれないことに気が付きました。
こちらが池悦が建立した墓石の正面です。以前にもチュラドゥールの記事で何度かご紹介しています。

中央の蓮の花の彫刻の上の何かが無くなっている感じがします。墓石の表面が黒くなっているので、そこに何かあったものが削り取られたのではないかと思うのです。
この墓石を1基だけみていたら、風化によってなのかなって感じなのですが、実はこの墓地内にある他の墓石を調べたら、同様のケースが2墓ありました。1墓は表面に戒名などが彫られているので、もし前に何かあったとしたら文字が見えなくなるので、もともとそのような仕様なのか?

もう1基は当家と同じような状況になっています。

このように真ん中がくり抜かれている墓石のスタイルは、敷地の中の墓石では2パターンあります。
1つがこれらの写真のように少し深めにくり抜いて、下部に蓮の花の台座があるもの、もう1つは浅めのくり抜きで、家名や戒名などが書かれているスタイルです。
墓石の状況から見ると、この深めのくり抜き&蓮の台座つきのものが古いように感じます。実際に当家の墓石ともう1基(白い蓮の台座)は、この墓地ができた頃に墓主としてほぼ同じ時期に建立のようですので、1760年頃の薩摩の墓石のスタイルだったのかもしれません。
蓮の台座の上に何かがあったとするならば、その何かとは仏教に関する例えばお釈迦様とか観音様とか、そのようなものがあったのではと推測しています。それが廃仏希釈の対象として取り除かれてしまったのでは?という、あくまで推測です。廃仏毀釈がそう思わせているだけかもしれません。
蓮の台座の上はもともと何もなく、お供え物やロウソクや線香立てに使っていただけかもしれません。(当時もそのようなことをしていたかは不明)
鹿児島の歴代藩主のお墓でも寺院や仏教的な石像は全て取り除かれたそうですが、墓石まではさすがに取り壊されてはいないそうです。
そう考えるとこの墓石もさすがに何かが取り除かれたわけではないと思いたいとこですが、当時の島では理不尽なことが横行していたわけですから、そう考えるとね、、、
何か新しい情報があればまた書きたいと思います。