サトウキビが日本に入ってきたのは、奄美大島本島大和村の住人直川智(スナオカワチ)という人が、今から約410年程前に朝貢使のお供をして琉球へ渡航途中に台風に遭い、中国福建地方に漂流してしまい、そこでサトウキビの栽培と糖の製造法を習得し、1609(慶長14)年に密かに持ち帰ったとされています。そして、これを奄美大島本島大和郷に植え、翌年1610(慶長15)年に黒糖を製造したのが、日本におけるサトウキビの栽培と製糖の始まりとされています。
1609年といえば、薩摩藩が奄美群島と琉球に侵攻してきた年ですね。この砂糖が後々の奄美郡島を苦しめることになろうとは、当時はまだ誰も思っていなかったでしょう。
そもそも薩摩藩が奄美群島を領地化したかったのは、財政難であった藩を建て直す為に、砂糖による利益が欲しかったためと言われています。
当時の砂糖は金・銀にも匹敵するほどの高価な品であり、日本では生産されていなかった砂糖は、金や銀と交換して輸入していたのです。
琉球の砂糖
琉球では1623年に儀間真常が部下を明の福州に派遣して、サトウキビの栽培と黒糖の生産法を学ばせました。帰国した部下から得た知識を元に砂糖生産を奨励し、やがて琉球の特産品となっていきます。そして17世紀中旬に砂糖の貢納制度が始まります。
薩摩藩に多額の借金を背負った琉球政府が、財政危機を脱出するために砂糖の専売制度を始めました。
薩摩藩は琉球へ1647(正保4)年から税収の一部を砂糖で支払わせて、その利益を藩の借金の返済にあてたのです。
1662年(寛文2)年には琉球政府は「砂糖奉行」を置いて砂糖を増産。
さらに翌年には白砂糖・氷砂糖の製法を学ばせるため、中国福建省に担当者を派遣しました。
薩摩藩は琉球へ1647(正保4)年から税収の一部を砂糖で支払わせて、その利益を藩の借金の返済にあてたのです。
1662年(寛文2)年には琉球政府は「砂糖奉行」を置いて砂糖を増産。
さらに翌年には白砂糖・氷砂糖の製法を学ばせるため、中国福建省に担当者を派遣しました。
琉球の砂糖は薩摩藩にとって貴重な収入源となりました。しかし中国からの輸入が増加し砂糖の値崩れが発生するようになります。1697(元禄10)年には琉球における砂糖生産の制限を行うと同時に、直轄地である奄美大島での砂糖生産が進められました。
奄美群島の砂糖
1690(元禄3)年、奄美大島の代官が琉球から最新のサトウキビ圧搾機を使った砂糖の製法とサトウキビの苗を持ち帰り、奄美大島では砂糖生産が本格化します。
水田をあまり作れない奄美大島にとって、サツマイモとの間作が可能で畑地で簡単に栽培できるサトウキビは非常にありがたい作物であったようです。
サトウキビの栽培が最初に始まったのは、奄美大島・喜界島・徳之島の3島です。
1695年に喜界島・大島に黍(キビ)検者が配置され、「砂糖地獄」といわれる薩摩藩による搾取が行われた苦難の時代が始まります。徳之島にはサトウキビと製糖法がいつ導入されたかは明らかではないようですが、薩摩藩が1735(享保20)年、徳之島にサトウキビ専任の役人 黍横目(きびよこめ)を置いたころより本格的な砂糖製造が始まったと思われます。
1713年に最初の砂糖買上制である「第一次定式買入制」が施行され、島民はサトウキビを強制的に栽培させられ、藩に決められた値段で一定量を差し出さなければならなくなります。
1745年には「換糖上納制度」が実施され、奄美の人々は税を全て黒糖に換算して納めることになります。
1745年には「換糖上納制度」が実施され、奄美の人々は税を全て黒糖に換算して納めることになります。
1777年には、「第一次惣買入制」により、島民は黒糖の私的売買が禁じられて全ての黒糖を藩に納めることとなり、島民へは対価として日用品を相場よりはるかに高い黒糖換算の値段で渡すという搾取構造が始まります。
黒糖を密売した場合は厳罰が課され、税を払うことができない場合は自分の身を売って家人(ヤンチュ、喜界島ではヌザー)と呼ばれる農奴になり、身代糖と呼ばれる身売り金の返済を行ったと言います。明治維新において、薩摩藩が幕府に匹敵するほどの財力を得ることができた背景には、「薩摩77万石」の外数である奄美諸島の砂糖による収益があったとされます。
実際に薩摩に利益をもたらした砂糖の70%以上を、この3島で生産したと言われています。
薩摩藩の借金
奄美大島の民が苦しむのは、薩摩藩・島津の蘭癖の殿様のせいだと比喩されていました。
それは、8代島津重豪は長崎より入手できるヨーロッパの学問、蘭学を非常に好んだそうで、オランダ商館から入手できる知識・技術・文化・言語を学び、のめり込みすぎて蘭癖大名と呼ばれていたそうです。
重豪はティイィングやロムベルグ、ズーフら歴代オランダ商館長と親交を持ち、シーボルトと会見するなど、海外の情報文化に強い関心を示しました。藩で世界地図を作成したり、自らローマ字を書き、オランダ語を話すなど、鎖国的状況の日本では類を見ないほどの藩主でした。幼少時にその教えを受けた斉彬は重豪の教養を基盤として集成館事業を興しました。
これら蘭学のための資金、徳川家のへ篤姫の輿入れなどにも莫大なお金が必要で、薩摩藩は借金まみれでした。
その借金は500万両!!
現在のお金に換算すると2500億円。少なく見積もっても500億円とか言われています。
もう藩の中だけではどうすることもできない金額に膨れ上がりすぎていた借金。そりゃあ新しい資金源となりそうな奄美群島や琉球が欲しくてたまらなかったでしょうね。
その借金は500万両!!
現在のお金に換算すると2500億円。少なく見積もっても500億円とか言われています。
もう藩の中だけではどうすることもできない金額に膨れ上がりすぎていた借金。そりゃあ新しい資金源となりそうな奄美群島や琉球が欲しくてたまらなかったでしょうね。
そんなこんなで、奄美大島・喜界島・徳之島の3島を皮切りに、奄美群島は砂糖地獄の時代へと突入していったのです。
次回は沖永良部島についてです。