琉球時代の北山王の二男であり沖永良部島の島主で世之主と呼ばれた真松千代のお墓であるウファについて、ご先祖調査の過程で新たに分かったことを書き留めておこうと思います。
1.墓荒らしによる被害
1969(昭和44)年の「薩南の島々」という本の記事によれば、精神異常者のいたずらにより3つの厨子甕の中が荒らされてしまい、どの遺骨が世之主のものかが分からなくなってしまったということです。
写真の蓋を開けている厨子甕は、世之主のものなのか分かりませんが、すでに荒らされた後の状態だと思われます。
書籍:薩南の島々 出版:朝日新聞社 1969年
この話は以前に聞いたことがありますが、時期が不明でした。記事が書かれた本が出版されたのが1969年ですから、それ以前の出来事となります。
また、1965年に出版された「電気とガス」という本には、調査された方の記録として、「世之主の厨子甕には肋骨など骨の破片がいくつか入っていた」とあります。
現在の厨子甕には何体もの遺骨が納められていますが、1965年の本の記録では数体の遺骨が入っているような書き方ではありませんので、墓荒らしにあったのは1965(昭和40)年~1969(昭和44)年の間のことではないかと思われます。
下は1959年頃の写真で世之主の墓を撮影された写真としては、調べた範囲では一番古い物です。門の中の敷地や手前の広場には草木が生い茂っており、現在とは様子が違います。
書籍:奄美 : 自然と文化 第2 出版:日本学術振興会 1959年
2.盃の祟りか
1986(昭和61)年の南日本新聞の記事によると、世之主の墓から盗まれた盃が7年ぶりに小包便で島に戻ってきたのだそうです。
旅行に来た女性が、記念にと軽い気持ちで持ち帰ったところ、バチがあったので返却してきたとのこと。驚きの出来事です。
観光化が進むと、このようなことが起こりがちになりますので、今後このようなことが起こらないように、訪れる際にはマナーを守って頂きたいですね。
書籍:しま 32(1)(126) 出版:日本離島センター 1986年
3.洗骨されていた
「やあ、九州 : 紀行風土記」という1977(昭和52)年に出版された本の中に、取材されたときの記録として、世之主の墓は宗家が管理しており、年に1回七夕の日に焼酎で洗骨をしているとありました。
宗家が世之主の墓の管理を代々やっていたことや、昔は納骨後も厨子甕から出して洗骨を定期的に行っていたことは聞いていましたが、七夕の日にやっていたのですね。
しかし本が出版された時期が1977年、墓が荒らされたと思われる時期の後の記事のようですが、もう現在は洗骨は行われていません。いつから行わなくなったのかは分かりませんが、憶測ですがもしかしたら墓荒らしがあった後からは中止したのかもしれません。
4.納骨堂の掘り込みにはノミを使用
「えらぶの古習俗」という本によれば、厨子甕が納められている納骨堂は、岩穴を掘りこんだときに鉄ノミを使用した形跡が見えるとのことです。
これは世之主の墓が作られた時期を計測する重要なポイントなのかもしれません。実際に伝承の1400年代頃に墓が作られていたとしたら、その頃には島では既に鉄ノミが使用されていたことになります。
実際にいつの頃から島で鉄ノミが使用されていたのか?世之主のお墓の歴史を紐解くポイントの1つになりそうです。
5.誰の厨子甕か
納骨堂の中の厨子甕は、世之主と一緒に自害した奥方と長男の3人のものだと伝承されています。
しかし、1942(昭和17)年に島を訪れて、世之主の墓を当家の宗佐久平に案内してもらった野間吉夫氏は、自身の沖永良部島採放訪記の中で、ウファは3代の世之主墓だと書いています。
当時墓守をしていた佐久平爺が墓に案内しており、その時におそらく墓の話を聞いた上での記述だと思うので、この頃には納骨堂の3つの厨子甕は3代の世之主のものであったという認識だったのかもしれません。
1850年に当家の先祖である平安統惟雄が書いた世之主由緒書の中には、ウファに眠る人々が誰であるかについての記述はありませんので、真実は分かりません。
世之主が3代と考えると、1代目は北山王の二男であった真松千代。2代目は徳之島に避難していた次男、3代目は2代目の嫡子であったということになるでしょうが、その情報は不明であるし、なぜ3代の人までのお墓なのか?
まだまだ謎に包まれた世之主のお墓です。
余談になりますが、こちらのブログに偶然辿り着いた宗家一族の方から連絡を頂くこともあります。もしこちらの記事に辿り着いた一族の方で、世之主のお墓について、またご先祖様のことなど何かご存じなことがありましたら、どんな小さなことでも結構ですのでお知らせくださると嬉しいです。