世之主神社の社殿の裏の左の角に、小さな御堂があります。そこには頭部のない小さな石仏が祭られています。和泊町誌などによれば、かつて島にあった禅王子の遺物ではないかと書かれています。
それは、禅王寺は世之主神社が明治4年に寺から神社になった時に移転した場所です。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく ) の政策で廃寺になってしまい、その跡地に移った世之主神社が、仏像を保管していたということでしょうか。
もう1つ考えられるのは、世之主神社が建立される前は、ここ城跡には寺があったといいます。その寺時代の遺物の可能性もあります。
その寺については詳しい情報が分からないので、いつ・誰が・どのような経緯で建立していたのかは不明ですが、その寺の時代には琉球の北山時代から続いていたといわれるシニグ祭りがこの寺からスタートしていたのだそうです。
島民全員参加のような規模の重要なシニグ祭りの拠点であった寺だったわけですから、それなりに重要な場所だったはずです。この寺については詳しいことが分かれば、島の歴史解明の糸口になると思うので、専門家による調査に取り組んでもらえればいいなと希望しています。
そしてこの仏像は、もしかしたらVol.69で書いた首里の天王寺からきたという観音様ではないのかと期待し確認しましたが、どうもそうではないようです。
観音様ではなく、やはり仏像のようでした。
では観音様はどこにいってしまわれたのか気になるところですが、今のところ情報はありません。しかし少し気になる物が、仏様の横にありました。
何か台座のような石が残されているのです。この上に観音様がいらしたのでは、、、妄想が広がりますが、、、
600年も前に首里からやってきた観音様ですから、見つかれば歴史的価値が高いと思われますが、探し出すのは難しそうですね。
どこか付近の畑の隅にコロンと転がっていそうな雰囲気もありますが、、、
そもそそも廃仏毀釈についてですが、明治元年、明治新政府は「神仏分離令」を出して、神社を寺院から独立させ神社から仏教的なものを取り除くように命じましたが、鹿児島ではこれを一歩も二歩も進めてすべての寺院を徹底的に破壊してしまいました。
文献などによれば、薩摩藩内にあった1616寺ともいわれる寺院が廃寺となり多くの仏像や仏具などを失ったそうです。そして同時に2964人の僧侶が一般人に還俗させられ、兵士になったものも多くいました。没収された財産や人員は、軍を強化するために回されたといいます。
鹿児島藩において廃仏毀釈がこのように強引に実施された理由としては、当時の鹿児島では寺院と民衆の結びつきが比較的薄かったこと、廃寺により職を失った僧侶の生活の保障に努めたこと、藩が廃寺によって得た財源を軍備充実に充当しようとしたことなどがあげられるそうです。
藩主であった島津家の菩提寺には立派な墓石群が残っていますが、ほとんどの寺院は跡形もないそうです。一部に残る倒された墓石、首や手足が破壊された仁王像などが、その場所に約150 年前までは寺院があったことを物語っている状況だといいます。
鹿児島はこのように寺院と民衆との結びつきが比較的弱かったのかもしれませんが、沖永良部は琉球時代からずっと寺院との結びつきは強かったのではないかと考えます。島津配下であってもシニグ祭りを開催していたし、亡くなった人の埋葬方法や墓、その他の文化がずっと琉球時代から続いていたわけですからね。そこに廃仏希釈の政策が突如として島でも実行され、寺や仏像などがことごとく破壊されるとは、とても心の痛い状況だったのではないかと推測されます。
この廃仏毀釈、島では寺や仏像意外にも影響があったのかもしれません。次回に書きたいと思います。