2023年3月26日~4月1日までの先祖調査の旅を記録していきます。
3号墓
チュラドゥールの西側にある3号墓にも行ってみました。ここは写真でしか見たことがなかったのですが、平坦な場所だと勝手に思いこんでいましたら、いつものごとく気をつけながら歩いていかなくてはならない場所でした。チュラドゥールのある場所からは少し下って行った所にありました。
このお墓は以前にも書きましたが、ニングル墓とも呼ばれていたようで、一説には世之主の墓やチュラドゥールなどのトゥール墓を築造した石工の頭の島妻の墓と言われているようです。
チュラドゥールを建造したのは石工の「ニシトウ」という人だという話もありますので、島妻がいたとすればニシトウは島外の人。時代背景は別として見れば、竹富島出身で1519年に首里城の園比屋武御嶽(ソノヒャンウタキ)の石門を建造した石工の「西塘:ニシトウ」の島妻の墓なんてことも想像しちゃいます。あくまで想像ですが、彼が沖永良部までやってきてトゥール墓を建造していたとなれば、それは驚きですね。
納められている厨子甕の量を見ると、一族の墓と推察される。 。納骨堂の左右に大和式の墓石があり、〇〇居士と書かれているので、男性も埋葬されているようです。
右側の墓石にはわずかに掘られた文字が見えます。
寶暦元年四月
〇〇〇世西〇居士
〇〇〇世西〇居士
このように掘られている気がする。寶暦元年(宝暦)といえば1751年。
西の次の文字が塘であれば、石工のニシトウなのか?年代は合わないので、同名の子孫か!?色々と想像が深まります。
島に住む叔母の話では、昭和30~40年代頃にチュラドゥールの納骨堂がいっぱいになったので、空の厨子甕をいくつかここに移した覚えがあるということでした。なぜここに移したのか詳しい理由は分からないそうですが、他人様のお墓に移すことは考えにくく、何か繋がりがある人のお墓だったのかもしれません。
石垣で囲ったお墓
チュラドゥールと3号墓の間のところには、石垣で囲われた大和式のお墓が2区画ありました。ここは明治頃のお墓のようですが、現在は子孫の方はいらっしゃらないようです。
新しいお墓を発見!?
チュラドゥールの西側の通路に、何だか変わった墓石のようなものを発見!
丸い円形の五輪塔のような感じがする珊瑚石。これは新しい墓石か!?
みんなで近づいてワイワイしていると、叔父が呟きました。これは手水鉢ではないのか?
中央に亀裂があったので、ひっくり返してみると、、、
あらら、ホントだ。これは叔父の推測通りで手水鉢のようです。ちょうどこの向かい側に、かつて使われていたらしいお墓があったので、たぶんそこにお墓のものではないのかという結論に至りました。何だか碾臼みたいな手水鉢ですね。
イジンジョゴー
次に向かった先は、聖なる泉。
ここは綺麗な湧水があり、お正月などの祀りごとの時にはここの水を汲んで使っていたのだそうです。今でも使われているそうです。
ここに下る入口は2ケ所ですが、今回は黄色い矢印のルートから。
わりと広めの落ち葉がたくさん敷かれた小道をグングン下っていきます。
途中でクワズイモの大群が道を塞いでいましたが前進。
下までいくと、細長い小さな泉がありました。写真がボケてしまいましたが、綺麗な水がありました。
家系図を、、、
次なる場所へ車で移動中に、親戚筋にあたる方に畑で遭遇。
以前からお電話でお話を伺っていた方ですが、お会いするのは今回が初めて。
チュラドゥールのお墓のことなど立ち話をしていたら、私に渡したい物があると。何かとおもいきや、な、な、なんと!こちらのお宅の家系図のコピーです!
実はこのお宅は当家の直系や分家ではないのですが、島の歴史を語る時には当家同様に豪族として必ず話題に出る家です。
こちらのお宅の歴史も、当家のことを知る上では重要なアイテム。まさかまさかの家系図の進呈でした。
チラッと見たら、かなり重要なことが書いてありましたので、これはまたもう少し調べて、色々と考察したいと思います。
大変貴重な情報を頂くなんて、先ほど行った聖なる泉のお力か?
上花城の屋敷跡
家系図は大事にしまって、次はお爺さまが住んでいた屋敷跡に。明治31年の大型台風の後に、城跡の側にあった屋敷から移住した場所です。
ここは石垣が残っているのが道路側から確認出来ていましたが、中に入るのは初めて。
だいぶ木々が生い茂っていて、中はジャングルのようです。
井戸が当時のままで残っていました。横の桶みたいな石は洗濯用だそうです。
坪が散乱です。これは塩や味噌などの調味料や水を入れていたものですね。
少し分かりにくいですが、ここはカマドがあった場所で、積んであった石がそのまま残っていました。
奥の方は崖になっていて、そこを少し登ると小さな洞穴のようなところがありました。叔母の幼い頃の記憶通りです。
崖の下には石で囲ったトイレの跡も残っていました。
建物が少しでも残っていたら良かったのですが、それは全くありませんでした。建物の基礎となる長方形の石かコンクリートのようなものは地面に残っていました。
お爺さまや義母達が暮らしは場所。一度は入ってみたいところだったので、今回ここに来れて大満足でした。
山田のウィフォ
以前に記事で書いたことがありますが、世之主神社の東側に山田という地区があり、そこに大変長寿のお爺さんがいたという伝承があります。(詳細はVol.46や254参照)
そのお爺さんが亡くなったときだと思うのですが、お爺さまのご先祖である上花城の池悦という人が1774(延享4)年に献灯碑を寄進したということで、それを見に行ってきました。
このお爺さんのお墓は、最初にあった山田から移動されて現在の大城の墓地にあります。
今から約300年程前にご先祖さまが寄進した献灯碑。風化はしていますが今も
こうして残っていることは、ご先祖様に触れて気がして嬉しい気持ちになります。
今日の1日を終えて移動の車の中から。雨ばかりの天気予報がみごとに晴れて、散策日和になってくれたことに感謝。美しい夕焼けでした。明日も晴れますように。
夕食はパスタ
今夜の夕食は、タラソというところにあるパスタのレストランに行きました。
生パスタを頂きましたが、美味しかったです。
叔父やEさんはリゾットを食べていましたが、こちらも大変美味しかったようです。
今日も1日慣れない場所を歩き、疲れましたが充実した1日でした。
そういえば、世之主神社でお弁当を食べていたとき、島在住の女性が現れ、何と世之主の大ファンだとおっしゃってました。世之主に関係する場所は全て足を運んでいらっしゃるようで、色々と詳しくご存知のようです。島や世之主の歴史にロマンを感じるとおっしゃってました。ご先祖様調査をしている私たちにとっては、とても嬉しい出会いでした。島の歴史や世之主について、興味を持ってくださる方が増えたらいいな。