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先祖を探して

Vol.110 示現流をやっていたご先祖様が判明(1)


Vol. 59で当家のご先祖様で薩摩藩の御流儀であった示現流をやっていた方がいたことを書きましたが、どのご先祖様であったのかがはっきり分かっていなかったのですが、島の本家に保管されている絵から恐らく間違いない情報を得ることが出来ました。

そもそもですが、当家のご先祖様は薩摩藩が侵攻して島の政治を行うようになって以降は、島役人としては最高職の与人を代々やってはいましたが、身分は平民のままでした。
薩摩藩の決まりでは平民では示現流は習えないし、帯刀もできませんでしたし、ましてや島暮しなのにどうやって学んでいたのか?なぜ当家のご先祖様が示現流を習得できたのかが私としては大変疑問だったのです。
それを解明してくれたのが、その絵だったのです。

最近ふと思い出して、その絵をしげしげと眺めておりました。(絵を撮影した写真なのですが)
そうしましたら、書いてあるじゃないですか、延享3年6月という文字が、平安統という文字もあります。しかし、絵がだいぶ古いので文字が滲んでて、しかもほら草書体でしょ。ぱっと見、素人には気が付かないんですよね。
これまでも何度も見てるのに、全然気が付かなかった私なのです。そろそろ解明してくれよ~ってご先祖様のご希望が私に届いたのかもしれませんね。

延享というのは1744年~1747年のたった4年しかありませんでした。
その当時のご先祖様といえば、平安統惟貞(1715-1722年)です。延享3年で31歳です。
ではその時の示現流の東郷家の系図を見ると、東郷実勝(とうごう さねかつ) という人がいて、何とまあ、沖永良部島に遠島になっている流罪人だったのです。家督相続等でゴタゴタがあって遠島となったようですが、当時はちょっとしたことでもすぐ遠島になっていたそうです。藩主のお怒りに触れれば、、、ってなこともあったのでしょう。
西郷隆盛がたどったように、奄美大島→徳之島→沖永良部島と鹿児島から遠くなるほど重罪で、実勝はいっきに沖永良部島に来てるようですので、重罪の扱いだったみたいですね。

なるほど。ご先祖様はきっとこの東郷実勝という人に示現流を学んだのだと思います。しかし、遠島人となぜ???
それは次回に続きます。

見出しの絵ははじめネットで見つけたものを使っていましたが、当家の絵と間違われてしまうかもと思い変更しました。実物の絵を見て示現流をイメージして子供が描いてくれたものです。これがまさか!?と驚かれたかもしれませんが、本物ではございませんのでご安心ください。

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