ご先祖さまの名前の謎に迫る前に、島が北山王の領地であった時代から中山王の直轄地となった那覇世(なはんゆ)と呼ばれる時代、そして薩摩侵攻後の大和世(やまとゆ)に移りかわっていく時代の中での文字文化について少し見ていきたいと思います。
沖永良部島には古い時代の古文書が殆ど残っていないといいます。
存在していたが居所不明になっているのか、そもそもはじめから古い時代には記録を残す文化がなかったのか。
文字の普及が遅かったともいいますので、町誌などでも紹介されている1698年に書かれた要家の家譜などが、やはり島では一番古い記録なのかもしれません。
当家においても同様で、残されている古文書として一番古いものは、薩摩侵攻後の大和世となった1700年代以降のものです。
北山王の二男であった当家のご先祖さまである世之主:真松千代が島を治めていた時代の話、彼の名や妻の名前など現在に伝わる内容は、1850年に真松千代の子孫であり当家のご先祖さまでもある平安統惟雄が書き残した「世之主由緒書」にその内容が記録されるまでは、1400年頃から約450年の間はずっと口碑伝承で代々伝わってきていたと思われるのです。
そんなに長きに渡って記録された文書も無く語り継がれてきたのかと思うと、昔の人々の口碑伝承力はとてつもなく凄いものであったようですね。
しかし島で文字文化が普及していなかったとはいっても、北山の時代は不明ですが、那覇世の時代には世之主やノロといった琉球王府から発行された辞令書などがあったと思われます。残念ながら現在のところそういった王府からの辞令書が沖永良部島には残っていないそうです。島自体に文字文化はなかったとしても、島役人などは親元の琉球との関わりの中で文字を見る機会はあったでしょうし、読み書きができていたかもしれません。
そして那覇世の時代には、琉球ではひらがなを使った文字文化であったそうです。そう考えると、当家のご先祖さまたちが那覇世の時代に文字の読み書きが出来ていたとすれば、それはひらがな文字だったのだと思います。
漢字の使用においては、薩摩侵攻後の大和世の時代になって以降のようです。
時にして1609年以降のことです。もちろんこの時からすぐさま漢字が普及したとはいえないでしょう。読んで書いてと漢字を使用するまでにはそれなりの学習時間が必要であったと思いますが、要家の1698年の系図には一部漢字が使われていますので、その頃にはもう漢字が普及していたことが分かります。
しかしそれは全ての島民がというわけではなく、一部の役人階級の家の者だけだったと思います。実際に明治期に苗字を持つようになった時に、平民は漢字が分からず島に在住していた薩摩の役人などに苗字を決めてもらったり、漢字を充ててもらったといいますから、島民全体への漢字の普及は明治の学校教育以降のことでしょう。
島での文字文化については、このような状況であったのです。
さて次回は漢字について書きたいと思います。