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先祖を探して

Vol.199 家紋からの繋がり

前回Vol.198で、当家の家紋である左三つ巴について書きましたが、新たに沖永良部島の歴史に登場する世之主の側近だった四天王の1人と言われる後蘭孫八の子孫の家の家紋が分かりました。

この孫八についてはVol.115~118で書きましたが、平家の落人の子孫ということで、築城の名手で当家のご先祖さまである世之主の城を築城したと言われており、また倭寇として交易を行っていたとも言われています。
石井望先生の最近の研究では、14世紀後半に察度王・武寧王に仕えた初めての王相(国相)であった亜蘭匏(あらんぽう)が、福建読みで「えらぶ」と発音することから、亜蘭匏は沖永良部島の主要な人物であった可能性が高いと考えられ、その時代の主要な人物といえば、島主であった北山王の次男:真松千代:永良部世之主か後蘭孫八ですので、この海の交易に長けていたと思われる後蘭孫八が亜蘭匏であった可能性が高いとの見解でした。
この亜蘭匏ですが、1382年に察度王の進貢副使として渡唐して以来、1398年に至るまで数回にわたって明国に派遣されています。1394年には王相として渡唐しています。

この後蘭孫八の子孫の方によると、家紋は卍紋なのだそうです。
卍紋といえば本土では仏教をイメージしますが、琉球では少し違うニュアンスがあるようです。
実は、その昔は北山領であり北山王が居住した今帰仁城の城内から、最近出土される物の中に卍紋の入ったものが多数あるそうなのです。特に陶磁器類に多く見られるようです。
また、琉球王家の伝来の宝刀剣である千代金丸。琉球の歴史書『球陽』によれば1416年に中山王との戦いに負けた山北王であった樊安知がこの刀で自害したとされ、その後は第一尚氏の手に渡ったとされています。
この宝剣の鍔の部分に十字の形状を意識した文様の配列がなされているといいます。

このような十字を意識した卍紋、上間篤先生の研究によれば、中世の今帰仁勢力はユーラシア大陸のモンゴル人やアラン人と交易で繋がっており、その彼らの象徴であった卍紋が、この今帰仁でたくさん見つかっているとのことです。
そもそもユーラシアの方で卍紋が使われていたのは、卍紋は悪霊を払いのける力が宿ると信じられていたからだそうです。
今帰仁において、交易品にたまたま卍紋が入っていただけなのか?それとも当時に家紋という概念があったかどうかは分かりませんが、卍紋が持つ意味を理解したうえで、家紋と同じような位置づけで家を象徴する印として使っていたのか?
このあたりについては、今後の研究で解明されることを期待しますが、少なくとも今帰仁時代に卍紋があったことは事実です。
その卍紋が、後蘭孫八家の家紋であるというのは、間違いなく北山と強い関わりがあったことを示しているのだと思います。

そうなれば、北山王の次男であったはずの当家はこの卍紋ではなく尚家が使用している左三つ巴の紋を使っている、誠に不思議です。
家紋から見る繋がりでは、北山に繋がるのは後蘭孫八、琉球尚家に繋がるのは当家。
何とも不思議な事実に遭遇です。
ただ、沖永良部島で家紋がいつ頃から使われていたのか? 
またこの両家がなぜこの家紋を使用しているのかについての詳しいことは分かっていません。
どこまで解明できるかは分かりませんが、家紋もご先祖探しのキーワードとして引き続き調べていこうと思います。



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