居眠りバクの音楽回想

チェンバリスト井上裕子の音楽エッセイブログ。

andante

2010-12-21 00:03:30 | エッセイ
andare の 現在分詞

andante のテンポって一体どれくらいなんだろう?

ゆっくりと、歩くような速さで・・と日本語では訳されるけれど
andante は速度そのものを表現する言葉ではない。

歩くでもなく、走るでもなく・・・
私の中では、淡々と凡庸に前に進んでいくイメージです。

日常の音

2010-12-20 00:03:00 | エッセイ
私達は、日々音に囲まれて生きている。

人の話す声、咳払い、携帯電話の着信音
扉がパタンと閉まる音、テレビやラジオの音
カフェのBGM、車の走る音・・・・等等。

考えてみたら、静寂に包まれる瞬間なんて、殆どないんじゃないだろうか。

こんなにも経済が発展する前は
世の中はもっと静かだったろう。

私は、車が通り過ぎる時の、シューーっという摩擦音が苦手だ。
苦手なのに、通りに面する我が家は
終始この音で溢れている。

この音は、まさに現代音の象徴。。

ここからバッハのような音楽は、さすがに生まれないだろうなぁ。

森に行って、木々が風に吹かれて囁く、感じの良い音が聞きたいです。

聖務日課

2010-12-19 00:01:37 | その他
「聖務日課」

毎日一定の時間に聖職者と修道会の成員によって執り行われるもの。
朝課Matins(夜明け前)、賛課Lauds(日の出時)、一時課Prime(午前六時)
三時課Terce(午前九時)、六時課Sext(正午)、九時課Nones(午後三時)
晩課Vespers(日没)、終課Compline(晩課の直後)

構成:祈祷-詩篇-カンティクム-アンティフォーナ-レスポンソリウム-賛歌-朗読

聖務日課の音楽的特徴:
アンティフォーナ付きで詩篇を歌う。賛歌とカンティクムを歌う。
レスポンソリウムをつけて聖書の句を歌う(読誦)
特に重要な聖務日課は、朝課、賛課、晩課。
※晩課は古くから多声唱法が許されていた※


Orchica

2010-12-18 00:01:23 | 楽器


Carl Leopold Rollingによって発明されたOrphicaという楽器。
ローマの楽器博物館で見ました。

いわば、ポータブルピアノのようなものです。

18世紀ころに作られ、現存するのは30台ほどだそうです。

You tubeにこの写真よりは大きなものですが、音色が聞ける画像があります。

おもちゃのピアノのようなかわいらしい音色でした。

ある人の言葉

2010-12-17 00:03:53 | 言葉
「私は、多くの日本人演奏家と出会ったし、良く知っている。

 あなたたち日本人は、私達よりも
 常に優秀で、勤勉で、そして何より、とてもエレガントだわ。

 あなたは、自分が日本人であるということを
 決して忘れてはいけないと思う。」

 とても嬉しい言葉です。
 彼女の日本人に対するこの素敵な見解が揺るがないよう
 努力しようと思います。 

Lira da braccio

2010-12-16 00:03:12 | 楽器


フォルテピアノフェスティバルの一画で展示されていた
Lira da braccio と Lira da gamba.



バチカン美術館のラファエロの描いた「Parnaso」
ムーサ達に囲まれたアポロンが弾いています。

音色↓
You tube より dance 'Spero'

15~16世紀、イタリアでは吟遊詩人たちによって使用され
歌の伴奏や、即興での演奏が行われていたようです。

楽器が大きくて、肩が凝りそうですね(笑)




ローマ聖歌

2010-12-14 00:03:28 | 音楽史
 
~最古の現役歌唱群。西洋文化の至宝の一つである~

~旋律がいかに高貴で美しいからといって
 これらを純粋に音楽とみてはならない。
 何故なら聖歌は儀式の中で儀式という目的のために歌われるからである~

<単旋聖歌(Plainchant)>
 
 音楽付き祈祷。高揚した語り、旋律とリズムにのせて
 敬神の念を表現し、信者達の団結を強めるもの。

 「最も簡素な聖歌は、ミサの福音書朗読のような単一音高上の朗誦に等しい。
  この朗誦音から僅かに音高を低めれば、想念の終わりを示せるし
  上れば朗読の初めや唄の主部を際立たせる効果がある。」
 
<詩篇唱定型>
 
 簡素な朗誦に手を加えたもの。
 開始部、終始部、半終始部、朗誦再開部に様々な旋律を当てたもの。
 
 ローマ聖歌とは、基本的には、言葉による意思伝達である

<典礼(Liturgy)>

 勤行のためのひとまとまりの詞と式。
 初期キリスト教では、新約聖書に語られるイエスと十二使徒の
 最後の晩餐を記念する儀式を核としていた。
 ここからミサが生まれる。

<音楽記号つきの最古の聖歌の写本>

 9世紀のもの。ただし備忘用。音程の記譜が行われるのは10世紀頃から。

※※現在では聖歌がカトリック教会の通常勤行から姿を消している。
  1962~65年の第二バチカン公会議で、会衆を礼拝に参加させるため
  ラテン語聖歌を廃して地域ごとの現地語に代えたため。
  ラテン語の単旋聖歌は公式音楽であるが、現在では一部のヨーロッパの
  教会でしか歌われていない。

※※現在、式典意外・・音楽家らに使われている楽譜の問題。
  近代に編纂された出版譜は、中世だけでなく、
  近代の慣行を反映していること。

<現在多く用いられている版>

 Solesmesのベネディクト会修道士によって、19~20世紀にかけて編纂され、  ヴァチカンの公認を受けた近代の出版譜に基づくもの。    

音楽の快楽と危険

2010-12-13 00:03:31 | 音楽哲学
 中世は宗教的に抑圧された暗黒の時代とも言われているけれど
 それは音楽においても同じことかもしれません。

 音楽を純粋に味わうということは、罪。

 指導者達ですら、それぞれに葛藤していたと分かる文章を引用します。

聖アウグスティヌス著≪告白≫より「音楽の快楽と危険について」

「私が信仰を取り戻した当初、あなたの教会の歌に流した涙を思い起こせば
 また現在でも、清らかな声で妙なるころこの上ない前回しの歌が歌われる時、
 歌そのものではなく、歌の内容によってどんなに心を動かされるかを思えば、
 この高らかに歌う習慣がいかに大切かをあらためて思い知るのです。

 このように私は危険な快楽と健全な経験との間をさまよっています。

 どちらかと言えば私は(決定的な見解ではありませんが)、
 教会で歌を歌う習慣を認めたいと思います。

 それは耳の楽しみを通じて、弱い者の心を敬虔の念に目覚めさせる為です。

 しかし、歌われる内容よりも、歌そのものによって
 一層心が動かされるようなことがあれば、
 そのとき私は許しがたい罪を犯しているのです。


 私はそう告白します。

 そしてそれぐらいなら、むしろ歌を聞かない方が良いのだと思います。

 見てください。

 これが今の私の有様です。

 心のうちで少しでも善なることを求め、それを実行に移す人は
 私とともに泣いてください。
 そして私のために泣いてください。

 もっとも、善なることを心に掛けない人にとっては
 こんなことはどうでもよいことでしょうが。

 しかし主であり、私の神でもあるあなたよ、私の言葉に耳を貸し、
 私を顧み、私をご覧になり、私を憐れみ、私を癒してください。

 あならの御目の前では、私には自分自身が謎になってしまいますが
 これが私の弱さなのです。」


道具の音楽

2010-12-12 00:05:34 | 音楽哲学
ボエティウスによって提示された三つの音楽の種類。

中でも中でも三番目の「Musica instrumentalis」は

私達が現在音楽芸術としているものです。

彼らにとって、道具の音楽は学問としては位置の低いものだったのかもしれません。

音楽は芸術ではなく、あくまで知識の対象であり
音楽とは理性と感覚によって音の響きの多用な高低関係を調べる学科でした。

ゆえに、彼らにとって真の音楽家とは

歌手でもなければ、音楽という営みの本質を理解せず
本能的に歌を作りあげるだけのもでもなく

哲学者、批評家であって

「音楽のための、音楽に即した理性的思索に従って判断する能力を有するもの」でした。

彼らの音楽観は一見・・・現代の音楽観とあまりにも隔たりがあるように見えます。

音楽は何のために存在するのか。
そして、私達は何故演奏するのか。

その答えの一つがここにはあるような気がします。

演奏するとき、音楽に携わるとき・・・心は神聖でなければなりません。