居眠りバクの音楽回想

チェンバリスト井上裕子の音楽エッセイブログ。

ボエティウスによる音楽理論の手引き

2010-12-11 00:04:05 | 音楽哲学
※ボエティウス(480-524)は中世においてもっとも尊敬され、
 影響力のあった音楽の権威とされる。

 6世紀初頭に特に音楽の概要についてまとめた「音楽教程」を書いたが、
 これは主にギリシア音楽理論についてまとめたものである。
 中世の音楽理論は、ギリシャの音楽観に基づいていた。

ボエティウスによると、音楽は次の三つの種類に分けられる。

 ①「Musica mundana~宇宙の音楽~」
   惑星の運動、四季の変化、元素に秩序ある数的関係

 ②「Musica humana~人間の音楽~」
   肉体と魂およびそれらの諸部分の総合を司る。

 ③「Musica instrumentalis~道具の音楽~」
   人声を含む楽器の生み出す、耳に聞こえる音楽であり、
   特に音程の数比において、①②と同じ秩序の原理を例示する。

彼は、プラトンやアリストテレス同様、
音楽が性格や道徳に対する影響力を持つことを強調していました。
音楽は、音楽そのものだけでなく、
哲学入門としても教育上重要な科目の一つとされました。

現代、特に日本では、音楽は教育の蚊帳の外に置かれています。
音楽観がこの時代と大きく異なるにせよ、情操教育において
忌むべき現実だと思います。。。

葛藤と否定

2010-12-10 00:04:35 | 音楽哲学
初期キリスト教で良くないとされていた音楽

「技巧的な歌唱」「大規模な合唱」「器楽」「舞踏」

これらは、異教的見世物を思い起こさせるものとして有害とみなされる傾向があった。

これらは、あまりにも心を動かし、人々を快楽の虜にしてしまうからである。

「あの”悪魔的な合唱”やあの”淫蕩で害のある歌”に耽るくらいなら
 ”楽器の音につんぼ”の方が良い。
 ”天使ケルビーノの神秘な声を聞いた者が、劇場の放埓な歌や
  華美な旋律に耳を引き渡してしまうとは、ばかげたことではなかろうか。”
 しかし、神は人間の弱さを哀れんで
 ”宗教の教えに甘美な旋律を混ぜ合わせ、子供の頃から、ただ音楽を
  歌っているだけと思っている間にも、実際にはそれが魂の鍛錬に
  なっているようにするために、妙なる詩篇の旋律が付け加えられた。”」

 ~聖ヒエロニムス、バシレイオス、
  ヨーアンネス、クリュソストモス等・・・・教父たちの言葉より~

「私が自作の賛歌の旋律によって人々を誘惑したと主張している人たちがいる・・・しかし、私はそのことを否定しない(むしろ誇りに思う)」

 ~聖アンブロシウスの言葉~

ある種の音楽を否定する指導者達がいる一方で
それを擁護する意見を持つ教父も存在していました。

「音楽の喜び」そのものを味わうことが罪とされる世の中・・・。
 なんと抑圧的なんでしょうか。
 人々は何を喜びに暮らしていたのだろう?

 この事実が物語ることは
 それほどまでに音楽が人の心に影響するものだと
 彼らが考えていたことです。
 これは、私には重要かつ、大変重みのある事実です。


初期キリスト教の器楽の排除

2010-12-09 00:06:07 | 音楽史
初期キリスト教では、魂を神聖なものに導かないとして
礼拝式からある種の音楽・・特に器楽を徹底的に排除しました。

信者が家庭や非公式の場で、参加や詩篇を歌う伴奏にリラを使用するのは許されていたようですが、それ以外は厳しく規制されていました。

ただ、詩篇の中には、プサルテリウム(チェンバロの起源です)、ハープ、オルガンなど器楽が多く登場するので、教父たちは、頭を悩ませ、これらの楽器の登場は寓喩であるとして、信者たちに説明していたのだとか・・・。(この時代は書物から寓喩を引き出し、それを喜びとするのは一般的だったらしい)

例えば、「主のプサルテリウム」は「舌」を意味し
    「ハープ」は「聖霊が義甲となって振動させる唇」
    「オルガン」は「わたしたちの身体」 など・・・。

なるほど・・・器楽が禁止されていたのは残念ですが
寓喩というのは、面白いですね。
いかようにも解釈できます。


初期キリスト教の音楽観と教父たち

2010-12-08 00:05:59 | 音楽史
※教父とはキリスト教の著述家・学者を指す。
 聖書を解釈し、基本的原則を定めて人々を導く役目を担っていた。

彼らによると

「音楽の価値は聞き手に神の啓示を与え、
 しかも良かれ悪しかれた性格に影響を及ぼすその力にある。

 音楽はそれを聞いて喜びや快楽を得るためにあるのではなく、
 美しい事物は心的で完全な美を我々に思い出させるために存在する。

 故に、音楽は宗教の僕であり、キリストの教えに向かって人の心を開き、
 魂を神聖な考えに向けるような音楽だけが、教会で聞くに値する音楽である。」

 音楽は宗教の僕?・・・・・・神の僕ではなくて?
 
 書いた人の言葉の使い方なんでしょうけど、
 神か宗教かでは、少し意味が違いますね。

 

 

 

感情喚起とハルモニア論

2010-12-07 00:13:23 | 音楽史
※備忘録※

ドリス式:ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミ

プリギア式:ミ・♯ファ・ソ・ラ・シ・♯ド・レ・ミ

ミクソリディア式:ミ・ファ・ソ・ラ・♭シ・ド・レ・ミ

諸ハルモニア(旋法の意味だと思われます)は相互に本質的に異なっており、それが聞くものに違った感情をひき起こす。ミクソリディアと呼ばれるハルモニアのように人の心を悲しく重苦しくするものもあれば、弛緩したハルモニアのように精神を弱弱しくするものも有る。また特に中庸で落ち着いた気分を作り出すものがあるが、それはができるのは、諸ハルモニアのうち、ドリス式をおいて他にない。プリギア式は、心を熱狂させる。

~アリストテレス「政治学」より~

節度と勇気の美徳を喚起する音律

2010-12-06 00:02:02 | 音楽哲学
※備忘録※

理想国家の統一の統治者となるべく教育されるものは
軟弱さや怠惰を表現する旋律を避けなければならない。

節度と勇気の美徳を喚起する旋法として「ドーリス」と「プリギア」を推奨する。

また、細かいリズムの使用や複雑な音階、楽器の混合は忌むべきものである。

音楽上の慣行は一度確立されたら変えてはならない。

何故なら、芸術や教育に法が欠けていると、必ず風習が模倣になり
社会の混乱をきたすからである。

~プラトン「国家」より~

少し極端です。
弟子のアリストテレスはもう少し寛大です。


プラトン式、教育と音楽

2010-12-05 00:04:37 | 音楽哲学
※備忘録※

正しい人間を生み出す方法は、公的教育体制にある。

教育には肉体を鍛えるために「体育」が、精神を鍛えるために「音楽」が重要である。

優れた人物の育成には、これら二つの均衡が保たれる必要があり

音楽が多すぎると、人間は軟弱・・・もしくは神経質に

体育が多すぎると、野卑で粗暴で無知になってしまう。

「音楽と体育とをもっとも見事に折り合わせ、それをもっとも適切に魂に供する人こと、 もっとも優れた音楽家と呼ばれるにふさわしい」

~プラトン「国家」より~


模倣論

2010-12-04 00:04:29 | 音楽哲学
音楽は魂の動き、もしくはその状態(優しさ、憤怒、勇気、節度など)を

模倣(表現する)するものである。

ある感情を模倣した音楽は、聞き手にその感情を喚起する。

そして、もし人が卑劣な感情を目覚めさせるような音楽を
いつも聞いていると、その人の性質はゆがめられる。

要するに、間違った音楽は人を間違った人間にしてしまうし
正しい音楽は人を正しい方向へ導く。

~アリストテレス「政治学」より~


エートス論

2010-12-03 00:03:14 | 音楽哲学
音楽は道徳的な質を有しており

人の性格や振る舞いに作用する。

何故なら、音楽は音の高さとリズムの組織であり

それは可視、不可視の世界全体に作用しているのと同じ

数学的法則に支配されているからである。

人間の魂は数の関係によって調和を保たれる複合体である。

音楽はこの秩序ある組織を映すだけでなく、
魂・・・そして無生命の世界にまで浸透する。

~ギリシャ哲学、ピュタゴラス派~

~読後記~Toccata di Frescobaldi 

2010-12-02 00:03:27 | エッセイ
フレスコバルディのトッカータ集第一巻の序文を再読して

彼の目的がひとつ、明らかになりました。

それは、テンポに関することです。

繰り返し述べられ、さらに推奨される演奏法から考察される事は

「あまり早く弾きすぎないこと」

彼が指の敏捷さを示して良いと述べているのは

唯一、二重走句の部分だけです。

フレスコバルディのトッカータは

情感がより重要なのだと思いました。

拍感のないトッカータでは、楽曲へのより深い理解と、意思が必要です。