陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

福岡伸一の科学エッセイ『生物と無生物のあいだ』

2012-10-23 | 読書論・出版・本と雑誌の感想
『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著・講談社現代新書・2007年)書籍『フェルメール 光の王国』で興味をもった著者の代表作。サントリー学芸賞を受賞、ベストセラーにもなった話題の本なのですが、いまいち期待はずれ。極上の科学ミステリーという壮大な帯のコピー文にも騙されたといえるでしょうか。いささか悔しさつのる一冊。まあ、でも、まったく読んだ時間がムダだったとも思えないのですが。では、なぜ、この本がつまらない、あるいはもの足りないと感じたのでしょうか。そこを明らかにしていく必要がありますよね。

本書のテーマは、生物が生物たりえる理由はなにか、ということ。
たとえば、あなたと目の前にある石ころの違いはなにか。多くの方は、自律して動けるか、動けないかの違いではないか、と答えることでしょうね。しかし、それでは自然と花開く野花や振動をくりかえす大地、気象の説明がつかない。ファンタジーで使い古された主題で言うならば、あなた自身とあなたとそっくりにつくられたロボットははたしてどう違うのか? ロマンチストならば、魂がない、こころが宿ってはいない、美しいものを眺めても感動しない、涙を流さない、などと答えましょうか。しかし、それでは人間かそうでないかの違いだけとなります。難しいですね。

遺伝子学は、生物の定義を「ひたすら自己複製を繰り返すもの」としました。著者はこれに異を唱えます。彼の考えでは、複製をするウイルスは生物ではない。そして、生物とはかいつまんで言えば「分子が見えないレベルで絶えず入れ替わっている、動的平衡が保たれているもの」。消化し、流通し、排泄するという生命活動のプロセスは分子の絶えまない交流なのであり、われわれ個体もその分子の流通においての一形態に過ぎない、と。この理屈、たしかに納得がいくといえばいくのですが、さほどすごい着眼点だとも思えないのは、こういう思想を自分が持っていたからでしょうか。

手塚治虫の漫画『ブッダ』のなかで、釈迦ことシッダルータが死を体感する場面があります。人間は死ぬと、からだがばらばらに分解され、大きな世界の摂理のかたまりの一部として組み込まれ、そしてまた新しい個体として生まれ変わる、というのです。このシーンを読んだとき、人間は魂が昇華されて別の世界に旅立つなどと宗教では説かれているが、分子原子としては分解され、依然、この世に漂いつづけている。なればこそ、死は無となることではなく、存在の持続なのであるから悲観することはない、などと十数年前の私は結論づけておりました。

「生物と無生物のあいだ」という、いきおい哲学的なるテーゼに惹かれてこの本を手にとった読者が望んだものも、このような「死」と「破壊」のパラダイムシフトを図ることによる幸福な自己肯定感ではなかったのでしょうか。あなたはただ壁にぶつけられる卵も同然のように社会に扱われています。でもね、あなたが生きていることはこんなにも奇跡の賜物なのですよ──そういった類の楽観的な生命観を知的なトリックに組み込んで、読ませていただきたい。ところが、この科学読み物は親しみやすい文章で書かれてはいますし、高尚な問いかけにあっさりと答えてくれてはいますが、研究者らしき合理的な論証としてはいまいち欠けるところ多いわけです。

記してあることの多くは、個人の留学体験エッセイ、研究者の人物伝、学界への批判とあり、そのような世界に疎い人間からすれば新鮮味があるものの、欧米の科学者のものした著作に比べれば、説得力にも欠け、ユーモアもいまいち。ロザリンド・フランクリンというDNA発見の知られざる功績者に対する追慕の念には同情きたすものの、後半にいくにつれて、たんぱく質の実験がどうのというくだりは脳に染み込まない。それはひとえに、著者の若かりし頃の記憶で成り立っていて、現在の研究者としてのスタンスがあまり伺えないという点に尽きるからでしょうか。それを確認したのは、この本で語られている留学時代の想い出が、近著の『フェルメール 光の王国』で流用されていたのを知ってしまったがゆえ。

ジグソーパズルのピースは一個たりとて欠ければ完成しない。テレビもおなじで、部品がひとつ無くなれば映らなくなるはずだ。ところが、著者の実験が語るには、遺伝子上不可欠なはずのたんぱく質を完全に除いたはずの実験体がいきいきと動いていたと言います。そのいっぽうで、一部のみを欠けたままのたんぱく質遺伝子を投与した実験体は、なぜか死に至ってしまったという。これを鑑みて、生物とは「歪んで折り畳まれると解けなくなる折り紙のようなもの」と結論づける。どこから組み立てても製造可能な機械のようなメカニクスを、生命にもちこむことの無意味さを説いて、この論説に決着を見ようとします。メタファーの巧みさに惑わされてしまいますが、どこか釈然としないものです。

生命には時間があり、分化に必要なモメントがある。それを通過してしまうと次の進化のステップを踏むことができず、自己融解してしまう。そう、著者が幼い頃,卵の殻をこじ開けて覗いてしまったがために溶けてしまった、無残なとかげの赤ん坊のように。しかし、この説はまるごとすなおに信じてよいものでしょうか。鉄から刀剣を創り出すには、熱いうちに打ち延ばし、成形せねばなりません。となると、無生物もまた、この不可逆的な生成という条件を備えてしまうことになりますね。

ところで、生物とはなにか、生命を生命たらしめているものはなにか、というこのテーマ、私が学生時代の美学研究室で議題となりました。そのとき教官が出した答えは、「生物とそうでないものを分けるものは、有機体であるか否か」というもの。あまりに単純すぎますが、いまだにこの説明のほうが、ずいぶんしっくりきます。有機体とは、いわずもがな炭素化合物のことですが、派生してオーガニゼーションという意味あいで捉えますと、生命の本質が見えてくるのではないでしょうか。すなわち、生物とはたったひとつで言い表せないもの。「自己複製する」「細胞をもつ」「エネルギーの変換ができる」「自己の内外に界面がある」「自身であるところを維持する」といった複合的な条件の組成,すなわちアッサンブラージュであるということこそ、その多様性こそが生物を生物たらしめているのです。

なぜ、こうも生命とはなんたるか、を考えることが複雑なのでしょうか。もし、生物とはなにか、を単純にひもとくルールが、成り立たせる要素があっさりと解明されてしまったら、それは創造主たる神が困るからとでも言っておきましょうか。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« フィギュアスケート スケー... | TOP | 映画「レッド・オクトーバー... »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 読書論・出版・本と雑誌の感想