モーリス・メーテルリンクの有名な童話劇「青い鳥」。
幸せを呼ぶという青い鳥を探しにでかけた少年少女。実は、その鳥は身近にいたのだ、と気づく。たしかそんな結びだったと記憶しています。
手塚治虫のライフワークとも言える大作「火の鳥」シリーズも、伝説の不死鳥を求めて、古今東西、その時代、その場所に生きる人間たちがさまざまな懊悩を抱えています。火の鳥は主人公たちを救うこともあれば、ときに残忍にも突き放してしまうことがあります。火の鳥は神のような救世主でも、この世の真理というものでもなく、人間がこうでありたいという願いが、気ままな翼をもった生きものとして表象されている、そんな存在のように思えます。あるいは欲の深さのために、その鳥を追うことが足かせになるような呪いでもある。
ふと、そんなことを思いついたのは。
とある晩秋の日曜日の朝、自転車で遠くのスポーツ公園まで出かけたときのことで。その公園には街の名士が築いたみごとな池の庭園があり、見晴らしのいいスポットです。以前は朝のウォーキングでよく出かけていました。
ベンチに腰掛け、朝の日課のスマホでネットチェックをしていたら。
数羽の鳩が思いがけずにじり寄ってきました。コウノトリなのか、シラサギなのか。大型の鳥も池の端に止まっていました。
肩に止まったというのではないが、あまりにも接近されすぎたので。
スマホで検索してみたら、鳥が近づいてくれるのは吉兆である、との情報が。いい波動が体から出ていて、それに鳥が引き寄せられいる。幸運のお知らせなので喜ばしいことなのだと。鳥のフンが落ちてくるのも、運気上昇のサインなのだそうです。単に餌がほしくて集まってきただけじゃないか、とも思いますけども。
信じるか、信じないかは自由ですが。信じたくもなります。
この朝、ひとり公園に出かけてみたのはなんのためか。空気の綺麗な、風のそよぎや、野鳥のさえずりだけを聞き取りに訪れたのは、街の喧騒が嫌だったからに他ならない。自然の中に溶け込みたかったからなのでしょう。気晴らしにウインドウショッピングをしたり、図書館に立ち寄って迷いの晴れる本を探したりしても、どうにもならない、持て余したい感情のたかぶりがあります。
鳥といえば、今の勤め先の敷地内あるいは、通勤途中に、スズメや鳩の亡骸が放置されていたことがありました。スズメは眠るように落ちていて、持ち合わせのマスクで包み、その日の掃除当番の方のゴミ出しに入れてもらいました。ほんとうは別の葬り方があったのかもしれないけれども。そのとき、とくに不吉だと思ったことはなく、人間に発見してもらえる場所で息を引き取れたこのスズメの生涯は幸せではなかったのか、とふとそんな気持ちが湧きあがっただけでした。
小動物に対してはいたずらにいのちを握りつぶさない。
そんな優しい気持ちを、周囲の人間に対してなぜ持てないのだろうか。お年寄りだから、子どもだから、なにかが不自由だから、あのひとは考えが浅いから。いろんな理由をつけてわかりあえないもどかしさを、相手の否定につなげてしまいがちなのです。
先週の日曜日に、休日の時間をつぶして交渉した相手先の連絡が途絶え、貴重な時間を返してくれと叫びたい。勤め先の前任者のやらかしを肩代わりする苦しさを理解してほしい。くりかえし説明し理解してくれたつもりなのに、いつまでも同じ問題に突き合わせ、ひきずりこもうとする人。関わったら、こちらに責任転嫁をしてくる。もう距離を置くしかない。わたしの心は疲れていました。でも、オトナになったら、感情をいかに素早くリカバリーするかに人生の充実がかかっているのです。もしお金がなくなってしまっても、居心地のいい毎日を過ごすために必要な精神修養であるはず。
大空に舞い上がる鳥は自由に思えますが、翼をひろげて飛行を続けるには莫大なエネルギーが必要で。恐竜の先祖が鳥であったというくらいには、鳥だって生命力の高い生きものなのです。空にだって、地上にはない危険がいくらもあります。そうした鳥の生き方のように、自分は強くなれるのでしょうか。
鳥のふるまいを観察していて、ふと自分の身の処し方や気の持ちようをふりかえってみたくなりました。
いくら幸せの兆しがあろうと、自分の気持ちが整っていなければ、運気は逃げていくばかりだと、これまでの経験が教えてくれたからなのです。
(2022/11/20)
【画像出典】
ルネ・マグリット「幸福の兆し」(1944年・油彩・ブリュッセルバーガーコレクション)
ドイツ占領下でのベルギーでの陰うつな暮らしの時期に、希望に満ちた明るいカラーで描かれた。第二次世界大戦の終結を予見していたと見なされている。マグリットには、青空を取りの輪郭で切り抜いた1963年の著名作「大家族」があるが、こちらはツイッター社やイトーヨーカドーのアイコンなど、さまざまな鳥モチーフのデザインのモデルになったとも考えられる。