見るに耐えられない、しかし見ておかなければならない二十世紀の事実があります。
陰惨をきわめた第二次世界大戦は、いまだに人類が繰り返してはならない歴史の一つです。
日本は今年戦後75周年を迎えました。
平成ははじめて我が国で戦争のなかった平和な時代と称えられることでしょう。しかし、令和は…戦争こそはないけれど、新型コロナウイルス感染症の影響下、問題は山積みです。戦時中がそうであったように、くしくも本年の東京五輪も幻に終わりました。
私の母方の祖父Tは、10代の頃から満州に出征していました。
農家で食料に恵まれ体格が良かったが為、甲種合格でした。元禄時代から続く本家の跡取り、働き手の長男を戦地に送った祖父の祖父は、墓を新築することによって無事生還を祈りました。足が不自由な次男坊のMにまで赤紙が届き、もはや日本もおしまいかと思ったそうです。腹違いの三男Yは旧制中学のエリートでしたが、一歩間違えば特攻隊員として召集されていたでしょう。祖父が復員したのは、26歳の時。許嫁だった祖母は危うく未亡人になるところでした。昨年、納屋を解体した私は、おそらく祖父が戦場から持ち帰ったと思しき古い水筒やら、現地から出したハガキなどを発見いたしました。戦友らしき大量の、無名の写真もありました。この方々は、生存されているかわかりません。祖父は全国にいる幾人かの戦友と文通を続け、赤十字にひそかに寄付をしていました。
この祖父にまつわる不思議な奇蹟があります。
厳寒の満州で凍傷にかかりあやうく左腕を切り落とすところだったのに、同郷の先輩の処置のおかげで助かったというのです。同じころ、祖父宅にある乾漆の仏像の左腕がぽろりと外れたそうです。いま、それは修復されていますが、曾祖母が言うには身代わりになってくれたのではないか、と。この仏像も納戸の奥に大切にしまわれていたのですが、ここ数年来の片づけ作業で無事発掘されました。いっぽう、助命してくれたその親切な先輩はあえなく落命されたそうです。私はこの仏像に祈り続けています。
さて、本日は終戦記念日。
2002年作の名画「戦場のピアニスト」は、映画「愛と哀しみのボレロ」と同様、第二次世界大戦をあつかった映画です。
この映画はレンタルしたのかTV視聴したのか忘れましたが、いちど観たことがあります。
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映画「サルサ!」で死者が出ないので芸術家の映画が好きと述べましたが。よくよく考えますと、ヒューマンドラマに人間の生き死にと情動の喚起はつきものなわけです。すばらしいドラマはえもいえわれぬ衝撃を観る者にあたえる。その感情の質が、おぞましいか、うつくしいかの違いだけ。
ユダヤ系ポーランド人ピアニストウワディスワフ・シュピルマンの手記を映像化した名作。カンヌ映画祭のパルムドールをはじめ、数々の賞にかがやきました。ショパンの夜想曲を有名にした話題作ですね。
戦中ポーランドで逃亡生活をおくるユダヤ人を敵方であるドイツ人将校が救ったヒューマンドラマとして知られていますがそれは結論部分。物語の大半は、音楽家が一九三九年のナチスドイツのポーランド侵攻からはじまり四五年のドイツ降伏にいたるまでの、のべ六年間の恐怖体験に割かれています。じっさいの砲火と銃弾の嵐と凄惨なる無差別殺人、それにおびえて孤独で死の淵をさすらう生活を強いられた者ならではのリアリティがあります。
ユダヤ人をゲットー地区におしこめ、ある晩抜きうちでアパートを襲撃。立てという命令にしたがえない車椅子の人間を高所から落としたり、街頭に整列させた無抵抗の住民を、気まぐれに櫛の歯を抜くようにえらんで射殺したり。ナチスの残虐非道のかぎりがあられもなく描かれます。
戦争のむごたらしい真実を克明に記録した映画といえるでしょう。
強制収容所送りからからくも逃れた彼は隠れ家を点々とする。民間ドイツ人には追いかけられ、頼ったポーランド人夫妻も、我が身かわいさに、病床の彼を置き去りにしていきます。
ですから、のちに登場するキーパーソン、ドイツの軍人でありながら、彼の命を救ったヴィルム・ホーゼンフェルト陸軍大尉の行為がよけいに英雄視されるのでしょう。
生者の影がまったくただよわない、瓦礫と化したワルシャワの廃墟を隠れ住むシュピルマン。
こんな過酷な状況なら精神異常をきたしてもおかしくはないと思うのですが、彼をささえたのはただひとつ、音楽への情熱だったのでしょう。指さきで空演奏する沈黙の生活を余儀なくされた彼が、ホーゼンフェルト大尉に乞われて、数年ぶりに鍵盤を叩く場面。旋律は栓をはずしたように湧き出て、堰を切ったように溢れ出る。とても感動的です。そのときに弾くのがショパンの「遺作」、ドイツ兵に見つかった以上、これが最後のピアノ演奏だと覚悟していたのでしょう。
その名演奏にこころ打たれたホーゼンフェルト大尉のはからいによって、屋根裏部屋に隠れ住み戦渦を逃れることができたのです。
やがて、戦争が終結するとシュピルマンは、放送局に勤務し音楽家の糧を取り戻します。ポピュラー音楽の旗手として名をなしました。いっぽう、ホーゼンフェルト大尉は、ソ連に捕えられ捕虜収容所にて服役、五二年に獄死。
映画ではあまり触れられていませんが、このホーゼンフェルト大尉は職業軍人ではなくもともと教育者で、ナチスのユダヤ人迫害を恥ずかしく思い、朋輩とともに虐げられたポーランド国民を助けたと伝えられています。しかし、諜報部員という濡れ衣をかぶせられ、多くの弁護もむなしく戦犯扱いされました。
ウワディスワフ・シュピルマンは四六年と終戦まもない四六年にこの体験を告白した「ある都市の死」という自伝を刊行。しかしソ連にくみして社会主義に傾いた戦後ポーランドでは発禁処分にされ、旧敵国ドイツ人の善行は闇に葬られてしまうのです。
この映画のことを思い出すたびに、祖父の奇蹟的な生還劇と結びついてしまいます。
祖父のような事例は、当時たくさんあったことでしょう。
祖父は正義感が強く、かつ、面倒見の良い人物だったようで。親を失った若い農家を我が子のようにかわいがり、農場試験センターで学んだ技術は惜しみなく地域に広め、簿記が得意であったので菩提寺の会計を務めていました。祖父に育てられた方々から、いま現在私はご恩返しをいただき、お付き合いさせていただいています。
戦争は二度と行ってはならないものです。
そしてまた、私たちの人生は、あの戦場を、戦災を生き抜いた人びとの血によって成り立っていることを、この日がくるたびにしみじみと自覚するのです。私たちはあの大変な時代をくぐりぬけた世代の言葉と逞しさにもっと学ぶべきところがあるのではないでしょうか。精いっぱい自分の人生を生きることが、平和な時代に生まれた者の使命であると、私は考えます。
(2009年1月4日の記、2020年8月15日につき再録)