吉宗&ぶーくん

フレンチブルドックの吉宗くんとその家来のぶーくんの日記

おばばが旅立ちました。つづき

2021年12月08日 | 介護
今日の午前2時50分に旅立ちました。

丁度、先週の水曜日の午後に看護師さんが酸素濃度が低すぎるので病院へ行った方がいいということで救急車を要請して病院へ。

たまたま私は休みだったので私が同行する形で向いました。

コロナの関係で付き添いの私もおばばと共に隔離状態になり、透明な衝立を挟んだところでおばばの処置がされていました。

酸素を10リットル入れますということで、何だかよくわからないが酸素濃度がかなりヤバいのだろうと思った。
そして、先生が「これ以上になると鼻からでは無理なので挿管になりますがどうしますか?」とのこと。

延命措置については家族でも話し合っていて


「すべての延命措置は望んでいません」


と答えました。


先生も、「では自然のままで」と言うとおばばの処置を再開しました。


旦那は仕事中でしたが、早退をして家から車にのって合流でしたが、このご時世ですから、受付カウンターに搬送されたものの家族ですとつたえると、あっさり外に追い出されたそう(爆)←感染予防の徹底に仕方がないですね。

しばらく外で待たされたあとに、隔離処置室に入室して合流です。


肺に水がたまっているということで(誤嚥性肺炎)入院となりまして入院書類(5~6枚はある)を書いているときにもう一度先生から、延命処置についての確認を旦那にしてました。


入院書類を書き終わることにはおばばの処置も終了して病室へ行くという段階にで、なにげにおばばの酸素濃度の数値を見ると


99%


やっぱ、おばばは不死鳥だぜ!


今は、入院の日も病室へ入れないためおばばを処置室で見送って帰宅。



今はお見舞いも行けないので、後は退院の日に迎えに行くくらいしか無い。


そして昨日、旦那とあと一週間くらいかね?

と言っていたのですが


深夜の1時30分

なんか音がする


なんだろう?と思ったら
旦那のスマホが雑誌の上に置いてあったのでヘンな音がしていて最初はスマホが鳴っていると思わなかった。

旦那はすっかり夢の中(夜の9時には就寝)
(おばばがいると帰宅直後、9時30分、12時30分の痰吸引があるため、寝れるときに寝るという感じになっていたりします)

どうしたものかと思ったら
もう一度スマホが震え始める

見てみると病院の名前が


こんな時間に病院からってヤバくね?

ということで、旦那をたたき起こして電話に出てもらうと
すでに心停止だとのこと。

それならば、おじじを今連れて行っても仕方が無いので、旦那と二人で病院へ向います。

雨もまぁまぁ強いし真っ暗な中走って行くと!!

多摩川の河川敷に向うお馬さん達が横断歩道を渡っている!!
しかも沢山!!
騎手の人も乗った状態だった!!
時間は2時30分!
こんな時間から練習があるんだね、とすこしだけ気分が晴れた気がした。


病院に到着したのは2時40分

おばばは血色もよく艶々していた。

顔も穏やかできっと苦しんではいないのだと思う。(思いたい)

看護師さんが、見回りに来たときにはすでに心停止してました。
とのこと。


本当に、急に旅立ったようです。

先生が死亡確認をしたのは2時50分とうことで、死亡時間は2時50分となった。


まずは、葬儀屋さんを呼んで下さいということで、リストを拝見すると、私が帰宅するときに前を通る葬儀屋さんが載っていたので、近所の方がいろいろと助かるかも知れないよということで、連絡をするとおばばを迎えにきてくれるとのこと。

葬儀屋さんが決まると、看護師さんがおばばを綺麗にしてくれて葬儀屋さんがくるまでおばばのところで待ちます。

旦那にお義兄さんに連絡をしてもらったが、時間が時間なだけになかなか出ない。
そこで、わたしが義姉に連絡して旦那が義兄に連絡するというダブル攻撃で義姉に連絡が付き、お義兄さんに報告。


でも、来る気はないようでした。



4時ごろに葬儀屋さんが到着して、看護師さんに見送られながら葬儀社へ向います。

わたし達も来るまで帰宅してから徒歩で葬儀社へ

そこでおばばと再会してお線香を上げてから、今後のことを話し合い一旦帰宅したのは5時すぎ、私は全く寝ていなかったので結構ぼんやり状態でした。

仮眠をとってから、写真や印鑑などをもって、今度はおじじをつれておばばの所に、火葬の予約も取れたとのことで、本格的な打ち合わせをして帰宅。

旦那やおじじの礼服を準備したり、小物を準備したり、ハガキを準備したりあっちこっちに連絡したり。
足りない物を買い物に行ったり。

なんだかんだやっているとあっという間に長い一日が終わった感じでした。



いま、このブログを書いているときもおばばが入院しているという延長線のような感覚でなんだか現実味がないのです。


ハガキの文言を入力していたときに、ふと
昔、おばばとレンタル畑を借りて野菜を作っていたのですが、その畑に向う途中の山道の石の階段の端に出ていたタケノコを二人で掘った(もう時効だよねごめんなさい)事が思い出され、タケノコにウキウキしていたら収穫しようとしたトウモロコシがすべて烏にやられていて二人で大笑いをしたことを思い出してなんかジンとしてしまった。


葬儀社の人にお棺のなかにお母さんが生前気に入っていた物なんかを入れてあげて下さいと言われ、頭に浮かんだのは

私がこの家に入ってからはからきしやってなかったのですが、三味線のお免状を持っていてお弟子さんもいたと言うことを聞いたことがあった。
(昨年たまたま旦那の店に来た年配女性が旦那の名字をみて”わたしの三味線のお師匠さんと同じ名字”と言われ話を聞いたらおばばの生徒さんだったことがあった)

それなら、額にいれて飾ってあるお免状と名前の札を入れてあげたらどうだろうか?と旦那に提案してみた。

たぶん、そうすることになるとおもう。




この数年間、

わたしがおばばだったらどうだろうか?

と思うことが多かった。


食べることも出来ず、テレビや本を見ることなく、ただ寝ているだけの状態をわたしがすることになったらどうだろうか?と、

それは本当に”生きている”ことになるのかと



だから、

おばばが逝ったと聞いた時に
先の見えない介護から解き放たれた安堵もあったけど、

おばばがようやく”楽”になれたんじゃないのかと、そいう安堵もあった。


隠れてつまみ食いをするくらい食べることが大好きだったおばばが
本を読むんだり勉強をすることが好きだったおばばが
吉宗と遊ぶことが好きだったおばばが


ベッドと管から解放されて


良かったと思う。



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