「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

伊邪那岐が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった

2021-01-27 07:35:25 | 黄泉比良坂

伊邪那岐が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった


1 鳥取県の天神川は木の根のように見える。


 黄泉国(根堅洲国)は鳥取県倉吉市中心市街地であった。
 黄泉平坂は倉吉市中心市街地から津(鳥取県北栄町の原)までの坂であった。 


2 古事記にある伊邪那岐が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった。
 黄泉平坂は不入岡(イザ原)から始まる。黄泉平坂は蜘ヶ家山を越えて倉吉市上神集落から北栄町原集落に行く道も想定される。その周辺に遺跡が多く見つかっている。発掘調査報告書でも「古代は蜘ヶ家山を通って原集落に行く道路が幹線道路であった」とする。縄文晩期(海面が海抜4mにある時代)では倉吉市不入岡から蜘ヶ家山を通って原集落に行く道路が黄泉平坂であった。
 伊邪那岐と伊邪那美は三貴神の一行を迎えるために葦原中つ国(北栄町大島を中心とした周辺地域)を整備していた。大島の宮崎神社の主祭神になっている伊邪那岐と伊邪那美は大島で天照大神(徐福)一行を迎えるための国造りをしていた。孝元天皇と倭健命(開化天皇)は大島で伊邪那岐と伊邪那美を祀っている(大島の宮崎神社由緒より)。
 三貴神は伊邪那岐の禊のあと生まれたとするが、「生まれた」のではなく「出会った」である。三貴神は鳥取県北栄町の原で禊をしていた伊邪那岐に出会って一緒に船で鳥取県北栄町の大島に上陸した。大島で伊邪那岐は三貴神にそれぞれ治める国を命じた。天照大神は灘手神社に移った。素戔嗚命は谷の朝日神社で泣いた。


 「竺紫」とは「木を切りつくしたところ」であった。事代主が居たクシフルタケ(北栄町の亀谷丘陵)には木が一本しかなかった(波波岐神社由緒より)。
 「日向」とは日当たりが良いという意味であった。邇邇芸の言葉からこのように名付けられた。葦原中津国(大島周辺地域)やそこと接する四王寺山も「日向」であった。
 「橘」とは葦原中津国の水面部分が橘の花に似ていたから例えたものである。「橘」に隣接する四王寺山(神武天皇の4兄弟がいた)も日向であった。
 「小門」とは湾の入口のことを意味する。「小門」とは瀬戸集落と原集落の間の湾の入口であった。
 伊邪那岐が伊邪那美から逃げて禊をしたのは、鳥取県北栄町の原集落であった。


3 私見
 古事記には「伊邪那岐は絶縁を申し渡した。すると伊邪那美命は『愛しいあなた、こんな風にされたからには、あなたの国の人々を毎日千人殺してあげましょう』と言った。そこで伊邪那岐命は『あなたがそうするなら、私は毎日千五百人の産屋を建てるだろう』と言った」とある。
 伊邪那岐は人口を増やしたかった。倭国では天武天皇の頃まで伊邪那岐(瀛真人)を祖神として祀っていたので、人口を増やすことが第一であった。
 DNA解析の第一人者の篠田教授は青谷上寺地遺跡から出土した32体の人骨のDNAを解析して、「鳥取県の青谷町は東アジアの移民が集まる国際都市であった」と言った。


 鳥取県の青谷町に隣接する鳥取県中部には奈良時代まで王がいた。鳥取県中部は奈良時代までわが国の都であった。


黄泉平坂は主に鳥取県道23号線であることは遺跡分布より明らかである

2018-06-15 01:27:03 | 黄泉比良坂
1 鳥取県は奈良県とどちらが多いかと言われるほど遺跡が多い。その中でも鳥取県中部は遺跡の密集地(県全体の3分の2を占める)である。その中でも倉吉市上神地区周辺は遺跡が密集する地域であり、密集度は全国で1位である。蜘ヶ家山には猿田彦一族が縄文前期からおり、四王寺山には弥生中期から神倭磐余彦の4兄弟がいた。
 鳥取県中部には、まだ未発掘の遺跡が多くあることは考古学会でも知られているが、中央の学会は明るみに出ないように蓋をするばかりである。中央の学会は古事記・日本書紀を改ざんした藤原氏(亡命百済人)の流れだから、古事記・日本書紀を優先し矛盾する考古学的発見には蓋をする。したがって、定説と異なる考古学的発見を理由づけして全国に公表しようとする者は今までいなかった。
 分布図を載せますのでご覧になってください。線で囲んであるのは古墳群。島古墳群は39番。右の向山古墳群で500以上の古墳がある。

 
2  クズマ遺跡第2次発掘調査報告書より
 蜘ヶ家山と四王寺山に挟まれた上神地区周辺(黄泉平坂)は、倉吉市でも有数の遺跡が密集する地域である。上神51号墳墳丘盛土で細石刃石核が出土するなど、その始まりは旧石器時代に及ぶことが明らかになっている。縄文時代では、取木遺跡の竪穴式住居・平地式住居と焼石群(101)、イキス遺跡の落し穴(100)などが、弥生時代前期ではイキス遺跡の土墳墓群(100)が知られる。弥生時代中期では、西前遺跡(70)A地区で竪穴式住居が確認されている。弥生時代後期以降、遺跡の数は増加する。

※ 私見
 黄泉平坂はイザ原遺跡(75)あたりから始まる。蜘ヶ家山(葛城山)と四王寺山(畝傍山)に挟まれた上神地区周辺を通る。不入岡から上神までは緩やかな坂であり女坂であった。上神から蜘ヶ家山を登り、原に至るまでは急な坂であり、男坂であった。
 伊邪那美が伊邪那岐を追いかけたのは縄文晩期である。素戔嗚が大国主を追いかけたのは弥生前期である。遺跡の分布状態より黄泉比良坂は上神より蜘ヶ家山を通り北栄町原に達していた。
 
3  おまけ  東郷池周辺(難波=師木)の遺跡分布

 東郷池周辺(難波=師木)は新羅からの船や使節を迎えるため、歴代天皇は一宮か二宮をシキの宮として東郷池周辺(シキ)に置いていた。東郷池周辺は宮の候補地が多いためどの大王の宮か特定することは難しい。
 
 
 

「その謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ」について

2018-06-14 05:47:19 | 黄泉比良坂

1 この文章は、藤原氏がのちに付け加えた可能性が高い。
 以下は田村誠一氏の文章です。
 「これは、太安万侶の書きかたと全く違っています。後の世の人が挿入した文章です。
 理由は以下の通りです。
 稗田阿礼は、その土地の状況を口述しましたから、地名の無いところでは、その地名の状況を本文の中に、書き込んでいます。
 例えば、その1例が古事記に書かれている次の部分です。伊邪那伎が黄泉の国から逃げ帰ったときに、穢らわしいものを見たと禊をした場所を書いた部分です。
是以伊邪那伎大神詔。吾者到於伊那志許米志許米岐穢國而在祁理故吾者爲御身之禊而。到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而。禊祓也。
 訳は、『ここをもちて伊邪那伎大神詔りたまひしく、「吾はいなしこめしこめき穢き國に到りてありけり。故、吾は御身の禊ぎ為む。」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき。』
 古事記には、このように表現したところがいっぱいあります。当時は、どこでも地名があったわけではありません。稗田阿礼は訪れたところに地名がないときは、その辺りの様子を書きました。」
2 私見
(1)田村誠一氏の言う「伊邪那岐は竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき」とは鳥取県北栄町の原集落であっった。
 根堅洲国は倉吉、葦原中津国は北栄町大島の周辺であることが明らかになったので、黄泉比良坂は倉吉と北栄町の間になければならない。
 黄泉比良坂とは、「黄泉(黄泉国)と津(葦原中津国)とを結ぶ平坂線」というような意味と思います。
 県道23号線(倉吉ー由良線)は難読地名である不入岡(フニオカ)や上神(カズワ)の横を通っているし、なだらかな坂になっている。
 もし、黄泉比良坂を特定せよ、と言われたら、県道23号線に沿った道路と思われる。
 遺跡発掘報告書は、遺跡の分布状況から、古代は倉吉市上神から蜘ヶ家山を通り北栄町原集落に至る道路があり、古代の幹線道路だったのではないか、とする。県道23号線は当時、汽水湖であった穴沢を通るので幹線道路は上神から蜘ヶ家山に上がって北栄町原に至っていたと思われる。

(2) また、紀元前200年頃にはヨミの国はあったと思われる。それを中国の黄泉という字を当てはめたのは、太安万侶であろうか。私は、これも百済史官ではないかと思う。中国文化に詳しい百済史官の書き換えだと思っています。(山上憶良は702年の遣唐使に同行して中国に行っている)。だから、黄泉(死の世界)と意味ありげな漢字にまどわされないで伝染病の収容所はあるが普通の国であった。根堅州国は稗田阿礼がその国の地形を表して言った造語でありヨミの国という呼び方が紀元前200年頃には通用していたものと思われる。
(3) 古事記は、712年に完成し、その後、歴史上から消えてしまう。812年に見つかったことが「弘仁私記」に記されている。その後、又、消えてしまい、現在は真福寺本という写本が残っている。書いた人は、藤原朝臣在判で、1263年のことであった。この人が書き換えた可能性もある。
 あるいは、451年の間、藤原氏のもとに在ったのだから、藤原氏20代にわたって、「辻褄が合う(整合する)ように書き換えよ」という言い伝えがあったのかもしれない。