1 368年、百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済にいる民人を連れて帰化したいけれども百済が邪魔をして任那から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を任那に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。
※ 私見
おそらく襲津彦(応神天皇)は高句麗か百済に捕らえられていたと思われる。
370年、天皇は襲津彦が帰国しないのは百済が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰と的戸田宿禰に精兵を授けて任那(慶尚南道にあった)に派遣した。百済王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に来た。
371年に倭国は高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる(三国史記)。
372年(百済か高句麗)人が新羅の一礼部に来たり、集落に放火し、千人を捕虜にして立ち去った(三国史記)。
377年(百済か高句麗)兵が新羅の沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、(百済か高句麗)軍が攻略した(三国史記)。
379年、(百済か高句麗)兵が新羅の長峯城を攻略した(三国史記)。また、新羅の沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、(百済か高句麗)に備えたという。
※ 私見
倭国が新羅に船で行くならば、対馬海流によって新羅南部に到着する。慶尚北道を攻撃するのは倭国ではなく、百済か高句麗と思われる。
382年、倭国は沙至比跪(襲津彦)を遣わして百済を討たせようとしたが、百済は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって任那を討ってしまった。
※ 私見
沙至比跪(襲津彦)は権力者(天皇)であったからこそ百済は六韜に従って美女二人を送った。中大兄王子と鎌足も天武天皇に美女二人を送った。この頃から391年まで新羅は高句麗に侵略されていた(三国遺事)。
391年 倭軍が百済、新羅(高句麗に占領されていた)を破り、高句麗と戦う(広開土王碑)。
393年 (百済か高句麗)が新羅に攻めてきて金城を包囲し、五日間、囲みをとかなかった。
(1)日本学会の通説
そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が391年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、倭の臣民となしてしまった。
(2)396年百済は高句麗に生口を献上している。好太王は漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた(高句麗本紀)。
(3)399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
(4)400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
(5)404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
(6)407年、高句麗は百済へ出兵して6城を奪った。
※ 私見
倭国軍(履中天皇)は414年までに高句麗の好太王(広開土王)を現在の北朝鮮と中国の国境付近まで後退させて攻め込んでいる。中国に倭国軍が半島奥深くまで侵攻してきたことが伝わっていたはずである。これを知った中国は倭国を警戒し、高句麗と百済を倭国に対する防波堤にすることを始めた。しかし、真実は倭国は中国皇帝に対し朝貢をするためのルートを確保したいだけであった。中国は勘違いをし、その後、高句麗・百済を支援するようになった。
(1)高句麗と百済
413年、高句麗は、「璉為二使持節都督営州諸軍事征東将軍高句驪王・楽浪公」。
416年、百済は「以二百済王余映一為二使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」。
420年「進号二〔百済王〕鎮東大将軍」を受けた。
425年、太祖詔之曰「皇帝問二使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百濟王…」
(2)倭国
421年、詔曰「倭賛萬里修レ貢、遠誠宜甄、可レ賜レ除授。」
425年、賛又遣二司馬曹達一、奉表献二方物。賛死。
※ 私見
賛は中国の皇帝に将軍の位を求めたが除授されることはなかった。
(3)438年 弟珍立、遣二使貢献。 自称 二使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭國王。表求二除正。 詔レ除二 安東将軍倭國王。
珍又求レ除二-正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國将軍号。詔二並聴。
※ 私見
珍は百済を含むことを自称したが除授されたのは百済より格下の安東将軍であった。
(4)443年、倭國王済遣二使奉獻。 復以為二安東将軍倭國王。
451年、加二使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東将軍一如故。 并除所レ上二十三人軍、郡。 済死。 世子興遣二使貢献。
※ 私見
済は百済を外した6国の安東将軍に除授された。
(5)462年、詔曰 「倭王世子興、奕世載レ忠、作二?外-海、稟化寧レ境、恭修二貢職。新嗣二辺業、 宜授二爵号、可二安東将軍倭國王。」
※ 私見
興は安東将軍を除授された。6国が外されているので降格か。
(6)興死。 弟武立。 自称二使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大将軍倭國王。
※ 私見
武は6国の安東大将軍に除授された。百済と並んで、始めて「大」を付けてもらった。
502年、梁は倭王武に征東大将軍に進号しているが、この時倭王武はすでに亡くなっていたと思われる。
梁の初代皇帝蕭衍は、即位早々に倭王武・百済王余大を、共に「鎮東大将軍」から「征東大将軍」に進号する。 結局、三韓地域は分割し、それぞれ倭と百済に与えることによって、互いに牽制させるのが宋の外交政策の基本で、梁もそれを継承したと思われる。
(1)わが国(累代倭国王として冊封されてきたこの国)は、(中国から)はるか遠くにあって、外夷に対する天子の藩屏になっています。
わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏み越え、席を温める暇もなく戦ってきました。東方の毛人を征すること55国、西方の衆夷を服すること66国、海を渡って北方(朝鮮半島)を平らげる95国にものぼりました。
王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)しかも歴代の倭王は、宗主(中国の天子)のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えることはありませんでした。
(2)私はたいへん愚かな者ではありますが、かたじけなくも先王から王位を継ぎました。
支配下の国々を馬を駆って率い天子のもとでの秩序に従い、百済からなおはるかな道のりゆえ、いつでも出撃できるように軍船を準備しておりました。しかるに、高句麗は、道理をわきまえず半島を呑み尽くすことを欲し、辺地の民を掠め、殺害することをやめようとしません。(わが使者を天子のもとに遣わす)たびに、途中で(高句麗に)押し止められ、良風(年限を違えず朝貢する美風)を失っています。海路を進むことがあっても、あるいは通じ、あるいは通じえないありさまです。
(3)私のなき父の済は、(高句麗が)入朝の海路をふさいでいるのをいきどおり、戦備を整えた100万にものぼる兵士たちも正義の声に感激し、大挙出征しようとしていましたが、そのとき、にわかに父(済)と兄(興)とを喪い、まさに成就しようとしていた高句麗遠征の成功も水泡に帰してしまいました。(私は)諒闇(君主が服喪する部屋)にこもって、軍隊を動かせず、これゆえにいたずらに安息して、いまだに(高句麗に)勝利していません。
(4)わたしの代になって、甲を練り兵を治め、無念の中に亡くなった父兄の志を遂げようと思っています。節義ある人士も勇猛なる軍隊も、文官も武官も功を立て、白刃が眼前に交わろうとも顧みはしません。もし皇帝の四海を覆う御徳により、この強敵(高句麗)を打ち砕き、わが国難を除いて太平をもたらしていただけるならば、歴代天子への忠誠をかえることはないでしょう。
私はひそかにみずから開府・儀同・三司を仮称し、その余(の官爵)もみな仮授して、忠節に励んでいます。
5 私見
(1) 宋書蛮夷伝の武(雄略天皇)の 478年遣使の際の上表文には「わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏み越え、席を温める暇もなく戦ってきました。東は毛人 55国を征し、西は衆夷 66国を服す。渡りては海北 95国を平ぐ云々」とあって、ヤマト朝廷の国土統一、半島遠征の状況過程を伝えている。
また「王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)しかも歴代の倭王は、宗主(中国の天子)のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えることはありませんでした」とある。
始皇帝は徐福(天照大御神)に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じていた。倭国の始祖である徐福(天照大御神)は始皇帝に忠実であり、その子孫も中国皇帝に朝貢していた。
(2) 倭国は初代神武天皇の時から10代崇神天皇が国内の準王一族を平定するまで、また、15代からも高句麗・百済と戦ってきた。蘇我稲目天皇の頃まで、倭王自ら前線に立っていたようである。15代応神天皇も例外ではなく、自ら朝鮮半島に出向いて3年間百済の捕虜となっている。百済は美女二人を権力者(天皇)の葛城襲津彦に差し出しているから、すでに六韜に従って行動していたと思われる。鎌足と中大兄王子も天武天皇に美女二人を差し出している。葛城襲津彦は天皇であった。
継体天皇の期間の倭国王は朝鮮半島で亡くなったことが日本書紀に記されているが、それから倭国は任那(全羅南道)に強力な軍隊を置き、倭王自らは前線に立たないようにしたようである。百済は六韜に基づいて行動していたから、倭国は百済を味方と思っていたようである。しかし大蛇や蜂のように牙をむき出す事があった。百済は倭国が中国に行くのに百済を通らせていたようである。しかし、旅人を犯すこともあった。六韜の12の作戦の最後は軍事行動であった。倭国は百済の六韜に基づく行動に騙され百済を味方だと思い倭国の属国であることを中国に認めさせようとしている。しかし、百済は倭国より早く、416年「鎮東将軍百済王」、420年「鎮東大将軍」、 425年「鎮東大将軍」を受けており中国から見て立派な防波堤であった。同じ年、倭王賛も将軍号を求めるが中国は倭王賛に将軍号を与えていない。中国は百済は倭国と同等あるいはそれ以上であり、倭国の傘下にはない独立国として扱っていた。
(3) 502年には梁から倭王武は百済王余大と並んで征東大将軍にそれぞれ将軍号を進められたが百済王に余大はいない。これらの進号は梁王朝の創立時の祝賀的任官と考えられる。したがってこれらの任官をもとにして武の在位期間を考えることはできない。
倭王武(雄略天皇)の没年は何時であろうか。雄略天皇崩:甲午年(489年)という説がありこれが正しいと思われる(古事記)。
479年は百済の三斤王の没年である。百済は、475年に滅亡しているという説があるが、百済は滅亡していない。百済は全羅南道の任那も滅ぼし、日本書紀にはその時占領した任那を任那日本府と記載した。475年に滅亡したのは新羅である。累卵の危うきにあった国は新羅であった。雄略天皇が復興したのは新羅である。雄略天皇は新羅を復興し、百済を攻撃して479年に百済の三斤王は戦死した。三斤王は日本書紀では押磐皇子として記載されており仁賢・顕宗の父であった。雄略天皇は479年に高句麗も打ち破った。慌てたのは高句麗・百済を防波堤にしていた中国である。高句麗・百済に六韜を教え軍備を整えさせて倭国を攻撃させた。清寧天皇から安康天皇までは平均在位期間が短いため倭国の数天皇は戦死している。雄略天皇は高句麗まで打ち破ったとするのがその後の歴史につながる。雄略天皇は中国に朝貢するために高句麗を打ち破ったが、中国にはそれが脅威に映った。倭国天皇は百済・高句麗のバックに中国がいることを知らなかった。百済・高句麗は北部に後退していたが、中国にはっぱをかけられ6世紀前半には百済は攻勢を仕掛けてきた。全羅南道の任那を滅ぼし、540年には新羅の法興王も殺害した。
5世紀の倭国王の対中交渉は武の遣使を最後にして史上から姿を消した。ニッポニカによると「その理由はかならずしも明らかではないが、一つには倭国王が対中交渉の限界に気づいたことにある」とする。22代から27代までの平均在位年数は9.4年であり、短い。おそらく朝鮮半島での高句麗・百済との戦いで倭国の数天皇は命を落としたと思われる。
(4) 現在の中華人民共和国は北は蒙古自治区、ウイグル自治区、西はチベット自治区、東は北朝鮮(高句麗)などを防波堤にしている。この中国の防衛体制は、5世紀も同じであったと思われる。
5世紀には周辺各国に将軍の称号を与えた。将軍の称号には格があり、 「鎮東」「征東」も「安東」と言葉の意味は同じだが、安→鎮→征の順にランクアップする。「将軍→大将軍」のランクアップもあるから、全部で6階級ということになる。
502年には、高句麗に「 車騎将軍、高句驪王高雲進号二車騎大将軍」、百済に「 鎮東大将軍、百済王余大進号二征東大将軍」、宕昌に「 安西将軍、宕昌王梁弥進号二鎮西将軍」、倭に「 鎮東大将軍、倭王武進号二征東大将軍」、河南に「 鎮西将軍、河南王吐谷渾休留代進号二征西将軍」の称号を与えた。高句麗だけは別格であった。中国から近い順に強い防波堤の意味を込めて上の称号を与えたと思われる。
(5) 百済は強いほうについたようである。雄略の在位中は倭国についたようである。しかし、倭国は騙されていた。百済は雄略が亡くなってから高句麗に付き、任那への侵略を始めた。
全羅南道における前方後円墳は5世紀末頃から6世紀前半の古墳である。日本書紀に任那日本府と書かれている時代である。540年には新羅の法興王も殺害された。その後も全羅南道に前方後円墳を造っているので、全羅南道の任那の地を再び倭国が取り戻したと思われる。
倭王の5人とも、自称の6国の中に高句麗を入れていない。武(雄略天皇)も高句麗を強敵としているくらいだから当然と思われる。
新羅は倭国と兄弟国であり、そのことは百済も、高句麗も、中国も知っていたから倭国の傘下に入っている。どの国も、そのことについて異論はなかった。旧唐書倭国伝には「倭国の婦人衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている」とある。
倭は「古の倭奴国なり。新羅(統一新羅の中心)の東南(鳥取県中部)に在り、大海(日本海)の中(対岸)で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏」とある。宋書倭国伝(倭の五王)には「倭国は高句麗(高句麗の中心)の東南、大海(日本海)の中(対岸=鳥取県中部)にあり、世々貢職を修む」とある。「義楚六帖」(954年)に「倭国、在東海(日本海)中(対岸)。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とある。秦の時代、徐福は倭国に止まった。倭国は東海(日本海)の海中(沿岸)にあった。倭国は鳥取県中部であった。
さらに「日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て、名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。」とある。初めて「日本国からの使者」を名乗った人物は、中国から疑われた。「倭国の別種」とは、「倭国にあるが倭人の国ではない」という意味である。
ついで「新唐書」の日本国伝にも、「咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。」とある。日本という国号は近江に逃げていた天智(豊璋)が669年に立案しているので、亡命百済王朝による遣唐使は673年までの間に行われている。
中国皇帝に対して倭国(鳥取県中部)王はへりくだるが日本の使者は態度が横柄であった。
(1) 雄略天皇「私はたいへん愚かな者ですが、かたじけなくも先王から王位を継ぎ、支配下の国々を馬を駆って率い、天子のもとでの秩序に従い、百済からなおはるかな道のりゆえ、航海の準備もおこたらなかったのです。」(宋書蛮夷伝)
蘇我馬子天皇「私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。」(隋書倭国伝)
(2) 日本からの使者は態度が横柄であった(旧唐書倭国伝日本伝)
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている」とある。
(3) 雄略天皇と蘇我馬子天皇の必要以上のへりくだり方は今の鳥取県中部の年配者の人柄とよく似ている。このことからも倭国は鳥取県中部にあったことが判る。
日本からの使者の横柄な態度は公家(藤原氏)の意見によって派遣された横浜鎖港談判使節団(1864年)の池田長発の写真を見ればわかる。この日本の横柄な態度は戦前まで続いていた。国際連盟の脱退なども横柄な態度の現れであった。
(4) 徐福は中国皇帝を表面上は立てていたから、その子孫の歴代倭国王も中国皇帝に朝貢していた。中国は日本国からの使者に対し、数百年の間朝貢してきた倭国王との連続性に疑問を抱いた。「日本国と名乗り倭国と連続していない」と思ったらしいことが旧唐書倭国日本伝に現われている。日本国の使者は亡命百済人が倭国を乗っ取って日本国と名乗ったのだとは言わなかった。しかし、態度が横柄であったため、中国皇帝の理解を得ることはできなかった。