「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

倭の五王の時代の朝鮮半島情勢について

2018-07-31 17:20:01 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
藤原氏は百済と新羅を入れ替えているので百済と新羅を元に戻して再現しています。
1 368年、百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済にいる民人を連れて帰化したいけれども百済が邪魔をして任那から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を任那に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。
※ 私見 
 おそらく襲津彦(応神天皇)は高句麗か百済に捕らえられていたと思われる。
370年、天皇は襲津彦が帰国しないのは百済が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰と的戸田宿禰に精兵を授けて任那(慶尚南道にあった)に派遣した。百済王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に来た。
371年に倭国は高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる(三国史記)。
372年(百済か高句麗)人が新羅の一礼部に来たり、集落に放火し、千人を捕虜にして立ち去った(三国史記)。
377年(百済か高句麗)兵が新羅の沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、(百済か高句麗)軍が攻略した(三国史記)。
379年、(百済か高句麗)兵が新羅の長峯城を攻略した(三国史記)。また、新羅の沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、(百済か高句麗)に備えたという。
※ 私見
 倭国が新羅に船で行くならば、対馬海流によって新羅南部に到着する。慶尚北道を攻撃するのは倭国ではなく、百済か高句麗と思われる。
382年、倭国は沙至比跪(襲津彦)を遣わして百済を討たせようとしたが、百済は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって任那を討ってしまった。
※ 私見
 沙至比跪(襲津彦)は権力者(天皇)であったからこそ百済は六韜に従って美女二人を送った。中大兄王子と鎌足も天武天皇に美女二人を送った。この頃から391年まで新羅は高句麗に侵略されていた(三国遺事)。
391年 倭軍が百済、新羅(高句麗に占領されていた)を破り、高句麗と戦う(広開土王碑)。
393年 (百済か高句麗)が新羅に攻めてきて金城を包囲し、五日間、囲みをとかなかった。

2 好太王(広開土王)碑文(414年)
(1)日本学会の通説
 そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が391年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、倭の臣民となしてしまった。
(2)396年百済は高句麗に生口を献上している。好太王は漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた(高句麗本紀)。
(3)399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
(4)400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
(5)404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
(6)407年、高句麗は百済へ出兵して6城を奪った。
※ 私見
 倭国軍(履中天皇)は414年までに高句麗の好太王(広開土王)を現在の北朝鮮と中国の国境付近まで後退させて攻め込んでいる。中国に倭国軍が半島奥深くまで侵攻してきたことが伝わっていたはずである。これを知った中国は倭国を警戒し、高句麗と百済を倭国に対する防波堤にすることを始めた。しかし、真実は倭国は中国皇帝に対し朝貢をするためのルートを確保したいだけであった。中国は勘違いをし、その後、高句麗・百済を支援するようになった。

3 高句麗と百済は倭国よりも早く中国(宋)から将軍の称号を受けた。
(1)高句麗と百済
 413年、高句麗は、「璉為二使持節都督営州諸軍事征東将軍高句驪王・楽浪公」。
 416年、百済は「以二百済王余映一為二使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」。
 420年「進号二〔百済王〕鎮東大将軍」を受けた。
 425年、太祖詔之曰「皇帝問二使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百濟王…」
(2)倭国
 421年、詔曰「倭賛萬里修レ貢、遠誠宜甄、可レ賜レ除授。」
 425年、賛又遣二司馬曹達一、奉表献二方物。賛死。
※ 私見
 賛は中国の皇帝に将軍の位を求めたが除授されることはなかった。
(3)438年 弟珍立、遣二使貢献。 自称 二使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭國王。表求二除正。 詔レ除二 安東将軍倭國王。
珍又求レ除二-正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國将軍号。詔二並聴。
※ 私見
 珍は百済を含むことを自称したが除授されたのは百済より格下の安東将軍であった。
(4)443年、倭國王済遣二使奉獻。 復以為二安東将軍倭國王。
   451年、加二使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東将軍一如故。 并除所レ上二十三人軍、郡。 済死。 世子興遣二使貢献。
※ 私見
 済は百済を外した6国の安東将軍に除授された。
(5)462年、詔曰 「倭王世子興、奕世載レ忠、作二?外-海、稟化寧レ境、恭修二貢職。新嗣二辺業、 宜授二爵号、可二安東将軍倭國王。」
※ 私見
 興は安東将軍を除授された。6国が外されているので降格か。
(6)興死。 弟武立。 自称二使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大将軍倭國王。
※ 私見
 武は6国の安東大将軍に除授された。百済と並んで、始めて「大」を付けてもらった。
 502年、梁は倭王武に征東大将軍に進号しているが、この時倭王武はすでに亡くなっていたと思われる。
 梁の初代皇帝蕭衍は、即位早々に倭王武・百済王余大を、共に「鎮東大将軍」から「征東大将軍」に進号する。 結局、三韓地域は分割し、それぞれ倭と百済に与えることによって、互いに牽制させるのが宋の外交政策の基本で、梁もそれを継承したと思われる。

4 「宋書蛮夷伝」にある武の 478年遣使の際の上表文
(1)わが国(累代倭国王として冊封されてきたこの国)は、(中国から)はるか遠くにあって、外夷に対する天子の藩屏になっています。
 わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏み越え、席を温める暇もなく戦ってきました。東方の毛人を征すること55国、西方の衆夷を服すること66国、海を渡って北方(朝鮮半島)を平らげる95国にものぼりました。
 王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)しかも歴代の倭王は、宗主(中国の天子)のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えることはありませんでした。
(2)私はたいへん愚かな者ではありますが、かたじけなくも先王から王位を継ぎました。
 支配下の国々を馬を駆って率い天子のもとでの秩序に従い、百済からなおはるかな道のりゆえ、いつでも出撃できるように軍船を準備しておりました。しかるに、高句麗は、道理をわきまえず半島を呑み尽くすことを欲し、辺地の民を掠め、殺害することをやめようとしません。(わが使者を天子のもとに遣わす)たびに、途中で(高句麗に)押し止められ、良風(年限を違えず朝貢する美風)を失っています。海路を進むことがあっても、あるいは通じ、あるいは通じえないありさまです。
(3)私のなき父の済は、(高句麗が)入朝の海路をふさいでいるのをいきどおり、戦備を整えた100万にものぼる兵士たちも正義の声に感激し、大挙出征しようとしていましたが、そのとき、にわかに父(済)と兄(興)とを喪い、まさに成就しようとしていた高句麗遠征の成功も水泡に帰してしまいました。(私は)諒闇(君主が服喪する部屋)にこもって、軍隊を動かせず、これゆえにいたずらに安息して、いまだに(高句麗に)勝利していません。
(4)わたしの代になって、甲を練り兵を治め、無念の中に亡くなった父兄の志を遂げようと思っています。節義ある人士も勇猛なる軍隊も、文官も武官も功を立て、白刃が眼前に交わろうとも顧みはしません。もし皇帝の四海を覆う御徳により、この強敵(高句麗)を打ち砕き、わが国難を除いて太平をもたらしていただけるならば、歴代天子への忠誠をかえることはないでしょう。
 私はひそかにみずから開府・儀同・三司を仮称し、その余(の官爵)もみな仮授して、忠節に励んでいます。

5 私見
(1) 宋書蛮夷伝の武(雄略天皇)の 478年遣使の際の上表文には「わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏み越え、席を温める暇もなく戦ってきました。東は毛人 55国を征し、西は衆夷 66国を服す。渡りては海北 95国を平ぐ云々」とあって、ヤマト朝廷の国土統一、半島遠征の状況過程を伝えている。
 また「王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)しかも歴代の倭王は、宗主(中国の天子)のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えることはありませんでした」とある。
 始皇帝は徐福(天照大御神)に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じていた。倭国の始祖である徐福(天照大御神)は始皇帝に忠実であり、その子孫も中国皇帝に朝貢していた。
(2) 倭国は初代神武天皇の時から10代崇神天皇が国内の準王一族を平定するまで、また、15代からも高句麗・百済と戦ってきた。蘇我稲目天皇の頃まで、倭王自ら前線に立っていたようである。15代応神天皇も例外ではなく、自ら朝鮮半島に出向いて3年間百済の捕虜となっている。百済は美女二人を権力者(天皇)の葛城襲津彦に差し出しているから、すでに六韜に従って行動していたと思われる。鎌足と中大兄王子も天武天皇に美女二人を差し出している。葛城襲津彦は天皇であった。
 継体天皇の期間の倭国王は朝鮮半島で亡くなったことが日本書紀に記されているが、それから倭国は任那(全羅南道)に強力な軍隊を置き、倭王自らは前線に立たないようにしたようである。百済は六韜に基づいて行動していたから、倭国は百済を味方と思っていたようである。しかし大蛇や蜂のように牙をむき出す事があった。百済は倭国が中国に行くのに百済を通らせていたようである。しかし、旅人を犯すこともあった。六韜の12の作戦の最後は軍事行動であった。倭国は百済の六韜に基づく行動に騙され百済を味方だと思い倭国の属国であることを中国に認めさせようとしている。しかし、百済は倭国より早く、416年「鎮東将軍百済王」、420年「鎮東大将軍」、 425年「鎮東大将軍」を受けており中国から見て立派な防波堤であった。同じ年、倭王賛も将軍号を求めるが中国は倭王賛に将軍号を与えていない。中国は百済は倭国と同等あるいはそれ以上であり、倭国の傘下にはない独立国として扱っていた。
(3) 502年には梁から倭王武は百済王余大と並んで征東大将軍にそれぞれ将軍号を進められたが百済王に余大はいない。これらの進号は梁王朝の創立時の祝賀的任官と考えられる。したがってこれらの任官をもとにして武の在位期間を考えることはできない。
 倭王武(雄略天皇)の没年は何時であろうか。雄略天皇崩:甲午年(489年)という説がありこれが正しいと思われる(古事記)。
 479年は百済の三斤王の没年である。百済は、475年に滅亡しているという説があるが、百済は滅亡していない。百済は全羅南道の任那も滅ぼし、日本書紀にはその時占領した任那を任那日本府と記載した。475年に滅亡したのは新羅である。累卵の危うきにあった国は新羅であった。雄略天皇が復興したのは新羅である。雄略天皇は新羅を復興し、百済を攻撃して479年に百済の三斤王は戦死した。三斤王は日本書紀では押磐皇子として記載されており仁賢・顕宗の父であった。雄略天皇は479年に高句麗も打ち破った。慌てたのは高句麗・百済を防波堤にしていた中国である。高句麗・百済に六韜を教え軍備を整えさせて倭国を攻撃させた。清寧天皇から安康天皇までは平均在位期間が短いため倭国の数天皇は戦死している。雄略天皇は高句麗まで打ち破ったとするのがその後の歴史につながる。雄略天皇は中国に朝貢するために高句麗を打ち破ったが、中国にはそれが脅威に映った。倭国天皇は百済・高句麗のバックに中国がいることを知らなかった。百済・高句麗は北部に後退していたが、中国にはっぱをかけられ6世紀前半には百済は攻勢を仕掛けてきた。全羅南道の任那を滅ぼし、540年には新羅の法興王も殺害した。
 5世紀の倭国王の対中交渉は武の遣使を最後にして史上から姿を消した。ニッポニカによると「その理由はかならずしも明らかではないが、一つには倭国王が対中交渉の限界に気づいたことにある」とする。22代から27代までの平均在位年数は9.4年であり、短い。おそらく朝鮮半島での高句麗・百済との戦いで倭国の数天皇は命を落としたと思われる。
(4) 現在の中華人民共和国は北は蒙古自治区、ウイグル自治区、西はチベット自治区、東は北朝鮮(高句麗)などを防波堤にしている。この中国の防衛体制は、5世紀も同じであったと思われる。
 5世紀には周辺各国に将軍の称号を与えた。将軍の称号には格があり、 「鎮東」「征東」も「安東」と言葉の意味は同じだが、安→鎮→征の順にランクアップする。「将軍→大将軍」のランクアップもあるから、全部で6階級ということになる。
 502年には、高句麗に「 車騎将軍、高句驪王高雲進号二車騎大将軍」、百済に「 鎮東大将軍、百済王余大進号二征東大将軍」、宕昌に「 安西将軍、宕昌王梁弥進号二鎮西将軍」、倭に「 鎮東大将軍、倭王武進号二征東大将軍」、河南に「 鎮西将軍、河南王吐谷渾休留代進号二征西将軍」の称号を与えた。高句麗だけは別格であった。中国から近い順に強い防波堤の意味を込めて上の称号を与えたと思われる。
(5) 百済は強いほうについたようである。雄略の在位中は倭国についたようである。しかし、倭国は騙されていた。百済は雄略が亡くなってから高句麗に付き、任那への侵略を始めた。
 全羅南道における前方後円墳は5世紀末頃から6世紀前半の古墳である。日本書紀に任那日本府と書かれている時代である。540年には新羅の法興王も殺害された。その後も全羅南道に前方後円墳を造っているので、全羅南道の任那の地を再び倭国が取り戻したと思われる。
 倭王の5人とも、自称の6国の中に高句麗を入れていない。武(雄略天皇)も高句麗を強敵としているくらいだから当然と思われる。
 新羅は倭国と兄弟国であり、そのことは百済も、高句麗も、中国も知っていたから倭国の傘下に入っている。どの国も、そのことについて異論はなかった。旧唐書倭国伝には「倭国の婦人衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている」とある。

6 唐曾要(旧唐書)には倭国と日本(百済王朝)は別に書かれている。唐の時代(660年~734年)列島は二朝が並立していた。
 倭は「古の倭奴国なり。新羅(統一新羅の中心)の東南(鳥取県中部)に在り、大海(日本海)の中(対岸)で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏」とある。宋書倭国伝(倭の五王)には「倭国は高句麗(高句麗の中心)の東南、大海(日本海)の中(対岸=鳥取県中部)にあり、世々貢職を修む」とある。「義楚六帖」(954年)に「倭国、在東海(日本海)中(対岸)。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とある。秦の時代、徐福は倭国に止まった。倭国は東海(日本海)の海中(沿岸)にあった。倭国は鳥取県中部であった。
 さらに「日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て、名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。」とある。初めて「日本国からの使者」を名乗った人物は、中国から疑われた。「倭国の別種」とは、「倭国にあるが倭人の国ではない」という意味である。
 ついで「新唐書」の日本国伝にも、「咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。」とある。日本という国号は近江に逃げていた天智(豊璋)が669年に立案しているので、亡命百済王朝による遣唐使は673年までの間に行われている。

7 私見
 中国皇帝に対して倭国(鳥取県中部)王はへりくだるが日本の使者は態度が横柄であった。
(1) 雄略天皇「私はたいへん愚かな者ですが、かたじけなくも先王から王位を継ぎ、支配下の国々を馬を駆って率い、天子のもとでの秩序に従い、百済からなおはるかな道のりゆえ、航海の準備もおこたらなかったのです。」(宋書蛮夷伝)
 蘇我馬子天皇「私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。」(隋書倭国伝) 
(2) 日本からの使者は態度が横柄であった(旧唐書倭国伝日本伝)
 日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
 その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている」とある。
(3) 雄略天皇と蘇我馬子天皇の必要以上のへりくだり方は今の鳥取県中部の年配者の人柄とよく似ている。このことからも倭国は鳥取県中部にあったことが判る。
 日本からの使者の横柄な態度は公家(藤原氏)の意見によって派遣された横浜鎖港談判使節団(1864年)の池田長発の写真を見ればわかる。この日本の横柄な態度は戦前まで続いていた。国際連盟の脱退なども横柄な態度の現れであった。
(4) 徐福は中国皇帝を表面上は立てていたから、その子孫の歴代倭国王も中国皇帝に朝貢していた。中国は日本国からの使者に対し、数百年の間朝貢してきた倭国王との連続性に疑問を抱いた。「日本国と名乗り倭国と連続していない」と思ったらしいことが旧唐書倭国日本伝に現われている。日本国の使者は亡命百済人が倭国を乗っ取って日本国と名乗ったのだとは言わなかった。しかし、態度が横柄であったため、中国皇帝の理解を得ることはできなかった。
 

雄略天皇の皇居、長谷の山(打吹山)に行ってきました

2018-07-31 11:59:35 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
 案内板には「長谷寺はいつごろ建てられたかはっきりしない。縁起では養老5年(721年)に建てられた」とある。日本書紀が完成したのが720年であり、不比等が亡くなった年(720年)の翌年721年まで山上憶良はこの近くの伯耆国庁にいた。山上憶良が帰る年に長谷寺は建立されたことになっている。

1 葛城山から長谷の山の登り口までのルート
 原古事記には、「神は来目川を越えて長谷の山の登り口まで見送った」、と書いてあったはずである。日本書紀は来目川まで送ったことにした。

2 長谷寺の登り口(長谷の山の登り口)
 神は長谷の山の登り口まで見送った。
 長谷寺の登り口に中国自然歩道案内板がある。この山は「いのしし」が出る。
 途中で、火火出見命と神武天皇四兄弟がいた四王寺山(畝傍山)が見える。木がなければ全体が見える。
 打吹山の中腹にあるため登り口からかなり高いところにある。

 石段を数百段上がったところに長谷寺がある。
 長谷寺の内部です。
 

3  倉吉市打吹山
 雄略天皇が「何とも言えず美しい」といった長谷の山(打吹山)。打吹山の山体は、おもに流紋岩から成っている。この流紋岩は中生代白亜紀の火山活動によって形成された。周辺の山々の地層と独立しており、より古いものである。
 打吹天女伝説は、藤原氏によって広められたものと思われる。孝霊天皇の居た湯梨浜町宮内の下照姫伝説や崇神天皇の居た津山の中山神社の猿の伝説と同じであり、そこにいた天皇の伝承を隠すためである。

4  鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡は東郷池周辺であり、シキ(志幾・斯鬼)にある。このシキ(志幾・斯鬼)に大県主の鰹魚木をのせた家があった。雄略天皇は打吹山の長谷寺にあった皇居から東郷池周辺に来た。
 蘇我稲目天皇と同じように、雄略天皇はシキ(志幾・斯鬼)にも宮があった。

雄略天皇の皇居は鳥取県中部(伯耆国)にあった

2018-07-31 11:01:28 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
 第十二代天皇以降は伯耆国は関係ないと思っていたが、第十五代天皇や第二十一代天皇も伯耆国にいた。

1  古事記の「一言主」や日本書紀の「一事主」は原古事記にあった「事代主」を書換えたものである。
 日本書紀には「天皇は葛城山に狩りにおいでになった。突然長身の人が出現した。天皇はどちらの公でいらっしゃいますか、といわれた。背の高い人は、自分は一事主神である、といった。神は天皇を見送りされて、『来目川』までお越しになった。」とある。
 古事記には「天皇が葛城山に登った時に、やはり山に登る人々があった。向こうが答えて言うのに、私は葛城の一言主大神である、と言った。天皇が帰る時に、神は『長谷の山の登り口』のところまで見送ってくれた。」とある。
 原古事記には「事代主」と書いてあった。日本書紀では、一字を書換え、古事記では二字を書き換えた。倉吉市福庭の波波伎神社の由緒は極秘文書として藤原朝廷に提出しなかったため、諦めて記紀の事代主を一言主に書き換えたものと思われる。
 事代主は神武天皇のときから皇室に協力した神として、祀られていた。したがって、雄略天皇は恐れかしこんだ(古事記)のである。
 事代主は葛城山(蜘ヶ家山)の西の亀谷におり、国譲り後は葛城山(蜘ヶ家山)の東の福庭の奥に隠れ住んだ。生きていたら、葛城山(蜘ヶ家山)を歩いていてもおかしくない。雄略天皇は葛城山(蜘ヶ家山)で事代主の幻影を見たものと思われる。
 日本書紀では「神は葛城山(蜘ヶ家山)から来目川(国府川)までお越しになった」とある。来目川とは国府川のことである。来目川は神武天皇が論功行賞で畝傍山の西、川辺の地に大来目を居らせられた、とある「川」である。久米ヶ原の南の国府川と思われる。
 古事記では、「神は『長谷の山(打吹山)の登り口』のところまで見送ってくれた。」とある。長谷の山は倉吉市の打吹山である。打吹山の中腹に長谷寺がある。雄略天皇は「泊瀬の山は、体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は何とも言えず美しい。」と歌った(日本書紀)。「泊瀬」(日本書紀)は「長谷」(古事記)を書き替えたものである。打吹山は日本のピラミッドであると言う者がいるくらいに美しい。蜘ヶ家山(葛城山)から長谷寺の登り口(長谷の山の登り口)まで行く途中に、国府川(来目川)がある。

2  古事記・雄略・白い犬
 雄略天皇が出かけて国の中を眺望すると、屋根の上に高く鰹魚木をつけて作った家があった。雄略天皇は「あの鰹魚木をあげて屋根を作った家は、誰の家か?」と尋ねたので、側に仕えている者が「志幾の大県主の家でございます。」と答えた、とある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じであり東郷池周辺のことである。古事記・雄略・白い犬の舞台は東郷池周辺であった。

3  長瀬高浜遺跡出土の埴輪(鳥取県湯梨浜町羽合歴史民俗資料館にて) 
 左上の写真が埴輪群。右上の写真はSB40(出雲大社のモデル)で古墳時代の初めごろとしているが、この近くの天神川床遺跡から弥生土器が多く発掘されている。これは、SB40の遺構の上にあったものと解しているので、SB40(出雲大社のモデル)は弥生時代前期の遺構であると解する。
 入母屋式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃
 四注式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃

4  鳥取県文化財団調査報告書6 長瀬高浜遺跡4  第4章 研究ノート
  16K地区埴輪群について(抜粋)          清水真一
 調査して取り上げた埴輪の数は、円筒埴輪12個、朝顔型埴輪53個、蓋型埴輪9個、家型埴輪5個、盾型埴輪3個、甲冑型埴輪3個、鞆型埴輪1個、大刀型埴輪(?)1個などである。       
 家型埴輪は5個体で、四注造りのものが西側中央部端に位置し、東側には入母屋式が1棟おかれていた。この他に切妻式のものが1棟、小型の四注造りのものが1棟の他、松江市乎所埴輪窯出土の屋根に火焔状の飾りをのせたものに近い大型の家型埴輪片が1棟分あるが、破片はそう多くない。火焔状飾りをのせるもの1棟、竪魚木(かつおぎ)をのせるもの2棟がある。
 一体どんな祭りが行なわれたのであろうか。高浜遺跡を総括的にみると古墳時代前期後半(4世紀後半)~中期前半(5世紀前半)にかけて、120棟もの竪穴住居と25棟もの掘立柱建物の立っていた大集落だった。その後古墳時代中期中葉(5世紀中葉)~後期後半(6世紀後半)にかけて、前方後方墳1基を含めて古墳21基、小石棺墓・木棺墓・円筒埴輪棺墓12基の墳墓群が作られる。
 埴輪群はこの集落が移動し墳墓が築造される間、つまり古墳時代中期前半の終り頃に作られたとみられる。

5  家型埴輪は5個体で、火焔状飾りをのせるもの1棟、竪魚木(かつおぎ)をのせるもの2棟がある、とする。また、埴輪群はこの集落が移動し墳墓が築造される間、つまり古墳時代中期前半の終り(450年)頃に作られたとみられる、とする。

鳥取県北栄町米里(磐余邑)に、第17代履中天皇、第22代清寧天皇、第26代継体天皇の皇居はあるか  

2018-07-31 10:14:27 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

 磐余の地の旧名は、片居または片立という。神武天皇の時代は海抜4mに海面があったから、北栄町米里集落と島集落の地形は中央に池があり、片側に居るか、片側に立つことになる。だから、片居・片立と言っていた。奈良の磐余邑ではなぜ片居・片立といったのかの説明ができない。

1 北栄町米里集落に皇居の候補地は3ヵ所ある。一つ目は一の崎、二つ目は三の崎である。「二の崎はどこにあるのでしょう」と地元の人は言っていた。三つ目の候補地は「船渡」ではなく「大谷」である。

一の崎・三の崎は、丘陵地を囲むように民家が建っている。皇居はこの丘陵地にあった。

2 奈良の磐余邑の説明文に「履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています」とある。
 本当の磐余池は北栄町島集落の金繰溜池であった。池上の陵は島古墳群であった。5世紀・6世紀の古墳である。履中は5世紀の天皇である。一の崎の下を大(王)町という。一の崎にいたのは履中天皇である。


 「当社は一の崎峯に鎮座のところ、此の度下大町に改め整備し遷す。一の崎・大町・氏子一同」とある。もとは、一の崎峯の丘陵地にあった。ここでも大町の大は王と読める。反対説があるが、鳥取県中部では「王」を「大」に直している。

3 こちらを「三の崎」と言っていた。三の崎にいたのは継体天皇である。

 米里字三の崎には、嶌澤神社があった。大正2年に藤原氏の神社北条八幡神社に合祀され、分らないようにされている。姥ヶ谷にはどの天皇かの皇太后がいたと思われる。

4 「船渡」

 「船渡」と言う。土下山(鳥見の白庭山=天の香久山)の登り口である。水田の下は葦の層が厚く堆積していると言う。このあたりに船が来ていたのは、天孫降臨の頃、紀元前200年頃(海抜4m)である。

5 「大谷(王谷)」

 5軒ほどしかないが、「大谷」と言う。「大谷」に三天皇のうちの一天皇が居た。在位期間の短い天皇である。大谷にいたのは清寧天皇である。
 ここも天香具山の登り口である。

6 私見
 藤原氏は米里・島集落に何もなかったように消しているが、痕跡は残っている。935年統一新羅が滅んで危険が亡くなったので、京都から来た山田氏(検非違使をしていた)は北条(北の都=条里制)山田八幡神社を創り、田村一族(高句麗出身)も連れてきている。
 日本書紀は亡命百済人によって編纂されているため、百済王家の旧事が多く盛り込まれている。古事記もそれに合わせて改ざんしている。原古事記の文章も使っているが、それは日本が倭国を乗っ取ったことを判らないようにし、万世一系の皇統であることを作り上げる必要があったからである。
 日本書紀は無道な百済王の事績を武烈王の旧事としている。武烈王には子供がなかったので他所から継体に来てもらった、という筋書きであるが、武烈も継体の旧事も百済国での出来事である。したがって、継体の名も違う名であったが、ここでは継体としておく。

 

 


三天皇が皇居を置いた磐余とは鳥取県北栄町米里集落であった

2018-07-31 09:11:02 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
 三天皇が皇居を置いた磐余とはどこであろうか

1  磐余(伊波礼)を皇居とする天皇
 履中天皇 磐余稚桜宮(伊波礼若桜宮)(北栄町米里一ノ崎)
 清寧天皇 磐余甕栗宮(伊波礼甕栗宮)(北栄町米里大谷)
 継体天皇 磐余玉穂宮(伊波礼玉穂宮)(北栄町米里三ノ崎)
 継体天皇の皇統は途切れていないから皇居を転々と移してはいない。始めから磐余玉穂宮であった。

2  日本書紀・神武天皇では
 兄猾弟猾・において「また兄磯城の軍は磐余邑にあふれた。敵の拠点はみな要害の地である。それで道は絶え塞がれて通るべきところがない。・・・椎根津彦は神意を占って言うのに、わが君がよくこの国を定められるものならば、行く道が自らひらけ、もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう。と言い終って老人老婆のかたちで直ちに出かけた。・・・道が開け、天香具山の赤土を無事に取ってきて平瓦や、手抉、厳瓮などをつくった。」とある。
 長脛彦と金鵄・において、「磐余の地の元の名は、片居または片立という。皇軍が敵を破り、大軍が集まってその地に溢れたので磐余とした。またある人がいうのに『天皇がむかし厳瓮の供物を召上げられ、出陣して西片を討たれた。このとき磯城の八十タケルがそこに屯聚み(兵を集めて)した。天皇軍と大いに戦ったがついに滅ぼされた。それで名付けて磐余邑という』と」とある。

3  私見
 神武天皇が青銅器文化の一族を攻めて、皇軍があふれたから磐余(伊波礼)という、とある。これは、鳥取県中部に帰ってきてからの事柄だから、磐余は鳥取県中部にあった。天香具山は北栄町の土下山に比定したが、この山に上がるには北栄町米里集落を通らなければならない。
 天忍穂耳が国譲りの交渉に葦原中津国に降臨しようとしたときには葦原中津国は騒がしかった。この時すでに準王一族(天孫族に遅れること16年)は葦原中津国と豊葦原瑞穂国(磐余邑)に到着していたと思われる。大国主の兄である八十神は準王一族(出雲神族)と思われる(千賊山の案内板より)。大国主と準王一族(出雲神族)は葦原中津国と豊葦原瑞穂国(磐余邑)に一緒に住んでいた。饒速日命は長髄彦の妹と結婚し土下山(トミの白庭山=アメの香久山)に住んでいた。土下山(トミの白庭山=アメの香久山)の周辺には準王一族(出雲神族)がいたはずである。四王寺山(畝傍山)と土下山(トミの白庭山=アメの香久山)とは近いが棲み分けていたと思われる。準王一族(兄磯城)は国譲りで事代主と一緒に天神川の東に退いていたが神武天皇の時代になって土下山(トミの白庭山=アメの香久山)に帰って来ていたと思われる。準王一族(兄磯城)は神武四兄弟が留守の間に土下山(トミの白庭山=アメの香久山)周辺を占拠していた。
 青銅器文化の一族の兄磯城の八十タケルが米里集落に集まっていた。米里集落から銅鐸が発掘されている。当時米里集落の中央部は汽水池になっていたから「片立」であり「片居」であった。皇軍は米里集落の北の伊那佐山(茶臼山)に籠城していた。長髄彦は中洲(笠沙之御前の柄)の豪雄と呼ばれていた。青銅器文化の一族の兄磯城の八十タケルは天皇軍と戦ったがついに滅ぼされた。「不入岡」の地名は準王一族(出雲神族)に対する警告としてこの頃に付けられたと思われる。
 
 
 

日本書紀14代天皇から27代天皇までの概略

2018-07-31 06:05:22 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

1 仁徳と履中の期間は倭の五王讃一人であった。
 原古事記には仁徳天皇と履中天皇の在位期間の間に一人の天皇が記載されていた。この天皇を仮に讃天皇とすると、この天皇は応神天皇の王子であり、反正天皇の兄であり、皇居は磐余の稚桜宮にあった。古事記・日本書紀では14代天皇を創作したために、実在した14代仁徳天皇を16代にしなければならなかった。15代応神天皇は百済にとって大事な天皇であったので動かすことはしなかった。仁徳天皇は応神天皇の兄であるので普通は応神天皇の前である。仁徳天皇は14代、履中天皇は16代であった。
 このように解すると、倭の五王の讃(履中天皇)は394年から436年までの在位(宋書倭国伝)となり、珍の兄であり、皇居は磐余邑(北栄町米里)にあったことになり、矛盾がなくなる。また、武内宿禰が仁徳天皇(武内宿禰の皇子)に仕えたとしても武内宿禰の年齢が220歳~360歳になることはない。日本書紀の仁徳天皇と履中天皇の期間は一人の天皇であり、倭の五王の讃であり、履中天皇であった。


2 反正は倭の五王珍に比定されるが、改ざんされている。
 古事記によると反正の在位期間は432年~437年(5年間)であるが、宋書倭国伝の讃の没年は436年であり、珍の元年は436年となる。古事記の反正は437年没となる。
 反正は実在であろうが、淡路島(藤原氏の聖地)で生まれ(日本書記)、身の丈は9尺2寸半(約二・八メートル)(古事記)、都は河内であり、讃の没年は436年(宋書倭国伝)が反正の没年437年(古事記)で在位1年、などは改ざんされていると思われる。原古事記にあった珍天皇は普通の身の丈であり在位は5年間とすると436年~441年の5年間であり、皇居は鳥取県中部(倭国)にあったはずである。


3 倭の五王済に比定される允恭も改ざんされている。日本書紀の在位は42年間としているが、宋書倭国伝では在位441年頃~454年の14年間である。允恭も応神天皇の王子としている(日本書紀)からは在位14年位が妥当である。日本書紀には皇居の記載はない。古事記には遠飛鳥の宮殿とある。稗田阿礼は場所を表現するのに特定しやすい表現をしているので、遠飛鳥の宮は稗田阿礼の表現ではない。日本書紀・衣通郎姫で藤原が6回使われている。藤原氏の祖は藤原鎌足(644年~)である。衣通郎姫の部分は百済(藤)王家の旧辞であると思われる。


4 倭の五王興に比定される安康天皇の在位は454年~467年頃(私見)で13年位である。日本書紀では3年で殺されている。古事記に在位期間を示すものはない。雄略天皇を凶暴な天皇にするために安康天皇は早い段階で殺されたことにした。実際は13年くらいと思われる。


5 倭の五王武に比定される雄略天皇は安康天皇の弟である。この点は「宋書」夷蛮伝と同じである。古事記では489年没とする。雄略天皇の在位は467年頃(私見)~489年と思われる。
 不比等たちは百済王家であった出来事を日本書紀の中に書き入れた。億計・弘計の発見物語もそのひとつである。そのために、雄略天皇の性格を凶暴にする必要があった。古事記・安康天皇の馬飼い牛飼いの話はその前段である。古事記における雄略はそれほど凶暴ではない。凶暴に描かれているのは日本書紀である。多くの人を殺したことにしている。


6 弘計・億計2王の発見物語は典型的な貴種流離譚であって、そのまま史実としては信じ難い。弘計・億計の話は百済国での出来事であり、亡命百済人たちは百済王家の歴史として、日本書紀に書き込んでいった。弟の弘計・兄の億計の話は列島には実在せず、2天皇の在位期間(15年)は、原古事記では倉吉市大原の石上広高宮を皇居とする1人の天皇が記録されていたはずである。
 百済人の山上「憶良」は侍医の百済人「憶仁」の子であるので、「億計」の名は百済人の名が連想される。顕宗天皇の近飛鳥八釣宮は架空の宮である。


7 第23代、第24代、第25代、第26代天皇は百済王家の王であり事績も百済であった出来事である。
 弘計や億計の話は百済国であった出来事である。億計の名前は亡命百済人の医師憶仁や山上憶良を連想させる。神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」という。祭りの中でも神楽のようなにぎやかな祭りは百済発祥である。逆に盆正月のような静かな祭りは新羅発祥である。弘計や億計の話は列島の地名をちりばめて、列島を舞台にした。その父を殺した雄略天皇を残虐な天皇にする必要があった。
 雄略の旧辞は証明できる部分があるので、原古事記にあった旧辞を使っている。ただし、一言主は事代主と書いてあったのを改ざんしている。雄略は実在の倭国天皇(倭王武)である。雄略も倭国の天皇なので、無駄な殺生はしない天皇であった。わずかなことで人を殺すような天皇に仕立て上げたのは、藤原氏である。
 藤原氏は無道な百済王(末多王)の事績を日本書紀の武烈の旧辞に持ってきている。武烈(末多王)のような事績を無道と言うのである。百済の国人は末多王を捨てて、武寧王を立てた。継体のモデルは武寧王と思われる。
 23代天皇~26代天皇の旧辞と名は百済王の旧辞と名である。日本書紀第23代第24代の期間、倭国では1人の天皇であった。石上広高宮(倉吉市大原)に皇居があった1人の天皇の在位期間を2人に分けた。


8 宣化天皇はおらず蘇我稲目天皇(536年即位)であった。
 第28代宣化のときにはすでに蘇我稲目が天皇(大王)であった。日本書紀・宣化・那津官家の整備・において、詔して「・・・・。蘇我大臣(大王)稲目宿禰は、尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の籾を運ばせよ。・・・・早く郡県に下令して、私の心を知らしめよ」と仰せられた、とある。大臣とあるが詔したのは蘇我稲目天皇(大王)であると思われ、すでに天皇(大王)であった。


9 雄略天皇は在位467年~489年と思われるので489年(雄略天皇没)から536年(蘇我稲目天皇即位)までの47年の間に5人の天皇が即位している。一人平均9.4年であり、短い。これはそれまで倭国天皇は戦争の最前線に立つことが習わしであったので、半島で戦死したと思われる。ただ、蘇我氏からはその習わしを変えたようである。


10 おそらく、反正(在位436年~441年)、允恭(在位441年頃~454年)安康(在位454年~467年頃)は、高句麗・百済との戦いで戦死し新羅は累卵の危うきにあった。雄略天皇が復興した国は百済ではなく、新羅である。反正、允恭、安康は高句麗・百済にさんざんに負けており、戦死したのかもしれない(宋書蛮夷伝・武の上表文より)。百済は新羅を滅ぼし、新羅から倭国まで船で来て襲ったのかもしれない。長瀬高浜遺跡の多くの埴輪が壊されたのも5世紀中頃であるし、つづらさわまきの鉄刀と一緒に見つかった女性が亡くなったのも5世紀中頃である。反正、允恭に至っては名前もおかしいし、亡命百済王朝(日本)によって皇居の所在地のヒントも残らないくらい自由奔放に書かれているので高句麗・百済によって完膚無き迄にやられたと思われる。亡命百済王朝(日本)はその時の倭国天皇を覚えているので完全に書き換えたと思われる。


第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった

2018-07-30 15:02:26 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1  日本書紀・応神・弓月君・阿直岐・王仁・において「大和の軽の坂上の厩」を倉吉市馬場町に比定したが、応神天皇の皇居の軽島之明宮は何処であったか。
 軽と言いながら、島がついているので、天香具山を越えた北栄町島と迷っていたが、北栄町島は蘇我馬子の磐余池辺雙槻宮があったことがほぼ確実であるので応神天皇の軽島之明宮は北栄町島ではない。

2 小田、古川沢の交差点にて
 まっすぐ行くと、坂(軽の坂)がある。その坂の上(山側)に倉吉市馬場町(軽の坂上の厩)がある。反対側(海側)には穴窪集落がある。

3  鳥取県中部の空撮
 軽の坂上の厩は倉吉市馬場町にあった。応神天皇の原古事記の旧辞において、馬に関することは百済ではなく、新羅と書いてあった。その時の応神天皇の皇居はどこにあったのだろうか。

4 軽島之明宮は倉吉市穴窪集落かもしれない。第4代・第8代の居た小田集落の北になるが、南に軽之坂があるし北側も軽地域と思われるので軽島之明宮は倉吉市穴窪の可能性がある。
 海抜4mに海面があった時代(紀元前200年頃)、穴窪集落は島であったと推測される。「島之明」が意味するところは「以前は島であったがその後(354年頃)陸地になった」を意味するものと思われる。現在は穴窪とその周辺との高低差がないが、その時(354年頃)はまだ周辺との高低差はあったはずである。しかし、その後、明暦3年(1657年)に、石山を取り除き、天神川の流れを北に真っすぐに変えるまで、何度も洪水による土砂が北条平野を埋めていった。その都度、穴窪集落と周辺の高低差がなくなっていったものと思われる。 
 現在、海抜4mに海面があった地形を見ても軽の地域に島が見いだせない。穴窪の周辺は度重なる洪水で高くなって、高低差がなくなっている。洪水がなければ穴窪集落の周辺は青い水の表示となり、島が現れたものと思われる。 

5 穴窪神社の祭神は譽田別尊(応神天皇)だけである。
 由緒などは明治維新に改ざんさせられているのですべてを信用することはできないが、明治維新までは「正八幡宮と称していた」というのは信用できるかもしれない。
 また、「維新の際焼尽し」とあるが「藤原氏(明治政府)の威圧で維新の際、焼尽させられた」のではないだろうか。伯耆国では時の権力によって維新前に神社調査なるものが行われている。伯耆国がうるさかった(怒る)理由はここ(神社調査後の結果)にもあった。
 神功皇后や仲哀が祭神になっていない点も軽島之明宮の有力候補である。

日本書紀応神の軽の坂上に造られた厩は倉吉市馬場町にあった

2018-07-30 12:47:25 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1 軽とは倉吉市の上北条地域であった。

 小田集落の案内板です。右の地図と比較します。

 第4代懿徳天皇の皇居は軽之境岡宮であり第8代孝元天皇の皇居は軽之堺原宮である。
どちらも倉吉市小田集落にあった。東に河内国があり天神川は軽と河内国の境にあった。
 小田集落の西に坂がありその坂を山側(南側)に行くと馬場町に出る。

 小田集落です。

 小田集落の西の坂です。この先に馬場町がある。

 坂の山側の馬場町

 いなさ山から下に伸びるのは笠沙之御前の柄(中州)です。両サイドが海であったので、天橋立のようになっていた。天神川の支流を斜めに造ったり、度重なる天神川の洪水で北条平野は土砂で埋まり周辺が高くなっているが痕跡は留めている。先代旧事本紀には「長髄彦は中州の豪雄」とある。
 この地では北の海側を下(シモ)、南の山側を上(カミ)と言います。山側(南側)に上神(かずわ)集落。海側(北側)に下神(しもつわ)集落があります。下種・上種や下光好・上光好や下浅津・上浅津や下神・上神や下古川・上古川などはその例である。
 馬場町が軽の坂の上(カミ)にあることがわかりました。ここに厩があった。今は馬場町という地名になっている。蘇我善徳(厩戸の御子)はここで生まれた。

2 日本書紀・応神天皇において「百済王は阿直岐を遣わして、良馬2匹を奉った。それを大和の軽の坂上の厩で飼わせた。その馬飼いをしたところを厩坂という」とある。
 また神功皇后・新羅出兵に「新羅の王はいうのに今後は末長く服従して、馬飼いとなりましょう。船使いを絶やさず、春秋には馬を手入れする刷毛とか、鞭を奉りましょう」とある。
 古事記・軽島之明宮の段において「百済の国王、照古王は、牡の馬と牝の馬を、阿知吉師につけてよこした。また横刀と大鏡を貢った。また百済国に仰せて、もし賢人があれば奉れと言った。すると和邇吉師という人を奉ってきた。そのとき、論語十巻、千字文一巻、合わせて十一巻をこの人につけて貢進してきた」とある。
 新羅の古墳から馬具が出土する。国内でも新羅系の馬具が各地の古墳から出土する。古代、馬といえば新羅であり百済と馬はつながらない。牡の馬と牝の馬を奉ったのは、百済王ではなく新羅王であった。
 百済人は略奪に喜びを感じる扶余族である。三国志魏書・高句麗伝に「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」とある。強奪は人・物・金品だけではなく、名前・系譜・歴史も略奪した。百済は新羅が倭国に馬2頭を奉った歴史を乗っ取った。これは乗っ取りのほんの一例である。古事記・日本書紀には百済による新羅の歴史の乗っ取りがこの千倍ある。
 王仁(ワニ)氏(綿津見族)は山幸彦を新羅から倭に送り届けた海神族であり慶州近くの港にいたはずである。百済ではなく新羅である。和邇(ワニ)氏の字を変えて百済にいたことにしている。だから阿直岐も新羅である。ここまで改ざんしているとは思わなかった。略奪集団の扶余族(百済人)は人・物だけでなく系譜・名前・歴史までも乗っ取る。新羅の歴史を百済は乗っ取った一例である。
 古事記も公表する660年の間に日本書紀に合うように、日本書紀の「百済王」をより詳しく「百済の国王照古王」に書き換えている。もとの倭国歴史書原本は「新羅王」と書いてあった。その前に書いてある池も新羅が作った池だから倭国歴史書原本には新羅の池と書いてあった。それを百済の池にしている。和邇はワニと読めるが、王仁はワニとは読めない。王仁の字は(藤原氏)百済人が考えた当て字である。
 

第14代仁徳天皇と第15代応神天皇の皇居

2018-07-30 10:53:49 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1 仁徳天皇は平群木菟宿禰であり、応神天皇は葛城長江襲津彦であった。
 13代成務天皇はおらず、13代は武内宿禰大臣(大王)であった(生年月日が同じであるとするため)。14代は仁徳天皇であり武内宿禰大臣(大王)の4男の平群木菟宿禰であった(生年月日が同じであるとするため)。仁徳天皇を16代にもってくるから、仁徳天皇に仕えたとする武内宿禰が220年も生きた(水鏡)という矛盾がおきるのである。4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)は父の13代天皇の次の14代天皇であった。
 仁徳天皇は鷦鷯=佐々木という説があり、美佐々伎命は大鷦鷯尊であり武内宿禰大臣(大王)の4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)であるとする。仁徳天皇は伯耆国では5社に祀られている。(昭和9年鳥取県神社誌による)
 落合神社 西伯郡法勝寺村大字落合 祭神 大鷦鷯命。藤森神社 日野郡黒坂村大字黒坂 祭神 大鷦命。吉原神社 日野郡日光村大字吉原 祭神 美佐々伎命。山口神社 日野郡日光村大字杼原 祭神 美佐々伎命。大瀧神社 日野郡日光村大字大瀧 祭神 美佐々伎命。
 皇居は難波(東郷池)高津宮である。湯梨浜町の松崎神社と思われる。高いところにあるし、陽光が水面に反射してキラキラと輝く情景が見える。

2 武内宿禰の4男が14代天皇なので15代天皇は武内宿禰の6男の葛城長江襲津彦と思われる。応神天皇の在位期間(354年~394年)に葛城長江襲津彦は朝鮮半島に渡っていた。百済(日本)は葛城長江襲津彦を捕らえ3年間人質にしていた(382年)ので葛城長江襲津彦のことはよく知っていた。百済(日本)は倭国を乗っ取ってから、応神天皇を八幡神社の祭神にした。15代応神天皇は6男の葛城長江襲津彦と思われる。誉田別は伯耆国の神社では八幡神社ではなく単独で祀られている神社が多い。390社中75社で祀られている。皇居は倉吉市穴窪(軽島之明宮)と湯梨浜町小鹿谷(難波大隅宮)にあったと思われる。
 応神天皇は葛城長江襲津彦であり、小鹿谷にも宮を置いていた。難波大隅宮は湯梨浜町小鹿谷と思われる。小鹿谷は宮を置いていたところであり、葛城は生まれたところである。
 13代武内宿禰大臣(大王)の皇居は葛城地域(蜘ヶ家山より西)にあったと思われる。私見では葛城山(蜘ヶ家山)の西麓の原集落と思われる。
 

古代史上最大の謎、第13代成務、第14代仲哀、第15代応神、第16代仁徳天皇(280年頃から394年頃まで)について

2018-07-30 10:00:10 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1 第23代、第24代、第25代、第26代天皇は百済王家の王であり事績も百済であった出来事である。
 弘計や億計の話は百済国であった出来事である。億計の名前は亡命百済人の医師憶仁や山上憶良を連想させる。神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」という。祭りの中でも神楽のようなにぎやかな祭りは百済発祥である。逆に盆正月のような静かな祭りは新羅発祥である。弘計や億計の話は列島の地名をちりばめて、列島を舞台にした。その父を殺した雄略天皇を残虐な天皇にする必要があった。
 雄略の旧辞は証明できる部分があるので、原古事記にあった旧辞を使っている。ただし、一言主は事代主と書いてあったのを改ざんしている。雄略は実在の倭国天皇(倭王武)である。雄略も倭国の天皇なので、無駄な殺生はしない天皇であった。わずかなことで人を殺すような天皇に仕立て上げたのは、藤原氏である。
 藤原氏は無道な百済王(末多王)の事績を日本書紀の武烈天皇の旧辞に持ってきている。武烈天皇(末多王)のような事績を無道と言うのである。百済の国人は末多王を捨てて、武寧王を立てた。継体天皇のモデルは武寧王である。
 23代天皇~26代天皇の旧辞と名は百済王の旧辞と名である。第23代と第24代は倭国では1人の天皇であった。石上広高宮(倉吉市大原)に皇居があった1人の天皇の在位期間を2人に分けた。
 
2 第13代、第14代、第15代、第16代
 日本書紀は百済王が倭国大王を下僕として(大臣として)使うという構成をとる。たとえば、蘇我氏である。蘇我氏は大王であったのに、日本書紀では大臣として書かれている。武内宿禰もその例であり、倭国大王であったが、大臣として百済王や百済の皇后に仕えたように書いた。神功皇后は新羅を敵対視しているから倭国の皇后ではなく百済の皇后として書かれている。ただしそのモデルは倭国女王の豊鋤入姫(台与)である。日本書紀には百済の皇后として神功皇后の段を設けた。神功皇后と第14代仲哀は百済の皇后と百済王である。史実と原古事記は仁徳天皇が第14代天皇であったが百済王の仲哀を第14代にしたので仁徳天皇を第16代にした。武内宿禰は実在の倭国の第13代の大王であるが、叔母の豊鋤入姫(台与)と行動を共にしていた。
 
3 武内宿禰と平群木菟宿禰と葛城襲津彦は倭国の大王であった。亡命百済人たちは蘇我氏と同じく倭国大王を百済王に仕える下僕として描いた。日本書紀は百済王家の歴史を記録したものという体裁である。
 第13代は武内宿禰大王である。日本書紀には「成務は、同日の生まれであることから武内宿禰を特に可愛がられた。」とある。在位は280年~320年頃である。
 第14代仁徳天皇(仲哀は架空天皇)は武内宿禰の四男・平群都久宿禰 (平群木菟宿禰)である。日本書紀には「仁徳天皇と同日に生まれ、飛び込んできた鳥の名を交換して各々の子に名づけた。」とある。在位は320年~354年頃である。
 第15代応神天皇は葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古)であった。武内宿禰(成務天皇)の六男であり事績が多く書いてある。在位は354年~394年頃である。
 藤原氏は崇りを鎮めるために、神功皇后(台与)を稚日女命(卑弥呼)を祀る神社の由緒に登場させて持ち上げている。
 
4 倭の五王の讃の在位期間は正しいと思われるので、仁徳と履中の期間は1人の天皇であった。これを履中天皇(讃天皇)とすると、第16代仁徳天皇(平群木菟宿禰)は別の時代の天皇であったことになる。
 仁徳天皇は原古事記では13代武内宿禰天皇の皇子として第14代天皇であったが、仲哀を創作し、仲哀を第14代に持ってきたため日本書紀では第16代に移動させた。史実と原古事記は仁徳天皇(竹内宿禰の第4子・平群都久宿禰)は第14代天皇であった。履中(讃)は応神の第1子であり、反正(珍)は応神の第3子であり、允恭(済)は応神の第4子である。
 
5 武内宿禰を祀っている宇部神社
 宇部神社が武内宿禰を祀っている理由は、鳥取市国府町が宿禰の終焉の地であるから、とする。武内宿禰の生誕地は木国(岡山県津山市)であり本拠地は鳥取県北栄町原であった。
 宇部神社本殿。一角獣の麒麟獅子舞が4月21日の例祭に奉納される。
 この本殿は、明治時代の武内宿禰の一円札・五円札の図柄になっている。
 この亀金の地に双履を残して昇天した、享年360歳とある。上述のように武内宿禰は第13代天皇であり少し長寿の普通の天皇であったと思われる。藤原氏は仁徳天皇(平群木菟)を第16代にし、武内宿禰は仁徳天皇に仕えた、と書いたためこのような結果となった。仁徳天皇は史実と原古事記では第14代であった。
 子供は、葛城襲津彦に見える。

6 鳥取県神社誌における武内宿禰(第十三代天皇)
 武内宿禰を祭神とする宇倍神社のある因幡国と伯耆国の神社数の差に注目すべし(鳥取県神社誌)
 因幡国六社
 1宇倍神社 岩美郡宇倍野村 2高良神社 八頭郡八東村 3八幡宮 岩美郡倉田村 4湊神社 岩美郡面影村 5神前神社 6山名神社
 伯耆国二十二社
 1三朝神社 2賀茂神社 旭村 3八幡神社 倉吉町 4天の神奈斐神社 5犬田神社 6宇田川神社 7国信神社 8高田神社 9真子神社 10逢坂八幡神宮 11大港神社 12阿陀萱神社 13長田神社 14高良神社 15実久神社 16堀神社 17福田神社 18根雨神社 19神奈川神社 20江尾神社 21佐川神社 22国英神社
 この因幡国と伯耆国との武内宿禰を祭神とする神社数の差は八幡神社に祭られている神社数では説明できない。単独の場合が多い。因幡国と伯耆国の武内宿禰を祭神とする神社は第13代天皇として祀られていたと思われる。武内宿禰は伯耆国、その中で鳥取県中部(北栄町原集落の元野神社)に皇居があったと思われる。
 

第12代景行天皇、第13代成務、第14代仲哀(248年頃から354年頃まで)について

2018-07-30 09:33:38 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

 12代景行・13代成務・14代仲哀について

1 12代・13代・14代はのちに潤色されている。
 「ヤマトタケルに秘められた古代史」において崎元氏は「古事記において、神武記以降各天皇の冒頭は「〇〇の命、〇〇の宮に座しまして天下を治らしめしき」から始まるが景行記に至って「オオタラシヒコオシロワケの天皇、纒向の日代宮に座しまして天下を治らしめしき」となっている。〇〇の天皇という表現は、ワカタラシヒコ(成務)天皇、タラシナカツヒコ(仲哀)天皇と続く。次の15代から「〇〇の命」という表現に戻っている。12代・13代・14代はのちに潤色した痕跡がはっきりと残っている」とされる。
 12代・13代・14代は潤色・改ざんされ、実在しないとされる根拠となっている。

2 第12代景行天皇の実在性には疑問が出されている。
 書紀では、半分以上が子の日本武尊の征討伝説に充てられており、景行天皇自身に纏わる話はかなり少ない。古事記にいたっては、事績のほとんどが倭建命の征討伝説に割かれており、景行天皇自身に纏わる話は全くと言ってよいほど出てこない。
 書紀に「紀伊国に行幸されて、諸々の神々をお祭りしようとされたが、占ってみると吉と出なかった。そこで行幸を中止された。屋主忍男武雄心命を遣わして祭らせた。武雄心命は阿備の柏原にいて、神々を祭った。そこに9年住まれた。紀直の先祖菟道彦の娘影姫を娶って武内宿禰を生ませた」とある。崎元氏はこの記述をおかしいとされ、12代は屋主忍男武雄心命であるとされる。私も同感である。
※ 私 見 
⑴ 「タラシ」は百済王に使われていた名前である。「タラシ」は舒明、皇極の名前にも含まれるが、舒明、皇極も百済王であった。   
⑵ 記紀における景行天皇の段は2世紀後半の倭国大乱における倭建命(開化天皇)や孝霊天皇の旧辞が多くを占める。別稿「因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と…」を参照されたし。
 たとえば、古事記・倭建熊襲を伐つ・倭建出雲を伐つ・倭建東国を伐つ・望郷歌・白鳥や、日本書紀・諸族土蜘蛛(ここの天皇は孝霊天皇である)・熊襲討伐(ここの天皇とあるのは女王卑弥呼であり、相手に名を問うたり質問したりの事績が含まれている。「倭姫命世記」は各国を巡り国名を問うている。「倭姫命世記」は原古事記の同じ段にあったと思われる。)・日本武尊出動・日本武尊再征(このとき日本武尊が賜ったのは将軍の位ではなく天皇の位であった)・弟橘姫・日本武尊病没(昼夜むせび泣き胸をうって悲しまれた天皇とは女性特有の動作であり、一緒に全国を巡行していた姉の女王卑弥呼と思われる。伊勢とあるのは志摩であり、神宮とあるのは卑弥呼の開いた伊雑宮のことである)は藤原氏以前に列島を統一した王朝があったことを隠すため欠史8代を作ったが、その旧辞は景行天皇の段に入れ込んだ。
 古事記・白鳥・では「倭建の白鳥は志幾(しき)に行ってとどまった」とある。志幾(しき)は鳥取県湯梨浜町の東郷池周辺のことであり倭建命はここで生まれた。
 東郷池にはコブ白鳥がおり、最近コブ白鳥のヒナが生まれた。「それゆえ、この土地に陵をつくって、魂を祭った。この陵を白鳥の御陵と言う」とある。白鳥の御陵は鳥取県湯梨浜町宮内(孝霊天皇一族)の池辺にある狐塚古墳(前方後円墳)と思われる。全国と半島を一緒に巡行した倭姫命(卑弥呼)の前方後円墳(安楽島町の松の鼻古墳)の前方部が水辺に接している形状は狐塚古墳と同じである。
 倭建命の「大和(ヤマト)しうるわし」のヤマトは生まれ故郷の鳥取県中部(倭)である。皇居のあった北栄町の瀬戸から中国山脈を見て詠んだ歌であった。
 魏志倭人伝には卑弥呼が亡くなって立った男王の出来が悪くて千人が誅殺しあったが十三歳のトヨを立ててようやく収まった、とある。この男王は屋主忍男武雄心命と思われる。屋主忍男武雄心命(景行天皇)の妹は豊鋤入姫命(台与)であり、倭姫命(卑弥呼)ではない。日本書紀と倭姫命世紀は順番を入れ替えている。
 景行天皇は百済王であり、12代倭国男王は13代武内宿禰大臣(大王)の父の屋主忍男武雄心命であった。

3  第13代成務  記紀ともに記述は少ない。
 稚足彦天皇は実名らしくない名前であり、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史八代よりもこちらの方が実在の可能性が低い。
 書紀には「天皇崩ず。時に107歳」とあるが、成務元年は39歳であり、成務60年に死亡しているから、98歳で死亡しているはずである。
 書紀は「大臣は、成務天皇と同日生まれの武内宿禰である」とする。年月が違っていたら珍しくもない(確率は30人に1人)のでわざわざ書かない。ここでは生年月日を同じとし、百済王成務に倭国大王との共通点を見つけ示したかったのである。武内宿禰は後の蘇我氏と同じく大王であったと解する。
 改ざんであり皇居の近つ淡海の志賀高穴穂宮も空想上の宮である。稗田阿礼は場所を特定するためより具体的に表現する。第13代天皇は武内宿禰であり皇居は葛城山(蜘ヶ家山)の麓の北栄町原の元の(野)神社にあった。

4  第14代仲哀、身長一丈(約3メートル)。仲哀天皇非実在説あり。
 足仲彦天皇は実名らしくない名前であり、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史八代よりもこちらの方が実在の可能性が低い。
 皇居とされる穴門豊浦宮・筑紫橿日宮は空想上の宮である。この間、纏向は使われていたが都ではない。都は鳥取県中部(湯梨浜町松崎)に戻っていた。
 仲哀天皇は倭建命の第2子とされる。成務18年に誕生したことになっているが、成務18年は父とされる倭建命が亡くなって37年後である。
 日本書紀・神の啓示・において「熊襲国よりも勝って宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩い金・銀・彩色などがたくさんある。これを栲衾新羅国という。」とある。新羅を西の国とするが、鳥取県中部からは新羅は西の国だが、九州北部からは北の国である。これは、原文をそのまま写したからである。
 仁徳天皇は武内宿禰天皇の4男平群木菟と思われる。書紀は「第16代仁徳天皇と武内宿禰天皇の4男平群木菟は同じ日に生まれた」とする。年月が違っていたら珍しくもない(確率は30人に1人)のでわざわざ書かない。ここでは生年月日を同じとし、百済王仲哀に倭国大王との共通点を見つけ示したかったのである。
 武内宿禰は仁徳天皇に仕え220歳(一番短い「水鏡」でも)まで生きた、とする。それでも寿命が長すぎておかしい。第14代仲哀天皇非実在説がある。第14代天皇は、仲哀天皇ではなく武内宿禰天皇の4男平群木菟であった。天皇名は仁徳天皇であった。
 14代仁徳天皇の皇居は難波高津宮で高いところにある。難波の枕詞は「押し照るや」である。水面に陽光がキラキラした情景が見えるところである。これは鳥取県湯梨浜町の松崎神社であった。

 


奈良の三輪山祭祀の始まりについて

2018-07-30 02:49:13 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇


1  奈良歴史漫歩 「三輪山祭祀の謎」橋川紀夫  より
 三輪山禁足地および周辺山麓から出土する祭祀遺跡と遺物には特徴がある。古墳時代中期(4世紀後半~)から後期(6世紀)にかけての時期に集中する。4世紀後半から始まった磐座祭祀は多量の滑石製模造品、土製模造品を伴い5世紀後半にピークを迎える。6世紀には子持勾玉を用いた祭祀が盛んに行われた。この間に陶邑から運び込まれたと見られる須恵器も多量に出土する。
 三輪王朝は古墳時代前期にあたるが、禁足地および周辺山麓からはこの時期の遺物は出土していない。三輪王朝での三輪祭祀の場所について示唆する記述が「崇神紀」にある。天皇が卜占する時、神浅茅原(かむあさぢはら)に幸したとある。また、太田田根子を謁見した時、諸王・卿・八十諸部を引き連れて神浅茅原に出でましたという。神浅茅原は多くの人々が集えるほどの開けた場所のように思える。山麓であっても山全体を眺めわたせるほど離れた場所で祭はとり行われたのであろうか。
 これですぐ思い浮かぶのは巻向遺跡である。遺跡からは祭祀に用いられた多量の遺物が出土している。遺跡は古墳時代前期をもって途絶えるが、禁足地周辺の遺物が中期から後期を示すのと符合して、三輪山周辺をめぐる祭祀のあり方が4世紀末を境にして大きく変わったことを暗示する。
 『日本書紀』は、天照大神を始祖とする万世一系の天皇というイデオロギーでもって貫かれる。そのため幾重にもフィックションが張り巡らされた。三輪山祭祀をめぐる『書紀』の記述が謎めいているのも何かが隠されているからだ。王朝の交代は仮説であるが、謎を解くひとつの手がかりとなるのではないだろうか。


2  私見
 健全な考えだと思われるので掲載させてもらいました。奈良の三輪山からは4世紀前半以前の祭祀遺跡は見つかっていない。崇神天皇(在位188年~220年)垂仁天皇(在位220年~248年)景行天皇(在位248年~280年)の在位期間は3世紀である。この頃、奈良の三輪山では祭祀は行われてはおらず、ただの山であった。奈良では纏向に鳥羽市安楽島町伊射波神社にいた卑弥呼を呼んで祭祀を行っていた。
 卑弥呼・崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の時代の三輪山といえば、天忍穂耳(大物主)のいた鳥取県北栄町下神の三輪山のことである。大田田根子は鳥取県神社誌では鳥取県西部の6神社に大田命として祀られている。鳥取県西部は天忍穂耳(大物主)が大陸に行く途中に宿泊したところであり、子孫が居ても不思議ではない。崇神天皇(大吉備津彦)も倭の大乱のときに鳥取県西部はよく知っており、探し出すのに難しくはなかった。神浅茅原も北栄町の三輪山の近くにあったと思われる。北栄町の三輪山の近くに、松神、下神など神の付く集落がある。崇神天皇は鳥取県北栄町の三輪山に全国から代表者を集めて祭祀をしていたが、東国から来るのは大変であることが判り、奈良の纏向で祭祀をすることにした。この頃の奈良での祭祀は纏向の地で行われており、奈良の三輪山での祭祀はまだ行われていなかった。
 崇神天皇は津山から奥津→人形峠を通って東郷池の長和田の皇居や北栄町下神(松神)の神浅茅原に帰ってきて大田田根子に会ったり、津山から奈良の纏向に行き、卑弥呼の祭祀に立ち会ったり、活発に活動していたはずである。


湯梨浜町舎人地区の五集落

2018-07-30 02:22:37 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

1 湯梨浜町舎人地区の5集落

 以前は、孝霊天皇一族のいた宮内を含めて舎人村であったが、今は湯梨浜町の舎人地区と言っている。


 橋を渡って右側に野方集落、白石集落、方地集落、漆原集落、北福集落がある。

 右が野方集落、中央奥が白石集落、左が方地集落。

 右が漆原集落、左奥が北福集落である。
 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「・・・。ある説によると、五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部など合わせて十種の品部とものみやつこらを、五十瓊敷皇子に賜った」とある。

2 日本書紀に「五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた」とある。
※ 私見

 「青谷上寺地遺跡発掘調査報告書」の中で高尾浩司は「弥生時代後期後半になると、再加工を含めた鍛冶技術の進歩も看取できる」とするが、垂仁天皇の在位は私見では220年~250年頃だから時代的にも一致する。五十瓊敷皇子は県道51号線を通って青谷から川上(河上)という鍛冶師を呼んだ。(別稿:「倭国は、卑弥呼たちが弥生後期に全国と半島を平定するまで小国であり、鳥取県中部であった」を参照されたし)
 したがって、鳥取県湯梨浜町川上集落鍛冶屋谷で五十瓊敷が太刀一千口を造らせたのは間違いない。この時に十種の品部とものみやつこらを五十瓊敷皇子に賜った。「十種の品部とものみやつこら」の集落が舎人地区の5集落であった。


 川上集落の鍛冶屋谷で太刀一千口を作り、忍坂邑(三朝町片柴)に預け、のちに石上神宮(倉吉市大原)に保管した。

 三朝町片柴(忍坂邑)の北野神社
 太刀1千口はここに預けて、船で石上神宮(倉吉市大原神社)まで運んだ。忍坂邑は三朝町片柴であった。神武天皇は三朝町山田(ヤマタ)であった素戔嗚が酒を飲ませて敵を殺す方法にヒントを得て、忍坂邑(三朝町片柴)に土蜘蛛を集めて酒を飲ませて殺した。

3 湯梨浜町川上集落や舎人邑は伯耆国河村郡であり、三朝町も河村郡であった。三朝町ではたたら跡が204か所見つかっており(「三朝のたたら」より)、河村郡内で多くの刀を作ることができた。
 茅渟の菟砥の河上とは鳥取県湯梨浜町川上集落と思われる。川上集落には鍛冶屋谷という地名もある。川上集落の北側にあるのが舎人地区の五集落である。十種の品部とものみやつこらが居たのは湯梨浜町舎人地区の五集落であった。川上集落の鍛冶屋谷で太刀一千口を作り、忍坂邑(三朝町片柴)に預け、のちに石上神宮(倉吉市大原)に保管した。すべて、伯耆国河村郡の集落である。
 舎人地区の五集落は、垂仁天皇の皇居の川上宮(川上集落)から頼まれての作刀、東郷池周辺の古墳造り、長瀬高浜での玉作り、長瀬高浜での埴輪作り、漆器の製作、楯作り、弓矢作り、和紙作り、測量などの役割を集落が分担してやっていたと思われる。
 藤原氏の支配が残っている県職員の返答「この地域から過去に舎人が一人出たから、舎人というのでしょう」という返事は信用できない。
 神武天皇の即位から第34代天皇(奈良時代)まで歴代天皇は鳥取県中部にいたのであるから、天皇に仕えた職人たち(舎人)も鳥取県中部にいたとしてもおかしくない。

※参考

 青谷上寺地遺跡発掘調査報告書4(2002年)青谷上寺地遺跡出土鉄器の総合的評価(高尾浩司)において「中期後葉段階には鍛造工具が一定量存在し、同段階の鉄片、棒状鉄器には加工痕が認められることから、集落内での鉄器生産が開始されたと想定する。稚拙なつくりの袋状鉄斧、板状鉄斧や裏すきをもたない鉇などは本集落の所産である可能性が高い。それらに、相対的に良質な鉄斧や舶載品が加わる組成となる。簡易なつくりの鉄斧と複雑かつ立体的なつくりの鉄斧二者は後期初頭から古墳前期初頭まで九州系の製品が見られることもあり同期まで共存する。また、製品から別の製品を得ようと試みた未製品と見られるものは中期後葉段階から見られるが、初期のものは再加工の技術も稚拙である。後期でも概ね後半段階になると数量的にも一気に増加し、製品の形態や大きさに目的に沿ったバリエーションが出てくる。再加工を含めた鍛冶技術の進歩も看取でき、鋳造鉄器破片の再利用の仕方も中期段階に比して変化が認められる」とある。


崇神天皇と垂仁天皇の皇居と活動本拠地

2018-07-29 14:31:08 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇
1 崇神天皇の皇居は原古事記の表記は「水垣宮」であった。瑞籬宮は同じ読みの別の漢字を持ってきた改ざん表記である。崇神天皇の水垣宮は水辺に近い長和田集落と思われる。
 奈良の宮跡
 「磯城瑞籬宮は、第十代崇神天皇が営んだ宮とされています。 記紀によりますと崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。これは三輪山の神、大物主大神のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い神の子孫となる大田田根子を探し出しました。そして彼に託して三輪山に大物主神をお祀りしたところ祟りが鎮まり疫病がおさまったとされています。また、東海や、北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の安泰につとめ、民をよく治めたところから、初めて国を治めた天皇としてたたえられたと記されています」とある。
 古事記には「師木の水垣宮」とあるので水に近いところにあったはずである。皇居は鳥取県湯梨浜町長和田にあり、二ノ宮は岡山県津山市中山神社にあった。奈良の宮は三ノ宮か四ノ宮である。

2 崇神天皇の皇居は師木の水垣宮であり、東郷池周辺の水辺に近く、国譲りで事代主と百八十神(出雲神族)が移ってきた湯梨浜町長和田集落と思われる。
 200年頃、長和田の周辺は水で囲まれていた。はえ(波延とも蠅とも書く)という地名や一族は長和田集落や長和田集落出身と思われる。当時地形的に、日本海の波が真っすぐ届いていた。大吉備津日子(崇神天皇)の母親の蠅伊呂泥の出身地でもある。

 長和田(ナゴウタ)集落です。

3 崇神天皇の和風諡号は御真木入日子印恵命であるから、御真木国に入って活動していた。御真木国とは岡山県津山市中山神社あたりと思われる。
 
 中山神社の奥には猿神社がある。中山神社は猿の伝承が全面に出されている。この手法は父の孝霊天皇が居た倭文神社のある湯梨浜町宮内の伝承を下照姫に置き換えて全面に出す手法と似ている。

4 垂仁天皇の皇居は師木の玉垣宮にあったから、東郷池周辺の少し高いところにある湯梨浜町川上集落と思われる。
 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷命は・・・川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。・・・石上神宮に納めた」とある。
 垂仁天皇の在位は220年から250年頃までであり、古墳時代前期である。弥生時代後期には、すでに青谷に鉄を高度に加工する技術者がおり(青谷上寺地遺跡発掘調査報告書より)、五十瓊敷命は青谷からその技術者を川上に連れてきた。玉鋼も伯耆国河村郡の三朝町で採取できた。三朝町で204ものたたら遺跡が発掘されている。その玉鋼を伯耆国河村郡の川上字鍛冶屋谷に集めて太刀一千口を造った。太刀一千口を伯耆国河村郡の忍坂邑に納め、のちに河村郡の石上(大原)の石上神宮(倉)に納めた。
 三朝町片柴の北野神社の横には三徳川が流れ、船で降れば倉吉市大原に至る。太刀一千口は三朝町片柴の北野神社に納めていた。

5 垂仁天皇の和風諡号は伊久米伊理毘古伊佐知命だから岡山県久米郡美咲町の大宮神社あたりを活動拠点にしていたと思われる。
 

 瓊々杵命の大宮神社はまわりが畑であるが、垂仁天皇の大宮神社は集落の中にある。鳥羽や奈良には中山神社より近い。

6 倭建命(若日子建吉備津日子)や倭姫命(倭迹迹日百襲姫)のヤマト王権による東国の平定後、倭建命(若日子建吉備津日子)は豊田市の猿投神社を東国の拠点にし、倭姫命(倭迹迹日百襲姫)は神戸市の旧生田神社を拠点にしていたが、倭建命が亡くなってからも崇神天皇(大吉備津日子)は猿投神社を東国の拠点にしていた。この頃、全国に創建した神社の代表者を集めての祭祀は倭姫命(倭迹迹日百襲姫)も来て、鳥取県北栄町下神の神浅茅原で行っていた。北栄町下神の三輪山では弥生時代(大物主は弥生前期)の土器が発掘されている。
 しかし、東国の代表者の便宜のため、代表者を集めての祭祀は奈良の纒向ですることに決めた。倭姫命(倭迹迹日百襲姫)は神戸市の旧生田神社から鳥羽市の伊射波神社に本拠地を移した。

鳥取県大山中腹の奥の宮に神南備(大神山神社奥の院)を創建したのは崇神天皇(155年~258年)である

2018-07-29 08:34:56 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

 鳥取県大山中腹の奥の宮に神南備(大神山神社奥の院)を創建したのは崇神天皇(155年~258年)である。

1 鳥取県神社誌昭和9年刊より

 大神山神社 主祭神 大巳貴命(又の名を大国主命)

 由緒 「神代の昔、八束水臣津野命と大己貴大神が大山預上で神事を執行せられし以来、御神霊ましますとして、御神系の方々がその祭祀に奉祀せられ、爾来、大山中腹の現今の奥の宮所在地に、磯城の瑞垣神南備を築き南面して頂上を拝して奉斎せられたるものなるべけれど、記録の徴すべきものなく、唯、続日本記(797年)に承和四年授伯耆国無位大山神従五位下、又文徳実録(879年)に斎衡三年加伯耆国従五位下大山神正五位下、又三代実録(901年)に貞勸九年授伯耆国正五位下大山神正五位上とあり、又延喜神名式(927年)に伯耆国相見郡大神山神社とあり、又出雲風土記(733年)に固堅立加志者有伯耆国大神岳是也とあり、その大山といい大神山というも同一の山なり」とある。

2 私見

(1)大神山神社の由緒にある「磯城の瑞垣」とは崇神天皇の皇居である。古い文献伝承があったのだろうが藤原氏を恐れて崇神天皇とは書かずに崇神天皇を連想させる「磯城の瑞垣」と書き残した。大山中腹の現今の奥の宮の所在地に神南備を創建したのは崇神天皇(紀元155年~258年)である。崇神天皇と姉の卑弥呼が全国の神社のもとを創ったのであるから、皇居が鳥取県中部(湯梨浜町長和田集落)にあった崇神天皇は真っ先に大神山神社を創建した。

(2) 崇神天皇は古くから由緒のあった全国各地に神社を創建していったが大神山神社の地にはどんな由緒があったのだろうか。
  史記(紀元前91年完成)(司馬遷)淮南衡山列伝 第五十八に「私(徐福)は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』。私は答えていった。『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしているのを見ました」とある。
 米子市陰田町に到着した徐福は東南の鳥取県大山(蓬莱山)の大神山神社の地に連れていかれた。大神(伊邪那岐)の宮殿は鳥取県大山の大神山神社の地にあった。だから崇神天皇が創建した時の大神山神社の祭神は伊邪那岐(大神)と天照大神(徐福)であった。

(3)大神山神社の創建時の祭神は伊邪那岐(大神)と天照大神(徐福)であったがどうして大国主に変わったのであろうか。
 734年に倭国を乗っ取った亡命百済王朝(日本)は各地で統一に向けての武力行使をしていた。隼人の乱(720年)も「乱」などというが亡命百済王朝が政権を奪うための前準備であった。ウィキペディアでは「隼人の反乱は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である」とするが、間違いである。八百年の間ヤマト王権(鳥取県中部)に属していた隼人が亡命百済王朝の支配に対して抵抗したということである。また、奈良時代、土佐王の池田氏が助けを求めて鳥取県琴浦町にあった天照皇大神宮に来たことが方見神社の由緒に残っている。
 大神山神社の現宮司の先祖は奈良時代に倉吉市の法華寺畑遺跡で行われていた血脈狩りの公開処刑を見ていた。だから天皇家に対する恐怖心を人間天皇になった今まで抱いてきた。大神山神社の宮司はアジスキタカヒコネの子孫であり、このことは現宮司まで一子相伝で語り継がれてきたそうである。
 十数系統あった大国主の子孫の多くは奈良時代から平安時代にかけて血脈狩りにあった。それは734年に倭国を乗っ取った亡命百済王朝(日本)によるものであり、それまでの天皇家は大国主の子孫を大事にしていた。アジスキタカヒコネは倉吉市灘手地区の鋤集落にいたし、天若比古は倉吉市寺谷集落の矢の宮神社にいた。だから、奈良に行ってはいない。もちろん出雲大社の大国主は17代続いた出雲族の王の代名詞であり一個人の名前ではない。
 大神山神社の現宮司が真の大国主の直系の子孫であるならあえて異議を唱えないが、鳥取県大山中腹の奥の宮に神南備(大神山神社奥の院)を創建したのは崇神天皇(155年~258年)であり、734年までは大神山神社の祭神は伊邪那岐(大神)と天照大神(徐福)であった。

(4)私の先祖も法華寺畑遺跡で殺されたのか「夢の中でその時の映像が映し出される」。それでも一族は20数軒残っているので良しとしよう。大神山神社の現宮司と同じく私の家系も一子相伝であった。故父は「神武天皇の道案内をしたのでこの名前をもらった」と言っていた。神武天皇の道案内をしたのは神武天皇の一番の家来の「道臣」である。私の姓には始めに「道」が付いている。藤原氏は私の家系抹消もしたかったのだろう。しかし、大神山神社の現宮司と私の先祖も生き延びた。だから、大山の大神山神社の祭神を現宮司の先祖ではなかった、とは言いづらい。しかし、現天皇家が政権をとる奈良時代(734年)までは伊邪那岐(大神)と天照大神(徐福)が祀られていた。