「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

天照大神は徐福であった

2021-05-27 08:39:38 | 天照大神(徐福)

 天照大神は徐福であった

​1 中国人は大喜びであり、我々日本人は大変残念であるが、我々が尊敬してやまない天照大神は徐福であった。天照大神は男性であり、時代も神武元年紀元前60年説を採れば無理なくつながる(別稿「天照大神は男性である」「神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった」を参照されたし)。
 卑弥呼も崇神天皇も天武天皇も道教を信奉していたが、これは始祖が道教を信奉していたからである。始祖とは道教の方士徐福である。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(倭姫命)であり鬼神道(道教が母体)の祭祀をしていた。崇神天皇は神道(道教が母体)を初めて全国に創設した。何のために伊勢神宮を参拝していたのだろう、と思われるかもしれないが、歴代の天皇が参拝しなかったのは、藤原王朝は天照大神が徐福であることを知っており、やっと乗っ取った倭国を自分たちの思うようにしたく中国に支配され邪魔されたくないという思いがあったからである。

2  史記(紀元前91年完成)(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝 第五十八
 (始皇帝は)徐福に船出して神仙を求めさせた。徐福は戻った。「私は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えた。『そなたは何を求めているのか』。私は答えていった。『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしているのを見ました。そこで私は再び拝礼して尋ねました。『どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか』すると海神(海中の大神)は『名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました」と偽りの報告した。
 秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。徐福は、「平原広沢」を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった。

 国立国会図書館デジタル書籍より
 徐福に関する149文字の中に「大神」の文字と「天照」の文字が確認できる。
※ 私見
 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町の日御碕神社(祭神は天照大神と素戔嗚)に到着し、大山の麓の米子市尾高の大神山神社(本社)で大神と出会った。大神は「始皇帝の礼が薄いので不老長寿の仙薬を譲ることはできないが見るだけならよい」と言うので、大神に従って東南の大山に行った。徐福は、大山町大山の大神山神社(奥宮)の地で、大神の宮殿や銅色の龍形の使者がいて光が天を照らしている(光上照天)のを見た。
 徐福と大神が出会ったのは大山の麓にある大神山神社本社の地であった。大神の宮殿は鳥取県大山中腹の大神山神社奥宮の地にあった。蓬莱山は鳥取県の大山であった。

 高天原の様子を見れば分かるが、天照大神は集団のリーダーであり、徐福も集団のリーダーである。
 徐福は始皇帝に「三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に留まって王となり秦の威名を高めよ」と言われていた。徐福は始皇帝に言われたように三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に止まって王(大神)となった。国譲りで蒜山高原(高天原)から鳥取県中部(倭国)に降臨し、平原(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉尾野)と広沢(北栄町の葦原中津国を含む豊葦原瑞穂国)を得て王(天照大神)となった。徐福は平原と広沢を得て王(大神)となり、最初に見た情景に因んで「天照大神」と名乗った。

3 「史記」秦始皇本紀第六37年には、徐福が前提として連弩(連発武器)を積み込んでいたことが記されている。
 「史記」には「(徐福は)言った。『蓬莱の薬は得ることができますが、常に大鮫魚が苦しめるためたどり着くことができません。願わくは射撃の名手を伴わせていただきたいのです。見つければ連弩でこれを射ます。』・・・」とある。
 「古事記」には「素戔嗚の様子を見た天照大神は、高天原に攻め入るつもりだと危ぶむ。そしてすぐに御髪を解いて御角髪(みづら)に巻いて、・・・背中には千本の矢入りの箙を背負い、脇には五百本の矢入りの箙を着け、・・・弓の末を起こして、硬い地面を踏みしめ、・・・」とある。
 古事記には連弩とは書いてないが「天照大神は背中に千本の矢入りの箙を背負い、脇に五百本の矢入りの箙を着け」とあるので、天照大神のもっていた弓は徐福が積み込んでいた連弩(連発武器)と思われる。これも天照大神は徐福であったとする根拠である。

4 天照大神や素戔嗚は始皇帝の追っ手(八岐大蛇)から逃れるため、因幡国(鳥取県東部の霊石山や氷ノ山や大江郷)に本拠地を遷そうとしていた。しかし、始皇帝が亡くなったのを知って、最初の指示どおり天照大神は蒜山(高天原)に、素戔嗚は倉吉市(根堅州国)に戻った。
 徐福一行は東海の三神仙(大山・烏ヶ山・蒜山)を目標に航海してきたのであり、出雲には行っていない。出雲に到着したのは、殷王朝末裔の準王一族であった(紀元前194年)。準王一族(因幡の白兎に出てくる大国主の兄の八十神)は鳥取県中部や鳥取県東部にも上陸していた。大神(伊邪那岐)との約束の地である鳥取県中部の葦原中津国にも準王一族が上陸したので天忍穂耳は葦原中津国が騒がしいと言った。
 「謎の出雲帝国」は「出雲族の子孫の富氏は天穂日をヤマト王権のスパイであった」とする。天孫降臨に際し、天穂日は葦原中津国にいた準王一族(大国主の兄の八十神=出雲族)の本拠地を大国主から教えてもらい準王の様子を偵察するため能義平野(安来市)に行った。天穂日は松江の南部(熊野大社)に本拠地のあった準王(出雲族)を監視していたが出雲族の娘を娶り婚姻関係を結んだ。饒速日が初代長髄彦(準王)の妹を娶ったのも天穂日の縁結びによるものと思われる。
 準王たち(八十神=出雲族)は天穂日に同化してゆき、天穂日を始祖とした。天穂日の子供とされるタケヒラドリは殷王朝末裔の準王であった。天穂日は自分より年少の準王に可愛がっていた大国主の別名の大穴牟遅の名を与えた。大穴牟遅は出雲王の代名詞として17代にわたって使われた(「謎の出雲帝国」より)。


邇邇芸の時代は今より海面が4m高かった

2021-05-24 18:56:38 | 天孫降臨

邇邇芸の時代は今より海面が4m高かった

1 古事記によると「邇邇芸は筑紫の日向の高千穂のくしふるねに天降り、『この地は 韓国に向きて、笠沙の御前を真来通りて・・・』といった」とある。
(1)筑紫とは
 木を切り「つくし」たところである。千五百の産屋・家・船を造らなければならなかった。
(2)日向とは
 日当たりの良いところである。
(3)高千穂とは
 中国山脈でも特に高い大山・烏ヶ山・蒜山三座の裾野から穂のように切立った山肌が見える。
(4)クシフルネとは
 「川などの向こうの丘」という意味であり、鳥取県北栄町亀谷丘陵のことを指していた。
(5)「韓国に向きて」とは
 朝鮮半島にある韓国(辰韓)のことである。天照大神や大国主に協力して天忍穂耳は稲作を導入して日本列島の国造りをするために、常世の国(雲南省周辺)より、稲作技術を持った人々を日本列島に入植させていたが、それは朝鮮半島(辰韓)から葦原中津国(北栄町)あるいは東郷池(長瀬高浜遺跡)あるいは青谷(上寺地遺跡)あるいは湖山池あるいは丹後半島にもすでに入植していた。したがって、邇邇芸が降臨したときも韓国(辰韓)は天孫族の事業(移民を奨励して列島の人口を増やすこと)にとって大事な国であった。
(6)「笠沙の御前を真来通りて」
 韓国(辰韓)からの船がひんぱんに来港していたから、主語は韓国(辰韓)からの船である。韓国(辰韓)からの船が笠沙の御前を巻き通って入ってきたという意味である。
(7)「笠沙の御前」とは、
 「笠沙」とは「笠形の砂丘」である。
 古事記・日本書紀のように、読みは同じだが別の漢字を使うのは藤原氏の得意とするところである。「沙」は「砂」であった。
 次に現在の鳥取県中部の地形と海抜3m・5m・4mの高さに海面がある鳥取県中部の地形を見比べていただきたい。笠形がはっきり現れるのは4mの時だとわかる。したがって、邇邇芸の時代は縄文海退の途中であり、海抜4mまで海面が下がっていた。


 海抜3mに海面がある地形。これより海面が低くなると笠が消えてしまう。

 海抜5mに海面がある地形。これより海面が高くなると笠が消えてしまう。

 笠形がハッキリ現れるのは海抜4mに海面があるときである。
 海抜4mに海面があった時代は縄文海進のピーク時で縄文時代中期だから時代が違う、という意見があるが、縄文海進のピークは海抜20m位であった(別稿「縄文海進のピークは海抜20mあったとする倉吉住吉神社の案内板は正しいか」を参照されたし)。これに関しても、東京の歴史学者(藤原氏)の中には20mは日本海側だけであって、太平洋側は4mだったとする学者がいる。私も当初は縄文海進のピーク時4m説であったが、海抜20mに海面があると倉吉住吉神社の案内板のとおり「この辺り一帯が入江になった」のでこれは実際にその状態を見た人が残した記録であると確信した。
 玄界灘も関門海峡も津軽海峡も宗谷海峡も樺太のNevelsky海峡も現在の海面より20m高い壁のようなもので太平洋と日本海は遮られていたとするが、壁のような痕跡はどこにもない。


2 列島に地名を付けていったのは徐福たちであった(別稿「徐福一行は朝鮮の辰韓にたどり着きしばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国、鳥取県中西部)に結集した」を参照されたし)。豊臣秀吉(藤原氏)の朝鮮征伐では新羅(秦韓)のあった東側を中心に徐福の伝承を消しているが百済のあった西側の徐福の伝承は消していなかった。





 鳥取県中部の水際にあった地名(瀬戸・津原・灘手・穂波・島)も徐福(天照大神)たちがつけた地名である。水際(海岸線)がそこにあったからこの地名が付けられた。その時の海面の高さは海抜4mであった。天照大神(徐福)の孫の邇邇芸やその孫の神武の時代(神武天皇は天照大神の4世孫だから150年くらいしか経っていない)もまだ海抜4mに海面があった。したがって、磐余邑は鳥取県北栄町の米里・(北条)島集落であった。

 


蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった

2021-05-22 12:11:21 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1 磐余の地の旧名は、片居または片立という。神武天皇の時代は海抜4mに海面があったから、北栄町米里集落と島集落の地形は中央に池があり、片側に居るか、片側に立つことになる。だから、片居・片立と言っていた。奈良の磐余邑ではなぜ片居・片立といったのかの説明ができない。また、神倭磐余彦が家来二人に赤土を下ろさせた土下集落も近くにある。

 磐余邑は現在の行政区分とは異なり、米里だけではなく、島も含んでいた。
 
2 奈良の磐余邑の説明文に「履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています」とある。
 本当の磐余池は鳥取県北栄町島集落の金繰溜池であった。
 履中天皇は皇居の北に金操溜池(かなぐりためいけ)を造った。

3 金操溜池(かなぐりためいけ)

 右は島集落。左奥に金操溜池(かなぐりためいけ)がある。

 通りがかりの耕運機を運転していた人に「この堤は古いか新しいか」と聞いたところ、「大昔の堤だ」と答えた。「新しいように見えるが」と聞いたら、「台風で決壊し作り直した。以前はもっと低かった」と答えた。「島集落の所有である。管理は代表を決めて管理している。」「明治、大正の話ではない。大昔だ。」と言っていた。
 底に溜まった泥で年代測定はできるので、大昔が何時ごろかわかる。私は履中天皇の時代、5世紀初頭と推定する。
 池上の陵は島古墳群であった。5世紀・6世紀の古墳である。履中は5世紀の天皇である。一の崎の下を大(王)町という。一の崎にいたのは履中天皇であった。

4 島古墳群発掘調査報告書より

 池(金操溜池)上の丘陵から島古墳群が発掘された。
 7号墳をもとに岡野雅則は「同棺複数埋葬について」という論考を書いている。7号墳は「第一、第二埋葬施設同士の前後関係は不明であるが、本墳は古墳時代前期後葉~中期前葉に築造されたとみて大過なかろう」とある。7号墳は履中天皇の時代、4世紀末~5世紀初めである。
 5号墳は6世紀前葉段階で76cmの鉄刀が発掘された。第26代継体天皇の時代である。
 8号墳(6世紀後半~7世紀初頭)・11号墳(6世紀後半)は、蘇我馬子大王と同時代の古墳である。
 蘇我馬子(在位572年~626年)は長谷部若雀天皇であり鳥取県北栄町島(磐余池辺雙槻宮)に皇居があった。
 島古墳群 米里三ノ嵜遺跡 北尾釜谷遺跡 (北尾古墳群) 発掘調査報告書
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/13574
 島集落からは縄文前期~縄文晩期の遺物も出土している。猿田彦は土地勘のある土着の縄文人に比定したが猿田彦一族はこのあたりに住んでいた。
 島遺跡発掘調査報告書第2集
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14048
 ぜひご覧になってください。

5 日本書紀は亡命百済人によって百済王家の歴史を残すために作られた歴史書である。その際、乗っ取った倭王朝の歴史書である原古事記の記述を国史に取り込んだ。
 蘇我馬子大臣(王)は、百済国王の敏達、用明、崇峻、推古4代の間の倭国大王であった。
 用明天皇の皇居は磐余池辺雙槻宮とされる。用明天皇は百済王である。しかし、磐余邑は確かに鳥取県北栄町に存在していた。磐余池辺雙槻宮は用明天皇の皇居ではなく、大臣とされているが実は倭国王の蘇我馬子大王の皇居であった。崇峻の諱は泊瀬部、即位前は泊瀬部皇子と称した。古事記には長谷部若雀天皇とある。朝鮮半島にいた百済王崇峻は同じく朝鮮半島にいた蘇我馬子大王の部下に殺された。亡命百済人は百済王崇峻に倭国王蘇我馬子大王の諱を取り込んだ。用明の皇居と崇峻の諱は蘇我馬子大王の帝紀として原古事記に書いてあった記述を日本書紀に取り込んだものである。
 蘇我馬子大王の妻は物部鎌姫大刀自(実家は倉吉市大原で産屋は倉吉市馬場町)であり、子は蘇我善徳(聖徳太子)と蘇我倉麻呂である。
 蘇我馬子大王は鳥取県倉吉市(泊瀬)で生まれ育ったので諱は長谷部(泊瀬部)若雀天皇であり、皇居の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった。
 
 
 

伯耆民談記(1742年)とそれを否定する伯耆誌(1850年)-孝霊天皇に関する由緒を例に

2021-05-15 05:51:19 | 閑話休題

1 磯部伊雑宮についてのある方の記述を引用させてもらいます(抜粋)。
 「伊雑宮旧記」・「五十宮伝来秘記見聞集」などによると、「伊雑宮こそ天照大御神を祀る真の日神の宮であり、外宮は月読を祀る月神の宮、内宮にいたっては瓊々杵を祀る星神の宮に過ぎない。徳川時代にここの磯部の信仰こそ、本当の原始の天照大御神信仰の始まりの地だと熱烈な運動がここで起きたが幕府には認められなかった。偽書を幕府に提出したかどにより、伊雑宮の神人四七人が追放処分を受ける。その熱烈な信仰運動は、いつのまにか内宮のために転用されてしまった。その主張が全面的に認められなかった伊雑宮と、内外両宮、特に内宮との対立は水面下で進行することになる」とする。
 (地元の伝承) 「形の上では内宮は格上で伊雑宮は下である。しかし、本当は伊雑宮がもとだった。白い馬の風習も伊雑宮の馬からだった。馬も習慣も内宮に持って行かれてしまった。千田寺周辺は廃仏毀釈でとにかくしこたまやられた。ここらはみんな千田寺の檀家だったんだが、みんな神道に変えられた。千田寺は後に火事にあった。今はただの草むらになっとる。なにも残ってない」とある。
 文書よりも人づてによる口伝にこそ真実が残る。文書とは、時の権力の影響を一番に受ける対象であり、廃棄や改ざんが必ず起こる。政権交代が起こると、過去の物は改変される。

2 磯部の区長をしているかたは「幕府ですか」と言った。幕府ではなく京都の藤原氏と思われる。伯耆国と同じように徳川幕府は志摩国の歴史も知っており優遇したはずである。
 人づてによる口伝たる「伯耆民談記」こそ真実が残るのであり、「伯耆誌」は「伯耆民談記」の改ざん改変を強いるものである。
 「伯耆誌」は地名・人名の読み方の共通性を取り上げて論ずることが多く、机上で論ずる藤原氏の論法に似ている。また1850年頃は明治維新前であり、国威を発揚するために長年にわたって改ざんしてきた「大日本史」を完成させなければならなかった。徳川光圀が暴いた倭国の都を消し去らなければならなかった。
 松岡布政の著した伯耆民談記(1742年)には 
 一、刀鍛冶の事  安綱 「大原五郎太夫と号す。河村郡大原村に鍛冶屋とて今にあり。此所に住居せしとなり、平城天皇の御宇(806年~809年)の鍛冶にて、源家累代の宝剣、鬼切丸の作者なりと言う。・・・。太平記には、会見郡の大原の鍛冶工なりと述べあれど、会見郡に大原の地名なければ、河村郡の誤りなり」とある。
 また、「伯耆民談記」では大原安綱を作った大原は倉吉市大原であるとするが、倉吉市大原は石上神宮があったところだから私も同感である。しかし、通説(これも藤原氏が作り上げた)は西伯郡伯耆町であるとする。西伯郡伯耆町に安綱の碑文があるが、これも藤原氏による比定地の改ざんである。
 徳川家康は賢かった。秀吉が藤原氏にどう扱われていたのかをよく見ていたので京都に近づこうとしなかった。したがって徳川時代は伯耆国の神社は優遇されていた。皇大神宮と名乗ることを許された神社が4社あった。
 明治政府の伯耆国に対する冷遇に対して伯耆国は反発したはずである。明治政府(藤原氏)は明治9年に鳥取県がうるさいことを理由として島根県に併合し鳥取県をなくした。

3 鬼住山ものがたり(旧溝口町発行より) 
 第7代孝霊天皇の時代のことです。
 「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
 「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
 「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
 などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
  天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。
 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
  天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
  伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。

4 高杉神社(大山町宮内)
〈祭神〉
 大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命(朝妻姫)、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子
〈由緒〉
 雄略天皇丙辰の年近郷衆庶に崇りあり。在事年を累ね人民これを歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松姫命、千代姫命の霊魂が細姫に対し嫉妬の崇りありとし、これを神廟に祭祀し御告の隋に宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)、二ノ御前社(中殿)、三ノ御前社(末殿)と奉仕し、祭日には嬲神事とて三人の仕人物忌み神懸りあり。幣帛をもって打合せ式あること絶えず。・・・。当社社伝には孝霊山は景行天皇(孝霊天皇)御草創の地にして、皇子忍別命の本居別稲置の首にして当社は皇孫代々の宗廟たりと。
〈私見〉
 古事記・日本書紀と同じく藤原氏の神社庁は孝霊天皇であったのを景行天皇に入れ替えている。この神社の主役は大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)である。大足彦忍代別命(景行天皇)はあとで取って付けたように思われる。細姫は孝霊天皇の正后であり、山は孝霊山である。
 私見によると、嫉妬の崇りがあったのは孝霊天皇の正后である細姫ではなく、高杉神社の近くの妻木から娶られた朝妻姫であると解する。都は奈良にあったと思わせるように書かれているが、都は鳥取県中部にあったから妻木に行ったり来たりはその日のうちにできた。
 「松姫命、千代姫命の霊魂が細姫(朝妻姫)に対し嫉妬の崇りあり」とあり、おそらく松姫命、千代姫命も妻木の出身と思われる。妻木晩田遺跡は出雲文化であるので松姫命、千代姫命も出雲族と思われる。二人は霊魂となって嫉妬しているから自害したものと思われる。天皇が出雲族の姫を殺したから出雲族は攻撃を始めたという伝承がある。このことが倭国大乱の原因になった可能性がある。

5 孝霊天皇一族について記す伯耆国神社の由緒
(1) 生山神社
 伯耆誌に曰く「伯耆民談記に当社の山上に柴瀧というあり。孝霊天皇の皇女福姫命爰(ここ)に誕生ありしによりて後世これを生山と号しまた村名に及ぶ、というは例の妄誕なるべし」と。
 当社の山上に柴瀧というあり。孝霊天皇の皇女福姫命爰(ここ)に誕生ありしによりて後世これを生山と号しまた村名に及ぶ。
(2) 菅福神社
 当社の社伝記に「母来国日野郡菅ノ郷に鎮座の高宮大明神は人皇七代の帝孝霊天皇御旧跡の御社なり。この大御代に皇尊に背き国民を悩ます者あり。牛鬼という。帝の親征皇后細姫命幸を共にし給う。時に河の辺りに大なる石ありて、これを高御座となし、小菅を刈り薦(こも)となし、御鏡を石の上に置き給い、姫御子御降誕福姫命という。時に河音姦しく、天皇彼の御鏡を河に沈め給いて河伯に祈り給う。忽ち河音止まりぬ。その所を名付けて音無川といい、その地を産盥(たらい)という。さらに宮所を求め給い行宮を造らしめ給う。今の高宮社の地これなり。鏡を置かせ給える所を鏡岩大明神と斎ひ奉り、菅を刈らせ給いし所を菅の里という」と。
(3) 楽々福神社(日野郡溝口町宮原)
 当社鎮座につき伯耆民談記に曰く「楽々福大明神と号する社日野郡に建つ所都て四ヶ所、各孝霊天皇を祭る神社なり。但し印賀村の楽々福の社は彼の天皇の姫宮福姫を祭る神社なりと伝来す。当社を 日野大社と伝う。上古孝霊天皇の御宇当国西端に悪鬼あってこの地に御座をなされし鎮政なりと云う。すなわちこの所にして崩御あってその神跡と云って社の後に方八間の岩窟あり」。なお伯耆誌に曰く「・・・」
(4) 楽々福神社(日野郡大宮村印賀)
 祭神媛姫命(またの名は福姫)は孝霊天皇の皇女なり。この地において薨せらるという。社背山林中に御陵墓と称える地あり。伯耆誌に「今当社に福姫命一座とす。社山を貴宮山と号し、福姫命の御墓と称し、また崩御山といえるもあれど、すべて信じがたし。当社もと榎垣内村一條山に在りし」と。民諺記に記するものあり。溝口村郷社楽々福神社の所に記す。参照すべし。
 祭神媛姫命は孝霊天皇の皇女なり。この地において薨せらるという。社背山林中に御陵墓と称える地あり。
(5) 楽々福神社(日野郡日野上村宮内東宮ノ廻リ)
 孝霊天皇の皇子、大吉備津彦命と若健吉備津彦命と共に、西道鎮撫の勅令によって当国に巡行あり。この地に悪鬼占拠して人民を鹵掠せしを、ついに平定し給う。よって、若健吉備津彦命の功績を畏(かしこし)みてこの地に祀る。大日本根子彦大瓊命、細姫命、福姫命の三柱は父並びに正后妃に当たらせられる。
(6) 楽々福神社(日野郡日野上村宮内西馬場ノ筋)
 孝霊天皇の皇子、大吉備津彦命と弟若健吉備津彦命と共に、西道鎮撫の勅令によって当国に巡行あり。この地に悪鬼占拠して人民を鹵掠せしを、大吉備津彦命これを平け給い。ついにこの地に薨し給うを以て斎祀る。伯耆民談記に「東西両社共に大社にして神宮寺あり。社の後ろなる山上に岩窟あり。天皇の皇女崩御の窟なりと云い伝う。凡人臨むこと叶わず」と。また伯耆誌に曰く「・・・」
(7) 福成神社
 なお、当社には牛頭天王、愛宕大明神をも合祀すれどもその年代明らかならず。したがって県の明細帳にも脱漏せるが実際には吉備津彦命、大日本根子彦大瓊命、稚武彦命、細姫命、倉稲魂命をも加えるべく、なお他にも脱せるものありて実数は五十柱にも及ぶと云えり。
(8) 日谷神社
 伯耆誌に曰く「当社今大を王にかえて王宮大明神とするは例の社家の杜撰なり。応永の古文書によるに、楽々福大明神の地といえり」

6 伝承は全国に多くあるが、その伝承に対し藤原氏の反論がある伝承が本当の伝承である。藤原氏の反論のない伝承は藤原氏自身が創作した伝承であり、九州の神武天皇の伝承や神功皇后の伝承などは、全国に4万4千社ある八幡神社を使って創作された藤原氏の伝承である。 鳥取県中部でも倭文神社の下照姫命や、九品山大伝寺の中将姫伝説や打吹山の天女伝説などは、そこにあるヤマト王権の伝承を消すために創作された伝説である。