鳥取県中部の古代人は身体に朱丹を塗っていた。
1 瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書
鳥取県大栄町(北栄町)瀬戸
1998年 大栄町(北栄町)教育委員会
(1)まとめ
瀬戸35号境は円墳で、主体部の箱式石棺と墳裾部から子供用の箱式石棺の2基を検出した。主体部からはⅤ字状の石枕をした男性人骨と女性人骨の2体を検出し、副葬品に布痕のある鉄刀と刀子を検出した。頭蓋骨には赤色顔料が付着していた。子供用の箱式石棺からもⅤ字状の石枕が検出された。
本古墳で検出された箱式石棺はこの地域の特徴であるⅤ字状の枕石を配しているが、町内では、妻波古墳群で同じ埋葬形態の箱式石棺が確認されており、中でも妻波1号墳(向畑古墳・5世紀中期)では、瀬戸35号墳の1号埋葬施設と同じ形態の箱式石棺及び、Ⅴ字状の石枕が検出されている。その埋葬形態は男性1体と反対側から上に重なった女性1体が埋葬され、副葬品として布痕のある直刀と刀子が検出されており、 瀬戸35号墳と大きく類似する。埋葬形態等から推測すると、35号墳は妻波古墳群と同時期(古墳時代中期)のものと考えられる。
(2) 付章 瀬戸35号墳出土人骨
鳥取大学医学部法医学教室 井 上 晃 孝
ま と め
鳥取県大栄町瀬戸の瀬戸岩子山遺跡の瀬戸35号円墳の主体部の箱式石棺には、その両端 にⅤ字状の石枕があった。被葬者2体は仰臥伸展位で、その石枕を頭位にして、反対方向から下肢骨を交差する形状で埋葬されていた。
1号人骨は男性、年令は30代前半(壮年中期)位、身長は157cm。頭部(前頭部と顔面部)に鮮紅色の朱(水銀朱)が認められた。
2号人骨は女性、年令は20代後半(壮年中期)位、身長は143cm。頭部(歯牙遺残部位)にわずかの朱を認めた。後日、急速に退色したことから、この朱はベンガラと推定された。
被葬者同志の関係は、1人用の石棺に、あえて成人男女2体が特殊な埋葬形式(頭位を反対にして、下肢骨を交差する)で埋葬されたことは、生前かなり親密な間柄が思量され、 夫婦関係が推察された。
2 長瀬高浜遺跡(人骨は36体出土)
鳥取県湯梨浜町長瀬
1号墳の遺体は熟年女性でほぼ完全に人骨が残っていた。頭蓋骨は3個の高塀を組み合わせた土器枕にのせてあり、全体に赤色顔料が塗られ、額部に竪櫛がおかれていた。遺体の右手横には組紐を入念に巻いた鉄刀が副葬されていた。5世紀後半の須恵器を伴う。1号墳の東南東周溝肩部で小土壙内に大量のベンガラが入った甕を検出した。この甕は1号墳築造時の可能性もある。
75号墳第1埋葬施設 性別不明 頭骨に赤色顔料の付着。
86号第2埋葬施設 頭蓋骨の一部に付着した赤色顔料(水銀朱)が認められた。
SX46 人骨は出土しなかったが棺内は赤色顔料が全体に塗られていた。赤色顔料は遣存状態が良く、塗る時に用いられていたハケの跡も明瞭に見ることができた。
SX52 東西の両小口、北壁、南壁(東部のもの)の内面には赤色顔料ベンガラが塗彩されていた。
SX79 血液型はB型で5 ~ 6才位の女性。石棺内に用いられてい赤色顔料はベンガラであった。
3 夏谷遺跡(人骨は11体出土)
倉吉市和田字夏谷
弥生時代後期~古墳時代(前期~後期)
鑑定 鳥取大学医学部法医学教室 井上晃孝
3号墳1号人骨(10代後半の男性)。頭骨の前頭部~顔面部にかけて、鮮紅色の朱(水銀朱)の付着を認めた。
3号墳3号人骨(30代女性)。頭骨の顔面にわずかに朱の付着を認めた。
4号墳1号人骨(40前後の男性)。頭骨の前頭部にわずかに朱の付着を認めた。
6号墳1号人骨(30代後半女性)。頭骨の前頭部と顔面部に朱の付着を認めた。
7号墳1号人骨(10代女性)。前頭部と顔面部に朱の付着を認めた。
出土人骨11体中5体から朱の付着が認められた。
4 馬ノ山古墳 鳥取県湯梨浜町橋津
4号墳1号主体(成人女性)。発掘時には小臼歯のみが一個残り胸から頭の部分には相当量の朱がたまっていた。
5 妻波古墳群22号墳 5世紀後半
30代女性A型 頭蓋骨表面には明らかに朱色に着色した跡が部分的に識別される。眼窩の周囲には、はっきり朱色の着色を認める。左前頭骨と側頭骨にわずかに朱色の着色のあとがうかがえる。水銀が認められた。
6 島古墳群7号墳第二埋葬施設 4世紀後半~5世紀前半
考察・井上貴央
人骨の遺存状況は良好で、二体が確認された。東頭位の一体は、壮年の女性である。頭部付近に赤色顔料が付着する。
7 鳥取県中部の古墳は2395基あるが、人骨が出土した古墳は75 基114体にすぎない。そのうち、調査のできた42体(歯だけや大腿骨だけは省略しています)のうち11体に朱丹を塗っていたことが判明した。死後の頭胸部への散布なら、床面にも朱が付着するはずである。床面への朱の付着がないことをもって、改葬されたとする説があるが、骨の不自然な配置などが認められないため改葬ではない。また、馬ノ山古墳と長瀬高浜1号墳は死後に塗った(施朱)ことが明らかである。他は、生前好きな部分に朱を塗った残存と思われる。出土人骨うち26%は朱丹を塗った状態で亡くなっている。
京丹後市大宮町の佐坂古墳群から出土した42件の朱の付着した木棺はすべて人骨がなく、朱を散布(施朱)した床面の痕跡であった。生前朱丹を塗っていたかどうかは判らない。
妻波古墳群発掘調査報告書のまとめにおいて「妻波古墳群では、箱式石棺が検出もしくは発見されている古墳では、朱はすべての石棺から認められている。したがって、妻波古墳群の周辺では朱塗りは、一般的な葬法であったと推定してもさしつかえないと思われる」とある。しかし、人骨に限っては、井上教授は「朱が認められるのは頭骨の前頭部と顔面なので、洗骨してから着色したのではない」とする。
鳥取県中部の古墳は97%が円墳である。それは石棺の上に土をかぶせて円型の塚としている。副葬品には鉄製品(鉄鏃10本なども含む)が出土する。6世紀中頃になると横穴式石室の円墳(北栄町の上種西15号墳・上種東3号墳など)が築造され始める。
奈良の藤ノ木古墳も6世紀後半築造の横穴式石室の円墳で石棺は朱塗りであり、同棺二人埋葬であった。
8 私見
(1) 魏志倭人伝
「倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟卧息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食」
倭の地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。家には室があり、父母・兄弟は寝転がって寝るが、子供は別の部屋に寝かせる。朱丹のおしろいを身体に塗るが、それは中国で白粉を用いて化粧をするようなものである。飲食には竹や木で作った杯器に盛って、手で食べる。
「其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐」
人が死ぬと、棺に収めるが、槨はない。土で封じて盛った墓を造る。始め、死ぬと死体を埋めないで殯する期間は十余日。その間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりする。それは中国の練沐のようなものである。
(2) 魏志倭人伝に「倭人は、朱丹をもってその身体に塗る」とある。
死んでからどうしたかは「手掴みで食べる」の次に書いているから、これは生前の記述であり、朱丹を化粧品としていたと解釈すべきである。今日のおしろいと同じように朱丹を日常的に塗っていた。
北九州でも朱の付着した人骨が発掘されているが、倭国の王族が北九州にも住んでいたからである。新羅から人力船を出せば鳥取県中部に到着する。鳥取県中部(倭国)の一族が新羅に行こうと思えば、対馬海流があるので、北九州に行き出航に適した日まで待たなければならなかった。倭奴国は倭国から新羅(大陸)に渡航するために大事な国であった。海流に流されるので壱岐→対馬→新羅のコースを採らなければならなかった。新羅(大陸)に渡らず、そのまま北九州に住んだ者もいた。その中には王族もいた。
倭国王第4代懿徳天皇(在位40年~75年)は奈良を平定し、始めての中国への朝貢を倭奴国にさせた。後漢書倭伝に「建武中元二年(57年)、倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり」とあり、倭国と倭奴国は違うと書いている。史実は方角を90度回転して「倭国の極西界なり」と書くべきであった。
旧唐書倭国日本伝に「倭国は、いにしえの倭奴国である」と書いているが、倭奴国とは倭国に仕えていた国であり、倭国とは別の国であった。「新唐書日本伝」「宋史日本国伝」「元史日本伝」「明史日本伝」も右にならえで旧唐書と同じ書き方をする。
藤原氏は唐が勘違いしていることを知りながら、倭奴国が日本だと書かせた。そうすれば、本物の倭国(鳥取県中部)が消えるからである。日本(亡命百済王朝)は669年に天智(百済人の豊璋)が発案した国号だから、57年に中国に朝貢した倭奴国が日本であるわけがない。唐も隋を乗っ取った政権だから、過去の歴史書に関心はなかったのだろう。後漢書倭伝を参考にして、倭国の意味で倭奴国と記述している。史実は、倭国と倭奴国は別の国であった。
鳥取県中部が倭国であり、北九州が倭奴国であった。倭国は日本海沿岸(東海中)の鳥取県中部であった。卑弥呼(孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫)の選んだ邪馬台国は志摩国であり、卑弥呼が亡くなってからの景行天皇や豊鋤入姫(台与)の本拠地は鳥取県中部(倭国)に戻った。
9 参考
青谷上寺地遺跡出土の楯(紀元前50年~紀元50年)。赤く塗った顔と二つの渦が目のように見える。