「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

鳥取県中部の古代人は身体に朱丹を塗っていた

2019-03-17 08:09:11 | 閑話休題

鳥取県中部の古代人は身体に朱丹を塗っていた。

1 瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書
 鳥取県大栄町(北栄町)瀬戸
 1998年 大栄町(北栄町)教育委員会
(1)まとめ
 瀬戸35号境は円墳で、主体部の箱式石棺と墳裾部から子供用の箱式石棺の2基を検出した。主体部からはⅤ字状の石枕をした男性人骨と女性人骨の2体を検出し、副葬品に布痕のある鉄刀と刀子を検出した。頭蓋骨には赤色顔料が付着していた。子供用の箱式石棺からもⅤ字状の石枕が検出された。
 本古墳で検出された箱式石棺はこの地域の特徴であるⅤ字状の枕石を配しているが、町内では、妻波古墳群で同じ埋葬形態の箱式石棺が確認されており、中でも妻波1号墳(向畑古墳・5世紀中期)では、瀬戸35号墳の1号埋葬施設と同じ形態の箱式石棺及び、Ⅴ字状の石枕が検出されている。その埋葬形態は男性1体と反対側から上に重なった女性1体が埋葬され、副葬品として布痕のある直刀と刀子が検出されており、 瀬戸35号墳と大きく類似する。埋葬形態等から推測すると、35号墳は妻波古墳群と同時期(古墳時代中期)のものと考えられる。
(2) 付章 瀬戸35号墳出土人骨
 鳥取大学医学部法医学教室 井 上 晃 孝
 ま と め
 鳥取県大栄町瀬戸の瀬戸岩子山遺跡の瀬戸35号円墳の主体部の箱式石棺には、その両端 にⅤ字状の石枕があった。被葬者2体は仰臥伸展位で、その石枕を頭位にして、反対方向から下肢骨を交差する形状で埋葬されていた。
 1号人骨は男性、年令は30代前半(壮年中期)位、身長は157cm。頭部(前頭部と顔面部)に鮮紅色の朱(水銀朱)が認められた。
 2号人骨は女性、年令は20代後半(壮年中期)位、身長は143cm。頭部(歯牙遺残部位)にわずかの朱を認めた。後日、急速に退色したことから、この朱はベンガラと推定された。
 被葬者同志の関係は、1人用の石棺に、あえて成人男女2体が特殊な埋葬形式(頭位を反対にして、下肢骨を交差する)で埋葬されたことは、生前かなり親密な間柄が思量され、 夫婦関係が推察された。

2 長瀬高浜遺跡(人骨は36体出土)
 鳥取県湯梨浜町長瀬
 1号墳の遺体は熟年女性でほぼ完全に人骨が残っていた。頭蓋骨は3個の高塀を組み合わせた土器枕にのせてあり、全体に赤色顔料が塗られ、額部に竪櫛がおかれていた。遺体の右手横には組紐を入念に巻いた鉄刀が副葬されていた。5世紀後半の須恵器を伴う。1号墳の東南東周溝肩部で小土壙内に大量のベンガラが入った甕を検出した。この甕は1号墳築造時の可能性もある。
 75号墳第1埋葬施設 性別不明 頭骨に赤色顔料の付着。
 86号第2埋葬施設 頭蓋骨の一部に付着した赤色顔料(水銀朱)が認められた。
 SX46 人骨は出土しなかったが棺内は赤色顔料が全体に塗られていた。赤色顔料は遣存状態が良く、塗る時に用いられていたハケの跡も明瞭に見ることができた。
 SX52 東西の両小口、北壁、南壁(東部のもの)の内面には赤色顔料ベンガラが塗彩されていた。
 SX79 血液型はB型で5 ~ 6才位の女性。石棺内に用いられてい赤色顔料はベンガラであった。

3 夏谷遺跡(人骨は11体出土)
 倉吉市和田字夏谷
 弥生時代後期~古墳時代(前期~後期)
鑑定 鳥取大学医学部法医学教室 井上晃孝
3号墳1号人骨(10代後半の男性)。頭骨の前頭部~顔面部にかけて、鮮紅色の朱(水銀朱)の付着を認めた。
3号墳3号人骨(30代女性)。頭骨の顔面にわずかに朱の付着を認めた。
4号墳1号人骨(40前後の男性)。頭骨の前頭部にわずかに朱の付着を認めた。
6号墳1号人骨(30代後半女性)。頭骨の前頭部と顔面部に朱の付着を認めた。
7号墳1号人骨(10代女性)。前頭部と顔面部に朱の付着を認めた。
出土人骨11体中5体から朱の付着が認められた。

4 馬ノ山古墳 鳥取県湯梨浜町橋津
4号墳1号主体(成人女性)。発掘時には小臼歯のみが一個残り胸から頭の部分には相当量の朱がたまっていた。

5 妻波古墳群22号墳 5世紀後半
30代女性A型 頭蓋骨表面には明らかに朱色に着色した跡が部分的に識別される。眼窩の周囲には、はっきり朱色の着色を認める。左前頭骨と側頭骨にわずかに朱色の着色のあとがうかがえる。水銀が認められた。

6 島古墳群7号墳第二埋葬施設 4世紀後半~5世紀前半
考察・井上貴央
人骨の遺存状況は良好で、二体が確認された。東頭位の一体は、壮年の女性である。頭部付近に赤色顔料が付着する。

7 鳥取県中部の古墳は2395基あるが、人骨が出土した古墳は75 基114体にすぎない。そのうち、調査のできた42体(歯だけや大腿骨だけは省略しています)のうち11体に朱丹を塗っていたことが判明した。死後の頭胸部への散布なら、床面にも朱が付着するはずである。床面への朱の付着がないことをもって、改葬されたとする説があるが、骨の不自然な配置などが認められないため改葬ではない。また、馬ノ山古墳と長瀬高浜1号墳は死後に塗った(施朱)ことが明らかである。他は、生前好きな部分に朱を塗った残存と思われる。出土人骨うち26%は朱丹を塗った状態で亡くなっている。

 京丹後市大宮町の佐坂古墳群から出土した42件の朱の付着した木棺はすべて人骨がなく、朱を散布(施朱)した床面の痕跡であった。生前朱丹を塗っていたかどうかは判らない。

 妻波古墳群発掘調査報告書のまとめにおいて「妻波古墳群では、箱式石棺が検出もしくは発見されている古墳では、朱はすべての石棺から認められている。したがって、妻波古墳群の周辺では朱塗りは、一般的な葬法であったと推定してもさしつかえないと思われる」とある。しかし、人骨に限っては、井上教授は「朱が認められるのは頭骨の前頭部と顔面なので、洗骨してから着色したのではない」とする。
 鳥取県中部の古墳は97%が円墳である。それは石棺の上に土をかぶせて円型の塚としている。副葬品には鉄製品(鉄鏃10本なども含む)が出土する。6世紀中頃になると横穴式石室の円墳(北栄町の上種西15号墳・上種東3号墳など)が築造され始める。
 奈良の藤ノ木古墳も6世紀後半築造の横穴式石室の円墳で石棺は朱塗りであり、同棺二人埋葬であった。

 

8 私見

(1) 魏志倭人伝
 「倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟卧息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用籩豆 手食」
 倭の地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。家には室があり、父母・兄弟は寝転がって寝るが、子供は別の部屋に寝かせる。朱丹のおしろいを身体に塗るが、それは中国で白粉を用いて化粧をするようなものである。飲食には竹や木で作った杯器に盛って、手で食べる。
 「其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 擧家詣水中澡浴 以如練沐」
 人が死ぬと、棺に収めるが、槨はない。土で封じて盛った墓を造る。始め、死ぬと死体を埋めないで殯する期間は十余日。その間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりする。それは中国の練沐のようなものである。
(2) 魏志倭人伝に「倭人は、朱丹をもってその身体に塗る」とある。
 死んでからどうしたかは「手掴みで食べる」の次に書いているから、これは生前の記述であり、朱丹を化粧品としていたと解釈すべきである。今日のおしろいと同じように朱丹を日常的に塗っていた。
 北九州でも朱の付着した人骨が発掘されているが、倭国の王族が北九州にも住んでいたからである。新羅から人力船を出せば鳥取県中部に到着する。鳥取県中部(倭国)の一族が新羅に行こうと思えば、対馬海流があるので、北九州に行き出航に適した日まで待たなければならなかった。倭奴国は倭国から新羅(大陸)に渡航するために大事な国であった。海流に流されるので壱岐→対馬→新羅のコースを採らなければならなかった。新羅(大陸)に渡らず、そのまま北九州に住んだ者もいた。その中には王族もいた。
 倭国王第4代懿徳天皇(在位40年~75年)は奈良を平定し、始めての中国への朝貢を倭奴国にさせた。後漢書倭伝に「建武中元二年(57年)、倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり」とあり、倭国と倭奴国は違うと書いている。史実は方角を90度回転して「倭国の極西界なり」と書くべきであった。
 旧唐書倭国日本伝に「倭国は、いにしえの倭奴国である」と書いているが、倭奴国とは倭国に仕えていた国であり、倭国とは別の国であった。「新唐書日本伝」「宋史日本国伝」「元史日本伝」「明史日本伝」も右にならえで旧唐書と同じ書き方をする。
 藤原氏は唐が勘違いしていることを知りながら、倭奴国が日本だと書かせた。そうすれば、本物の倭国(鳥取県中部)が消えるからである。日本(亡命百済王朝)は669年に天智(百済人の豊璋)が発案した国号だから、57年に中国に朝貢した倭奴国が日本であるわけがない。唐も隋を乗っ取った政権だから、過去の歴史書に関心はなかったのだろう。後漢書倭伝を参考にして、倭国の意味で倭奴国と記述している。史実は、倭国と倭奴国は別の国であった。
 鳥取県中部が倭国であり、北九州が倭奴国であった。倭国は日本海沿岸(東海中)の鳥取県中部であった。卑弥呼(孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫)の選んだ邪馬台国は志摩国であり、卑弥呼が亡くなってからの景行天皇や豊鋤入姫(台与)の本拠地は鳥取県中部(倭国)に戻った。

9 参考

 青谷上寺地遺跡出土の楯(紀元前50年~紀元50年)。赤く塗った顔と二つの渦が目のように見える。


青谷上寺地遺跡は倭国大乱そのものであった

2019-03-05 07:14:53 | 倭国大乱の原因

 青谷上寺地遺跡は倭国大乱そのものであった。

1.2019年3月2日に鳥取市で「倭人の真実」というシンポジウムが開かれた。

 青谷上寺地遺跡で見つかった数十体の殺傷痕のある人骨が亡くなったのは2世紀後半であり、倭国大乱(147年~188年)の時期と一致する、とパネリスト3人の内2人(藤尾慎一郎氏と篠田謙一氏)が認めた。篠田氏は「土器編年より2世紀後半」とし、藤尾氏は「炭素年代測定により今まで数十年早く出る年代を修正すると2世紀後半になる」とした。

2 謎の出雲帝国・出雲神族の伝承より

 「ヒボコ族は天孫族と手を結び物部を将として吉備(?)から攻めてきた。彼らは逃げまどう女や子供までも殺した。出雲人が絶滅するのではないか、と思われるほどであった」とある。

3 私見
 出雲族の子孫の富氏の口伝によると「彼らは逃げまどう女や子供までも殺した」とする。この本が出版されたとき(1980年)には、まだ、青谷上寺地遺跡(2000年)は発掘されていない。なぜわかったのだろう。これはこの口伝が全くの出鱈目ではないからである。
 但し、自分たち(出雲族)の行った虐殺を相手(天孫族とヒボコ族)方に転嫁したのかもしれない。そうでなければ、青谷で行った虐殺を自分たち(出雲族)もやり返されたということである。
 まだ出雲族の虐殺された遺跡は発掘されていないので「逃げまどう女や子供までも殺した」のは出雲族(青銅器文化の一族)であり、青谷で行った虐殺を相手(天孫族とヒボコ族)方に転嫁したと思われる。
 倭国は雄略天皇の時代121国に分かれていた小国の一つであり、隋書には「つくしより以東はすべて倭に従う」とある。小国の倭国が全国を統一していた。
 出雲族の子孫(富氏)が「倭国大乱の相手は自分たち(出雲神族)だ」と認めているのである。倭国大乱の遺跡が青谷上寺地遺跡であり、青谷は骨鏃の一族であり、鳥取県中部は鉄鏃を副葬品とする一族であった。青谷も含めて鳥取県中部が倭国であり、倭国大乱は神武天皇の時から天孫族に従っていた出雲族の鳥取県を中心にした反乱であった。倭国が鳥取県中部にあったことを認めようとしない歴史学者(倭国は九州にあり鳥取県は何もない田舎だとする)が多い我が国においては、「倭国大乱の真実」はいつまでも解明されないであろう。倭国在東海中(倭国は日本海沿岸にある)を思い出してもらいたい。倭国は玄界灘ではなく日本海沿岸にあったのである。青谷上寺地遺跡が倭国大乱の痕跡である。
 国立歴史民族博物館の藤尾教授がまことしやかに「弥生時代は紀元前10世紀にはじまる」というくらいだから、いつの間に土器編年を捨てたのか。土器の時代の相互の照合ができないではないか。「ううん。そんなものはどうでもいいんだ。藤原不比等が神武東征を創作し神武の即位を紀元前660年としたのだから我々藤原氏はそれを守り通さなければならない。そのためには、何でもする。そのために歴史学会も牛耳っている。我々藤原氏に逆らうものは一生日の目を見ないと心得よ。」
 ははあ~、わかりました。藤尾慎一郎さま。


因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と倭建命(若日子建吉備津日子=開化天皇)・大吉備津日子(崇神天皇)たちは倭国大乱を戦っていた

2019-03-02 07:11:54 | 欠史八代

 因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と倭建命(若日子建吉備津日子=開化天皇)・大吉備津日子(崇神天皇)たちは倭国大乱を戦っていた。

1 孝霊天皇が土蜘蛛を襲ったのは大分県(碩田国)ではなく鳥取県(因幡国)であった。
 日本書紀・景行天皇十二年・「天皇は碩田国(大分県)に着かれた。・・・天皇は好ましくないと思われ、進んで行かれなかった。来田見邑に留まって、仮の宮をたててお住みになった。群臣と謀って、「いま多くの兵を動かして土蜘蛛を討とう。もしわが兵の勢いに恐れて山野に隠れたら、後にきっとわざわいをなすだろう」といわれた。椿の木を取って椎に造り、これを武器とされた。強い兵をえらんで椎を授け、山をうがち草をはらって、石室の土蜘蛛を襲い、稲葉川の上に破りことごとくその仲間を殺した。血は流れて踝までつかった。時の人は、つばきの椎を作ったところをつばき市といい、また血のながれたところを血田といった。また打猿を討とうとして、禰疑山を越えた。そのとき、敵の射る矢が、横の山から飛んでき、降る雨のようであった。天皇は城原に帰り、占いをして川のほとりに陣をおかれた」とある。
※ 私見
 倭建命は若日子建吉備津日子であり開化天皇であった。倭建命は景行天皇の皇子ではなく孝霊天皇の皇子であり倭国大乱を孝霊天皇とともに戦っていた。藤原氏は主人公も舞台も変えて日本書紀を創っている。以下の神社の由緒と付合するので孝霊天皇は因幡(鳥取県東部)で土蜘蛛(出雲族)と戦っていた。
(1)稲葉神社  現住所   鳥取市立川町5-115
 由緒「これ武内大臣当国下向の時三韓退治の御幡をこの地に収め祭らる。これによって、国名稲葉の字を因幡と改むという」
※ 私見
 因幡は古代、稲葉であった。「稲葉川」とは因幡川であった。三韓退治(任那を始めて創った)をしたのは倭建命と卑弥呼であり、武内大臣ではない。この由緒は八幡など幡の好きな神社庁が創った。
(2)久多美神社 現住所 鳥取市河原町谷一木947
 由緒 因幡誌に「岩田庄谷一木村にあり。古跡紛乱なし。日本紀・景行天皇・12年の条下に、来田見の邑に留めて宮室を権興しこれに居る、と見えたれば、これ来田見の古地なる疑いなし。景行天皇を祀れるか、いま九田伊大明神と称するは里村の訛りなり」とある。
※ 私見
 来田見邑は因幡国にあった。久多美神社は出雲と大阪に創ってあるが来田見邑は現在のところ出雲と大阪に創ってない。指摘したから創るかもしれないが。来田見邑に宮室を権興したのは景行天皇ではなく孝霊天皇である。
(3)都波只知(つばいち)上神社 現住所 鳥取県鳥取市河原町佐貫511  
 由緒 世俗呼んで市大明神(また大智大明神)と称す。因幡誌に曰く「都波只知上神社は八日市の西8町獨活谷の口にあり、この地は城原と称し、また海柘榴市という。景行天皇紀に「・・・」(上記)とある。即ち、この地は海石榴市の神の鎮座地にして、その祀るところ景行天皇・日本武尊なり。都波只知(つばいち)は海石榴市(つばいち)のかな書きにして、土人今市大明神というは故実の存するところにして殊勝というべし」と記せり。
※ 私見 
 日本書紀・景行天皇十二年の土蜘蛛との闘いの舞台は大分県(碩田国)ではなく鳥取県東部(因幡国)であった。天皇は景行天皇ではなく孝霊天皇であった。孝霊天皇は10年疎開していた但馬から因幡国にきて出雲族(土蜘蛛)と戦い、鳥取県中部(倭国)を取り戻してから、鳥取県西部(西伯郡・日野郡)に行って出雲族(鬼)と戦った。鳥取県西部では高杉神社を本拠地として出雲族の本拠地の妻木晩田を攻め、手間山に逃げ込んだ出雲族を待伏せし、降ってきたところを捕らえた。その後、溝口町・日南町・出雲を平定し倭国大乱は終結した。倭国大乱は鳥取県を中心にした乱であった。
 藤原氏(神社庁)は倭国が鳥取県中部であることを隠し、都は大和(奈良)にあったと思わせるために舞台を大分県などに移した。

2 武王大明神の「武王」とは建御雷神のことか。
 鳥取県神社誌の因幡国には明治維新まで武王大明神と称していた神社が9神社あり、祭神は建御雷神となっている。建御雷神は葦原中津国にまっすぐ行けばよいので、9か所を転々とはしない。9か所を転々とする必要があったのは、倭国大乱を戦っていた倭建命である。
 また、武王の「王」とは天皇のことであり、建御雷神は天皇ではない。倭建命はのちに天皇になっているし、建の字は武とも書く。武王とは倭武天皇のことであった。

(1)意非神社  現住所  八頭郡若桜町屋堂羅1
 意非の読みは近辺に大炊村があるので大炊だろう。社伝に曰く「形代白羽矢なり、里諺に当社始め隣村長砂一宮谷にあり。武内宿禰(倭建命)来征の時、その地より矢を放って曰く「この矢の落ちるところに神殿を遷すべしと。因って今いう矢落谷に遷す。この説によって考えるに矢堂羅は即ち矢通りのかな書きなるべし」と見え。
※ 私見
 これは倭国大乱の時であり、矢を放ったのは倭建命である。藤原氏は神社庁と組んで卑弥呼と倭建命の巡行を神功皇后と武内宿禰の巡行に替えている。
(2)武王大明神と称していた神社
古市神社(武王大明神)  現住所  鳥取市古市657
 祭神  建御雷神
安富神社(武王大明神)  現住所  鳥取市天神町
 祭神  建御雷神
神護神社(武王大明神)  現住所  鳥取市国府町神護675
 祭神  建御雷神
面影神社(武王大明神)  現住所  鳥取市正蓮寺192
 祭神  建御雷神
禰宜谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市祢宜谷227
 祭神  素戔嗚
細川神社(武王大明神)  現住所  鳥取市福部町細川350
 祭神  建御雷神
恩志呂神社(武王大明神)  現住所  岩美郡岩美町恩志95
 祭神  武王大明神
杉森神社(武王大明神)  現住所  鳥取市下砂見530番
 祭神  建御雷神
宮小谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市用瀬町赤波2441
 祭神  建御雷神
※ 私見
 武王とは建御雷神ではなく倭武天皇(王)といわれた倭建命であった。孝霊天皇とともに因幡国(鳥取県東部)を平定した。

 洗足山には鬼(出雲族)がいたので鳥取市用瀬町赤波の宮小谷神社のあたりは激しい攻防があったことは容易に察しが付く。

3 倭建命(若建日子吉備津日子)は吉備津彦(大吉備津日子)・武牟口命・橘入来宿祢らとともに因幡国・伯耆国を平定した。
(1)虫井神社  現住所  鳥取県八頭郡智頭町大呂967
 虫井神社由緒書には「当神社創立は景行天皇の時代という。日本国内が未だ平定されていない頃、大呂村夷住山に居を構え、広く因幡地方を支配していた荒海・里人・都都良麻の三兄弟の内、荒海が日本武尊熊襲征伐(九州平定)のみぎり、その先鋒として西征の途に就き、当地に来る武牟口命によって鎮撫された時、宝剣・弓矢を夷住山に祀り三社を建立、中社を虫井神(妙見社)、左社を三瀧神(蔵王権現)、右社を荒海(荒海大明神)として奉斎したのを起元とする。...」と記してあります。
(2)多加牟久神社  現住所  鳥取市河原町本鹿387
 特選神名牒には「今按ずるに社伝祭神大穴牟遅神事代主尊とあれど伊福部系図に大己貴命十四世孫武牟口命という人日本武尊に従って本国の賊荒海を平定したることみえたり。これによるに疑うらくは、この武牟口命を祀れるにあらざるか。この武牟口命を大己貴命の後と伝えたるをもって大穴牟遅神事代主尊と伝えるならん。姑附て考に備なう」とある。
(3)因幡国伊福部氏の系図の第十四 武牟口命(たけむくちのみこと)について
 伊香色雄命の子。母は布斗姫(ふとひめ)と曰ふ。
 此れ武牟口命は、「纏向日代宮に御宇大足彦忍代別天皇」(史実は孝霊天皇)の皇子日本武尊(倭建命)に陪り従ひて、吉備彦命(大吉備津日子)・橘入来宿祢等と与(とも)に、相ひ共に征西の勅を奉りて、去り行きぬ。時に或る人、針磨国(?)より言して曰はく。「稲葉の夷住山に住める荒海、朝命に乖き違いて、当に征討すべし」と。時に日本武尊(倭建命)、詔して曰はく、「汝、武牟口宿祢は、退き行きて伏せ平ぐのみ。吾は筑紫を平げて、背の方より将に廻り会はんとす」。時に詔を奉りて行くに、荒海・里人・都都良麻の三兄弟、参り迎へて槻弓八つ枝を献る。
※ 私見 
 大国主は素戔嗚の子であり倭建命の始祖は天照大御神だから同族であり、出雲族ではない。大国主の子孫(武牟口命)と倭建命が協力して出雲族を平定していたとしてもおかしくない。
 「吾は筑紫を平げて、背の方より将に廻り会はんとす」とある。伊邪那岐は「筑紫の日向の橘の小門の淡き原(北栄町原集落)」で禊をしたのだから、「筑紫」はかなり広範囲の地域であり、黄泉平坂のある鳥取県中部にあった。

 橘入来宿祢の「橘」とは「橘」の花の形をしていた葦原中津(北栄町)である。葦原中津(小さな湾)に船で入って来るのは韓国(朝鮮半島)からである。橘入来宿祢は韓国(新羅)から援軍としてやってきた。

 倭建命は鳥取県中部(倭国)を平定して、(〇〇川の)背(瀬)の方より廻って武牟口命と会った。藤原氏は稗田阿礼とは逆で特定される地名は消している。倭建命も神武天皇の子孫であり戦い方を踏襲しているから、南の津山に出て蒜山から筑紫(鳥取県中部)を平定するために降りてきた。関金の矢筈ヶ山と矢止荒神に残る伝承はその時の伝承と思われる。