「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

倭国歴史書原本の本当の神武天皇行軍コース

2019-04-03 06:12:31 | 火々出見と神武天皇4兄弟

倭国歴史書原本の本当の神武天皇行軍コース

1  日本書紀も、1540年までに書き換え、挿入をしている。
 日本書紀は720年以降も藤原一族の何人もの手で何度も書写されている。書写するときに示し合せて新たに文を挿入したとしてもおかしくない。人代巻28巻がそろったのは1540年であった。それまで、改ざん挿入がなかったと考えるほうが無理である。

2  日本書紀・神武・橿原即位
 「饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名付けて『空見つ日本の国』という。」とある。面白いけれども、空想科学小説であり、のちに挿入されたものである。原古事記においては、饒速日命は、船で小鴨川を下って大倭国(鳥取県中部)に至った、と記されていた。奈良時代には「虚空(ソラ)」と書かなかった。
 「ソラミツヤマトの国」と言ったのは饒速日命ではなく神武天皇である。稲飯命が建国した新羅の国号は「徐那伐」とした。ソナバルの「ソ」は「徐」である。ソラミツの「ソ」を漢字で書くと「徐」であろう。徐等満(ソラミツ)かもしれない。
 日本(ヤマト)とは倭(ヤマト)のことであり鳥取県中部であった。倭を日本に書き直している。

3 山陽でのコース

(1)難波
 湯梨浜町東郷池 「今難波というのはなまったものである」とある。今とあるのは、京都にいた藤原氏が加筆したものである。京都人は「今」という言葉を口癖のように使う特徴がある。湯梨浜町の北山古墳より東側は複雑な波(難波)が来ていた。日本書紀の難波とは、東郷池のことであった。
(2)草香村(日下村)
 倉吉市清谷から西郷地区まで 「河をさかのぼって、河内国草香村(日下村)青雲の白肩津に着いた」とある。1944年まで倉吉市清谷は日下村であった。清谷の上里神社の由緒に稲飯命と神倭天皇が出てくる。天神川の度重なる洪水による土砂のたい積により現在倉吉市清谷(日下村)は海抜4mより高くなっているが2~3mの地点も残っている。紀元前1世紀頃、津(青雲の白肩津)があった。倉吉市清谷から西郷地区までを河内国と言っていた。
(3)血沼(茅渟)の海 
 鳥取県湯梨浜町の東郷池 日本書紀にある茅渟(チヌ)とは黒鯛のことか。原本にあった文字は血沼であった。また海水で傷を洗うような者はいない。ここは汽水湖の東郷池である。
(4)木国 
 鳥取県智頭町 イツセが亡くなった木国とは和歌山県ではなく、鳥取県の智頭町であった。準王一族の多くいた和歌山県を聖地にしようという藤原氏の改ざんである。
(5)名草邑 
 津山市二宮 名草戸畔は頭・胴・足に切られた蛇とされた女族であった。イワレヒコは碫馭盧岩(おのころいわ)を磐境として祀っていた。
(6)佐野 
 総社市 総社市に佐野山の地名が残っている。
(7)神邑 
 福山市神村町 隣接する福山市柳津周辺にはイワレヒコの伝承地が多くある。通説は新宮市辺りとする。
(8)天磐盾 
 福山市柳津町の天津磐境 福山市柳津周辺にはイワレヒコの伝承地が多くある。新宮市の神倉神社ではなく2字が同じ天津磐境である。
(9)荒坂の津 
 岡山市の龍ノ口山の麓 丹敷戸畔は出雲族の姻戚の女族であり、荒神であり、龍蛇神を祀っていた。
(10)高倉下が剣を天皇に献上した地
 岡山県赤磐市の石上布都魂神社 イワレヒコは岡山県の旭川を北上していった。石上布都魂神社で高倉下は剣をイワレヒコに献上した。

4 内津国(鳥取県中部)でのコース

(1)高天原(古事記のみ)
 岡山県蒜山高原(鏡ヶ成) イワレヒコは旭川を北上した。旭川の水源地は蒜山高原である。蒜山の5神社の中で神武天皇は2神社に祀られている。福田神社まで行っているので、犬挟峠ではなく鏡ヶ成から降った。出雲族に気付かれないようにするためであった。
(2)宇陀
 鳥取県倉吉市高城地区 イワレヒコは高天原(鏡ヶ成)から穿邑(上大立)に降臨した(古事記)。楯縫神社の由緒よると、立縫郷の旧郷名は楯縫郷であった。楯はイワレヒコの軍の大事な武具であった。イワレヒコは「宇陀の高城に鴫をとるワナを張って・・・」の歌を詠んだ。弟ウカシ(出雲族)の子孫は宇陀の主水部であった(日本書紀)。国府川の川辺で四隅突出型墳丘墓(出雲族)が発掘されている。
(3)穿邑
 倉吉市上大立 宇陀は倉吉市高城地区であったから高城地区の上の集落の上大立である。上大立から延びる県道313号線(下見大鳥居線)はイワレヒコが山を穿って道を造った。
(4)国見が丘
 鳥取県北栄町の蜘ヶ家山 蜘ヶ家山に上がれば古代の国見がどんなものだったかがわかる。これほど周囲が見渡せる山はほかにない。国見が丘は蜘ヶ家山であった。
(5)高倉山
 倉吉市大谷の四王寺山 国見が丘は蜘ヶ家山だから、蜘ヶ家山と同じくらいの高さで近くにある山は高見神社のある四王寺山である。四王寺山は兄たちと育った山であり、勝手知りたる山であった。
(6)男坂・女坂
 鳥取県道23号線 四王寺山から見えて、目立つ坂と言えば黄泉平坂である。上神まではなだらかな坂(女坂)であるが、上神から蜘ヶ家山に上がる坂は急な坂(男坂)になる。男坂・女坂は黄泉平坂(県道23号線)であった。四王寺山の近くにいた男軍・女軍とイワレヒコは旧知であり、男軍・女軍はすぐにイワレヒコの軍に降った。
(7)石上(いそかみ)
 倉吉市大原 天神川の下流には石山(いそやま)があった。高倉下の倉はここにあった。大原には倉〇氏や倉□氏が多い。素戔嗚は晩年倉吉市の東山神社に住み、八岐大蛇を切った十握剣を対岸の大原神社(石上神宮)に奉納した。以前大原神社は伯耆国二宮の母木神社と言っていた。大原の安綱は倉吉市大原の出身である。大原神社(倉)に多くの良(吉)い刀があった。
(8)忍坂邑
 三朝町片柴集落 当時海水面が高かったので、湯梨浜町川上集落から石上神宮(倉吉市大原)に行くには湯梨浜町波関峠を通るのがメインであった。三朝町片柴集落が忍坂邑と思われる。三朝町片柴周辺では土蜘蛛(出雲神族)たちが採掘作業をしていた。素戔嗚も下流の三朝町山田集落で八岐大蛇(始皇帝の部下たち)に酒を飲ませている。神武天皇は素戔嗚にヒントを得て忍坂邑(片柴集落)に土蜘蛛(出雲神族)たちを集め、酒を飲ませて殺害した。
(9)墨坂
 湯梨浜町羽衣石集落 墨坂の横には川が流れていることが条件である。墨坂は羽衣石集落の坂であった。坂に沿って羽衣石川が流れている。長和田集落に国譲りで退いた出雲族(事代主と百八十神)がいたのであり、兄磯城・弟磯城は事代主と百八十神の子孫であった。
(10)吉野
 倉吉市北谷地区 倉吉市北谷地区の杉野・中野・森を吉野と言っていた。
(11)城田
 琴浦町別宮 313号線が琴浦町下見まで通じているので鳥取県琴浦町別宮に城を築いた。しかし、加勢蛇川の東岸(宮場)のほうが気付かれない。加勢蛇川の東岸を伊勢まで下り船で北条砂丘に至った。最初の拠点は宮場であった。
(12)伊勢
 琴浦町伊勢野から海岸まで 旧伊勢崎小学校の西の中尾遺跡で弥生時代前期と縄文時代晩期の遺跡・遺構が発掘された。伊勢野から海に至るまで伊勢であった。イワレヒコは宮場から伊勢に至り、伊勢から船で北条砂丘に至り、伊那佐山(茶臼山)で敵情を視察し、土下山から赤土をもって下ろさせた。
(13)いなさ(否砂)山
 北栄町の茶臼山 周辺が北条砂丘の茶臼山である。イワレヒコは伊勢から船で北条砂丘に至り茶臼山に来た。茶臼山(伊那佐山)で敵情を偵察し二人に土下山(天香久山)の赤土を取ってこさせて勝敗を占った。
(14)天香具山
 北栄町の土下山 土下山は国譲りの「いなさの小浜」のあった北栄町の茶臼山に面しており、砂浜(中洲)でつながっていた。饒速日が降臨したのも土下山である。天孫族は国譲りの交渉で何度もこの山を通っている。饒速日と結婚した長髄彦の妹の登美夜須毘売も土下山(鳥見の白庭山のちに天の香久山)にいた。土下山と茶臼山との間には今は度重なる洪水で埋まっているが当時は天橋立のような中洲(笠沙之御前の柄)があった。長髄彦は中洲の豪雄と呼ばれていた。兄磯城軍(青銅器文化の一族)が陣取っていたのも土下山(鳥見の白庭山のちに天の香久山)である。麓から銅鐸が見つかっているし、中心部は赤土である。
(15)埴安(はにやす)
 鳥取県北栄町土下(はした)集落 赤土を取ったので名づけたところ。
(16)丹生の川上・宇陀川の朝原
 「にぶ」の地名は鳥取県東部(丹生)と西部(二部)にあるので中部の山側(高城)にも東部と西部につながる辰砂の地層があった。
 「水飴が採れる」と「魚が死ぬ」現象はどちらも水銀(仙薬)の有無を確認する行為である。赤土には辰砂(水銀朱)の混ざるものと酸化第二鉄(ベンガラ)が混ざるものとある。飴とは水飴(水銀朱)を意味し、イワレヒコは赤土に水銀朱(仙薬)を含んでいることを確認した。北栄町土下山には赤土が分布する。
(17)母木邑
 倉吉市大原集落 「その木を指して『恩は母のようだ』といった。時の人はこれを聞き、そこを母木邑(おものきむら)といった」とある。倉吉市大原の大原神社を古代は母木(ははき)神社と言っていたので大原集落を神武の時代には母木(ははき)邑と言っていた。伯耆国はもと母木国と書いていた。母木邑は母木国の元になった邑である。母を「おも」と読むのは韓人である。日本書紀は韓人(百済人)が作成した。
(18)磐余邑
 北栄町米里と北条島集落 磐余邑は片立あるいは片居と言っていた。中が汽水池になっていたので片方に居るしかなかった。神武天皇の時代北栄町米里と島はそういう地形であった。
 磐余彦の兵が天香具山(土下山)にあふれていたので磐余邑という。米里・北条島集落に接する土下山が天香具山である。この土下山(天香具山)の赤土を神武天皇の家臣二人が北栄町土下集落に下した。
(19)橿原宮
 倉吉市大宮集落 大宮集落の近くにある久米や弓削の地名はヤマト王権に属する部族がいた集落である。岡山県の久米郡にも大宮と弓削があるが、倉吉の弓削は大宮のすぐそばにあり、大宮には垂仁天皇より初期の天皇が居た。この橿原の地は国の奥深くにある。私見では30人の天皇の皇居のなかで一番山側(奥)にある。日本書紀の記述と一致する。

5 日本書記では神武天皇は論功行賞を行った。原古事記には書いてあったのだろうが、今の古事記からは削除している。
 論功行賞などの部分は改ざんしていないと思われる。このような部分を改ざんしても意味がないからである。
 弟猾に猛田邑を与えた。それで猛田の県主という。弟磯城を磯城の県主した。また剣根というものを葛城国造とした。
(1)猛田
 伯耆国河村郡竹田郷(三朝町竹田地区)のことである。国道179号線を人形峠を降りて三朝町本泉まで、国道482号線を三朝町福山から降りてきて三朝町本泉までの竹田川の流れる竹田の谷一帯である。
(2)磯城邑
 鳥取県湯梨浜町長和田集落 磯城の八十建がいた。
(3)磯城(師木)
 湯梨浜町東郷池の周辺である。
(4)葛城邑
 鳥取県北栄町曲集落 赤銅の八十建がいた。
(5)葛城
 蜘ヶ家山と日向を合わせた地域である。
(6)日向
 葦原中津国と四王寺山(畝傍山)を合わせた地域である。
(7)来目邑
 倉吉市上米積の後中尾遺跡 四王寺山(畝傍山)の南西を久米ヶ原という。その南の川(国府川)を久米川と言っていた。久米中学校やJA久米支店などの地名が残る。後中尾遺跡は紀元前100年頃から500年続いた住居跡である。
(8)そほ(ベンガラ)県の波哆の丘岬(新城戸畔)
 赤土(ベンガラ)は旧東郷町に多く分布する。
(9)和珥の坂下(居勢祝)
 新羅から来た和邇の船着場(東郷池周辺)の下(北側)である。
(10)臍見(ほそみ)の長柄の丘岬(猪祝)
 長柄の元は「長江」だから、これも東郷池周辺(鳥取県中部)にあった。

6 高佐士(こさし)野の丘の上
 鳥取県伯耆町大殿の越敷(こしき)山である。
 久古神社(祭神は伊須気余理比売)の対岸(越敷山の麓)の三嶋神社(伯耆町大殿)には伊須気余理比売の母の勢夜陀多良比売が祀られている。乙女の伊須気余理比売は母と一緒に暮らしていた。七人の乙女たちは越敷(こしき)山の麓の野で遊んでいた。伊須気余理比売の父は大物主(天忍穂耳命)ではなく、事代主(出雲族)の子孫の磯城県主(初代は弟磯城)と思われる。初代から数代の天皇は出雲族の娘を娶った(謎の出雲帝国より)。弟磯城は出雲族(準王一族)である。美保関や熊野大社に行くのに、伯耆町大殿の勢夜陀多良比売の家に宿泊していた。神武天皇に磯城県主を命ぜられた弟磯城の娘なら年代も付合する。
 大久米命は高佐士野の丘の上を、七人の乙女たちが野遊びをしているところに天皇を誘った。そして、「七人のうちだれがよろしいですか」と聞いた。天皇は「先頭に立っている乙女を妻にしたい」と言われた。それが伊須気余理比売である。