「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

鳥取県北栄町の三輪神社(天忍穂耳)と国坂神社(大国主)

2021-07-01 15:50:32 | 大物主
1 鳥取県北栄町下神の三輪神社と三輪山

 下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑。

 下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑(右)

 蜘ヶ家山(葛城山)より。左側が松神。右側が下神。下神の上、木の茂っているあたりに三輪山(邇邇芸)があった。三輪神社には天忍穂耳(大物主)がいた。
 
2 茶臼山(大国主の本拠地、伊那佐山・大神山・宇迦能山)と北条八幡神社
 三輪山の東(2kmくらい)に茶臼山(大国主の本拠地、伊那佐山・大神山・宇迦能山)がある。

 蜘ヶ家山(葛城山)より。茶臼山(大国主の本拠地)と三輪山(天忍穂耳=大物主の本拠地)との間の丘陵地に造られている北栄町北尾の北条八幡神社の山。
 
3 北条八幡神社の祭神と由緒​​
 土下の三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊を合祭す。
 当神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。
一、地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ.大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。
二、往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓 字三輪脇に在りし・・・・・。
※ 私見 このあたりを古代、伯耆国久米郡大神郷と言っていた。「大神」とは伊邪那岐の時代からこの国の「王」の代名詞であった。大神郷にこの国の「王」がいた。
 「大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ」と「土下の三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り」が問題である。
 藤原氏は下神の三輪神社(下神郷の中央なる三輪山の麓、字三輪脇に在った)を放火消失させて、移した土下の三輪神社の祭神を「大国主・少彦名」とした。これが奈良の三輪神社の系列なら同じところに再建するはずである。
 もともと「大国主・少彦名」は茶臼山の国坂神社に祀られており、土下に移したとする元の下神の三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祀られていた。
 倭国が創建した神社の強奪の一例である。強奪というのは、奪う過程において倭人を多く殺しているからである。藤原氏が政権を奪った奈良時代から晒し首が始まった。
 
4 大物主は天忍穂耳であり北栄町の三輪山にいた。天忍穂耳の御子の邇邇芸(日向御子)が楯縫神社で成長して大宮神社に移り葦原中津国を統治するようになるまで、天忍穂耳(大物主)は茶臼山(大神山)にいた大国主を助けて、西日本各地に住んだ多くの移民の生活環境を整えてやる大事業に携わっていた。それまで大国主のやっていた事業を国譲りの後は天孫族が引き継いでやっていた。

 旧東郷町史・第四節・東郷湾の時代には「今から十数万年前(洪積世)の東郷町の町域は、日本海が奥深く入り込み、大平山と馬の山に挟まれた大きな内湾の海中であった。その海岸線は、東郷谷の奥深い山すそを縁取るように、また、舎人・花見地区の平野部を完全に覆うように入り込んでいた。現在の標高でみると、約二十~三十㍍までの町域は、すべて海であったと考えられる。北条町の茶臼山・三輪山などは海中に浮かぶ島であった(図5)」とある。
 北栄町の隣の東郷町誌の古地図には左上に三輪山が載っている。その右が茶臼山(宇迦能山)である。

※ 私見
 佐治氏は海抜25mくらいに海面があった鳥取県中部の地形をほぼ正確に描いている。ただし、「今から十数万年前(洪積世)」とあるが、倉吉市住吉神社の案内板に「往古この一帯が入江であった頃」とあるので、縄文海進のピーク時は今から五千五百年くらい前であり、そのときの海面は海抜25m前後まで上昇していた。十数万年前(洪積世)なら住吉神の伝承は残っていない。佐治氏の想定図でも茶臼山・三輪山・石山が確認できる。

 左の白い囲い線は三輪山。三輪山の南(上=かみ)に三輪神社があった。倭姫命世記にある「倭の彌和の御室嶺の上の宮」はここであった。
 大物主(天忍穂耳)が三輪神社に来たので大国主は本拠地を松樹庵から国坂神社に移した。国坂神社は今でも大国主の子孫が奉斎している。
 右の白い囲い線は石山(いそのやま)である。石山はタギシ(古代の舵)の柄であった。タギシは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜であった。大国主は石山(いそのやま)を越えて沖を通る船の目印になる高い建物(出雲大社のモデル)に行っていた。
 大国主が通った、当時、水際沿いにあったと確認できる道路(黄色い線)が今でも残っている。
 

 


奈良の三輪山の「日向御子」は瓊々杵命である

2018-06-23 05:32:51 | 大物主

 北栄町下神に東の茶臼山より少し小さい三輪山があった。三輪山は今は崩されているが三輪神社跡の石碑は残っている。この山こそ奈良の三輪山のモデルである。ここに「日向御子」が祀られていた。
 下神の隣の松神神社には木花之佐久夜毘売・猿田彦が祀られている。ここに結婚前の木花之佐久夜毘売と猿田彦がいた。木花之佐久夜毘売は結婚して後は亀谷集落にいたが、下種の大宮神社にいた瓊々杵命に伴って天忍穂耳に会うために三輪山と大宮神社の間を行き来していた。下神の三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祀られていた。
 瓊々杵命は四歳で関金の神田神社に降りて、成長するまで矢送神社におり、その後、楯縫神社にしばらくいて下種の大宮神社に御所を築いたのだが、矢送神社も楯縫神社も日照時間が短く日当たりの良くないところである。下種の大宮神社に移ってから、「この地は朝日の直に射し、夕日が火照る国で非常に良い地だ」と言った。地元の住民(国神)はこれを聞いて瓊々杵命を「日向御子」と名付けた。瓊々杵命は日当たりの良さばかりを言うので地元の住民は「日向御子」のあだ名をつけた。
 また地元の住民は神阿多都比売に「木花之佐久夜毘売」というあだ名をつけた。神阿多都比売が通ると桜が咲いたように華やかになるので、このあだ名をつけた。鳥取県中部の集落の住民はすぐにあだ名をつける習性がある。
 私の祖母の母はたいそうな美人で娘のころは「お札去った」というあだ名をつけられていたそうである。お札とは明治時代の神功皇后の肖像が入った一円札・五円札・十円札である。お札の神功皇后はたいそうな美人である。祖母の母は神功皇后の肖像に比べられるほど美人であったらしい。
 このように鳥取県中部の集落はあだ名をつけるのが好きな地域性である。このような集落の地域性というものは、二千年たっても変わらないと思われる。
 「日向御子」とは瓊々杵命のあだ名であり、「木花之佐久夜毘売」とは神阿多都比売のあだ名であった。「鵜草葺不合」も彦火火出見命のあだ名である。鵜草葺不合を生んだのは、木花之佐久夜毘売であった。
 米子に三輪神社があるがこれは全国に数ある三輪神社の一つで藤原氏が後に建立したものである。藤原氏は下神の三輪神社を放火焼失して消し去ろうとしているが、米子の三輪神社ではなく、下神の三輪神社が本当のモデルである。瓊々杵命の御所(下種)や葦原中津国とは目と鼻の先である。
 神武天皇は日向より出発したということを根拠に「日向御子」とは神武天皇であるという説がある。日向とは北栄町の葦原中津国と倉吉市の四王寺山のことであり、なぜ日向というのかは、瓊々杵命が言った「日当たりの良い地」だからである。だから「日向御子」とは「日当たりの良い」と言った本人の瓊々杵命に付けられたあだ名であり、神武天皇ではない。
 原因は、藤原氏が日向の地名を宮崎県に持っていき、奈良の三輪山の祭神を日向御子とし、神武天皇は宮崎県の日向から出発して奈良に到着した、としたからである。日向の地名の成り立ちと、瓊々杵命(日向御子)が鳥取県北栄町下種の大宮神社から北栄町下神の三輪山によく行き来していたことが分かっていないからである。
 下神の三輪山にいたのは、瓊々杵命の父の天忍穂耳命である。大物主とは天忍穂耳命のことであり、天忍穂耳命はここを拠点にして活動をしていた。

大物主とは天忍穂耳であった

2018-06-22 16:48:39 | 大物主
1 「古事記」によれば、「大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神様が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が『どなたですか?』と聞くと『我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり』と答えた」とある。
 「奈良の三輪山・三輪神社の祭神は日向御子と大物主であり、大物主は日向御子の父である」というヒントをもとに、北栄町下神の三輪山・三輪神社の祭神を考えてみた。
 邇邇芸は葦原中津国にいる出雲族(八十神)に子が生まれて成長するまで、倉吉市上福田の楯縫神社から父のいた北栄町下神の三輪神社まで行き来をしていたコース(倉吉市半坂経由で灘手別所から船で北栄町下神まで)が特定できる。
 邇邇芸は日当たりの良さを言うので、あだ名を付けることが好きな地元民に「日向御子」と呼ばれていた。下神の三輪山の祭神は邇邇芸(日向御子)であった。邇邇芸は三輪神社の大物主(天忍穂耳)に会いに来た大国主とも会っていた。
 
2 三輪神社(天忍穂耳)側から茶臼山(大国主)を見る。

 大物主は天忍穂耳だが、江府町下蚊屋山口神社の祭神になっており、天安河原(江府町下蚊屋)での相談のときは天安河原にいた。饒速日・天照大神ほか大勢は江府町下蚊屋から鏡ヶ成→野添→関金町神田神社に降臨した。関金町耳から合流した天忍穂耳と饒速日は関金町日吉神社から船で小鴨川を下り清熊稲荷神社の峰(哮峰)に到着した。須佐之男に「一人になった大国主に協力してくれるよう」に頼まれた。大物主(天忍穂耳)は猿田彦と一緒に船で、小鴨川→天神川→茶臼山の東の内海に出て、茶臼山にいた大国主のところへやってきた。光り輝いてきたのは、猿田彦が鏡で照らしたからである。天孫降臨に際して、鏡を持った猿田彦を迎えに行かせたのも天忍穂耳である。

 茶臼山(大国主)側から三輪神社(天忍穂耳)を望む。下神の三輪山は当時は内海に面していて今より高い山であった。砂で出来ているので今は一部造成されて団地になっている。

 鳥取県北栄町下神にある三輪神社跡の石碑
 この三輪神社にいれば、葦原中津国とも近いため葦原中津国の様子がよくわかった。

3 大物主の子孫の大田命を祀っている神社は鳥取県西部に5神社ある。饒速日が祀られている江尾神社の周辺は大物主が祀られている。

 藤原氏は饒速日を消すために天忍穂耳を大物主という別名に変えた。鳥取県西部の祭神で使い分けているのは、饒速日を邇邇芸に書き直したのでそこは天忍穂耳のままにした。岡山で生まれて4才で鳥取県中部に降臨した邇邇芸が父の天忍穂耳と鳥取県西部で一緒にいるわけがない。鳥取県西部で一緒にいたのは鳥取県西部で生まれた饒速日である。
 饒速日の父は天忍穂耳であり、饒速日を祀る数少ない神社の江尾神社の周りには天忍穂耳は祀られていなければならないが、周辺の神社に祀られているのは大物主が多い。

4 邇邇芸の父(大物主)は実父(天忍穂耳)であった。
 神武天皇の四兄弟のいた四王寺山の横に上神がある。天孫族のいた山の麓には〇神という集落がある。それなら下神にある三輪神社にいたのも天孫族でなくてはならない。天忍穂耳が下神の三輪神社にいた。少彦名が常世の国へ去った後、大国主とともに多くの渡来人が定住した各地の衣食住の環境を整えてやる大事業を行っていた。国譲りの後、大国主命は邇邇芸と大事業を行った。邇邇芸は三輪山で大国主と会っている。 
◎ 原田常治氏の説
 「特選神名牒」では、桜井市三輪の大神神社の祭神は、「倭大物主櫛瓶玉命」と、「櫛瓶玉」がついている。松山市の国津比古命神社の祭神は、「櫛玉饒速日命」と、「櫛玉」がついている。大物主神は「大物主櫛瓶(甕)玉命」、饒速日は「櫛玉饒速日命」と呼ばれていた。
 饒速日について、神名の中に「櫛玉」があること、また大物主神には「櫛瓶(甕)玉」があることから、原田常治氏は「櫛玉=櫛瓶(甕)玉」と結論して、「大物主は饒速日尊であることが判明した」と言った。
 しかし、「櫛玉=櫛瓶(甕)玉」ではなかった。「櫛玉(くしたま)」は息子であり、「櫛瓶(甕)玉(くしみたま)」は父親であった。

 櫛玉饒速日は江府町江尾神社から下蚊屋(大物主が祀られている)に集合し猿田彦の待っていた鏡ヶ成から野添経由で関金町神田神社に降臨した。関金町日吉神社から関金町耳にいた父の櫛甕玉天忍穂耳とともに船に乗り倉吉市の清熊稲荷神社の峰(哮峰)に到着し、大国主の父の須佐之男に会い、十種神宝を授かった。
 天忍穂耳は須佐之男に頼まれて少彦名のいなくなった大国主に協力するために、猿田彦と一緒に船で大国主の居る茶臼山松樹庵の東の内海に到着して鏡で照らした。その後、天忍穂耳と猿田彦はそれぞれ大国主より西の下神(三輪神社)と松神に住んだ。

5 参考 鳥取県西部で大物主・天忍穂耳・大田命を祀る神社
北野神社 米子市赤井手(大物主)
三輪神社 米子市小波(大物主)
鶴田神社 西伯郡南部町鶴田(大物主)
森脇神社 西伯郡伯耆町畑池(大物主)
小林神社 西伯郡伯耆町小林(大物主)
井原神社 日野郡日野町福長(大物主)
矢原神社 日野郡日南町茶屋(大物主)
御机神社 日野郡江府町御机(大物主)
山口神社 日野郡江府町下蚊屋(大物主)
大河原神社 日野郡江府町大河原(大物主)
勝田神社 米子市博労町(天忍穂耳)
犬田神社 米子市陰田町(天忍穂耳)
壹宮神社 西伯郡大山町上萬(天忍穂耳)
熊野神社 西伯郡南部町金田(天忍穂耳)
水谷神社 日野郡日南町笠木(天忍穂耳)
山根田神社 日野郡日南町福萬来(天忍穂耳)
野組神社 日野郡日南町新屋(天忍穂耳)
霞神社 日野郡日南町霞(天忍穂耳)
福成神社 日野郡日南町神戸上(天忍穂耳)
漆原神社 米子市橋本漆原(大田命)
田中神社 西伯郡南部町中三反田(大田命)
大田神社 西伯郡南部町下中谷赤岩(大田命)
菅福神社 日野郡日野町上菅250番(大田命)
福栄神社 日野郡日南町神福(大田命)