「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

​三神社の由緒に見る稚日女命(卑弥呼)と神功皇后(台与)との関係

2021-07-16 12:06:20 | 邪馬台国・卑弥呼

​三神社の由緒に見る稚日女命(卑弥呼)と神功皇后(台与)との関係

1 神戸の生田神社の由緒
 当社にお祀りする稚日女尊は、我国における最高神太陽神と崇められ伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神の「和魂あるいは妹神」と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を御加護する神様です。神功皇后が海外外征の帰途、紀伊の水門から難波へ向かったところ、海中で船が動かなくなった。そこで務古の水門に船を泊めて神占を行ったところ、稚日女尊が現れられ「吾は活田長峡国に居らむ」と託宣したので、海上五十狭茅に祀らしめた。
 稚日女尊は「若々しい日の女神」の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名とする。

2 三重県の伊射波神社の由緒
 稚日女尊は天照大神の「妹君、分身」とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、神功皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。

3 和歌山県の玉津島神社の由緒
稚日女尊は、天照大神の「御妹」に当たられる。長足姫命は即ち神功皇后である。神功皇后が海外に軍をおすすめになられた時、玉津島の神(稚日女尊)が非常な霊威をあらわせられたため、神功皇后これに報われ、御分霊を今の和歌山県伊都郡かつらぎ町天野の地にお鎮めもうしあげ、爾来、玉津島・天野に一神両所に並び立ち、毎年天野の祭礼に神輿がはるばる天野から玉津島に渡御する所謂『浜降りの神事』が応永の頃(1429年)まで行われた。玉津島の神を尊崇せられた神功皇后は、後に卯の年月にちなみ、御自身も合祀されることとなった。

4 稚日女命と神功皇后との関係(ある方の思い)
 神功皇后が凱旋したときに、なぜか往路では登場しなかった、稚日女尊が「私は活田長峡国に鎮座しましょう」とおっしゃた。いつの間に船に乗ったのでしょう?
 神功皇后は殊の外、稚日女尊を尊崇せられた・・・としています。稚日女尊はご自分から先導を申し出られたのではなく、神功皇后が自ら願い出て、同行していただいた神である、と想像できます。ただ、その場合気になるのは優先順位です。既に、天照大神・事代主命・住吉三神が「わしらに任せとけ!」とおっしゃってるのに、稚日女尊に援助を願うというのは、前者三方にとっては失礼なことです。また、稚日女尊は天照大神の「妹神」です。天照大神の家系が「女系」であり、しかも「末子相続」のお家事情があるならば、天照大神より高位ということも考えられる。しかし、天照大神より高位だとすれば、「稚」なんて文字使いますか???
 その姫は、天照大神よりも、住吉三神よりも、事代主命よりも、ずっと力の強い神であった、とか。女性でありながら、海外まで戦に出かけ、そして、勝利したとされる女傑・神功皇后も、天照大神も一目置く女神であった、ということならば納得できるんですが・・・。

5 私見
 稚日女命は魏志倭人伝の「卑弥呼」であり、神功皇后は魏志倭人伝の「台与」であった。
(1)稚日女命は「卑弥呼」である。
 ある方の思いからすると、稚日女命は天照大神・事代主命・住吉三神や神功皇后よりも高位でなければならない。
 稚日女命は鳥取県神社誌で日野郡日光村吉原神社の祭神になっている。鬼との戦場に近い日野郡日光村の山田神社には孝霊天皇がいた。孝霊天皇にお告げをした天津神とは奥隣の吉原神社にいた稚日女命であった。稚日女命は、(幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能が優れており、聡明で、物事を予知する能力を持っていた)倭迹迹日百襲姫命と同一人物であり、父の孝霊天皇の近くにいて鬼を平定するための知恵を授けた。
 海部氏勘注系図にある9世孫の妹の日女命(またの名は倭迹迹日百襲媛命)は邪馬台国の女王であり魏志倭人伝の卑弥呼である。稚日女命は天照大神の「妹」ではなく、藤原氏の神社庁に「稚」を付けられた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲媛命であった。稚日女命は全国各地の神社の祭神となっている。
 稚日女は天照大神の「妹」ではない。稚日女は卑弥呼であり、天照大神は徐福であった。日本(百済)の神社庁による倭国の神社の由緒の改ざん強奪である。
(2)神功皇后は「台与」である。
 系譜を調べたところ、12代倭国天皇は武内宿禰の父の屋主忍男武雄心命となる。豊鋤入姫は12代倭国王の妹であり武内宿禰の叔母になる。梁書倭伝に「また卑弥呼の宗女、台与を立てて王にした。その後、また男王が立ち、並んで中国の爵命を受けた」(復立卑弥呼宗女台与為王 其後復立男王並受中国爵命)とある。台与は豊鋤入姫であり男王は武内宿禰であった。二人は一緒に行動していた。古事記・日本書紀の神功皇后の段でも武内宿禰が一緒に行動している。神功皇后のモデルは豊鋤入姫であった。
 神功皇后は新羅に敵対する皇后として日本(百済)書紀に描かれている。倭国は鳥取県中部であったから、鳥取県中部に最短で到着できる千年続いた新羅は倭国の敵ではなく倭国の盟友であった。「神功皇后は倉吉市上神におり、倉吉市北面(つくしの日向)で出産した」という伝承が残っている。神功皇后は倭国(鳥取県中部)の皇后であった。他の伝承に比べて不自然なほど多く残る北部九州の神功皇后の伝承は藤原氏によって創作されたものである。神功皇后は倭国の皇后ではなく新羅に敵対していた百済の皇后として描かれている。神功皇后は原古事記にあった豊鋤入姫の旧事をもとにして百済色に色濃く改ざんされて描かれている。神功皇后は不比等をはじめとする百済史官によって改ざん創作された。
(3)藤原氏は倭国を乗っ取り、皇統が途切れたことがわかっているから、あえて万世一系の皇統と戦前まで言い続けてきた。今でも明治政府(藤原氏の政府)が創った東京大学の教授は万世一系の皇統と言い続けている。日本という国名は669年の百済王天智の発案である。日本(百済)書紀は不比等の創作であり、勝者の日本(百済)の歴史書である。敗者の倭国(鳥取県中部)の歴史書は書き換えられ葬り去られる。
 古代史が混迷に陥っている原因は、藤原氏が作った官制の日本(百済)書紀に間違いはない、あってもわずかな部分だけだろう、と思っているからです。天武天皇が作らせた原古事記には高市大王まで書いてあったはずである。それを、改ざんして日本(百済)書紀を作り、原古事記の後半部分は消し去った。しかも、古事記に残っているものでさえ、半分近くは書き換えられている。その書き換えられた本当の部分を明らかにするのがこれからの古代史研究家に託された使命であると思う。その大前提はやまと(大和)は奈良ではなく、本当のやまと(倭)は鳥取県中部であったということである。
 例えば、神功皇后は倭国(鳥取県中部)にいた皇后(伝承が残る)であったが、倭国と敵対していた百済色に色濃く変えられているし、出雲国・伊勢国と書かれているところは後で藤原氏が書き換えていると思いながら読む必要がある。神武天皇の兄の稲飯命が海原に入ったと書いているが、これも対岸の朝鮮半島(辰韓)に渡ったというのが真実であり死んでいない。稲飯命の母の玉依姫は朝鮮半島(辰韓)から来ている。決して竜宮城からではない。邇邇芸と木花開耶姫の話は人間臭い話であり今でもありそうな話で、原古事記の改ざんはほとんどないと思われる。しかし、その子(彦火火出見)や孫(ウガヤフキアエズ)の話は大陸に似たような話があり、大陸出身の百済史官が書き換えた可能性がある。また神武東征も原古事記にあった「神武たちが蝦夷を平定して鳥取県中部(倭国)に帰ってきた物語」を書き換えたものである。
 日本(亡命百済王朝)は強奪に喜びを感じる扶余族であり、金品だけでなく、人間、名前、系譜、歴史など、何でも強奪する。強奪だから奪うときに人殺しをする。奪うこと(辻褄合わせ)の一貫で犠牲者(自殺者)が出ても知らん顔(死んで生贄になってください)である。
 明治政府は扶余族の藤原五摂家で始まった。神社庁も教育委員会も内閣官房・内閣府(明治維新の藤原太政官制が母体)も各省庁も扶余族の藤原五摂家(明治維新の太政官制)が先祖であるので、現在進行形で本当の歴史を消すこと(歴史の強奪)に躍起になっている。ここでは具体的に例示しないが、今でも、影に隠れて悪いことをしている。


倭国大乱における卑弥呼(稚日女命)の痕跡

2021-07-04 10:15:31 | 邪馬台国・卑弥呼

 稚日女命(倭迹迹日百襲媛命)は四国(讃岐)より応援にきて瀬戸内・吉備国を平定し鳥取県の東部から中部・西部・出雲国と平定していった。この倭国大乱(弥生後期)以降中国地方では青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が作られなくなった。中国地方以外では弥生後期も青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が製造されている。
 孝霊天皇一族は鳥取県東部・中部・西部を平定した。特に西部では、妻木晩田を拠点としていた出雲族を追い払い、南部町の手間山に逃げ込んだ出雲族(大国主の兄の八十神)を手間山の麓で捉えた。鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定して出雲族を降伏させ倭国大乱は終結した。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の青銅器はこの時に埋められた。

 稚日女命(卑弥呼)が祀られている神社

1 瀬戸内・吉備国の平定、新見の石蟹への攻撃
岡山県岡山市青江170 天野八幡宮
岡山県真庭郡勝山町大字若代2878 八幡神社
岡山県久米郡中央町打穴北124 磐柄神社
岡山県久米郡旭町西川上90 徳尾神社摂社杉尾神社
岡山県津山市沼430 齋神社
岡山県津山市綾部1086 綾部神社
岡山県真庭郡久世町大字久世948 朝日神社
岡山県苫田郡奥津町久田下原43 久田神社
岡山県浅口郡金光町大字下竹736 大森神社
岡山県浅口郡金光町大字占見新田1663 大森神社 大森神社
広島県福山市赤坂町大目456 生田神社
広島県呉市西川原石町6-21 照日神社
広島県広島市安芸区船越4-13-1 岩瀧神社摂社新宮社
広島県廿日市市串戸3丁目7-1 廣田神社
山口県玖珂郡周東町獺越1462 河内神社
山口県玖珂郡周東町大字三瀬川845 河内神社
山口県玖珂郡美和町大字阿賀432 速田神社

2 土蜘蛛の平定
 鳥取県岩美郡国府町大字新井395 折井神社
※ 近くに武王大明神(倭建命)を祀った神護神社があるのでここでも出雲族(土蜘蛛)を平定している。

3 妻木晩田を攻撃し、南部町手間山に逃げ込んだ出雲族(兄の八十神)を麓で捉えた。ただし、孝霊天皇や倭姫命を祀っている神社も合わせて初めてこの史実がわかる。
鳥取県西伯郡大山町上万1124 壹宮神社
鳥取県西伯郡名和町大字古御堂378 前田神社
鳥取県西伯郡名和町大字加茂477 賀茂神社
鳥取県西伯郡淀江町大字西原767 日吉神社
鳥取県西伯郡西伯町大字馬場1 長田神社

4 鬼住山への攻撃
岡山県真庭郡川上村西茅部1501 茅部神社
岡山県真庭郡八束村中福田392 福田神社
鳥取県日野郡江府町大字吉原903 吉原神社
※ 栃原の山田神社には孝霊天皇が祀られている。
鳥取県西伯郡岸本町番原727 植松神社

5 大倉山の鬼
鳥取県日野郡日野町舟場851 嚴島神社

6 鬼林山の鬼
鳥取県日野郡日南町新屋70 多里神社
広島県庄原市市町1599 田原神社

7 出雲本隊への攻撃(山越)
島根県安来市赤江町400 安屋神社
島根県大原郡大東町大字中湯石1446 日原神社
島根県大原郡大東町大字遠所754 艮神社
※ 出雲の振根を倭建命が殺したのもこの時である。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の青銅器はこの時、隠された。

8 西国平定
※ 神倭磐余彦たちと同じように山口県光市から船で大分県宇佐に渡った。
大分県宇佐市大字南宇佐2859番地 宇佐神宮摂社養蚕神社
大分県宇佐市大字下矢部666番地 歳神社
大分県大分市大字上宗方316番地 大明神社
大分県津久見市大字徳浦87番地ノ1 徳浦神社
※ 熊本県に行く途中の阿蘇山の周辺で多くの鬼八を平定している。弥生時代後期の鉄鏃が阿蘇山の周辺で三百余り出土している。この時代、鉄鏃を使用していたのは、鳥取県中部にいた一族であった。
熊本県玉名郡南関町四原1538 柿原神社  
※ 和水町の江田船山古墳の近くに熊襲はいた。
熊本県玉名郡長洲町長野1274 四王子神社 摂社若一皇子社
※ 熊襲のあとは天草を平定している
熊本県天草郡河浦町河浦5015-2 一町田八幡宮
熊本県天草郡河浦町路木2777 路木十五柱神社摂社生田神社
熊本県牛深市牛深町3198 牛深八幡宮摂社岡郷金刀比羅神社

9 中国へ行く拠点を朝鮮半島につくって(任那を初めて開設した)新羅から帰ってきた(173年)。
出港 佐賀県伊万里市黒川町小黒川405 若宮神社
※ 稚日女は若宮神社から朝鮮半島に向けて出港した。
帰港 島根県簸川郡大社町大字日御碕455 日御碕神社 摂社立花神社
※ 天照大神と須佐之男も辰韓から最初に出雲の日御碕神社に寄港しているので、稚日女と倭建命も朝鮮半島の新羅から出港している。海流の流れがそうなっている。
島根県八束郡美保関町片江721 方結神社
※ 片江を経由して鳥取県北栄町大島に帰還している。

10 倭国歴史書原本には倭国大乱についても記載があった。稚日女(倭迹迹日百襲姫命)は孝霊天皇と大吉備津彦と若日子建吉備津日子(倭建命)との連携で鬼や出雲軍本体を攻撃したことは明確に書いてあったはずである。しかし、藤原氏は自分たちの先祖が平定されていく様を残すわけにはいかず、古事記・日本書紀には直接には書かなかった。


稚日女命は、勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である

2021-06-10 15:41:36 | 邪馬台国・卑弥呼

 稚日女命は、勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である。

1 卑弥呼は孝霊天皇の皇女の「日女命またの名は倭迹迹日百襲媛命」と言う説が有力であり、調べてみることにした。
 孝霊天皇は鳥取県神社誌の祭神になっており、祀られている神社の分布図を作ってみた。すると、昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であったが、出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中していた。卑弥呼が孝霊天皇の皇女の「日女命またの名は倭迹迹日百襲媛命」ならば、出雲国に隣接する2郡に父の孝霊天皇と一緒に分布しているはずである、という推測のもとに鳥取県神社誌を調べてみた。ところが、祭神として日女命も倭迹迹日百襲媛命も祀っている神社はなかった。その代わり、稚日女命と倭姫命を祀っている神社が出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に見つかった。しかも、孝霊天皇の祀られている神社と関連があるような位置関係である。もしかしたら、稚日女命は日女命と同神ではないか。倭姫命も倭迹迹日百襲媛命と同神ではないかとの推測のもと調べてみた。
 古事記・うけいの勝負において「織女の一人は、機具の梭の端(はし)のところで陰処を突き、それがもとで死んでしまった」とあり、日本書紀の一書に「稚日女命は梭で身体を傷つけられて死なれた」とある。また、日本書紀・崇神天皇において「倭迹迹日百襲媛命は箸(はし)で陰部を撞いて死んでしまわれた」とある。日本書紀を信じるかぎり、稚日女命はただの織女で倭国女王の卑弥呼ではないと思われる。
 しかし、まてよ倭迹迹日百襲媛命も陰部を撞いて死んだことにしている。何か関連がありそうだ。しかも稚日女命は日女命と似ている。大「王」も大「臣」に変えられている。もともと倭国では祭神「日女命」とあったものを日本が倭国を乗っ取ってから「稚」を付けて「稚日女命」にしたのではないのか。

2 私見
(1) 鳥取県旧溝口町の鬼の館の説明文には「孝霊天皇は天津神のお告げに従って、笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせた」とある。

 饒速日に十種の神宝を与えたのは天神の御祖神とする。じつは饒速日と須佐之男は鳥取県中部の哮峰で会っており天神の御祖神とは須佐之男のことであった。しかし、須佐之男は出雲の神とし饒速日は大阪の生駒山の上を岩船で飛び回っていたことにしたので、天神の御祖神が須佐之男ということは隠さなければならなかった。
 「笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせよ」とお告げをしたのを稚日女と書けば、孝霊天皇の背後にいてお告げをした稚日女は神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫ではないかと疑われてしまう。そう思わせないために天津神という代名詞を使った。
 倭迹迹日百襲姫の弟の大吉備津彦と若日子建吉備津日子は吉備国を平定した(古事記)。一族は吉備国と接する伯耆国にも来ていた。伯耆国には孝霊天皇一族を祀る楽々福神社が多くある。倭迹迹日百襲姫は伯耆国で父の孝霊天皇と一緒に行動していた。
 「稚日女命」でわかったことは、もともと祭神を日女命として祀られていた全国の多くの神社に「稚」をつけさせた今の神社庁は、最初に神社を創った神社組織とは別の神社組織であるということである。倭国を日本に変えたのも雅でないからではなくて別の国だからである。万世一系の皇統とはいうだけで実は連続していなかった。
(2) 倭国歴史書原本を読んだ藤原不比等や百済史官にとってみれば、非常に面白くない。弥生時代後期に倭迹迹日百襲姫や若日子建吉備津日子の倭朝廷によって全国と半島はすでに統一されていた記録を残すわけにはいかなかった。
 日本書紀を作るにあたって、卑弥呼(日女命)を死んだことにするために、古事記の高天原で死んだ天衣織女を替え玉にすることを思いついた。それが稚日女命である。倭国では日女命はすでに全国の神社の祭神となっていた。日本は日女命を祀っている全国の神社に指示を出し、稚日女命に変えさせた。
 全国に祀られている稚日女命ももとは日女命(卑弥呼)であった。全国の神社は藤原氏が掌握していたから、日女命に「稚」を付けさせることぐらい、簡単なことであった。全国をネットワークでつなぐため、八幡神社だけでなく賀茂神社や日吉神社や天満宮や春日大社も藤原氏が造ったものである。もと社以外の浅間神社や諏訪神社も藤原氏が作り、ネットワークに組み込んだ。
(3) 鳥取県神社誌に見る孝霊天皇と稚日女命を祀る神社
 鳥取県神社誌が刊行された昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であった。そのうちの孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)を祀る神社は出雲国に接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中している。孝霊天皇と稚日女命は協力して出雲国に接する西伯郡と日野郡で鬼(出雲神族)と戦っていた。
 日光村での陣形(女性を敵から遠い背後に置く)は倭国大乱を同じ時期に戦った孝霊天皇と稚日女命(倭朝廷)の陣形と思われる。
 鳥取県神社誌より孝霊天皇と一緒に鬼(出雲神族)と戦っていた稚日女命は稚を付けられた日女命(神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫)であった。卑弥呼=稚日女命=日女命=倭迹迹日百襲姫命となる。

3 次に、稚日女命は「倭姫命世記」の倭姫命と同神となるか。
(1) 倭姫命は草薙剣を持っていたので女王であった。女王だから卑弥呼と思われる。倭姫命=卑弥呼=稚日女命である。
(2) 倭姫命も倭迹迹日百襲姫命も水稲の普及に尽力しており、同一人物と思われる。
(3) 勘注系図では11世孫の妹である日女命の亦の名として稚日女命と倭姫命を記載している。
(4) 倭姫命は海女の祖お弁にアワビを奉納されている。稚日女命もアワビを奉納されている。海女にアワビを奉納される姫が何人もいたとは思われない。
(5) 伊射波登美が仕えた倭姫命のいた伊雜宮(志摩市磯部町)は伊射波登美の本宮(安楽島町)から遠いが伊射波神社(安楽島町)は伊射波登美の本宮(安楽島町)と近い。伊射波登美は稚日女命がいた伊射波神社に行き来していたと思われる。倭姫命に仕えた伊射波登美を稚日女命を祀る伊射波神社の祭神にしている。伊射波登美は稚日女命にも仕えていた。伊射波登美は複数の姫に仕えていたとは思われない。

 以上により、高い確率で稚日女命=倭姫命と思われる。卑弥呼=稚日女命=日女命=倭迹迹日百襲姫命(笠井新也・肥後和男説)=倭姫命(内藤湖南説)となる。
 倭迹迹日百襲姫命(笠井新也・肥後和男説)は孝霊天皇の皇女であるが、倭姫命は日本書紀・倭姫命世記では11代垂仁天皇の皇女になっている。倭姫命(内藤湖南説)は本当に11代垂仁天皇の皇女であろうか。

4 「倭姫命世記」について
 倭姫命は巻向で祭祀をすることになったので安全な居所を探すための巡行をした。
 豊鋤入姫命の巡行については、別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。それを見ると倭朝廷(鳥取県中部)に深く関係する一族がいた地域であることがわかる。魏志倭人伝に「卑弥呼が亡くなり男王が立ったが国中が不服で互いに殺しあった。台与を立てて王と為し、国中が遂に安定した」とある。台与は豊鋤入姫命以外見つからない。なぜ豊鋤入姫命は倭朝廷に深く関係する一族がいた地域を巡行しなければならなかったのか。それは倭朝廷に深く関係する一族がいた地域で互いに殺しあっていたからである。なぜ互いに殺しあっていたかは、倭国女王の倭姫命が亡くなって悲観したのと男王に対する失望からである。倭姫命の巡行と豊鋤入姫命の巡行は目的も時代も違うものであった。
 藤原氏は全国を統一した倭姫命の事蹟を消したかったのだろうが、伊勢神宮を創建した由来を創らなければならなかった。伊勢神宮を創建した由来の「倭姫命世記」を作るために、本来孝霊天皇の皇女であった倭姫命の奈良の宇陀から志摩の伊雜宮まで巡行した事蹟を利用することを考えた。
 しかし、倭姫命の巡行は宇陀から始まるためなぜ宇陀から始まるのか説明できない。藤原氏は三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行を倭姫命の巡行の前に持ってくることを考えた。欠史8代とすることはできなかったので豊鋤入姫命は10代崇神天皇の皇女、倭姫命は11代垂仁天皇の皇女とした。巡行目的も一つにした。国史(日本書紀・倭姫命世記・勘注系図)はすべてこれで統一した。
 本来、二人の巡行は目的も時代も違うものであった。豊鋤入姫命の巡行は倭姫命が亡くなってからおこなわれた。倭姫命は孝霊天皇の皇女であり、豊鋤入姫命は孝元天皇皇子の彦太忍信命の娘(葛木志志見興利木田忍海部刀自)であった(住吉大社神代記)。彦太忍信命の娘(葛木志志見興利木田忍海部刀自)が神功皇后のモデルである。彦太忍信命の孫の武内宿禰大王と行動をともにした。11代垂仁天皇と彦太忍信命は従兄弟の関係になる。11代垂仁天皇には後継ぎがおらず、12代は彦太忍信命の子の屋主忍男武雄心命であった。12代は11代の反省から子孫を多く作ることに励んだ。古事記では12代の子は80人いたとする。

5 海部氏勘注系図について
 籠神社の主祭神は717年に藤原氏によって変えさせられている。藤原氏によって殺されるかもしれないという恐怖のもとに、717年に勘注系図も書き換えられている。同一神であるわけがない神名を亦名、一云、として多く書いたのは説明する時に藤原氏の目を眩ますためであった。
 9世孫乙彦命(彦國玖琉命)の妹の日女命。亦名、倭迹迹日百襲媛命これだけが参考になる。
 勘注系図はこれ以上深入りすべきではない。これ以上深入りすると、藤原氏の目を眩ますために書かれたあり得ない同一神に惑わされ、泥沼に入り込む。

6 参考
※ 海部氏勘注系図に見る卑弥呼と台与の候補
(1)6世孫 大倭姫、
○宇那比姫命、亦名、天造日女命、一云、竹野姫命、亦云、大海靈姫命、亦云、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫 
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命 
※ 鳥取県神社誌
 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)
(1)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
    現住所 西伯郡大山町宮内
(2)楽々福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
     現住所 西伯郡南部町東上
(3)楽々福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
     現住所 米子市上安曇
(4)楽々福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
     現住所 西伯郡伯耆町宮原
(5)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
     現住所 日野郡日南町宮内1101
(6)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
     現住所 日野郡日南町宮内1101
(7)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
    現住所 西伯郡南部町天萬
(8)菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
    現住所 日野郡日野町上菅
(9)日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
    現住所 日野郡日南町笠木
(10)山田神社 日野郡日光村大字杼原(栃原の誤植と思われる)字村屋敷
    現住所 日野郡江府町栃原
 稚日女命
(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
    現住所 米子市淀江町平岡
(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
    現住所 西伯郡大山町妻木
(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
    現住所 西伯郡大山町古御堂
(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
    現住所 西伯郡大山町加茂
(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
    現住所 西伯郡南部町西
(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
    現住所 日野郡日南町多里
(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
    現住所 日野郡江府町吉原
(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
    現住所 西伯郡伯耆町大原


内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった

2021-03-12 04:36:36 | 邪馬台国・卑弥呼

 内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった

1 京都帝大教授の内藤湖南は明治43年にその論文「卑弥呼考」において「卑弥呼は倭姫命であり、台与は豊鋤入姫である」とした。「卑弥呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、我が国史にては崇神天皇の皇女、豊鍬入姫の豊(トヨ)といへるに近し。国史にては豊鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる体なれども、倭人伝にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豊鍬入姫の方を第二代と誤り伝へたるならん」とする。
 内藤湖南の講義を聞いた笠井新也は大正13年の「邪馬臺國は大和である」において「内藤湖南は倭姫命説を唱えたが、自分は違うと思う」とし、「卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命であり、卑弥呼の墓は箸墓古墳である」とした。

2 私見 「倭迹迹日百襲姫命=稚日女命=倭姫命」について
(1)倭迹迹日百襲姫命=稚日女命について
 鳥取県伯耆町鬼の館の説明板には「孝霊天皇が鬼と戦っているとき、ある夜、天皇の枕元で天津神のお告げがありました。お告げに従って、笹の葉を山のように積み上げて待っていると、三日目の朝強い南風が吹きぬけていきました。あっという間に笹の葉は鬼の住処へと向かい、鬼の身にまとわりつき燃えだしました」とある。
 鳥取県伯耆町栃原の山田神社の祭神は孝霊天皇である。
 孝霊天皇と稚日女は鳥取県神社誌のなかで出雲国に接する日野郡と西伯郡に集中している(この時鳥取県は2市7郡であった)ので、倭国大乱の時代に一緒に出雲族と戦っていた。孝霊天皇と稚日女は同時代の人物である。この天津神は孝霊天皇の後ろにいた稚日女である。
 孝霊天皇の時代このようなお告げができる人物は誰だったのだろう。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命は「神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた女性であった」とされる。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫がお告げをしたと思われる。出雲王家の子孫の富氏の口伝に「出雲族は天孫族と戦っていた」とある(「謎の出雲帝国」より)ので、孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫は孝霊天皇と一緒に出雲国と隣接する地域(日野郡と西伯郡)で出雲族と戦っていた。
 倭国大乱とは天孫族と出雲族の争いであり、この時代の天孫族は孝霊天皇一族であった(神武即位年を紀元前60年とすると、倭国大乱の時代は孝霊天皇になる)。倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であったと解することによって魏志倭人伝にある「台与は卑弥呼の属していた宋女(王室の女)」という記述にも合致する。
 稚日女は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(日女)であった。
(2)稚日女命=倭姫命について
 全国の稚日女命を祀る神社の由緒を見ていくと稚日女命は鳥羽市安楽島町の伊射波(いざわ)神社(志摩国一之宮)を終の棲家にしたことが判る。

 伊射波(いざわ)神社(志摩国一之宮)には伊射波登美も祀られている。倭姫命は伊雑(いざわ)神社(志摩国一之宮)で天照大神を伊射波登美に祀らせた。どちらの姫も伊射波登美と関係しているので同時代の姫である。魏志倭人伝にある「ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入する」とは伊射波登美であった。
 どちらの姫も海女からアワビの献上を受けている。纏向遺跡からアワビの殻がたくさん見つかった。どちらの姫も纏向遺跡の時代の姫であった。
 魏志倭人伝に「下女千人を自ら侍らせる」とある。下女千人は志摩国の海女であった。現在でも千人近くいる。志摩国の海女は倭姫の時代に始まっているから倭姫が連れてきた采女が志摩国の海女のルーツであった。
 どちらの姫も伊射波登美と関係しており、同じ志摩国の同じ一之宮の同じ読みの神社(いざわ)で同じくアワビを献上された姫は同一姫であったと考えるのはおかしくない。稚日女命と倭姫命はアワビの殻が多く見つかった纏向遺跡と同時代の姫であった。
 稚日女命は倭姫命であった。
(3)倭迹迹日百襲姫=倭姫命について
(1)より倭迹迹日百襲姫命=稚日女命、(2)より稚日女命=倭姫命だから倭迹迹日百襲姫=倭姫命となる。
 ちなみに、倭迹迹日百襲姫は讃岐国で水稲稲作のためにため池を造ることを始めた。倭姫命は志摩国で水稲の良い品種を発見し全国に普及させた。どちらの姫も水稲稲作の普及に尽力している。

3 国史では豊鍬入姫(台与)が先であり倭姫(卑弥呼)が後であることについて
(1)国史では豊鋤入姫は10代崇神天皇の皇女、倭姫は11代垂仁天皇の皇女とされるが、史実は倭姫は7代孝霊天皇の皇女であり、豊鋤入姫は8代孝元天皇の皇子の彦太忍信の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自(住吉大社神代記)であった。豊鋤入姫は魏志倭人伝の台与であり、神功皇后のモデルである。
 倭姫命世記は伊勢神宮の起源を表すものとされるが改ざん創作されている。また、古事記・日本書紀も倭姫命世記に合わせて改ざんされている。
 中国には倭国の歴史を改ざんする動機がない。魏志倭人伝は改ざんされておらず、国史のほうが改ざんされている。なぜ国史は豊鋤入姫を先にし倭姫を後にしたのであろうか。
 もし、倭姫命世記に豊鋤入姫の巡行がなかったらどうであろうか。宇陀は纏向遺跡から隠れたような場所にある。纏向から段々遠のいていく倭姫の巡行だけなら、纒向で祭祀をするのだが、安全な居所を探すための巡行だとわかって、全国から神道の代表者を集めて祭祀をしていたことが判ってしまう。藤原氏以前に全国を統一していた王朝があったことがわかってしまう。藤原氏はこれを消さなければならなかった。
(2)伊勢国・伊勢神宮は藤原氏が倭国を乗っ取る以前に全国を統一した女王卑弥呼のいた邪馬台国(志摩国)を封印するために創られた。伊勢神宮を創建したもっともらしい由来も必要であった。
 倭姫命世記は伊勢神宮の由来を表すものとしてつぎはぎして作られた。豊鋤入姫と倭姫の巡行はもともと違う巡行であり、目的も時代も違うものであった。それを継ぎ接ぎし、まだなかった伊勢神宮を書き加えて伊勢神宮に帰ったように書いた。 
 倭姫命世記に「伊勢神宮を礒宮(いそのみや)といふ」とあるが、画像を見れば伊雜宮こそ礒宮であった。伊雜宮に使われていた礒宮(いそのみや)を伊勢神宮に移し替えた。
 「丁巳冬甲子、天照太神を奉遷し、度会の五十鈴の河上に留る」からの記述は急ににぎやかになるので、にぎやかなのが好きな藤原氏による加筆が見られる。すでに伊勢神宮があったかのように思わせるためである。「戊午秋九月の千穂」からの記述は原文のままだが、「また明る年秋のころの八百穂」からの記述は八の好きな藤原氏によるのちの加筆である。伊勢神宮に帰ったと思わせるためである。倭姫命は伊勢国に引き返してはいない。この時代は倭姫命の創った磯部の伊雜宮しかなかった。倭姫命は志摩国(邪馬台国)の鳥羽市安楽島町の伊射波神社を終の棲家として稚日女命(倭迹迹日百襲姫命)に名を変えて生涯を終えた。
(3)倭姫命は纒向で祭祀をすることになり、倭姫命の安全な居所を探すため21国を巡行したが、豊鋤入姫は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行であったから倭国(鳥取県中部)とその周辺の3ヶ所を巡行するだけでよかった。別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。
 卑弥呼は全国・半島と21国を巡行した倭姫命であり、台与は6ヶ所だけを巡行した豊鋤入姫命であった。豊鋤入姫の時代は倭姫によって既に全国は統一されていた。
 藤原氏は整合性を考えてひとひねりした。それは、6か所を巡行して三輪神社に帰ってきた豊鋤入姫命を倭姫命より先にすることであった。欠史8代の皇女とすることは禁止されていたから、許されるぎりぎりの10代の皇女にした。そして、倭姫命を次代の姪(11代の皇女)に持ってきた。そうすれば、三輪神社で終わる豊鋤入姫命から、奈良の宇陀で始まる倭姫命がバトンタッチしたように整合性を謀れる。この作り話のために宇陀の近くに三輪神社がなければならなかった。そのために奈良の三輪神社(本当の三輪神社は鳥取県北栄町下神の三輪神社)は創られた。このことによって、藤原氏以前に全国を統一していた王朝があり、全国から神道の代表者を纒向に集めて祭祀をしていたことを消すことができる。
 「倭姫命世記」は「倭姫命が奈良の纒向で祭祀をするために安全な居所を探すための巡行」と「台与は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行」とを順序を入れ替えて創作した創作物語であった。倭姫命は21国を巡行しても元気なのに、豊鋤入姫命はわずか6国しか巡行していないのに疲れたとする。その点でもこのバトンタッチはおかしいことがわかる。

4 卑弥呼は倭国大乱の時期(146年~189年、霊帝が168年からだから少なくとも170年頃までは終結していない)に活躍して、のちに女王となったから170年頃には成人であった。したがって卑弥呼は150年頃には生まれていなければならない。私見では151年~248年の96歳の生涯であった。魚介類を食し、人に尊敬されていれば長生きできるようである。卑弥呼が生きていた時代は纏向遺跡の時代と重なる。倭姫命も纏向遺跡と同時代の姫である。倭姫命の巡行は纒向に祭祀場を創ってそこで祭祀をすることを前提とした安全な居所を探す巡行なので纒向遺跡の時代でも初期の時代の姫である。
 纒向1類の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。纒向に祭祀場を造ることを前提として190年ごろに唐古・鍵集落などの環濠を埋めさせた。纒向編年では270年から290年に百済・馬韓ではなく古式新羅加耶土器(慶尚南北道、新羅・加耶地域のもの)が出土している。豊鋤入姫(神功皇后)の時代である。神功皇后は三韓征伐をしたとされるが、倭朝廷は新羅と兄弟国であった証拠である。
 倭姫命と倭迹迹日百襲姫命はどちらも卑弥呼であり同一人物であった。内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった。混乱の原因は、倭国の元(原本)を書き換え、倭姫命と豊鋤入姫命の順番を入れ替えた藤原氏であった。

5 参 考(鳥取県神社誌に見る倭国大乱に関係すると思われる祭神)
西伯郡・日野郡(当時、鳥取県は2市7郡)はどちらも出雲国と接している。
〇 大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)
〈鳥取県東部〉
 久多美神社 現住所 鳥取市河原町谷一木947
 都波只知(つばいち)上神社 現住所 鳥取県鳥取市河原町佐貫511 
〈鳥取県西部〉
 高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
     現住所 西伯郡大山町宮内
 楽楽福神社 西伯郡東長田村大字中
      現住所 西伯郡南部町中(篠相)
 楽楽福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
      現住所 米子市上安曇
 山田神社 日野郡日光村大字杼原字村屋敷
      現住所 日野郡江府町杼原
 楽楽福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
      現住所 西伯郡伯耆町宮原
 楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
 楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋 
 菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
 日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
 佐々布久神社 現住所 安来市広瀬町石原
〇 倭建命
〈鳥取県東部〉
 武王(倭武王)大明神と称していた神社
 古市神社(武王大明神)  現住所  鳥取市古市657
 安富神社(武王大明神)  現住所  鳥取市天神町
 神護神社(武王大明神)  現住所  鳥取市国府町神護675
 面影神社(武王大明神)  現住所  鳥取市正蓮寺192
 禰宜谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市祢宜谷227
 細川神社(武王大明神)  現住所  鳥取市福部町細川350
 恩志呂神社(武王大明神)  現住所  岩美郡岩美町恩志95
 杉森神社(武王大明神)  現住所  鳥取市下砂見530番
 宮小谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市用瀬町赤波2441
〈鳥取県中部〉
 今泉神社 鎮座地 東伯郡旭村大字今泉字上ノ山
  祭神 日本武尊
 中田神社 鎮座地 東伯郡安田村大字尾張字家の上
  祭神 日本武尊
〈鳥取県西部〉
 阪本神社  鎮座地 米子市長田字長砂
  祭神 日本武尊
 宗形神社  鎮座地 西伯郡成実村宗像
  祭神 日本武尊
 熱田神社  鎮座地 西伯郡幡郷村大字大殿字矢口
  祭神 日本武尊
 一ノ具神社  鎮座地 日野郡二部村福岡字鑪ヶ谷
  祭神 日本武尊 
 菅福神社  鎮座地 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
  祭神 稚武彦
 菅沢神社  鎮座地 日野郡大宮村大字菅沢字秋原
  祭神 稚武彦
 湯谷神社  鎮座地 日野郡多里村大字湯河字岩田
  祭神 倭武命
 楽々福神社  鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字東宮
  祭神 若建日子吉備津日子
 楽々福神社  鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
  境内神社 祭神 稚武彦
〇 伊福部氏系図第十四代  武牟口命
虫井神社  現住所  鳥取県八頭郡智頭町大呂967
多加牟久神社  現住所  鳥取市河原町本鹿387
〇 稚日女命
〈鳥取県東部〉
  折井神社    岩美郡成器村大字新井字宮の谷
〈鳥取県西部〉
 平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
     現住所 米子市淀江町平岡
 富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
     現住所 西伯郡大山町妻木
 前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
     現住所 西伯郡大山町古御堂
 古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
     現住所 西伯郡大山町加茂
 前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
     現住所 西伯郡南部町西
 岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
     現住所 日野郡日南町多里
 吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
     現住所 日野郡江府町吉原
 大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
     現住所 西伯郡伯耆町大原
 安屋咩神社  安来市赤江町400 
〇(神)倭姫(比女)命
〈鳥取県西部〉
 天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
     現住所 西伯郡南部町天萬
 高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女
     現住所 西伯郡南部町高姫
 蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷
     現住所 西伯郡日吉津村日吉津

 


台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった

2020-03-19 05:27:26 | 邪馬台国・卑弥呼

台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった

​​1 魏志倭人伝の卑弥呼と台与と国史における倭姫命と豊鋤入姫命
(1) 魏志倭人伝によると「倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。鬼道に事え能く衆を惑わす」とあり「更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壹與、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる」とある。
 「台与は卑弥呼の宗女」とある。宗女とは宗室(王室)の女子のことである。台与は卑弥呼の属する宗室(王室)の女子であり「王の娘」である。
 国史において豊鋤入姫命は崇神天皇の皇女とされる。豊鋤入姫命は台与(トヨ)と発音も似ているので、魏志倭人伝の台与(トヨ)と思われる。卑弥呼も宗室(王室)の女子と思われる。卑弥呼は倭国大乱の時代の天皇の皇女(王の娘)であった。
 倭国大乱(146年~189年)後に女王となった卑弥呼の父は孝霊天皇(120年~211年)と思われる。孝霊天皇は鳥取県西部で鬼(出雲族)と戦っていた。孝霊天皇の皇女で卑弥呼にふさわしいのは倭迹迹日百襲媛命である。
(2) 日本書紀・垂仁天皇には「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着く」とある。また、倭姫命世記は「天照大神は豊鋤入姫命を御杖代として各地を巡幸していたが、豊鋤入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命に交代した。倭国、彌和乃御室嶺上宮までは豊鋤入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸した」とする。
(3) 台与を豊鋤入姫命とし卑弥呼を倭姫命に比定すると、国史と魏志倭人伝とは順番が違う。どちらが正しいだろうか。
 疑問や矛盾の多い国史より魏志倭人伝のほうが正しいと解すべきである。国史では「豊鋤入姫命は崇神天皇の皇女」とするが、これは倭国を乗っ取った藤原氏による系譜の改ざんである。
 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。しかし、伊勢神宮ができた由来とするには説得力がない。何を言っているのかわからない。「天照大神が高天原から見た国に行きたい」では理由にならない。伊勢神宮でなければならない理由が書かれていない。倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命の巡行の次に、豊鋤入姫命の巡行では伊勢神宮に行きつくことはできない。「天照大神が高天原から見た国に行かせる巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行が必要であり、そのあと、宇陀から始まる倭姫命の巡行、としなければならなかった。伊勢神宮ができた由来を創作するために、目的も時代も違う巡行を整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。
(4) 倭姫命の巡行目的と豊鋤入姫命の巡行目的は違っていた。史実は「2世紀、倭姫命と倭建命の全国の準王一族(出雲神族)の平定が済んでから、倭朝廷と神戸にいた倭姫命(卑弥呼)が相談して奈良の纒向で神道の祭祀をすると決めて、倭姫命(卑弥呼)の安全な居所を探すために巡行し志摩国を都と定めた。3世紀、倭姫命(卑弥呼)が亡くなってから豊鋤入姫命(台与)は倭朝廷に深く関係する一族の倭姫命(卑弥呼)が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行をした」であった。2人の巡行は別の時代のそれぞれ違う目的の巡行であった。
 豊鋤入姫命が巡行した本当の巡行地は、倭国の笠縫邑は「鳥取県琴浦町八橋」であり、但波乃吉佐宮は「京丹後市丹後町の竹野神社」であり、倭国の伊豆加志本宮は「倉吉市長谷集落の長谷神社」であり、木乃国の奈久佐濱宮は「津山市二宮の高野神社」であり、吉備国の名方濱宮は「倉敷市上東」であり、倭国の彌和乃御室嶺上宮は「鳥取県北栄町下神の三輪神社」であった(別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参考されたし)。鳥取県中部(倭国)が都であったから、但波乃吉佐宮(竹野神社)と木乃国奈久佐濱宮(津山市二宮高野神社)と吉備国名方濱宮(倉敷市上東)は都であった鳥取県中部(倭国)をとりまく周辺地域である。魏志倭人伝にある千余人が誅殺し合ったのもこれら6地域であった。彼らは倭朝廷に深く関係する一族であり、卑弥呼(倭姫命)が亡くなった失望により誅殺し合っていた。
(5) 孝霊天皇は鳥取県西部に残る楽々福神社の由緒、日野郡誌、溝口の鬼伝説などにより実在した天皇であり、鬼(準王一族=出雲神族)と戦った。孝霊天皇(120年~211年)は倭国大乱(146年~189年)の時代の天皇である。
 鳥取県日光村の山田神社にいた孝霊天皇に「笹の葉を積み上げて南風が吹くのを待て」と告げた天津神は隣りの吉原神社にいた稚日女命であり、稚日女命は「神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた」孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命であった。志摩国一之宮の伊射波神社の祭神の稚日女命(倭迹迹日百襲姫命)と志摩国に神界を定めた倭姫命は同一神であった(別稿「倭姫命は『迹々日百襲』を省略された倭迹々日百襲姫命であった」を参照されたし)。
 卑弥呼は宋女(王の娘)であった。孝霊天皇と卑弥呼は共に倭国大乱の時期を生きており、卑弥呼(日皇女)は孝霊天皇の宋女(王の娘)の倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)であった。
(6) 全国を巡行して社を建て、準王一族(出雲神族)の銅鐸祭祀を道教の神道に変えさせる巡行は倭姫命がした。「倭姫命世記」は全国の平定後、倭王朝と倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)が相談して奈良の纒向で全国の代表を集めて神道(鬼道)の祭祀をすると決めてから、倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)の安全な居所を探すために、巡行した記録である。全国の準王一族(出雲神族)の平定は倭国大乱の間(146年~189年)に終わっている。全国の平定は台与の先代の卑弥呼がなしたことであり、台与は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行をした。
 倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)は倭建命(若日子建吉備津日子命)と一緒に全国を平定しているから時代は倭国大乱の時代であり、倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)は卑弥呼であった。
(7) 崇神天皇は全国を平定し、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と尊敬さているので、魏志倭人伝に言う信頼されない「男王」ではない。また、崇神天皇は90歳くらい(卑弥呼が亡くなる248年で)まで天皇であったとは思われない。卑弥呼が亡くなるまでに垂仁天皇に譲位していた。垂仁天皇の在位は崇神天皇から生前譲位を受けて卑弥呼が亡くなる248年頃までであった。卑弥呼が亡くなった後の「男王」は垂仁天皇の次の景行天皇であった。豊鋤入姫命(台与)は景行天皇(男王)の妹であった。
 豊鋤入姫命(台与)は倭朝廷に深く関係する一族の倭姫命(卑弥呼)が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行をした。豊鋤入姫命(台与)は崇神天皇や垂仁天皇の妹ではない。日本書紀は景行天皇の妹を倭姫命とするが、原古事記では景行天皇の妹は豊鋤入姫命であった。
(8) 原古事記には「孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命(倭姫命)」とあり、「垂仁天皇の皇女、豊鋤入姫命」とあった。藤原氏は、本来、垂仁天皇の皇女であった豊鋤入姫命を崇神天皇の皇女とし、本来、孝霊天皇の皇女であった倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)を垂仁天皇の皇女とした。その動機は、伊勢神宮を創建したもっともらしい由来(鎌倉時代に執筆された神道五部書)を創らなければならなかったからである。
 倭姫命も豊鋤入姫命も欠史8代の皇女なり妹とすることは不比等の思いに反することになる。のちの藤原氏は崇神天皇も垂仁天皇も欠史8代ではないのでこの2天皇を利用した。
 ただし、景行天皇は架空の天皇であり、倭国12代大王は倭国13代大王武内宿禰の父の屋主忍男武雄心命であった(別稿「豊鋤入姫命(台与)は都を鳥取県中部(倭)に戻した」を参照されたし)。

2 海部氏勘注系図も豊鋤入姫命を先とし倭姫命を後にしている。
(1)6世孫 
大倭姫、宇那比姫命、亦名、天造日女命、一伝、竹野姫命、亦伝、大海靈姫命、亦伝、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫 
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命
※ 私見
 海部氏勘注系図には11世孫の妹として日女命またの名「小豊姫命」とある。この「小豊姫命」を魏志倭人伝の台与(トヨ)とする説がある。さらに、11世孫の妹の日女命は、亦名として、稚日女命、倭姫命とも記されている。私は稚日女命、倭姫命を卑弥呼とするが、勘注系図では小豊姫命(台与?)のまたの名として稚日女命、倭姫命が書かれている。しかし、さらに、またの名として玉依姫命、日神荒魂命、豊受姫命、活玉依姫、倭国香姫、倉稲魂命が記載されている。玉依姫命は神武天皇の母親である。日神荒魂命は天照大神の別名である。豊受姫命は瓊々杵命と一緒に降臨した姫である。活玉依姫は大物主と結婚した姫である。倭国香姫は倭迹迹日百襲媛命の母親である。倉稲魂命は私見では豊受姫に比定している。
 これがみな同一人物ですか。「そんな馬鹿な」ですよ。これは見る者を混乱させるために記載したものと思われる。籠神社の宮司は、「主祭神は717年までは火火出見命であったがわけあって彦火明命に変えている」という。717年は日本書紀の編纂中である。「わけあって」とは藤原氏による生きるか死ぬかの威圧であった。今の海部氏勘注系図が書かれたのは日本書紀の編纂中である。日本書紀に合うように書かかされている。正しい系図が藤原氏の手に渡ったら書き直せと言われるに決まっている。従わなければ殺される。だから見る者を混乱させて書き直せと言われない書き方をした。日本書紀の順序に合っているから藤原氏の検閲をパスした。
 日本書紀は「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された」とする。勘注系図では10世孫の妹に「豊鋤入姫命」の名が見え11世孫の妹に「倭姫命」の名が見える。「豊鋤入姫命」が先で「倭姫命」が後という順序は日本書紀に合っている。しかし本当は「倭姫命」が先で、「豊鋤入姫命」が後であり別々の巡行であった。本当の系譜は、「倭姫命」が9世孫(孝元天皇)の妹であり、「豊鋤入姫命」は13世孫(景行天皇)の妹であった。本来13世孫の妹の豊鋤入姫命を10世孫の妹に持ってきて、本来9世孫の妹の倭姫命を11世孫の妹に持ってきた。これで順序は逆になる。
 6世孫に大倭姫があるが、13世孫の妹の大倭姫命と10世孫の妹の大倭姫命との関係を見破った藤原氏に書き直すように言われ、13世孫の妹の大倭姫命を消してありもしない6世孫の大倭姫を書き加えたと思われる。
 勘注系図はこれ以上深入りすべきではない。ありもしない神名に惑わされ泥沼にはまり込む。

 

 


神功皇后の民間伝承のもとは豊鋤入姫命(台与)の伝承であった

2020-02-26 06:44:31 | 邪馬台国・卑弥呼

1 神功皇后のモデル(豊鋤入姫)は実在したが、百済人によって百済色に色濃く染められている。
神功皇后の三韓征伐は倭国女王の豊鋤入姫命(台与)と倭国大王の武内宿禰が三韓に行った記事を亡命百済王朝(日本)が百済色に書き換えたものである。
 系譜を調べると、景行・成務・仲哀は百済国の王であった(別稿「12代景行・13代成務・14代仲哀について」を参照されたし)。13代倭国王は武内宿禰であり、12代倭国王は武内宿禰の父の屋主忍男武雄心であり14代倭国王は武内宿禰の4男であった。
 台与は豊鋤入姫命であり彦太忍信命の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自であった。第12代倭国男王の屋主忍男武雄心の妹となる。屋主忍男武雄心の妹は倭姫命ではなく豊鋤入姫命であり、神功皇后のモデルであった。
 豊鋤入姫命は12代倭国王の妹であり武内宿禰の叔母になる。梁書倭伝に「また卑彌呼の宗女、臺與を立てて王にした。その後、また男王が立ち、並んで中国の爵命を受けた」(復立卑彌呼宗女臺與為王 其後復立男王並受中國爵命)とある。臺與は豊鋤入姫命であり男王は武内宿禰であった。二人は一緒に行動していた。古事記・日本書紀の神功皇后の段には武内宿禰が一緒に行動している。神功皇后のモデルは豊鋤入姫命であった。
 神功皇后は新羅に敵対する皇后として描かれている。倭国は鳥取県中部であったから、鳥取県中部に最短で到着できる千年続いた新羅は倭国の敵ではなかった。神功皇后は倭国の皇后ではなく新羅に敵対していた百済の皇后として描かれている。神功皇后は原古事記にあった豊鋤入姫命の旧事をもとにして百済色に色濃く改ざんされて描かれている。神功皇后は不比等をはじめとする百済史官によって改ざん創作された。亡命百済人たちは八幡神社を創建し神功皇后を八幡神社の祭神の一人とした。九州周辺に多く残っていた豊鋤入姫命や倭姫命の民間伝承は神功皇后の伝承として多くの八幡神社に吸収させていった。
 強奪に喜びを感じる扶余族(百済人)である。倭国の歴史を強奪した。

2 豊鋤入姫は倉吉市鋤を本拠地にした(別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」と「豊鋤入姫命(台与)は都を鳥取県中部(倭)に戻した」を参照されたし)。これは私が調査研究した結果である。定例会で会員の方が「神功皇后は倉吉市上神にいて、倉吉市の北面で出産された、という伝承がある」と言われた。その伝承は調査結果と一致する。倉吉市鋤を本拠地にして倉吉市上神におり、倉吉市北面で出産した。この3ヶ所とも「つくし」の日向の地である。記紀には「神功皇后はつくしで出産した」とだけあり、九州の「つくし」とは書いていない。この地が木を切り「つくし」ていた地ということは波波岐神社の神社明細帳に「一ツ木の神クシフルネ(亀谷丘陵)」という記述でわかる。倉吉市北面は「つくしの日向」の地であるが、なぜ「つくしの日向」と書かずに「つくし」とだけ書いたかは容易に察することができる。九州では「つくし」と「日向」は別の地だからである。
 また、新羅を西の国と書いている。九州から新羅は北の国である。神功皇后の時代から記紀を発表するまで九州から新羅には何度も行っているはずだから方角は判っているはずである。倭国歴史書原文には倭国(鳥取県中部)から西の国の新羅がどういう国か書いてあったのだろう。百済史官はそれをおかしいと思うことなくそのまま書き写した。ここでもほころびが生じた。

3 河村哲夫氏は「神功皇后の謎を解く」(原書房 2013年出版)において「大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない。まさに、神功皇后そのものの伝承として地域に伝えられている」とされる。
 鳥取県湯梨浜町宮内集落の倭文神社は伯耆国一宮で昨年は中央から雅楽の演奏に来ていた。また平安後期(1100年頃)に埋納された国宝の経筒(伯耆一宮経塚から銅経筒、金銅仏、銅鏡、檜扇、短刀、刀子、玉類、銅銭、漆器などが出土した)も発掘されている。京都の藤原氏はこの神社を重要視していた。伝承では「高姫(下照姫)が国譲りで出雲からこちらに来て、助産婦の仕事をしていた。」高姫(下照姫)に仕えた者たちの子孫も数軒あるという。高姫(下照姫)が涙ぐんでいた様子まで伝承されている。
 伯耆国に宮内は3ヶ所しかない。2ヶ所の神社は孝霊天皇を祀った神社である。では残る1ヶ所の倭文神社も孝霊天皇を祀っていたのではないか。また、宮内遺跡からは弥生時代後期(倭国大乱の頃)の国内最長の鉄刀が出土している。
 湯梨浜町宮内に行って聞いてみると、「倭文神社には高姫(下照姫)がいた。伝承も残っている。宮内に遺跡などない。きっと、橋津に古墳があるからそこのことだろう。橋津にいってみたら。」という返事が返ってきた。あくまでも「調べるな」といった口調であった。また、倉吉市大谷の長老に聞いた時もあくまでも「四王寺があるから四王寺山という」の一点張りであった。
 河村哲夫氏はここで「はい、そうですか」と引いてしまっている。三千ヶ所の伝承の中に大和(藤原)朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない」としておられるが、藤原氏は伝承を創設する名人である。倭国の歴史を強奪するためには何でもしている。
 倉吉市寺谷に天稚比古と住んでいた高姫(下照姫)は天稚比古が亡くなってから夫の出身地の高天原(蒜山)に近い倉吉市志津の倭文神社で助産婦の仕事をしていた。藤原氏は志津の伝承を宮内に移し、孝霊天皇一族の伝承を隠した。

 藤原氏は創作伝承を守るための人員を京都から派遣し重要な集落の住民として古くより(統一新羅滅亡の931年頃より)住まわせている。百済出身の京都の藤原氏は新羅を恐れていた。京都で検非違使をしていた山田氏は931年に北条山田八幡神社を鳥取県北栄町北尾に創建した。「北条」の地名は北の京(条里制)と付けたかったのだろうが、北京とはできなかった。「北条」という地名も山田氏が付けたと思われる。
 高姫(下照姫)を登場させて八橋の地名由来を創作して笠縫邑を隠したのも京都の藤原氏であった。鳥取県南部町手間山の赤猪伝説も倭国大乱の激戦地の手間山の伝承を隠すために藤原氏によって創作された。手間山には妻木晩田から逃げてきた出雲族(兄の八十神)がおり、手間山のふもとには、孝霊天皇や倭建命に従っていた大国主の14世孫の武牟口命がいた。

4 神武天皇に関係する伝承に「神武天皇が生まれた狭野神社・15歳で宮を遷した宮崎神宮・神武天皇が祈願した都農神社・矢研の滝・立磐神社の腰掛岩・美美津港のおきよ祭り・早吸日女神社」などがある。「速吸の門」は明石の多くの弥生遺跡より間違いなく明石海峡である。したがって、「速吸の門」は豊予海峡ではなく、豊予海峡までは藤原氏の作り話であった。神武天皇の腰掛岩も創作である。神功皇后の腰掛岩も創作である。
 河村哲夫氏は「大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない」としておられるが、騙されているだけである。私は騙されない。神社庁に輪をかけたように教育委員会が加担しているのでたちが悪い。明治政府は藤原政府から始まっているから、神社庁も教育委員会も藤原氏の流れにある。

5 倭姫命や倭建命や豊鋤入姫命や武内宿禰は実在していた。原古事記には彼らの旧事も書いてあった。対馬海流があるため倭(鳥取県中部)朝廷にとって九州は中国に朝貢するために通らなければならない大事な場所であった。それは神武天皇の時代から同じであった。豊鋤入姫命(台与)と武内宿禰も九州の平定をしている。また、稚日女命を祀る神社が九州の各地にあるので、倭姫命や倭建命も九州に来ている。熊襲を平定して伊万里から船を出している。佐賀県伊万里市黒川町の若宮神社(祭神 若日孁尊=稚日女命)の由緒に神功皇后が出てくるので、豊鋤入姫命(台与)が三韓に向けて出発したのも伊万里からと思われる。奈良時代になっても豊鋤入姫命(台与)と武内宿禰や倭姫命と倭建命の伝承は残っていた。
 神功皇后は百済色が濃厚である。おそらく、百済が新羅を攻撃した百済の伝承を倭国歴史書原本にあった豊鋤入姫命(台与)と武内宿禰が三韓に行った旧事を改ざんして創作したのが神功皇后と思われる。倭国(鳥取県中部)の女王の豊鋤入姫命(台与)が建国以来、兄弟国であった新羅を攻撃するわけがない。

6 百済王朝(藤原氏)にとって応神天皇(葛城長江襲津彦)は特別な存在であった。百済が最初に倭国に朝貢したときの天皇であったからである。不比等は特別な存在の応神天皇を祭神とする八幡神社を創建することにした。不比等は女王であった豊鋤入姫(台与)や倭国13代大王であった武内宿禰を応神天皇に関係する神として八幡神社の祭神にした。
 太安万侶は原古事記を天武天皇の皇子の穂積大王に渡したつもりであったが、不比等に渡ってしまった。不比等は原古事記に記載されていた女王の豊鋤入姫(台与)の段を百済色の濃い神功皇后の段に書き換えた。13代武内宿禰大王の代わりに成務天皇を創作した。14代には応神天皇の父親として仲哀天皇を創作した。本来14代であった仁徳天皇は16代とした。特別な存在の応神天皇の15代は動かすことをしなかった。応神天皇の在位は354年~394年と思われる。13代の武内宿禰大王と15代の応神天皇(葛城長江襲津彦)は八幡神社や古事記・日本書紀に利用されているが、倭国(鳥取県中部)に皇居のあった正統な天皇であった。豊鋤入姫命(台与)の本拠地も鳥取県中部(倉吉市鋤集落)にあった。

            
7  原古事記には、倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の段があった。倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の民間伝承も多くあった。不比等は原古事記の記述や伝承を消したり改ざんしていったが、倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の伝承は広範に渡り、すべてを消したり改ざんすることは不可能であった。そのために八幡神社を造った。神社に住民を集めて、倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の伝承を聞き「その姫の名は神功皇后である」と暗示にかけていった。そして八幡神社の祭神を神功皇后とし、古事記・日本書紀に新羅に敵対する神功皇后の段を作った。八幡神社は全国に4万4千社あるという。八幡神社以外の神社よりも多い。
 倭王朝と亡命百済王朝とは642年より列島に並立し、734年に亡命百済王朝(日本)が倭国を呑み込むが、それ以前から呑み込む準備をしていた。亡命百済王朝はそれまでに崇神天皇や倭姫命(卑弥呼)によって造られていた全国の神社を呑み込んで、自分たちの神社ネットワークを新たに創っていった。それが八幡神社である。

8 参考
(1) 神功皇后の壱岐と対馬の伝承 
 壱岐に13ヶ所  
「風本→勝本」「東風石」「聖母宮」「馬蹄石」「印通寺」「錦浜」「衣かけ石」「七湊」「夕部」「御掛けの石」「御手洗川」「柄杓江」「湯ノ本温泉」など
 対馬に15ヶ所
「腰掛石」「神住居神社」「雷神社」「雷浦」「与良祖神社」「桜橋公園(志良石)」「笠渕・截裳渕」「砥石渕」「阿須浦・阿須神社」「綱掛崎」「八点島」「千尋藻・入彦神社」「櫛」「胡禄神社」「本宮神社」など 
※ここにある伝承地でもあとで藤原氏(八幡神社)によって造られたと思われる伝承がある。 
(2) 鳥取県神社誌にも、神功皇后が5神社の由緒に書かれている。
P32
宮長神社
古伝に「竹内宿禰因幡国を巡視するや、未だ村里尠(すくな)し。僅かに河邊に一小村あり。白衣の老人あり。天鈿女命の裔胤(いんえい)と称し、宿禰に謂いて曰く「吾がために祖宗の祠廟を建てよ」と、宿禰乃ち社を築き奉斎せるに始まる。その後神功皇后(豊鋤入姫命)新羅より凱旋せられ因幡国北浜に着せらるるや、本社に報賽せられ、神託によりて社領を附し、本社に宮長の号を奉られし」と伝う。
P66
彌長神社
かって彌長大明神また凱陣の宮と称す。即ち因幡誌に「凱陣山、凱陣の宮、土人の御凱陣山という二つ山の南の連岡是なり。その地、松林鬱茂の間に小社あり。伊與長大明神と号す。相伝う。神功皇后(豊鋤入姫命)征韓御帰国の時、此のところに鷁首を繋ぎ給うその跡なるを以て、御魂を祭りて凱陣の宮と崇む、とぞ。按るに神功皇后(豊鋤入姫命)、御諱を気長足姫と称す神号、彌長気長と和訓相似たり。疑うらくは気長訛謬??なるにや」
P123
和多理神社
因幡誌に「和多理の神社一座、延喜式神名帳所載、八上郡和多理神社是なり。社伝に曰く猿田彦命を祭る。神功皇后(豊鋤入姫命)筑前国大渡島より神主を此処に遷す。よって和多理神と称す。云々。土俗今大多羅大明神と呼ぶもの大和多理の誤りならんか。和漢三才図会曰く。和多理明神は八上郡にある。社領三十五石。祭神猿田彦命。景行天皇朝、これを祭る。云々。按に景行天皇の時始めて筑前国に斎て神功皇后(豊鋤入姫命)の御世、当国に遷座なるにや。時代少し異なりと雖も、今に至って凡そ二千年。その旧趾紛乱なし崇むべし。・・・。木石あり。和多理の長寿石と号す。天明年中この石の下に神鏡を掘出す。円五寸厚さ四分裏鶴亀模様あり。神前に納む。と見え。また社伝に大同二年九月和多理の山(一に越山という)より現地に遷座せられ、松樹および二股の竹を各一株、長寿石、この他種々の神宝を遷し奉れり」と。
P256
板井神社
当社縁起書の写しに「勧請の儀は、人皇十五代神功皇后(豊鋤入姫命)三韓安く平け給う勅願による御神社なり。よって本朝安全のため人皇四十代天武天皇白鳳四年まで御勅使在之為金銭領被附置御儀は勧請記に分明云々」
この宮石家は元因幡国造伊福部氏より出でしたりしが後氏を宮石と称したるなり。
P425
国信神社
旧記によれば欽明天皇(蘇我稲目大王)元年霊験に由って勸請すという。神功皇后(豊鋤入姫命)三韓を征し筑前港へ凱陣。同国宇美宮に誉田別命誕生。御宿願によって因幡国摩尼山へ御参詣。出雲国三保の関沖にて難風のため国信村の浜に御着岸ありて上陸せらる。その所を船磯と唱え、兵器の名をもって今に籏鋒、馬留、太鼓面等の地名を呼べり。(伯耆民談記に「祭神一座神功皇后(豊鋤入姫命)なり。人皇五十六代清和天皇の御宇当郡稲光の庄国信の村に鎮座ありと云う。御船に移らせこの村の灘に着船ある。その地を船磯という。蓋聞國山八幡と号することは、国を治民を守るの鎮座の山なるゆえに國山八幡とは称すなり。御船着岸の時御籏鋒たちし所を幡鋒と云来れり。当村を国信という。左右に連なる村を末長、末吉という。蓋し、その称すことは当社鎮座の時よりしてなり。神能国に信なるが故に国信とす。末世の神威を寿き末吉と号す。神徳萬齢不易に長なることを祝して末長と称する」と云う。社伝に曰く・・・。)
※ 私見
 国信神社由緒の「神功皇后(豊鋤入姫命)三韓を征し筑前港へ凱陣。同国宇美宮に誉田別命誕生」は日本書紀に従って書いている。人力船で新羅から筑前港へ凱陣することは不可能である。半島西側から出港した。史実は「神功皇后(豊鋤入姫命)は出雲国三保の関沖にて難風のため国信村の浜に御着岸ありて上陸せらる。その所を船磯と唱え、兵器の名をもって今に籏鋒、馬留、太鼓面等の地名を呼べり。その後、御宿願によって因幡国摩尼山へ御参詣」である。武内宿禰は神功皇后(豊鋤入姫命)より早く三韓を出発し宮長神社に到着していた。

 

 
 

倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地

2020-02-16 06:08:10 | 邪馬台国・卑弥呼

 倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地

 倭姫命世記に「倭笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照大神と草薙の剱を奉遷し、豊鋤入姫命に奉斎せしめた。但波の吉佐宮に遷幸し、倭伊豆加志本宮に遷り、木乃国奈久佐浜宮に遷り、吉備国名方浜宮に遷り、倭弥和乃御室嶺上宮に遷った」とある。
 豊鋤入姫命は、倭笠縫邑、但波の吉佐宮、倭伊豆加志本宮、木乃国奈久佐浜宮、吉備国名方浜宮、倭弥和乃御室嶺上宮を巡行した。これら6か所の現在の比定地はどこだろうか。

(1)倭の笠縫邑(鳥取県琴浦町八橋)
 倭笠縫邑の比定地は奈良県桜井市の檜原神社とする。楯縫神社の由緒に「旧郷名にちなみ楯縫神社とした」とあるので、立縫郷は楯縫郷であった。楯を立に変えている。立見集落があるが、元は楯見であり、製品となった楯を検査するところであった。
 琴浦町八橋の隣に笠見集落がある。これも、製品となった笠を検査するところであった。隣の八橋が笠縫邑であった。八橋の地名由来は笠縫邑を隠すために創られた。倭笠縫邑とは鳥取県琴浦町八橋集落であった。
(2)但波の吉佐宮(京丹後市丹後町の竹野神社)
 但波の吉佐宮の比定地は、宮津市の真名井神社や福知山市の皇大神社や舞鶴市の笶原神社や京丹後市の竹野神社がある。孝霊天皇一族は倭国大乱のときに、但馬の竹野川流域に疎開した。竹野川流域には孝霊天皇一族(倭姫命も含む)の子孫が住んでいた。但波の吉佐宮とは京丹後市丹後町の竹野神社であった。
(3)倭の伊豆加志本宮(鳥取県倉吉市長谷集落長谷神社)
 奈良の比定地(奈良県桜井市初瀬の長谷寺や与喜天満神社や長谷山口坐神社など特定できていない)は泊瀬地域にある。泊瀬のもとは倉吉市の長谷である。倉吉市長谷集落は神武天皇が穿って道をつけた途上にある由緒ある地である。倭伊豆加志本宮とは鳥取県倉吉市長谷集落長谷神社であた。
(4)木乃国奈久佐浜宮(津山市二宮の高野神社)
 紀の国は和歌山だが木の国は岡山県津山市であった。木乃国奈久佐浜宮の比定地は和歌山市毛見の濱宮とする。木の国は鳥取県智頭町だが御真木国は津山市であった。神武天皇が名草戸畔を誅した名草邑は岡山県津山市二宮であったから二宮の高野神社と思われる。津山に浜はないがこれは和歌山の浜に名草邑を創った藤原氏の創作である。木乃国奈久佐浜宮は津山市二宮の高野神社であった。
(5)吉備国名方浜宮(倉敷市上東)
 吉備国名方浜宮の比定地は和歌山に二ヵ所、岡山に五ヵ所(総社市福井の神明神社や倉敷市真備町妹の穴門山神社など)、広島に一ヵ所の計八ヵ所ある。倉敷市上東は古墳時代は浜であった。ここで奈良の纏向遺跡と同じく9,606個の桃核が出土している。豊鋤入姫はここで祭祀をした。吉備国名方浜宮は倉敷市上東であった。
(6)倭の弥和乃御室嶺上宮(鳥取県北栄町下神の三輪神社)
 倭の弥和乃御室嶺上宮の比定地は奈良県桜井市三輪山の大神神社、高宮神社とする。上は「かみ」と読むそうである。鳥取県中部で上とは山側(南)を意味する。鳥取県中部にあった三輪神社は三輪山(弥和乃御室嶺)の上(南)にある。奈良に上(かみ)・下(しも)の慣例はない。倭弥和乃御室嶺上宮は鳥取県北栄町下神の三輪神社であった。


倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であった

2019-07-25 10:05:19 | 邪馬台国・卑弥呼
1  讃岐国における倭迹々日百襲姫命の農業開発
 香川県の説明板によれば、倭迹々日百襲姫命は土地の人に弥生米をあたえて、水路を開き、日照に苦しむ人々のために雨祈で、雨を降らせ、水源を教え、米作りを助けたといわれている。
 倭迹迹日百襲姫命は農業・水の神と伝えられている。香川県は全国有数の雨の少ない県である。そのために溜池が多い。讃岐国でため池を作ることを最初に思いついたのは倭迹迹日百襲姫であることも考えられる。そうなれば、讃岐国で、農業の神として祭られている理由も説明がつく。
 当時の讃岐国は凶作の年が続いていた。彼女のアイデアで次々と農業開発が行なわれ人々の生活は次第に潤っていった。このときに溜池を作ることを考え出したものと思われる。

2  志摩国における倭姫命の農業開発(倭姫命世紀より)
 「倭姫命は鳥の鳴声が高く聞えて、昼夜止まずかまびすしかったので、『此、あやし』と宣して、大幡主命と舎人の紀麻良を、使に遣って鳥の鳴く処を見させた。行って見ると、志摩国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり、根本は一基で、末は千穂に茂ってゐた。その稲を白真名鶴がくわへて廻り、つついては鳴き、これを見あらわすと、その鳥の鳴声は止んだ。
 倭姫命がのたもふに、『恐し。事問はぬ鳥すら田を作る。天照皇太神に奉れる物を』と詔して、物忌(ものいみ)を始められ、かの稲を伊佐波登美神(伊射波神社の祭神)をして抜穂に抜かしめて、天照皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。その穂で大幡主の女子乙姫に清酒に作らせ、御餞に奉った。かの稲のおひし地は、千田となづけ、志摩国の伊雑の方上にある。その処に伊佐波登美(伊射波神社の祭神)の神宮を造り奉り、天照皇太神の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。かの白真名鶴を名づけて大歳神といふ」とある。

3 磯部町千田御池跡の説明板
 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)もこの地に遊覧し感嘆され、多くの殿堂を建てられた。

4 磯部の伊雜宮
  磯部の伊雜宮本殿
  磯部の伊雜宮本殿 
 シンプルで敷地も広くないので、藤原氏の手はそれほど加わっていないものと思われる。
 ここにも心の御柱がある。「中央の祠は遷宮のときに心の御柱を立てる目印である」と伊雜宮の宮司は言った。こちらが本家である。
 伊雜宮より280m離れたところにある千田の御池跡 溜池か苗代であったと思われる。
 この後ろに持統が造らせた勅賜門(正月7日間だけ開く不開門)があったらしいが崇りを封ずるための藤原氏によるものである。
 伊雜宮の南に隣接する御料田で6月に行われる伊雜宮の御田植祭は日本三大御田植祭に数えられている。(伊雜宮前の説明板より) 
 鳥取県琴浦町方見神社の由緒には「当社は明治維新まで天照皇大神宮と称せし。当社には往古より大田小田と称する神田あり。大田は朔日田と唱え9月1日この田の稲を神供に炊ぐ。小田は毎日田と唱え、この田の稲をもって部内諸神に供す。氏子の内より13歳未満の女子12人を挙げ、神酒上げ神饌炊ぎとす。これを「三ケノオコラ」という。永久に相伝う。この田を植える時は御田植祭を行い官丁を課当せられしこと当社の伝記および古文書に明らかなり」とある。
 本当の天照皇大神宮ならば御田植祭があるはずである。伊雑宮にはあるが伊勢神宮にはない。
 大正末期、この石の下から鏡や勾玉が出てきたが官憲に持ち去られこの地の鑑定は封じられてしまった。里人は倭姫さんの遺跡であろうという。(説明板より)

5 倭迹々日百襲姫命は死んでいない。箸で死ぬことはまず考えられない。魏志倭人伝にあるようにこの当時箸はなく倭人は手で食べていた。これはなんでも強奪することに喜びを感じる扶余族(百済人)の藤原氏による改ざん挿入である。伊勢神宮の由来書にある倭姫命世記で垂仁天皇皇女にしてある倭姫命が実は孝霊天皇皇女の倭迹々日百襲姫命だったと思わせないようにするために死んだことにした作り話であった。系譜を先に改ざんして、そのあとの辻褄合わせのために箸をついて死んだ話を挿入した。こうして、藤原氏は倭国の歴史を強奪する。
 倭迹々日百襲姫命も倭姫命も水田稲作を普及させていた。倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であり、同一人物と思われる。
 
6 鳥取県日光村の隣り合う神社の祭神の孝霊天皇と天津神の稚日女命より、稚日女命は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命であった。

 稚日女命は鳥羽市安楽島町の伊射波神社を終の棲家とした。伊射波神社では海女がアワビを朝廷にもっていく前に稚日女命に献上していた。その朝廷とは纒向にあった朝廷であった。

 倭姫命は巡行の最後に志摩市磯部町の伊雑神社に至り伊射波登美に天照大神を祀らせた。倭姫命は海女の祖のお弁にアワビを献上された(海士潜女神社由緒より)。

 同じ志摩国の同じ一之宮の同じ読みの神社(いざわ)で同じくアワビを献上された姫は同一姫であったと考えるのはおかしくない。稚日女命と倭姫命はアワビの殻が多く見つかった纏向遺跡と同時代の姫であった。
 したがって、倭迹々日百襲姫命=稚日女命=倭姫命となる。

7 倭姫命は倭迹迹日百襲姫命であり7代孝霊天皇の皇女だが、なぜ倭姫命世記は11代垂仁天皇の皇女としたのだろうか。
 もし、倭姫命世記に豊鋤入姫の巡行がなくて倭姫だけの単独の巡行だけだったらどうだろう。纒向から隠れるような位置にある宇陀から始まり、段々と遠のいていく倭姫の巡行は纒向を意識して巡行していることがわかる。纒向で全国の代表者を集めて祭祀をするのだが、その前に倭姫の安全な居所を探す必要がある。藤原氏より以前に全国はすでに統一されていたことがわかってしまう。藤原氏はこれを消さなければならなかった。そのため纒向の近くに三輪神社を造り、豊鋤入姫が三輪神社に帰ってきて、バトンタッチしたような物語を造った。だから豊鋤入姫→倭姫にしなければならなかった。しかし、欠史八代にしてはならないから、豊鋤入姫を10代の皇女とし、倭姫を11代皇女とした。

 別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。本当の巡行地をみると倭朝廷(鳥取県中部)に深く関係していた一族のいた地域であることがわかる。豊鋤入姫の巡行は目的も時代も別の巡行だったことがわかる。倭姫が亡くなったことにより、悲観して誅殺し合っていたのである。

 

 


九州における卑弥呼・倭建命の軌跡

2018-07-28 03:55:08 | 邪馬台国・卑弥呼
1  卑弥呼(倭姫命=稚日女命)は伊万里市から新羅に向けて出港した。
 まず壱岐に向けて出港した。対馬海流を考慮した出港である。

すぐ向こうは海である。
 佐賀県伊万里市黒川町小黒川鎮座
 若宮神社
 祭神 若日孁尊(稚日女命=卑弥呼)
 御由緒
 「当神社は神功皇后征韓の砌(みぎり)若日孁尊の威霊を現わされし給いしにより此地◯◯に是を鎮祀給うた古社にして・・・。」とある。
 日女命に稚をつけて稚日女命とし、ここでは若日孁尊としている。由緒に神功皇后が出てきているので、若日孁尊は卑弥呼(倭姫命=稚日女命)である。

2  熊襲は船山遺跡のあたりにいたのではないかと思われる。崇神天皇が中山神社を拠点としたように、平定した相手の拠点をヤマト王権の拠点とした。
 柿原神社は確認できなかったが卑弥呼(倭姫命=稚日女命)が拠点にしていたはずである。
 四王子神社 祭神 倭建命
 摂社若一皇子社 祭神 若晝女神(稚日女命)
 ここでも稚日女命を若晝女神に変えている。
 ワカタケル(雄略天皇)銘であると思われる。江田船山をヤマト王権は拠点とした。

3  天草の「天」は、隋書東夷伝倭国伝にある「倭王、姓は阿毎(アマ)」とある「天(アマ)」である。
 
 路木神社より海が見える。当時はもっと手前まで海岸がきていたはずである。
 稚日女命を祀る神社は海岸近くが多いので、ヤマト王権は船で移動していたものと思われる。
 天草市牛深の夕日
 卑弥呼(倭姫命=稚日女命)たちは天草市牛深にも来ていた。
 宮崎県、鹿児島県に卑弥呼たちの痕跡がないのは神武天皇たちによって宮崎県、鹿児島県はすでに平定されていたからと思われる。鹿児島県で弥生中期の鉄鏃が発掘されている。

卑弥呼の墓は安楽島集落から伊射波神社に行くまでの1.2kmの間にありはしないか

2018-07-28 03:15:58 | 邪馬台国・卑弥呼
 魏志倭人伝によると「卑弥呼の死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、100余人が殉葬された」とある。また、「倭の墓は棺をもってあるも槨なく、土を封じて塚をつくる」とある。箸墓古墳はこれに該当しないのではないかと思われる。
 伊射波神社より700mくらい南西にある。
 安楽島町から500mくらい北にある。

 軽自動車が通れるほどの道は左に大きく迂回するように造られている。
 歩行者は丸い丘の上辺を通る近道がある。
 それほど勾配のある丘でもないのに、広い道をつくる時に、なぜこの丸い丘を崩して真っすぐな道路をつくれなかったのだろうかという疑問が沸いた。
 上空から見る限り、もともとは、卑弥呼(倭姫命=稚日女命)のいた伊射波神社に通ずる道が南北に真っすぐあったのではないか。卑弥呼(倭姫命=稚日女命)が亡くなってから卑弥呼(倭姫命=稚日女命)の居所に通ずる道を塞ぐ意味も込めてその道のど真ん中に墳墓をつくったのではないか、という推測が生まれる。

 円の直径は70m余り。魏志倭人伝に「百歩余り」とあるが、実際に誰かが歩いたものと思われる。身長170cmの男性の平均歩幅は70cmとされる(ヤフー知恵袋より)。70m余りは100余歩となる。
 ここを通るときに、青谷上寺地遺跡が発掘されるまでの青谷町の薄気味悪い雰囲気が思い起こされた。風もそれほどないのに竹藪の竹の擦れる音が大きくて、助けをもとめているように聞こえた。私以外にも、神社に行くまでの薄気味の悪さを書いておられる方がいる。殉葬された者達の無念さが残っているのかもしれない。
 追記(11月16日) 地元の方から情報をいただきました。「安楽島町では此処を松の鼻古墳と言っています。 昭和30年代中高生が剣と土器を発掘し鳥羽市 三重県 へ寄付した」そうです。「松の鼻」古墳は、「姫小松」に見立てられた稚日女尊(卑弥呼)の古墳と思われる。

全国と半島に散らばった青銅器文化の一族を平定していった卑弥呼の巡行

2018-07-27 21:49:49 | 邪馬台国・卑弥呼

1  青銅器文化を持った一族(準王一族=出雲神族)が紀元前2世紀から日本列島各地に勢力を伸ばしていた。彼らは殷や秦の流れをくむ一族であり、情け容赦なく女子供を殺したりした。古事記にいう「荒ぶる神たち」「まつろわぬ者たち」であり鬼と呼ばれることもあった。彼らの進出にストップをかけたのが、神武天皇に始まる天孫族である。倭姫命世紀には南北に巡行して彼らを従わせた記録が書かれている。古事記には倭建命の東西の平定説話として書かれているが、どちらも卑弥呼(倭姫命=稚日女命)倭建命の巡行である。

2  卑弥呼(倭姫命=稚日女命)は焼津で野火に囲まれ、木花之佐久夜毘売の火中出産を思った。これが男性の倭健命だけなら木花之佐久夜毘売を発想しない。焼津から巡行を進めるうちに福地(富士宮)で徐福の子孫(第一次)に出会った。徐福の子孫に、野火に囲まれたことを話した。「まるで木花之佐久夜毘売になったようであった」と言った。その話を聞いて、徐福の子孫は福地で木花之佐久夜毘売を祀るようになった(185年頃、弥生時代後期)。806年に浅間大社が山宮(現山宮浅間神社)から現在地に遷座して来るまで、同地には福地神社が地主神として鎮座していた。富士山本宮浅間大社が建立されるずっと前から福地神社で木花之佐久夜毘売を祀っていた。
静岡県の稚日女命が祀られている神社。卑弥呼(倭姫命=稚日女命)が寄ったと思われるところ。
静岡県三島市加茂川町 賀茂川神社
静岡県静岡市小鹿 若一王子社
静岡県島田市南町 茨神社
静岡県袋井市国本 冨士浅間宮摂社天白社
 野火事件のあった焼津市は島田市と静岡市との間にある。稚日女命(卑弥呼=倭姫命)は焼津にもいた。

3  卑弥呼たちが新羅から船で帰途の途中に寄ったと思われるところである。稚日女命が祀られている。
島根県簸川郡大社町大字日御碕 摂社立花神社
島根県八束郡美保関町片江 方結神社
 卑弥呼(倭姫命=稚日女命)の時代も、倭国は新羅と兄弟であり、新羅は鉄の武器を造って倭国に送っていた。倭国が新羅を攻撃することはありえない。卑弥呼(倭姫命=稚日女命)と倭健命は中国に朝貢するためのルートを開くために朝鮮半島に渡った。この時、全羅南道に任那を造った(173年)。朝鮮半島からの帰国時、島根半島の日御碕の立花神社と片江の方結神社に停泊している。新羅から来た天照大神(徐福)と須佐之男も出雲の日御碕神社に停泊している。卑弥呼(倭姫命=稚日女命)は全羅南道に任那を造る(173年)ため朝鮮半島に渡っていた。


​古事記の倭建命には卑弥呼が同行していた。

2018-07-27 19:15:26 | 邪馬台国・卑弥呼

​1 古事記の抜粋
 天皇は「西の国に、熊曾建という者が二人いる。彼らを殺せ」と命じた。そこで叔母の倭比賣命に女性の衣裳を借り、叔母の着物を着た。そして都に帰る途上、山の神、川の神、穴戸の神たちをみな平定して帰った。
 天皇は「東方十二道の荒ぶる神たちと、まつろわぬ者たちを言向けてこい」と命じた。叔母の倭比賣命に「父は私を早く死なせたいと思っているんだろうか。」と言って、泣き憂えた。倭比賣命は彼に草薙の剣を与え、また一つの嚢を与えて、「緊急のことが起きたら、この袋の口を開けなさい」と教えた。相模国に到った時、その国造が彼を騙して、「沼に住む神は非常に荒れ狂う神で困っております」と言った。そこでその神を見ようと野に入ったとき、その国造は野の周りに火を着けた。刀で身の周りの草を切り払い、それに倭比賣命にもらった燧石で火を着けて、迎え火で火を避けた。帰って来ると、その国造たちを斬り殺し、火を着けて焼いた。それでその地を今でも燒遣という。
 さらに道の奥に入り、荒ぶる蝦夷たちを退治し、山河の荒ぶる神たちを平らげて、都に還る時、・・・そこでその国を「あづま」(関東)と言う。
 その国を越えて甲斐(山梨県)に出た。そこで酒折宮(山梨県)にしばらく滞在し、歌って「新治(茨城県)、筑波(茨城県)を過ぎて、幾夜寝たことだろう」。
 その国から科野の国(長野県)に越え、科野の坂の神を退治し、尾張へと帰り着いた。

2  「 」は古事記で倭建命が訪れた地名であり、右は稚日女命(倭姫命)を祀る神社。
「熊曾」 熊本県玉名郡南関町四原 柿原神社(熊襲の比定地)
 (近くにワカタケル銘の鉄剣)熊本県玉名郡和水町  江田船山古墳
「蝦夷」 岩手県胆沢郡金ケ崎町大字永栄字飛鳥田後 永岡神社
     福島県郡山市安積町荒井字萬海 柴宮神社
「新治」 茨城県水戸市元石川町 手子后神社
「筑波」 茨城県つくば市筑波 筑波山神社摂社稚日女神社
「あづま」 栃木県栃木市平井町 大平山神社摂社機織姫神社
    群馬県群馬郡榛名町下室田 大森神社
    埼玉県鴻巣市大間 大野神社(近くにワカタケル銘の鉄剣)
       千葉県成田市船形 麻賀多神社
    東京都西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎 狭山神社
    神奈川県座間市栗原中央 栗原神社
    神奈川県伊勢原市三ノ宮 三宮比々多神社
    神奈川県伊勢原市神戸 木下神社
    山梨県西八代郡六郷町鴨狩津向 城山神社
「科野の坂の神」  長野県駒ケ根市上穂栄町 三和社
        長野県飯山市大字緑字塩辛 布施田神社 
「尾張」  愛知県名古屋市中区大須 日出神社
    愛知県一宮市千秋町芝原字石原 生田神社
    愛知県日進市大字本郷字宮下 白山宮摂社香良州社
    愛知県岩倉市下本町下市場 神明生田神社
    愛知県東海市加木屋町宮ノ脇43 熊野神社摂社香良州神社
その他 新潟県 1社
    石川県 3社
「筑紫の末羅縣の玉嶋の里」 佐賀県伊万里市黒川町小黒川405 若宮神社 (卑弥呼はここから出航した)
    長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触 天手長比賣神社(新羅に行くときの通過地点である)

3 私見
  倭建命は倭姫命に女性の着物と草薙剣を借りた。一緒に行動していたから借りることができた。熊本県に行って、今夜の宴に女の着物がいるからといって三重県の伊勢神宮まで帰らない。野火を着けられるから刀で草を切り払い迎え火をつけることになるのを事前に知って準備することは不可能である。これも倭姫命が一緒にいたからできたことである。
 また、叔母と甥の関係ではなく、姉弟の関係であった(別稿「孝霊天皇一族について」を参照されたし)。二人の行動範囲はほぼ一致する。西は「熊襲」倭建命・「熊本県」倭姫命(稚日女命)、東は「蝦夷」倭建命・「岩手県」倭姫命(稚日女命)である。

 

 

 


伊勢神宮参拝

2018-07-27 12:34:56 | 邪馬台国・卑弥呼
 神はいないしいたこともないテーマパークであるとわかっていても、話のついでに行ってみたいのが人情である。
 
1 伊勢神宮は敷地が広くて神社も立派である。さすがに藤原氏である。なにもなかったところにテーマパークを造っている。宮司だけは沢山いて、遷宮のときには国民から金を巻き上げて、それで撮影は禁止です、とは何事であろう。戦前の不敬罪の精神が思い起こされた。何もいないのに何を保護するというのだろうか。建物の形状だろうか。藤原氏の短気さが見えたような伊勢神宮参拝であった。
 伊勢神宮内宮正殿には心御柱がある。地中2尺地上3尺、長さ5尺の柱。心御柱祭は深夜に地元の娘たちが心御柱の周りを踊りながらまわるというから心御柱は男根である。天照大神が男性であることを隠すために写真撮影を禁止していた。
 
2 伊雑宮にも心御柱がある。伊勢神宮の心御柱は伊雑宮の心御柱を模倣したものである。
 伊雑宮の宮司は「この祠は遷宮のときに心の御柱を建てる位置を示している」といった。
 伊雑宮は伊勢神宮より550年以上古い。伊雑宮の時代の本当の伊勢神宮は奈良時代まで鳥取県琴浦町にあった。伊雑宮ではこちらを「元伊勢」と言っていた。卑弥呼(稚日女命)はのちに安楽島の要害の地の伊射波神社で生涯を終えた。「いざわ」とは地名であり、藤原氏はそれぞれ異なった当て字をしているが、伊雑宮と伊射波神社は同系列の神社である。 
 
3 伊勢神宮 
 伊勢神宮(内宮)の正面入り口
 祭神は天照大御神だけである。
 正面入口を入ったところに五十鈴川にかかる橋がある。
あまりにも広すぎて、往復すると疲れを感じる。
 
4 藤原氏は、原古事記にあった天照大神が建御名方命に鳥取県琴浦町の伊勢野を国譲りしてもらった記述を神武天皇と伊勢津彦の話に変えて伊勢国風土記を作った。 また、藤原氏は、卑弥呼(倭姫命)が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行の記録を「倭姫命世記」として独立させ伊勢神宮ができた由来を創作した。これらの創作は750年以降である。藤原氏は原古事記に書かれていた邪馬台国(志摩国)を隠蔽するために伊勢国と伊勢神宮をテーマパークとして創設した。
 この目論見は今のところ見事に成功している。伊勢神宮は全国の約8万5千の神社の頂点である神社本庁の本宗と位置づけられている。神社本庁の下部組織の神道政治連盟国会議員懇談会には多くの政治家が加入している。神社本庁は改ざんが多くなされている古事記・日本書紀をもとに活動している。

5 「倭姫命世記」偽書説は、「古語拾遺を始め、紀やその他からの転用が多く、古書の継ぎはぎだけでは済まない文脈の乱れがある」と指摘する。江戸中期の神道家・吉見幸和は「倭姫命世記」を含む「五部書説辨」(1736年刊行)で「乱世の時代ならば五部書のような偽書をも疑う者は居ないが、天下が治まり泰平の世が続けば学問も興り、私如き者すら信じず学識のある者が信じることなど恥ずかしいと思え」と記している。
※ 私見
 「倭姫命世記」は偽書ではなく倭姫命(卑弥呼)が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行の記録を、伊勢神宮が出来た由緒を作るため、整合性を図って改ざんしたものであり、偽書に見えるが原典は偽書ではない。先代旧事本記も大成経(1679年刊行)が出た影響で偽書扱いされたが、記紀と異なる記載は参考になる場合があり、藤原氏が改ざんしていない部分は信用できる。
 通説は「天照大神は豊鋤入姫命を御杖代として各地を巡幸していたが、豊鋤入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命に交代した。倭国、彌和乃御室嶺上宮までは豊鋤入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸した」と整合性を持たせているが、史実は「倭国大乱の後に、倭姫命(卑弥呼)が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行をし、卑弥呼が亡くなってから豊鋤入姫命(台与)は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行」であり、二人の巡行は目的の違う巡行であった。
 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。しかし、伊勢神宮ができた由来とするには説得力がない。何を言っているのかわからない。「天照大神が高天原から見た国に行きたい」では理由にならない。伊勢神宮でなければならない理由が書かれていない。原本にあった安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命→豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原から見た国に行かせる巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行が必要であり、そのあと、宇陀から始まる倭姫命の巡行としなければならなかった。伊勢神宮ができた由来を創作するために、目的も時代も違う巡行を整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。
(1)倭姫命は倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇の皇女)(神社の祭神としては稚日女命)であり卑弥呼であった。
1、大和国 宇多秋志野宮 2、大和国 佐々波多宮 3、伊賀国 隠市守宮 4、伊賀国 穴穂宮 5、伊賀国 敢都美恵宮 6、淡海国 甲可日雲宮 7、淡海国 坂田宮 8、美濃国 伊久良河宮 9、尾張国 中嶋宮 10、三河国渥美宮 11、遠江国浜名宮 12、伊勢国 桑名野代宮 13、鈴鹿国 奈具波志忍山宮 14、伊勢国 阿佐加藤方片樋宮 15、伊勢国 飯野高宮 16、伊勢国 佐々牟江宮 17、伊勢国 伊蘇宮 18、伊勢国 大河之瀧原宮 19、久求小野宮 20、伊勢国 矢田宮 21、伊勢国 家田田上宮 22、伊勢国 奈尾之根宮  23、伊勢国 渡会宮 24、伊勢国 五十鈴宮 25、志摩国 伊雑宮 
(2)豊鍬入姫命は垂仁天皇の皇女、景行天皇の妹であり台与であった。
 1、大倭国 笠縫邑 2、但波乃 吉佐宮 3、大倭国 伊豆加志本宮 4、木乃国 奈久佐濱宮 5、吉備国 名方濱宮 6、大倭国 彌和乃御室嶺の上(山側)の宮
(3)私見
 倭姫命世記では「大和」と「倭」の字を使い分けている。「倭」は鳥取県中部であり「大和」は奈良であった。
 倉吉市高城には楯縫神社があるので、楯縫邑がありその近くに笠縫邑もあったと思われる。
 現在、鳥取県東伯郡琴浦町に「笠見」集落がある。「笠見」という地名は全国でも少ない。ヤフー地図で検索すると真っ先に鳥取県琴浦町「笠見」がヒットする。「高城史」では立見は「楯検」であり楯を検査するところとする。同じく笠見は「笠検」であり笠を検査するところと思われる。倉吉市高城地区の立見と同じく、笠を縫う所もこの近くにあったはずである。すぐ隣の八橋が笠縫邑ではないかと思われる。八橋の地名由来は「八岐大蛇の恨みで加勢蛇川に8つの橋が架かったから八橋という」とするが、それは加勢蛇川周辺のことであって、上伊勢・下伊勢・浦安・徳万・保・丸尾などの集落を飛越えて、笠見の北に八橋の地名が来るのは不自然である。琴浦町八橋は古代「笠縫邑」であったと思われる。倭姫命世記にある豊鋤入姫命の巡行をスタートした大倭国の「笠縫邑」とは鳥取県中部の琴浦町八橋であった。
 鳥取県中部が倭国であったから、但波(竹野川流域)と木乃国(津山市)と吉備(倉敷市)は鳥取県中部(倭国)をとりまく周辺地域である。千余人が誅殺し合ったのもこの地域と思われる。豊鋤入姫命はこれらの地域を平定する巡行をした。吉備国名方濱宮(倉敷市上東)と但波乃吉佐宮(竹野神社)は比定地が多く特定できていない。特に吉備国名方濱宮の比定地は和歌山県に2か所あり、比定地を和歌山県にもっていこうとする藤原氏の意図が見て取れる。名草邑は津山市二宮であったから、「濱」は付けてあるが、奈久佐濱宮は津山市二宮の高野神社であった。奈久佐濱宮は木国を和歌山県にしたい藤原氏の改ざんと思われる。
 「倭国、彌和乃御室嶺の上(山側)の宮」とあるが「上」を「ウエ」ではなく「カミ」と読ませる。「上」(カミ)とは鳥取県中部では山側(南側)のことを意味する。鳥取県北栄町下神の三輪神社跡の石碑は三輪山(御室嶺)の山側(南側)にある。奈良で、特定の方角を「上(カミ)」と呼ぶ慣例があるとは聞いたことがない。

 
 彌和乃御室嶺上宮は宝暦三年(1753年)まで鳥取県北栄町下神にあった三輪神社と思われる。北栄町の三輪神社は焼失したが、京都の藤原氏による放火と思われる。北栄町の三輪神社が奈良の三輪神社の系列なら、同じ場所に再建するはずである。鳥取県中部に本物の三輪神社があるから「五部書説辨」(1736年刊行)のような書物が出て乗っ取りが完成しない、として藤原氏は証拠の隠滅をはかったと思われる。
 
6 海部氏勘注系図によると11世孫の日女命は9世孫の日女命と同神であることを暗示している。豊鋤入姫命と倭姫命との順番を入れ替えるためにこのような細工をした。本来13世孫の妹であった豊鋤入姫命を10世孫の妹に持ってきた。本来9世孫の妹であった倭迹迹日百襲媛命である日女命を11世孫の妹の日女命に持ってきた。これによって順番は逆になる。11世孫(崇神天皇)の妹の日女命とされる稚日女命・倭姫命は本来9世孫(孝元天皇)の妹の日女命亦の名は倭迹迹日百襲媛命である。
 10世孫の妹の大倭姫命の亦の名に豊鋤入姫命の名がある。彼女が魏志倭人伝の「台与」であり、11世孫の妹の日女命は、9世孫の妹の日女命と同じく「卑弥呼」であった。11世孫は崇神天皇にあたるから、豊鋤入姫命は13世孫(景行天皇)の妹であった。稚日女命は倭姫命と同神であり、倭迹迹日百襲媛命であった。倭姫命(卑弥呼)と豊鋤入姫命(台与)との順番を入れ替えるためにこのような細工をしたと思われる。
 
7 倭姫命は志摩国に着いて、始めのうちは磯部の伊雑宮にいて水田稲作を普及させた。「かの稲を伊佐波登美神をして抜穂に抜かしめて、天照皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。志摩国の伊雑の方上に伊佐波登美の神宮を造り奉り、天照皇太神宮の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。」と倭姫命世記にあるが、現在伊雑宮の祭神は天照大神だけとなっている。
 安楽島の伊射波神社に伊佐波登美(トミだから出雲神族)を祀るようになったのは、藤原氏によるものである。安楽島の伊射波神社の祭神に倭姫命はおらず、祭神は稚日女命である。藤原氏はそこに「倭姫命」に仕えた伊佐波登美(イザワトミだからイザワ地域にいた出雲神族)を持って行った。稚日女命も倭姫命も同一神であることを藤原氏は知っていて移動させている。倭姫命は伊勢国に引き返すのではなく志摩国に留まり、神社の祭神である稚日女命に変身して安楽島の伊射波神社を終の棲家とした。姫小松(稚日女命)の松の鼻古墳もある。松の鼻古墳が卑弥呼(日皇女=孝霊天皇の皇女)の墓と思われる。

伊射波神社の祭神は当初稚日女尊だけであった(由緒など引用しています)

2018-07-27 09:08:19 | 邪馬台国・卑弥呼
 ガイドブックによれば、伊射波神社に祀られているのは、稚日女尊、伊佐波登美命、玉柱屋姫命、狭依姫命という4柱の神様で、伊佐波登美命以外は女神とある。

1  狭依姫命(女神)
 宗像三女神の一柱である市杵島比売命の別名である。加布良古崎の前海にあたる長藻瀬という島嶼の神乎多乃御子神社のご祭神として祀られていたが、戦国時代の地震によって、その社地は海底1.8mに水没してしまった。幸いご神体は村人らによって見つけ出され、伊射波神社に合祀された。海の守護神として卑弥呼のころに祀ったのかもしれない。もともと伊射波神社の祭神ではなかった。

2  玉柱屋姫命(女神)
 伊雑宮の御師・西岡家に伝わる文書には、中世以降に伊雑宮の祭神とされた「玉柱屋姫命」について、玉柱屋姫と瀬織津姫は鎮座顕現する場による呼称のちがいにすぎず、両神は異称同体という認識が記されているそうである。
 瀬織津姫は天照大御神の妻であり、天照大御神を女神だとするようになってから、藤原氏が消していったものである。もともと伊射波神社の祭神ではなかった。

3  伊佐波登美命(男神)
 伊佐波登美命以外は女神だから伊佐波登美命は男神である。伊佐波登美尊は、倭姫命が天照大神の御魂を鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し、また志摩国の新田開発にも大きな功績を残したと伝えられている。安楽島町には、加布良古崎の伊射波神社以外に安楽島町字二地の贄に伊射波神社本宮がありそこに伊佐波登美命が祀られていたそうである。
 安楽島町字二地の贄の遺跡からは、縄文中期から平安中期に至るまでの時代の連続した、おびただしい数の遺物・遺跡が発掘され、皇族、貴族が往来した痕跡が見つかっている。伊射波神社本宮の社殿は贄遺跡の近くの一番高いところにあったそうである。
 後、伊射波神社本宮の衰退と共に、伊佐波登美命は加布良古崎の伊射波神社に遷座された。「倭姫命」に仕えた伊佐波登美命はもともと伊射波神社本宮に祀られており、現在の伊射波神社の祭神ではなかった。「倭姫命」と「稚日女尊」は違う神だとすれば、おかしなことをするとなるが、同神だとすれば違和感がない。また安楽島町字二地の贄にあった伊射波神社本宮と加布良古崎の伊射波神社は近いところにある。伊佐波登美命は生前、加布良古崎の伊射波神社の「稚日女尊」のところに行き来していたと思われる。魏志倭人伝には「ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す」とある。この男子は伊佐波登美命のことと思われる。

4  稚日女尊(女神)
 海部氏系図によると11世孫の日女命は9世孫の日女命と同神であり、11世孫の稚日女命は9世孫の日女尊又の名を倭迹迹日百襲媛命となり、第八代孝元天皇の妹であり、魏志倭人伝にいう卑弥呼である。霊験あらたかな神様として知られる稚日女命は、加布良古太明神とも称され、朝廷に捧げる贄物の一部を太明神にも奉納するという別格の扱いを受けていました。 
 古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げるアワビを採る神事が行なわれていました。加布良古太明神ともいわれた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年の後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」と歌にも詠まれています。
 稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、皇后が筑紫国から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。

5 私見
 海部氏勘注系図によると11世孫の日女命は9世孫の日女命と同神であることを暗示している。豊鋤入姫命と倭姫命との順番を入れ替えるためにこのような細工をした。本来13世孫の妹であった豊鋤入姫命を10世孫の妹に持ってきた。本来9世孫の妹であった倭迹迹日百襲媛命である日女命を11世孫の妹の日女命に持ってきた。これによって順番は逆になる。11世孫(崇神天皇)の妹の日女命とされる稚日女命・倭姫命は本来9世孫(孝元天皇)の妹の日女命亦の名は倭迹迹日百襲媛命である。
 鳥羽市国崎町字鎧崎にある海士潜女神社の由緒には、「倭姫命にアワビを献上したと伝えられている伝説の海女(お弁)は海女の元祖ともいわれ、年初めの漁が始まる前に海女たちは必ずここを訪れ、一年の無事と大漁を祈願する」とある。
 志摩国でアワビを献上された姫は一人と思われるから倭姫命(倭姫命世紀)と稚日女尊(全国の神社の祭神)は同一人物だということが判る。
 加布良古崎の伊射波神社の祭神は最初は稚日女尊一神だけであった。稚日女尊は加布良古崎の伊射波神社の地に一人で居り、伊佐波登美命が飲食を給し、辞を伝え居処に出入していた。王となりしより、見たことのある者は少なかった(魏志倭人伝)。
 

倭姫が最初に天照大神を祀った神社は磯部の伊雑宮であり、外宮は月読が祀られていた

2018-07-27 08:21:22 | 邪馬台国・卑弥呼

 ある方の記述を引用させてもらいます(抜粋)。

 『伊雑宮旧記』『五十宮伝来秘記見聞集』などによると、「伊雑宮こそ天照大神を祀る真の日神の宮であり、外宮は月読を祀る月神の宮、内宮にいたっては邇邇芸命を祀る星神の宮に過ぎない。徳川時代にここの磯部の信仰こそ、本当の原始の天照大神信仰の始まりの地だと熱烈な運動がここで起きたが幕府には認められなかった。偽書を幕府に提出したかどにより、伊雑宮の神人四七人が追放処分を受ける。その熱烈な信仰運動は、いつのまにか内宮のために転用されてしまった。その主張が全面的に認められなかった伊雑宮と、内外両宮、特に内宮との対立は水面下で進行することになる」とする。

 (地元の伝承) 「形の上では内宮は格上で伊雑宮は下である。しかし、本当は伊雑宮がもとだった。白い馬の風習も伊雑宮の馬からだった。馬も習慣も内宮に持って行かれてしまった。千田寺周辺は廃仏毀釈でとにかくしこたまやられた。ここらはみんな千田寺の檀家だったんだが、みんな神道に変えられた。千田寺は後に火事にあった。今はただの草むらになっとる。なにも残ってない」とある。
 文書よりも人づてによる口伝にこそ真実が残る。文書とは、時の権力の影響を一番に受ける対象であり、廃棄や改ざんが必ず起こる。政権交代が起こると、過去の物は改変される。

※ 私見
 蒜山の長田神社に、鉾を持った兵を先頭に白い馬に乗った女性を中心にした隊列の絵が描かれている。彼女こそ倭姫命(卑弥呼)であり、その後、倭建命と共に鳥取県中部(倭国)に降りたち倭国を取り返した。倭国平定後、但馬・因幡から来た孝霊天皇たちと合流した。倭建命の伝承は蒜山から降りた関金町に残っている。
 倭姫命は崇神天皇と話し合い、全国を巡行し宗教を神道に改めさせて神道の社を創り平定していった。弥生時代後期のことである。崇神天皇は倭国(都)を隠す意味もあり、岡山県津山市の中山神社に常駐した。全国の代表者を集めての祭祀は東国の代表者の便宜を図って、奈良の纒向ですることにした。
 白い馬の風習はもともと磯部の伊雑神社にあり、倭姫命(卑弥呼)は伊雑神社の地に留まった。倭姫命は稚日女命に変身して安楽島の伊射波神社を終の棲家とし、ここから奈良の纒向での祭祀に出かけた。奈良にも平定はしたが青銅器文化の一族(銅鐸の主要な製造地であった唐古・鍵遺跡など)は多くいたし、倭姫命(卑弥呼)の安全を考えての居所の選定であった。
 
2 現在の伊勢神宮の創建年
 この看板のとおりだとすると、第一回目の式年遷宮は793年に行われたことになる。その時に20年ごとに改修しなければ、傷みがひどくなるという結論に達した。ということは、少なくとも最初に建てたときよりも20年は経っていたということである。773年より古いと思われるが、それよりも20年も古いとは思われない。いくら古くとも753年くらいではないだろうか。今の規模の伊勢神宮を造ったのは753年よりふるくはないと思われる。今の規模の伊勢神宮は持統が亡くなってから造られたと思われる。持統が勅賜門を千田寺に造ったときに小さな伊勢神宮のもとを造ったかどうかはわからない。倭姫命世紀の伊勢神宮をこの時に造ったという部分は改ざんして後に付け加えたものである。
 千田寺は聖徳太子(蘇我入鹿天皇)が建てたが、放火による火事にあった。
 
3 「倭姫命世記」は卑弥呼が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行を記したものであった。はじめは、纒向から隠れた宇陀や伊賀も候補地であったが、敵対していた唐古・鍵遺跡(出雲神族である準王一族)などに近すぎて安全ではなく、巡行を続けて最終的な居所は志摩国に定めた。
 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、先に倭姫命、次に豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原から見た国に行かせる巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行が必要であり、そのあと、宇陀から始まる倭姫命の巡行としなければならなかった。伊勢神宮ができた由来を創作するために、目的も時代も違う巡行を整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。
 倭姫命は孝霊天皇の皇女であり、豊鋤入姫命は垂仁天皇の皇女であった。国史を改ざんし、倭姫命を垂仁天皇の皇女とし、豊鋤入姫命を崇神天皇の皇女としたのは藤原氏である。全国を平定した倭姫命の居た志摩国(邪馬台国)を封印するために伊勢国・伊勢神宮を創らなければならなかったからである。伊勢国・伊勢神宮を創ったのは藤原氏だから、奈良時代より古くはない。倭姫命は151年に生まれ248年に没している。
 「倭姫命世記」に記されている伊勢国・伊勢神宮は藤原氏が創建したものなので、奈良時代後半以降に創建されており、倭姫命(151年~248年)の時代には存在しなかった。「倭姫命世記」に記されている伊勢国・伊勢神宮は中世に京都の藤原氏が改ざん・加筆したものである。