八俣大蛇の舞台は鳥取県三朝町山田であった
1 須佐之男は徐福一行(紀元前210年の第2次)のメンバーであり、徐福に次ぐリーダーであった。須佐之男も徐福(天照大神)と船で辰韓(のちの新羅)より伯州(伯耆国)に到着した。徐福一行は通り過ぎた出雲国に引き返すのではなく、鳥取県中部の小さな湾に到着し、大神(伊邪那岐)に再会した。伊邪那岐は三貴神にそれぞれ治める場所を指示した。伊邪那岐は須佐之男に「海原を治めよ」と言った。海原とは、縄文海進で以前は海であったが須佐之男の時代には原になっていた地域である。海原(海抜4m~海抜20m)は世界中どこにもあるので、地名が付いていたはずである。それは黄泉の海原であった。黄泉国は根国ともいい、現在の倉吉市中心市街地であった。
徐福(天照大神)一行は蒜山(高天原)に行き、蒜山周辺の山に登り仙薬(水銀)を探した。蒜山周辺の山は「せん」と読む山が多い。
2 須佐之男は伊邪那美(母)を知っていたので第1次(紀元前219年)からの徐福一行のメンバーであった。須佐之男は葦原中津国(倉吉市谷の朝日神社)で泣いたのち、天照大神に暇乞いをするため蒜山に上がった。須佐之男が暇乞いに上がって来た時に、天照大神(徐福)は始皇帝からもらった連弩を構えて須佐之男を威嚇した。その後、遅れて来る者を探す(うけい)ため鳥取県西部に降りた。
須佐之男は黄泉の海原の周辺を調べるため三徳川を遡った時に、三朝町坂本集落にいた足名椎、手名椎に出会い、八俣(山田)大蛇の話を聞いた。
鳥取県東伯郡三朝町大瀬の隣に三朝町山田という集落がありヤマダ(濁音)と読ませるが、同じ鳥取県東伯郡の琴浦町山田ではヤマタ(清音)と読む。何もないから古代より変わらず来た琴浦町山田のヤマタ(清音)の読みが「山田」の鳥取県中部における古くからの読みと思われる。東伯郡三朝町でも当時はヤマタ(清音)と読んでいたが、藤原氏がヤマダ(濁音)という読み方に変えさせた。三朝町の山田集落は坂本集落(神社は足名椎命、手名椎命を祀る)と大瀬ほうき(稲田姫が母来ませと叫んだところ)との間にある。また、全国旅館百選に選ばれた三旅館があり、温泉病院、惑星物質研究所がある。
3 八俣大蛇は、第1次の徐福を追ってきた始皇帝の追っ手であった。毎年娘を取られ今年は8人目の稲田姫の番であった。須佐之男は三朝町山田にいたヤマタのオロチを成敗して、秦の始皇帝陵で見つかった剣と同じ天叢雲剣(草薙剣)を持って稲田姫とその両親とともに蒜山(高天原)にいた徐福(天照大神)に状況を報告するために蒜山高原(高天原)に向かった。
八岐大蛇が持っていた天叢雲剣(草薙剣)は始皇帝陵の剣と同じ両刃の剣であった。四百年たっても草を刈れたのだから、始皇帝陵で見つかった剣と同じものである。天叢雲剣と秦の始皇帝陵から見つかった1m余りの剣(紀元前220年頃の剣だが今でも切れる)はどちらも錆びないようにクロームメッキされた始皇帝が作らせた両刃の剣である。天叢雲剣(熱田神宮にある)は携帯に便利なように少し小振(85cm)である。八岐大蛇とされた始皇帝の追手は、秦で作られた天叢雲剣を持って、対馬海流に乗って海流の弱まる鳥取県中部の東郷池に上陸した。八俣大蛇とされていたのは、第一次の徐福(紀元前219年)を追っていた始皇帝の追っ手であった。
4 須佐之男は八岐大蛇(始皇帝の追っ手)を退治して、天照大神に状況を説明するため、稲田姫、足名椎、手名椎とともに高天原(蒜山の長田神社)に上がった。
「伯耆国」はもと「母来国」と呼ばれていたと伯耆国風土記の残欠にある。母来とは稲田姫が「母来ませ」と叫んだところから名づけられた。「ははき」が訛って「ほうき」になった。
〇〇ほうき(母来ませと稲田姫が叫んだところ)という地名が三朝町に三ヶ所(助谷・大瀬・大原)あり、三朝町の坂本神社に稲田姫の両親が祀られている。〇〇ほうき(母来ませと稲田姫が叫んだところ)といわれるところは、いずれも山と川の間が狭く、通るのに不便であったところである。この地名は八岐大蛇を退治してから、須佐之男・稲田姫・その両親が蒜山長田神社(高天原)にいた天照大神に会いにいく途中で母親の遅れを稲田姫が急かしたところである。須佐之男たちは三朝町助谷から穴鴨経由で真庭市中和に上がり、蒜山の長田神社にいた天照大神に天叢雲剣を渡して状況を説明した。須佐之男は始皇帝に報告しなかった天照大神を咎めた。天岩戸隠れはこのときの出来事であった。
5 須佐之男と稲田姫とその両親は蒜山高天原で天照大神・天穂日と合流し、伊邪那岐が移った鳥取県智頭町那岐村(幽宮)に近い鳥取県八頭町の大江郷に逃げ、須佐之男は八重垣の御殿を建て稲田姫と隠れ住み大国主を生んだ。天穂日は須佐之男の御殿を守った。
始皇帝の追っ手から逃げるため天照大神は蒜山高天原を去り、鳥取県東部の河原町の霊石山や氷ノ山に登った。始皇帝が亡くなったことを知り、天照大神は高天原(蒜山高原)に、須佐之男は神大市比売との間に生まれた須勢理姫と一緒に蒜山を通って根国(倉吉市中心市街地)の清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)の峰に降りて行った。
大国主は根国の清熊稲荷神社の峰にいた父の須佐之男を追って行った。須佐之男は大国主が強くなるようにしつけた。古事記「根国での冒険」の舞台は清熊稲荷神社の峰(哮峰)周辺であった。大国主は須勢理姫を背負って黄泉比良坂(鳥取県道23号線)の麓までいたり、須佐之男が追いかけてきたが、宇迦能山(鳥取県北栄町茶臼山=いなさ山)に行った。大国主は葦原中津国(鳥取県北栄町大島周辺)に多くの妻子を住まわせ国造りをした。
6 1人になった須佐之男は東山神社(倉吉市米田町)に移り、対岸の石上神宮(倉吉市大原)に十握の剣を奉納した。宇迦之御魂(須勢理姫)を祀る神社を繋いでみると須勢理姫は兄のいた宇迦能山(北栄町茶臼山)と父のいた東山神社(倉吉市米田町)との間を行ったり来たりして父に国造りの経過報告をしていたようである。
その後、饒速日や天忍穂耳たち大勢は清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)の峰に降臨してきた。須佐之男は清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)の峰で降臨してきた饒速日や天忍穂耳たち大勢と会った。須佐之男(天神の御祖神)は天忍穂耳に1人になった大国主の国造に協力してやってほしいと言い、饒速日に10種の神宝を授けた。
7 倉吉市の大原神社は647年まで石上神宮といい元禄時代までは波波伎神社と言っていた。京都の藤原氏は元禄時代に辻褄を合わせるために波波伎神社名を消し大原神社とした。波波伎神社は事代主が到着した福庭の神社名にした。岡山県赤磐市石上字風呂谷にある石上布都魂神社の宮司の名前を物部にしたのも元禄時代(10代前×30歳=300年前=1700年)である。岡山県赤磐市是里に須佐之男が八俣大蛇を斬った剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃である。
いそえ姓の多い鳥取県北栄町江北浜集落の東には1740年まで石山があった。石山(いそのやま)の上流にある倉吉市大原のことを石上(いそのかみ)と呼んでいた。石上神宮の「石」を「いそ」と読ませるが、奈良県天理市は「いそ(磯)」には遠い。