「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

倭建命ゆかりの地に行ってきました

2021-06-27 18:34:53 | 欠史八代

1 倭建命が矢を放った矢筈山のあるのは関金町清水集落の奥ではなく、蒜山の郷土史家によると犬挟峠の東であった。

 倭建命は矢筈山で「この矢のとどく限り兇徒悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った。その矢を関金町生竹の矢止めの荒神が止めた。

2 矢止めの荒神

 橋の向こうの集落が生竹である。この反対側には耳集落がある。

 矢止めの荒神。地図では因山神社となっている。石段を上がっても小さな祠があるだけである。

 案内板には「十二代景行天皇の御代、伯耆国と美作国の境に矢筈山という高山あり、その山頂に唐王権現という石祠と石塔あり、日本武尊西国平定の道すがら矢筈山に登り、山頂より東北に矢をつがえ『この矢の止まる限りをわが守護の地とならん』と、矢を放ち給えば東北なる二里余りの小鴨村加茂河内生竹と称する所に落下せり。このところに荒神宮の小祠あり、荒神宮の神さま里人と相謀り『貴き神の矢なるべし』と、この矢を丁重に遺りかえせしが、これより後、生竹の里人達は、矢をお止になりし荒神さま、即ち、矢止め荒神さまと、益々あがめている」とある。

3 私見
(1)古事記には「天照大神は、『豊葦原の水穂の国は、私の子、天忍穗耳命が治めるべき国だ。』と言って、天から降らせた。天忍穗耳命は天の浮橋に立ち、下界を窺って『豊葦原の水穂の国は、ひどく騒がしい』と言って、再び天に昇って天照大神に状況を訴えた。そこで高御産巣日神と天照大神は天の安河の河原に八百万の神々を招集して、思金神に『この葦原の中つ国は、私の子が治めるべき国だと言依さした国である。しかしこの国には、荒ぶる国つ神がたくさんいる』」とある。
 古事記には、主語は消してあるが「この葦原の中つ国は、私の子が治めるべき国だと言依さした」のは伊邪那岐(大神)であった。「しかしこの国には、荒ぶる国つ神がたくさんいる」とある。荒ぶる国つ神のことを荒神と言った。荒神がたくさんいたから天忍穗耳は「ひどく騒がしい」といった。この神は出雲の神であり、神在月には出雲に集まった。
(2)「十二代景行天皇の御代」とある。なぜ、あえて書くのか。倭建命は古事記・日本書紀に景行天皇の皇子と書いてある。調べればすぐわかることである。しかし、本当の系譜は「七代孝霊天皇の御代」であった。「倭建命の父は孝霊天皇であった」を参照されたし。この案内板を作ったのは神社庁か教育委員会だろう。どちらも、亡命百済王朝(日本)の藤原氏である。藤原氏は「嘘も百回つけば本当になる」とする。孝霊天皇や倭建命の出てくるところには、必ずといっていいほど景行天皇を書き加える。景行天皇は朝鮮半島の百済国の王であった。
(3)「西国平定の道すがら」とある。鳥取県中部には矢を一本放って瀬戸内を西に行ったように思わせる書き方である。しかし、西国平定は倭国大乱が終結してからである。倭国は鳥取県中部であったから、鳥取県中部西部が最終目標である。案内板を書いた者は鳥取県中西部を素通りしたと思わせるように改ざんしている。
 案内板を書いた者は倭国王家に鬼・土蜘蛛・河童といわれていた荒神を擁護している。この時は倭国大乱の始まりの時であった。吉備国を平定(新見にいた出雲族の石蟹の平定など)して蒜山に来た時である。神倭磐余彦と同じく南から平定してきている。神倭磐余彦も首領は殺したが一族は殺さなかったので荒神はたくさん残っていた。神倭磐余彦は平定して殷王朝から引き継いできた荒神(出雲族)の宗教を改宗させようとして妻木晩田を開いたが、その妻木晩田で七代孝霊天皇は不祥事を起こし荒神(出雲族)の反乱を招いた。
 倭国は鳥取県中部であったからこのあと鳥取県中部を平定した。そして西部を平定した。特に西部では、妻木晩田を拠点としていた出雲族を追い払い、南部町の手間山に逃げ込んだ出雲族を手間山の麓で捉えた。鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定して出雲族を降伏させ倭国大乱は終結した。
(4)倭建命が念じた「兇徒悪魔は退散して」を矢止めの荒神の案内板ではなぜ削除したか。荒神は荒ぶる神・まつろわぬ神であり、鬼・土蜘蛛・河童・猿などと呼ばれ殷王朝から引き継いだ人間の生贄を行っていた。天皇家とは十代崇神天皇まで敵対し反乱もしていた。倭国大乱とは鳥取県にいた荒神(出雲族)の反乱であった。倭建命のいう「兇徒悪魔」とは荒神そのものであった。消したものが当の本人であった。それは神社庁・教育委員会の元の藤原氏であった。藤原氏は「兇徒悪魔」(荒神)の子孫である。
(5)「生竹の里人達は、矢をお止になりし荒神さま、即ち、矢止め荒神さまと、益々あがめている」とある。生竹の里人達に世論調査でもしたのだろうか。あがめるわけがない。倭国王家に鬼・土蜘蛛・河童といわれていた荒神(ここでは河童)を擁護している。案内板を書いた者は倭国王家に対立していた兇徒悪魔(荒神)の子孫の藤原氏(神社庁・教育委員会)であった。
(6)この案内板を書いたのは神社庁・教育委員会であり荒神と同族である。「兇徒悪魔」が荒神であることを知っていて書いている。荒神に味方をしている事がわかる。明治維新は「兇徒悪魔」の子孫の藤原太政官制から始まった。神社庁・教育委員会は今でも藤原氏(荒神=兇徒悪魔)の流れにある。

 


倭建命の父は孝霊天皇であった

2021-06-18 05:41:15 | 欠史八代

1 倭建命の父は孝霊天皇であった。
(1)倭建命の系譜
 古事記・日本書紀は、「12代景行天皇は倭建命の父であり、14代仲哀天皇は倭建命の皇子である」とする。これは正しいか。
 12代13代14代は潤色されている(別稿「12代景行・13代成務・14代仲哀について」を参照されたし)。また「景行天皇は倭建命のひ孫を娶り」とあることや、「仲哀天皇は倭建命が亡くなってから35年目に生まれた」ことになるため、倭建命と12代、倭建命と14代の親子関係を否定する説が有力である。これをもとに倭建命はいなかったとする説があるが、いなかったのは12代景行・13代成務・14代仲哀のほうである。12代13代14代は百済王であり、倭国王の倭建命を取り込もうとしたがほころびが生じた。
 倭国大王の13代は武内宿禰大臣(王)であった。成務天皇と同日生まれとするし、「王」を「臣」と書き換えたと思われる。12代は武内宿禰の父の屋主忍男武雄心であった。木(紀)氏系図では、8代孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心は12代→武内宿禰は13代となる。
(2)古事記・日本書紀は8代9代10代は父子承継とする。これは正しいか。
 古事記・日本書紀は、8代孝元天皇・9代開化天皇・10代崇神天皇・11代垂仁天皇・12代景行天皇・13代成務天皇とする。しかし、史実は8代孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心は12代→武内宿禰は13代であった。8代9代10代11代の期間は別系統での8代とその子の彦太忍信命の期間と同じになる。12代は屋主忍男武雄心命であり13代は武内宿禰であったから8代9代10代が兄弟であり、彦太忍信命と11代垂仁天皇が同世代であるなら辻褄があう。倭朝廷は戦などで王が若死にした場合、次の兄弟に王位を継がせていた。私見では8代9代10代の時代は倭国大乱の時代(2世紀後半)であった。8代9代10代は兄弟であった。
 紀元前210年に渡来した徐福が天照大神であったことを消すために神武元年を史実より600年古くした。兄弟承継を父子承継にし、初期十数代の天皇は寿命を異常に長くした。
(3)倭姫命は7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命であった(別稿「内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった」を参照されたし)。
 倭建命は倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)と一緒に全国の平定巡行をしている(一緒にいたから着物を借りたり、草薙剣を借りることができた)。倭建命は倭迹迹日百襲姫命の兄弟であった。
 倭迹迹日百襲姫命には男兄弟が5人いた。孝元天皇、大吉備津日子命、日子刺肩別命、若日子建吉備津日子命、日子寤間命である。 
 大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は吉備国を平定した(古事記)。倭建命は全国を平定しているので倭建命は吉備国を平定した二人のうちどちらかと思われる。同じ「建」がついている若日子建吉備津日子命と思われる。倭建命は若日子建吉備津日子命であった。
(4)倭建命(若日子建吉備津日子命)は東征のときに倭武天皇になっているが9代天皇か10代天皇か。
 倭朝廷は戦などで王が若死にした場合、次の兄弟に王位を継承していた。9代は若死にした王でなければならない。倭建命(若日子建吉備津日子命)は天皇になったが若死にしている。倭建命(若日子建吉備津日子命)は9代開花天皇であった。

2 鳥取県中部の伝承
 倭建命については鳥取県中部に二か所伝承が残っている。
(1)鳥取県倉吉市(旧関金町)に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。
(2)鳥取県北栄町宮崎神社(主祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命)の由緒には「是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋し給ひき。是れ本社の濫觴なりと。斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり。尊大に歓喜し給ひて宣はく『斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや』と。是より社地を称して浮洲の社と云ふ。洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり。御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ。斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや。小艇は此地に置き給ひて、御艦に召され進発し給ひしと云ふ。」とある。

3 私見
(1)について
 これは倭国大乱のときの出来事であった。倭迹迹日百襲姫は18歳位の時に讃岐国から皇軍に加わって倭国大乱を平定していった。倭建命(若日子建吉備津彦)は12歳位になっていたはずである。倭建命(若日子建吉備津彦)は大吉備津彦(崇神天皇)や倭迹迹日百襲姫たち皇軍と一緒に瀬戸内側から吉備国を平定した。これは南の瀬戸内海側から北に出雲族(略奪集団)を平定していった神武天皇と同じ攻め方である。
 蒜山と関金町との境界の矢筈山で北(鳥取県中部=倭国)に向けて矢を放っている。倭建命(若日子建吉備津彦)は鳥取県中西部にいた出雲族の鬼・土蜘蛛(兇徒・悪魔)を平定し倭国大乱は終結した。最大の激戦地は鳥取県南部町の手間山であった。出雲族の八十神に対して天孫族には大国主の子孫も加わっていた。その後、若日子建吉備津彦(倭建命)と倭迹迹日百襲姫(倭姫命)は征西(熊襲征伐)を命じられる。
(2)について
 伊邪那岐・伊邪那美は鳥取県北栄町大島を葦原中津国を造るときの拠点としていた。伊邪那岐は辰韓から来た三貴神を鳥取県北栄町大島で出迎え、治めるべき国を三貴神に命じた。
 「日本武尊が征西の御時、北海の霪風が御艦を悩ましたが、不思議の神助にて御艦引寄するが如く着かれた」とある。倭建命と倭姫命は、九州を平定し新羅から出雲の日御碕神社・片江を経由して帰還した。天照大神と須佐之男も辰韓を出発し出雲の日御碕神社に到着している。倭建命は神助による征西の成功を倭国の祖神の伊邪那岐・伊邪那美を祭って謝し給はれた。
 全国の神社を掌握した藤原氏は「斯くて数十年を経て景行天皇の御宇」を改ざんして挿入している。正しくは、「斯くて数年を経て孝霊天皇の御宇」であった。倭建命は第7代孝霊天皇の皇子若日子建吉備津日子であった。

4 第9代開化天皇(倭建命)の皇居は鳥取県北栄町瀬戸の観音寺にあった。北栄町瀬戸は倭建命が征西から帰還した北栄町大島の隣にある。葛城は蜘ヶ家山より西であり、北栄町瀬戸も葛城地域であった。
 倭建命の3つの古墳のうち、磯城の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳(古墳時代最前期)であった。磯城とは東郷池周辺であった。倭建命はコブ白鳥のいる東郷池湖畔の湯梨浜町宮内で生まれたので白鳥陵も宮内に造られた。
 湯梨浜町宮内の狐塚古墳(全長100mほどの前方後円墳)は前方部が水辺近くにあり、鳥羽市安楽島町の松の鼻古墳(全長200mほどの前方後円墳)も前方部が水辺近くにある。それぞれ倭建命と倭姫命の古墳であった。

5 小碓命・大碓命の物語は朝鮮半島の百済国であった物語である。それを日本国史の中に取り込んだ。小碓命のモデルは若日子建吉備津彦(倭健命=第9代開化天皇)であり、大碓命のモデルは大吉備津彦(第10代崇神天皇)である。9代10代の母親は蝿(湯梨浜町長和田は波延の地)姉妹(出雲族)であり、9代10代は同い年くらいの異母兄弟であった。
 倭建命(若日子建吉備津彦157年~188年)と倭姫命(倭迹迹日百襲姫151年~248年)は全国を平定した。若日子建吉備津彦(倭建命)は9代開化天皇になるが若くして亡くなった。兄の大吉備津彦が次の10代崇神天皇に即位した。
 倭建命と倭姫命の全国巡行(稚日女命が祀られているところはほぼすべて)にも関わらず、青銅器文化(銅鐸・銅剣銅矛・生贄の風習)の一族(出雲族)を完全に平定することはできなかったため、崇神天皇(188年即位)は4道将軍を派遣して全国を平定した。

 


葦原中津国の中心(北栄町大島)に行ってきました

2021-06-16 05:44:26 | 欠史八代
1 北栄町大島(旧島)の全体像。

 伊邪那岐(大神)・伊邪那美は天照大神(徐福)が連れてくる三千人の少年少女を住まわす国を北栄町大島を中心にして造っていた。伊邪那岐(大神)はその三千人のために「千五百の産屋を作ろう」と言った。
 当時、周辺は汽水池であったので魚類も豊富に捕れた。また、汽水池の周辺は葦原となっており水稲稲作に適した地であった。縄文海退で周辺が陸地になってからは、全面穀倉地帯になっている。白い建物は収穫した米を貯蔵するカントリーエレベーター。
 蜘ヶ家山(葛城山)より西が葛城だったので北栄町大島も葛城地域であった。孝安天皇の葛城室之秋津島宮があった。

 家並みの奥の丘を取り巻くように家が建っている。

2 大島(室秋津島)の中心にて
 島の一番高いところである。向こうに火火出見命が宮を定め神武天皇四兄弟がいた四王寺山が見える。
 
3 宮崎神社(昭和9年鳥取県神社誌より)


由緒(抜粋)
 「・・・。是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋し給ひき。是れ本社の濫觴なりと。斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり。尊大に歓喜し給ひて宣はく 斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや と。是より社地を称して浮洲の社と云ふ。洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり。・・・。」とある。
※ 私見
 「斯くて数十年を経て景行天皇の御宇」は改ざん挿入されており正しくは「斯くて数年を経て孝霊天皇の御宇」であった。
 孝元天皇は伊邪那岐・伊邪那美を奉斎され、倭健命が島の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を炊いて伊邪那岐・伊邪那美を祭り征西の神助を謝した。 孝元天皇が伊邪那岐・伊邪那美を奉斎したのは、土人のためではなく大乱を戦っている父の孝霊天皇や妹の卑弥呼や弟の倭建命の戦勝を祈願したからである。
 倭建命が着御し、尊大に歓喜したのは征西が成功裏に終わったからである。昭和九年の鳥取県神社誌には「征西の御時」とある。
 
 
 

第2代~第9代(欠史8代)の天皇は鳥取県中部(倭の都)に実在していた

2021-06-08 10:48:33 | 欠史八代

 

1 欠史8代 非実在説

(1)  旧辞的部分を欠く。

(2)  諡号がおかしい。

(3)  すべて父子相続である。

(4)  2代~9代の寿命は異常に長い。

(5)  物事の順序からして、奈良盆地の一隅にいる豪族が盆地の外へ進出・発展していくためには、その前提として盆地を制圧・平定し、支配下に置いていなければならないはずです。ところが古事記・日本書紀ともに、奈良盆地の制圧・平定に関する経過を何一つ記していません。10代崇神に至っていきなり、盆地外への進出・発展の動きが現れます。神武の子孫たちが次第に実力を蓄えて奈良盆地の一隅から徐々に勢力を拡大し、やがて盆地全体を制圧・平定するに至るまでの経過を、説話として残していない。奈良盆地の外へ進出・発展していくためには、盆地の制圧・平定が前提であるにもかかわらず、その前提を語る伝承が何もないなど考えられない。

2 欠史8代 実在説

(1)  帝紀的部分のみがあって、旧辞的部分を全く欠くのは2~9代の天皇だけではない。

 事績がないということでは、24代仁賢天皇から33代推古天皇までの10代に亘っており、これも実在しなかったと言われても仕方がなくなってしまう。

(2)  2代~9代の天皇の異常な寿命の長さは不自然だが、これは雄略天皇にも見られ、これだけで非実在の証拠とはならない。讖緯説に従い日本の歴史を遡らせるならば、自然な長さの寿命を持つ天皇の存在を何人も創作して代数を増やせばよい。にもかかわらずそれをしなかったのは、帝紀記載の天皇の代数を尊重したためであろう。古代天皇の不自然な寿命の長さが、かえって系譜には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる。

(3)  7代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、諡号に使われる称号のヤマトネコ(日本根子・倭根子)を除けば7代はヒコフトニ(彦太瓊・日子賦斗邇)8代はヒコクニクル(彦国牽・日子国玖琉)9代はヒコオオビビ(彦大日日・日子大毘毘)となり、実名らしくなる。こう考えれば実名を元に諡号が作られた可能性もあり、後世創作の架空の天皇であると一概には言えない。むしろ12代・13代・14代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史8代よりもこちらの方が実在の可能性が低い。2代、3代、5代の天皇の名は明らかに実名として生前に使われた可能性が高い。和風諡号に使われる称号の部分がないためで、実在の可能性は高い。

(4)  すべて父子相続である点は確かに不自然だが、それだけでは非実在の証拠とはならない。実際は兄弟相続だったものも便宜的に父子相続と記されたとも考えられる。事績が欠けているのも同様に説明がつく。

(5)  稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に8代孝元天皇の第1皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇及びその直系親族や近親者も実在の人物とみなす見方がある。孝元の名前を刻まなかったのは、大彦命が孝元の皇子であることが広く知られていたためと考えられる。鉄剣に刻むスペースの問題を考えれば、孝元の名を省いたとしても不自然ではない。

(6) 各天皇の氏族、豪族、臣の掲載は広範囲に列挙されており、特に丹波国と王族との関係は深く婚姻関係の深まり丹波の豪族の巨大さと影響力を知らされる。

3 私見  鳥取県中部(倭国)に実在説

(1)  倭国歴史書原本には2代から9代までの旧辞の記述もあったが藤原氏が消した。

 殷王朝末裔の準王一族(出雲族)と藤原氏は同族である。藤原氏は百済人であり朝鮮半島に残っていた殷王朝末裔の準王一族であった。弥生前期から列島に渡来してきていた準王一族は倭国王家と10代崇神天皇まで争っていた。10代崇神天皇のときに全国の準王一族は平定され、統一された。藤原氏は倭国を乗っ取ってから、同族が平定され統一された歴史を残すわけにはいかなかった。神武東征神話(奈良を平定したのは神武ではなく4代であった)との整合性もある。それで、2代から9代までの旧辞を消した。天照大神が中国人(除福)だったという史実も消さなければならなかったので、2代~9代の寿命を異常に長くした。長くするために8代・9代・10代の兄弟承継を父子承継にした。7代・8代・9代・10代は倭国大乱で丹波国(但馬)に10年間疎開していた。丹波の豪族との関係が深いのはこのためである。

 倭国は弥生後期(186年頃)までに列島の西は熊本県、東は岩手県まで青銅器文化の一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷=殷王朝末裔の準王一族)を平定し全国を統一していた。倭姫命(倭迹迹日百襲姫)と倭建命(若日子武吉備津彦)の征西と東征によって各地に神社を創らせ(倭姫命世紀のように)祭祀方法を変えさせて全国を統一した。全国を統一していった過程を神武天皇から崇神天皇(大吉備津彦)までの旧辞に誇らしく書いてあったはずである。

 亡命百済王朝は669年に日本と名乗り、734年に倭国の大君を殺して列島を乗っ取った。734年に列島を乗っ取った準王一族と同族の藤原氏はこれをそのまま残すわけにはいかなかった。藤原氏より500年以上前から全国を統一していた日本とは別の倭王朝があった記述を残すわけにはいかなかった。これが最大の理由である。

(2) 9代天皇の旧辞がないというが、9代開化天皇は倭建命(若日子武吉備津彦)であったから、古事記にも日本書紀にも景行天皇の皇子として倭国大乱の記述として詳しく書かれている。また、7代孝霊天皇の旧辞も景行天皇と土蜘蛛との戦いとして挿入されている。10代崇神天皇は4将軍を派遣して全国の青銅器文化の一族は平定された。その後、青銅器の原料を採掘する土蜘蛛は存在しない。12代景行天皇の時代、土蜘蛛はすでに平定されていた。「椎」の字が出てくるのは孝霊天皇の旧辞である。

(3)  古事記を見るかぎり諡号に不自然さは感じない。むしろ12代・13代・14代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史8代よりもこちらの方が実在の可能性が低いものと思われる。12代・13代・14代は百済国の王であった。史実は、12代は屋主忍男武雄心であり、13代は武内宿禰大臣(王)であり、14代は13代の4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)であった。

(4)  すべて父子相続になっているが、8代9代10代は兄弟相続であった。神武元年を600年古くするための1つの方法である。また、2代~9代の天皇の寿命を異常に長くすることも神武元年を600年古くするための一つの方法であった。それは天照大神が徐福(紀元前210年来倭)であったことを消すためであった。

(5) 奈良盆地に創ってある欠史8代の皇居の比定地を見て回ったが、石碑が立ててあるだけある。地名を付けて、石碑を建てるだけなら、全国どこでもできる。非実在説は欠史8代は奈良にいなかったとする。欠史8代は奈良にはいなかったが、鳥取県中部に実在した。鳥取県中部では、欠史8代の皇居の比定地を集落単位で想定できる。鳥取県中部の葛城、磯城、軽の地域区分は間違っていない。

 「葛城」は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)より西の地域であった。2代綏靖天皇の葛城高岡宮は蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社であった。5代は葛城の掖上であるので蜘ヶ家山(葛城山)の西の脇の上(南側)の灘手神社(倉吉市穴沢)である。掖上の岡から灘手小学校方面を見れば灘手の2本の尾根が接近して見えるので蜻蛉がトナメしているように見える。6代の室秋津島は北栄町島(合併後は大島)である。9代の春日之伊邪河宮は北栄町瀬戸の観音寺である。

 「磯城」は東郷池周辺(湯梨浜町)である。3代の師木(磯城)津日子玉手見命の宮は片塩浮穴宮であり船の出入りできる汽水域(片塩)の湾(津)があることが前提となる。片塩浮穴宮は湯梨浜町橋津の観音堂であった。稗田阿礼は場所が特定できるように具体的に表現している。奈良の片塩の地名は藤原氏がのちにつけたものである。決してそこに昔から地名があったわけではない。7代の庵戸宮は湯梨浜町宮内の倭文神社であった。

 「軽」は鳥取県中部の上北条地域(神代みわしろ地域)である。軽の坂上の厩(応神天皇の段)の位置に現在は馬場町があった。軽之境岡宮(倉吉市小田山)には4代の宮があり、軽之堺原(倉吉市小田)には8代の宮があった。軽島之明宮(倉吉市穴窪)には15代天皇(応神天皇)の宮があった。

 神武天皇から9代までは鳥取県中部に皇居があったのであり、奈良に宮はなかった。したがって神武天皇から9代までの宮が奈良にあったことを前提とする鳥越憲三郎氏の葛城王朝説は作り話であり、奈良の葛城にいた葛城族とは準王一族(出雲族)であった。奈良の葛城という地名ものちに藤原氏が付けたものである。

 初代天皇は初めて西日本を平定したのであり、10代天皇は初めて東日本も平定した。共にハツクニシラススメラミコトと呼ばれてもおかしくない。したがって、葛城王朝説や三輪王朝説なるものは欠史8代をなんとか奈良にいたことにしようとした鳥越憲三郎氏の作り話であった。

 


倭建命は第9代開化天皇であった

2020-11-07 11:19:32 | 欠史八代

1 古事記・日本書紀は8代孝元天皇・9代開化天皇・10代崇神天皇は父子承継とするがこれは正しいか
 13代倭国男王は武内宿禰であった。武内宿禰の父は屋主忍男武雄心命である。12代景行天皇の実在には疑問が出されており、12代倭国男王は屋主忍男武雄心命であった。屋主忍男武雄心命について正しいと思われる史料の「紀氏系図」では、孝元天皇皇子に彦太忍信命、その子に屋主忍雄命、その子に武内宿禰と甘美内宿禰とする。
 「紀氏系図」では、8代孝元天皇と13代武内宿禰との間には二人いるだけである。8代孝元天皇・9代開化天皇・10代崇神天皇は兄弟でなければ年代が合わない。孝元天皇・開花天皇・崇神天皇は倭国大乱の時代の孝霊天皇の皇子であり兄弟承継をしていた。そう解することによって、11代垂仁天皇と彦太忍信命は「いとこ」、12代景行天皇と屋主忍男武雄心命は「またいとこ」になり年代的に一致する。
 なぜ、孝霊天皇一族の兄弟承継(倭国大乱で8代・9代は早死にしている)を父子承継にしたのか。
 唐は倭国と日本は別の国だと断定している(旧唐書倭国伝)。倭国を乗っ取った亡命百済王朝(日本)は中国の信用を得るために、倭国と日本は連続しており、万世一系の皇統だとした。ある種の詐欺である。しかし中国の支配下に置かれたくなかったから、始祖の天照大神が徐福(中国人)だということは隠した。そのために神武元年を徐福(天照大神)が渡来した紀元前210年よりずっと古い紀元前660年にした。古く見せるために、倭国の原書にあった兄弟承継を日本の国史では父子承継にした。

2 11代天皇と12代天皇の問題となる系譜
⑴ 垂仁天皇(本拠地は岡山県美咲町大宮神社)ー 彦太忍信か
皇后:日葉酢媛命(丹波道主王の娘)
◎五十瓊敷入彦命、大足彦忍代別尊 ー この位置は屋主忍男武雄心命である
◎葛木志志見興利木田忍海部刀自(住吉大社神代記による) ー 豊鋤入姫(台与)であり神功皇后
◎倭姫命 ー 史実は孝霊天皇皇女であった
妃:迦具夜比売(かぐやひめ)。 ー 開化天皇の曾孫(ひまご)。
⑵ 景行天皇(屋主忍男武雄心命)皇居は纒向日代宮 ー 屋主忍男武雄心命か
皇后:播磨稲日大郎姫 ー 若建吉備津日子の娘 ー この位置は津山市にいた影姫であった
◎大碓命 ー 身毛津君(牟宜都国造)等祖
◎小碓命(倭建命=若日子建吉備津日子) ー この位置は武内宿禰であった
妃:迦具漏比売(かぐろひめ)。 ー 倭建命の曾孫(ひまご)。
⑶ 私見 
 古事記によれば「景行天皇の妃の訶(迦)具漏比売(かぐろひめ)は倭建命(景行天皇の子)のひ孫」となるので、景行天皇と倭建命との親子関係に否定的な説がある。景行天皇は136歳まで生きたのだから皇子のひ孫を「妃」と出来るかもしれない、という説があるが、不可能である。
 開花天皇は崇神天皇と兄弟なので景行天皇の2代前となる。開花天皇のひ孫は景行天皇の妃であれば娘ぐらいの年代になるので、迦具夜比売は景行天皇の妃がふさわしい。また訶(迦)具漏比売も開花天皇のひ孫なら景行天皇とは父娘くらいの年の差になるのでありうることである。
 迦具夜比売と訶(迦)具漏比売は本来は姉妹であり二人とも景行天皇(屋主忍男武雄心命)の妃であったと思われる。孝霊天皇も蝿(イロネ)と蝿(イロド)の姉妹を妃としている。原古事記には「開花天皇(倭建命)のひ孫の迦具夜比売(姉)と迦(訶)具漏比売(妹)は景行天皇(屋主忍男武雄心命)の妃となって・・・」とあった。
 「常陸国風土記」では倭武天皇、「阿波国風土記」逸文では倭建天皇と書く。名古屋の氷上姉子神社の末社・元社の宮簀媛命宅跡の石碑にも「倭武天皇妃の宮簀媛命」とある。倭建命は天皇になっていた。倭建命(倭武天皇)と開花天皇は同一人物であった。

3 倭建命は吉備国を平定して蒜山から関金町に降りてきている(倉吉市関金町の伝承より)ので、若日子建吉備津日子命と同一人物と思われる。若日子建吉備津日子命は吉備国平定の功績により開化天皇になったと思われる。同じく大吉備津日子命も吉備国平定の功績により崇神天皇になった。第9代開化天皇は若日子建吉備津日子命(小碓命)であり、第10代崇神天皇は大吉備津日子命(大碓命)であった。母親が姉妹の異母兄弟であった。
 開化天皇は景行天皇の祖父の崇神天皇と兄弟であったが景行天皇の3代前の天皇となる。倭建命は欠史8代とされ旧辞が消された第9代開化天皇である。どちらも157年生まれの孝霊天皇の皇子と思われる。第8代孝元天皇の弟である。倭建命(若日子建吉備津日子命)は孝元天皇が亡くなってから5年くらいの間第9代開化天皇であった。30歳(188年)で亡くなった。倭建命が活躍したのは景行天皇の時代ではない。記紀の旧辞を読んでもわかるが、倭建命が生きた時代は倭国大乱の時代(147年~189年)である。倭姫命は伊勢神宮の正統性を創るために豊鋤入姫命の一代あとの景行天皇の妹としなければならなかった。倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)と同時代に生きていた倭建命(若日子建吉備津日子命)も景行天皇の皇子とした。

4 卑弥呼と倭建命は新羅から中国へ行くルートを開くため三韓に行っている(173年)。全羅南道の任那はこの時に初めて設置された。三韓に行った後、祖父の孝安天皇が居た葦原中津国にも立ち寄り神助を謝している(宮崎神社の由緒)。
 宮崎神社の由緒には「征西の御時」とあるので倭建命が北栄町島に帰還したのは倭国乱の時代(147年~189年)である。
 鳥取県倉吉市関金町にも倭建命の伝承が残る。「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と言ったのだから、倭建命は倭国乱の時代(147年~189年)に生きた。卑弥呼の前期は倭建命と一緒に行動している。

5 各天皇の生年と没年
※ 第7代孝霊天皇 120年~211年 卑弥呼の兄の孝元天皇(生年149年頃)を29歳の時に出生したとすると、120年生まれとなる。倭国乱が終結し、天孫族の大陸へ行くルートを確保したため安心して、広島の南宮神社あたりに隠居した。
※ 第8代孝元天皇  149年~182年  孝霊天皇不在中の臨時天皇
※ 卑弥呼 151年~248年 倭国の乱は早くとも147年からであるから、7歳の時158年頃に初期の乱に遭い逃げたと思われる。
※ 第9代開化天皇(倭建命) 157年~188年  倭建命と崇神天皇は異母兄弟。 享年30歳
※ 第10代崇神天皇 157年~258年 

6 開化天皇の皇居は鳥取県北栄町瀬戸の観音寺と思われる。

北栄町島の宮崎神社の由緒に「倭建命は伊邪那岐・伊邪那美に神助を謝せられた」とある。御艦は瀬戸に泊めていたと思われる。開化天皇は皇子の時から瀬戸は知っていた。皇居をどこにするか聞かれて知っている瀬戸を選択したと思われる。瀬戸の観音寺から北栄町島が見える。


瀬戸の観音寺に行くのに必ず道に迷う。迷わずにたどり着いたことがない。通り過ぎて行き止まりになったり、今度は大丈夫と思ってもいつのまにか遠ざかっていたりする。倭建命は準王一族(出雲族)と敵対していたから、容易に皇居に辿りつけないように迷路のような道路を造っていた。


南を見れば大山・烏ヶ山・蒜山が見えるが、晴れた日は青く見える。当時は杉林はなかったと思われる。倭建命はこの青い山並みを歌に詠み「やまとは国のまほろば青垣山ごもれるやまとしうるわし」とうたった。

7 古墳

 倭建命であり第7代孝霊天皇の皇子である。東国を従えるため、尾張に一大率として居たため皇居の比定は難しいが、古墳は湯梨浜町宮内の狐塚古墳のはずである。築造は五世紀始めとするが、形状が鳥羽市安楽島の卑弥呼の松の鼻古墳と同じように前方部が水側に向いており、卑弥呼の200mの半分の100mであり、後世生まれたところに築造したと思われる。1歳くらいの時にコブハクチョウにエサをやったはずである。


瀬戸35号・36号墳の埋葬者は倭建命の子孫と思われる。35号墳は一人用の石棺に夫婦二人が埋葬されていた。頭骨はベンガラで朱色に塗られていた。奈良の藤ノ木古墳も同棺複数埋葬墓であった。奈良の法隆寺は由良(22)に皇居のあった聖徳太子(蘇我入鹿天皇)が建立した。


倭建命の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳であった

2020-02-09 05:26:42 | 欠史八代

 倭建命の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳であった。

1 東郷池にはコブ白鳥(朝鮮半島からの渡り)がいた。

 エサをくれると思ったのか、寄ってきた。向うは望湖楼と千年亭。 

 子育て中の東郷池のコブ白鳥(養生館の横で)。

2 鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳(前方部が池側を向いている)

 この前方後円墳は「前期古墳時代の特徴的な外形を示している」ので古墳時代前期と思われる。古墳時代前期がいつから始まるかはまだ流動的であるが考古学では3世紀中頃という説に落ち着いてきている。4世紀とするのは一昔前の考古学である。倭建命は188年頃に亡くなっているから遅くとも3世紀初頭には築造されている。しかし前方後円墳だから古墳時代前期ということになる。

 倭建命(若日子建吉備津日子命=稚武彦命)は前方部の池の畔で白鳥にエサをやったのではないか。それを、卑弥呼(夜麻登登母母曾毘売命=倭迹迹日百襲姫命)はじめ周りの者が見ていた。

3 「卑弥呼は死に、塚を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壹與を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壹與に教え諭した。壹與は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた」とある。

 卑弥呼が亡くなったのは248年である。倭建命は188年頃亡くなっている。安楽島町の松の鼻古墳は湯梨浜町宮内の狐塚古墳を意識して造られている。どちらも前方部が水際にある。この二つの古墳の被葬者は姉弟であった。
「塚の径百余歩」は張政等の誰かが実際に歩いて測っている。

 


因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と倭建命(若日子建吉備津日子=開化天皇)・大吉備津日子(崇神天皇)たちは倭国大乱を戦っていた

2019-03-02 07:11:54 | 欠史八代

 因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と倭建命(若日子建吉備津日子=開化天皇)・大吉備津日子(崇神天皇)たちは倭国大乱を戦っていた。

1 孝霊天皇が土蜘蛛を襲ったのは大分県(碩田国)ではなく鳥取県(因幡国)であった。
 日本書紀・景行天皇十二年・「天皇は碩田国(大分県)に着かれた。・・・天皇は好ましくないと思われ、進んで行かれなかった。来田見邑に留まって、仮の宮をたててお住みになった。群臣と謀って、「いま多くの兵を動かして土蜘蛛を討とう。もしわが兵の勢いに恐れて山野に隠れたら、後にきっとわざわいをなすだろう」といわれた。椿の木を取って椎に造り、これを武器とされた。強い兵をえらんで椎を授け、山をうがち草をはらって、石室の土蜘蛛を襲い、稲葉川の上に破りことごとくその仲間を殺した。血は流れて踝までつかった。時の人は、つばきの椎を作ったところをつばき市といい、また血のながれたところを血田といった。また打猿を討とうとして、禰疑山を越えた。そのとき、敵の射る矢が、横の山から飛んでき、降る雨のようであった。天皇は城原に帰り、占いをして川のほとりに陣をおかれた」とある。
※ 私見
 倭建命は若日子建吉備津日子であり開化天皇であった。倭建命は景行天皇の皇子ではなく孝霊天皇の皇子であり倭国大乱を孝霊天皇とともに戦っていた。藤原氏は主人公も舞台も変えて日本書紀を創っている。以下の神社の由緒と付合するので孝霊天皇は因幡(鳥取県東部)で土蜘蛛(出雲族)と戦っていた。
(1)稲葉神社  現住所   鳥取市立川町5-115
 由緒「これ武内大臣当国下向の時三韓退治の御幡をこの地に収め祭らる。これによって、国名稲葉の字を因幡と改むという」
※ 私見
 因幡は古代、稲葉であった。「稲葉川」とは因幡川であった。三韓退治(任那を始めて創った)をしたのは倭建命と卑弥呼であり、武内大臣ではない。この由緒は八幡など幡の好きな神社庁が創った。
(2)久多美神社 現住所 鳥取市河原町谷一木947
 由緒 因幡誌に「岩田庄谷一木村にあり。古跡紛乱なし。日本紀・景行天皇・12年の条下に、来田見の邑に留めて宮室を権興しこれに居る、と見えたれば、これ来田見の古地なる疑いなし。景行天皇を祀れるか、いま九田伊大明神と称するは里村の訛りなり」とある。
※ 私見
 来田見邑は因幡国にあった。久多美神社は出雲と大阪に創ってあるが来田見邑は現在のところ出雲と大阪に創ってない。指摘したから創るかもしれないが。来田見邑に宮室を権興したのは景行天皇ではなく孝霊天皇である。
(3)都波只知(つばいち)上神社 現住所 鳥取県鳥取市河原町佐貫511  
 由緒 世俗呼んで市大明神(また大智大明神)と称す。因幡誌に曰く「都波只知上神社は八日市の西8町獨活谷の口にあり、この地は城原と称し、また海柘榴市という。景行天皇紀に「・・・」(上記)とある。即ち、この地は海石榴市の神の鎮座地にして、その祀るところ景行天皇・日本武尊なり。都波只知(つばいち)は海石榴市(つばいち)のかな書きにして、土人今市大明神というは故実の存するところにして殊勝というべし」と記せり。
※ 私見 
 日本書紀・景行天皇十二年の土蜘蛛との闘いの舞台は大分県(碩田国)ではなく鳥取県東部(因幡国)であった。天皇は景行天皇ではなく孝霊天皇であった。孝霊天皇は10年疎開していた但馬から因幡国にきて出雲族(土蜘蛛)と戦い、鳥取県中部(倭国)を取り戻してから、鳥取県西部(西伯郡・日野郡)に行って出雲族(鬼)と戦った。鳥取県西部では高杉神社を本拠地として出雲族の本拠地の妻木晩田を攻め、手間山に逃げ込んだ出雲族を待伏せし、降ってきたところを捕らえた。その後、溝口町・日南町・出雲を平定し倭国大乱は終結した。倭国大乱は鳥取県を中心にした乱であった。
 藤原氏(神社庁)は倭国が鳥取県中部であることを隠し、都は大和(奈良)にあったと思わせるために舞台を大分県などに移した。

2 武王大明神の「武王」とは建御雷神のことか。
 鳥取県神社誌の因幡国には明治維新まで武王大明神と称していた神社が9神社あり、祭神は建御雷神となっている。建御雷神は葦原中津国にまっすぐ行けばよいので、9か所を転々とはしない。9か所を転々とする必要があったのは、倭国大乱を戦っていた倭建命である。
 また、武王の「王」とは天皇のことであり、建御雷神は天皇ではない。倭建命はのちに天皇になっているし、建の字は武とも書く。武王とは倭武天皇のことであった。

(1)意非神社  現住所  八頭郡若桜町屋堂羅1
 意非の読みは近辺に大炊村があるので大炊だろう。社伝に曰く「形代白羽矢なり、里諺に当社始め隣村長砂一宮谷にあり。武内宿禰(倭建命)来征の時、その地より矢を放って曰く「この矢の落ちるところに神殿を遷すべしと。因って今いう矢落谷に遷す。この説によって考えるに矢堂羅は即ち矢通りのかな書きなるべし」と見え。
※ 私見
 これは倭国大乱の時であり、矢を放ったのは倭建命である。藤原氏は神社庁と組んで卑弥呼と倭建命の巡行を神功皇后と武内宿禰の巡行に替えている。
(2)武王大明神と称していた神社
古市神社(武王大明神)  現住所  鳥取市古市657
 祭神  建御雷神
安富神社(武王大明神)  現住所  鳥取市天神町
 祭神  建御雷神
神護神社(武王大明神)  現住所  鳥取市国府町神護675
 祭神  建御雷神
面影神社(武王大明神)  現住所  鳥取市正蓮寺192
 祭神  建御雷神
禰宜谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市祢宜谷227
 祭神  素戔嗚
細川神社(武王大明神)  現住所  鳥取市福部町細川350
 祭神  建御雷神
恩志呂神社(武王大明神)  現住所  岩美郡岩美町恩志95
 祭神  武王大明神
杉森神社(武王大明神)  現住所  鳥取市下砂見530番
 祭神  建御雷神
宮小谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市用瀬町赤波2441
 祭神  建御雷神
※ 私見
 武王とは建御雷神ではなく倭武天皇(王)といわれた倭建命であった。孝霊天皇とともに因幡国(鳥取県東部)を平定した。

 洗足山には鬼(出雲族)がいたので鳥取市用瀬町赤波の宮小谷神社のあたりは激しい攻防があったことは容易に察しが付く。

3 倭建命(若建日子吉備津日子)は吉備津彦(大吉備津日子)・武牟口命・橘入来宿祢らとともに因幡国・伯耆国を平定した。
(1)虫井神社  現住所  鳥取県八頭郡智頭町大呂967
 虫井神社由緒書には「当神社創立は景行天皇の時代という。日本国内が未だ平定されていない頃、大呂村夷住山に居を構え、広く因幡地方を支配していた荒海・里人・都都良麻の三兄弟の内、荒海が日本武尊熊襲征伐(九州平定)のみぎり、その先鋒として西征の途に就き、当地に来る武牟口命によって鎮撫された時、宝剣・弓矢を夷住山に祀り三社を建立、中社を虫井神(妙見社)、左社を三瀧神(蔵王権現)、右社を荒海(荒海大明神)として奉斎したのを起元とする。...」と記してあります。
(2)多加牟久神社  現住所  鳥取市河原町本鹿387
 特選神名牒には「今按ずるに社伝祭神大穴牟遅神事代主尊とあれど伊福部系図に大己貴命十四世孫武牟口命という人日本武尊に従って本国の賊荒海を平定したることみえたり。これによるに疑うらくは、この武牟口命を祀れるにあらざるか。この武牟口命を大己貴命の後と伝えたるをもって大穴牟遅神事代主尊と伝えるならん。姑附て考に備なう」とある。
(3)因幡国伊福部氏の系図の第十四 武牟口命(たけむくちのみこと)について
 伊香色雄命の子。母は布斗姫(ふとひめ)と曰ふ。
 此れ武牟口命は、「纏向日代宮に御宇大足彦忍代別天皇」(史実は孝霊天皇)の皇子日本武尊(倭建命)に陪り従ひて、吉備彦命(大吉備津日子)・橘入来宿祢等と与(とも)に、相ひ共に征西の勅を奉りて、去り行きぬ。時に或る人、針磨国(?)より言して曰はく。「稲葉の夷住山に住める荒海、朝命に乖き違いて、当に征討すべし」と。時に日本武尊(倭建命)、詔して曰はく、「汝、武牟口宿祢は、退き行きて伏せ平ぐのみ。吾は筑紫を平げて、背の方より将に廻り会はんとす」。時に詔を奉りて行くに、荒海・里人・都都良麻の三兄弟、参り迎へて槻弓八つ枝を献る。
※ 私見 
 大国主は素戔嗚の子であり倭建命の始祖は天照大御神だから同族であり、出雲族ではない。大国主の子孫(武牟口命)と倭建命が協力して出雲族を平定していたとしてもおかしくない。
 「吾は筑紫を平げて、背の方より将に廻り会はんとす」とある。伊邪那岐は「筑紫の日向の橘の小門の淡き原(北栄町原集落)」で禊をしたのだから、「筑紫」はかなり広範囲の地域であり、黄泉平坂のある鳥取県中部にあった。

 橘入来宿祢の「橘」とは「橘」の花の形をしていた葦原中津(北栄町)である。葦原中津(小さな湾)に船で入って来るのは韓国(朝鮮半島)からである。橘入来宿祢は韓国(新羅)から援軍としてやってきた。

 倭建命は鳥取県中部(倭国)を平定して、(〇〇川の)背(瀬)の方より廻って武牟口命と会った。藤原氏は稗田阿礼とは逆で特定される地名は消している。倭建命も神武天皇の子孫であり戦い方を踏襲しているから、南の津山に出て蒜山から筑紫(鳥取県中部)を平定するために降りてきた。関金の矢筈ヶ山と矢止荒神に残る伝承はその時の伝承と思われる。

 


山陰型甑形土器は倭国乱の時にヤマト朝廷(孝霊天皇の一族)が使っていた

2018-07-22 09:10:18 | 欠史八代

 山陰型甑形土器は愛媛県でも発掘されているが、このことは 楽楽福神社(鳥取県日野郡日南町宮内)の由緒が事実であったことを証明するものである。


1   楽楽福神社 鳥取県日野郡日南町宮内 由緒(昭和9年鳥取県神社誌より抜粋)
 彦狭嶋命は稚武彦命の御兄に坐せとも爰に合祀すべきよしなきが如し。社殿に彦狭嶋命亦歯黒皇子といへる此一名古書に所見無し。若くは稚武彦命を仔細ありて当国にて歯黒皇子と称したるものにや(然らば此皇子今猶本社に祭られ玉ふ事稚武彦命当社主と坐すべき上説の一子證ともいふべし)。但し、豫章記(伊豫国河野家譜)に孝霊天皇・孝元天皇・此孝元天皇御弟、伊豫皇子ト申(母皇后細媛命磯城縣主大目女、孝霊第二皇子御諱彦狭島命)。「此頃南蠻戎動令蜂起之間、此御子当国下給仍西南藩屏将軍云、即以宣下故伊豫皇子号云々此皇子御座所伊豫国伊豫郡神埼庄ト号今霊宮申親王宮奉崇即当家曩祖宗廟神也件宮南方十八町山腰皇子御陵有臣下多死随寶王ヲ陵トナス云々」此説後人の杜撰に似たりと云へども全く古伝の存する處有しに拠れるなるべし。此頃南蠻西戎動蜂起之間と云へるは崇神天皇の御代吉備津彦命西道に遣し給ひし時の事なり。彦狭島命を伊豫皇子といへる事当社の伝に似たる事也。


2   愛媛県生涯学習センター「えひめの記憶」[愛媛県史]伊予の祭祀遺跡より
 宮前川遺跡は、松山市街より市西部・北部を貫流する宮前川の河川改修工事に伴って、同市別府町から津田にかけた地区で昭和五八年から五九年にかけて緊急発掘がなされたもので、弥生時代末期から古墳時代初期のものとみられている。出土品のなかには、県下では初めてという水鳥・馬形土製品、甑型土器や鼓形土器などのいわゆる山陰型土器が多く含まれている。発掘に当たった愛媛県埋蔵文化財調査センターでは、同地区をA~Cの三区に分けて発掘したが、うちC地区の地下一・三mのところで約三〇mにわたって細長い列状の土師器群遺構が現れた。その中には、鳥取市の秋里遺跡など山陰地方で数例発見されている水鳥形の水差し様土器が出土するなど、祭祀関連遺物が数多く含まれているところから祭祀遺跡と考えられている。


3  私見
 山陰型甑形土器は「甑」は細い方が下であるが、実際に使う時は細い方が上であった。山陰型甑形土器は暖房と食べ物を焼くために使われていたと思われる。遠征時の寒さを凌ぐために倭建命や崇神天皇によって考案されたものと思われる。山陰、特に鳥取県中心に広がっているから初期ヤマト朝廷が鳥取県にあった一つの証左となる。
  楽楽福神社由緒では歯黒皇子が彦狭嶋命か稚武彦命かで問題視しているが、いずれにしても歯黒皇子は倭国乱の時に父の孝霊天皇と一緒に鳥取県日南町宮内にいた。後に青銅器文化の一族を平定するために伊予国に行った。宮前川遺跡はその時の遺跡と思われる。


倭建命は吉備国・伯耆国・出雲国の鬼を平定した孝霊天皇の皇子二人のうち弟の方である

2018-07-22 08:42:43 | 欠史八代


1 日本書紀に「孝元天皇の皇后の欝色謎命は開化天皇の皇后になり、御眞木入日子印惠命と御眞津比賣命を生んだ」とある。兄が亡くなったので、兄の妻を娶り子供が生まれるということは時々聞く。年齢的に出産が可能であるからである。しかし、自分の実の母親を娶り子供を作ることは聞いたことがない。女性の生理年齢的にもあり得ないと思われる。開化天皇は孝元天皇の皇子ではなく弟であった。蝦夷(準王一族)は男女・親子・兄妹の区別なく妻としたから、日本書紀は準王一族(百済人)が制作し書き直したと思われる。
 開化天皇の父は孝霊天皇と思われるが、開化天皇は孝霊天皇のどの皇子であろうか。古事記にある大吉備津日子命か若日子建吉備津日子命であると思われる。「この二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた」のであるからその功績を認められ天皇になったと思われる。大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は吉備国を平定した。この功績により、二人とも天皇になったと思われる。
 倭建命の伝承が鳥取県中部に2ヶ所残っている。時代は、その伝承の内容より倭国大乱の時代であり、倭建命も吉備国を平定している。大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命も吉備を平定している。同時代なので大吉備津日子命か若日子建吉備津日子命が倭建命であると思われる。「建」の字は熊襲を成敗したときにもらった字である。「建」が付いている方が倭建命と思われる。若日子建吉備津日子命が倭建命であり、開化天皇であった。大吉備津日子命が崇神天皇であった。
 大碓・小碓の双子の小碓が倭建命である、とするのは改ざんである。大吉備津日子命は異母兄であった。日本書紀は双子とするくらいだから、おそらく生年は同じ頃と思われる。倭建命は倭大乱の時代(146年~189年)に生きた。私見では157年生まれ188年没である。
 倭建命は西国を平定していた時は皇子であったが、東国を平定したときは天皇になっていた。全国の平定が終わってから、倭建命は尾張国に住んだ。倭建命も若くして亡くなったが、次の崇神天皇は開化天皇の皇子であったのだろうか。倭国天皇家では天皇が戦いなどで若くして亡くなった場合、兄弟承継をしていたようである。開化天皇(若日子建吉備津日子命)の兄の大吉備津日子命がまだ生きているではありませんか。卑弥呼は大吉備津日子命を次期天皇に指名したはずである。崇神天皇は開化天皇の兄の大吉備津日子命であった。崇神天皇は御真木(私見では木国は鳥取県智頭町であり御真木国は岡山県津山市)入彦なので岡山県津山市に宮を造っていたはずである。


2 (参考) 孝霊天皇の系譜 
 日本書紀の系譜は先代旧事本記と重なるので比較するのは古事記と先代旧事本記である。
(1) 蠅伊呂杼(紐某弟)の皇子
 日子寤間命は針間の牛鹿臣の先祖である(古事記)。
 彦狭嶋命は海直(あまのあたい)らの祖である(先代旧事本記)。
 若日子建吉備津日子命は、吉備の下道臣、笠臣の先祖である(古事記)。
 稚武彦命は宇自可臣(うじかのおみ)らの祖である(先代旧事本記)。
 日子刺肩別命は、高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿の海直(あまのあたい)の先祖である(古事記)。
 弟稚武彦命(先代旧事本記)。 
(2)孝霊天皇
(古事記)
細比賣命を娶って生んだ子が大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)である。
(先代旧事本記)
細媛命を立てて皇后とされた。皇后は、一人の皇子をお生みになった。大日本根子彦国牽皇子命(孝元天皇)である。
(古事記)
また春日の千千速眞若比賣を娶って生んだ子が千千速比賣命である。
また意富夜麻登玖邇阿礼比賣命を娶って生んだ子が夜麻登登母母曾毘賣命、次に日子刺肩別命、次に比古伊佐勢理毘古命、またの名は大吉備津日子命、次に倭飛羽矢若屋比賣である。
(先代旧事本記)
妃の倭国香媛、またの名を紐某姉(はえいろね)は、三人の御子をお生みになった。倭迹迹日百襲姫命、次に彦五十狭芹彦命[またの名を吉備津彦命]、次に倭迹稚屋姫命(やまととわかやひめのみこと)である。
(古事記)
またその阿礼比賣命の妹、蠅伊呂杼(紐某弟はえいろど)を娶って生んだ子が日子寤間命、次に若日子建吉備津日子命である。
(先代旧事本記)
次の妃の紐某弟(はえいろど)は、四人の御子をお生みになった。彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)、次に稚武彦命(わかたけひこのみこと)、次に弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)である。
(古事記)
この天皇の御子は合わせて八柱だった。<男王が五柱、女王が三柱>
 大倭根子日子國玖琉命は、後に天下を治めた。
大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた。この大吉備津日子命は<吉備の上道臣の先祖である。>
次に若日子建吉備津日子命は、<吉備の下道臣、笠臣の先祖である。>
次に日子寤間命は、<針間の牛鹿臣の先祖である。>
次に日子刺肩別命は、<高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿の海直の先祖である。>
(先代旧事本記)
天皇は、五人の皇子をお生みになった。
大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)。
彦五十狭芹彦命[またの名を吉備津彦命。吉備臣らの祖]。
次に、彦狭嶋命[海直(あまのあたい)らの祖]。
次に、稚武彦命[宇自可臣(うじかのおみ)らの祖)]
次に、弟稚武彦命。
(3)孝元天皇
(古事記)
この天皇が穗積臣らの先祖、内色許男命の妹、内色許賣命を娶って生んだ御子は大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘毘命である。
(先代旧事本記)
欝色謎命(うつしこめのみこと)を立てて、皇后とされた。皇后は、二男一女をお生みになった。大彦命(おおひこのみこと)、次に稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこおおひびのみこと:開化天皇)、次に倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)である。
(4)開化天皇
(古事記)
庶母(父の妃)の伊賀迦色許賣命を娶って生んだ子が御眞木入日子印惠命、次に御眞津比賣命である。
(先代旧事本記)
伊香色謎命を立てて、皇后とされた[皇后は、天皇の庶母である]。皇后は、御間城入彦五十瓊殖命(崇神天皇)をお生みになった。


第7代孝霊天皇の黒田庵戸宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった(2)

2018-07-20 09:58:39 | 欠史八代
1  鳥取県教育文化財団調査報告書 (重要だと思われる部分のみ抜粋)
遺跡名 宮内第1遺跡 宮内第4遺跡 宮内第5遺跡 宮内2・63~65号墳
遺跡所在地  鳥取県東伯郡東郷町宮内字雲山
公開日 :2014-03-13
http://sitereports.nabunken.go.jp/13629
ぜひご覧になってください。
発掘 1995年より
出典文献名:鳥取県教育文化財団『宮内第1遺跡 宮内第4遺跡 宮内第5遺跡 宮内2・63~65号墳』1996年
 遺跡概要
集落跡-弥生後期~古墳前期  竪穴住居跡18+土溝21+溝6
弥生土器+土師器+勾玉+管球+ガラスこだま+槍鉋+洲木崎+防錆内行立夏文鏡+石器
墳墓-弥生後期~末  墳丘墓4+土壙墓84
弥生土器+管球+鉄剣+鉄刀+槍鉋+鉄カマ+刀子
 
F3 鉄刀 107.2cm+6.8cm 宮内第5遺跡2号墳 
                  出典文献の210頁「挿図271」を転載
 
                出典文献の247頁「挿表19」を転載
F5 鉄刀 94.5cm 宮内第1遺跡1号墳
              出典文献の55頁「挿図58」を転載
                 出典文献の247頁「挿表18」を転載
 特記事項
集落跡:土坑の大半は弥生時代後期のものと考えられる袋状貯蔵穴。
墳墓:宮内第1遺跡1号墓からは全長 94 cmの大刀が出土している。鉄剣、鉄刀は同時代のものとしては日本最長。管玉には、ガラス製のものと石製のものがある。   出典文献の「報告書抄録」の特記事項から引用
 まとめ
 今回の調査では、宮内第1遺跡(D区)において、県内では最大級の弥生時代後期の墳丘墓を検出し、1号墓、3号墓の主体部はその規模が山陰最大級のものである。これらの墳丘墓は、この後古墳時代前期に至って周辺に築造される、県内最大のものを含めた大型前方後円墳への墓制の移行を考える上で、非常に貴重な資料であるといえる。また、これらから出土した鉄剣、鉄刀はいずれも大陸から製作され、伝わった可能性が考えられ、その長さでは日本最長のものである。弥生時代における鉄剣、鉄刀は主に北部九州で出土しており、他地域では若干見られるにすぎない。これは、当地と北部九州との関連性を考えねばならないことであるが、東郷池という良好の潟湖を背景にした、大陸との直接交流も視野において置くべき問題と考える。
 なお、検出できた墳丘墓、土墳墓は、いずれも弥生時代後期~末に時期を設定できるものと考えられ、古墳時代にまで至ると考えられるものは埋葬形態が襲棺となるSX32のみである。このことは、墓制の変化、墓域の移動を物語っていると同時に、墳丘墓主体部及び土墳墓の軸の変化も含めて、墓域としていた集団の変化、集落の移動をも検討しなければならないものと考える。
 以上のことについては、本来であれば、墳丘墓もしくは大型前方後円墳を築造した集団を考慮し、当遺跡周辺の同時代の集落遺跡等をふまえて検討すべき問題であるが、調査員の力量不足と時間的制約から、本書では事実報告だけにとどまってしまった。今後の調査研究に委ねる課題を多く残してしまう感があるが、本書に納めた内容が、その調査研究の一助となれば幸いである。                 
                         1996年                   出典文献の238頁を引用
 2  遺跡所在地
 上(C区)と真ん中(D区)が第1遺跡である。今は崩されて道路になっている。

                      出典文献の2頁「挿図1」を転載

 工事後の宮内の空撮
 左が宮内集落。中央上あたりが第1遺跡(D区)である。

                      出典文献の「図版1」を転載

 両サイドの丘がつながっていてその上に宮内第1遺跡があった。
 第1遺跡(D区)からは下蒜山、大山、茶臼山、長瀬高浜などが見え、出雲山より見晴らしが良い。出雲山の伝承はのちに藤原氏によって造られたのではないか。下照姫は宮内から出雲山まで行かなくても、より近いここで総てが見渡せる。

3 私見
 地元の人の言っていた「宮内の古墳」とは平安時代の経塚(国宝であり奉納したのは藤原氏)のことであった。第1遺跡の1号墳や3号墳は道路工事で崩されて無くなっていた。
 宮内遺跡で弥生時代後期の大小7本の鉄剣や鉄刀が見つかったこと(日本で最長の鉄刀を含む)は全国的にみても大きな意味がある。私見によると、孝霊天皇は120年頃の生誕で倭国(鳥取県中部を都とする小国の連合国家)の大王であり、九州も従っていた。159年頃には鳥取県にいた出雲族の反乱により鳥取県湯梨浜町の黒田宮(倭文神社)をあとにして但馬(竹野川流域)に疎開していたから、孝霊天皇一族(孝元天皇・開化天皇・崇神天皇・卑弥呼)が黒田宮(倭文神社)に居たのは弥生時代後期である。


第7代孝霊天皇の黒田庵戸宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった(1)

2018-07-20 05:20:27 | 欠史八代
1 日南町宮内(樂樂福神社)も大山町宮内(高杉神社)も孝霊天皇が居たから宮内という地名が付けられたと思われる。鳥取県西部の宮内はこの2か所だけである。孝霊天皇の皇居は師木にあったから、東郷池周辺である。鳥取県中部に宮内は湯梨浜町宮内の1か所だけである。この東郷池の宮内は、土壌情報閲覧システム(農業環境技術研究所)によれば南側は広く黒ぼく土壌である。宮内集落は空白になっているが、黒ぼく土壌である可能性が高い。旧東郷町の埴見集落か長和田集落か迷っていたが、ここが黒田庵戸宮と思われる。
 下照姫がいたから宮内という地名がつけられたとは考えづらい。孝霊天皇が居たから宮内という地名がついたものと思われる。ここが黒田庵戸宮であった。

 宮内集落である。

2  私見
 出雲神族(準王一族)が孝霊天皇一族を追い出したのである。
 出雲神族(準王一族)は倭の大乱が終結するまでに全国の広範な地域を占領していたようである。彼らが置いて行った銅鐸の分布は広範にわたる。
 出雲神族(準王一族)は青銅器文化であり、鬼と呼ばれるほど残虐である。青谷上寺地遺跡では女・子供も殺している。青谷の次は湯梨浜町宮内の黒田宮を襲って宮内を占拠した。近くの長瀬高浜遺跡からも銅鏃が見つかっている。彼らはここも襲った。
 孝霊天皇一家は親戚の但馬にいた天之日矛一族を頼って但馬に10年ほど疎開していた。

3  湯梨浜町宮内の伝承は下照姫のものだけを残し、孝霊天皇の伝承は藤原氏が消していった。宮内の地名は下照姫がいたからというだけでは説明できない。
 倭文神社本殿 (主祭神 建葉槌命、相殿 下照姫命 、建御名方命 、天稚彦命 、事代主命 、少彦名命、味耜高彦根命)
 主祭神は大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であったのを、建葉槌命に置き換えたのではないだろうか。相殿の祭神は現在の波波伎神社の祭神をそのまま持ってきたものと思われる。改ざん前は孝霊天皇と孝元天皇・卑弥呼(倭姫命)・開化天皇(倭健命)・崇神天皇(吉備津彦)であったはずである。
 倭文神社の神社名は倉吉市志津にある倭文神社の神社名を持ってきたと思われる。藤原氏も宮内という地名を変えなかったのは、宮内の関連性を辿られるとは思っていなかったのだろう。

第2代綏靖天皇の皇居は鳥取県北栄町曲の岡神社であった

2018-07-19 11:48:06 | 欠史八代

 第2代綏靖天皇の皇居・葛城高丘宮(古事記では葛城高岡宮)は奈良ではなく、鳥取県北栄町曲の岡神社であった。

1 奈良の葛城高丘宮跡

 奈良県御所市葛城古道にある第2代綏靖天皇の皇居・葛城高丘宮の石碑である。
 ここのテーマパークの名前は藤原氏が占領してから「葛城」と名付けられた。じつは「高岡」が本当であったが「高丘」に直している。 千の嘘のうちのほんの一つである。
 葛城古道に石碑があるだけである。

2 鳥取県北栄町曲の岡神社
 左の農道は近年になって作られたものである。それまでは家々の人に見られながら、この坂道を上がらなければ、岡神社に行くことはできなかった。
 この細い坂を上がっていく。
 左右の家が葛城高岡宮の守りをしていた。
 両サイドの家々に見られながら、まだ左にうねうねと上がっていく。
 こんなところに神社があるとは気づかないようなところである。
 神社の右下に先ほど通ってきた集落がみえる。
 岡神社とある。

3 私見
 第2代綏靖天皇の時代はまだ準王一族(出雲神族)と抗争していたときであり、神武天皇四兄弟のいた大谷集落や神武天皇の皇居があった大宮集落と同じく、外敵からの守りを厳重にする必要があった。

二代天皇から九代天皇まで(欠史八代)の皇居の比定地

2018-07-19 10:42:54 | 欠史八代
 奈良では石碑を立てているだけである。

 第2代 綏靖天皇 (神沼河耳) 
 
 葛城高岡宮 (鳥取県北栄町蜘ヶ家山の岡神社)
神沼河耳は関金町耳で生まれた。葛城という地名は「土蜘蛛を葛木のつるでからんだから」とする。蜘ヶ家山が葛城山と思われる。蜘ヶ家山には岡神社がある。

 第3代 安寧天皇 (師木津日子玉手見) 

 片塩浮穴宮(鳥取県湯梨浜町橋津観音堂)
 「師木津」や「片塩浮穴」などから、海に面した塩分濃度の濃い入江の存在が前提となるから、比定地は東郷池である。
 当時塩分濃度が高かったと思われる橋津、南谷地域には天皇の皇居や宮の比定地は、橋津観音堂、湊神社、橋津庚申堂、上橋津集落、北野神社などがある。そのうち登り口の石段横に穴があるのは、橋津観音堂である。稗田阿礼は7世紀末、このあたりに皇居や宮の比定地が多くあることにかんがみ、目印になるものを記載した。海水面より上に穴があったので浮穴とした。穴は崩された形跡がある。当時はもっとはっきり穴と確認できたはずである。

 第4代 懿徳天皇 (大倭日子鉏友) 

 軽之境岡宮(鳥取県倉吉市小田集落の丘陵地)
 軽とは師木地方と葛城地方の間にある。
 「軽」とはアイヌ語で「崖」を意味するそうである。天神川側が崖になっているし、天神川は師木地方と軽・葛城地方との境(堺)である。

 第5代 孝昭天皇 (御真津日子訶恵志泥) 

 葛城掖上宮 (鳥取県倉吉市穴沢灘手神社) 
 御真津とは東の師木津(東郷池)に対する表現でニニギ命が降臨した津(葦原中津国)のことを示している。 葛城(蜘ヶ家山)の西掖(葦原中津国)には原集落・穂波集落・穴沢集落があるが、一番上(カミ=山側)の穴沢集落だと思われる。

 第6代 孝安天皇 (大倭帯日子国押人) 

 室秋津島宮 (鳥取県北栄町大島集落) 
 「津」は葦原中津国であり、そこにあった島とは現在の大島(合併前は島)である。東側の灘手の数本の尾根が重なり秋津がトナメしているように見える。

 第7代 孝霊天皇(大倭根子日子賦斗邇) 

 黒田廬戸宮(鳥取県湯梨浜町宮内倭文神社)  
 この天皇は出雲族の姫を殺したと出雲族に勘違いされ倭国乱の原因を作った。鳥取県西部に日野郡誌・楽楽福神社由緒・同神社古文書・同神社伝承・阿毘縁の伝承など、鬼や出雲軍との戦いの伝承が多く残る。宮内遺跡から弥生後期の全国で最長の鉄刀が発掘された。また、12点の鉄鏃も副葬されていた。

 第8代 孝元天皇(大倭根子日子国玖琉命) 

 軽堺原宮(鳥取県倉吉市小田集落のあたり)
 「軽」とはアイヌ語で「崖」を意味するそうである。天神川側が崖になっているし、天神川は師木地方と軽・葛城地方との境(堺)である。
 
 第9代 開化天皇(若倭根子日子大毗々命)
 開化天皇(倭建命)の皇居は鳥取県北栄町瀬戸の観音寺にあったと思われる。
 開化天皇(倭建命)の系譜は葛城を連想させる。皇居の候補地のうち瀬戸は、葛城地域に残る最後の候補地である。
 倭建命は征西が済んで瀬戸の隣の島集落に帰って来て神助を謝せられた。御艦は瀬戸に留めていたと思われる。
 瀬戸集落には健代の姓や武信の姓がある。