「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

八橋の地名由来(伝承)について

2021-07-08 13:12:20 | 火々出見と神武天皇4兄弟

八橋の地名由来(伝承)について

1 八橋(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)の地名由来(伝承)は以下のようである。
 「神代の昔、大国主神の娘である高姫神(下照姫)が、国土経営のため、出雲から加勢蛇川のほとりまでおいでになられたとき、八岐大蛇の霊魂が、高姫神に襲いかかってきた。素戔嗚に討たれた八岐大蛇が、素戔嗚の孫である高姫神に恨みを晴らそうとしたのである。空は急に曇り、川の上には雲が覆いかぶさった。その様子はまるで八つの蛇橋が重なって架かっているようであった。高姫神は恐れて、心の中で素戔嗚の御霊に加護を念じたところ、八岐大蛇の霊魂は消え去った。このときからこの川を加勢蛇川と名付け、この地方を八橋(やばせ)というようになった」とする。

2 立縫郷は楯縫郷であった。

 倉吉市高城地区には楯縫神社があり、その由緒には「旧楯縫郷の大社にして」「旧郷名に因み楯縫神社と改称す」とある。立縫郷は楯縫郷であった。上大立(楯)は穿邑であったので楯縫邑は大立(楯)であった。立縫郷には立見(たちみ、ではなく、たてみ)があり、これは楯見であり、楯を検査するところであった。

3 八橋は笠縫邑であった。


 八橋と加勢蛇川との間には、上伊勢、下伊勢、浦安、徳万、逢束、保、丸尾などの集落があり加勢蛇川の伝説がいきなりそれらの集落を越えて八橋の地名由来になるのは不自然である。これは八橋以前に京都の藤原氏にとって不都合な地名がありそれを消すために八橋と付けたのではないかと思われる。

 八橋に隣接して笠見がある。笠見は、楯見と同じく笠を検査するところであった。楯縫郷と同じように笠見の近くに笠縫邑があるはずである。八橋が笠縫邑であった。京都の藤原氏は下照姫の伝承まで創作して八橋の地名を創作し鳥取県中部(倭国)にあった笠縫邑を消していた。「倭姫命世記」にある豊鋤入姫の巡行で最初にスタートした「倭の笠縫邑」は鳥取県琴浦町八橋であった。地名の強奪である。
 神倭磐余彦が倭国で最初に勝利した地は倉吉市高城地区であり、盾は神倭磐余彦にとって重要な武具であった(盾津の地名や伊那佐山で盾を並べた)ので倉吉市高城地区の地名を楯縫邑と名付けた。楯縫邑も笠縫邑も神武天皇の時代に鳥取県中部(倭国)に開かれた。


神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った

2021-06-16 19:58:06 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った。

1 九州には生贄の風習のある鬼八がいて渡来人を掠め取っていた。御毛沼命は常世国から渡来しようとする者に「朝鮮半島の辰韓を経由して倭国(鳥取県中部)に来るように」渡来ルートの変更をさせるために常世国(台湾やベトナムや中国雲南省)に渡った。
 鳥取県中部の標高172mの四王寺山は周囲に太陽の光を遮る山などがなく、当時は家や船を造るため木を切り「つくし」ていたので日当たりの良い日向の地であった。神倭磐余彦4兄弟は日向(四王寺山)を出発した。

2 山口県光市より西は神倭磐余彦4兄弟の伝承がほとんどないが、島田川流域には磐余彦や御毛沼の伝承があるので、山口県光市から大分県の宇佐に渡ったと思われる。神倭磐余彦4兄弟は宇佐から岡田宮に移った。稲飯命は九州の西側から辰韓に渡り、鉄の鏃を作って半島の西側(馬韓)から出港し岡田宮で待っていた神倭磐余彦たちに武器を送った。
以下の鉄鏃は辰韓か加羅で稲飯命が作り、馬韓から岡田宮にいた神倭磐余彦たちに送られ、九州の鬼八に対して使われた。
※(2015-07-19)  鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。」
 「昨年7~8月に『土坑墓』から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。
 副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる」とある。 
※ 私見
吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった紀元前100年頃の鉄鏃は神倭磐余彦たちが放った鉄鏃である。その先には吉野ヶ里遺跡があるので、そこでも鉄鏃を放っている。吉野ヶ里遺跡は奴隷を逃げられないようにしていた。柵と堀の位置が通常と逆である。
 吉野ケ里を100名城の1つ(城のルーツ)として聖地にしているが、ここにいた略奪に喜びを感じる鬼八は藤原氏と同族である。本当の山城は大谷と北面の2集落からしか上がれないようにしてある倉吉市の四王寺山である。
鹿児島県でも紀元前100年頃の鉄鏃が見つかっているので紀元前60年に即位した神倭磐余彦たちは九州全域を平定している。五瀬命と神倭磐余彦は九州全域を平定して倭国(鳥取県中部)に帰ってきた。

3 古事記には「御毛沼命は、波の穂を跳みて常世国に渡りまし、稲氷命(稲飯命)は、妣の国として海原に入りました」と書かれている。
「稲氷命(稲飯命)は、妣の国(玉依姫は辰韓出身)として海原(海抜4m~20mの陸地)に入りました」という表現は「事代主は海の中に入られた」(日本書紀)と同じであり対岸に渡ったということである。
「倭人が腰にヒョウタンをつけて海を渡り、新羅に来て、瓠公(ホコ)と呼ばれた。彼は、初代王の赫居世(朴氏祖)~四代王の昔脱解(昔氏)まで、建国の重臣として活躍した」(三国史記)とある。「新撰姓氏録」において新羅の祖は稲飯命だとされている。赫居世居西干とは日向の王という意味であり、四王寺山(日向)にいた稲飯命(王子)を思わせる。
大臣が何代にもわたって仕えるのは日本書紀の武内宿禰や蘇我氏3代に例があり、藤原氏の手法である。稲飯命は紀元前57年に即位した新羅国の初代王であった。建国の重臣ではなく、建国者その者であった。

 

 


神武天皇が即位した橿原宮は鳥取県倉吉市大宮にあった

2021-04-18 18:28:37 | 火々出見と神武天皇4兄弟
1 第11代垂仁天皇(伊久米伊理毘古)の本拠地は岡山県久米郡美咲町百々大宮としたが、周りにある弓削や久米という地名はヤマト王朝に直結する部民がいた集落につけられた地名とされる。岡山県の久米にしろ弓削にしろ大宮からはかなり離れたところにある。ところが、鳥取県倉吉市の大宮は弓削なり久米の地名は岡山県より近くにある。ということは、ここにいた王は第11代よりも初期であったという推測が成り立つ。
 火火出見(鵜草葺不合)は辰韓から船で1日で帰ってきて倉吉市の北面に到着し四王寺山(日向)に宮を造った。欠史8代(第2代~第9代)の皇居も比定地が分かっているので欠史8代(第2代~第9代)でもない。第10代の皇居は師木邑(湯梨浜町長和田集落)水垣宮である。素戔嗚はヤマト王朝の王ではない。残るは、初代の神武天皇である。

2 地図より
 県道38号線を通っても集落へ入る橋が見えないようにしてある。この形態は四王寺山の大谷集落とよく似ている。
 大宮集落の東北に隣接する弓削集落。
 左上は小鴨川。小鴨川の上流には耳集落がある。縦に流れる川は広瀬川。大宮集落は広瀬川に架かる橋一本で孤立している。大宮集落の隣は弓削集落。小鴨川周辺は伯耆国の旧久米郡であり久米中学や久米支所などの名が残っている。
 倉吉市の大御堂廃寺は白鳳期すでに「久米寺」であった。伯耆国6郡の1つの久米郡の「久米」という地名は白鳳期よりずっと以前からあったと思われる。ちなみに日本書紀の「来目」は造語であった。

 大御堂廃寺から出土した「久米寺」と墨書された土器

 白鳳期に創建された大御堂廃寺から出土した正倉院と同じ銅製匙(溝に落ちて一つだけ残っていた)

3 神武天皇は兄磯城に勝った後即位した場所は奈良ではない。橿原神宮が創建されたのは明治23年で国威発揚のためであり、テーマパークとして創建されたので史実に忠実ではない。奈良の橿原神宮とする説は少数である。

4  大宮の前にある小鴨神社
 予測していた通り、大宮(橿原宮)から、父の火火出見が宮を定め、兄たちと育った日向の四王寺山(畝傍山)が北西に見える。

5  大宮橋を渡らないと大宮集落へは行けない。この橋が唯一の出入口である。
 県道38号線より。大宮と書いてあるが、左を見ても橋は見えない。
 大宮橋。大宮集落の出入りはこの橋だけでする。
 広瀬川にかかる橋ひとつが大宮集落と外とをつないでいる。

6  弓削集落。
 左が弓削集落。右の先に小鴨神社の社叢が見える。
 弓削集落から大宮集落が見える。
 
7  私見
 饒速日は江府町江尾から鏡ヶ成→野添→神田神社→日吉神社→船→八幡神社のある峰(哮峰)に降臨して素戔嗚と会い、しばらくここに住んでいた。天穂日の縁結びで長髄彦の妹と結婚した。長髄彦も哮峰の近くの倉吉市富海に住んだ。饒速日は次男のウマシマジが生まれる前に亡くなった。その後、饒速日の弟の邇邇芸は北栄町上種の大宮神社に降臨し木花之佐久夜毘売との間に火火出見(鵜草葺不合)が北栄町由良の高江神社で生まれた。火火出見(山幸彦)は3代目長髄彦(海幸彦)と折り合いが悪く、辰韓に3年間逃げていた。しかし、倭国に帰り四王寺山を本拠地として玉依姫との間に神倭磐余彦の4兄弟が生まれた。

 神倭磐余彦は火火出見(鸕鶿草葺不合)の子として四王寺山(日向)で育った。九州の鬼八を平定して五瀬と鳥取県中部に帰ってきたが、五瀬は長髄彦の矢があたって亡くなり、神倭磐余彦は福山市に退却して出雲から出てくる略奪集団(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷・戸畔)を平定し、瀬戸内周辺の住民に高地性集落を造らせて略奪集団(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷・戸畔)から命を守らせた。また、自分たちが生まれ育った倭国を取り戻す機会をうかがっていた。東は摂津国まで平定し明石にいた椎根津彦を引き連れて岡山県の旭川を北上し、蒜山高原を過ぎて鳥取県江府町の鏡ヶ成から倉吉市上大立(穿邑)に降った。江府町江尾に帰っていたウマシマジも神倭磐余彦に合流した。道臣たちは山側(南側)に穿って道をつけた。広瀬・円谷線もその一つであった。長髄彦のいた富海を遠まきにするように道をつけている。長髄彦は倉吉市富海(鳥見邑)にいた。神倭磐余彦とウマシマジはその南で長髄彦と対峙した。長髄彦一族を平定してから倉吉市大宮に皇居(橿原宮)を置いた。長髄彦は亡くなったが一族は生田に移り住んだ。現在の倉吉市は長髄彦一族(出雲族)が中心になって築かれた自治体である。
 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に(觀夫畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之)「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。
 第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の海岸近くに皇居を造ったが、神武天皇は海岸より山奥の倉吉市大宮に宮殿を造営した。私見では歴代天皇の皇居の中で一番奥(山側)にある。神倭磐余彦は倉吉市大宮で初代天皇として紀元前60年に即位した。神倭磐余彦の4兄弟の育った四王寺山の前の土塁(中尾遺跡)から紀元前100年頃の住居跡と国内最長の鉄矛が発掘された。
 稲飯命が派遣する辰韓からの船には鉄の剣や鏃を積んでいて多芸志(湯梨浜町長瀬高浜)に到着していた。辰韓から来る途中の隠岐島から鳥取県中部(倭国)までの海が荒れないように上里神社を建立した。紀元前70年に稲飯命は辰韓に現れた。紀元前60年は現れてから10年経ったので、10歳と表現されている。稲飯命は紀元前57年に新羅を建国した。
 赫居世居西干は、日向(四王寺山)の王を意味する。国号を徐那伐(ソナバル)としたが、神武天皇のソラミツ倭国と似ている。ソラミツ(徐等満)のソも「徐」であると思われる。
 小鴨川の上流に神武天皇の子供が生まれた耳集落がある。下流に行けば多芸志(古代の舵)と言われていた高さが推定25mくらいの建物(出雲大社のモデル)のあった湯梨浜町の長瀬高浜に到る。多芸志耳は長瀬高浜の高い建物に上がり、新羅から難波津(東郷池)に来る船を誘導していた。

神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった

2021-03-16 17:12:40 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった

1 神武元年は日本書紀によると西暦紀元前660年に相当する。この神武元年は実際よりも古く改ざんされているという説がある。
 なぜ神武元年を実際より古く見せなければならなかったか。
 それは天照大神が紀元前210年に来倭した徐福であることを消す方法の一つとして紀元前210年よりもずっと古くしなければならなかったからである。天照大神が徐福であることを消す方法としては他に、欠史八代を作り長い寿命にしたり、72代にわたるウガヤフキアエズ王朝を創ったり、高天原は雲の上にあったとしたり、天照大神は女性であったとする、などがある。
 ただ、何年改ざんされているかについては説が分かれる。(1)600年改ざん説 (2)660年改ざん説 (3)720年改ざん説がある。それぞれ確信のある年代から割出した説である。例えば660年改ざん説によると神武天皇の即位は西暦元年となり、西暦は西洋から来たのではなく神武天皇の即位を元年にしたものである、とする。
 600年改ざん説は少数だが江戸時代すでに主張されていた。朝鮮半島との交易を調べるとこの説になるそうである。始めに600年ありきで、切りのいい600年改ざん説が正しいと思われる。どの天皇が何年水増しされているかについては、そもそも実在しない天皇も含まれているので全体で600年(60年×10回)としか言えない。干支がずれないように60年単位で増やしている。私は紀元前60年説が正しいと思う。

2 神武元年を紀元前60年(弥生時代中期)とする根拠。
(1)新羅の建国年
 「新撰姓氏録」では、右京皇別 新良貴- 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の男の稲飯命の後。続けて「是出於新良國。即為國主。稻飯命出於新羅國王者祖合」と記し、稲飯命は新羅王の祖であると伝える。
 鈴木真年著作の「朝鮮歴代系図」には新羅王家の朴氏が飯氷命を遠祖とする系図を挙げ、赫居世居西干に仕えた倭人重臣の瓠公と同一人物であるとする。また、日本側に残る諸豪族の系図から推定された本来の皇室系図における稲氷命と、朝鮮側に残る新羅歴代の系図の赫居世が同世代の人物であり、暦年研究からもこの両者が同時代に活動したことがわかり、飯氷命を瓠公とする所伝には信憑性がある、とする。
 神武元年紀元前60年説は紀元前57年に新羅を建国した瓠公(赫居世=稲飯命)と符合する。紀元前60年に稲飯命は辰韓で周囲に「弟が倭国の天皇になった」と自慢したふしがある。
(2)中尾遺跡
 倉吉市の四王寺山(神倭磐余彦の4兄弟がいた)で見つかった紀元前100年頃の中尾遺跡(住居跡と国内最長の鉄矛)とも符合する。別稿「神倭磐余彦4兄弟のいた倉吉市の四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された」を参照されたし。
(3)九州の鉄の鏃
 九州各地で見つかっている紀元前100年頃に使われた鉄鏃とも符合する。
以下の鉄鏃は辰韓・加羅で稲飯命が作り、馬韓から岡田宮にいた神武天皇たちに送られ、九州で使われた。
※(2015-07-19)  鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。「昨年7~8月に『土坑墓』から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる」とある。 
(4)妻木晩田の松尾頭遺跡
 妻木晩田の松尾頭遺跡は紀元前100年頃に始まっており。所子の糺神社から神武天皇が来て出雲族に宗教改革を始めさせた。別稿「神武天皇たちは妻木晩田を開いた」を参照されたし。
(5)高地性集落
 人間が生活するには適さないと思われる山地の頂上・斜面・丘陵から、高地性集落の遺跡が見つかっており、その性質は「逃げ城」とされる。高地性集落の分布は、弥生時代中期では中部瀬戸内と大阪湾岸にほぼ限定される。
 略奪集団(出雲族)から住民を避難させるために神武天皇は高地性集落を造らせた。また分布からもわかるように、弥生時代中期の神武天皇は広島県福山市を本拠地とし、東は摂津国と大阪湾沿岸までしか行っておらず、奈良には行っていない。

3 神武天皇の生誕年は52歳で即位したとされるから紀元前112年頃となる。饒速日の誕生は紀元前210年以降である(父の天忍穂耳の伯耆国到着が紀元前210年だから)。饒速日は次男(宇摩志麻遅)がおなかの中にいるときに亡くなったのだから、享年25~30歳くらい。瓊瓊杵命は饒速日が亡くなった頃に生まれたから紀元前180年頃の生まれと思われる。紀元前180年(瓊瓊杵の生誕年)引く紀元前112年(神武天皇の生誕年)は68年であり、それを2で割る(ウガヤフキアエズは火火出見のあだ名だから神武天皇は瓊瓊杵の孫)と34歳となる。世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢は34歳となる。
 また、2代綏靖天皇は神武天皇が即位後に娶った皇后の第2子であるから紀元前55年頃の生まれと思われる。7代孝霊天皇(生誕年を115年とする)までは5代であるから、世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢は34歳となる。
 神武天皇は特別だから除外すると、瓊瓊杵命から神武天皇までの世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢34歳であり、綏靖天皇から孝霊天皇までの世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢34歳であるからほぼ同じになる。この結果は、天照大神は徐福(紀元前210年渡来)だったという私見にも合致する。
 出雲国と接する地域で鬼(出雲族)と戦っていた孝霊天皇(115年~211年)が倭国大乱の時代の天皇となり、皇女の倭迹迹日百襲姫の生誕年を151年頃とすると倭迹迹日百襲姫は倭国大乱の時代を生きた「宋女」となる。
 古事記・日本書紀の初期天皇の寿命はあまり長すぎるが、「魏志倭人伝」に「倭人はたいへん長生きで、100歳、あるいは8、90歳まで生きる」とあるから世継天皇を生む年齢も現代とあまり変わらなかった。その後、荘園制度や過酷な年貢の取立てなどで藤原氏に搾取されて寿命は短くなるが・・・。


神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された

2020-11-03 15:20:29 | 火々出見と神武天皇4兄弟
1  鳥取県倉吉市大谷の中尾遺跡より弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟が見つかった。
 倉吉市ホームページより
教育委員会事務局 文化財課 ―弥生時代中期の集落跡発見!― 中尾遺跡発掘調査 
 「倉吉市教育委員会では、平成27年(2015年)8月より中尾遺跡(倉吉市大谷)の発掘調査を行っており、弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟、古墳時代後期の円墳1基などを確認しました」とある。

2  遺跡の位置
 
 中尾遺跡は神武天皇4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落を隠すように取り巻く丘陵地の上にあり神武天皇4兄弟と同時期に建てられたものであると解する。

3 私見では「神武天皇の即位年は紀元前60年であり、神武天皇の生年は紀元前112年である」としている。
 神武天皇の4兄弟は鳥取県倉吉市の四王寺山(四皇子山 )にいたのであり、4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落の近くの中尾遺跡で紀元前100年頃の12棟の建物跡が発掘された。発掘予定はないが、大谷集落の下にはもっと多くの紀元前100年頃の建物跡があるはずである。
 
4 神倭磐余彦(紀元前60年即位)が鳥取県倉吉市の四王寺山(山城)にいた証拠がまた一つ見つかった。長髄彦の一族が近くにいたので土塁を築いた。その土塁の上から国内最長の弥生時代中期(紀元前100年頃)の鉄矛が出土した。
 2020年11月3日付け日本海新聞に「国内最長の弥生鉄矛が出土した」の記事が載った。
 
5(1)「内陸部にある同所が日本海側と瀬戸内海側とを結ぶ南北の物流交流ルートの拠点的な集落」とあるが、火火出見の時代は北条砂丘が笠沙之御前になる海抜4mに海面があり、北面の前まで海岸が来ていた。
 鉄矛は新羅から日本海を船で四王寺山に運ばれた。
 海抜4mに海面があると、北条砂丘が笠沙之御前になるので、その頃は北面の前まで海岸が来ていた。山幸彦は新羅から一尋和邇に乗って一日で倉吉市北面まで帰ってきた。そして、四王寺山に上がり、本拠地にした。ウガヤフキアエズとは山幸彦のあだ名であった。四王寺山で神倭磐余彦の四兄弟を育てた。
(2)「見つかったのは実用品として使用されていない鉄矛・・・鉄矛は建物の柱穴の埋め土に突き立てられていたことから、儀式の一部として使用されたとみられる。・・・村上恭通センター長は『何らかの儀礼があったことはほぼ間違いない』と強調。・・・当時の祭祀研究が進展するとみる」とある。

 関金の日吉神社は川に船が出せるようになっているので、饒速日は日吉神社より船着き場のある清熊稲荷神社のある峰まで船で降った。清熊稲荷神社の峰が哮峰であったから、饒速日はしばらく哮峰にいた。四王寺山の土塁の向きから長髄彦の一族(出雲族)は倉吉市富海(鳥見邑)にいた。長髄彦(海幸彦)の一族は饒速日を信奉していたので哮峰の近くの倉吉市富海を本拠地としていた。
 四王寺山にいたのは火火出見(山幸彦)であり、土塁が向いているのは倉吉市富海なので、倉吉市富海には火火出見(山幸彦)と敵対していた長髄彦(海幸彦)がいた。火火出見(山幸彦)は3年間新羅に逃げていた。しかし、父の邇邇芸がここは良き地なりと言っていたので、鳥取県中部を取り戻すために帰ってきた。鉄矛は新羅から直接運んできた。
 鉄矛は細いし、近くに敵対していた海幸彦(長髄彦)がいたので祭祀ではなく実用品として使用されていた。竪穴建物を焼失させたのは、敵対していた長髄彦(海幸彦)である。
 饒速日(哮峰)を信奉していた長髄彦の一族は現在、富海の対岸の倉吉市生田に住んでいる。倉吉市は生田に移り住んでいる長髄彦(海幸彦)一族が中心になってできた自治体である。


神武東征は不比等の創作であった

2019-11-04 05:51:35 | 火々出見と神武天皇4兄弟

  神武東征は不比等の創作であった

1 日本書紀の神武東征の順序
➀速吸の門(豊予海峡)(椎根津彦)②一つ上がりの宮(宇佐)③岡水門(筑紫)④安芸⑤吉備⑥浪速国

2 古事記の神武東征の順序
➀日向を出発して②足一騰宮(宇佐)③岡田宮(筑紫)④安芸⑤吉備⑥速吸の門(明石海峡)(槁根津日子)

3 私見
速吸の門を日本書紀では豊予海峡でなければならないし、古事記では明石海峡でなければならない。どちらが正しいであろうか。
 明石平野の弥生時代の遺跡

 椎根津彦(槁根津日子)は国つ神であり土地に土着の者であるから縄文人であった。新方遺跡では弥生時代前期に石鏃の刺さった縄文系人骨3体が発掘されている。新方遺跡に住んでいたのは椎根津彦(槁根津日子)一族であった。神武天皇は弥生時代中期だから殺害されてから通りかかり、椎根津彦(槁根津日子)に賊はどこに行ったか聞いた。椎根津彦(槁根津日子)は道案内をした。
 大分市・臼杵市に弥生時代の遺跡は少ない。
 速吸の門は明石海峡であり、古事記が順序としては正しい。

4 それでは古事記にある神武天皇たちが出発した「日向」とはどこか。
 通説は宮崎県の日向国とする。しかし、津田左右吉は昭和15年発刊の「古事記及び日本書紀の研究」において「宮崎県の日向国は膂宍の空国(肥沃でない国)とされており都であった証しがない。古墳群があるからというだけでは都にはならない」とし「日向とは宮崎県の日向国ではない」とした。
 ここで北九州の研究者は「日向は北九州にあった」とするが、北九州ではその前後がつながらない。邇邇芸命は「この地は朝日が直に刺す国、夕日の火照る国」と言ったので、日向御子というあだ名をつけられた。日向とは邇邇芸が降臨した地のことである。

 邇邇芸は成人になるまで、矢送神社と楯縫神社で過ごしたが、どちらも日陰であり日照時間も短いところである。上種の大宮神社に移ってから日当たりが良いので「この地は朝日が直に刺す国、夕日の火照る国」といった。四王寺山も楯縫神社より海側にあるので日向の地である。邇邇芸が降臨したのは間違いなく、鳥取県北栄町上種の大宮神社である。神武天皇たち4兄弟が育った四王寺山も日向であった。神武天皇たち4兄弟は日向の四王寺山を出発した。最初の目的は九州の蝦夷の平定であった。倭国(鳥取県中部)にとって九州は半島に渡るために重要な場所であった。

 神武天皇たち4兄弟は日向をたち山口県光市から船で宇佐に付き、稲飯命は鉄の武器を造るために半島に渡った。稲飯命は鉄の武器を造って半島の西側から船で岡田宮に帰ってきた。神武天皇は筑紫の岡田の宮で待っていた。岡田宮から吉野ヶ里遺跡に行くまでの2ケ所で紀元前100年頃の鉄鏃が出土している。これは神武天皇4兄弟が放った鉄鏃である。吉野ヶ里でも鉄鏃が見つかっている。吉野ヶ里では蝦夷が人間を奴隷にしていた。堀と柵の位置が通常の反対である。神武天皇たちは吉野ヶ里も攻撃した。紀元前100年頃の鉄鏃は鹿児島でも見つかっているので、神武天皇4兄弟は九州全域を平定している。

 イツセと磐余彦は九州を平定して生まれ育った倭国(鳥取県中部)に帰ってきたが、ナガスネヒコの矢がイツセにあたり、いったん山陽に退却した。山陽でも蝦夷を平定した。しかし奈良には行っていない。倉吉市清谷の上里神社の由緒には「山陽に行った」とだけあり、奈良とは書いていない。
 神武天皇は福山市柳津と尾道市高須を拠点として蝦夷を平定していった。

 神武天皇は蝦夷に祭祀方法を変えるよう指導していた。銅鐸祭祀ではなく線刻土器祭祀を勧めていた。茨木市東奈良遺跡の線刻土器は紀元前1世紀のものであり神武天皇が変えさせた。しかし、奈良の線刻土器は紀元1世紀だから、神武の100年後、4代の懿徳天皇が奈良を平定し、線刻土器祭祀に変えさせた。神武天皇は摂津国までしか平定していない。

5 なぜ、不比等は神武東征を創作したのだろうか。
 津田左右吉はその著書「古事記及び日本書紀の研究」において「神武天皇の東遷の説話そのものが・・・ヤマトの都において重要の地位を有するものによって考案せられたことがわかるので、物語そのものからいうと・・・ヤマト朝廷の起源を述べた一つの説話なのである。やはり歴史的事実としての記録とは考え難い」とする。
 「ヤマトの都において重要の地位を有するもの」とは藤原不比等であった。
 藤原鎌足は642年の百済からの船に乗っていた翹岐であり百済人である。不比等は百済系2世であった。白村江の戦いで亡命してきた百済王族を鎌足は宮崎県に逃がしている。平城京を造ってもらって不比等は百済王族を宮崎県から奈良に呼び寄せた。百済王族が宮崎から奈良に遷ったことを神武天皇に仮託して神武東征を創作した。古事記・日本書紀を改ざんし、西日本に神武東征関係のテーマパークを多く造った。
 神武東征関係の19の自治体が日本遺産登録のために運動している。私が調べた限りでは、創作された地がほとんどである。  

   


神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた

2019-10-31 07:11:35 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた


 神武天皇は鴨建角身(八咫烏)の案内で鏡ヶ成から野添経由で上大立(穿邑)に降臨した。
 最初に下福田にいた兄ウカシを退治した。大立に楯縫邑を置いた。
 上大立(穿邑)から最初につけた道は鳥取県道313号線であった。終点下見の近くに別宮(城田)を造った。もう一方の終点に佐野大橋を造った。

 日吉神社に行くように道が続いている。日吉神社の祭神は邇邇芸になっているが、川の横にあるので祭神は日吉神社から船を出している。日吉神社の祭神は饒速日であった。ウマシマジはこの時までに合流していたので日吉神社を通った。富海のほうから見つからないように関金宿に入っている。

 関金宿から穿って鳥取県道306・38号線つけ、福山・曹源寺・下西谷・穴鴨・加谷・木地山・下畑・田代・大谷から竹田地区(猛田郷)を平定した。円谷広瀬線も同時進行で穿ってつけた。
 その後、曹源寺から小河内へ、木地山から福吉・鉛山経由で神倉(かんのくら)に至り、土蜘蛛を片柴(忍坂邑)に集めた。土蜘蛛を片柴(忍坂邑)に集めて、酒を飲ませて皆殺しにした。
 大谷から津山に行くことができる。

 313号線の終点の近くに城田(別宮)を造り、その川下にいた出雲族を平定していった。伊勢でも戦った。伊勢から北栄町の茶臼山(伊那佐山)に船で行っている。八橋に笠縫邑を置いた。
 城田(別宮)からさらに鳥取県道34・30号線を穿ってつけた。香取集落から305号線で大山町前集落に行き船で阿弥陀川を下り、糺神社に至った。神武天皇は妻木晩田と長田集落をつくり、松尾頭地区で出雲族に宗教改革をさせた。
 神武が媛蹈鞴五十鈴媛と結ばれたのは伯耆町の久古神社であった。


神武天皇の段にある「宇陀」とは鳥取県倉吉市高城地区(楯縫郷)のことであった

2019-09-25 06:09:12 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 神武天皇の段にある「宇陀」とは鳥取県倉吉市高城地区(楯縫郷)のことであった

1 イツセとイワレヒコは西の米子市淀江の津から船で東郷池に入った。「波荒く立ち騒ぐ波速の渡」とは東郷池の入り口である。倭建命の言った「柏の渡」と同じ場所である。当時の東郷池は柏葉の形をしていた。
 戦前まで倉吉市上井町は日下村(草香村)であった。何度も洪水にあって標高が4m以上になっているが、当時は海面は海抜4mにあり、日下村の標高は4m以下であり、波もなく穏やかな津があった。日下村の白肩津(楯津=蓼津)は倉吉市清谷にあった津である。洪水で高くなっているが海抜4m以下の地点も残っている。清谷本村に上陸し坂を南に上がりナガスネヒコの攻撃を受けた。
 登美の地(饒速日の妻でありナガスネヒコの妹が住んでいた北栄町土下山周辺)に住むナガスネヒコ(中洲の豪雄)は対岸の倉吉市清谷にイワレヒコの船が到着したのを知り、軍を集めて一戦を挑んだ。トミビコ(ナガスネヒコ)の放った矢が、兄のイツセの命の手に刺さって深手を負わせた。傷を受けた手を洗ったところを血沼(茅渟)の海という。傷を洗った水は海水ではなく真水のはずだから海ではなく、より真水に近い東郷池の南岸であった。
 日本書紀・垂仁・石上神宮で「イニシキは茅渟の菟砥の河上においでになり、・・・」とある。茅渟(血沼)とは東郷池のことであり「菟砥の河上」とは東郷池の南の菟砥という陸地にある河上を意味し湯梨浜町川上のことであった。
 その後木国(智頭町)まで一旦退却した。そこでイツセ命は亡くなった。イワレヒコは山陽に出た。
 イワレヒコは広島県福山市を本拠地として倭国(鳥取県中部)を取り戻す機会をうかがっていた。
 しばらく、福山市を本拠地にして各地に住んでいた略奪集団の出雲神族(ナガスネヒコの一族=鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定したが、内つ国(鳥取県中部)に赴くため岡山県の旭川河口の龍ノ口山に到着し石上布都魂神社の地で高倉下に素戔嗚の剣を献上されて蒜山高原に至った。イワレヒコは蒜山高原の加茂神社と福田神社の祭神になっているので、蒜山高原を宿営地にしていた。
 蒜山高原(高天原)から高城地区(宇陀)に下りるルートを探して道に迷っているときに、道臣は関金の鴨ヶ丘にいたヤタガラス(鴨建津之身)を連れてきた。ヤタガラス(鴨建津之身)に道案内をさせて菟田穿邑(倉吉市高城地区の上大立)に下りてきた。上大立に下りるには江府町鏡ヶ成からスタートしなければならない。

2 神武天皇聖跡菟田穿邑は奈良の宇陀ではなく倉吉市上大立であった

 穿って着いた邑が穿邑ではなく、たどり着いた邑から穿って道をつけたから穿邑という。ここでいう「穿つ」とは「押し分けて進む」ことを意味する。「鳥取県道313号線」と「広域基幹林道円谷広瀬線」は、神武天皇が穿ってつけた道である。出雲族に見つからないように、迂回して道をつけた。

 神武天皇は情報戦・ゲリラ戦をしていた。第2次大戦の日本軍ではなくアメリカ軍のように情報収集に力を注いだ。またベトナム軍のように道なき道を進んで敵から移動が見えないようにしていた。それができたのは、イワレヒコは倭国の地の利を知っていたし、旧知の者も多かったからである。
 イワレヒコが仮の本拠地にしていた穿邑は上大立であった。琴浦町下見から関金町大鳥居に至る鳥取県道313号線(下見関金線)は神武天皇がつけた。あまりに山道なので現在ではあまり利用されていないが林道ではなく、りっぱな県道である。上福田・下福田にいた出雲族の兄ウカシ・弟ウカシに気づかれずに移動するために県道313号線をつけた。

3 倉吉市下福田の阿弥大寺遺跡には弟ウカシの子孫が住んでいた。

 下福田字阿弥大寺遺跡(弥生時代後期)
 日本書紀は「オトウカシは宇陀の主水部の先祖である」とする。
 下福田から上米積にかけての国府川(久米川)のほとりで3基の四隅突出型墳丘墓(弥生時代後期)が発掘された(阿弥大寺古墳群)。阿弥大寺古墳群より川寄りに二つの住居跡が検出された。「高城史」は墳丘墓と住居跡とを関連付けている。鳥取県中部に2400くらいある古墳はほとんど円墳(97%)なので、下福田字阿弥大寺遺跡に住んでいたのは出雲族(準王一族)のオトウカシの子孫の主水部であった。主水部は国府川(久米川)から水を汲む担当だったのかもしれない。遺跡の位置からそう思われる。

 上大立(穿邑)から最初は、出雲族の拠点から見て盲点となる旧東伯町の奥に道をつけていった。終点である琴浦町下見の隣の別宮・矢下(ここの寺は四天王を祀る)・宮場・八反田・上法万もイワレヒコが開いた集落である。光好から​​笠見に至り、笠見と伊勢地区でも出雲族と戦っている。「撃ちてし止まむ」の歌はこの時の歌である。
 伊勢地区(天照大神がいたが占領されていた)から、船で北条砂丘に至り茶臼山(伊那佐山)で敵情を視察した。二人に土下山の土をもって下ろさせ、勝てるか占った。ここで「島つ鳥、鵜飼いがとも」の歌を詠んだ。この時に蜘ヶ家山(葛城山)の土蜘蛛を葛木のつるで捕らえた。
 イワレヒコが江府町鏡ヶ成から降りたことは江府町江尾にいたウマシマジの耳に入った。ウマシマジも穿邑に降った。イワレヒコは穿邑から関金方面にも道をつけていった。杉野・中野・森を合わせて吉野と言っていた。終点は関金の佐野大橋である。神武天皇は佐野命と言っていた。これは偶然ではなく、鳥取県道313号線は神武天皇がつけた道だからである。

 佐野大橋から日吉神社に寄っているので、この時までにウマシマジは神武天皇に合流している。

日吉神社にて。日吉神社の祭神はニニギになっているが神社から船が出せるので本来の祭神は饒速日である。


4 鳥見邑は倉吉市富海であった。金色の鵄の話はここが舞台であった。倉吉市富海に長髄彦に率いられた出雲族がいたので、イワレヒコは見つからないように「円谷広瀬線」も造っている。すでに合流していたウマシマジは円谷広瀬線を造るのに協力していた。


 出雲族のいた富海を避けて円谷広瀬線をつけた。倉吉市大宮は倭国の歴代天皇の皇居の中では一番奥にあるが、穿ってつけた円谷広瀬線より前にある。倉吉市大宮が橿原の宮である。

 本来、こちらの関金側が起点である。

 本来、こちらの円谷側が終点である。

 円谷広瀬線が完成し、ウマシマジは円谷から橋を渡った石上(倉吉市大原)を本拠地にした。「昔ここに橋があった」と郷土史家は言う。
 イワレヒコは三朝町片柴(忍坂邑)に土蜘蛛を集めて酒を飲ませて皆殺しにした。三朝町片柴(忍坂邑)で土蜘蛛に酒を飲ませて殺したのは、三朝町山田(ヤマタ)で素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した話にヒントを得たからである。三朝町片柴(忍坂邑)で土蜘蛛をだまし討ちにしてから、湯梨浜町羽衣石(墨坂)にいた兄磯城を挟み撃ちにして斬った。太陽を背にして南から平定していった。女軍と男軍が神武側に着いたのはウマシマジの功績である。

5 大久米は論功行賞で畝傍山の西の川辺の来目邑に住んだ。畝傍山は倉吉市の四王寺山であり、西は倉吉市服部の北の丘陵地まで久米ヶ原という。倉吉市服部の北の丘陵地は四王寺山(畝傍山)の西になる。

 久米ヶ原の南に沿って流れている国府川のことを古代は久米川と呼んでいた。
 日本書紀・雄略天皇の段にも来目川が出てくる。

 倉吉市上米積の南西に紀元前100年頃から500年頃にかけての後中尾遺跡がある。

 遺構は14軒以上である。国府川(久米川)とは少し離れているが国府川(久米川)の近くであり大来目のいた来目邑の遺跡である。

6 記紀では「楯で防戦し、そこを日下の楯津という」とする。
 楯縫神社の由緒に「明治14年旧郷名に因み楯縫神社と改称す」とあるので、倉吉市高城地区の旧郷名は「楯縫郷」であった。

 楯(青谷上寺地遺跡出土・弥生時代中期後葉)。弥生時代中期後葉は紀元前50年から紀元50年であり、神武天皇の即位(紀元前60年)以降に楯縫郷(倉吉市高城地区)で作られた。イワレヒコの軍にとって楯は重要な武具であった。戦いに勝利してからも大来目命は楯縫郷で楯を作っていた。
 「高城史」では「上福田に『楯縫』神社があり、『服部』が機織部で『大立(たて)』が『大楯』を製作する場所。『立(たて)見』は製品を検査する『楯検』ではないかと」とする。
 倉吉市高城地区では「立」を「たて」と読む。大立は「おおたち」という地名ではなく「おおたて」という地名であった。立見は「たちみ」という地名ではなく「たてみ」という地名であった。高城地区では楯(たて)を立(たて)の字に書き換えさせられている。

 下神(しもつみわ)・上神(かみつみわ)・神代(みわしろ)の地域は大神(おおみわ)郷であった。立縫郷は楯縫郷であった。八橋郷は笠縫郷であった。

 下神(しもつみわ)・上神(かみつみわ)・神代(みわしろ)の地域は大神(おおみわ)郷であった。立縫郷は楯縫郷であった。方見郷には建御名方がおり、由良郷には聖徳太子(蘇我入鹿天皇)がいた。倉吉市清谷は日下村でありその周辺が河内国であった。猛田とは竹田郷のことであった。琴浦町八橋の南には笠見があり、八橋が「倭姫命世紀」にある「倭国の笠縫邑」であった。

 楯縫邑(倉吉市大立)も笠縫邑(琴浦町八橋)も即位後、神武天皇が開いた。

※ 参考
(1) 古事記には「やがて一行の船は、波荒く立ち騒ぐ波速の渡を過ぎて、波静かな白肩の港に碇泊した。この時、登美の地(土下山周辺)に住むナガスネヒコ(中洲の豪雄)が軍隊を起こして、一戦を挑んだ。・・・楯を取り、岸部に下りて防戦した。この土地の名を楯津と言い、また今に、日下の蓼津とも言っている。・・・トミビコの放った矢が、兄のイツセの命の手に刺さって深手を負わせてしまった。
 ・・・南の方へ迂回し血沼の海に至って、傷を受けた手を洗った。それゆえここを血沼の海という。そこからさらに迂回して紀国(木国)の男之水門まで行ったところで・・・その息は絶えた。・・・カムヤマトイワレビコノ命はさらにその土地から迂回を続けやがて熊野の村へと着いた。・・・この土地から、道もない深山をさらに踏み越え、道を穿って難行をつづけながら、ようやく宇陀に達した。道を穿って進んだゆえに、宇陀の穿という。
 宇陀の地には兄宇迦斯・弟宇迦斯と呼ぶ二人の兄弟が頑張っていた。そこで、まずヤタガラスを使いに出して、二人の者に尋ねさせた。・・・兄宇迦斯の死んだ地を宇陀の血原という。
 イワレビコ命は次のような歌をうたった。『宇陀の高城に鴫ワナ張る・・・』
 このオトウカシは、宇陀の水部の部の先祖である。
 さらに旅を続けて忍坂の大室に到着した」とある。
(2) 日本書紀には「まさに、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名付けて波速国とした。また波花ともいう。今難波というのはなまったものである。
川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。ナガスネヒコとくさえの坂で戦った。流れ矢がイツセの命のヒジハギに当たった。楯をたてて雄たけびを上げた。それでその津を改めて楯津と呼んだ。いま蓼津というのは、なまっているのである。
 軍は茅渟の山城水門についた。よってそこを雄水門と名づけた。
 進軍して紀の国の竃山に行き、イツセ命は軍中で亡くなった。・・・皇軍は内つ国に赴こうとした。そこにヤタガラスが飛び降りてきた。・・・ついに宇陀の下県についた。つかれたところは宇陀の穿邑という。ここで日臣を道臣と名づけられた。兄猾と弟猾は宇陀の県の人々のかしらである。・・・兄猾が死んだところを宇陀の血原という。
 天皇は歌を詠んでいわれた。『宇陀の高城に鴫をとるワナを張って・・・』・・・。
 また大来目を畝傍山の西、川辺の地に居らしめられた。今来目邑と呼ぶのはこれがそのいわれである。また弟猾に猛田邑を与えられた。それで、猛田の県主という。これは宇陀の主水部の先祖である」とある。

 


兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった

2019-09-17 05:52:01 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった

1 大国主と事代主は親子ではない。大国主は素戔嗚の子であり、事代主は葦原中津国で大国主に蹴散らされた出雲族(百八十神)の頭であった。大穴持命や大穴牟遅神は歴代の出雲族の王名であり大国主ではない。出雲大社に祀られているのは大国主ではなく、出雲族の歴代の王であった。国譲り後、大国主は天孫族の4伴緒と一緒に湯梨浜町長瀬高浜・久留にいた。そこに高い建物を建ててもらった。
 事代主と百八十神(出雲族)は国譲り後、倉吉市福庭に到着し大平山に上がった。事代主と百八十神(準王一族=出雲神族)はいつまでも大平山におらず、生活の拠点を東郷池の水辺に移した。そこは湯梨浜町長和田であった。長和田が師木邑であった。

2 倉吉市福庭の波波岐神社の伝承に「事代主は近くの泉の畔で余生をおくられた」とある。
畔に使う用例として泉(いずみ)はおかしい。畔は普通、湖(みずうみ)に使う。これは長年の間に読みが替わったと解するべきである。当初は「湖の畔」であった。湖とは東郷湖とも言われる東郷池であった。

 事代主と百八十神(出雲族)は長和田集落に移った。当時、長和田は海からの波が真直ぐに届いていた波延(はえ)の地であった。

 長和田集落はほぼ海抜3mに海面があった時代(崇神天皇の時代)に今の集落の形が出来上がった。ほぼ水辺の内側に出来上がっている。周囲が水垣の集落であった。

3 北から見た湯梨浜町長和田集落(左は鳥取県、島根県で一番大きい前方後円墳)

 国譲りの時代(紀元前160年頃)は長和田を囲むように水辺であったから、羽衣石川沿いに上がっていくしかなかった。
 先代旧事本紀・皇孫本紀に「椎根津彦が謀りごとを立てて申しあげた。『今はまず、女軍を遣わして、忍坂の道から出しましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。私は強兵を走らせて、ただちに墨坂を目指し、菟田川の水をとって、敵兵が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間にその不意をつきます。敵は必ず敗れるでしょう』天孫(神武天皇)はその計りごとをほめて、まず女軍を出してごらんになった。・・・はたして男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄・兄磯城らを斬った」とある。
※ 私見
 神武天皇は忍坂邑(三朝町片柴)で土蜘蛛を討ってから兄磯城らを斬った。
 兄磯城はこの奥で炭焼きをしていた。この奥の荒神社は荒ぶる神であった兄磯城の神社である。墨坂とは羽衣石川(菟田川)沿いの坂であった。
 女軍は写真左奥の忍坂の道より出た。それを見た兄磯城の精兵は出ていった。そのすきをついて椎根津彦は強兵を走らせて師木邑(長和田)から上がり炭火に水をかけた。男軍は三朝町山田から墨坂に上がり兄磯城を挟み撃ちにした。女軍・男軍は神武と旧知であったので寝返るのも早かった。
 弟磯城は神武天皇に従い磯城の県主になった。雄略天皇の時代、磯城の大県主は鰹木を上げた家を建てていた。湯梨浜町長瀬高浜遺跡から鰹木を上げた家形埴輪が出土した。古代人のジョークが垣間見える。

 長和田から御冠山が見える。孝霊天皇は御冠山のふもとの湯梨浜町宮内(倭文神社)にいた。孝霊天皇は長和田から蠅(波延)伊呂泥と蠅(波延)伊呂杼を娶った。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫の母である蠅(波延)伊呂泥は出雲族であった。
 倭国大乱の相手は出雲族であったが、卑弥呼の母親は出雲族であったので女王として共立した。孝霊天皇の皇子の大吉備津日子は崇神天皇であり、崇神天皇の母も蠅(波延)伊呂泥であった。崇神天皇は母の出身地(波延=水垣=長和田)に皇居(師木邑の水垣宮)を置いた。


神武天皇の「島つ鳥 鵜飼いがとも」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった

2019-09-15 05:22:12 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 神武天皇の「鵜飼いが友」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった

1  日本建国史 「曲学の徒」桂川光和より
 「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね。」この奈良の伊那佐山での戦いを歌ったものである。
 伊那佐山の木の間を行き来しながら、楯を並べ防戦しているが食べ物が無く飢えてしまった。鵜養(うかい)がとも(伴・供)よ早く助けに来い、という意味である。
 苦戦する兵が、食料の到着を待つ差し迫った歌である。現実感のある歌だと思う。
 興味深いのは「島つ鳥」である。従来鵜飼にかかる枕詞とする解釈は多い。しかし前に述べたように、この時代では枕詞というような、慣用的表現は確立していないであろう。
 神武は奈良盆地侵攻の前に、吉野や阿田(五条市阿田)など奈良県南東部を訪れている。吉野の阿田あたりでは鵜を使った漁法が早くから行われていたとされる。
 「鵜飼いのともよ」という語句が、この五條市阿田の住民を指した語句であることは容易に察しがつく。
 この阿田には小島、上島野、下島野という地名がある。島という地域である。まさにこの「島つ鳥」というのは鳥の鵜と、島という土地の名に掛かる掛け言葉である。

2 神武天皇たちがこもって戦った伊那佐山と神武天皇たちが使っていた楯。
 現在、伊那佐山(奈良)と稲佐の浜(出雲)は離れたところに造ってあるが、もともと「いなさ山」と「いなさの浜」は同じところにあった。それは周囲は砂だが山は隣の三輪(神)山のような砂の山でない(否砂)鳥取県北栄町の茶臼山であった。

 島集落から見た伊那佐山(茶臼山)

 伊那佐山(茶臼山)から天香久山(土下山)と島集落(縄文人の猿田彦一族がいた)を望む。
 神武天皇は天照大神のいた琴浦町の伊勢を取り返すために伊勢でも出雲族と戦った。伊勢から船で茶臼山(伊那佐山)にきて、敵情を偵察した。天香久山(土下山)までは中洲があり、中洲の豪雄と呼ばれていた長髄彦がいた。
 神武天皇は戦いに勝てるかどうか占うために、二人に天香久山(土下山)の赤土を下させた。二人が土を下したところが伊那佐山と天香久山との間にある土下集落である。
 手前の伊那佐山の木の間に楯を立てて戦った。中洲の右側は汽水池になっていた。向こうの島集落から来た猿田彦一族は汽水池で鵜飼いをしていた。

 鳥取県の青谷上寺地遺跡で発掘された弥生時代中期後葉(紀元前50年頃)の楯
 神武天皇たちは伊那佐山(茶臼山)でこの楯を立てて戦った。

3 私見
 奈良には伊那佐山が作ってある。神武天皇はここに立てこもって戦ったと学者も思うようにしてある。桂川氏もこの歌の舞台は奈良であると疑問に思うこともなく信じ込んでいる。島は猿田彦一族がいたところであり、伊那佐山の目の前にある。島の猿田彦一族は神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。

 紀元前60年頃は海抜が4mほど高かったから鳥取県北栄町はこのような地形となる。天神川の度重なる洪水により日下邑の楯津は埋まり、中洲は流され(弓原集落まで三角形の土砂の堆積が見られる)、長瀬高浜の弥生土器も流された。

 島からは縄文土器が出土しており、縄文人がいた。それは、天孫族に協力していた猿田彦一族であった。猿田彦一族は島から船を出し伊那佐山に近い汽水域で鵜飼いをしていた。五條市阿田というような遠くではなく、神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。
 「島つ鳥、鵜飼いがとも」とあるが、奈良に津はないので、藤原氏は「津」の読みだけ残して、漢字は消している。例えば葦原中国、黄泉平坂などである。
 この島はのちの磐余邑の中にあり、履中天皇が作った金繰溜池の近くに蘇我馬子大王は池辺双槻宮を造った。蘇我馬子大王は島大臣(王)と呼ばれていた。金繰溜池の池上で同棺複数埋葬の島古墳群が発掘された。池上の陵である。

 道路右側の家の敷地から縄文前期~縄文晩期の連続遺物が発掘された。島集落に縄文前期から縄文晩期までの縄文人が住んでいた。それが徐福一行(天孫族)に協力していた猿田彦一族であった。「島つ鳥、鵜飼いがとも」とは猿田彦一族のことであった。

 茶臼山(伊那佐山)の横の北条川放水路分水堰(ぶんすいぜき)で川鵜を見た。2021年5月17日撮影。汽水池はなくなっているがちょうど猿田彦一族(縄文人)が鵜飼いをしていた辺りである。
 島のとも(猿田彦一族)に飼われていた鵜の子孫!?


倭国歴史書原本の本当の神武天皇行軍コース

2019-04-03 06:12:31 | 火々出見と神武天皇4兄弟

倭国歴史書原本の本当の神武天皇行軍コース

1  日本書紀も、1540年までに書き換え、挿入をしている。
 日本書紀は720年以降も藤原一族の何人もの手で何度も書写されている。書写するときに示し合せて新たに文を挿入したとしてもおかしくない。人代巻28巻がそろったのは1540年であった。それまで、改ざん挿入がなかったと考えるほうが無理である。

2  日本書紀・神武・橿原即位
 「饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名付けて『空見つ日本の国』という。」とある。面白いけれども、空想科学小説であり、のちに挿入されたものである。原古事記においては、饒速日命は、船で小鴨川を下って大倭国(鳥取県中部)に至った、と記されていた。奈良時代には「虚空(ソラ)」と書かなかった。
 「ソラミツヤマトの国」と言ったのは饒速日命ではなく神武天皇である。稲飯命が建国した新羅の国号は「徐那伐」とした。ソナバルの「ソ」は「徐」である。ソラミツの「ソ」を漢字で書くと「徐」であろう。徐等満(ソラミツ)かもしれない。
 日本(ヤマト)とは倭(ヤマト)のことであり鳥取県中部であった。倭を日本に書き直している。

3 山陽でのコース

(1)難波
 湯梨浜町東郷池 「今難波というのはなまったものである」とある。今とあるのは、京都にいた藤原氏が加筆したものである。京都人は「今」という言葉を口癖のように使う特徴がある。湯梨浜町の北山古墳より東側は複雑な波(難波)が来ていた。日本書紀の難波とは、東郷池のことであった。
(2)草香村(日下村)
 倉吉市清谷から西郷地区まで 「河をさかのぼって、河内国草香村(日下村)青雲の白肩津に着いた」とある。1944年まで倉吉市清谷は日下村であった。清谷の上里神社の由緒に稲飯命と神倭天皇が出てくる。天神川の度重なる洪水による土砂のたい積により現在倉吉市清谷(日下村)は海抜4mより高くなっているが2~3mの地点も残っている。紀元前1世紀頃、津(青雲の白肩津)があった。倉吉市清谷から西郷地区までを河内国と言っていた。
(3)血沼(茅渟)の海 
 鳥取県湯梨浜町の東郷池 日本書紀にある茅渟(チヌ)とは黒鯛のことか。原本にあった文字は血沼であった。また海水で傷を洗うような者はいない。ここは汽水湖の東郷池である。
(4)木国 
 鳥取県智頭町 イツセが亡くなった木国とは和歌山県ではなく、鳥取県の智頭町であった。準王一族の多くいた和歌山県を聖地にしようという藤原氏の改ざんである。
(5)名草邑 
 津山市二宮 名草戸畔は頭・胴・足に切られた蛇とされた女族であった。イワレヒコは碫馭盧岩(おのころいわ)を磐境として祀っていた。
(6)佐野 
 総社市 総社市に佐野山の地名が残っている。
(7)神邑 
 福山市神村町 隣接する福山市柳津周辺にはイワレヒコの伝承地が多くある。通説は新宮市辺りとする。
(8)天磐盾 
 福山市柳津町の天津磐境 福山市柳津周辺にはイワレヒコの伝承地が多くある。新宮市の神倉神社ではなく2字が同じ天津磐境である。
(9)荒坂の津 
 岡山市の龍ノ口山の麓 丹敷戸畔は出雲族の姻戚の女族であり、荒神であり、龍蛇神を祀っていた。
(10)高倉下が剣を天皇に献上した地
 岡山県赤磐市の石上布都魂神社 イワレヒコは岡山県の旭川を北上していった。石上布都魂神社で高倉下は剣をイワレヒコに献上した。

4 内津国(鳥取県中部)でのコース

(1)高天原(古事記のみ)
 岡山県蒜山高原(鏡ヶ成) イワレヒコは旭川を北上した。旭川の水源地は蒜山高原である。蒜山の5神社の中で神武天皇は2神社に祀られている。福田神社まで行っているので、犬挟峠ではなく鏡ヶ成から降った。出雲族に気付かれないようにするためであった。
(2)宇陀
 鳥取県倉吉市高城地区 イワレヒコは高天原(鏡ヶ成)から穿邑(上大立)に降臨した(古事記)。楯縫神社の由緒よると、立縫郷の旧郷名は楯縫郷であった。楯はイワレヒコの軍の大事な武具であった。イワレヒコは「宇陀の高城に鴫をとるワナを張って・・・」の歌を詠んだ。弟ウカシ(出雲族)の子孫は宇陀の主水部であった(日本書紀)。国府川の川辺で四隅突出型墳丘墓(出雲族)が発掘されている。
(3)穿邑
 倉吉市上大立 宇陀は倉吉市高城地区であったから高城地区の上の集落の上大立である。上大立から延びる県道313号線(下見大鳥居線)はイワレヒコが山を穿って道を造った。
(4)国見が丘
 鳥取県北栄町の蜘ヶ家山 蜘ヶ家山に上がれば古代の国見がどんなものだったかがわかる。これほど周囲が見渡せる山はほかにない。国見が丘は蜘ヶ家山であった。
(5)高倉山
 倉吉市大谷の四王寺山 国見が丘は蜘ヶ家山だから、蜘ヶ家山と同じくらいの高さで近くにある山は高見神社のある四王寺山である。四王寺山は兄たちと育った山であり、勝手知りたる山であった。
(6)男坂・女坂
 鳥取県道23号線 四王寺山から見えて、目立つ坂と言えば黄泉平坂である。上神まではなだらかな坂(女坂)であるが、上神から蜘ヶ家山に上がる坂は急な坂(男坂)になる。男坂・女坂は黄泉平坂(県道23号線)であった。四王寺山の近くにいた男軍・女軍とイワレヒコは旧知であり、男軍・女軍はすぐにイワレヒコの軍に降った。
(7)石上(いそかみ)
 倉吉市大原 天神川の下流には石山(いそやま)があった。高倉下の倉はここにあった。大原には倉〇氏や倉□氏が多い。素戔嗚は晩年倉吉市の東山神社に住み、八岐大蛇を切った十握剣を対岸の大原神社(石上神宮)に奉納した。以前大原神社は伯耆国二宮の母木神社と言っていた。大原の安綱は倉吉市大原の出身である。大原神社(倉)に多くの良(吉)い刀があった。
(8)忍坂邑
 三朝町片柴集落 当時海水面が高かったので、湯梨浜町川上集落から石上神宮(倉吉市大原)に行くには湯梨浜町波関峠を通るのがメインであった。三朝町片柴集落が忍坂邑と思われる。三朝町片柴周辺では土蜘蛛(出雲神族)たちが採掘作業をしていた。素戔嗚も下流の三朝町山田集落で八岐大蛇(始皇帝の部下たち)に酒を飲ませている。神武天皇は素戔嗚にヒントを得て忍坂邑(片柴集落)に土蜘蛛(出雲神族)たちを集め、酒を飲ませて殺害した。
(9)墨坂
 湯梨浜町羽衣石集落 墨坂の横には川が流れていることが条件である。墨坂は羽衣石集落の坂であった。坂に沿って羽衣石川が流れている。長和田集落に国譲りで退いた出雲族(事代主と百八十神)がいたのであり、兄磯城・弟磯城は事代主と百八十神の子孫であった。
(10)吉野
 倉吉市北谷地区 倉吉市北谷地区の杉野・中野・森を吉野と言っていた。
(11)城田
 琴浦町別宮 313号線が琴浦町下見まで通じているので鳥取県琴浦町別宮に城を築いた。しかし、加勢蛇川の東岸(宮場)のほうが気付かれない。加勢蛇川の東岸を伊勢まで下り船で北条砂丘に至った。最初の拠点は宮場であった。
(12)伊勢
 琴浦町伊勢野から海岸まで 旧伊勢崎小学校の西の中尾遺跡で弥生時代前期と縄文時代晩期の遺跡・遺構が発掘された。伊勢野から海に至るまで伊勢であった。イワレヒコは宮場から伊勢に至り、伊勢から船で北条砂丘に至り、伊那佐山(茶臼山)で敵情を視察し、土下山から赤土をもって下ろさせた。
(13)いなさ(否砂)山
 北栄町の茶臼山 周辺が北条砂丘の茶臼山である。イワレヒコは伊勢から船で北条砂丘に至り茶臼山に来た。茶臼山(伊那佐山)で敵情を偵察し二人に土下山(天香久山)の赤土を取ってこさせて勝敗を占った。
(14)天香具山
 北栄町の土下山 土下山は国譲りの「いなさの小浜」のあった北栄町の茶臼山に面しており、砂浜(中洲)でつながっていた。饒速日が降臨したのも土下山である。天孫族は国譲りの交渉で何度もこの山を通っている。饒速日と結婚した長髄彦の妹の登美夜須毘売も土下山(鳥見の白庭山のちに天の香久山)にいた。土下山と茶臼山との間には今は度重なる洪水で埋まっているが当時は天橋立のような中洲(笠沙之御前の柄)があった。長髄彦は中洲の豪雄と呼ばれていた。兄磯城軍(青銅器文化の一族)が陣取っていたのも土下山(鳥見の白庭山のちに天の香久山)である。麓から銅鐸が見つかっているし、中心部は赤土である。
(15)埴安(はにやす)
 鳥取県北栄町土下(はした)集落 赤土を取ったので名づけたところ。
(16)丹生の川上・宇陀川の朝原
 「にぶ」の地名は鳥取県東部(丹生)と西部(二部)にあるので中部の山側(高城)にも東部と西部につながる辰砂の地層があった。
 「水飴が採れる」と「魚が死ぬ」現象はどちらも水銀(仙薬)の有無を確認する行為である。赤土には辰砂(水銀朱)の混ざるものと酸化第二鉄(ベンガラ)が混ざるものとある。飴とは水飴(水銀朱)を意味し、イワレヒコは赤土に水銀朱(仙薬)を含んでいることを確認した。北栄町土下山には赤土が分布する。
(17)母木邑
 倉吉市大原集落 「その木を指して『恩は母のようだ』といった。時の人はこれを聞き、そこを母木邑(おものきむら)といった」とある。倉吉市大原の大原神社を古代は母木(ははき)神社と言っていたので大原集落を神武の時代には母木(ははき)邑と言っていた。伯耆国はもと母木国と書いていた。母木邑は母木国の元になった邑である。母を「おも」と読むのは韓人である。日本書紀は韓人(百済人)が作成した。
(18)磐余邑
 北栄町米里と北条島集落 磐余邑は片立あるいは片居と言っていた。中が汽水池になっていたので片方に居るしかなかった。神武天皇の時代北栄町米里と島はそういう地形であった。
 磐余彦の兵が天香具山(土下山)にあふれていたので磐余邑という。米里・北条島集落に接する土下山が天香具山である。この土下山(天香具山)の赤土を神武天皇の家臣二人が北栄町土下集落に下した。
(19)橿原宮
 倉吉市大宮集落 大宮集落の近くにある久米や弓削の地名はヤマト王権に属する部族がいた集落である。岡山県の久米郡にも大宮と弓削があるが、倉吉の弓削は大宮のすぐそばにあり、大宮には垂仁天皇より初期の天皇が居た。この橿原の地は国の奥深くにある。私見では30人の天皇の皇居のなかで一番山側(奥)にある。日本書紀の記述と一致する。

5 日本書記では神武天皇は論功行賞を行った。原古事記には書いてあったのだろうが、今の古事記からは削除している。
 論功行賞などの部分は改ざんしていないと思われる。このような部分を改ざんしても意味がないからである。
 弟猾に猛田邑を与えた。それで猛田の県主という。弟磯城を磯城の県主した。また剣根というものを葛城国造とした。
(1)猛田
 伯耆国河村郡竹田郷(三朝町竹田地区)のことである。国道179号線を人形峠を降りて三朝町本泉まで、国道482号線を三朝町福山から降りてきて三朝町本泉までの竹田川の流れる竹田の谷一帯である。
(2)磯城邑
 鳥取県湯梨浜町長和田集落 磯城の八十建がいた。
(3)磯城(師木)
 湯梨浜町東郷池の周辺である。
(4)葛城邑
 鳥取県北栄町曲集落 赤銅の八十建がいた。
(5)葛城
 蜘ヶ家山と日向を合わせた地域である。
(6)日向
 葦原中津国と四王寺山(畝傍山)を合わせた地域である。
(7)来目邑
 倉吉市上米積の後中尾遺跡 四王寺山(畝傍山)の南西を久米ヶ原という。その南の川(国府川)を久米川と言っていた。久米中学校やJA久米支店などの地名が残る。後中尾遺跡は紀元前100年頃から500年続いた住居跡である。
(8)そほ(ベンガラ)県の波哆の丘岬(新城戸畔)
 赤土(ベンガラ)は旧東郷町に多く分布する。
(9)和珥の坂下(居勢祝)
 新羅から来た和邇の船着場(東郷池周辺)の下(北側)である。
(10)臍見(ほそみ)の長柄の丘岬(猪祝)
 長柄の元は「長江」だから、これも東郷池周辺(鳥取県中部)にあった。

6 高佐士(こさし)野の丘の上
 鳥取県伯耆町大殿の越敷(こしき)山である。
 久古神社(祭神は伊須気余理比売)の対岸(越敷山の麓)の三嶋神社(伯耆町大殿)には伊須気余理比売の母の勢夜陀多良比売が祀られている。乙女の伊須気余理比売は母と一緒に暮らしていた。七人の乙女たちは越敷(こしき)山の麓の野で遊んでいた。伊須気余理比売の父は大物主(天忍穂耳命)ではなく、事代主(出雲族)の子孫の磯城県主(初代は弟磯城)と思われる。初代から数代の天皇は出雲族の娘を娶った(謎の出雲帝国より)。弟磯城は出雲族(準王一族)である。美保関や熊野大社に行くのに、伯耆町大殿の勢夜陀多良比売の家に宿泊していた。神武天皇に磯城県主を命ぜられた弟磯城の娘なら年代も付合する。
 大久米命は高佐士野の丘の上を、七人の乙女たちが野遊びをしているところに天皇を誘った。そして、「七人のうちだれがよろしいですか」と聞いた。天皇は「先頭に立っている乙女を妻にしたい」と言われた。それが伊須気余理比売である。


神武東征は不比等の創作であった。神武天皇は鳥取県中部(倭国)を出発し、鳥取県中部(倭国)に帰ってきた

2018-10-03 09:34:44 | 火々出見と神武天皇4兄弟
 神武東征は不比等の創作であった。神武天皇は鳥取県中部(倭国)を出発し、鳥取県中部(倭国)に帰ってきた。
1 私見
(1)イツセとイワレヒコは九州を平定して(鹿児島県・佐賀県・福岡県で発掘された紀元前100年頃の鉄鏃より)安芸国を通って倭国(鳥取県中部)に帰り、米子市淀江の津で新羅からの鉄製の武器を受取り、船で東郷池に入ったと思われる。倉吉市の大平山(日下村)でナガスネヒコと戦いイツセは傷つき、木国(鳥取県智頭町)で亡くなった。イワレヒコは木国(鳥取県智頭町)から山陽側(岡山県・広島県)に出た。
(2)岡山県・広島県に神武天皇の伝承が多い。大阪府茨木市(摂津国)の東奈良遺跡における銅鐸製作を紀元前1世紀に線刻土器に変えさせているので摂津国(大阪府茨木市の東奈良遺跡)までは行ったはずである。しかし、1世紀に銅鐸製作を線刻土器に変えた奈良の唐古・鍵遺跡を平定したのは2代天皇以降ではないかと思われる。イワレヒコは奈良や和歌山県の熊野までは行っていない。宮崎県民・奈良県民・和歌山県民は古事記・日本書紀で創られた「神武天皇」という幻想を見ていた。
 記紀にある神武東征で宮崎県の日向から和歌山県の熊野まで行くルートに矛盾が3つある。その1は、都であったとする宮崎県の日向からスタートするのはおかしいこと。2は、もし紀伊山地を縦断できたとしても疲労困ぱいで八十猛の軍に勝てるわけがないこと。3は、古来この地域に「熊野」と名のつく郡町村字が存在したことがないこと。以上のことから、神社・石碑・地名・伝承はそろっているが、これは不比等の時代から京都に遷都してからも藤原氏によってどこも疑われないように潤色したものであり、そろいすぎていてかえって不自然なのである。広島県・岡山県には神武天皇の自然な民間伝承が多いが、宮崎県・奈良県・和歌山県の民間伝承はわざとらしく思われる。
 イワレヒコは退却した後、しばらく山陽で過ごした。倉吉市の上里神社の由緒では「神倭天皇(鳥取県中部の)日向より東夷平定に(九州に発たれ平定後)山陽より(帰り)給いし際・・・神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進めたもう。・・・」とあり奈良・熊野は出てこない(カッコは藤原氏の神社庁によって削除された)。
 国史にある宮崎県から奈良県に神武天皇が都を遷したとする神武東征はすべて藤原氏による改ざん・創作である。学者はみな改ざん・創作された国史に基づいて東征ルートなどを机上で考えていた。神武天皇が実在しなかった場所(宮崎県・奈良県・和歌山県)に幻の神武天皇を創り上げていたので、神武天皇はいなかったという説(日本史の教科書)が出てくるのである。神武天皇は宮崎県・奈良県・和歌山県にはいなかったが、鳥取県・広島県・岡山県には実在していた。
(3)日本書紀には「名草邑の女賊を誅し、佐野を越えて、熊野の神邑に至り天磐盾に登った」とある。
 名草戸畔は津山市二宮の宇那提森で誅された蛇と思われる。津山には娘が蛇になり宇那提森に住んだという説話がある。蛇は生贄を要求した。津山市の名草戸畔を蛇に変えたのは藤原氏と思われる。
 津山市二宮の美和山古墳群・胴塚(一号墳)。ほかに、蛇塚(二号墳)、耳塚(三号墳)がある。
 イワレヒコは名草戸畔を胴、頭、足に切断して埋めたが、猿を退治して中山神社にいた崇神天皇(在位188年~220年)は古墳時代前期に美和山古墳群に手厚く埋葬しなおしたと思われる。
 藤原氏は津山の名草戸畔の伝承を和歌山にもっていって、3神社に祀り、名草姓の子孫まで創ったので、津山の本物は蛇にして隠さなければならなかった。名草戸畔は出雲の諸神の姻戚であり、龍蛇神を祀っていたので蛇とした。蛇は足がないから、耳塚とした。
 高野神社の主祭神は父のあだ名であり、創建時は神倭磐余彦であった。イワレヒコは碫馭盧岩(おのころいわ)を磐境として祀っていた。
 佐野は総社市中心市街地と思われる。佐野山の地名が残っている。
 古事記にある神武天皇が着いた「熊野の村」とは広島県福山市であった。
日本書紀の「熊野の」は藤原氏の加筆である。本当の「神邑」は福山市神村町であった。「天磐盾」は福山市の天津磐境であった。
 福山市の天津磐境。通説は「天磐盾」を新宮市の神倉神社とする。原古事記に書いてあった「天磐盾」は「天」と「磐」が同じ天津磐境と思われる。神武天皇は福山市の天津磐境に登った。
 イワレヒコは倭国(鳥取県中部)からいったん撤退して広島県福山市を本拠地にしていた。
(4)神武天皇の伝承は以下の地域に残る。
 1.福山市柳津周辺 
  潮崎神社:御蔭山:磐田山:貴船神社:口の巖:神王屋敷:王人の巖:物見御座所:辺防地:城の坊:天津磐境:祭壇巖:鏡山:勝負岩:勝負原:王太子社:森御前:鎮神社
 径3kmの範囲内にこれだけの伝承地が残っている。神倭磐余彦は倭国から撤退後、ここを本拠地にして各地にいた略奪集団(出雲神族=ナガスネヒコ一族、鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定し、倭国を取り戻す機会をうかがっていた。
 2.福山市浦崎
  高島:王太子神社:嶽神社
 3.福山市内浦町田島 
  皇森神社:内浦:磯間浦・口無泊:幸崎:俎の瀬:六合:箱崎:小用地:大越:大浦(王浦)・天迫:天皇神社・天皇の浜・天皇畑・天皇の洲:御手洗川:矢の島
 ※ 私見 田島の伝承は柳津周辺の伝承とは質が違う。田島の伝承は笠岡市高島の伝承と同じく神武東征神話の一環として藤原氏が創作したと思われる。島々を船で中継していったと思わせるためのテーマパークと思われる。
 4.福山市田尻町
  高嶋:竹ヶ端:高濱:王ヶ峰:宮原:蓑島大明
 5.尾道市高須
  高須:大元山:大元神社:木之本神社:加茂神社:神原:千畳屋敷・風呂井戸:穴倉屋敷・大将軍屋敷:弓細工
 6.三次市畠敷町 熊野神社  
 7.庄原市西条町高
  今宮神社伝承:神武天皇広島に御滞在中、物資を出雲(伯耆国淀江)方面より御取り寄せ遊ばさる。
 ※ 私見 出雲とあるが敵対していた出雲であるはずはなく(神武天皇の子孫の倭建命は出雲建を殺している)これも出雲を聖地にしようとする藤原氏による改ざんである。
 8.庄原市高野町南
  八幡神社:鬼城山
 9.   庄原市本村の葦嶽山
※ 私見
 イワレヒコは尾道も含めて福山市を軍事拠点にしていた。この時、西は宮島、東は摂津国、南はしまなみ海道を通って伊予国を平定している。北は庄原市高野町や西条町高に伝承地があり、庄原市本村の葦嶽山でも祭祀をしている。

 古代史の復元では「使者の通った経路は葦嶽山から本村川を遡り帝釈を越え戸宇から八幡越えで出雲に渡ったと伝わっている。この経路は通常出雲へ向かう経路とは異なっている。この経路を延長すると、道後山沿いに鳥取県の日野川流域に入ることになる。この方面に行くとなれば、御墓山を経由して島根県の飯梨川流域に入りそこから出雲国の中心地と思われる意宇郡に着く」とする。「古代史の復元」の筆者は出雲国という先入観があるようである。イワレヒコの使者は戸宇から八幡越えで日南町に入り日野川を下って淀江の津に至った。
 イワレヒコは福山市に滞在中、庄原市を越えて新羅から鉄製の武器の到着した米子市淀江の津との往復をしていたと思われる。
 一般には「武器調達と大和の様子見のために長期滞在をした」と言われている。倭を大和と書かせているが、大和は奈良だから、奈良の様子見のために出雲や鳥取県に行くはずはない。伝承でいう「大和」とは「倭」のことであり鳥取県中部であった。
 備後国北部から安芸国にかけても伝承が多いが、四兄弟が九州に行くときと、イツセとイワレヒコが九州から倭国に帰るときの2回通っているから伝承が多いのだと思われる。
 イワレヒコは倭国からいったん退却して福山市を本拠地として現地の人々の心をつかみ、軍備も蓄えていった。賊(略奪集団)の退治もしていたので土地の人々の心をつかみ、実戦経験も積んでいた。
※ 略奪集団(出雲神族=準王一族)の退治は以下のようである。
  庄原市高野町南の八幡神社 埴土丸といふ鬼神と数多の賊
  広島市安芸区瀬野の生石子神社 瀬野川の川上の賊
  呉市の八咫神社 いとも怪しき夷等
  岡山市児島宮浦の懸幡神社 奥津に荒ぶる神
(5)イワレヒコはしばらく福山市を本拠地として賊(ナガスネヒコの一族)を退治し周辺の人々の心をつかんだが、その後内つ国(鳥取県中部)に行くため、海を渡って着いた「荒坂の津」は、当時近くまで海であった岡山市の龍ノ口山の麓と思われる。

 手前は蒜山高原に水元を発する旭川。その向こうは龍之口山。
 中ほどのグリーンシャワーの森から左上の龍之口八幡宮までの坂を荒坂と言ったはずである。出雲神族は荒神であり、龍蛇神を祀っていた。龍之口八幡宮にいたのは出雲神族と思われる。「戸畔」というのは女酋で出雲の諸神の姻威だといわれている。龍之口八幡宮にいたのは丹敷戸畔と思われる。神武天皇は高島にいたと思われる。
 高倉下が剣を天皇に献上したのは岡山県赤磐市の石上布都魂神社の地と思われる。イワレヒコは岡山県の旭川を北上して蒜山高原(高天原)にたどり着いた。イワレヒコは蒜山高原(高天原)の加茂神社と福田神社の祭神になっているので、蒜山高原(高天原)を宿営地にしていたと思われる。祖父のニニギは蒜山高原(高天原)の加茂神社と長田神社に祀られている。
(6)イワレヒコは内つ国(鳥取県中部)に赴くため、饒速日と同じ蒜山高原(高天原)の鏡ヶ成に立った。

 ウマシマジのいた江尾とイワレヒコが立った鏡ヶ成はどちらも鳥取県江府町に属する。江尾と鏡ヶ成は昔から関係のあった土地と思われる。蒜山(高天原)から大立(王楯)に下りるには鏡ヶ成からスタートするしかない。
 饒速日には猿田彦がついて案内したが、イワレヒコにはヤタガラス(鴨建津之身)がついて案内した。鴨建津之身は小鴨川と県道45号線に近い関金の鴨ヶ丘に住んでいたと思われる。


 道臣は、別ルートから鴨ヶ丘にいた鴨建津之身を連れてきて案内させたと思われる。
 山守鴨ヶ丘地蔵堂。この奥に丘陵地があり、鏡ヶ成も見える。
 イワレヒコは祖父ニニギ(楯縫神社の祭神)のいた宇陀(倉吉市高城)に下りて行った。「道もない深山をさらに踏み越え、道を穿ってようやく宇陀に到着した」(古事記)。穿邑は倉吉市上大立集落と思われる。
 「大立」は「王楯」と思われるのでしばらくイワレヒコがいたと思われる。イワレヒコは祖父ニニギと猿田彦がしばらくいた宇陀(倉吉市高城)に下りた。
 イワレヒコが仮の本拠地にしていた穿邑は上大立であった。山を穿って道を造ったから穿邑という。琴浦町三本杉から関金町大鳥居に至る鳥取県道313号線は神武天皇が造った。あまりに山道なので現在ではあまり利用されていないが農道ではなく、りっぱな県道である。上福田・下福田にいた兄ウカシ・弟ウカシに気づかれずに移動するために県道313号線を造った。杉野・中野・森を合わせて吉野と言っていた。

 終点である琴浦町三本杉の隣の別宮も神武天皇が開いた。別宮から下って伊勢(すでに天照大御神が降臨していた)に至り、船で北条砂丘に至り茶臼山(伊那佐山)で敵情を視察した。二人に土下山の土をもって下ろさせ、勝てるか占った。
 倉吉市高城(楯縫邑)も琴浦町八橋(笠縫邑)も即位後、神武天皇が開いた。
 その後、北谷地区(吉野)→三朝の片柴(忍坂邑)を平定して兄磯城を挟み撃ちにした。太陽を背にして南から平定していった。
 忍坂邑(三朝町片柴)で土蜘蛛に酒を飲ませて殺したのは、素戔嗚の剣を持っていたイワレヒコが三朝町山田で素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した話にヒントを得たからと思われる。倉吉市高城(宇陀)から三朝町片柴(忍坂邑)に行くまでに石上神宮と三朝町山田(八岐大蛇伝説の舞台)を通らなければならない。

(7)「宇陀(倉吉市高城)で兄ウカシと弟ウカシが頑張っていた。兄ウカシは檄を飛ばして軍隊を集めたが、いっこうに味方につく者がなかった。」(古事記)。宇陀(倉吉市高城)の住民はニニギの人柄を知っているからその孫イワレヒコを殺そうとするものは誰もいなかった。兄ウカシは殺されたが弟ウカシはイワレヒコに従った。
 「天皇は宇陀の穿邑から巡行された。天皇は宇陀の高倉山(兄たちと住んでいた高見神社のある四王寺山)で国見をした。国見ヶ丘(蜘ヶ家山)には八十猛がいた。」
 「男坂女坂(黄泉平坂の蜘ヶ家山にさしかかる急な坂と蜘ヶ家山までのなだらかな坂)には男軍と女軍がいた」(日本書紀)
 「この土地から命の軍隊はさらに旅を続けて忍坂の大室(三朝町片柴)に到着した。80人におよぶ土蜘蛛が待ち構えていた。」(古事記)。忍坂邑(三朝町片柴)では土蜘蛛に酒を飲ませて殺害した。
 イワレヒコは石上布都魂神社の地で高倉下に献上された素戔嗚の剣を持っており、また三朝町片柴(忍坂邑)に行くまでに石上神宮と八岐大蛇伝説のあった三朝町山田を通るので、素戔嗚の八岐大蛇伝説をヒントにして、忍坂邑で、はたから見れば卑怯な殺害をしたと思われる。

(8)宇田川は湯梨浜町の羽衣石川と思われ、羽衣石川に沿って下る坂が墨坂と思われる。
 イワレヒコは忍坂(湯梨浜町の波関峠の坂)から下りて長和田集落からさかのぼり、男軍は三朝町山田から墨坂(湯梨浜町羽衣石集落の坂)に入り、下りて湯梨浜町羽衣石集落にいた兄磯城を挟み撃ちにした。この時、男軍も女軍もイワレヒコの皇軍についていた。
 羽衣石川。右上は荒神社社叢。ここが宇田川と墨坂と思われる。
 炭焼きをしてもおかしくない土地柄。
(9)八十タケルがいた国見丘は北栄町の蜘ヶ家山と思われる。蜘ヶ家山の頂上に上がれば見晴らしが良く、古代の国見がどういうものだったかが分かる。
 「高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城邑とした。」(日本書紀)のだから葛城邑は荒神(土蜘蛛=出雲神族)神社のある蜘ヶ家山の麓の曲集落であり、麓に葛城邑(曲集落)のあった山を葛城山(蜘ヶ家山)と呼ぶようになった。
(10)イワレヒコの使者は米子市淀江町の津で新羅からの鉄製の武器を受け取っていた。鳥取県江府町江尾にいたウマシマジはイワレヒコの山陽(吉備国と安芸国)での活躍を福山市と米子市淀江町との間を何度も往復する父方のイワレヒコの使者から聞いていたはずである。
 
江尾神社より街並みを望む
 ウマシマジは母方のナガスネヒコ一族が掠奪集団であり、人々はイワレヒコに味方をしていることを家の前を通る使者から聞き、ナガスネヒコを殺害し、宇陀(倉吉市高城地区)にいたイワレヒコを追って帰順したと思われる。
(11)弟ウカシは猛田(三朝町竹田)の県主を命ぜられたが、その子孫は出来が悪くてもと居た宇陀(倉吉市高城)に帰らされ、水汲みをさせられていたと思われる。反面、弟磯城は磯城の県主として出来が良く、雄略天皇の時代には鰹木を高く掲げた家を建てるまでになっていた。

2 (参考) 古事記・日本書紀におけるイツセの死からイワレヒコの勝利まで
(1) 古事記
兄を失ったイワレヒコ命は悲しむひまもなく、その土地から迂回をつづけ、やがて熊野(福山市)の村へと着いた。
イワレヒコは寝込んでしまった。・・・(ここが長い)・・・。
高倉下が(石上布都魂神社の地で)剣を献上した。
たかぎの大神が言った。「この土地から深入りしてはならない。この奥には荒々しくすさまじい神々が大勢いる。天からヤタガラスを降ろしてやろうヤタガラスが道案内をするので従っていくがよい。」
やがて吉野川(岡山県の旭川)の河上に達した。
この土地から、道もない深山をさらに踏み越え、道を穿ってようやく宇陀に達した。
宇陀での話。
この土地から命の軍隊はさらに旅を続けて忍坂の大室(三朝町片柴)に到着した。80人におよぶ土蜘蛛が待ち構えていた。
その後ナガスネヒコに対して復讐の一戦を望むことになった。トミビコ(ナガスネヒコ)を討ち果たした。
兄磯城・弟磯城を攻めた。
伊那佐山の歌。
饒速日(ウマシマジ)が陣中に参上。
(2) 日本書紀
イツセの死。
名草邑→神邑→天磐盾→海を渡る→荒坂の津。
高倉下が(石上布都魂神社の地で)剣を天皇に献上した。
皇軍は内つ国(鳥取県中部)に赴こうとした。
山の中で道に迷っていた。
天照大御神が「ヤタガラスを遣わすから、これを案内にせよ。」と言った。
日臣は大久米を率いて鳥の導きのまま追いかけた。日臣は道臣となる。
宇陀の穿邑についた。
宇陀での話。
天皇は宇陀の穿邑から巡行し、吉野(倉吉市北谷地域)についた。
天皇は宇陀の高倉山(倉吉市高城山)で国見をした。
国見丘(北栄町の蜘ヶ家山)には八十タケルがいた。
兄磯城の軍は磐余邑にあふれていた。
香久山の土を下して占った。
八十タケルを国見丘(北栄町の蜘ヶ家山)に撃った。
忍坂の室(三朝町片柴)での話
兄磯城・弟磯城の話
忍坂の道から行く。直ちに墨坂を目指し、宇田川の水をとって敵軍が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間に不意をつけば、きっと敗れるでしょう。
鵜飼いの歌。
男軍が墨坂を越え挟み撃ちにして兄磯城を破った。
ナガスネヒコと金鵄
饒速日(ウマシマジ)はナガスネヒコを殺害した。饒速日(ウマシマジ)は部下達を率いて帰順した。
饒速日(ウマシマジ)は物部氏の先祖である。
高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城とした。
 
 

 
 

神武天皇、神武天皇の皇后、皇后の母の神社と小野小町の遺跡に行ってきました

2018-07-19 04:12:46 | 火々出見と神武天皇4兄弟

1  神武天皇は古事記では二人目の皇后として、比売多多良伊須気余理比売を迎えた。
  この女を后に世話したのは、大久米命で、伯耆の西伯郡会見町の高佐士野(恐らくは越敷野)を7人の乙女が遊ぶ中の、先頭に立つ乙女がおめあての女性だと歌で知らせた。
 倭の 高佐士野を 七行く乙女どもを誰をしも 枕かむ (共に寝ようか)

2  鳥取県伯耆町越敷野(高佐士野)
 右に越敷山がある 

3  久古神社の裏にある狭井(山百合)河
 伊須気余理姫が住んで居た所は狭井河のほとりと書かれている。
 狭井河の狭井(さい)とは山百合のこととある。この河の畔は山百合が咲く環境が整っている。 

4  久古神社(伊須気余理姫の家があったところ)
 この久古には久古神社があって姫踏鞴五十鈴姫(伊須気余理姫)が祀られている。
 天皇は伊須気余理姫の家に訪ねて行かれた。
 この時の歌である。
 葦原の しけしき小屋に 菅たたみ いや清敷きて 我が二人寝し

5  久古集落の対岸の大殿の三島神社には皇后(伊須気余理姫)の母の三島溝咋姫が祀られている。
 三島神社

6  おまけ 小野小町伝承地
 小野小町伝承地も越敷野に近い越敷山のふもとにある。藤原氏は小野小町の本当の出身地を判らなくするために、全国に多くの小野小町伝承地を作った。小野小町の出身地はここだ、とするためにわざわざ小野集落と小町集落を創りますか。小野集落も小町集落も小野小町が生まれる前からあった集落名と思われる。
 小野小町も徐福の少女一行の子孫かも知れない。

神武天皇たちは妻木晩田を開いた

2018-07-18 04:45:19 | 火々出見と神武天皇4兄弟

1 糺(ただす)神社
 明治42年まで鳥取県西伯郡所子(ところご)村大字所子字神田(じんでん)(門脇家住宅の先、サイの神の道向かい)に糺(ただす)神社があった。祭神は神日本磐余彦、鵜草葺不合、玉依姫、誉田別、倉稲魂、天照大神、大山祇、稲田姫、水象女、猿田彦、鈿女
 神武天皇(紀元前112年生まれ、紀元前60年即位)とその両親も祭神になっている。普通、合併は大正時代なのに明治政府は慌てたように糺(ただす)神社を消している。糺(ただす)神社の由緒は橿原神宮(明治23年創建)を建てた関係か、明治政府にとって不都合なものであったと思われる。

2 妻木晩田遺跡・松尾頭地区

 糺(ただす)神社から南西3kmのところに妻木晩田遺跡・松尾頭地区があり、紀元前100年頃の竪穴住居跡(SI100)や土坑(SK161)が発掘された。

3 線刻土器
 妻木晩田遺跡のパンフレットより
 SK179で発掘された線刻土器
 SK179は紀元前100年頃のSK161のすぐそばにあり、この線刻土器も紀元前100年頃の線刻土器と思われる。
 「妻木晩田遺跡で発見された線刻土器はこれで4点目であり、そのすべてが松尾頭地区で出土していることは、この地区の性格を考えるうえで重要である」とある。この4点とも祭祀に関係した土器であり、神武天皇たち(紀元前100年頃)に関係していると思われる。

4 妻木晩田遺跡・松尾頭地区の祭殿
 「このひさし付きの建物はむらのまつりを執り行った祭殿と考えられている」とある。

5 私見
 神武天皇(紀元前112年生まれ、紀元前60年即位)たちは殷王朝末裔である出雲族(準王一族)の銅鐸祭祀を線刻土器の祭祀に変えさせよう(ただす)としていた。その最初の拠点が妻木晩田遺跡の松尾頭地区と思われる。しかし、この地では線刻土器祭祀へ変更させる(ただす)ことはできなかった。
 神武天皇たちは全国に散っていた出雲族(準王一族)の祭祀を変更させるための巡行に出なければならなかった。神武東征の原型は出雲族(蝦夷)の平定であった。
 出雲族が妻木晩田に住み始めたのは出雲族が平定されて神武天皇が即位(紀元前60年)した後であった。しかし、いつまた反乱するかわからない爆弾を抱えているような状態であった。実際、孝霊天皇の時代(120年~211年)に出雲族は出雲族の姫を殺したとして反乱(青谷上寺地遺跡に代表される倭国大乱)を起こした。
 松尾頭地区の南西2.4kmで出土した稲吉角田遺跡の絵画土器も紀元前100年頃であり、神武天皇たちが作ったと思われる。
 また、鳥取県大山町長田集落の造りは倉吉市大谷集落の造りと似ており、集落にだいぶ近づかないと家並みが見えない。長田集落も大谷集落と同じく神武天皇の時代(紀元前100年頃)に造られたと思われる。
 長田集落も含めて松尾頭地区より孝霊山側は天孫族の領域であり、松尾頭地区より日本海側は出雲族の領域であったと思われる。同じように鳥取県中部でも四王寺山(鵜草葺不合=火火出見と玉依姫の宮)と土下山(鳥見=出雲族の白庭山、後に天の香久山)でも天孫族と出雲族は住み分けをしていた。四王寺山の前に不入岡(岡にはいるべからず)という地名がある。

日本書紀の「日本」(ヤマト)や古事記の「大和」(ヤマト)とは鳥取県中部の「倭」(ヤマト)である

2018-07-16 08:25:40 | 火々出見と神武天皇4兄弟
1  古事記・朝日のただ射す国・において「瓊々杵命が『この地は韓国を望み、韓国からの船が笠沙之御前を巻くように通る。朝日のまともに射す国、夕日の照り輝く国である。こここそは吉相の地である』と言った」とある。
 笠沙之御前や葦原中津国は鳥取県中部(倭国)にあった。
 天孫降臨の頃(紀元前200年頃)の海面は今より4m高かった。

2  日本書紀・神武天皇・橿原即位・において「神武天皇の御巡幸があった。掖上の嗛間の丘に登られ国のかたちを望見していわれるのに、『なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉がトネメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国だなあ』と。これによって始めて秋津洲の名ができた。
 昔、伊邪那岐命がこの国を名づけて『日本(ヤマト)は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていてよく整った国』といわれた。
 また大己貴大神は名づけて『玉牆の内つ国』といわれた。」とある。
 正面は北栄町島(室秋津島)
 中央は室秋津島。神武天皇は葛城掖上の丘に来られた。

3  私見
 大己貴大神と神武天皇の「国」とは葦原中津国のことであり、伊邪那岐命の「国」とは倭国のことである。
 「掖上」とあるのは第5代孝昭天皇の皇居のあった掖上池心宮(日本書紀)、葛城掖上宮(古事記)であり倉吉市穴沢に比定したが、そこの灘手神社のある丘ではないかと思われる。
 「秋津州」とは第6代孝安天皇の皇居のあった室秋津島宮(日本書紀)葛城室之秋津島宮(古事記)であり北栄町大島に比定したが、どちらも天孫が降臨した葦原中津国にある。倉吉市灘手地区は尾根が手の指のようになっており、少し高いところから見れば、数本の手(尾根)が重なっているように見え、秋津がトナメしているように見える。 
 伊邪那岐命は伊邪那美命に葦原中津国を一緒に造ろう(人口を増やそう)と言った。しかし、完成しなかった。
 「日本」と「良い武器が沢山ある国」というのは、後の藤原氏による改ざんである。「日本」とは「倭」とあったのを書き換えたものである。また、倉吉市大原の石上神宮から奪った沢山の武器が良かったので「良い武器が沢山ある国」を挿入した。倉吉の「倉」は石上神宮のことであり「吉」とは倉に良い武器があったからである。打吹天女伝説と同じく藤原氏が命名したものと思われる。
 大己貴大神ではない真の大国主命は多くの子を産み伊邪那岐命が成しえなかった葦原中津国の国づくりを完成させ、「玉牆の内津国」と言った。

4   やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとし うるわし
 葛城山(蜘ヶ家山)から東南方向を望む。手前は天香具山(土下山)。
 倭健命はこの景色を思い浮かべて、歌を詠んだ。