日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は入れ替えられている
1 欽明天皇はおらず、この時の倭国天皇は蘇我稲目天皇であった。原文の「新羅」を日本書紀では「百済」に入れ替えているため、原文の「新羅王」も「百済王」と入れ替えた。百済の聖明王(在位523~554)は、原文では新羅の法興王(在位514~540)であった。
(1) 日本書紀も中国史料の「翰苑」(660年)も「通典」(801年)も「太平御覧」(983年)も「冊府元亀」(1013年)も朝鮮の「三国史記」(1145年)も「任那は新羅に滅ぼされた」と記している。
この記述は正しいか。
※私見
任那(全羅南道の任那4県)は新羅と倭(鳥取県中部)が中国へ行くためまた新羅と倭(鳥取県中部)を守るために垂仁天皇(在位220年~248年頃)が名付けた地域である。新羅が任那(全羅南道の任那4県)を犯すことはない。
「翰苑」は現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。太宰府天満宮は藤原氏の管理下にあり、藤原氏は自由に改ざんできる。「通典」は代宗の大暦元年(766年)から徳宗の貞元17年(801年)の三十余年をかけて編纂されたが、藤原朝廷の遣唐使が持ち込んだ日本書紀(720年成立)を参考にしたものと思われる。その後の「太平御覧」や「冊府元亀」も遣唐使が持ち込んだ日本書紀(720年成立)を参考にしたものと思われる。現在の三国史記も日本書紀に従っている。三国史記の原本は藤原氏によって焚書されたものと思われる。
歴史書を改ざんし、原本を焚書にするのが好きな藤原氏である。日本書紀との辻褄を合わせるために、それが他国の歴史書であってもこれくらいの改ざんは平気でしている。「翰苑」も「通典」も「太平御覧」も「冊府元亀」も「三国史記」も史実とは違ったことを記しており、任那を滅ぼしたのは新羅ではなく百済である。
(2) 後漢書・弁辰伝は「弁辰と辰韓は雑居しており、城郭、衣服などいずれも同じで、言語と風俗は異なる。その族は背が高くて大きく、美しい髮、衣服は清楚である。刑罰法令は厳格。その国は倭に近い故に全身に刺青を施している者も少しいる」とする。
南斉書・加羅國伝は「弁辰は辰韓に雑居し、城郭をも有する。衣服、住居は辰韓に同じ。言語、風俗は相似するが、祠に鬼神を祭祀するのは異なる。皆が家の西にかまどを置く。そこの瀆盧国は倭(任那)と境界を接する。十二国にも王がおり、身体は皆大きい。衣服は清潔、総髪である。また広い幅の細布を作る。刑罰における法俗は特に峻厳である」とする。
※私見
南斉書・加羅國伝にある「倭」とは倭国が全羅南道に造った「任那」と思われる。
弁辰と言い弁韓と言い、伽耶と言い加羅と言うのは、ほぼ同じ地域である。ほぼ、弁辰=弁韓=伽耶=加羅となる。弁辰(加羅)と辰韓(新羅)は雑居していたのであるから、新羅と加羅(伽耶)は紀元前210年の頃から同族である。
任那という地域名は垂仁天皇(在位220年頃~248年頃)が新羅と倭国を守り中国に行く途中経路としての役割を与えて名付けた朝鮮半島南西部の任那四県の地域名である。任那は新羅と倭を守り中国に行く途中経路としての役割を与えられて名付けられた地域なので、新羅が任那を犯すことはない。
日本書紀・欽明天皇23年(562年)春1月に「新羅(百済)は任那(全羅南道)の官家を打ち滅ぼした。-ある本に21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国、合わせて十国である」とある。
京都の藤原氏は任那は全羅南道にあったと思われないように、あえて具体的に10国の名を挙げた。「任那とは加羅10国のことである」と、作り話を念押しして加筆した。皆この一文を信じて「任那とは加羅10国のことである」と思い込んでいる。
任那とは、倭建命と倭姫命(卑弥呼)が三韓を訪れて中国に行くルートを創設した時から、660年に百済が滅んだ時まで全羅南道の任那4県であった。
また、日本書紀は「新羅が任那を侵した」とするが、三国史記の原本にあったと思われる「百済が任那を侵した」文章を書き換えている。ことほど左様に日本書紀・欽明天皇の段は「新羅」と「百済」を入れ替えている。
(3) 百済は高句麗と同族の扶余族であり、六韜に基づいて4世紀(364年卓淳国で倭国への道順を尋ねた)から倭国と新羅を乗っ取ることを考えていた。それが成就したのは734年であった。卓淳国というのは、今日の大邱付近に存在した国である。卓淳国は慶州の西に在り慶州に入って来ようとするものを防ぐ役割があった。もともと新羅に属していた。百済が卓淳国に使者を派遣して、倭国との通交の仲介を要請した。346年に建国した百済にとっては建国後僅かに18年後のことであり、百済は倭国や新羅を乗っ取るために高句麗が建国したものとしか思われない。
卓淳国は、この百済の要求に従って、倭の使者が卓淳国に来た時に、その使者を案内して百済に連れていき、国情を見せ、百済と倭国との正式交渉の端緒を作った。百済は364年卓淳国で倭国への道順を尋ね、367年に倭国に使者を送る。七支刀を贈ったのもこの頃である。382年には新羅は高句麗に乗っ取られていた(三国遺事)。そのときの倭国天皇は応神天皇(葛城長江襲津彦)(在位354年~394年)であった。百済にとって応神天皇(誉田別命)は最初に朝貢したときの天皇であり特別な天皇であった。倭国を乗っ取ってから百済は応神天皇(誉田別命)を八幡神社の祭神にした。これが史実であり、高句麗・百済と倭国・新羅との関係史はこれが基本である。これに反する歴史書は改ざんされている。
百済の都は初めは漢江の流域の慰礼城であったが、371年に漢城(ソウル)に移り、その後たびたび遷都している。475年には南の錦江中流の熊津(公州)、さらに538年に新羅・倭国を乗っ取るために、下流の泗沘(しび)に移された。540年に新羅の法興王を殺害している。
2 日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は書き換えられている。
書き換えられる前の文を再現してみる(抜粋)。参照したのは宇治谷訳日本書紀。
(1)法興王・任那復興の協議
新羅の法興王は任那の旱岐らに語って、「倭の天皇の意志は、もっぱら任那の回復を図りたいということである。どんな策によって任那を再建できるだろうか」。任那の旱岐らが答えて「先に再三百済とは話し合いましたが、まだ返事もありません。・・・。任那は百済と国境を接していますので、恐れることは卓淳らと同じ滅亡の運命にさらされないかということです」
法興王は「昔、わが先祖の世に安羅・加羅・卓淳の旱岐らが、親交を結んでいた。兄弟のようにして共に栄えることを願った。ところが百済に欺かれて、天皇の怒りをかい、任那からも恨まれるようになったのは私の過ちであった。
・・・。任那の境に百済を呼んで、話し合いに応ずる気があるかどうか尋ねよう。天皇への使いが帰らないうちに、百済が隙ををみて任那を侵すならば、自分が行って助けるだろう。お前らは、卓淳らの禍を繰り返すのを恐れるといったが、百済は自分の力が強くてできたわけではないのだ。かの㖨己呑は加羅と百済との境にあって、ひっきりなしに攻められ敗れた。任那も救いたすけられなかった。それで亡んだ。南加羅も亡んだ。また卓淳は上下が離れ離れで、国王自ら百済に内応した。それで亡んだ。
昔、百済は高麗に助けを乞い、任那と新羅を攻めたけれども、勝てなかった。百済がどうして独力で任那を亡ぼすことが出来ようか。今自分がお前たちと力と心をあわせ、天皇の威力に頼れば任那はきっと復興できる」といった。
(2)百済謀略の戒め
法興王は任那に対して「・・・。百済が甘言を用いて策略することは、天下周知である。うっかり信用して、すでに計略にはまっていた。計略にはまれば、国を失い、家を亡ぼし身は虜となる。聞くところでは任那と百済が策を決定する際も、土壇場で蜂や大蛇のような本性を表わすと、世の人はいう。・・・。」と。
法興王はまた「倭の諸卿は長く任那の国にあって、百済に交わり、百済の実情はご存知である。任那を侵し、倭の力をはばもうとするのは久しいもので、今年のみではない。だがあえて百済が動いていないのは、近くは新羅を警戒し、遠くは天皇を恐れてである。朝廷を巧みにあやつり、偽って任那と親しくしている。百済が任那の倭府に取り入っているのは、まだ任那を取れないから、偽装しているのである。卿らが甘言を信じて偽りにのせられ、任那国を亡ぼし、天皇を辱めたてまつることのないよう充分慎んで欺かれないように」といった。
(3)任那復興の計画
法興王は語っていった。「任那とわが新羅とは、古来子弟のような間柄であった。今、印岐弥が百済を討ち、さらに新羅をも討とうとしている。また好んで百済の偽りに騙されているのである。昔から百済は無道であり、嘘偽りで卓淳を亡ぼした。助け合う国として友好をむすぼうとしても、かえって後悔することになろう。聞くところによると、百済と安羅の国境に大きな河があり、要害の地であるという。敵の五城に対して、吾はここに六つの城を造ろうと思う。天皇に三千の兵を請うて、各城に五百人ずつ配し、わが兵士を合わせ加え、百済人に耕作させないようにして困らせたら、百済の久礼山の五城は、自ら兵を捨てて降伏するだろう。卓淳の国もまた興るだろう。倭から遣わされる兵士には、自分が衣服を給しよう。これが第一の作である。なお新羅が下韓に郡令・城主を置くことは、どうして天皇に違背することになろうか。わが願いとすることは、強敵(高句麗)を討つことである。およそ凶党(百済)は誰とでも連合することを考えるであろう。北敵(高句麗)は強大で、わが国は微弱である。もし南韓(下韓)に郡令・城主を置かなかったら、この強敵を防ぐことはできない。また百済を防ぐこともできない。それで百済を攻めて、任那の存在を図るのである。さもないと滅ぼされて天皇にお仕えすることもできなくなる。これが第二の作である。・・・。」と。
六年秋九月、新羅は丈六の仏像を造った。願文を作って「この功徳によって天皇がすぐれた徳を得られ、天皇の治められる諸国が、幸いをうけることを願いたい。また天下の一切衆生が、業苦を脱することを祈願して、お造り申し上げる」といった。
(4)倭への救援要請
十二年春三月、新羅の法興王は自国と百済・任那二国の兵を率いて、高麗を討ち、漢城を回復した。また軍を進めて平壌を討った。すべて六郡の地が回復された。
十三年五月、新羅・加羅・安羅は倭国に遣使し「高麗と百済と連合して、臣の国と任那を滅ぼそうと謀っています。救援軍を受けて不意を突きたいと思います。軍兵の多少についてはお任せします」と言った。詔して「今、新羅の王・安羅の王・加羅の王・倭府の臣らと共に使いを遣わして、申してきたことは聞き入れた。また任那と共に心を合わせ、力を専らにせよ。そうすれば、きっと上天の擁護の福を蒙り、天皇の霊威にあずかれるであろう」と言われた。
(5)仏教公伝
法興王は、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった。
十四年新羅は遣使して軍兵を乞うた。
内臣を使いとして新羅に遣わした。良馬二匹・諸木舟二隻・弓五十張・矢二千五百本を賜わった。
新羅は倭に遣使上表し「今年にわかに聞くところでは百済と高句麗が通謀し『新羅と任那はしきりに倭に赴いている。思うにこれは軍兵を請うて、わが国を討とうとしているのであろう。もし事実なら、国が滅ぼされることは遠からぬことである。まず倭の軍兵の来ないうちに、安羅を討ち取って倭の路を絶とう』といっています。願わくば天慈をもって、前軍後軍を遣わし、引続き救援をお願いします。派遣の軍がわが国に着いたら、衣粮の経費は臣が負担します。任那への場合も同様ですが、もし任那が堪ええない時は、臣が責任をもって、決して不足はさせません。何とぞ天慈をもって、速やかに代理を遣わして、任那をお鎮めください。またこちらの諸国は弓馬に不足しております。古来、天皇にお助けを頂いて強敵を防いできました。天慈をもって多くの弓馬を賜わりとうございます」といった。
新羅は倭に遣使上表し「新羅王と安羅にはべる倭の諸臣たち、任那の旱岐らが申し上げます。思いみれば百済は無道で、天皇を恐れず、高句麗と心を合わせて、海北の宮家を損ない滅ぼそうと思っています。十二月九日に、百済攻撃を開始しました。ただ百済のみならば、内臣が率いてきた兵だけで足りるでしょうが、今、高麗・百済の合同軍です。成功が難しいので、伏して願わくば、筑紫の島の辺りの諸軍士をも遣わして、臣の国を助けてください。また、任那を助ければ事は成功します。自分は軍士一万人を遣わして任那を助けます。今、事はまさに急です」といった。
(6)法興王の戦死
百済の将があって言った。「よろしくない。倭の天皇は任那のことで、しばしばわが国を責められた。ましてや新羅の滅亡を謀れば、後に憂えを残すことになる恐れがある」と。それで、中止した。
十六年二月新羅の王子は弟を倭国に遣わして奏上し「法興王は賊のため殺されました」と報じた。天皇は聞かれて深く悲しまれた。使者を遣わし、難波津(東郷池)に出迎えて慰問をされた。許勢の臣が「倭に留まることを望まれるか、あるいは本の国に向かわれますか」といった。蘇我稲目天皇が尋ねて「法興王は天道地理をさとって、名は四方に知られていた。永く平和を保ち、海西の諸国を統べて、千万年までも私に仕えるものと思っていたのに思いがけないことになってしまった。何かの咎があって、こんな禍を招いたのだろうか。今どんな方策で国を鎮められようか」と。王子は対えて「自分は、天性愚昧で大きな計を知らず、ましてや禍福の因るところや、国家の存亡についても分かりません」と。そこで蘇我稲目天皇は「むかし雄略天皇の御世に新羅が高麗に攻められて、累卵の危うきにあった。そのとき天皇は神祇伯に命じて、策を神々にお尋ねになった。祝者が『始め国を建てられた神を請い招いてお祈りし、亡びそうな国主を救えば、国が鎮まり、人々も安らぐであろう』といった。これによって神をお招きし、行って新羅を救われた。聞くところによるとあなたの国では、祖神を祀らないということですが、神の宮を修理し神霊を祭られたら、国は栄えるでしょう」といった。
(7)任那の滅亡
二十三年一月、百済は任那の宮家を討ち滅ぼした。
六月、詔して「百済は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道で、我が恩義に背き、宮家をつぶした。わが人民を傷つけ、国郡を損なった。百済は任那を攻め、人民を虐げた」といわれた。
七月一日、百済は使いを遣わして調をたてまつった。その使いは百済が任那を滅ぼしたと知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土に帰らなかった。倭人民同様に遇された。今、河内国・・・の百済人の先祖である。
(8)伊企儺の妻大葉子
百済が任那を攻めたときの様子を問責しようとして大将と副将をしゅっぱつさせた。任那に到り、家来を新羅に遣わしいくさの計画を打ち合わせさせた。百済はその計画を知り、急に大軍を動員しわざと敗北を重ねて降伏したいと乞うた。大将軍は、勝って軍を率い、新羅の軍営に入った。
百済は白旗を掲げ、武器を捨てて降伏してきた。副将は軍事のことをよく知らず、同じように白旗を上げて進んだ。すると百済の武将は「副将軍はいま降伏した」といって、軍を進めて撃破した。副将は軍を退却させ、野中に陣営を敷いた。副将と妾は百済の闘将に生け捕りにされた。
八月、天皇は大将軍を遣わし、数万の兵をもって高麗を討たせた。大将軍は新羅の計を用いて高麗を撃破した。大将軍は美女の媛と従女吾田子を蘇我稲目天皇に送った。天皇は二人の女を召しいれて、妻として軽の曲殿に住まわせた。
十一月百済は使いを遣わして、献上品と調とをたてまつった。使人は帰国を願わず、本国に帰らなかったのでわが国の人民同様に遇した。今、摂津国・・・の百済人の先祖である。
(9)難船の高麗使人
三十二年三月五日、坂田耳子郎君を使者とし百済に遣わし、任那の滅んだわけを問わせた。
四月、天皇は病に臥せられた。皇太子を呼び寄せ「お前は百済を討って、任那を封じ建てよ。またかってのごとく両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことはない」といわれた。
3 私見
(3)に「昔から百済は無道であり、嘘偽りで卓淳を亡ぼした」とある。
(5)に「思いみれば百済は無道で、天皇を恐れず、高句麗と心を合わせて、海北の宮家を損ない滅ぼそうと思っています」とある。
(7)に「詔して『百済は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道で、我が恩義に背き、宮家をつぶした。』といわれた」とある。
※ 「無道」という代名詞を3度も使われている国は新羅であろうか、百済であろうか。
日本書紀・武烈天皇・武烈の暴挙において「百済の末多王が無道を行い、民を苦しめた」とある。この文章は改ざんされていないと思われる。武烈天皇のころから百済は無道を行う国とされていた。
(3)に「およそ凶党(百済)は誰とでも連合することを考えるであろう」とある。
(4)に「新羅の法興王は自国と百済・任那二国の兵を率いて、高麗を討ち、漢城を回復した」とある。
(8)に「百済はその計画を知り、急に大軍を動員しわざと敗北を重ねて降伏したいと乞うた」とある。
※ 百済は六韜に基づき、最終的に倭国を乗っ取るためなら倭国の権力者にも近づき倭国に味方をする芝居もした。
もともと新羅の地は紀元前210年、秦国から徐福一行が来たので辰(秦)韓と呼んでいた。その後神武天皇の兄の稲飯命が斯蘆国(新羅の前身)を建国した。倭国は鳥取県中部であったから、倭国に行くには、海流を考慮すると、慶州に都があるのが一番良かった。人力の船でも1日余りで到着する。伽耶(加羅)は古くから新羅と雑居しており、同族であった。任那を広義と狭義に分ける必要はない。伽耶(加羅)は任那ではない。
任那とは最初から最後まで全羅南道の任那4県のことである。全羅南道の任那は卑弥呼や倭建命が三韓征伐をしてから百済が滅ぶまで存在した。その間百済は何度も任那を侵したが、その都度任那は新羅や倭国の応援によって失地を回復した。
日本書紀・継体天皇・任那4県の割譲は詐欺・賄賂に基づくものであり、倭国は割譲していない。新羅と倭国は任那4県を通って中国に行っていた。任那4県を百済に割譲すれば、新羅は中国に行くことができない。倭国から中国に行くのに長崎県・熊本県から船を出さなければならない。不便なことであり、新羅と倭国は任那4県を手放したりしていない。任那とは660年まで全羅南道の任那4県のことであった。
日本書紀・欽明天皇の段の任那とは任那四県のことであった。多数説は加羅の地を狭義の任那とし、任那とは加羅の地である、とする。新羅と接する地は加羅だから加羅を中心に取り上げて論じていた。その原因は藤原氏が新羅を百済と入れ替えているからである。倭国はいったん新羅によって任那四県から中国に行っていた。
宋書倭国伝では「百済までは陸路であった」とする。その百済は高句麗につくこともあった。対馬海流の関係でこのルートであった。このルートを確立したのは、卑弥呼と倭建命であった。神功皇后の三韓征伐に変えられている。
前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されている。任那とは全羅南道の任那4県のことである。任那4県があれば新羅は直接中国から仏教を導入することができる。新羅への仏教導入はこのルートであった。