「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

葛城は鳥取県中部(倭国)にあった

2021-06-09 15:23:43 | 序章

 葛城は鳥取県中部(倭国)にあった。

1 「高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城邑とした。」とある(日本書紀)。

 鳥取県北栄町曲の荒神神社
 鬼・土蜘蛛を荒ぶる神(荒神)と言っていたので、ここに土蜘蛛の家があった。土蜘蛛の家があったから蜘ヶ家山という。
 葛城邑は荒神(土蜘蛛=出雲神族)神社のある蜘ヶ家山の麓の曲集落であり、麓に葛城邑(曲集落)のあった山を葛城山(蜘ヶ家山)と呼ぶようになった。

2 第2代綏靖天皇の「葛城高岡宮」

 鳥取県北栄町曲の岡神社
 神武天皇の長男の多芸志耳は関金町耳で生まれ、湯梨浜町の長瀬高浜(多芸志)にいたが、神沼河耳は長男の多芸志耳を殺害して第2代天皇となった。第2代綏靖天皇の「葛城高岡宮」は北栄町の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社であった。

3 第5代孝昭天皇の皇居は葛城掖上宮(灘手神社)だが、葛城山の東の掖上は磐余邑であり4人の大王の皇居があったから掖上とは書かない。掖上宮の掖上は葛城山の西側のことである。ここに桜の木があり、花びらが葛城山(蜘ヶ家山)を越えて北栄町島の金繰溜池で船を浮かべていたところに飛んで行った。

 神武天皇は掖上のほほまの丘に立ちアキツがトナメをしているようだと言った。ここから穴沢小学校方面を見ると灘手の2本の尾根が接近してアキツがトナメをしているように見える。

4 蘇我馬子大王の磐余池辺双槻宮は鳥取県北栄町北条島にあった(別稿「蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった」を参照されたし)。蘇我馬子大王は「葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我・葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封ぜられた県といたしとうございます」といった。なぜそう言ったのかというと、蘇我氏の祖の蘇賀石河宿禰 は武内宿禰大王の3男であり、武内宿禰大王の皇居のあった北栄町原の元野神社は葛城山(蜘ヶ家山)の麓にあり、蘇賀石河宿禰 はここで育ったからである(別稿「第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった」を参照されたし)。

 

5 葛城長江襲津彦(応神天皇)は鳥取県北栄町原(葛城県)の生まれであり、武内宿禰大王は鳥取県北栄町原(葛城県)を本拠地(皇居)としていた。葛城長江襲津彦は13代武内宿禰大王の6男として蜘ヶ家山(葛城山)のふもとの北栄町原集落で育った。後に15代応神天皇となり倉吉市穴窪(軽島之明宮)と湯梨浜町小鹿谷(難波大隅宮=行宮)とに皇居を置いた。
 葛城長江襲津彦の「江」とは海岸部が陸地に入り組んだ地形で入江である。当時、倉吉市穴窪の周辺はそのようになっていた。奈良は内陸部で「長江」の文字はふさわしくないので、同じ読みの「長柄」としたが、今では「ながら」と発音する。

6 葛城皇子と言われていた天智は百済からの人質の豊璋であり、6歳で鳥取県北栄町由良の蘇我善徳大王のもとに来た(別稿「聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった」を参照されたし)。北栄町由良も葛城であった。蜘ヶ家山(葛城山)より西を葛城県としていた。

 


飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルにして建立された

2018-05-05 01:09:17 | 序章
 飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルにして建立された。

1 飛鳥寺(法興寺)「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より
 
 伽藍配置 一塔三金堂
 南北293m、東西は北辺216m、南辺260mの台形
 飛鳥寺の伽藍配置は、一塔三金堂をもつ「飛鳥寺式伽藍配置」とよばれ、その起源は清岩里廃寺(高句麗) や王興寺(百済)や皇龍寺(新羅) に求められる。
 ※ 飛鳥寺の伽藍配置は独特なもので、ほかに例がない。通説は、「一塔三金堂の伽藍配置形式をとる寺院は、わが国はもちろん、飛鳥寺の造営にしたがった工人たちの故国百済の旧都でも発見されていなかった」とする。しかし、NHKはBS歴史館で百済の王興寺を取り上げた。私は仏教は新羅から公伝された、という立場であるから、新羅にモデルを求めることになる。

2 清岩里廃寺(金剛寺) 「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より

 場所・地域 高句麗 平壌郊外、大同江の河岸と接する台地
 創建 478年
 規模 東西100m、南北150m
 伽藍形式 一塔(堂)三金堂
 中央に八角形の基壇があり、大型八角堂建築と推定される。八角の遺址が塔か否かが問題となるが、村田治郎は「八角基壇の一辺が10m余もある巨大さから推定すると、驚くべき高さの塔になるわけであって、当時の高句麗の木造技術ではたしてこれを造ることができたか否か疑わしく塔よりも八角堂と考え・・・八角堂を中心にして東西南北の四方にそれぞれ堂や門があつたと考えられる」と述べている。

3 皇龍寺址 「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より
 
 場所・地域  新羅 慶州の月城の東北
 創建 553年
 規模 創建当時は東西288m、南北284m
 伽藍形式 創建当時(553年)は一塔一金堂式。再建(584年)時は一塔三金堂式 
 皇龍寺はもともと一塔一金堂式伽藍配置であったが、丈六尊像が造成されて(574年)からは金堂の左右に小さな金堂を配置する一塔三金堂式伽藍配置に変わった(584年)。
 ※ 創建時(553年)の伽藍配置は一塔一金堂式であった。再建(584年)の伽藍配置は、金堂並列配置の一塔三金堂式である。問題は東・西建物であるが、僧房は別にあるので東西建築物は僧房ではない。三国遺事に584年に東西金堂を造った、とあるので東西建物は金堂であった。西金堂・東金堂を塔に近づけて塔の横に持ってくれば飛鳥寺(法興寺)の伽藍配置になる。

4 私見
 他人に建物の設計図を見せて、こんな建物を造ったらどうですか、と勧めるときに、これは150年前の建物だがこれを造って見られませんか、とは言わない。最新のモダンな建物を提示するのが普通である。
 法興寺(596年)の伽藍配置は独特で、1塔3金堂方式であった。このモデルとして百済の王興寺と高句麗の清岩里廃寺と新羅の皇龍寺廃寺が候補としてあげられている。清岩里廃寺の八角部分は大きすぎるため塔ではなく八角堂ではないか、とする見解がある。清岩里廃寺の中心は塔ではなく堂であり、1塔3金堂方式ではない。また、150年前の建築方式を示すこと自体が相手に失礼でもある。百済の王興寺はNHKでも取り上げられたが、東西金堂とされる建物は回廊部分であり1塔3金堂式ではない。
 その点、飛鳥寺(法興寺)(造営発願は587年)は皇龍寺の左右金堂再建(584年)の3年後であり、模型製作段階で左右金堂を下げて塔を挟むように配置することができる。法興寺の伽藍配置は皇龍寺をモデルに進化させた最新様式である。
 「元興寺縁起」には、「戊申(588)年に六人の僧、名は令照律師、弟子の惠忩、令威法師、弟子の惠勳、道厳法師、弟子の令契、それに恩卒首眞等四人の工人を送ってよこし、あわせて金堂の基本様式(模型)を奉った。今この寺にあるのがこれである」とある。金堂の基本様式(模型)はすでに金堂が塔を中心にして東西に配されていたものと思われる。1塔3金堂方式の伽藍配置は新羅から来た寺工が皇龍寺をモデルとして造ったものである。六人の僧と四人の工人のうち寺工だけが新羅から来たのではなく全員同じ新羅から来ている。新羅は倭国に仏教を公伝した国だから、新羅から倭国の仏教興隆のために仏教集団として来させられた、と考えるのが自然である。
 また、聡耳皇子が大々王に申し上げた。「昔、百済国に法師と工人を遣わすよう乞いました。これにはどう答えたらよいでしょうか」と。六人の僧と四人の工人は新羅から来ているので聡耳皇子が大々王に申し上げたのである。藤原氏の厳しい検閲の中で、六人の僧と四人の工人は新羅から来ていたことを後世に伝えようとしてそれとなく書き残したのである。
 新羅は倭国と兄弟国であり、法興寺(飛鳥寺)の名は新羅の法興王の名に因んで付けられた名であり、法興寺の伽藍配置は皇龍寺の伽藍配置をモデルに作成されたものである。皇龍寺は規模の面でも法興寺と似ている。寺工は新羅から来ているが一人だけ新羅から来たとは思われない。新羅から一団として来たものと思われるから、僧やほかの工人も同じく新羅から来ている。書物には百済から来た、と記されているが史実は新羅から来ていた。ここでも日本書紀は新羅を百済に入れ替えている。
 新羅の僧円光は毎年隋に行っていた。600年にも円光は隋に行っているから、倭国の遣隋使と同伴していた可能性がある。倭国の遣隋使は「国の改革のすべて(大国維新之化)を教えてもらう」ために蘇我馬子天皇と聖徳太子(蘇我入鹿)によって600年に隋に派遣された。その際信用のある円光と一緒ならば心強い。倭国の遣隋使と新羅の僧円光は任那(全羅南道)を通ったはずである。百済は600年(推古8年)に任那(全羅南道)を侵している。おそらく百済は円光や倭国の遣隋使が通るのに気が付いて襲ったものと思われる。百済はまるで追い剥ぎである。倭国の大軍が来るとすぐに白旗をあげるのであるが、倭軍が去るとまた任那を侵す。その繰り返しであった。8年後に裴世清たちは倭国に来る。
 仏教の導入について反対者が多く出たのは倭国だけではない。新羅でも貴族や群臣の反対が強かった。しかし、法興王は仏教を公認した(527年)。それまで、新羅も倭国も徐福が持ち込んだ道教を信仰していた。彼らがこぞって反対した。
※ 新羅の善徳女王(在位632年~647年)の諱は蘇我善徳天皇(在位626年~645年)の名に因んで付けられた可能性がある。

5 参考ー日本書紀(※以下は私見)
◎敏達12年(583年)、詔して「自分は任那を回復しようと思う。いま、百済(新羅)にいる達率日羅は賢くて勇気がある。自分は彼と計画を立てたい」といわれた。・・・。日羅は答えて「・・・そして有能な人物を百済に遣わして、その王をお召しになるとよいでしょう。来ないようでしたら、その太佐平か王子らを来させましょう。その後で任那の復興に協力的でない百済の罪を問われるのがよいでしょう」と。また奏上して「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・。逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」といった。
※日羅の話の中の「百済」は改ざんされていない。達率日羅は新羅出身者を推測させる。日本書紀は「日羅は百済出身」とするが、史実は、新羅出身と思われる。
◎崇峻元年(588年)、善信尼らは大臣(馬子)に語って「出家の途は、受戒することが根本であります。願わくば百済(新羅)に行って、受戒の法を学んできたいと思います」といった。この月、百済(新羅)の調使が来朝したので、大臣は使人に語って「この尼達をつれてお前の国に渡り、受戒の法をならわせて欲しい。終わったならば還らせるように」といった。使人は答えて「私共が国に帰って、まず国王(真平王)に申し上げましょう。それから出発させても遅くないでしょう」といった。
 法興寺の創建。この年百済(新羅)が使いに合わせて、僧3人らを遣わして、仏舎利を献上した。同時に仏舎利と僧6人と工人8人をたてまつった。蘇我馬子宿禰は百済(新羅)の僧たちに、受戒の法を請い、善信尼らを百済(新羅)の使いらにつけて、学問をさせるため発たせた。
※1日余りですぐに安全に帰ってこれるのは新羅である。この時代に仏教活動が盛んであったのは新羅である。すでに皇龍寺もできており善信尼らが受戒の法を学びに行く条件がそろっていたのは新羅であった。この行ったり来たりしている使人は新羅の使人である。
◎推古4年(596年)、法興寺が落成した。馬子大臣の長子善徳臣を寺司に任じた。この日から、慧慈、慧聡二人の僧が法興寺に住した。
※善徳は聖徳太子であり入鹿である。慧慈、慧聡の出身国は疑問である。
◎推古8年(600年)、新羅(百済)と任那(全羅南道)が戦った。この年、境部臣に大将軍を命ぜられ、穂積臣を副将軍とされた。1万あまりの兵を率いて、任那のために新羅(百済)を討つことになった。新羅(百済)を目指して船出した。新羅(百済)に着いて5つの城を攻略した。新羅(百済)は白旗をあげて、将軍の印の下に来たり、6つの城を割譲して、降伏を願い出た。
※この条で「新羅」とあるのはすべて「百済」である。600年に倭国の遣隋使と新羅の僧円光が隋に行くために任那(全羅南道)を通ったので百済は任那(全羅南道)を侵した。
◎敏達天皇12年(583年)、日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」と言っていた。推古17年(609年)、大宰府の長官が奏上して「百済僧10人俗人75人が、肥後国の葦北の港に停泊しています」といった。徳摩呂・竜の二人を返して百済人らにつけ、本国に送り付けた。対馬に着いて、修道者11人が皆在留したいと願った。それで上表をして滞留を許され飛鳥寺に住まわされた。その後皇極元年(641年)、百済の従者たちは「弟王子に当たる子の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが島流しになりました」といった。
※本当に島流しで倭国に流れ着いたのか、最初から欺くつもりで綿密に計画された謀略ではなかったのか。一般人の中にテロリストを忍び込ませていたのではないか、それも上手口をたたくテロリストを、と疑われる。

倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった

2018-05-04 05:01:47 | 序章
 倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった。

 ※以下は私見
1 公伝年をめぐる諸説(ウィキペディアより)
(1)日本書紀では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。
 この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされ、上表文を核とした書紀の記述の信憑性が大きく疑われている。
 伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年となることや、『大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたとする説があり、これも後世の作為を疑わせる論拠としている。また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる。
(2)538年(戊午)説
『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)においては、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年が有力と考えられた。現在は両書に共通する「戊午年」を以って538年とする説が有力である。

2 私見
 通説は、仏教は欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた、とする。このことを反論する者はいない。未だかってこのことに疑いを差し挟む者はいなかった。しかし、日本書紀の公伝年は改ざんされている。なぜだろうか。それは百済の聖明王は仏像を贈っておらず、仏像を贈ったのは新羅の法興王だからである。百済史官は日本書紀を作るにあたり、百済と新羅を入れ替えたから、新羅王とあったのも百済王にしなければならなかった。
 三国史記だと思われるがそこには「538年、法興王は、釈迦仏の金銅像一躯(一光三尊阿弥陀如来像)・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった」とあった。2年後(540年)法興王は百済によって殺害される。百済が538年に都を熊津から泗沘へ移したのは、任那・新羅を攻撃するためであり、倭国に仏教を公伝するために遷ったのではない。
 仏教公伝も百済の聖明王に直さなければならなかった。聖明王は552年に釈迦仏の金銅像一躯(一光三尊阿弥陀如来像)・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつったとし、法興王と同じく公伝の2年後(554年)に亡くなったとした。
 日本書紀には「仏教公伝は欽明天皇13年冬10月。聖明王の死は欽明天皇15年冬12月」(12月9日に新羅は百済攻撃を開始している。翌年2月に倭国に王子が行き王の死を報告しているので葬儀の期間も考えると王の死は前年12月中と思われる)とある。法興王は仏教を公伝した538年の2年後に亡くなっているので、聖明王が亡くなる2年前の552年に仏教公伝があったことにした。
 また聖明王の死は7月とされる。しかし、日本書紀では「聖明王の死は欽明天皇15年冬12月」であり7月ではない。史実は新羅による仏教公伝は538年10月であり、新羅の法興王の死は540年の12月であった。
 新羅において527年に仏教を公認した法興王が倭国に仏教を公伝したのは538年であった。2年後の540年に法興王は百済に殺害された。新羅に仏教が伝わったのは高句麗からではなく、新羅から直接中国に行くルート(全羅南道の任那を通るルート)があり、直接中国から新羅は仏教を導入している。法興王の時代に公認された(527年)後、新羅は南朝梁との交流もあり、国家主導で仏教振興策をとっていた。大規模な寺院跡が見つかるのは百済ではなく新羅である。新羅の皇龍寺の規模は東西288m、南北284m。仏国寺はさらに大規模であった。倉吉の大御堂廃寺の規模は東西は135m、南北は220mである。また、法興王の名は法興寺(規模は南北293m、東西は、北辺215m、南辺260mの台形)や法隆寺や法楽寺の名と似ており関連があるように思われる。特に日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)の名は新羅の法興王の名に因んでつけられたものと思われる。
 またウィキペディアは「次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされるなど、逼迫した状況にあり、新羅に対抗するため、さかんに倭に対して援軍を要求していた。百済が倭国へ仏教を伝えたのも、倭へ先進文化を伝えることで交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があった」とする。
 倭に援軍をさかんに要求したのは新羅である。大して負けてもいないのに白旗を掲げるのは、六韜に基づいた行動であり、権力者に近づくためである。百済出身の鎌足は六韜を暗記するほど愛読していた。高句麗や百済の行動パターンを見ても六韜に基づいて行動していることが判る。権力者に近づいておだててみたり、時として蜂や大蛇のように牙をむきだしたりと、六韜に基づく行動である。六韜は高句麗や百済のバイブルであった。

原古事記にあった任那とは全羅南道の任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)のことであった

2018-05-03 03:58:57 | 序章
 原古事記にあった任那とは全羅南道の任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)のことであった。

 原古事記には「百済が任那を滅ぼした」と書いてあった。日本書紀では新羅と百済を入れ替えている。不比等と百済史官は日本書紀の作成段階で「新羅が任那を滅ぼした」と書き換えた。
 宋書倭国伝では、中国に行くのに百済まで陸路を通った、とする。しかし、百済は高句麗につくこともあった。

1 日本書紀における任那(※以下は私見)
◎垂仁天皇2年の条には「先帝(崇神天皇)の御真木に因んで御真奴(ミマナ)と名付けられた」とある。
※「奴」とは北九州を「倭奴国」と言っており、「倭奴国」を意識して、全羅南道の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を任那(ミマナ)と名付けた。崇神天皇の兄弟である卑弥呼と倭建命が中国に行くためのルートとして確立した。日本書紀では神功皇后の三韓征伐に替えられている。
◎応神天皇7年(361年)百済人・任那人らが来て韓人池を造った。
※百済人は後の加筆と思われる。
◎応神天皇25年(379年)25年の条は『百済記』の引用である。
※神功皇后62年と重複する。この年襲津彦(応神天皇)は新羅に行った。
◎神功皇后9年(326年?)・新羅出兵において、「高麗、百済2国の王は陣の外に出て頭を下げて『今後は永く西蕃と称して、朝貢を絶やしません』といった。それで内官家屯倉を定めた」とある。
※神功皇后(卑弥呼と倭建命)は馬韓も平定した。おそらく年代はでたらめ。私見では卑弥呼と倭建命の三韓征伐は173年である。
◎神功皇后46年(361年)斯摩宿禰は卓淳国から百済にいった。
※百済は新羅・倭国を乗っ取るために高句麗が346年に建国した。建国から15年後に作戦を開始した。
◎神功皇后47年(362年)百済が初めて朝貢した。新羅人は百済と新羅の貢物を入れ替えた。
※最初に貢物を与え、おだてておいて、後で奪い取る六韜の戦術である。
◎神功皇后49年(364年)
※新羅再征とあるが、これは倭国ではなく高句麗と百済が卓淳国に集まり新羅を討ち破った。後ろにいたのは高句麗であった。百済の朝貢品を新羅が奪ったからというのは後の創作と思われる。
◎神功皇后52年(369年)百済は七枝刀などを奉った。
◎神功皇后62年(379年)新羅(百済)が朝貢しなかった。襲津彦を新羅(百済)に遣わしたが、新羅王(百済王)に美女2人を差し出された。
※六韜に基づく行為と思われる。
◎雄略天皇8年(463年)の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。
※「倭府行軍元帥」を書き換えたものと思われる。
◎雄略天皇9年(464年)、新羅(百済)討伐「狼のような荒い心があって、飽きると離れ去り、飢えると近づいてくる。王師をもって攻め討ち天罰を加えよ」といわれた。
※倭王武の官号より雄略天皇は、高句麗・百済と敵対していたものと思われる。不比等・百済史官は「百済」とあったのを「新羅」に書き換えている。
◎雄略天皇21年(476年)、「百済国(新羅国)は一族すでに亡んで、倉下にわずかに残っていたのを、天皇の御威光により、またその国(新羅国)を興した」といった。
※雄略天皇がまた百済国を興したのなら、百済は倭国に頭が上がらないはずだが。雄略天皇が興した国とは新羅国と思われる。反正、允恭、安康の時代、新羅は累卵の危うき状態になっていた。反正、允恭の帝紀・旧辞はヒントが見つからないくらい大幅に改ざんされている。
◎雄略天皇23年(479年)、「筑紫の安致臣・馬飼臣らは船軍を率いて高麗を討った」とある。
◎継体天皇6年(512年)の条は「任那四県二郡割譲事件」の記事である。
※賄賂、詐欺が混ざり完全な割譲ではなく後々争いの種になった。
◎継体天皇21年(527年)の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。
※倭の軍を踏みとどまらせるために、賄賂を贈ったのは百済である。
◎継体天皇23年(529年)、加羅国の多沙津(帯沙江)を百済がいただきたいといった。加羅の王は苦言を呈した。「新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の3つの城をとり、また北の境の5つの城もとった」とある。
※近江毛野の派遣の条は改ざん無しと思われる。「詔して新羅に勧め、南加羅・㖨己吞を再建させようとした」とある。※任那王が大伴大連金村に「・・・新羅は・・・」と言った「新羅」は原古事記では「百済」であった。新羅は多々羅・須那羅・和多・費智の4村を掠め取ったとするが、百済から取り返したと思われる。
◎継体天皇24年(530年)にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。冬10月調吉士は奏上して「・・・加羅を・・・」は「・・・任那を・・・」である。
◎継体天皇25年(531年)、百済本記には「高麗は安羅に至り、安羅王を殺した。また、倭の天皇・皇太子・皇子皆死んだ」と。
◎宣化天皇2年(537年)、天皇は新羅(百済)が任那に害を加えるので・・・任那を助けさせた。狭手彦はかの地に行って任那を鎮めまた百済(新羅)を救った。
◎欽明元年(540年)新羅(百済)が任那地方を併合した。
※この年、新羅の法興王が亡くなる。百済に殺害されたものと思われる。
◎欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。※百済(日本)が置いた府だから日本府という。それまでは「倭府」としていた。
◎欽明天皇23年(562年)春1月、「新羅(百済)は任那(全羅南道)の官家を打ち滅ぼした。-ある本に21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国、合わせて十国である」とある。
※京都の藤原氏は任那は全羅南道の任那と思われないように、あえて具体的に10国の名を挙げて疑いを差し挟まれないようにした。
◎推古天皇8年(600年)、「新羅(百済)と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。新羅王(百済王)は白旗をあげて、倭国の将軍の印の旗の下に来たり、降伏を願い出た。・・・しかし、新羅(百済)はまた任那を犯した」とある。
※ 六韜に基づいた戦術である。
◎推古天皇31年(623年) 新羅(百済)征討の再開「この年新羅(百済)が任那を討った。任那は新羅(百済)に属した。天皇は新羅(百済)を討とうとされた。中臣連国がいうのに「任那は内宮家であるのに、新羅(百済)が取ったのです。新羅(百済)を討ち任那を取り返しましょう」と。田中臣がいう。「そうではない。百済は度々豹変する国である。道路の区別さえも偽りがある。おおよそその言うところはみな信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」と。百済と任那に使いを遣わしこの事件について問わせた。・・・数万の兵を率いて新羅(百済)を討った。新羅(百済)国王は大群がやってくると聞き、恐れて手早に降伏を願い出た。将軍らは上奏した。天皇は許された。

2 私見
 全羅南道で5世紀後半から6世紀中葉にかけての11基の前方後円墳が発見された。累卵の危うきにあった新羅・任那を復興した雄略天皇のあと、任那4県の割譲(512年)以前から百済(新羅)が任那地方を併合した(540年)まで、百済が侵略を進めていた時期である。
 ウィキペディアは「任那日本府(倭府)とは、任那や加羅地域とその西隣の地域において支配権、軍事動員権および徴税権を有していた集団が、ヤマト王権と深い関連を持つ者達だった。ただしそれらは、ヤマト王権に臣従した在地豪族であって、ヤマト王権から派遣された官吏や軍人ではないという意見が有力である。ともあれ少なくとも軍事や外交を主とする倭国の機関があり、倭国は任那地域に権限と権益を有していたであろう」とする。
※541年に任那日本府とするのは任那を百済(日本)が占領したからである。540年に新羅の法興王は百済に殺害された。雄略天皇の段にも任那日本府とあるがこれも百済が占領していたからと思われる。
 中大兄皇子は任那を侵さないように百済から人質として6歳で倭国(鳥取県中部)に来ていた百済王武の王子「余豊璋」であり(631年)、中臣鎌足は641年に自称百済から島流しになって倭国に来た「翹岐」と思われる。「余豊璋」と「翹岐」は645年に倭国大王(蘇我入鹿天皇)を殺害した。

3 中国史料における任那
 広開土王碑文(414年建立) には、永楽10年(400年)条に「任那加羅」とある。宋書では438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の南斉書も併記を踏襲している。梁書は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
※私見
 広開土王碑文にある「任那加羅」は、「任那と加羅」の意味であり、宋書、南斉書、梁書における「任那、加羅」の併記も、「任那と加羅」の意味で別の地域である。任那は加羅ではない。ここにおける任那は「全羅南道の任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)」を意味していた。

4 倭五王の官号
 倭王らが、「宋」に朝貢して封ぜられた官号は、「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・ 倭国王」であり、高句麗、百済がない。
 ウィキペディアは「任那は金官国(及び金官国を中心とする諸国)。同じく加羅は大加羅(及び大加羅を中心とする諸国)。秦韓はかつての辰韓12国のうちいまだ新羅に併合されず残存していた諸国、例えば卓淳国や非自本国、啄国など。慕韓はかつての馬韓52国のうちいまだ百済に併合されず残存していた諸国、例えば百済に割譲された任那四県など、にそれぞれ該当する」とする。
 ※この中に高句麗と百済がない。当時倭国と敵対関係にあったのは高句麗と百済であった。高句麗と百済が含まれていないのは当然である。ここでも任那と加羅は別々にかいてあるが、加羅は弁韓=弁辰=伽耶、任那は全羅南道の任那4県であった。

5 私見
 日本書紀を制作したのは、不比等と百済史官であった。百済系2世の藤原不比等と亡命百済史官である。彼らは原古事記を見て百済の悪行を改ざんすることを考えた。自分の母国を悪く書かれていて、改ざん出来る立場にあるなら改ざんするのは愛国心である。母国を悪く書かれないために、新羅と入れ替えることを考えた。それが現在の日本書紀である。
 倭国は鳥取県中部にあり、新羅から人力船で出港しても1日余りで到着する。紀元前57年から新羅と倭国は兄弟国であった。加羅の地は弁韓=弁辰であり、加羅と辰韓(新羅)とは雑居し同族であった。
 任那は全羅南道にあったにもかかわらず、それを侵すのは百済しかいないことになるため任那は全羅南道ではなく、新羅の隣の加羅の地だと書き綴った。「百済」も「新羅」に直した。そして新羅が任那(加羅)を侵したと改ざんした。沢山、書き換えているので読む者は暗示にかけられる。だから、任那は最初から最後まで全羅南道にあった任那4県とするものはいなかった。中国史料の「翰苑」(660年)も「通典」(801年)も「太平御覧」(983年)も「冊府元亀」(1013年)も朝鮮の「三国史記」(1145年)も日本書紀に従って書かせているのでよけいに違うとは主張できなかった。

「倭人が新羅を攻撃した」とする「三国史記」と「伝承」は改ざんされている

2018-05-02 03:13:56 | 序章
 「倭人が新羅を攻撃した」とする「三国史記」と「伝承」は改ざんされている。

1 原古事記(712年)には新羅は倭国と兄弟国であり、百済は倭国の敵国であったと書かれていた。藤原氏は百済は良い国であり新羅は悪い国であったことにするため、原古事記に書かれていた新羅と百済を入れ替えて記紀を改ざんしたから倭国と新羅との関係も悪かったことにしなければならなかった。倭国と新羅は神武天皇が即位した時から兄弟国であったことになれば、新羅と百済を入れ替えたことが徒労に終わるからである。すべてを整合させるためには倭国と新羅の関係は悪かったことにする必要があった。そのために、原三国史記を改ざんし、新羅に伝承を創っていったのは統一新羅が滅んで(935年)からと思われる。

2 文献に残る「新羅に対する攻撃」
(1)3世紀までの倭国と新羅との関係(ウィキペディアより)
 「三国史記」によると、新羅建国時より日本による新羅への軍事的な侵攻が度々記述されている。
 紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王(稲飯命)の説得に応じて倭軍は撤退する。
 14年 倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。
 72年 倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島)に進入してきた。角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏を派遣したが勝てず、羽烏は戦死した「三国史記」。
 107年 倭国王帥升(孝安天皇)らが後漢の安帝へ生口160人を献じた「後漢書」。
 121年2月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した「三国史記」。
 123年3月に倭人と講和した「三国史記」。
 208年夏4月、倭人が国境を犯す「三国史記」。奈解王は将軍利音に反撃させた。
第11代助賁尼師今
 奈解尼師今の太子でもあった伊飡の昔于老を取り立てて、国防に当たらせた。
 232年4月に倭人が首都金城に攻め入った「三国史記」。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。
 233年5月、倭人が東部国境に侵入「三国史記」。
 233年7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。
 239年 倭王卑弥呼は魏の明帝へ男生口4人、女生口6人を献上した「魏志倭人伝」。
 243年 魏の少帝へ生口を献じた「魏志倭人伝」。
 245年10月、高句麗東川王の侵入を受け、昔于老が出て防戦したが、勝てずに馬頭柵(京畿道抱川市)まで退却したという。
 第12代王沾解尼師今の時代(在位:247年 ~261年)
 247年7月に、父の骨正を世神葛文王に追封した。
 248年2月には高句麗に対して講和を行い、百済との交戦に集中する政策を採った。
 248年 倭王台与は生口30人を魏へ献じた「魏志倭人伝」。
 255年9月には百済の侵攻に対し、一伐飡の翊宗が百済軍を槐谷(忠清北道槐山郡)で迎撃したが、百済軍によって殺されてしまった。続けて10月には百済は烽山(慶尚北道栄州市) 城に攻め込んできたが、よく守って降伏せずに済んだ。
 261年3月には百済古尓王は新羅に和親の使者を発したが、沾解尼師今はこれを黙殺した。「三国史記」。
(2)4世紀の倭国と新羅との関係(日本書紀・三国史記より)
 368年(応神天皇14年)、弓月君が新羅から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の人民が帰化を求めています。しかし百済人が拒んでいるので、みな百済国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、百済国の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった「日本書紀」。
 370年(応神天皇16年)、天皇は平群木菟宿禰、的戸田宿禰を任那に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと百済が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて百済を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて百済の国境に臨んだ。百済王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた「日本書紀」。
 372年4月、(百済か高句麗)人が新羅の一礼部に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った(三国史記)。
 377年、(百済か高句麗)兵が新羅の沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、(百済か高句麗)軍が攻略した(三国史記)。
 379年、(百済か高句麗)兵が新羅の長峯城を攻略した(三国史記)。また、新羅の沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、(百済か高句麗)に備えたという。
 391年 倭軍が百済、新羅(高句麗に占領されていた)を破り、高句麗と戦う(広開土王碑)。
 393年 (百済か高句麗)が攻めてきて金城を包囲し、五日間、囲みをとかなかった。

3 私見
(1) 紀元前50年、新羅に侵攻するのは倭国にいた準王一族(出雲神族)しか思い当たらない。紀元前50年は神武天皇が新羅の稲飯命と協力して倭国の準王一族を平定し初代倭国天皇として即位した紀元前60年の10年後であり、稲飯命が斯蘆国を建国した紀元前57年の7年後である。倭国の準王一族が反乱を起こし、鉄製の武器を造っていた新羅(斯蘆国)を攻撃したとしても不思議ではない。その後の「倭人」も準王一族と思われる。
 原三国史記には「倭人」とは書いてなかったはずである。「倭人」とは倭国にいた準王一族だから藤原氏は「倭人」という表現を使ったと思われる。
(2)208年以降の「倭人」は陸上から新羅を攻めているので、朝鮮半島に残っていた準王一族(百済)と思われる。
 倭姫命(卑弥呼)と倭健命はは三韓征伐(173年)をし、朝鮮半島の西から中国に行くために任那の領域(現在の全羅南道)を造った。国境とは百済と任那の国境と思われる。その後、百済と任那の国境は百済によって度々侵された。そこで捕らえられたのが生口と思われる。
 生口とは朝鮮半島で使われていた用語と思われる。「広開土王碑」に396年、百済が高句麗に生口(新羅か倭国の捕虜)を献上した記録がある。したがって、107年(160人)、239年(10人)、243年(?人)、248年(30人)に、中国に献上された生口(百済か高句麗の捕虜)は朝鮮半島で倭に捕らえられた捕虜と思われる。朝鮮半島に倭国に敵対する勢力がいた、ということである。その勢力が倭国と兄弟国の新羅を攻撃していた。原三国史記にはそのことが記載されていたはずである。それを「倭」に書き換えさせたのは、藤原氏である。その一族は藤原氏に関係の深い一族であったと思われる。それは、準王一族であり、百済と思われる。特に、248年に倭王台与が魏へ献じた生口30人は248年2月に新羅と百済との交戦で新羅に捕らえられた百済の捕虜と思われる。
 藤原氏は原古事記に書いてあった新羅と百済を入れ替えて「百済と倭国は仲が良く新羅と倭国は敵対していた」と改ざんした日本書紀を中国に献上した。弓月君の条も百済と新羅・任那と加羅を入れ替えたと思われる。
 372年以降の「倭」は「高句麗か百済」を書き換えたと思われる。但し、391年は改ざんされていないと思われる。
 朝鮮半島には原三国史記があり、日本書紀とは違う内容であった。藤原氏は百済出身であったから、新羅を悪者にするために、また、倭国と百済は仲が良かったとする日本書紀との整合性を図るため、「倭国が新羅を何度も攻撃した」と三国史記を改ざんさせた。
(3) 日羅は百済の任那(全羅南道)に対する度重なる侵犯をやめさせるために、蘇我馬子天皇に百済国王か百済王子を倭国に来させることを進言した(583年)。百済はこの時すでに倭国を乗っ取る計画を立てていたようである。蘇我馬子天皇は百済に対し、百済国王自らか百済王子を倭国に来させるように伝えたと思われる。百済王武は蘇我馬子天皇が騙されないことを知っていた(609年百済からの船)。蘇我馬子天皇が亡くなり蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の時代(626年~)になり、蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は人が良いことを百済に知らせる者がいた(630年の唐からの使いか)ので、百済王武は次男の豊璋(中大兄王子)と三男の塞上を倭国(鳥取県中部)に人質として行かせた(631年)。豊璋(中大兄王子)は6歳で鳥取県北栄町由良宿の由良宮に来た。豊璋(中大兄王子)は18歳まで大海人皇子(天武天皇)と同じように、鳥取県北栄町由良宿の由良宮(葛城)で育てられた。亡命百済人たちは中大兄王子のことを葛城(北栄町由良)王子といった。642年に百済から自称島流しになったという船が筑紫(宗像大社)に到着した。その中に鎌足(翹岐)などの百済の要人が乗っていた。鎌足(翹岐)は中大兄王子(豊璋)と奈良法興寺の蹴鞠の会で合流(643年)し、談山で倭国を乗っ取る(テロ)計画を立てた。倭国大王である蘇我入鹿天皇は可愛がってきた中大兄王子や藤原鎌足たちのテロによって殺害された(645年)。中大兄王子が豊璋であることを悟られないようにするために、現在、豊璋の詳しい情報(生没年不詳など)は消されている。
 亡命百済人たちは、原古事記(712年)を読んで、百済の悪行が多く書いてあるので、百済と新羅とを入れ替えることにした。そして、出来上がったのが日本書紀(720年)である。734年に亡命百済王朝(日本)は完全に倭国を乗っ取った。
(4) 旧唐書(945年)は日本と倭国は別種であると記載している。「旧唐書東夷伝」の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、日本は倭国の別種で、もともと小国であった日本(亡命百済王朝)が倭国(鳥取県中部)を併合した、と記述されている。新唐書(1060年)は日本書紀に基づいて書かれている。統一新羅が滅んで(935年)から京都の藤原氏は朝鮮半島に渡ることができるようになり、1060年までに中国に日本書紀を認めさせたと思われる。三国史記を日本書紀に合うように改ざんさせた時期は統一新羅が崩壊(935年)してからと思われる(1145年完成)。
(5) 亡命百済人の藤原氏は日本書紀を中国や朝鮮半島にも及ぼした。朝鮮半島では現三国史記が編纂されるまで、原三国史記は存在していたと思われる。1145年まで高句麗、百済、新羅の歴史書がなかったと考えるほうが不自然である。原三国史記を日本書紀に合わせて改ざんした歴史書が1145年に完成した現三国史記と思われる。朝鮮半島の歴史書は日本書紀に合うように改ざんされたが、新羅には多くの伝承も残っていた。太閤秀吉の朝鮮征伐(1592年~1598年)でも分かるように、藤原氏は新羅地域を軍事力をもって制圧している。倭国における八幡神社(四万四千社存在する)による伝承の改ざんと同じく新羅地域における伝承も改ざんしていったと思われる。
(6) 斯蘆国は紀元前57年、神武天皇の兄稲飯命により建国された。倭国は鳥取県中部であり、倭国と交流するのに一番良い場所である朝鮮半島南東部に新羅は建国された。新羅と倭国は建国時から兄弟国であった。
 新羅の善徳女王は倭国の蘇我善徳天皇と交流があり親しい関係であったと思われる。蘇我善徳天皇の皇子の天武天皇も新羅と友好関係を結んでいた。紀元前57年より紀元734年まで倭国と新羅は兄弟国であった。倭国天皇家が新羅を攻める理由はない。紀元前57年から734年までの新羅に対する倭国(倭人)の侵攻は藤原氏による改ざんであり、伝承も改ざんされたと思われる。
 

日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は入れ替えられている

2018-05-01 05:05:57 | 序章
日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は入れ替えられている

1 欽明天皇はおらず、この時の倭国天皇は蘇我稲目天皇であった。原文の「新羅」を日本書紀では「百済」に入れ替えているため、原文の「新羅王」も「百済王」と入れ替えた。百済の聖明王(在位523~554)は、原文では新羅の法興王(在位514~540)であった。
(1) 日本書紀も中国史料の「翰苑」(660年)も「通典」(801年)も「太平御覧」(983年)も「冊府元亀」(1013年)も朝鮮の「三国史記」(1145年)も「任那は新羅に滅ぼされた」と記している。
この記述は正しいか。
※私見
 任那(全羅南道の任那4県)は新羅と倭(鳥取県中部)が中国へ行くためまた新羅と倭(鳥取県中部)を守るために垂仁天皇(在位220年~248年頃)が名付けた地域である。新羅が任那(全羅南道の任那4県)を犯すことはない。
 「翰苑」は現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。太宰府天満宮は藤原氏の管理下にあり、藤原氏は自由に改ざんできる。「通典」は代宗の大暦元年(766年)から徳宗の貞元17年(801年)の三十余年をかけて編纂されたが、藤原朝廷の遣唐使が持ち込んだ日本書紀(720年成立)を参考にしたものと思われる。その後の「太平御覧」や「冊府元亀」も遣唐使が持ち込んだ日本書紀(720年成立)を参考にしたものと思われる。現在の三国史記も日本書紀に従っている。三国史記の原本は藤原氏によって焚書されたものと思われる。
 歴史書を改ざんし、原本を焚書にするのが好きな藤原氏である。日本書紀との辻褄を合わせるために、それが他国の歴史書であってもこれくらいの改ざんは平気でしている。「翰苑」も「通典」も「太平御覧」も「冊府元亀」も「三国史記」も史実とは違ったことを記しており、任那を滅ぼしたのは新羅ではなく百済である。
(2) 後漢書・弁辰伝は「弁辰と辰韓は雑居しており、城郭、衣服などいずれも同じで、言語と風俗は異なる。その族は背が高くて大きく、美しい髮、衣服は清楚である。刑罰法令は厳格。その国は倭に近い故に全身に刺青を施している者も少しいる」とする。
 南斉書・加羅國伝は「弁辰は辰韓に雑居し、城郭をも有する。衣服、住居は辰韓に同じ。言語、風俗は相似するが、祠に鬼神を祭祀するのは異なる。皆が家の西にかまどを置く。そこの瀆盧国は倭(任那)と境界を接する。十二国にも王がおり、身体は皆大きい。衣服は清潔、総髪である。また広い幅の細布を作る。刑罰における法俗は特に峻厳である」とする。
※私見
 南斉書・加羅國伝にある「倭」とは倭国が全羅南道に造った「任那」と思われる。
 弁辰と言い弁韓と言い、伽耶と言い加羅と言うのは、ほぼ同じ地域である。ほぼ、弁辰=弁韓=伽耶=加羅となる。弁辰(加羅)と辰韓(新羅)は雑居していたのであるから、新羅と加羅(伽耶)は紀元前210年の頃から同族である。
 任那という地域名は垂仁天皇(在位220年頃~248年頃)が新羅と倭国を守り中国に行く途中経路としての役割を与えて名付けた朝鮮半島南西部の任那四県の地域名である。任那は新羅と倭を守り中国に行く途中経路としての役割を与えられて名付けられた地域なので、新羅が任那を犯すことはない。
 日本書紀・欽明天皇23年(562年)春1月に「新羅(百済)は任那(全羅南道)の官家を打ち滅ぼした。-ある本に21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国、合わせて十国である」とある。
 京都の藤原氏は任那は全羅南道にあったと思われないように、あえて具体的に10国の名を挙げた。「任那とは加羅10国のことである」と、作り話を念押しして加筆した。皆この一文を信じて「任那とは加羅10国のことである」と思い込んでいる。
 任那とは、倭建命と倭姫命(卑弥呼)が三韓を訪れて中国に行くルートを創設した時から、660年に百済が滅んだ時まで全羅南道の任那4県であった。
 また、日本書紀は「新羅が任那を侵した」とするが、三国史記の原本にあったと思われる「百済が任那を侵した」文章を書き換えている。ことほど左様に日本書紀・欽明天皇の段は「新羅」と「百済」を入れ替えている。
(3) 百済は高句麗と同族の扶余族であり、六韜に基づいて4世紀(364年卓淳国で倭国への道順を尋ねた)から倭国と新羅を乗っ取ることを考えていた。それが成就したのは734年であった。卓淳国というのは、今日の大邱付近に存在した国である。卓淳国は慶州の西に在り慶州に入って来ようとするものを防ぐ役割があった。もともと新羅に属していた。百済が卓淳国に使者を派遣して、倭国との通交の仲介を要請した。346年に建国した百済にとっては建国後僅かに18年後のことであり、百済は倭国や新羅を乗っ取るために高句麗が建国したものとしか思われない。
 卓淳国は、この百済の要求に従って、倭の使者が卓淳国に来た時に、その使者を案内して百済に連れていき、国情を見せ、百済と倭国との正式交渉の端緒を作った。百済は364年卓淳国で倭国への道順を尋ね、367年に倭国に使者を送る。七支刀を贈ったのもこの頃である。382年には新羅は高句麗に乗っ取られていた(三国遺事)。そのときの倭国天皇は応神天皇(葛城長江襲津彦)(在位354年~394年)であった。百済にとって応神天皇(誉田別命)は最初に朝貢したときの天皇であり特別な天皇であった。倭国を乗っ取ってから百済は応神天皇(誉田別命)を八幡神社の祭神にした。これが史実であり、高句麗・百済と倭国・新羅との関係史はこれが基本である。これに反する歴史書は改ざんされている。
 百済の都は初めは漢江の流域の慰礼城であったが、371年に漢城(ソウル)に移り、その後たびたび遷都している。475年には南の錦江中流の熊津(公州)、さらに538年に新羅・倭国を乗っ取るために、下流の泗沘(しび)に移された。540年に新羅の法興王を殺害している。

2 日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は書き換えられている。
 書き換えられる前の文を再現してみる(抜粋)。参照したのは宇治谷訳日本書紀。
(1)法興王・任那復興の協議
 新羅の法興王は任那の旱岐らに語って、「倭の天皇の意志は、もっぱら任那の回復を図りたいということである。どんな策によって任那を再建できるだろうか」。任那の旱岐らが答えて「先に再三百済とは話し合いましたが、まだ返事もありません。・・・。任那は百済と国境を接していますので、恐れることは卓淳らと同じ滅亡の運命にさらされないかということです」
 法興王は「昔、わが先祖の世に安羅・加羅・卓淳の旱岐らが、親交を結んでいた。兄弟のようにして共に栄えることを願った。ところが百済に欺かれて、天皇の怒りをかい、任那からも恨まれるようになったのは私の過ちであった。
  ・・・。任那の境に百済を呼んで、話し合いに応ずる気があるかどうか尋ねよう。天皇への使いが帰らないうちに、百済が隙ををみて任那を侵すならば、自分が行って助けるだろう。お前らは、卓淳らの禍を繰り返すのを恐れるといったが、百済は自分の力が強くてできたわけではないのだ。かの㖨己呑は加羅と百済との境にあって、ひっきりなしに攻められ敗れた。任那も救いたすけられなかった。それで亡んだ。南加羅も亡んだ。また卓淳は上下が離れ離れで、国王自ら百済に内応した。それで亡んだ。
 昔、百済は高麗に助けを乞い、任那と新羅を攻めたけれども、勝てなかった。百済がどうして独力で任那を亡ぼすことが出来ようか。今自分がお前たちと力と心をあわせ、天皇の威力に頼れば任那はきっと復興できる」といった。
(2)百済謀略の戒め
 法興王は任那に対して「・・・。百済が甘言を用いて策略することは、天下周知である。うっかり信用して、すでに計略にはまっていた。計略にはまれば、国を失い、家を亡ぼし身は虜となる。聞くところでは任那と百済が策を決定する際も、土壇場で蜂や大蛇のような本性を表わすと、世の人はいう。・・・。」と。
 法興王はまた「倭の諸卿は長く任那の国にあって、百済に交わり、百済の実情はご存知である。任那を侵し、倭の力をはばもうとするのは久しいもので、今年のみではない。だがあえて百済が動いていないのは、近くは新羅を警戒し、遠くは天皇を恐れてである。朝廷を巧みにあやつり、偽って任那と親しくしている。百済が任那の倭府に取り入っているのは、まだ任那を取れないから、偽装しているのである。卿らが甘言を信じて偽りにのせられ、任那国を亡ぼし、天皇を辱めたてまつることのないよう充分慎んで欺かれないように」といった。
(3)任那復興の計画
 法興王は語っていった。「任那とわが新羅とは、古来子弟のような間柄であった。今、印岐弥が百済を討ち、さらに新羅をも討とうとしている。また好んで百済の偽りに騙されているのである。昔から百済は無道であり、嘘偽りで卓淳を亡ぼした。助け合う国として友好をむすぼうとしても、かえって後悔することになろう。聞くところによると、百済と安羅の国境に大きな河があり、要害の地であるという。敵の五城に対して、吾はここに六つの城を造ろうと思う。天皇に三千の兵を請うて、各城に五百人ずつ配し、わが兵士を合わせ加え、百済人に耕作させないようにして困らせたら、百済の久礼山の五城は、自ら兵を捨てて降伏するだろう。卓淳の国もまた興るだろう。倭から遣わされる兵士には、自分が衣服を給しよう。これが第一の作である。なお新羅が下韓に郡令・城主を置くことは、どうして天皇に違背することになろうか。わが願いとすることは、強敵(高句麗)を討つことである。およそ凶党(百済)は誰とでも連合することを考えるであろう。北敵(高句麗)は強大で、わが国は微弱である。もし南韓(下韓)に郡令・城主を置かなかったら、この強敵を防ぐことはできない。また百済を防ぐこともできない。それで百済を攻めて、任那の存在を図るのである。さもないと滅ぼされて天皇にお仕えすることもできなくなる。これが第二の作である。・・・。」と。
 六年秋九月、新羅は丈六の仏像を造った。願文を作って「この功徳によって天皇がすぐれた徳を得られ、天皇の治められる諸国が、幸いをうけることを願いたい。また天下の一切衆生が、業苦を脱することを祈願して、お造り申し上げる」といった。
(4)倭への救援要請
 十二年春三月、新羅の法興王は自国と百済・任那二国の兵を率いて、高麗を討ち、漢城を回復した。また軍を進めて平壌を討った。すべて六郡の地が回復された。
 十三年五月、新羅・加羅・安羅は倭国に遣使し「高麗と百済と連合して、臣の国と任那を滅ぼそうと謀っています。救援軍を受けて不意を突きたいと思います。軍兵の多少についてはお任せします」と言った。詔して「今、新羅の王・安羅の王・加羅の王・倭府の臣らと共に使いを遣わして、申してきたことは聞き入れた。また任那と共に心を合わせ、力を専らにせよ。そうすれば、きっと上天の擁護の福を蒙り、天皇の霊威にあずかれるであろう」と言われた。
(5)仏教公伝
 法興王は、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった。
 十四年新羅は遣使して軍兵を乞うた。
 内臣を使いとして新羅に遣わした。良馬二匹・諸木舟二隻・弓五十張・矢二千五百本を賜わった。
 新羅は倭に遣使上表し「今年にわかに聞くところでは百済と高句麗が通謀し『新羅と任那はしきりに倭に赴いている。思うにこれは軍兵を請うて、わが国を討とうとしているのであろう。もし事実なら、国が滅ぼされることは遠からぬことである。まず倭の軍兵の来ないうちに、安羅を討ち取って倭の路を絶とう』といっています。願わくば天慈をもって、前軍後軍を遣わし、引続き救援をお願いします。派遣の軍がわが国に着いたら、衣粮の経費は臣が負担します。任那への場合も同様ですが、もし任那が堪ええない時は、臣が責任をもって、決して不足はさせません。何とぞ天慈をもって、速やかに代理を遣わして、任那をお鎮めください。またこちらの諸国は弓馬に不足しております。古来、天皇にお助けを頂いて強敵を防いできました。天慈をもって多くの弓馬を賜わりとうございます」といった。
 新羅は倭に遣使上表し「新羅王と安羅にはべる倭の諸臣たち、任那の旱岐らが申し上げます。思いみれば百済は無道で、天皇を恐れず、高句麗と心を合わせて、海北の宮家を損ない滅ぼそうと思っています。十二月九日に、百済攻撃を開始しました。ただ百済のみならば、内臣が率いてきた兵だけで足りるでしょうが、今、高麗・百済の合同軍です。成功が難しいので、伏して願わくば、筑紫の島の辺りの諸軍士をも遣わして、臣の国を助けてください。また、任那を助ければ事は成功します。自分は軍士一万人を遣わして任那を助けます。今、事はまさに急です」といった。
(6)法興王の戦死
 百済の将があって言った。「よろしくない。倭の天皇は任那のことで、しばしばわが国を責められた。ましてや新羅の滅亡を謀れば、後に憂えを残すことになる恐れがある」と。それで、中止した。
 十六年二月新羅の王子は弟を倭国に遣わして奏上し「法興王は賊のため殺されました」と報じた。天皇は聞かれて深く悲しまれた。使者を遣わし、難波津(東郷池)に出迎えて慰問をされた。許勢の臣が「倭に留まることを望まれるか、あるいは本の国に向かわれますか」といった。蘇我稲目天皇が尋ねて「法興王は天道地理をさとって、名は四方に知られていた。永く平和を保ち、海西の諸国を統べて、千万年までも私に仕えるものと思っていたのに思いがけないことになってしまった。何かの咎があって、こんな禍を招いたのだろうか。今どんな方策で国を鎮められようか」と。王子は対えて「自分は、天性愚昧で大きな計を知らず、ましてや禍福の因るところや、国家の存亡についても分かりません」と。そこで蘇我稲目天皇は「むかし雄略天皇の御世に新羅が高麗に攻められて、累卵の危うきにあった。そのとき天皇は神祇伯に命じて、策を神々にお尋ねになった。祝者が『始め国を建てられた神を請い招いてお祈りし、亡びそうな国主を救えば、国が鎮まり、人々も安らぐであろう』といった。これによって神をお招きし、行って新羅を救われた。聞くところによるとあなたの国では、祖神を祀らないということですが、神の宮を修理し神霊を祭られたら、国は栄えるでしょう」といった。
(7)任那の滅亡
 二十三年一月、百済は任那の宮家を討ち滅ぼした。
 六月、詔して「百済は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道で、我が恩義に背き、宮家をつぶした。わが人民を傷つけ、国郡を損なった。百済は任那を攻め、人民を虐げた」といわれた。
 七月一日、百済は使いを遣わして調をたてまつった。その使いは百済が任那を滅ぼしたと知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土に帰らなかった。倭人民同様に遇された。今、河内国・・・の百済人の先祖である。
(8)伊企儺の妻大葉子
 百済が任那を攻めたときの様子を問責しようとして大将と副将をしゅっぱつさせた。任那に到り、家来を新羅に遣わしいくさの計画を打ち合わせさせた。百済はその計画を知り、急に大軍を動員しわざと敗北を重ねて降伏したいと乞うた。大将軍は、勝って軍を率い、新羅の軍営に入った。
 百済は白旗を掲げ、武器を捨てて降伏してきた。副将は軍事のことをよく知らず、同じように白旗を上げて進んだ。すると百済の武将は「副将軍はいま降伏した」といって、軍を進めて撃破した。副将は軍を退却させ、野中に陣営を敷いた。副将と妾は百済の闘将に生け捕りにされた。 
 八月、天皇は大将軍を遣わし、数万の兵をもって高麗を討たせた。大将軍は新羅の計を用いて高麗を撃破した。大将軍は美女の媛と従女吾田子を蘇我稲目天皇に送った。天皇は二人の女を召しいれて、妻として軽の曲殿に住まわせた。
 十一月百済は使いを遣わして、献上品と調とをたてまつった。使人は帰国を願わず、本国に帰らなかったのでわが国の人民同様に遇した。今、摂津国・・・の百済人の先祖である。
(9)難船の高麗使人
 三十二年三月五日、坂田耳子郎君を使者とし百済に遣わし、任那の滅んだわけを問わせた。
 四月、天皇は病に臥せられた。皇太子を呼び寄せ「お前は百済を討って、任那を封じ建てよ。またかってのごとく両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことはない」といわれた。

3 私見
(3)に「昔から百済は無道であり、嘘偽りで卓淳を亡ぼした」とある。
(5)に「思いみれば百済は無道で、天皇を恐れず、高句麗と心を合わせて、海北の宮家を損ない滅ぼそうと思っています」とある。
(7)に「詔して『百済は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道で、我が恩義に背き、宮家をつぶした。』といわれた」とある。
※ 「無道」という代名詞を3度も使われている国は新羅であろうか、百済であろうか。
 日本書紀・武烈天皇・武烈の暴挙において「百済の末多王が無道を行い、民を苦しめた」とある。この文章は改ざんされていないと思われる。武烈天皇のころから百済は無道を行う国とされていた。
(3)に「およそ凶党(百済)は誰とでも連合することを考えるであろう」とある。
(4)に「新羅の法興王は自国と百済・任那二国の兵を率いて、高麗を討ち、漢城を回復した」とある。
(8)に「百済はその計画を知り、急に大軍を動員しわざと敗北を重ねて降伏したいと乞うた」とある。
※ 百済は六韜に基づき、最終的に倭国を乗っ取るためなら倭国の権力者にも近づき倭国に味方をする芝居もした。
 もともと新羅の地は紀元前210年、秦国から徐福一行が来たので辰(秦)韓と呼んでいた。その後神武天皇の兄の稲飯命が斯蘆国(新羅の前身)を建国した。倭国は鳥取県中部であったから、倭国に行くには、海流を考慮すると、慶州に都があるのが一番良かった。人力の船でも1日余りで到着する。伽耶(加羅)は古くから新羅と雑居しており、同族であった。任那を広義と狭義に分ける必要はない。伽耶(加羅)は任那ではない。
 任那とは最初から最後まで全羅南道の任那4県のことである。全羅南道の任那は卑弥呼や倭建命が三韓征伐をしてから百済が滅ぶまで存在した。その間百済は何度も任那を侵したが、その都度任那は新羅や倭国の応援によって失地を回復した。
 日本書紀・継体天皇・任那4県の割譲は詐欺・賄賂に基づくものであり、倭国は割譲していない。新羅と倭国は任那4県を通って中国に行っていた。任那4県を百済に割譲すれば、新羅は中国に行くことができない。倭国から中国に行くのに長崎県・熊本県から船を出さなければならない。不便なことであり、新羅と倭国は任那4県を手放したりしていない。任那とは660年まで全羅南道の任那4県のことであった。
 日本書紀・欽明天皇の段の任那とは任那四県のことであった。多数説は加羅の地を狭義の任那とし、任那とは加羅の地である、とする。新羅と接する地は加羅だから加羅を中心に取り上げて論じていた。その原因は藤原氏が新羅を百済と入れ替えているからである。倭国はいったん新羅によって任那四県から中国に行っていた。
 宋書倭国伝では「百済までは陸路であった」とする。その百済は高句麗につくこともあった。対馬海流の関係でこのルートであった。このルートを確立したのは、卑弥呼と倭建命であった。神功皇后の三韓征伐に変えられている。
 前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されている。任那とは全羅南道の任那4県のことである。任那4県があれば新羅は直接中国から仏教を導入することができる。新羅への仏教導入はこのルートであった。

日本書紀の改ざん創作(特に百済と新羅を入れ替えている)について

2018-04-30 04:58:28 | 序章

1 日本書紀は「百済と倭は盟友関係にあった」とするが、倭と盟友関係にあったのは新羅であった。倭は間違いなく鳥取県中部なので、鳥取県中部に一番近いところに新羅は建国された。
 新羅は紀元前57年に、稲飯命が建国し、その後も、天之日矛が新羅から但馬国に渡来し新羅の第4代王として但馬国から脱解が行く、など、倭国や但馬国と親戚である。天武天皇のころまで倭国と新羅は兄弟国として強い信頼関係にあった。以前にも書いたように、百済と高句麗は兄弟国であり、強奪することに喜びを感じる民族である。倭国歴史書原本には百済が強奪や妨害をしたと書いてあった。日本書紀を創作するときに、百済史官は倭国歴史書原本を見ながら百済と新羅を入れ替えた。
 そもそも、自国の歴史書を造るのに、「一書に曰く」などという他所から来た者が書くような無責任な記述はしない。天武天皇の命によって造られた歴史書は原古事記である。原本はもっと膨大であったはずである。その古事記にしても藤原氏のもとに在った400年の間に、日本書紀に合うように(整合するように)改ざん・改悪・削除している。
 九州の方は日本書紀によって宮崎県を天孫降臨の地にしてもらったなどの関係で、日本書紀の信奉者が多いが、そのよってたつ日本書紀がそもそも史実と違うことが書いてある、ということである。

2 日本書紀の中で改ざん創作(特に百済と新羅を入れ替えている)されていると思われる部分を挙げてみました。元の記述はカッコ内であった。
イ   垂仁紀2年是歳条  
 崇神天皇の65年に朝貢してきた任那の使いが国へ帰るというので、絹織物を持たせたら途中で新羅(百済)に奪われた。別の伝承では「崇神天皇の御世に、大加羅国(全羅南道4県の任那)の王子・都怒我阿羅斯等が来朝した。垂仁天皇の御世になって国へ帰るというので、天皇は「大加羅国(全羅南道4県の任那)は崇神天皇の名をとって任那とせよ。とおっしゃられて絹織物を持たせた。新羅人(百済人)がそれを奪った」という。
※ 百済は金品を強奪することに喜びを感じる扶余族である。絹織物を奪ったのは百済である。
ロ   神功皇后摂政紀47年4月条
 百済と新羅が同時に朝貢してきた。新羅(百済)の貢物は多く、百済(新羅)の貢物は少なかったのでわけを聞くと、日本(倭)に来る途中で百済(新羅)の貢物を新羅(百済)が奪ったという。皇后と誉田別尊は使いをお出しになって新羅(百済)を責めた。
ハ   応神紀14年是歳条
 秦氏の祖先といわれる弓月君が来朝して言うには、「百済(北方)から多くの人民を連れてきたが、新羅(百済)の妨害にあって加羅国(全羅南道の任那)から日本(倭)に来ることが出来ない。」と言う。
※ 百済から出港して北九州に上陸すれば新羅は妨害することはできない。そうではなく、渡来ルートは百済→全羅南道の任那→加羅国→新羅から船で倭国(鳥取県中部)であっった。弓月君を妨害したのは百済であった。
ニ   応神紀16年8月条
 天皇は、「襲津彦が帰ってこないのは、新羅(百済)が妨害しているからである。」として、新たに将軍を加羅(全羅南道の任那)に派遣した。将軍は新羅(百済)との国境まで進軍して新羅(百済)を防ぎ、弓月が連れてきた百済(北方)の人民を連れ、襲津彦と共に日本(倭)に戻った。
※ ハで述べたように弓月君を妨害していたのは百済である。
ホ   仁徳紀53年5月条
 新羅(百済)が朝貢しないので兵を出して討った。
※ 盟友関係にある新羅を倭国が討つことはない。
ヘ   雄略紀7年是歳条
 天皇は、吉備の臣田狭を任那国司に任命し、田狭が留守の間に彼の妻をお召し上げになった。田狭は恨んで新羅(百済)に通じた。その頃、新羅(百済)と日本(倭)は不和であった。天皇は新羅(百済)討伐に田狭の子を差し向けられた。
※ 盟友関係にある新羅を倭国が討つことはない。百済は高句麗につく事があったので、そのときは倭国と不和になった。
ト   雄略紀9年3月条
 天皇は、「新羅(百済)は今まで朝貢を欠かした事がなかったのに、自分が王となってからは高麗の我が国への朝貢を妨害し、百済(新羅)を攻め、我が国への朝貢もしなくなった。新羅(百済)を討て。」とおっしゃって、4人の将軍を派遣された。
※ 高句麗百済が本当に朝貢していたなら自国から船を出し、北部九州に上陸すれば、新羅は妨害できない。新羅と百済を入れ替えているからこのような矛盾が生じる。

3 その他 
◎応神天皇7年(361年)百済人・任那人らが来て韓人池を造った。
※ 百済人の元は新羅人であった。百済人は扶余族だから労働力の提供はしない。
◎応神天皇25年(379年)25年の条は『百済記』の引用である。
※ 神功皇后62年と重複する。この年襲津彦(応神天皇)は新羅に行った。
◎神功皇后9年(326年?)・新羅出兵において、「高麗、百済2国の王は陣の外に出て頭を下げて『今後は永く西蕃と称して、朝貢を絶やしません』といった。それで内官家屯倉を定めた」とある。
※ 新羅を攻撃した事自体作り話だから、この部分は信用できない。高麗、百済2国は妨害する国なので攻撃したはずである。
◎神功皇后46年(361年)斯摩宿禰は卓淳国から百済にいった。
※ 百済は新羅・倭国を乗っ取るために高句麗が346年に建国した。建国から15年後に作戦を開始した。
◎神功皇后47年(362年)百済が初めて朝貢した。新羅人は百済と新羅の貢物を入れ替えた。
※ 最初に貢物を与え、おだてておいて、後で奪い取る六韜の戦術である。
◎神功皇后49年(364年)
※ 新羅再征とあるが、これは倭国ではなく高句麗と百済が卓淳国に集まり新羅を討ち破った。後ろにいたのは高句麗であった。百済の朝貢品を新羅が奪ったからというのは後の創作と思われる。
◎神功皇后52年(369年)百済は七枝刀などを奉った。
◎神功皇后62年(379年)新羅(百済)が朝貢しなかった。襲津彦を新羅(百済)に遣わしたが、新羅王(百済王)に美女2人を差し出された。
※ 六韜に基づく行為と思われる。
◎雄略天皇8年(463年)の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。
※ 「倭府行軍元帥」を書き換えたものと思われる。日本(百済)という国号は669年に天智が近江で考えた国号である。遡って使用している。
◎雄略天皇9年(464年)、新羅(百済)討伐「狼のような荒い心があって、飽きると離れ去り、飢えると近づいてくる。王師をもって攻め討ち天罰を加えよ」といわれた。
※ 倭王武の官号より雄略天皇は、高句麗・百済と敵対していた。不比等・百済史官は「百済」とあったのを「新羅」に書き換えている。雄略が再興した国は新羅であった。百済の攻撃によって累卵の危うき状態になっていた国は新羅であった。
◎雄略天皇21年(476年)、「百済国(新羅国)は一族すでに亡んで、倉下にわずかに残っていたのを、天皇の御威光により、またその国(新羅国)を興した」といった。
※ 雄略天皇がまた百済国を興したのなら、百済は倭国に頭が上がらないはずだが。雄略天皇が興した国とは新羅国であった。反正、允恭、安康の時代、新羅は累卵の危うき状態になっていた。反正、允恭の帝紀・旧辞はヒントが見つからないくらい大幅に改ざんされている。
◎雄略天皇23年(479年)、「筑紫の安致臣・馬飼臣らは船軍を率いて高麗を討った」とある。
※ ここは改ざんされていないと思われる。
◎継体天皇21年(527年)の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。
※ 倭の軍を踏みとどまらせるために、賄賂を贈ったのは百済である。賄賂を贈るのは六韜に基づく行為である。
◎継体天皇23年(529年)、加羅国の多沙津(帯沙江)を百済がいただきたいといった。加羅の王は苦言を呈した。「新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の3つの城をとり、また北の境の5つの城もとった」とある。
※ 近江毛野の派遣の条は改ざん無しと思われる。「詔して新羅に勧め、南加羅・㖨己吞を再建させようとした」とある。
※ 任那王が大伴大連金村に「・・・新羅は・・・」と言った「新羅」は原古事記では「百済」であった。新羅は多々羅・須那羅・和多・費智の4村を掠め取ったとするが、百済から取り返したと思われる。
◎継体天皇24年(530年)にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。
※ 冬10月調吉士は奏上して「・・・加羅を・・・」は「・・・任那を・・・」である。
◎継体天皇25年(531年)、百済本記には「高麗は安羅に至り、安羅王を殺した。また、倭の天皇・皇太子・皇子皆死んだ」と。
※ 倭国の王はこの頃、戦の最前線で戦っていた。倭国王は戦死することがよくあった。
◎欽明天皇の段。
※ 欽明天皇の段は百済と新羅の入れ替えが特に多い。欽明天皇は百済王であり、この時の倭国王は蘇我稲目大王であった。原文の「新羅」を日本書紀では「百済」に入れ替えているため、原文の「新羅王」も「百済王」と入れ替えた。百済の聖明王(在位523~554)は、原文では新羅の法興王(在位514~540)であった。詳しくは別稿「日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は入れ替えられている」を参照されたし。

4 私見
 日本書紀を制作したのは、不比等と百済史官であった。百済系2世の藤原不比等と亡命百済史官である。彼らは原古事記を見て百済の悪行を改ざんすることを考えた。自分の母国を悪く書かれていて、改ざん出来る立場にあるなら改ざんするのは人間の本能である。母国を悪く書かれないために、新羅と入れ替えることを考えた。それが現在の日本書紀である。
 倭国は鳥取県中部にあり、新羅から人力船で出港しても1日余りで到着する。紀元前57年から新羅と倭国は兄弟国(盟友関係)であった。


日本書紀にある泊瀬山は奈良の初瀬山ではなく鳥取県倉吉市の打吹山である

2018-04-29 04:27:14 | 序章
 
 日本書紀・嶋王(武寧王)誕生において「6年春2月4日、天皇は泊瀬の小野に遊ばれた。山野の地形をご覧になり、深く感慨をもようされ歌われた。泊瀬の山は、体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい。何とも言えず美しい。そこで名づけて道小野といった」とある。

1  奈良県桜井市の初瀬山について
 雄略天皇の歌った泊瀬山は奈良では桜井市長谷寺の裏にある初瀬山であるとする。
奈良県桜井市の初瀬山(はせやまと言ったりはつせやまと言ったりいい加減である)。
 ある方は「真北から30度ほど東を見ると、龍王山(585m)、その支峰の穴師山(409m)、龍王山に連なる巻向山(565m)、巻向山の支峰である三輪山(467m)がある。その奥にあるのは初瀬山だと思う」とされる。
 また「泊瀬山は固有の山の名ではなく、桜井市初瀬を囲む山々のことである」とする方もいる。
※ 私見
 桜井市長谷寺の裏にある初瀬山は人気がない。私もどれが初瀬の山なのかわからなかった。このような山を雄略天皇がわざわざ歌に詠むはずはない。山の体勢など全く分からない。本当の泊瀬(長谷)の山は鳥取県倉吉市の打吹山と思われる。
 「泊瀬の山は体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい」とする山は倉吉市の打吹山であった。遠くに見えるのは蒜山(高天原)でありその向こうは吉備国である。藤原氏は湯梨浜町羽衣石にあった羽衣伝説をこちらに持ってきて「打吹山」と名付けた。天皇がいたことを隠すためである。倉吉も石上神宮(倉)にあった武器が良(吉)かったので「倉吉」と名付けた。
 2  長谷寺について(ウィキペディアより)
(1) 奈良県桜井市の長谷寺(はせでら)(全国長谷寺の総本山)
 長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。
(2) 鳥取県倉吉市の長谷寺 (ちょうこくじ)
「伯耆民談記」等に伝える寺伝によれば、奈良時代の養老5年(721年)、法道を開山として創建されたという。当初は長谷(ながたに)村(現・倉吉市長谷、長谷寺の西方)にあり、後に現在地に移されたという。草創の詳しい事情や中世までの沿革は判然としないが、中世には禅宗寺院であった。堂には重要文化財に指定の厨子内に秘仏の本尊木造十一面観音菩薩坐像を安置する。
 3  私見
 奈良県桜井市では「はせでら」と言い、鳥取県倉吉市では「ちょうこくじ」と読ませる。「伯耆民談記」は信用できるので、創建の詳しい事情は判然としなくとも721年の創建は間違いないものと思われる。総本山のほうが創建が新しいのは嘘になってしまうから、寺伝で686年の創建の伝承を作った。倉吉の長谷寺は「ちょうこくじ」と読ませて別の寺のようにしているが、十一面観音菩薩坐像を本尊にしているので同じ系列の寺として作っているはずである。創建時は「はせでら」といっていたと思われる。
 藤原氏は桜井市の一帯を日本書紀にある「泊瀬」のテーマパークとした。泊瀬朝倉宮も造らなければならなかった。白山神社をその宮跡とした。ウィキペディアには「その所在地は考古学的には確定していない。宮の場所については古くから2つの説があり、『帝王編年記』などは磐坂谷(桜井市岩坂)、『大和志』などは天の森(桜井市黒崎)とするが、立地条件などから、どちらの場所も宮の所在地としては疑問視されている。黒崎の白山神社境内にも「泊瀬朝倉宮伝承地」の碑がある。」とある。
 桜井市岩坂である。
 白山神社である。
 白山神社にある案内板「が立地的に見て、宮を営むのに適地ではない」とある。
  私は、立地条件(葛城山や久米川や長谷山の登り口の存在、長谷寺は打吹山の中腹にあること)などから、泊瀬朝倉宮跡を倉吉市長谷寺の地に比定している。藤原氏はそれを隠すために読み方を変えさせたり、寺伝で創建年を古くしたりしている。つじつま合わせ(整合)をしているが、最後に泊瀬の山は造ることができなかった。
 初瀬から少し下った出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑を造った。
 また長谷寺の近くに一言主が見送ってくれた長谷山口坐神社を造った。由緒では「長谷山」の「口」神社ではなく、「長谷」の「山口」神社という、とする。苦しい説明である。
 これらはみな倭国(鳥取県中部)を乗っ取ってから藤原氏が造った「泊瀬(初瀬)」というテーマパークである。泊瀬(長谷)の本物は鳥取県倉吉市中心市街地であった。

師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった

2018-04-28 04:47:43 | 序章
 師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった。


1 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。・・・。石上神宮に納めた。ある説によると、五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部など合わせて十種の品部とものみやつこらを、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に遷した」とある。
 この川上宮と忍坂邑はどこにあるのか。
※ 私見
 大正2年まで川上集落にあった新宮神社の住所は鳥取県東伯郡東郷村大字川上字鍛冶屋谷であった。河上という者をおよびになり、川上集落の鍛冶屋谷で太刀一千口を造らせられたものと思われる。楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部などは舎人であり湯梨浜町舎人地区にいた。川上宮は鳥取県湯梨浜町川上であったと思われる。
 川上宮から石上神宮に太刀一千口を遷するのに、東郷池はまだ海面が高く大平山の千坂まで行くことはできない。川上宮からいったん南の片柴集落まで行ったものと思われる。波関峠を越える坂が忍坂であった。鳥取県三朝町片柴集落が忍坂邑と思われる。

2 出雲王国王家の子孫という富當雄氏にインタビューした内容(吉田大洋著「謎の出雲帝国」より)
 第三派は、神武一族であり九州より攻め入ってきた。
 彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。まことに陰険であり、残酷であった。王の長髄彦は傷つき、倭(鳥取県中部)を神武にゆずって出雲は退いた。王は出雲で亡くなった。長髄彦(準王一族)は出雲出身であり、出雲の王であった。
 神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。我々の反乱を防ぐためでもあった。
(1)日本書紀・神武天皇・道臣命の密命と歌
 「(既に敵は撃破したのですが)残りの敵がまだ多くて、その数が解りませんでした。そこで密かに道臣命に命じました。『お前は大來目部を引き連れて、大室を忍坂邑に作り、そこで宴会を盛大に催して、敵を誘い寄せて討ち取れ』 。道臣命は密命を受けて、忍坂を掘って室を立てて、勇猛な兵士を選んで、敵兵を混ざって座りました。そして陰で命じました。『酒酣の後、わたしは立ち上がり、歌を歌う。お前たちは、私の声を聞いたらすぐにいっせいに敵を刺せ』 。座る場所に座って酒盛りしました。敵は密命を知らず、心のままに、ほしいままに酔いました。 そして道臣命は立ち、歌を歌いました。
 忍坂の大室に沢山の人が入っている。 沢山の人が来ているが、強い強い来目の兵士が頭椎や石椎で討ち倒すぞ
 味方の兵は、この歌を聞き、一斉に頭椎の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。皇軍は大いに喜び、天を仰いで笑った」とある。
(2)日本書紀・神武天皇・兄磯城・弟磯城
 「弟磯城が申し上げるのに『わが兄の兄磯城は、天神の御子がおいでになったと聞いて、八十梟帥を集めて、武器を整え決戦をしようとしています。速やかに準備をすべきです』と。
・・・。また、兄磯城の軍がいて、磐余邑に満ちていた。敵の拠点はみな要害の地である。そのため、道は絶えふさがれて通るべきところがなかった。・・・。男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄・兄磯城らを斬った。十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが、なかなか勝つことができなかった」とある。
※ 私見
 道臣命は忍坂邑(三朝町片柴集落)の大室で和解すると見せかけて酒を飲ませて多くの出雲神族(準王一族)を殺した。同じ三徳川の下流の山田(ヤマタ)集落でも素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した。神武天皇は、同じ三徳川の素戔嗚の八岐大蛇退治にヒントを得て多くの出雲神族(準王一族)に酒を飲ませて殺したと思われる。
 兄磯城と弟磯城は同族である。兄磯城は皇軍に斬られた。その後皇軍は長髄彦を討つことになった。長髄彦は出雲出身であり、出雲神族(準王一族)の王であった。兄磯城と弟磯城も出雲神族(準王一族)であった。
 神武天皇は論功行賞で弟磯城を磯城(師木)の県主とされた。弟磯城(師木県主)は出雲神族(準王一族)であり東郷池(師木津)の波延の地に住んだ。富當雄氏は「神武から数代の王は、反乱を防ぐため出雲の王家の娘を妻に迎えた」とする。師木県主の娘が出雲の王家の娘と思われる。

3 初代天皇から第4代天皇までの系譜
(1)初代神武天皇
(古事記)妻(比売多多良伊須気余理比売)の父は三輪の大物主。妻の母は、三島湟咋の娘の勢夜陀多良比売。
(日本書紀)妻(媛蹈鞴五十鈴媛命)の父は事代主。妻の母は、三島溝橛耳神の娘の玉櫛媛。
(2)第2代綏靖天皇
(古事記)母は、伊須気余理比売。妻は師木県主の先祖(始祖弟磯城の娘?)である河俣毘売。
(日本書紀)母は事代主の長女媛蹈鞴五十鈴媛命。妻は事代主の次女の五十鈴依姫。
 第一の一書では「磯城県主の娘の川派媛(かわまたひめ)」とある。
(3)第3代安寧天皇
(古事記)母は、河俣毘売。妻は河俣毘売の兄である県主の波延(ハエ)の娘の阿久斗比売。
その子に常根津日子伊呂泥命、大倭日子鋤友命、師木津日子命。師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある。
(日本書紀)母は五十鈴依姫。妻は事代主の孫の渟名底仲媛命。
(4)第4代懿徳天皇
(古事記)母は、阿久斗比売。妻は師木の県主(県主は姓)の先祖である賦登麻和訶比売命(またの名は飯日比売命)。
(日本書紀)母は事代主の孫の渟名底仲媛命。妻は息石耳命の娘の天豊津媛命。
※ 私見
(1)神武天皇の2番目の妻の父は古事記は大物主だとするが、京都で暇を持て余していた藤原氏による改ざんである。大物主は天忍穂耳であり出雲神族ではない。「矢の姿になって云々」は作り話である。
 日本書紀は事代主とする。古事記の大物主(天忍穂耳)とするよりはましだが事代主も大国主の子(?)なので出雲神族(準王一族)ではないはずである。それとも葦原中津国に一緒に住んでいたので、便宜上、大国主の子としただけで実際は出雲神族(準王一族)であったのだろうか。兄磯城・弟磯城(磯城県主)の先祖であってもおかしくないのは百八十神(出雲神族も含む)と一緒に葦原中津国から磯城の近く(倉吉市福庭)に退いていた事代主である。
(2) 古事記では第2代天皇から第4代天皇まで師木県主の娘を天皇に嫁がせている。日本書紀には第一の一書以外磯城県主は出てこない。日本書紀では、事代主が出てくる。しかし事代主の娘や孫ならばその天皇の母親か祖母の年代になってしまい、現実的ではない。古事記の師木県主の娘が史実であったと思われる。師木県主とは師木県の首長というような役職名であり、姓はその住んでいた地域の名に因んでハエ(波延・葉江・蠅)、と名付けたと思われる。
 日本書紀・神武天皇・橿原即位において「天皇は論功行賞を行われた。・・・。弟磯城(名は黒速)を磯城の県主とされた」とある。初代師木県主は神武天皇と戦った兄磯城の弟の弟磯城であった。兄磯城は準王一族(出雲神族)だから、弟磯城も準王一族(出雲神族)である。古事記の初代天皇から第4代天皇までの系譜のほうが「神武から数代の王は、反乱を防ぐため、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とする出雲王国王家の子孫の富當雄氏のインタビュー内容に合致する。
(3) 古事記では河俣毘売の系譜を判らなくしているが、日本書紀第一の一書では「川派媛(かわまたひめ)は磯城県主の娘」とするのでこちらが正しいと思われる。河俣毘売は磯城県主の始祖(弟磯城)の娘に比定すると年代も無理なくつながる。河俣毘売の父の初代師木県主(弟磯城)に波延(はえ)と名付けたのは、東郷池に波延(はえ)という波が延びる地域があって、そこに住んでいたからと思われる。
 当時の東郷池は今より海面が高かったので、東郷池に入ってきた波が陸地まで延びるような場所が想定できる。そこが波延(はえ)の地であったと思われる。湯梨浜町長和田(ナゴウタ)集落・北山古墳・野花(ノキョウ)集落のあたりは東郷池と海との出入口が正面にあり、海からの波がまっすぐに延びて来ていたものと思われる。長和田(ナゴウタ)の奥にハナミ(埴見)という集落があるが、このハナミ(波)も波に関係した地名と思われる。
 ハエとは波延・葉江・蠅とも書くが同じである。古事記では「師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある」とする。「・・・」は藤原氏の挿入と思われる。藤原氏は準王一族(出雲神族)のいたところを聖地とし、記紀に登場させている。
 第7代孝霊天皇の皇女の百襲媛は湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)で育った。百襲媛の母親の蠅(はえ)伊呂泥と蠅伊呂杼は出雲神族(準王一族)の系譜であり、孝霊天皇は蠅伊呂泥と蠅伊呂杼を湯梨浜町宮内の東郷池対岸の波延(はえ)の地から娶ったと思われる。卑弥呼の母親は倭国大乱の敵方(出雲神族)の出身であったので、のちに共立された。

難波津とは東郷池であり、難波の柏の渡りも東郷池にあった

2018-04-27 02:46:04 | 序章
難波津とは東郷池であり、難波の柏の渡りも東郷池にあった
 
1  古事記・応神・天之日矛において「天之日矛は夫婦喧嘩をしたため妻は母の国に行くといって船で難波にきて、そこにとどまった。天之日矛はあとを追いかけて難波に行こうとしたが難波の海峡の神が、遮りとめて入れようとしなかった。しかたなしにそこから戻って、多遅摩の国に船を泊めた」とある。
 もしこの難波が大阪にあったのならば大阪で断られてまた船で但馬まで行ったということである。大阪から関門海峡まで帰って日本海に回って但馬まで行ったということである。
 新羅から関門海峡まで来ることだけでも対馬海流に逆らうことになり大変である。神功皇后でも失敗して引き返したことがあったようである。神功皇后たちの御艦は流されて、沖島に着いたものと思われる。東風が無いと東に流されて難しいようである。神功皇后の伝承として残っている。それ以来、沖島に供え物を置くようになった。
  難波は東郷池のことであった。長和田より西は真っすぐな波が来ていたが、橋津が波を遮るため北山古墳より東は複雑な波が来ていた。東郷池の長瀬高浜(タギシ)には大国主の頃から沖を通る船を監視していた。出雲大社は監視塔であった。天之日矛は長瀬高浜にいた海峡の神に遮り止められて入れなかった。妻から連絡が入っていたものと思われる。天之日矛はそのまま海流に乗って但馬まで行った。これが無理のない解釈である。時代は記紀の記載より数代前の第7代孝霊天皇の頃ではないかと思われる。

 「謎の出雲帝国」では、天日矛は出雲族と倭国大乱を戦っているので、弥生時代後期には渡来していた。倭国大乱は孝霊天皇の時代である。孝霊天皇は出雲族を鬼と呼んでいた。

2  古事記には「仁徳天皇(大雀の命)は難波高津宮で天下を治めた」とある。
 難波高津宮は鳥取県湯梨浜町の松崎神社と思われる。第13代の武内宿禰天皇は北栄町原にいたが縄文海退により葦原中津国には大陸からの船が入ってこれないようになったので武内宿禰天皇の皇子である第14代仁徳天皇と第15代応神天皇は東郷池に移った。

 
 この神社に来るまでの道は、道教の橋のようにクランクになっている。
 
高津である。大阪の難波高津宮とよく似ている高津である。
 難波の枕詞は「押し照るや」である。古事記の仁徳天皇記の「押し照るや 難波の崎よ」が初出である。意味は「一面に照り輝く」である。入江の水面が陽光を受けて一面にキラキラと照り輝く様子、それが「押し照るや」の枕詞を生んだ。
 松崎神社に上がる途中で「水面が陽光を受けて一面にキラキラと照り輝く様子」を写したもの。もっと高いところにある松崎神社に上がれば広くキラキラと照り輝く東郷池全体が見えたはずである。現在は木で見えないが当時は木が植えてなかったと思われる。大伴家持も赴任地の鳥取から東郷池の難波宮に来て歌を詠んだ。

3  日本書紀・推古天皇・遣隋使において「客たちは難波津に泊った。この日飾船三十艘で客人を江口に迎えて、新しき館に入らせた」とある。 
 客というのは、隋から「大国維新の化」(国の文化とインフラ)を教えるためにやってきた裴世清たちである。遣隋使である小野妹子の帰国と一緒に来日した。 
 蘇我馬子天皇は父の蘇我稲目大王の磯城島金刺宮のあった東郷池の龍島に新しい迎賓館を建てていた。その後、裴世清たちは北栄町島の蘇我馬子大王の皇居に招かれた。曲に後宮があった。
 
 
 
 
 

シキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる

2018-04-26 03:54:56 | 序章
 シキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる。

1 古事記における第2代天皇、第3代天皇、第5代天皇の帝紀(欠史8代であり、藤原氏は8代の旧辞を消したため安心してそれほど改ざんはしていないと思われる)
第2代 綏靖天皇
 神沼河耳天皇 皇居は葛城高岡宮。
第3代 安寧天皇
 師木津彦玉手看天皇 皇居は片塩浮孔宮。
第5代 孝昭天皇 
 御真津日子訶恵志泥天皇 皇居は葛城掖上宮。

2 第2代天皇が葛城山(鳥取県北栄町)に高岡宮(曲の岡神社)を築いているので葛城地方は葛城山(蜘ヶ家山)と日向(四王寺山と葦原中津国)と思われる。師木地方もこの近くにあるはずである。

3 第3代天皇の皇居である片塩浮孔宮の「片塩」とは塩分濃度が半分の海に面した汽水池(津)の存在を窺わせる。その汽水池(津)のことを師木津と言っていたと思われる。第3代天皇の「師木津」は第5代天皇の「御真津」と対応して「師木の津」と読め、「師木にある津」と読める。

4 第5代天皇の皇居である葛城掖上宮は葛城地方にあり、御真津彦の「御真津」は葦原中津国(鳥取県北栄町)にあった津(橘の花の形をしていた)を表すものと思われる。師木津はもう一つの津である東の東郷池(柏葉の形をしていた)が候補に挙がる。師木津とはこの当時海との出入口が広く塩分濃度が高かったと思われる東郷池と思われる。

5 古事記・雄略・白い犬
 雄略天皇が出かけて国の中を眺望すると、屋根の上に高く鰹魚木をつけて作った家があった。天皇は「あの鰹魚木をあげて屋根を作った家は、誰の家か?」と尋ねたので、側に仕えている者が「志幾(シキ)の大県主の家でございます。」と答えた、とある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じである。東郷池の近くに長瀬高浜遺跡があるが、そこから鰹魚木をあげて屋根を作った家の埴輪が発掘された。
入母屋式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃
 四注式家形埴輪  鰹魚木をのせている  紀元450年頃
 これらは志幾(シキ)の大県主の家を模して作った埴輪と思われる。
 鰹魚木をのせている家形埴輪は他府県でも出土しているが、近くに津のある遺跡は長瀬高浜遺跡だけである。東郷池が師木津であり、東郷池周辺が師木であったと思われる。

6 鰹木をあげて屋根を作った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(シキの候補)
(1)長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町) 海抜10m 海まで1km
(2)今城塚古墳(大阪府高槻市) 海抜32m 海まで24km 
(3)赤堀茶臼山古墳(群馬県伊勢崎市) 海抜135m 海まで100km
(4)岡山南遺跡(大阪府四条畷市)  海抜36m 海まで17km
(5)宮山古墳(奈良県御所市)  海抜130m 海まで24km
※ 私見
 鰹木をあげて屋根を作った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(志幾の候補)は長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外にも他府県にある。しかし、第3代天皇の「師木津」の諱より、師木の中には津があるものと思われる。長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外の遺跡・古墳はいずれも船の出入りできる津(湾)の近くにはない。(1)の長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)は津(東郷池)のそばにある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じであり東郷池周辺のことと思われる。雄略天皇の皇居は鳥取県倉吉市打吹山の長谷寺にあったが、古事記・雄略・白い犬の舞台は鳥取県湯梨浜町東郷池周辺であった。難波津も東郷池のことであり、河内は倉吉市鴨河内のことと思われる。
 古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺であった。


古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町の東郷池周辺であった

2018-04-25 04:57:55 | 序章

古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町の東郷池周辺であった


1  欠史8代というが、鳥取県中部に実在した。第2代天皇は北栄町曲の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社(葛城高岡宮)に皇居があった。第3代天皇は湯梨浜町橋津観音堂に皇居があった。第4代天皇は倉吉市小田山に皇居があった。第5代天皇は倉吉市穴沢の灘手神社に皇居があった。第6代天皇は北栄町大島(室秋津島)に皇居があったが、朝鮮半島で捕らえた160人の生口(青銅器文化の一族)を中国皇帝に差し出した。第7代天皇は皇子や皇女と一緒に全国の青銅器文化の一族を平定した。第8代・第9代・第10代天皇は第7代天皇の皇子であり、卑弥呼は第7代天皇の皇女である。第7代天皇の黒田庵戸宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった。宮内遺跡で弥生時代後期(倭国大乱の時代)の日本一長い鉄刀が見つかっている。奈良の黒田庵戸宮はシキとされたところにある。鳥取県の東郷池周辺をシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)と言っていた。本当の黒田庵戸宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった。

2  第3代天皇と第5代天皇の諡号と皇居(古事記による)
(1)第3代安寧天皇 
諡号は、師木津日子玉手見命
皇居は、片塩浮穴宮
(2)第5代孝昭天皇
諡号は、御真津日子訶恵志泥命
皇居は、葛城掖上宮

3 古事記の第3代天皇と第5代天皇の帝紀は、旧辞を削除しているので、藤原氏は安心してそれほど改ざんしていないと思われる。  
  日本書紀は原古事記の読みに似た発音の漢字をあてているだけなので日本書紀の漢字の意味を探ろうとすれば、間違いを犯すことになる。例えば第5代天皇の諡号は古事記では「御真津」とするが日本書紀では「観松」とする。「観松」に意味はないのであって「御真津」の発音を「観松」という漢字に置き換えただけである。
 「御真」とは御真木や任那(御真奴)と同じ表現であって「本当の」という意味である。似かよったものがもう一つあることを前提とする。例えば、御真津(葦原中津国)は師木津に対応するし、御真木(津山)は木国(鳥取県智頭町)に対応するし、御真奴(朝鮮半島全羅南道の任那)は倭奴(北九州)に対応する。天孫が降臨して平定した葦原の中津(鳥取県北栄町)のことを指している。
 「御真津」にしろ「師木津」にしろ、船が出入りできる津(湾)であることを意味する。第3代天皇と第5代天皇の時代、海面は今より4mくらい高く、「御真津」「師木津」の比定地は現在の海抜4mくらいの地域で、海岸近くのはずである。御真津は「橘」の形に似ており、師木津は「柏」の形に似ていた。シキ(師木)とは津につく形容詞と思われるから、シキ(師木)の中に津があった。師木津とは鳥取県湯梨浜町の東郷池と思われる。海抜4mに海面があった時代の東郷池は柏葉の形に似ている。
 第3代安寧天皇の皇居は、片塩浮穴宮であり、師木津(東郷池)周辺にあったものと思われる。師木津は海抜4mに海面があった時代の塩分濃度の濃い地域(片塩)であり橋津・南谷地域と思われる。橋津観音堂の石段の登り口の横には穴があり、稗田阿礼は特徴を書き残していた。

4  古事記・雄略・白い犬
  雄略天皇が出かけて国の中を眺望すると、屋根の上に高く鰹木をつけて作った家があった。雄略天皇は「あの鰹木をあげて屋根を作った家は、誰の家か?」と尋ねたので、側に仕えている者が「志幾の大県主の家でございます。」と答えた、とある。

5. 鰹木をあげて屋根を造った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(シキの候補)
(1)長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町) 海抜10m 海まで1km
(2)今城塚古墳(大阪府高槻市) 海抜32m 海まで24km 
(3)赤堀茶臼山古墳(群馬県伊勢崎市) 海抜135m 海まで100km
(4)岡山南遺跡(大阪府四条畷市)  海抜36m 海まで17km
(5)宮山古墳(奈良県御所市)  海抜130m 海まで24km
 鰹木をあげて屋根を造った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(志幾の候補)は長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外にもあるが、いずれも船の出入りできる津(湾)の近くではない。長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)は東郷池(津)のそばにある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じであり東郷池周辺のことである。古事記・雄略・白い犬の舞台は東郷池周辺であった。難波・河内の地名は鳥取県中部にあったが、大阪に持っていき、鳥取県中部の難波・河内の地名は消した。
 古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺である。


銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作ったのは殷王朝末裔の準王一族であった

2018-04-23 05:36:09 | 序章
銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作ったのは殷王朝末裔の準王一族であった

1 準王については、三国志魏略(260年頃)に「その子や親が国(辰国)に居留し、韓氏の姓を僭称する。準王は海中にあり、朝鮮とは互いに往来した。その後、絶滅した。」とあり、後漢書弁辰伝(432年)に「初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。後に箕準の家系は滅絶。馬韓人が再び辰王になる。」とある。
 準王が馬韓を攻めたのは紀元前195年のことであった。魏略には「準王は海中にあり」と記述されているが、海中とは対岸という意味であり、列島に渡ったということである。準王一族は数千人(後漢書)であり、多くが列島に渡ったものと思われる。朝鮮半島と行き来した。その後絶滅したとあるのは、ヤマト王権に平定されたことを魏略の筆者は知っていたからと思われる。

2 銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈は瀬戸内海を中心に広がっている。高地性集落も瀬戸内海を中心に広がっている。これは先住民が青銅器文化の一族を避けて、集落を高地に造ったからと思われる。
 最近の年代測定では一番古い銅鐸で紀元前190年頃とする。紀元前194年に列島に渡って来た殷王朝の末裔・準王一族が銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈をつくったと解するのが正しいと思われる。列島に銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作った一族の候補は準王の一族の他は見つからない。ヤマト王権の銅製品は銅鏡だけである。
 ヤマト王権は準王一族と神武天皇のときから敵対してきたが、第7代孝霊天皇のときに皇子の倭建命や崇神天皇、皇女の卑弥呼の活躍で全国を平定することができた。ただし、東国にいた青銅器文化の一族(蝦夷)は東北に逃げていて平定できなかった。蝦夷(青銅器文化の一族)は縄文人でもなければ、アイヌ人でもない、東北に逃げていった殷王朝の末裔準王の一族である。

3 日本書紀・景行25年・において「武内宿禰を遣わして、北陸と東方の諸国の地形、あるいは人民の有様を視察させられた」。景行27年武内宿禰は東国から帰って申し上げるのに、「東国のいなかの中に日高見国があります。その国の人は男も女も、髪を椎のような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらすべて蝦夷と言います。また、土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」とある。
 武内宿禰は大臣ではなく皇太子のときであった。のちに第13代天皇となる。私見では在位280年~320年(古墳時代前期)である。原古事記には、入の沢遺跡が焼打ちにあったので、視察に行ったと書いてあった。「攻略するとよいでしょう」は百済史官による挿入である。倭国天皇が百済王に仕えるという構成をとる。
 日本書紀・景行40年・倭建命の再征・において・天皇は倭建命を征夷の将軍に任ぜられ、「かの東夷は性狂暴で、凌辱も恥じず村に長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。・・・どうか深謀遠慮をもって、良くない者をこらしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わずおのずから従うようにさせよ。ことばを考えて暴ぶる神を鎮まらせ、あるいは武を振って姦鬼を打払え」といわれた、とある。
 倭建命がこのとき任じられたのは征夷の将軍ではなく第9代天皇であった。倭建命は第12代天皇の皇子ではないが、青銅器文化の一族(蝦夷)がどういう一族か知るのに役立つ。生け贄の風習のあった殷王朝の末裔である。倭建命と姉の倭姫命(卑弥呼)は一緒に巡行していた。稚日女命(卑弥呼)が岩手県の永岡神社に祀られているので、倭建命と倭姫命(卑弥呼)はここまで来ている。永岡神社の30kmほど手前に宮城県の入の沢遺跡がある。

4 平成27年7月29日付読売新聞に、大和王権と続縄文・交流と軋轢と題して「宮城県栗原市の入の沢遺跡で発見された古墳時代前期(4世紀)の集落跡が、考古学者の関心を集めている。銅鏡や装身具などの出土品が大和王権とのつながりを示すとともに、丘陵上に深い溝を巡らせて防御を固めた構造は、比較的平和に共存していたと考えられていた王権と続縄文文化の間に、厳しい緊張があったことを示す可能性があるからだ。」とある。
 銅鏡・鉄製品・勾玉・管玉・ガラス玉などの遺物より、この遺跡は倭王権の遺跡である。大和王権が敵対していた一族(続縄文と表現)とは、土着の縄文人やアイヌ人ではなく、東北に逃げていた殷王朝末裔の準王一族(蝦夷)であった。

初期ヤマト朝廷(邪馬台国を含む)と銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族とは対立していた

2018-04-22 05:32:13 | 序章

初期ヤマト朝廷(邪馬台国を含む)と銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族とは対立していた

1  銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族と初期ヤマト朝廷(邪馬台国を含む)とを混同しておられる方がいるが、この両者は神武天皇の時から対立しており、第10代崇神天皇の時に全国を統一するまで、対立していた。
 青銅器文化の一族の起源は殷王朝の末裔の準王一族であった。出雲と北部九州(吉野ヶ里)を拠点として全国に展開していた。時代は弥生時代前期からである。 彼らは、鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷などと呼ばれていた。樂樂福神社の伝承に残る河童たちも降参した後の青銅器文化の一族を揶揄して伝えられたものと思われる。

2  彼らは弥生の早い時期から全国に展開したが、天照大神から第10代崇神天皇まで、初期ヤマト朝廷は鳥取県中部を拠点として北九州に行き辰韓(新羅)に渡り大陸との交易をはかってきた。神武天皇と戦った兄磯城や長髄彦も青銅器文化の一族である。
 後漢書には107年に倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じたとある。第7代孝霊天皇は120年頃の生まれであるから、帥升とは第6代孝安天皇と思われる。孝霊天皇の父の代から中国の皇帝に朝貢する途中で青銅器文化の一族が襲ってきた。かれらを捕らえて中国の皇帝に差し出したのが生口である。高句麗の広開土王碑にも百済が高句麗に生口を献じた記述があるため帥升(孝安天皇)が生口を捕らえたのも朝鮮半島と思われる。朝鮮半島では捕虜のことを生口と表現していた。青銅器文化の準王一族は朝鮮半島にも残っていた。百済は準王一族の国と思われる。

3  第7代孝霊天皇の時になって皇居を襲ってきたためいよいよ、家族総出で青銅器文化の一族を成敗することになった。卑弥呼・吉備津彦(崇神天皇)・吉備武彦(倭健命・開化天皇)の活躍で東は岩手県、西は九州天草まで平定し全国を統一した。崇神天皇は岡山県津山市中山神社に拠点を置き、卑弥呼は志摩国の加布良古崎を拠点とした。この頃(190年~220年)から全国の者が集まるための祭祀場を奈良の纒向に造り始めた。

4  「蝦夷」とは青銅器文化の一族の末裔である。
 日本書紀には蝦夷という一族が登場するが、これはどんな一族であろうか。
 日本書紀・景行天皇・日本武尊の再征において「天皇は日本武尊を征夷の将軍に任じられ、『かの東夷は性狂暴で、凌辱も恥じず、村の長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。男女親子の区別もなく、冬は穴に寝、夏は木み棲む。毛皮を着て血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原をはしることは獣のようであるという。恩は忘れるが怨みは必ず報いるという。矢を髪で束ねた中に隠し、刀を衣の中に帯びている。あるいは仲間を集めて辺境を犯し、稔りの時をねらって作物をかすめ取る。攻めれば草にかくれ、追えば山に入る。それで昔から王家に従ったことがない。』」とある。
 敏達10年春2月「思うに、お前たち蝦夷らを景行天皇の御世に討伐され、ころすべきものは殺し、許せるものは許された。今、自分は前例に従って、首領者である者は殺そうと思う」と言われた、とある。
 これは孝霊天皇の時代の倭国大乱のことを指している。紀元前194年に馬韓から列島にわたってきて、銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈・銅族を作っていち早く全国に展開した殷王朝の末裔・準王の一族である。数千人が渡ってきて全国に展開し、倭朝廷(孝霊天皇一族)に平定された一族である。鬼・土蜘蛛・猿・河童などとも呼ばれていた。平和に暮らしていた先住民は彼らを恐れ、高地性集落を築いた。平定された後も彼らはあちこちで反乱を繰り返していた。白村江の戦で百済王家は馬韓出身の蝦夷を多く使ったが、多くは海の藻屑と消えた。
 また、日本書紀において「新羅に書き換えられた百済は、『各境界を犯し争い』『仲間を集めて辺境を犯し、稔りの時をねらって作物をかすめ取る』とある」が、「蝦夷」は、記紀において新羅に書き換えられた「百済」と同じである。百済は蝦夷と同族であり、朝鮮半島に残っていた殷王朝末裔の準王一族と思われる。


殷王朝(商)について

2018-04-21 05:22:09 | 序章
殷王朝(商)について
 
1  組織体制
 組織体制は、大邑・族邑・属邑(小邑)が結びついた連合体で、邑(ゆう)というのは四方を城冊で囲んだ領域であり、大邑は王城、族邑は血統単位の集落である。殷王朝初期の鄭州王城には、大邑内に祭壇、骨角器や陶器の製作所、酒造工場、青銅器の鋳造所などがあった。

2  青銅器
 殷時代の画期は、文字の制定と青銅器の発展である。殷墟から多種多様の大量の青銅器皿や兵器などが発掘されたが、大型の方鼎は、重量が875kg、高さ1.3mもあった。

3  酒
 祭祀権と王権が一体であった殷王朝では、殷人は青銅の神像が置かれた神廟で、火を焚き、生贄を供えて神や祖霊を迎え、飲酒によって一種のトランス状態に落ちることで神の神託を聞いた。殷の青銅器には、神廟の跡と見られるところから出土した酒器と神像が多いのは、この物的証拠である。

4  生贄制度 
 殷王朝では、祭祀に多数の人間を生贄として捧げる神事が執り行われた。生贄とされる人はチベット系遊牧民の羌族が多く、人狩りによって捕獲され、祭祀の時に神へ捧げられた。全ての生贄は意図的に頭が切り落とされている。甲骨文字の記録によると一度の祭祀でその数が650人に達したこともあったらしい。これまでの発掘で確認された生贄の数は1万4000体に及ぶ。

5 私見
 秦の始皇帝が中国を統一したころ(紀元前221年)には、生贄の風習は衰退した。中国での生贄の風習は紀元前2世紀までにほぼ消滅した。
 しかし、殷王朝の末裔準王は紀元前194年にヤマトにわたってきている可能性が高い。その地は吉野ヶ里であり、出雲であった。どちらも青銅器文化であり、全国に展開していったが、のちに卑弥呼を擁する邪馬台国軍(ヤマト軍と同じ)によって平定された。弥生時代の終焉をもって青銅器文化も消滅する。準王はヤマトにおいて殷王朝の再興をはかったが叶わなかった(紀元260年頃の三国志魏略)。
 しかし、半島に残っていた準王一族(百済人=藤原氏)はのちに(642年)倭国に渡り殷王朝が滅ぼされた太公望の六韜に基づいて倭国を乗っ取り(734年)、国号を日本と命名した。首を切ったり、近親婚をおかしいと思わない点で藤原氏と殷王朝末裔の準王一族は同じ一族である。