「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

天照大神(徐福)の生涯

2021-06-13 00:40:58 | 天照大神(徐福)

 天照大神(徐福)の生涯 

1 八女童男山1号古墳(福岡県八女市大字山内)に徐福の没年は「辛酉年2月17日御年66歳」と刻まれているそうである。これによると徐福の生存年はBC.245~BC.180ということになる。これが正しいように思われる。
 徐福は26歳で初来日し、35歳(BC210年)で再来日した。天忍穂耳は第一次の時から参加していたものと思われる。天忍穂耳は少年一行の中でも年長であり、その時18歳位であったと思われる。饒速日命は早くても紀元前205年頃の生まれであり、次男が生まれる前に亡くなったのであるから、享年25歳とすれば、紀元前180年頃である。邇邇芸命は紀元前184年頃には生まれていたはずである。邇邇芸命が北栄町上種の大宮神社に降臨したときは25歳くらいになっていたはずであるから紀元前160年頃である。この頃に出雲大社のモデルが造られている。
 邇邇芸命の降臨のとき(紀元前180年頃)の天照大神の年齢は、65歳くらいであった。大国主と饒速日命は年齢は同じくらいのはずである。同じく、素戔嗚の長男と天忍穂耳の長男として、紀元前210年から数年後に出生している。饒速日命が降臨した時には大国主も葦原中つ国に多くの子供ができていたはずである。4歳の邇邇芸命が成長するのと同じく大国主の子たちが成長するのを待たなければならなかった。邇邇芸命が4歳で関金の矢送神社に降りてこられて楯縫神社に移られ20数年後に上種の大宮神社の御所に移られた。
 古事記では天照大神は天孫が降臨してもまだ蒜山高天原にいたように書いているがこの時はすでに琴浦町伊勢野の天照皇大神宮に降臨していた。邇邇芸命が降臨する頃は天照大神は亡くなっていたか亡くなる前であった。藤原氏は伊勢国・伊勢神宮を創るため、鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮を消して古事記を改ざんしている。
 古事記には「そこで天照大御神、高木の神は勅命して、天忍穗耳に『今、葦原の中つ国は平定し終わったという。そこで、言依さしに従って天降り、その国を治めよ』と言った。天忍穂耳は答えて、『天降りしようと服を着替えておりましたところ、私の子が生まれました。名は邇邇芸命といいます。この子を降らせた方がいいかと思います』と言った。この御子が、高木の神の娘、萬幡豊秋津師比売を妻として生んだ子が、天火明命、次に邇邇芸命の二柱である」とある。
※ 私見 
 饒速日尊が亡くなったので、天忍穂耳はこういう返事(邇邇芸命が生まれたこと)をしたのである。

2 丹後の籠神社の祭神は奈良以前は彦火火出見尊であった。
(1)先代旧事本紀は、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、亦の名を天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という」とする。
(2)「消された大王ニギハヤヒの謎」の著者、神一行氏は、海部宮司の言葉を、その著書の中で 「『籠神社』の主祭神の天火明命には、いくつかの別名がありますが、籠神社にとってもっとも重要な別名は、彦火火出見尊です。籠神社は、養老元年(717)までは、主祭神として、火火出見尊を祀っていましたが、その後はわけあって、『海部氏本紀』の始祖・天火明命として祀っております。」とある。これは、天火明命は、本来「火火出見尊」であったということである。
(3)私見
 丹後の籠神社の祭神は彦火明命であり、先代旧事本紀も天火明命と饒速日尊は同神とするので、天火明命=饒速日尊は丹後の籠神社に行っていたものと思っていた。しかし、海部宮司は「籠神社の祭神は奈良時代以前は彦火火出見尊であった」と言うので、天火明命=饒速日尊は丹後に行っていない。

3 私見
 「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とあるので、徐福は倭国にとどまった。この倭国とは、「在東海中」とあるので、列島のことではなく日本海沿岸にある小さな国のことであり、鳥取県中部のことである。
 徐福(天照大神)も丹後には行っていない。丹後に行ったのは徐福の部下である。また、徐福(天照大神)の痕跡が鳥取県東部(河原町の霊石山や氷ノ山)に残るのは始皇帝の追っ手から逃げていたからである。始皇帝が亡くなったのを知って最初に指示された蒜山高天原に戻った。天照大神が蒜山高天原から琴浦町伊勢野の皇大神宮に降りて来たのが何時かは古事記では消してある。
 因幡の白兎伝説について白兎を徐福一行に、和邇を始皇帝に比定する人がおられたが、面白い説だと思います。まさにそのとおりかもしれない。千代川流域にも白兎に代表される一族がいて、天照大神の装束をくわえて河原町の霊石山に導いたという伝承が因幡国にはあるから、白兎が徐福一行(天穂日)ならば、年老いた長を導くのは当然である。徐福一行の装束は白い装束であったそうである。第1次(紀元前219年)の徐福が状況を復奏しないので、始皇帝の追っ手(八岐大蛇)が徐福を追っていた。
※  余談 
 和邇(鰐)とは丸木舟を操る船頭のことである。丸木舟がサメの形に似ているからこのように言う。丸木舟の大きさによって一尋鰐、八尋和邇に分けられた。いわゆる丸木舟による海上タクシーである。住吉海上交通のほうが古いのだが(紀元前3600年以前からあった)、因幡の白兎では綿津見海上交通が利用された。大綿津見神とは、和邇(鰐)たちの頭領であった。本拠地は辰韓・慶州近くの港である。


天照大神は徐福であった

2021-05-27 08:39:38 | 天照大神(徐福)

 天照大神は徐福であった

​1 中国人は大喜びであり、我々日本人は大変残念であるが、我々が尊敬してやまない天照大神は徐福であった。天照大神は男性であり、時代も神武元年紀元前60年説を採れば無理なくつながる(別稿「天照大神は男性である」「神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった」を参照されたし)。
 卑弥呼も崇神天皇も天武天皇も道教を信奉していたが、これは始祖が道教を信奉していたからである。始祖とは道教の方士徐福である。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(倭姫命)であり鬼神道(道教が母体)の祭祀をしていた。崇神天皇は神道(道教が母体)を初めて全国に創設した。何のために伊勢神宮を参拝していたのだろう、と思われるかもしれないが、歴代の天皇が参拝しなかったのは、藤原王朝は天照大神が徐福であることを知っており、やっと乗っ取った倭国を自分たちの思うようにしたく中国に支配され邪魔されたくないという思いがあったからである。

2  史記(紀元前91年完成)(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝 第五十八
 (始皇帝は)徐福に船出して神仙を求めさせた。徐福は戻った。「私は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えた。『そなたは何を求めているのか』。私は答えていった。『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしているのを見ました。そこで私は再び拝礼して尋ねました。『どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか』すると海神(海中の大神)は『名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました」と偽りの報告した。
 秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。徐福は、「平原広沢」を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった。

 国立国会図書館デジタル書籍より
 徐福に関する149文字の中に「大神」の文字と「天照」の文字が確認できる。
※ 私見
 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町の日御碕神社(祭神は天照大神と素戔嗚)に到着し、大山の麓の米子市尾高の大神山神社(本社)で大神と出会った。大神は「始皇帝の礼が薄いので不老長寿の仙薬を譲ることはできないが見るだけならよい」と言うので、大神に従って東南の大山に行った。徐福は、大山町大山の大神山神社(奥宮)の地で、大神の宮殿や銅色の龍形の使者がいて光が天を照らしている(光上照天)のを見た。
 徐福と大神が出会ったのは大山の麓にある大神山神社本社の地であった。大神の宮殿は鳥取県大山中腹の大神山神社奥宮の地にあった。蓬莱山は鳥取県の大山であった。

 高天原の様子を見れば分かるが、天照大神は集団のリーダーであり、徐福も集団のリーダーである。
 徐福は始皇帝に「三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に留まって王となり秦の威名を高めよ」と言われていた。徐福は始皇帝に言われたように三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に止まって王(大神)となった。国譲りで蒜山高原(高天原)から鳥取県中部(倭国)に降臨し、平原(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉尾野)と広沢(北栄町の葦原中津国を含む豊葦原瑞穂国)を得て王(天照大神)となった。徐福は平原と広沢を得て王(大神)となり、最初に見た情景に因んで「天照大神」と名乗った。

3 「史記」秦始皇本紀第六37年には、徐福が前提として連弩(連発武器)を積み込んでいたことが記されている。
 「史記」には「(徐福は)言った。『蓬莱の薬は得ることができますが、常に大鮫魚が苦しめるためたどり着くことができません。願わくは射撃の名手を伴わせていただきたいのです。見つければ連弩でこれを射ます。』・・・」とある。
 「古事記」には「素戔嗚の様子を見た天照大神は、高天原に攻め入るつもりだと危ぶむ。そしてすぐに御髪を解いて御角髪(みづら)に巻いて、・・・背中には千本の矢入りの箙を背負い、脇には五百本の矢入りの箙を着け、・・・弓の末を起こして、硬い地面を踏みしめ、・・・」とある。
 古事記には連弩とは書いてないが「天照大神は背中に千本の矢入りの箙を背負い、脇に五百本の矢入りの箙を着け」とあるので、天照大神のもっていた弓は徐福が積み込んでいた連弩(連発武器)と思われる。これも天照大神は徐福であったとする根拠である。

4 天照大神や素戔嗚は始皇帝の追っ手(八岐大蛇)から逃れるため、因幡国(鳥取県東部の霊石山や氷ノ山や大江郷)に本拠地を遷そうとしていた。しかし、始皇帝が亡くなったのを知って、最初の指示どおり天照大神は蒜山(高天原)に、素戔嗚は倉吉市(根堅州国)に戻った。
 徐福一行は東海の三神仙(大山・烏ヶ山・蒜山)を目標に航海してきたのであり、出雲には行っていない。出雲に到着したのは、殷王朝末裔の準王一族であった(紀元前194年)。準王一族(因幡の白兎に出てくる大国主の兄の八十神)は鳥取県中部や鳥取県東部にも上陸していた。大神(伊邪那岐)との約束の地である鳥取県中部の葦原中津国にも準王一族が上陸したので天忍穂耳は葦原中津国が騒がしいと言った。
 「謎の出雲帝国」は「出雲族の子孫の富氏は天穂日をヤマト王権のスパイであった」とする。天孫降臨に際し、天穂日は葦原中津国にいた準王一族(大国主の兄の八十神=出雲族)の本拠地を大国主から教えてもらい準王の様子を偵察するため能義平野(安来市)に行った。天穂日は松江の南部(熊野大社)に本拠地のあった準王(出雲族)を監視していたが出雲族の娘を娶り婚姻関係を結んだ。饒速日が初代長髄彦(準王)の妹を娶ったのも天穂日の縁結びによるものと思われる。
 準王たち(八十神=出雲族)は天穂日に同化してゆき、天穂日を始祖とした。天穂日の子供とされるタケヒラドリは殷王朝末裔の準王であった。天穂日は自分より年少の準王に可愛がっていた大国主の別名の大穴牟遅の名を与えた。大穴牟遅は出雲王の代名詞として17代にわたって使われた(「謎の出雲帝国」より)。


記紀の高天原は蒜山高原であった

2021-03-09 05:50:35 | 天照大神(徐福)

1 高天原について

 「古事記」においては、その冒頭に「天地(あめつち)のはじめ」に神々の生まれ出る場所として高天原が登場する。次々に神々が生まれ、国産みの二柱の神が矛を下ろして島を作るくだりがあるから、海の上の雲の中に存在したことが想定されていた。天照大神が生まれたとき、伊邪那岐は高天原を治めるよう命じた。

 高天原には「多くの神々(天津神)が住み、天安河原(鳥取県江府町下蚊屋明神)や天岩戸、水田、機織の場などもあった」ことが記述されている。

  葦原中国が天津神によって平定され、邇邇芸命が天降って(天孫降臨)から、天孫の子孫である天皇が葦原中国を治めることになったとする。

2 高天原の各説(地名を根拠にするものは削除しました。)
(1)天上説(本居宣長)
 戦前は皇国史観(天皇を神とする)と結びついてこの考え方が主流であった。※私見:天照大神は実在した人間なので地上にあった。
(2)滋賀県米原市伊吹山山麓
 「平家物語」に、「天照大神が草薙剣を高天原から伊吹山に落とした」とある。※私見:平家物語は信用できるか
(3)阿蘇・蘇陽 - 熊本県山都町

 「日の宮・幣立神宮」は高天原神話の発祥の神宮である、とする。御神体は豊国文字と阿比留文字が彫られた石板であり、「アソヒノオオカミ」と「日文」が表裏に刻まれている。ちなみに「幣立」とはヒモロギを意味し、太古 天の神が御降臨になった聖なる地とされている。※私見:天の神が高天原から降臨した地は高天原ではない。

(4)鳥取県八頭郡八頭町霊石山・伊勢ヶ平
  天照大神が八上の霊石山(八頭町)伊勢ヶ平にしばらく行宮した後、帰る際に通った道の途中の地点にある。伊勢ヶ平は高天原という名前ではないものの、暫定的にせよ、中央の政治機関があった所とみなしうる。ここには天照大神が行宮の際、白兎に道案内されたという伝承がある。※私見:田があった高天原とするには狭すぎる。
(5)大韓民国慶尚北道高霊郡
 当初その比定地とされたのは、素戔鳴尊が立ち寄ったという江原道春川市であった。春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者。※私見:天孫降臨につながらない。
(6)九州邪馬台国説

  筑後川流域山本郡や御井郡、山門郡、夜須郡など、邪馬台国の候補地のいずれかが高天原とする説。※私見:天孫降臨につながらない。

(7)岡山県真庭市蒜山(ひるぜん)
  茅部神社の山を登ったところ。天岩戸、真名井の滝、天の浮橋等がある。※私見:これは蒜山説ではない。蒜山説は高天原は蒜山高原全体とする。

3 蒜山高原を高天原とする根拠(私見)

(1) 高天原の主役は天照大神である。長田神社と加茂神社と福田神社と茅部神社と徳山神社は天照大神を祭神とする。 蒜山高原の5神社のすべて(100%)に天照大神が祀られている。

(2) 邇邇芸命は高天原から降った。(古事記)

 長田神社と加茂神社は邇邇芸命を祭神とする。これでわかったことは、4歳の邇邇芸は旭川下流の岡山県内で生まれ、鏡ヶ成ではなく犬挟峠を越えて矢送神社に降臨したこと。猿田彦が待っていた鏡ヶ成から降ったのは邇邇芸ではなく饒速日だったということがわかった。そのあとも繋がっていく。
 続きは別稿「天孫降臨は2回行われた。最初は饒速日・天照大神・月読命ほか大勢であった」を参照されたし。

(3) 神倭磐余彦も高天原から降った。(古事記)
 古事記には「ここに饒速日(ウマシマジ)が陣中に参上して、天神の御子に次ぎのように言った。『天神の御子が、高天原からお降りになっておいでになると聞きましたので、私もあとを追って降ってまいりました』」とある。

 加茂神社と福田神社は神倭磐余彦を祭神とする。これでわかったことは、神倭磐余彦は福田神社まで行っているので、鏡ヶ成から降ったということである。犬挟峠から降れば道に迷うことはないが、鏡ヶ成から降ったので道に迷った。出雲族に気付かれないようにするために鏡ヶ成から降らなければならなかった。降った穿邑は倉吉市上大立であり、そのあとも繋がっていく。
 続きは別稿「神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた」を参照されたし。

 鳥取県江府町も高天原であった。

4 蒜山高原の夜明け

右下は高速米子道

 高天原の比定地は全国に17あるという。高天原やそれに近い地名のあるところは高天原ではない。本当の高天原に「高天原」の地名がついていたらとっくに藤原氏が消している。本当の高天原はそれらしい名前の付いていないところである。

 高天原の主役は天照大神である。天照大神に焦点をあてなければならない。高天原は5神社すべてに天照大神を祀る蒜山高原である。

 蒜山周辺には旧石器時代・縄文時代の遺跡が発掘されており、天照大神以前の神々もいたはずである。高天原であるためには、三貴神以前の神々がいなければならないのであり、その点蒜山高原はこの条件を満たしている。

 邇邇芸は高天原から降臨した(古事記・日本書紀)。神武天皇も高天原から降った(古事記)。蒜山高原には邇邇芸が長田神社と加茂神社、神武天皇が加茂神社と福田神社に祀られている。神社の位置関係より、邇邇芸は犬挟峠から降臨し、神武天皇は鏡ヶ成から降臨したことがわかる。
 全国の17ヶ所の高天原候補地の中でその形跡がぴたりと残る候補地は蒜山高原だけである。邇邇芸も神武天皇も蒜山高原を通過したのであり、高天原は蒜山高原(但し、鳥取県江府町も含む)であった。邇邇芸も神武天皇も蒜山高原(高天原)から鳥取県中部(倭国)に降臨した。

5 蒜山高原に水田は多い。 

 高天原には水田があったとされるが、蒜山高原には水田が多くみられる。蒜山高原は水田稲作も多くみられるので、水田稲作ができないから高天原を去り葦原中津国に降ったという理由には疑問がある。葦原中津国(鳥取県中部)に降臨したのは他に理由があった。

 紀元前210年の徐福一行は人口を増やしたかった大神(伊邪那岐)と葦原中津国(鳥取県中部)で再会し「連れてきた少年少女を水稲稲作の出来るここ(葦原中津国)に住まわすよう」指示されていた。徐福一行が蒜山高原を中心にして周辺の山々から仙薬を探している間に、徐福一行に遅れること16年後の紀元前194年に殷王朝末裔の準王一族(八十神)が葦原中津国を占拠して騒がしかった。遣わされた天忍穂耳も葦原中津国が騒がしいと言って帰ってきた。徐福一行は大神(伊邪那岐)との約束の地(広沢=水稲稲作の適地)を取られまいとして蒜山高原・鳥取県西部から鳥取県中部に降臨した。

 根国での冒険のあと大国主は葦原中津国に住んでいた準王一族(八十神)を蹴散らして従わせていた。徐福は準王一族(八十神)の動向を探るために天穂日をその本拠地(熊野大社)に行かせた。紀元前185年頃に饒速日と徐福たちの大勢(第一次)は江府町下蚊屋→鏡ヶ成→野添→神田神社に降臨した。徐福は神田神社から琴浦町の斎王集落(伊勢)に降臨して平原(方見郷)と広沢(葦原中津国)を得て自ら天照大神と名乗った。鳥取県江府町にいた饒速日は神田神社から日吉神社に行き、船で小鴨川を下って河内国の河上の哮峰(倉吉市八幡神社のある峰)に降臨した。徐福(天照大神)一行にとって仙薬も大事だが連れてきた少年少女を育てるために、水田稲作に適した葦原中津国も重要であった。

 


天照大神は男性である

2021-03-05 10:56:15 | 天照大神(徐福)

 天照大神は女性か

1 天照大神の性別に関しては、古事記は一切触れていないが、日本書紀では 一ヶ所、素戔嗚神が天照大神に「如不與姉相見」(お姉さんと会いたいと思って)とあることから、女性とする見方が優勢である。日本書紀の冒頭は陰陽二元論で始まり、イザナギ・イザナミ二神による国生みや神々の生成もこれに従っており、国中の柱(天之御柱)を回る場面では、イザナギを陽神(をかみ)、イザナミを陰神(めかみ)と呼んでいる。日本書紀においては、男は陽で、女は陰であり、陽は太陽で、陰は月であるから、天照大神は太陽神であり、本来男でなければならず、月読尊は陰神であり、本来女でなければならない。女神や人間の女が太陽の光を受けて受胎する話が多いが、このことは太陽が男であること意味している。

2 ある方の疑問
 近くの寺に天照大神の像があるのですが、男の姿をしています。作られたのは江戸時代と言いますし、その寺には天皇の墓や国宝もあるので嘘とも思えないのですが・・・。
(1)伊勢神宮の内宮の本殿真下にあるという高さ1mほどの「心の御柱」(天の御柱)は祭神が男神であることを示すものとされる。この社殿を造るときには、最初に御柱を立て、夜半に土地の娘達により篝火(かがりび)を焚いて秘密神儀を行うといわれる。これは、天の御柱を「男根」と考え、その周りを女が踊り回ることが想像される。すなわち、天照大神に「妻」を捧げる神儀とも考えられる。
(2) 神宮へ奉納する御衣(みころも)は男性用
平安時代、すでに大江匡房(まさふさ)は「江家(ごうけ)次第」で伊勢神宮に奉納する天照大神のご装束一式が男性用の衣装である事に言及しており、江戸時代の伊勢外宮の神官渡会延経(わたらいのぶつね)は「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(「内宮男体考証」「国学弁疑」)。
 (3)京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊邪那岐・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性のお姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴(はかま)で浅沓(くつ)を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸(くび)にかけ笏を持つ。」と岩戸山町では伝えられるとおりの伝統を守っている。写真中央が天照大神。「道教と鏡・剣」という本があるくらい道教と鏡は深い関係がある。天照大神は道教の方士であった。

(4)江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。菊池展明著の「円空と瀬織津姫」によると円空が彫った仏像は瀬織津姫を中心としている。
 江戸時代に流行した鯰(なまず)絵には天照大神が男神として描かれているものがある。
(5)天岩屋戸で裸体に近いアメノウズメの踊りを覗くのは、ふつうに考えれば男神の欲情である。天照大神が天岩戸から顔を出したのはアメノウズメの裸踊りであるが、女が女の裸体に興味示すだろうか。男だから覗いたんじゃないだろうか。まわりの者は天照大神が男性だとわかっていたのでアメノウズメに裸踊りをさせた。
(6)天照大神の別名の大日孁貴神、大日女尊、大日女は神社庁による創作である。
 もともと卑弥呼は日女命であるが、神社では日女命に稚を付けて稚日女尊とし、さらに稚日女尊を若日孁尊とも書き換えている。若日孁尊に対応して大日孁貴神が創作された。
 神戸の生田神社では「稚日女尊は『若々しい日の女神』の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名」とする。また鳥羽の伊射波神社では「稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われる」とする。
 若日孁尊は天照大神のご幼名あるいは分身であるとして、天照大神の別名を大日孁貴神、大日女尊、大日女とし女性のごとく書き表す神社もある。
 「稚日女尊は天照大神のご幼名あるいは分身である」とするのは一部の神社だけであり、そのことを記する文献はない。これも明治維新以降の神社庁ネットワークによる創作である。
(7)わが国の天孫族の上古祖系については、「斎部(いんべ)宿祢本系帳」などに見られるが、その重要な系図の天照大神にあたる位置の者には「天底立(あまのそこたち)命」と記されており、すべて男系でつながる系譜となっている。日本の古代氏族について、「姓氏録」など各種の系譜資料からみても、女性を始祖として掲げる氏は皆無である。
(8)「天照大神は男性」と記した古書は多数ある。
 明治以前にはアマテラスはさまざまな姿で描かれていた。たとえば「源平盛衰記」では衣冠束帯に身をかためた貴人の男性として出てくるし、室町時代の三十番神図には烏帽子をかぶった狩衣姿で笏をもっている。中世の「日本書紀」注釈書である「中世日本紀」でもたいていは男性神として描かれる。
(9)地上で乱暴狼藉を働いていた素盞鳴尊が高天原を訪ねてきたとき、彼は「高天原の支配権を奪いにきたのでは」と警戒してすぐさま武装した。 まず髪を角髪(みずら)という男性のものに結い直し、手や髪それぞれに五百もの勾玉を糸に通した飾りを巻き、 さらに千本の矢が入る靭(ゆぎ)を背負い、五百本の矢が入る靭を腹に抱え、大変な強弓(ごうきゅう)を手にした。 そのように武装すると、四股を踏むように両足を大地にめり込ませ、素盞鳴尊を威嚇した。
「戦う時は女も男の格好をするのが古代の風習」であったとは聞いたことがない。
(10)天照大神の原型は「男神」であったと考えられる。江戸時代には荻生徂徠・山片蟠桃(やまがたばんちょう)が天照大神男神説を唱え、津田左右吉博士や最近でも松前健氏、楠戸(くすど)義昭氏などに男神説が見られる。
(11)天照大神は男神であり、瀬織津姫は天照大神の妃(正室)であった(ホツマツタエ)。
 外宮の渡会氏の書(鎌倉時代)によれば「荒祭宮は、瀬織津姫を祀る」とする。神道五部書は天照大神荒御魂の別名は瀬織津姫とする。
 伊勢神宮では荒祭宮は正宮と同格として位置づけられている。荒祭宮では皇大神宮に準じた祭事が行なわれ、神饌の種類や数量は正宮とほぼ同等である。祈年祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があり、皇室の勅使は正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参行する。
 記紀成立以前、男神天照大神と並祭されていた瀬織津姫を宮中祭祀から分離・抹消したのは持統だとされる。

3 私見
 以前、「荒ぶる神たち」「まつろわぬ者たち」を倭姫命(卑弥呼)が平定するのに天照大神が男神でなければ効果がない、ことを根拠に男神であるとした。徐福は道教の方士であり、同じく道教(鬼道)を信奉していた卑弥呼のルーツである。徐福は不老長生を追い求めてきたが、卑弥呼は長生を実践し、アワビなどの海産物を食し、96歳くらいは生きていた。
 九世紀に藤原氏は始皇帝の子孫だという主張をしている。藤原氏は始皇帝と徐福の関係は知っていて、天照大神(徐福)一族よりもえらいぞと言いたかったのである。
 藤原氏は、天照大神が日本人ではないことも知っていた。歴代の天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由もこれでわかる。天皇家の始祖が徐福と分かれば、藤原王朝の主張する万世一系が成り立たなくなるから、天照大神が徐福であることを消そうとした。
 明治以降なぜ天照大神は女性とされたのであろうか。明治維新の王政復興で皇室の始祖は天照大神であったから、天照大神が中国人の徐福だったことは消さなければならなかった。消す方法(ウガヤフキアエズ朝が72代続いたとか、神武天皇即位年が紀元前660年としたり、高天原は雲の上にあり天照大神は雲の上から降りてきたとしたり)の一つとして、天照大神は女性であった、とした。天照大神は江戸時代まで男性であった。​


徐福と天照大神の来倭コースは重なる

2021-03-02 06:52:14 | 天照大神(徐福)

 徐福と天照大神の来倭コースは重なる

1 徐福の来倭コース

(1) 中国側の歴史書ー司馬遷の史記(紀元前91年完成)よりー

 徐福の渡来地は全国に30数ヶ所も伝えられている。これは徐福の部下が到着したところである。

〇 史記(司馬遷)秦始皇本紀第六には「斉人、徐市等は上書し、『海中に蓬莱、方丈、瀛(えい)洲という名の三神山があり、仙人がここに居ます。(始皇帝の)斎戒と子供の男女を得て、これを求めさせていただきたい』と言った。ここに於いて徐市を派遣し、子供の男女数千人を出発させ、海に入り仙人を求めた」とある。
 「海中」とは海の対岸のことである。東海の三神山(蓬莱、方丈、瀛洲)とは日本海沿岸にある大山、烏ヶ山、蒜山のことであった。

 第1次でも徐福自身は大山(蓬莱山)の北西の米子市陰田町に到着し、大神(伊邪那岐)には会っている。その時に、「光が天を照らす」のを見た。大神(伊邪那岐)に会って、「多くの少年少女を連れて来れば不老長寿の仙薬をやってもよい」と言われた。

〇 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八には「(始皇帝は)徐福に船出して神仙を求めさせた。徐福は戻った。「私は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』。私は答えていった。『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしているのを見ました。そこで私は再び拝礼して尋ねました。『どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか』すると海神(海中の大神)は『名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました」と偽りの報告した。秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。徐福は、「平原広沢」を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった」とある。
 第2次(紀元前210年)の徐福一行は確実に伯耆国に渡るため、秦韓(辰韓)にしばらく留まり、リマン海流と対馬海流を利用して東海(日本海)を渡り、次々と伯耆国に到着した。

 福付き地名の土地は徐福一行が到着して住んだ集落である。鳥取県中西部に福付き地名が多い(41ヶ所)ということは、「秦韓(辰韓)から次々に伯州(伯耆国)に結集した」とする中国の王輯五の説にも符合する。

(2) 日本側の歴史書ー宮下文書(徐福文書)よりー
 宮下文書(徐福文書)は偽書とされているが、改ざんされていない部分も残っている。これを改ざんした一族は、原本をもとに改ざんする一族であり、古事記・日本書紀の改ざんも基本となる原本をもとに改ざんしている。天照大神が中国人だったという事実は決して明るみに出すことはできないとして今でも女性であるとしたり、ウガヤフキアエズ朝なるものが72代も続いたので徐福とは時代が違うとしたり、国(今でも藤原政府であり藤原の神社庁その他多くの藤原の組織)を挙げて様々な方法で消そうとしている。宮下文書(徐福文書)では、徐福がたどり着いた高天原は富士山の麓であり鳥取県の大山(伯耆富士)・岡山県真庭市の蒜山高原ではないと思わせるように改ざんしている。
〇 宮下文書(徐福文書)には「東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。しかし、近づいてみると、船上で遥拝した霊山とは違い、一行が上陸したのは木日国(紀伊国)木立野の大山であった。

 徐福が、熊野那智山を眺めていると、白衣の老翁が姿を現して、那智山は不二(富士)山ではなく、不二蓬莱山は、東方にあると告げた。一行は三年間を費やし探索してついに富士山を発見した。一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。
 この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。徐福は一族とともにこの地に止まり、一行全員を大室、中室、小室に分散居住させて、専門分野ごとに、開墾、農作、製紙、機織り、養蚕などを行わせたという。徐福の子孫は、その後も当地に止まって、福のつく苗字を残した」とある。 

(※ 太字は改ざん挿入された部分)


(3) 徐福文書(宮下文書)にある「大山」とは木日国(紀伊国)木立野(和歌山市冬野)の大山ではなく、伯耆国の大山(ダイセン)であった。伯耆国の大山は西から見ると秀麗な山様である(伯耆富士)が、東に進むにつれてその姿がなくなる(大山北壁)。


 「その裾野の小さな湾」のあったところから見た大山。秀麗な山様は失われている。
 中海の船上から秀麗な山様が見えるので徐福は宍道湖→中海を通ってきた。
 米子市陰田町に到着して大神の使いが「大神はもっと東で待っている」と言われ、大山を見ながら海を東に進み大山の裾野の小さな湾(鳥取県北栄町)に上陸した。徐福たちは徐福文書にある「宇記島・原」(北栄町の大島と原)に上陸した。
 どちらも「上陸した」と書かれているが、「宇記島原」は「その裾野の小さな湾」の中にあった。

 「その裾野の小さな湾」とは大山の東の裾野にあった北栄町の葦原中津である。海抜4mに海面があった地形を見ると、小さな湾(葦原中津)の前に笠沙之御前(北条砂丘)が現れる。

 小さな湾を拡大するとこのようになる。北栄町大島の宮崎神社の由緒には倭建命が「こは浮洲(うきしま)か」といわれたとあり、近くに原集落もある。徐福は「宇記島(うきしま)・原」に上陸した。

 徐福は大山の裾野の小さな湾(葦原中津国)の宇記島・原に上陸した。
 「徐福は一族とともに高天原に止まった」と徐福文書(宮下文書)にある。高天原は蒜山高原(別稿を参照されたし)なので、徐福は鳥取県北栄町の原と大島に上陸し、一族とともに蒜山高原に上がりそこに止まった。


2 天照大神の来倭コース

 天照大神と素戔嗚は辰韓から船で出雲の日御碕神社に到着した。出雲の日御碕神社から現在の出雲平野に入ってきた。斐伊川も度重なる洪水による土砂の堆積で河口が高くなっているが内海はもっと広かったはずである。

 出雲と鳥取県西部にある5ヶ所の日御碕神社(出雲、米子市陰田町、境港市渡町、境港市小篠津、大山町御崎)は海面が海抜4mにあった地形では海岸のすぐそばになるため、天照大神と素戔嗚の寄港地であったと解される。一番東の大山町御崎の日御碕神社を出港した天照大神は次はどこに到着したのだろうか。

 古事記には「左の目を洗ったところ、天照大神という名の神が生まれた。次に右の目を洗ったところ、月読命という神が生まれた。次に鼻を洗ったところ、建速須佐之男命という神が生まれた」とある。「生まれた」とあるが「出会った」である。三貴神は伊邪那岐が禊をしているところに到着した。そこは鳥取県北栄町の原であった。
 別稿「伊邪那岐が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった」を参照されたし。北栄町の原より東に伊邪那岐が禊をしたところは確認できない。
 伊邪那岐は三貴神と一緒に船で北栄町大島に行った。北栄町大島の宮崎神社の主祭神は伊邪那岐と伊邪那美である。伊邪那岐と伊邪那美はここを拠点として葦原中津国の国造りをしていた。

 倭国大乱の時代、孝元天皇と開化天皇(倭建命)は北栄町大島で伊邪那岐と伊邪那美を奉斎している。

 天照大神や素戔嗚は伊邪那岐が禊をしていた北栄町の原に到着した。そして伊邪那岐と一緒に船で大島に行った。伊邪那岐は大島で三貴神が治めるべき国を示した。また連れてきた一族をここで育てるよう命じた。天照大神は高天原(蒜山高原)を治めるように言われ、倉吉市の灘手神社にしばらくおり高天原(蒜山高原)に上がった。素戔嗚は海原(母の国)を治めるように言われたが、倉吉市谷の朝日神社に行き、そこでしばらく泣いた。

 鳥取県の霊石山や氷ノ山も天照大神の伝承のあることから高天原の候補地になっているが、水田があった高天原にしては狭すぎる。天照大神は天照大神の痕跡の多く残る蒜山(蒜山高原の5神社すべての祭神になっている)に上がった。
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族(因幡の白兎伝説における大国主の兄の八十神)は徐福たちに16年遅れて出雲国、伯耆国、因幡国に到着した。琴浦町の方見郷(平原)・北栄町の葦原中津国(広沢)にも住んだ。葦原中津国が騒がしくなった。
 天の安河の河原に思兼神や八百万の神が集まり、大国主を生まれた時から守っていた鳥取県八頭郡にいた天穂日を大国主のもとに行かせることにした。「天の安河の河原」は蒜山高原の西隣の鳥取県江府町下蚊屋明神の地である。思兼神は江府町貝田神社から来た。天照大神など八百万神は蒜山高原の徳山神社から来た。
 天穂日は伯耆町の神社、思兼神は大山の西麓の神社に多く祀られている。思兼神も天穂日も辰韓から船で東海(日本海)を渡り、上陸したのは米子市陰田町であった。
〇 徐福も天照大神も島根県の宍道湖→中海を通り、鳥取県北栄町の原と大島に上陸し岡山県真庭市の蒜山高原(高天原)に上がった。徐福と天照大神の来倭コースは重なる。このことからも徐福と天照大神は同一人物であることがわかる。

3 参考

 福付き苗字と福付き地名

 「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや徐姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう徐姓は名乗ってはならない』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」以降、徐福の仲間だということを知らせるために福のつく苗字と福のつく地名を付けた。

 日本海側の福付き地名(ヤフー地図より)
(1)鳥取県 
※ 伯耆国には福つき地名が41か所ある。
米子市 1福万 2福市 3福原 4上福原 5福井 6福岡 7福頼
南部町 8福里 9福成 10福頼
日南町 11神福 12福寿実 13福塚 14福万来
日野町 15福長
伯耆町 16福永 17福居 18福岡 19福岡原 20福兼 21福島 22福吉
大山町 23福尾
境港市 24福定町
倉吉市 1上福田 2下福田 3福原 4福守 5福積 6福富 7福庭 8福光 9福本 10福山 11福吉
琴浦町 12福永
三朝町 13福田 14福本 15福山 16福吉
湯梨浜町 17北福
※ 因幡国には福つき地名が7か所ある。
智頭町 1福原
佐治町 2福園
鳥取市 3福井
八頭町 4隼福 5福井 6福地 7福本
(2)兵庫県 
 日本海側に福の字の付く地名はない。
(3)京都府 
 福知山の福を除いて、日本海側に福の字の付く地名はない。

 

​​


天照大神(徐福)の生涯

2018-06-04 05:32:36 | 天照大神(徐福)
  
1 八女童男山1号古墳(福岡県八女市大字山内)に徐福の没年は「辛酉年2月17日御年66歳」と刻まれているそうである。これによると徐福の生存年はBC.245~BC.180ということになる。これが正しいように思われる。
 徐福は26歳で初来日し、35歳(BC210年)で再来日した。天忍穂耳は第一次の時から参加していたものと思われる。天忍穂耳は少年一行の中でも年長であり、その時18歳位であったと思われる。饒速日命は紀元前208年頃の生まれであり、次男が生まれる前に亡くなったのであるから、享年25歳~30歳とすれば、紀元前180年頃となる。徐福(天照大神)の死亡年と同じ頃と思われる。瓊々杵命は紀元前180年頃には生まれていたはずである。瓊々杵命の関金への降臨のとき(紀元前180年頃)、天照大御神は亡くなっていたか亡くなる前であった。大国主は饒速日命と年齢は同じくらいのはずである。同じく、素戔嗚の長男と天忍穂耳の長男として、紀元前210年から数年後に誕生している。饒速日命が降臨した時には大国主・大年神も葦原中つ国に多くの子供ができていたはずである。
 瓊々杵命が茶屋条の大宮神社に降臨したときは20歳くらいになっていたはずであるから紀元前160年頃である。この頃に出雲大社のモデルが造られている。天孫族は4歳の瓊々杵命が成長するのと同じく大国主・大年神の子たちが成長するのを待たなければならなかった。瓊々杵命は関金の矢送神社に降りてきて20数年後に下種の大宮神社の御所に移った。
 古事記では天照大神は天孫が降臨してもまだ高天原にいたように書いているがこの時はすでに伊勢野の天照皇大神宮に降臨していた。瓊々杵命が関金に降臨する頃は天照大御神は亡くなっていたか亡くなる前であった。藤原氏は伊勢野の天照皇大神宮を隠すために古事記を改ざんしている。
 古事記には「そこで天照大御神、高木の神は勅命して、天忍穗耳に『今、葦原の中つ国は平定し終わったという。そこで、言依さしに従って天降り、その国を治めよ』と言った。天忍穗耳は答えて、『天降りしようと服を着替えておりましたところ、私の子が生まれました。名は邇邇藝命といいます。この子を降らせた方がいいかと思います』と言った。この御子が、高木の神の娘、萬幡豊秋津師比賣を妻として生んだ子が、天火明命、次に邇邇藝命の二柱である」とある。

2 丹後の籠神社の祭神は奈良時代までは彦火火出見尊であった。
(1)先代旧事本紀は、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、亦の名を天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という」とする。
(2)『消された大王饒速日命の謎』の著者、神一行氏は、海部宮司の言葉を、その著書の中で 「『籠神社』の主祭神の火明命には、いくつかの別名がありますが、籠神社にとってもっとも重要な別名は、彦火火出見尊です。籠神社は、養老元年(717)までは、主祭神として、火火出見尊を祀っていましたが、その後はわけあって、『海部氏本紀』の始祖・火明命として祀っております。」とある。これは、火明は、本来「火火出見」であったということである。
(3)私見
 丹後の籠神社の祭神は彦火明命であり、先代旧事本紀も天火明命と饒速日尊は同神とするので、天火明命=饒速日尊は丹後の籠神社に行っていたものと思っていた。しかし、海部宮司は「籠神社の祭神は奈良時代以前は彦火火出見尊であった」と言うので、天火明命=饒速日尊は丹後に行っていない。

3 私見
「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とあるので、徐福は倭国にとどまった。この倭国とは、「在東海中」とあるので、列島のことではなく日本海沿岸にある小さな国のことであり、鳥取県中部のことである。徐福(天照大神)も丹後には行っていない。
 饒速日尊が亡くなったので、天忍穗耳はこういう返事(瓊々杵命が生まれたこと)をしたのである。天照大神がいつ高天原から伊勢野の皇大神宮に降りてきたのかは古事記からは分からないようにしてある。
 因幡の白兎伝説について白兎を徐福一行に、和邇を始皇帝に比定する人がおられたが、面白い説だと思います。まさにそのとおりかもしれない。千代川流域にも白兎に代表される一族がいて、天照大神の装束をくわえて霊石山に導いたという伝承が因幡国にはあるから、白兎が徐福一行ならば、年老いた長を導くのは当然である。また徐福がいつまでたっても状況を復奏しないので、始皇帝の部下が徐福を追っていたのではないだろうか。徐福一行の装束は白い装束であったそうである。

 余談 
 和邇(鰐)とは丸木舟を操る船頭のことである。丸木舟がサメの形に似ているからこのように言う。丸木舟の大きさによって一尋鰐、八尋和邇に分けられた。いわゆる丸木舟による海上タクシーである。住吉海上交通のほうが古いのだが(縄文海進ピーク時以前からあった)、因幡の白兎では綿津見海上交通が利用された。大綿津見神とは、和邇(鰐)たちの頭領であった。本拠地は辰韓・慶州近くの港である。
 
 

出雲国は天照大御神(徐福)の子の天穂日が建国したとされているが、その子の建比良鳥は殷の末裔の箕子朝鮮の準王(紀元前194年頃に渡来)であった

2018-05-31 05:29:23 | 天照大神(徐福)

 出雲国は天照大御神(徐福)の子の天穂日が建国したとされているが、その子の建比良鳥は殷の末裔の箕子朝鮮の準王(紀元前194年頃に渡来)であった。


 理由
1  殷の末裔の箕子朝鮮も出雲国も青銅器文化であること。


2  倭国で発掘された銅鐸の一番古いものは紀元前190年頃であり、それまで馬韓で踊りの拍子とりに使われていたという記述があること。


3  天穂日は天照大御神(徐福)の子であり紀元前210年には日本にわたってきているので、紀元前194年にわたってきた準王が天穂日の子供とされても、おかしくないこと。


4  箕子朝鮮の準王は漢人であるが、古事記は「建比良鳥は漢人であるから注意せよ」と書いていた節がある。


5  紀元前194年以降、箕子朝鮮は中国・朝鮮の歴史書では消息が分からないからあくまでも伝説上の国であり存在したかどうかは疑わしい、と通説はいう。しかし、日本に来ていたのだから、中国・朝鮮の歴史書からは消えている。藤原氏は同じ馬韓の地にいたということを知っていて、出雲国を厚遇したと思われる。


6  紀元260年頃に作成された「三国志魏略」に「準王海中、不興朝鮮相往来。準王は海中にあって(朝鮮と)行き来したが(箕子)朝鮮の再興はできず」とある。「海中にある」とは「対岸にいる」ということである。(事代主が海中の青柴垣に入ったというのも美保関の対岸の福庭の青柴垣に入ったということである)。行ったり来たりしたが箕子朝鮮を再興することができなかった。対岸とは出雲国のことである。


7  紀元前230年から紀元前195年まで平壌を中心に国を造っていたのだから、徐福一行三千人が通るのも知っていたはずである。徐福一行が蓬莱国(伯耆国)に行くことも聞いていたのかもしれない。


8  「史記」「漢書」では、箕子朝鮮の終幕は不確かなものとなっている。箕子朝鮮滅亡が同時代の史料には見えない。


 私見
 辰(秦)韓には秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人が集まった。馬韓はその東の地を割いて与え住まわせ辰(秦)韓人と名づけた。これは秦が敗れる前の徐福たちのことである。
 徐福一行(二次)は紀元前210年伯耆国に到着した。それより16年遅れて準王一行は出雲国に到着した(紀元前194年)。出雲国は殷王朝の末裔が建てた国である。準王一族は松江南部におり、天穂日は能義平野(安来市)にいた。
 箕子朝鮮は、紀元前195年に中国からの亡命者、衛満に簒奪される。「魏略」(260年頃成立)は箕準一族のその後を語っている。「衛満に破れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。国に残った箕子一族は韓を名乗り、準王は海中(対岸)にあって(朝鮮と)行き来したが(箕子)朝鮮の再興はできず」とする。
 「魏略」の書かれた紀元260年頃は、卑弥呼と崇神天皇が亡くなった直後であり、倭国大乱の後である。倭国大乱は天孫族と準王一族との争いであった。「魏略」は、準王一族は倭国で(箕子)朝鮮の再興を卑弥呼や崇神天皇に阻まれたことを記している、と解する。
 


熊野本宮大社の主祭神である家津美御子はヤマト王権と敵対していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である

2018-05-30 04:51:07 | 天照大神(徐福)

熊野本宮大社の主祭神である家津美御子はヤマト王権と敵対していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である


1  熊野三山の縁起(ウィキペディアより)
 熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社からなるが、当初は別個の展開をたどり、本宮は崇神天皇代、速玉は景行天皇代(扶桑略記)、那智は孝昭天皇代に裸行が開基した(熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記)とするが定かではない。正史において、神名が確実に確認できるのは806年の史料中にある記述で、766年付で「速玉神と熊野牟須美神にそれぞれ4戸の神封を施入した」とあるもので、これら2柱の神は今日の新宮に比定される熊野神邑に一緒に祀られていたと見られる。
 9世紀中ごろになると、単に熊野坐神とだけ呼ばれ、神名が明確でなかった本宮の神が家津美御子ないし証誠菩薩と呼ばれるようになり、新宮の牟須美・速玉とともに家津美御子が古くからの熊野神であるとの伝承が成立した(「熊野権現垂迹縁起・長寛勘文」所収)。
(私見)
 正史において神名が確認できるのは、速玉神と熊野牟須美神が766年、家津美御子(熊野坐神)が9世紀である。それ以前に熊野三山なるものはなく、熊野三山は伊勢神宮や出雲大社と同じく奈良時代後半になって藤原氏の列島における百済再興のあかしとして造られたテーマパークである。いくら、平安時代に歴代天皇が熊野詣でをしようが、所詮はUSJやディズニーランドと同じくテーマパークである。魂のない仏である。速玉男神と熊野牟須美神が熊野にいたのは短期間であり、船を造って伯耆国へ行った。

2  家津美御子神(別名 熊野坐神・素盞鳴神)
 家津美御子神は神倉神社に降臨した熊野権現である。
「昔、唐の天台山の王子信が日本の英彦山に天降った。その姿は高さ3尺6寸の『八角なる水晶の石』という。次に伊予国の石鎚峯、次に淡路国の遊鶴羽山、次に紀伊国の切部山付近にある松の木のもとに移った。それから熊野新宮の南の神蔵峯(神倉神社)に降臨した。その後、今度は新宮の東の阿須賀社の北、石淵谷に移る。ここではじめて『結玉家津美御子』という名を表わした。それから、神は『本宮大湯原』(明治22年まで本宮大社が鎮座していた大斎原)の、3本のイチイの木に3枚の月形となって天降った」とある(1163年の長寛勘文に引用の熊野権現御垂迹縁起より)。
(私見)
 熊野三山のなかで一番の主祭神とされている家津美御子は素戔嗚命ではない。熊野本宮大社の主祭神である家津美御子神は神武天皇と戦った兄磯城と同じ青銅器文化の一族である。早い時代に全国に展開していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である。家津美御子神のいた神倉神社から銅鐸が見つかっている。兄磯城のいた米里からも銅鐸が見つかっている。どちらも神武天皇に敵対する一族である。また、家津美御子神は青銅器文化の一族の拠点であった淡路島にもいたこともあるので、ヤマト王権に敵対する青銅器文化の一族であった。
 時代は唐ではなく漢の時代である。紀元前194年に列島に渡ってきた殷王朝の末裔準王の一族である。卑弥呼たちヤマト王権は熊野も巡行したが、家津美御子一族は石淵谷や熊野川の奥の本宮大湯原に逃げていたので平定できなかった。

3  私見
 神倉神社から銅鐸が見つかっている。家津美御子は淡路島にもいたが、淡路島は銅鐸が多くみつかり、青銅器文化の一族の拠点である。神倉神社にいた神は熊野権現と呼ばれ、徐福の7人の残り4人が仕えたという。仕えなければ殺されたから仕方なく仕えた。3人(速玉男命・熊野櫲樟日命・事解男命)は船を造って国に帰ったとするが、国に帰ったのではなく、海路吉備国に到着し陸路伯耆国に至って徐福に再会した。この7人は紀元前219年に熊野に漂着した7人である。3人(速玉男命・熊野櫲樟日命・事解男命)は伯耆国に行ったが残った4人は20数年後に熊野権現(家津美御子)が現れ熊野権現に仕えた。このことは伯耆国にいた神武天皇たちの耳にも入っていたはずである。熊野本宮大社の熊野12所権現のなかで主斎神とされる家津美御子だけが異質である。
 京都の藤原氏は熊野での主従関係を愉快に思っていた。天皇は伊勢神宮には行かなかったが、熊野詣では何度もしている。

4  (参考)
 鳥取県神社誌に見る、一時熊野にいて徐福に再会するために伯耆国に来た3人(船を造って伯耆国に来た)を祀る神社(3人とも因幡国より伯耆国に多い)
※速玉男命 因幡7社 伯耆21社 計28社 
熊野神社(浦富町)、長瀬神社(河原町)、高山神社、末松神社(気高郡)、新宮神社(宝木村)、新宮神社(逢坂村)、子守神社、立原神社(上余戸)、東郷神社、上小鴨神社、天乃神奈斐神社、柴尾神社(以西)、船上神社(以西)、葦原神社(安田)、日御碕神社(陰田)、熊野神社(東長田村)、熊野神社(賀野村)、岸本神社、岡成神社、熊野神社(アビレ村)、多里神社、宮市神社、大森神社(以西)、山根神社、中川神社、野上荘神社、福岡神社、神奈川神社
※熊野櫲樟日命(別名 熊野夫須美神または熊野牟須美神) 因幡3社 伯耆8社 計11社 
都波奈彌神社、諏訪神社(智頭町)、天穂日命神社、大原神社、松崎神社、日御碕神社(陰田)、逢坂八幡神宮、天萬神社、野上荘神社、厳島神社(日野村)、安井神社
※事解男命 因幡7社 伯耆15社 計22社 
熊野神社(浦富町)、長瀬神社(河原町)、高山神社、末松神社(気高郡)、新宮神社(宝木村)、新宮神社(逢坂村)、子守神社、立原神社(上余戸)、東郷神社、上小鴨神社、天乃神奈斐神社、柴尾神社(以西)、船上神社(以西)、葦原神社(安田)、日御碕神社(陰田)、熊野神社(東長田村)、熊野神社(賀野村)、岸本神社、岡成神社、熊野神社(アビレ村)、多里神社、宮市神社


速玉男命は徐福(紀元前219年の第一次)の重臣であった

2018-05-29 13:01:54 | 天照大神(徐福)
 徐福一行の第二次(紀元前210年)は辰韓に渡り次々に伯州(伯耆国)に向けて出港し伯州(伯耆国)に結集したが、第一次(紀元前219年)のときは、対馬海流を考慮していなかったため、船出した船は列島に散りじりに漂着した。熊野もその一地域であった。
 
1  新宮の徐福公園の碑より
 日本の書物の長寛勘文には「第五代孝昭天皇の時代に南蛮江の斉王が船で来る途中暴風雨にあって船がこわれ、やっと七人だけが助かった。その中の三人は船を作って本国へ帰ったが、四人は留まって神につかえ、魚を釣って来ては熊野権現に供えた。その子孫はとうとう新宮に住み着いて繁昌した。」とある。
 徐福公園の七塚の碑
 徐福の墓の横には、徐福の重臣7人を祀った石碑が立っている。7人の墓はもとは円墳で、蓬莱山を中心として北斗七星の形を表して造られていたらしい。明治時代にはこれらの墓が存在してたが現在は不明である。

※ 私見
 徐福の重臣7人の古墳を造ったのは京都の藤原氏であった。京都の藤原氏は徐福一行の古墳が円墳であることを知っていた。鳥取県中部に古墳は2395基あるが、そのうち2338基(97.62%)は箱式木棺・石棺を土で封じた円墳である。徐福一行の古墳は円墳であった。鳥取県中部にいた一族は徐福一行であった。徐福が留まった倭国とは鳥取県中部であった。

 
2  新宮市観光協会のホームページ  熊野速玉大社より

 「速玉」の社名の由来は、船の舳先で黒潮の怒濤を切り裂く水しぶきを聖なる飛沫として「速玉」と呼んだという説がある。
 社殿には七体の古神像(重要文化財)が安置されている。このうち四体は平安時代初期の作と伝えられる。 
 熊野権現御垂迹縁起によると、「唐の天台山から飛行し、日本国鎮西の日子山(英彦山)に八角の水晶の姿で降臨し、更に伊予国の石槌山や淡路の遊鶴羽の峰、紀伊国牟婁郡切部山を経て、熊野新宮の南の神倉山に天降った」とされる。
 神倉山のゴトビキ岩の下からは弥生時代の銅鐸が出土しているが、速玉大社からは山に遮られて見えない。すなわち、神倉神社と速玉大社は基本的には無関係な信仰である。速玉大社はやはり、立地から見て熊野川に坐す神への信仰である。本宮と同一の歴史を持つものである。
 神倉神社
 上がる途中の急な石段で久しぶりに蛇を見た。
 神倉神社より新宮市街を望む
 転んだら生きては帰れないほど急な石段である。降りてから新宮市の観光に携わっているという女性と出会った。「日本の歴史はすべてここから始まった」と言っていたが、伊勢神宮や出雲大社と同じく藤原氏に造られたテーマパークの一つである。熊野那智大社、熊野本宮大社、熊野速玉大社は本殿が3~4に分かれている藤原様式である。
 熊野那智大社
 
 熊野速玉大社

 速玉男命は少し居ただけで、本国ではなく伯耆国に行き、そこで生涯を終えた。藤原氏は原古事記を見ているからもちろん史実を知っているし、鳥取県中部が徐福一行が留まった倭国であり、奈良時代まで都であったことも知っていた。
 藤原氏は熊野に熊野速玉大社を造り、熊野本宮大社の祭神にもした。歴代藤原天皇も来たようである。速玉男命が実際に生涯を終えた福岡神社はほったらかしである。伯耆国の歴史を消し去るためである。

 熊野本宮大社
 主祭神の家津美御子神は素戔嗚神であるとするが、鬼・土蜘蛛・猿・蝦夷などと呼ばれている青銅器文化の一族であり、この地域を支配していた。天照大御神・素戔嗚命・速玉男命とは敵対した一族である。

3  速玉男命を祀る鳥取県の神社
※速玉男命 因幡7社 伯耆21社 計28社 
熊野神社(浦富町)、長瀬神社(河原町)、高山神社、末松神社(気高郡)、新宮神社(宝木村)、新宮神社(逢坂村)、子守神社、立原神社(上余戸)、東郷神社、上小鴨神社、天乃神奈斐神社、柴尾神社(以西)、船上神社(以西)、葦原神社(安田)、日御碕神社(陰田)、熊野神社(東長田村)、熊野神社(賀野村)、岸本神社、岡成神社、熊野神社(アビレ村)、多里神社、宮市神社、大森神社(以西)、山根神社、中川神社、野上荘神社、福岡神社、神奈川神社

4  鳥取県伯耆町福岡神社の蛸舞式神事
 福岡神社由緒(昭和九年の鳥取県神社誌より)
 「旧若一王子権現と称す。若一王子は熊野三社の内、速玉男神なり。上古、紀伊国熊野浦より海上大蛸に乗り、吉備国へ上陸。この地に至り給うと。故に俗称蛸大明神と云う。社後の岡に崩御所と伝うる墳墓あり」とある。
 福岡神社。地元が維持管理している。
 礎石の下にあった蛸の石像。
 社後の岡の崩御所

 速玉男命はここに眠る。
 福岡神社では、伯耆町が全国に誇る伝統行事「蛸舞式神事」が毎年10月に行われる。
 その昔、速玉男命が熊野灘(和歌山県)で遭難した際、大蛸に助けられ、無事吉備国へと上陸。その後、この地を訪れたという故事にちなみ、この祭りが行われてきた。

5  私見
 神倉山から銅鐸が見つかっているので、ここに降臨した熊野権現は青銅器文化の一族(準王の一族)であり、徐福の一行(ヤマト王権)とは敵対するものである。新宮市観光協会のホームページの熊野速玉大社にある「神倉神社と速玉大社は基本的には無関係な信仰である」と解するのは正しい。
 鳥取県の神社に多く祀られているのは、鳥取県でしばらく活動していたからである。速玉男命は蒜山(高天原)にいた徐福(天照大御神)を探して鳥取県に来ていた。徐福(天照大御神)も、うけいで鳥取県西部を探していたので速玉男命たちを見つけたものと思われる。福岡神社の日本の3大奇祭に数えられる蛸舞式神事は速玉男命が徐福(天照大御神)にあったときの喜びを表現した舞と思われる。

宗像三女神の本家は米子の胸形神社であり九州の宗像大社ではない

2018-05-28 09:33:15 | 天照大神(徐福)
1  米子の宗形神社  西伯郡成実村宗像向塔
 「祭神」田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命ほか十八神  
 ※三女神は天照大御神・素戔嗚命の御子神とある。血はつながっていないが親といえば親である。
 「由緒」 延喜式神名式に伯耆国会見郡胸形神社とある旧社にして古来上下の崇敬殊に篤い。古昔鎮座の地は現在地より北3丁(330m)あまりの宮谷というところにして本宮と呼ぶ。本殿ありしと伝える山頂の地には数多の小石あり。中腹に清泉ありて井戸といい断水することなし。
 古昔当社の祭神は今の大字長田(長砂町小林)に(宗像と隣接せる所にして当時この辺まで入海なりしという)海路御来着、宗像の地に鎮座せられしと云い、御着船の地を今に船塚と称え御舟は石に化したりと云い伝ふ。
 ※戦後宅地として造成されたが二千数百年で木が石になったりしない、と全国の神社を掌握していた藤原氏に一言。今でも宮司に多い。
 「当時この辺まで入海なりし」とは倉吉の住吉神社と表現が似ており、またその時の海抜は20mになるため、合併した住吉神社の由緒を転用したものと思われる。
◎ 重要だと思われる合併  
住吉神社 表筒男命、中筒男命、底筒男命  成実村日原中尾山
熊野神社 伊弉諾、伊弉冉、天照大神  成実村奥谷字谷奥山

2  古事記の「誓約」の所に、次の文がある。音を表すとしてある。
 その霧の中から生まれた神の名は、(タギリヒメ)、またの名は(オクツシマヒメ)という。次に(イチキシマヒメ)、またの名は(サヨリヒメ)という。次に(タギツヒメ)。合わせて三柱の姫神が生まれた。このとき、先に生まれた神のうち、(タギリヒメ)は胸形の奥津宮に鎮座している。次の(イチキシマヒメ)は同じく胸形の中津宮に、また(タギツヒメ)は辺津宮にいる。この三女神は胸形の君たちが奉斎する三前(ミサキ)の大神である。
 「三前」は、「岬」である。古事記に書かれている「胸形」とは延喜式神名式に伯耆国会見郡「胸形」神社とあり伯耆国の胸形の地のことである。延喜式神名式が作られたとき古事記はまだ隠されていたので藤原氏はそのまま胸形神社と延喜式神名式に記載したのであるが、その後古事記に胸形と書いてあることを知り、判らないようにすることを考えた。「宗形」神社としたのは宗像と胸形の一字づつを採った苦肉の策である。
 三女神は徐福の少女一行でありこの地に着船した年は紀元前210年である。目の前には秀麗な山容の蓬莱山(伯耆富士)が見える。徐福たちは、これを目標に東海(日本海)を渡ってきた。表筒男命、中筒男命、底筒男命はその時の船の船頭と思われる。
 米子市観音寺集落の藤内稲荷神社(保食神社)の祭神は市杵島比売である。海抜も20mの所にあり、古事記の「胸形の中津宮」のあったところと思われる。
 
3  宗像大社の沖ノ島の出土品の時代は主に4世紀後半~9世紀末であり、海上交通の安全のために供えられたと思われる。魏志倭人伝には「その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、キシツを去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり」とある。 魏志倭人伝には海上交通の安全のために命を懸けて、船に乗る持衰がいたそうである。それほど海上交通の安全は重要であった。いくら国宝があるからと言っても宗像大社は本家にはならない。胸形神社の創立は三女神が亡くなったときには祀ったであろうから紀元前であるし、三女神は実際に伯耆国に着船したと由緒にあるから、伯耆国の胸形神社が本家である。

4  宗像三女神
 宗形神社案内板には宗像三女神は天照大神と素戔嗚命の御子神である、とかいてある。天照大神は道教の方士であり占いや祈りが大事であった。三女神は方士徐福によって少女たちの中から選ばれた倭国での最初の巫女である。到着した順に奥津宮、中津宮(米子市観音寺の藤内稲荷神社)、辺津宮に分かれて、海上交通の安全を祈った。後に卑弥呼も伊射波神社の前に巫女として先輩である市杵嶋姫命を祀っている。直井裕氏も言うように、卑弥呼は倭国天皇家の子孫として徐福(天照大神)の子孫となる。

5  伯耆国の胸形神社です。
 



 この日は黄砂でかすんでいたのでシルエットだけであるが、秀麗な山容の大山

6  合併された近くの熊野神社です。
 ほとんど小さな祠状態。しかし、実際に祭神がいた可能性はある。

7  青森県の棟方さんよりコメントをもらいました。それによると「青森県の棟方一族はもともと山陰(米子)で胸形と名乗っており、江戸時代に北九州に行かされたが、今は棟方と名乗り青森県にいる」ということであった。

8 宗像大社のある地は641年に百済の船が筑紫に到着したところと思われる。
 2017年7月9日ユネスコ世界遺産に「沖ノ島」、構成資産8つすべてが登録された。当初九州本土の4構成遺産は除外するように勧告されていたが、8遺産すべてが登録された。延喜式神名帳(927年)には米子の胸形神社の記載がある。古事記の胸形氏が米子で祭祀をしていたのは712年よりずっと以前からである。宗像大社が造られたのは江戸時代初め頃と思われる。ユネスコ世界遺産に登録してもらうには、地元の強力な働きかけが必要だという。ただの穴倉にすぎない石見銀山が世界遺産に登録されたのは地元の有力者が20年かけて訴え続けてきたおかげだと聞いた。宗像も地元の強力な働きかけがあったものと思われる。やはり、宗像大社など(藤原氏の造った神社)4遺産も日本政府(藤原氏)が強力に登録申請を勧めていた。偽の胸形(宗像)が公認された。
 神武東征に関係する19自治体が日本遺産登録に向けて活動を開始した。橿原神宮が中心になっているが、これも「日本を取り戻す」といった藤原氏が橿原神宮に働きかけて、亡命百済人によって日本書紀に創られた神武東征関連地を日本遺産にし、また戦前のように軍国主義を復活しようとしている。

 おまけ

胸形三女神の子孫?!

天照大神と素戔嗚命のうけいは鳥取県淀江町の天の真名井で行われた

2018-05-27 20:57:50 | 天照大神(徐福)

 天の真名井の近くには、妻木晩田遺跡、上淀廃寺、稲吉角田遺跡、宗形神社がある。
 稲吉角田遺跡は弥生時代中期(紀元前100年~紀元前50年)であり、天孫族は大陸に行くルートの中継地として淀江町を重視していた。私見では神武天皇四兄弟の時代である。神武天皇四兄弟は淀江町を通って九州に行った。妻木晩田遺跡が出来たのは紀元元年頃である。地元の歴史家は妻木晩田遺跡の住民は下に降りて淀江町を作った、という。上淀廃寺は奈良時代ではなく天武期である。
 宗像三女神は連れてこられた徐福一行の少女たちだった。天照大神と素戔嗚との誓約は実際に子供を産んだのではなく、行方不明になっていた少年少女を探し出したということである。宗像三女神のように徐福一行の少女たちは米子周辺に漂着していた。のちに神武天皇の皇后となる比売多多良伊須気余理比売(日本書紀では媛蹈鞴五十鈴媛ー鳥取県伯耆町久古神社の祭神)も徐福一行の少女たちの子孫であると思われる。
 三女神は米子市の胸形(古事記)にいた。詳しくは「宗像三女神の本家は米子の胸形神社であり九州の宗像大社ではない」を参照されたし。
 天照大神と天忍穂耳や天穂日は血がつながっていない。連れてこられた徐福一行の少年たちと思われる。天忍穂耳や天穂日たち5人も鳥取県西部に到着していた。天忍穂耳の子は江府町や大山町で生まれている。天忍穂耳は後に関金町耳に居たので耳がつく。天穂日は素戔嗚と稲田姫を守るために鳥取県八頭郡に行っていた。

1  鳥取県淀江町の天の真名井
 湧水量は1日2500トンに及ぶ。
 きれいな清水である。
 

 柵を作る前は左下の石段を下りて水を使っていた。天照大御神と素戔嗚命もここでうけいをした。
 「この泉は、米子市淀江町高井谷泉川にあり、『天の真名井』と呼んでいます。『天の真名井』とは、『古事記』『日本書紀』において、高天原の『神聖な井戸』を意味し、神聖な水につけられる最高位の敬称です。高井谷の氏神である下津守神社の古棟札にも、『天乃真名井乃清久潔幾与 元水於降玉布(あめのまないのきよくいさぎよき もとつみずをくだしたまふ)』と古くから記されております。・・・この『天の真名井』泉川の下流の宇田川平野には、弥生時代の角田遺跡があり、すでに二千年もの昔から、人々の生活と耕作の水源として大切にされてきたことを物語っております。・・・」とある。

2  「天の真名井」の横にある「毘沙門堂」
 「毘沙門天は七福神の一つで、財宝や福徳の神様として信仰されています。一月三日の早朝にお参りすると福徳が授かるといわれています。元々は高井谷村内の山腹、毘沙門平にありましたが大正十五年に現在地に移されました。毘沙門天のほか、薬師如来、弘法大師も祀られています」とある。
 毘沙門天は仏教における素戔嗚の仮の姿であり、薬師如来は仏教における徐福(天照大神)の仮の姿、とされる。

3  サイノカミも祀られている。
 サイノカミ(猿田彦と天鈿女)
 「高井谷には、元治元年(1864年)作の神像と、小型の持ち回り用の神像があります。小型のものは良縁を願って、婚期の近づいた跡取りのいる家に持っていき、めでたく婚礼が終わると次の家に持ち運んでいくという風習があります」とある。
 淀江町にはサイノカミ(猿田彦と天鈿女)が多く祀られている。

4 うけいで生まれた八神を祀る伯耆国の神社
大原神社 倉吉市大原
松崎神社 東伯郡湯梨浜町松崎
日御碕神社 米子市陰田町(祭神 うけいの八神)
松河原神社 西伯郡大山町松河原(祭神 うけいの八神)
日御碕神社 西伯郡南部町三崎(祭神 うけいの八神)
野上荘神社 西伯郡伯耆町福吉(祭神 うけいの八神)
宮﨏神社 日野郡根雨町下榎(祭神 うけいの八神)
安原神社 日野郡根雨町安原(祭神 うけいの八神)

5 私見
 うけいで見つかった八神をまつる神社が鳥取県中西部に七神社あるが八神が七神社で見つかったのではなくそれぞれの神社で見つかった神は異なっていた。
 松河原神社は近くに瓊々杵命(史実は饒速日命)が生まれた壹宮神社があるので天忍穂耳命が見つかったところであると解する。
 南部町の日御碕神社は周りに天穂日命を祀る神社が多いため天穂日命が見つかったところであると解する。
 陰田町の日御碕神社は三女神がいた胸形神社に近いため胸形三女神が見つかったところであると解する。
 宮﨏神社と安原神社と野上荘神社は速玉男命と一緒に熊野から吉備に上陸して伯耆国の奥に到着していた速玉男命を祀る福岡神社が近くにあるため熊野久須毘命が見つかったところであると解する。
 松崎神社は津(東郷池)の畔にあるので天津日子根命、活津日子根命が見つかったところであると解する。


6 鳥取県西部の天穂日命を祀る神社
北原神社 米子市福萬
御崎神社 米子市河岡
北野神社 米子市赤井手
御崎神社 米子市尾高
巨勢神社 米子市八幡
大川内神社 西伯郡南部町上中谷
松尾神社 西伯郡南部町田住
小町神社 西伯郡伯耆町小町
三部神社 西伯郡伯耆町三部
渡神社 日野郡根雨町本郷
岩崎神社 日野郡日南町湯河
奥萩神社 日野郡日南町上萩山
 
 天穂日命は鳥取県西部に到着していたが、素戔嗚と稲田姫の御殿を守るように命じられ鳥取県東部の八頭郡に行っていた。

鳥取県西部の日御碕神社と大神山神社

2018-05-27 05:09:50 | 天照大神(徐福)


1  海岸近くの日御碕神社
(1)総社 現住所 島根県出雲市大社町日御碕455
   日沈宮はもと経島に鎮座した。
(2)鎮座地 東伯郡下中山村大字御崎字屋敷下通
   現住所 鳥取県西伯郡大山町御崎86
 由緒 天長年間島根県国幣小社日御碕神社の御分霊を鎮祭し瀧上神社と称し、当時出雲国日御碕神社宮司小野尊光の祖先小野政重この地に移住し宮司となり、政昭、昭高三代相継ぎて奉祀せしが、後昭高別に祭主を置きて帰国せしが、当時の領主厚く崇敬して箆津の庄を社領に附し、境内において殺生を禁じ、・・・。当社建立の際は出雲日御碕神社の古材を以て建立せられ、出雲日御碕神社造営の節は必ず当社も修繕せらるるを例とせり。現今の玉殿は日御碕の社より寄進せられしものなりと云えり。当社の北方境内に接する地に検校屋敷と称する所あり。これ天長年間より延長六年まで殆んど百年間、小野家の祖三代居住せらりし地なりと云う。
(3)鎮座地 米子市大字陰田字小天竺
   現住所 鳥取県米子市陰田町535番
(4)鎮座地 西伯郡渡村大字渡字宮前(境港)
   現住所 鳥取県境港市渡町1487-4
(5)鎮座地 西伯郡中村大字小篠津字本宮(境港)
   現住所 鳥取県境港市小篠津町1174


2 海抜20m以上にある日御碕神社
(1)鎮座地 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
   現住所  鳥取県西伯郡南部町東上656番
(2)鎮座地 西伯郡幡郷村大字岩屋谷字屋敷
   現住所 鳥取県西伯郡伯耆町岩屋谷453番
(3)鎮座地 西伯郡幡郷村大字諸木字中屋敷
   現住所 鳥取県西伯郡南部町諸木329
(4)鎮座地 西伯郡大幡村大字吉長字三才木 
   現住所 鳥取県西伯郡伯耆町吉長370番


3 大神山神社(鳥取県神社誌昭和9年刊より)
 主祭神 大巳貴命(又の名を大国主命)
 由緒 神代の昔、八束水臣津野命と大己貴大神が大山預上で神事を執行せられし以来、御神霊ましますとして、御神系の方々がその祭祀に奉祀せられ、爾来、大山中腹の現今の奥の宮所在地に、磯城の瑞垣神南備を築き南面して頂上を拝して奉斎せられたるものなるべけれど、記録の徴すべきものなく、唯、続日本記(797年)に承和四年授伯耆国無位大山神従五位下、又文徳実録(879年)に斎衡三年加伯耆国従五位下大山神正五位下、又三代実録(901年)に貞勸九年授伯耆国正五位下大山神正五位上とあり、又延喜神名式(927年)に伯耆国相見郡大神山神社とあり、又出雲風土記(733年)に固堅立加志者有伯耆国大神岳是也とあり、その大山といい大神山というも同一の山なり。


4 大神山神社奥宮(鳥取県神社誌昭和9年刊より)
 祭神 大巳貴命
 由緒 上古よりこの山に座す大山神の事は本社の由緒に記せり。大神谷に本社の大山権現又は大山智明権現と称し、例祭祭祀の典式等旧時の遺風を存し、全く神事を廃せざるものあり。
 特殊神事 古式祭 祭日7月14日15日
 御祭神は医薬の神にませば、古式により神職等は斎戒沐浴して、15日の午前1時に神水汲派遣祭(もひとり神事)を宮司以下奉仕執行す。派遣使は白の装束にて随行の白衣の参籠者と共に出発。頂上の池より神水を汲み、付近より薬草を採取して帰路につく。


5 私見
(1) 日御碕神社は全国的にも珍しい神社である。出雲市日御碕神社を総社としてほかに伯耆国に8社確認できる。日御碕神社の祭神は天照大神命と素戔嗚命であるが、徐福(天照大神)と素戔嗚が辰韓から鳥取県中部の葦原中津国に到着するまでに停船したところであると解する。
 海抜20m以上にある伯耆国の4社は遅れてくる徐福一行を迎えるために徐福(天照大神)と素戔嗚が蒜山から降りてきたところと思われる。
(2) 大神山神社の由緒には「記録の徴すべきものなく」としながらも、「続日本記(797年)に『大山神』、文徳実録(879年)に『大山神』、三代実録(901年)に『大山神』とあり、出雲風土記(733年)に『伯耆国大神岳』、延喜神名式(927年)に『伯耆国相見郡大神山神社』とある」を挙げている。由緒の筆者の「その大山といい大神山というも同一の山なり」とするのは強引すぎである。
 神祇志料(明治6年)佐比売山神社の條に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」とする。
 神祇志料の「伯耆国大神山」と出雲風土記の「伯耆国大神岳」とは同義である。どちらも伯耆国大山(ダイセン)を意味する、とするのが通説である。しかし、伯耆国大神山(岳)の「大神」とは「大神郷」を意味している。奈良時代までは伯耆国久米郡北条郷を大神郷と呼んでいた。
 また、伯耆国大神「山」とは出雲風土記の伯耆国大神「岳」と同義である。「岳」とは百済語であり、より古い新羅語では「根」とする。したがって「岳」とは尾根を意味していた。
 「伯耆国大神山(岳)」とは伯耆国久米郡大神郷にある尾根を意味する。伯耆国久米郡大神郷にある尾根のような山とは北栄町の茶臼山と思われる。伯耆国大神山(岳)とは標高1711mの大山(ダイセン)ではなく標高93mの北栄町国坂の茶臼山であった。
 「御座」とは「本拠地」を意味する。大己貴命(大国主命)、少名毘古那命、須勢理姫命は鳥取県北栄町茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。
(3) 大神山神社の由緒には「磯城の瑞垣神南備を築き」とあるが、大神山神社を築いたのは磯城の瑞垣(崇神天皇)であることを、暗に示している。卑弥呼と崇神天皇は天照大御神を擁して全国に神社を造っていった。崇神天皇が最初に大神山神社を創建したときは、天照大御神を祀っていたはずである。
 また、天照大御神(徐福)は大国主より40歳くらい年配であるから、天照大御神(徐福)が先に大山の薬草を採取していたはずである。不老長寿の仙薬を探しに東海(日本海)の三神仙(大山・烏ヶ山・蒜山)に来たのだから山を「セン」と読む蒜山高原周辺に50くらいある山には登っていた。大山(ダイセン)もその一つである。もひとり神事は白装束でなくてはならないのだから、これも徐福(天照大神)たちと重なる。


大山や蒜山などの山をセンと読む一族は、山を仙人や神仙の「仙」に置き換えて読む道教の方士徐福の本隊であった

2018-05-26 05:49:20 | 天照大神(徐福)

1 蒜山周辺の50余りの山をセンと読むのは春秋時代の呉から来た集団がつけた、という説がある。
 春秋時代の呉があったのは、現在の揚子江河口辺り(上海・蘇州のあたり)である。ここから船で出航すれば半分以上は九州に到着する。彼らは九州の山々にセンという読み方をつけていったと思われるが、九州にセンと読む山は少ない。従って、春秋時代の呉から来た者達が蒜山でも山をセンと付けたのだという仮説は成り立たない。そもそも、呉から来た集団は山に関心はなかったと思われる。
 山に関心があり、山の読みをセンと付けたのは、山に仙人がおり仙薬が山にあり神仙を追い求めていた道教の集団であった。それは、3千人余りの徐福の集団であった。徐福の集団は不老長寿を求めるという一つの目的によって結束していた集団である。これが、呉の集団であるならば、目的もなくバラバラであった。呉の集団が山に関心があり山に命名していたのならば、九州の山にもたくさんセンという山があるはずである。九州の山に少ないのは、蒜山にいて山をセンと名付けた集団は呉の出身者ではなかったということである。


2 なぜ、全国で蒜山高原の周辺の山だけをセンと読むのか、昔から疑問に思っていたのだが、道教の方士たちが蒜山高原にいたという前提にたてば、山は鉱物や薬草が取れる不老長寿には欠かせない重要なところだから仙人の住む仙という字を付けてもおかしくないと思われる。徐福は大山を蓬莱山だと思い小さな湾(葦原の中津)に到着し、蒜山高原に上がった。蒜山高原にしばらくいて周辺の山々を探索して薬草や鉱物を探したものと思われる。大山の大神山神社では頂上から薬草を採って帰るもひとり神事が今でも行われている。
 奈良時代までは蒜山高原周辺の山を「仙」と書いてセンと読んでいた。例えば大仙であり蒜仙であり烏ヶ仙であったと思われる。


3 道教の方士は不老長寿の仙人の住む海上の異界や山中の異境に楽園を見いだし、仙人たちを信仰し仙人にいたるための実践を求めようとした。その究極の目的は不老長生である。
 古代中国ではなんとかして東海中の三神山に住むという仙人に会い、長寿の薬をもらおうとした。道教の方術は気に満ち幽玄な環境をもつ山が修行に適していたことや、鉱物や薬草が豊富であったことから山と結びついていた。
 彼らは山に「仙」の字をあて「セン」と読んだ。大山(ダイセン)蒜山(ヒルゼン)烏ヶ山(カラスガセン)甲ヶ山(カブトガセン)矢筈ヶ山(ヤハズガセン)などの中心である蒜山高原には道教の方士のいる一族集団が住んでいた。それは、方士徐福の本隊であったと思われる。鳥取県・島根県・岡山県・兵庫県の四県あわせて50くらいの山をセンと読む。


4 蒜山高原一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。
 古事記における三貴神より以前の神は96神いたと思われるが、蒜山高原の神社の祭神は24神であり約4分の1が祀られている。珍しい神が多い。蒜山高原は日本最初の首都であり、天都と言ってもおかしくない。
 蒜山高原の神社の祭神は以下のとおりである。
福田神社-川上村
上筒之男命 中筒之男命 底筒之男命 大山祇命 火之迦具土神  久久能智神 志那津彦神 志那津姫神 彌都波能賣神 
長田神社---八束村
伊邪那岐命 伊邪那美命 闇淤加美神 
加茂神社--八束村
金山比古命 速秋津比古命 速秋津比売
茅部神社 大綿津美命  軻遇突命  大山祇命  神直日神  句々廼馳命   
徳山神社 伊邪那岐命 伊邪那美命 水分神(天之水分神 國之水分神) 三柱底男(上津綿津見神・中津綿津見神・底津綿津見神) 


5 徐福は方士と呼ばれる学者であり、彼らの学ぶ方術の中には「未来を予測する学」も含まれていた。
 道教では鏡を使って明照法を行なうことによってさまざまな方術が身につくという。たとえば、分身の術、一瞬のうちに千里の彼方まで行く術、雲に乗り氷を踏む術、天地の間のどこにでも出没できる術などである。これらの方術を体得すると、次には神の姿を見ることができるようになる。さらに修行を積むと、未来を予見できるようになり、ついには神仙になれるという。
 卑弥呼が習得していたのも道教の方術であったと思われる。


徐福は小さな湾(鳥取県北栄町)に到着し蒜山高原(岡山県真庭市)に上がった

2018-05-25 04:07:22 | 天照大神(徐福)
(1) 中国の政治家、文学者、詩人、歴史家である郭沫若(1892年~1978年)は「銅鐸は殷人の一種の銅器である」と述べ、春秋時代の徐国が、殷の文化伝統を忠実に継承し、そっくり出雲に移住していたという。
 昭和十六年の「日支交通史」の著者である王輯五は、出雲族は秦系大陸民族であり、考古学的には銅鐸民族であり、徐福集団に比定されるとしている。
 王輯五はさらに、徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集したとする。
 辰韓より出航すると、東に流れる対馬海流と南に流れるリマン海流によって、出雲から伯耆に流れるように到着する。
 徐福一行はまだ地続きでなかった島根半島と本土との間を通ってきた。大山(蓬莱山)は中海から見ると秀麗な山容となる。少女一行の多くは米子に到着した。徐福の本隊は鳥取県北栄町の小さな湾(葦原中津国)に到着した。徐福一行が2回目(紀元前210年)に来たときは仙人(伊邪那岐命)は小さな湾(葦原中津国)に降りてきていたようである。仙人(伊邪那岐命)は徐福に私に替わって蒜山高原(高天原)を治めよといい徐福のNO2(素戔嗚)には私に代わって泊瀬の海原(倉吉市中心市街地)を治めよ、と言った。その時に徐福のNO2(素戔嗚)は「母の国」と言って泣いた。徐福は三神山の大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)に止まって王(天照大御神)となった。
 伯州(伯耆国)には福付き地名が41ヶ所ある。このことより、王輯五のいう「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とするのは正しいと思われる。

(2) 郭沫若、王輯五のいう「徐福一行は出雲に移住し殷人の一種の銅器である銅鐸民族になった」とするのは正しいか。
 伯耆国は出雲の東にあり辰韓を出航すれば出雲を通り過ぎて伯耆国に到着する。出雲国に移住するのなら伯耆国まで来なくてもよい。伯耆国に来れば引き返さなければならない。
 徐福は不老長寿の仙薬を得る為に東海の三神仙に行くことが目的であった。始皇帝も徐福に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じている。三神仙とは大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)のことである。徐福は伯耆国の小さな湾(北栄町の葦原中津国)に到着しそこで待っていた仙人(伊邪那岐命)に会って蒜山高原(高天原)を治めるように言われた。徐福は蒜山に上がり、周辺の山々(山をセンと名付けた)で仙薬を探した。そして始皇帝の言ったように「三神山に止まって始皇帝に替わって王(天照大御神)となった」。
 徐福は蒜山高原(高天原)で王(天照大御神)となり降臨をして平原(伊勢野・斎王野・鈴鹿野・方見村)と広沢(葦原中津国)を得た。
 出雲族は徐福集団ではなく殷王朝末裔の準王一族である。徐福集団(紀元前210年)より16年後(紀元前194年)に出雲の地に到着していた。

(3) 素戔嗚が泣いていたのは葦原中津国であった。
 宮下文書に「宇記島原(浮島と原)に上陸し」とある。倭建命も北栄町大島のことを「こは浮島にや」(宮崎神社由緒)といった。葦原中津国には原集落(北栄町原)もある。倭建命と孝元天皇は大島で二尊(伊邪那岐命・伊邪那美命)を祀っている。
 伊邪那岐命は大島で徐福を待っていた。
 徐福は葦原中津国に到着し、しばらく灘手神社にいた。灘手神社の祭神は天照大御神である。天照大御神が降臨したのは、琴浦町斉尾(斎王)である。灘手神社は降臨した場所ではなく、到着した場所である。まだ徐福であったが、天照大御神に直している。徐福は小さな湾(葦原中津国)に到着し、北栄町大島にいた伊邪那岐命(仙人)に再会した。
 天照大御神を祀る神社は鳥取県に110社あるが、その中で伯耆国は87社(79%)、因幡国は23社(21%)である。総神社数は因幡国のほうが多いが天照大御神を祀る神社は鳥取県中西部が圧倒的に多い。
 あとから来る徐福一行の多くは秀麗な山容の大山を目標に鳥取県西部に到着したので、徐福(天照大御神)はそれを迎えるために鳥取県西部に降りていた。
 天照大御神を祀る神社は西伯郡51社、日野郡27社。
 東伯郡(鳥取県中部)は9社である。
 1 新宮山神社 西郷村下余戸 2 五郷神社 三朝町牧 3 国主神社 湯梨浜町北福 4 神田神社 関金町泰久寺 5 灘手神社 灘手村穴沢 6 上市神社 河来見 7 方見神社 市勢村上伊勢 8 日御碕神社 下中山村御崎 9 神郷神社 上郷村大杉
 福付き地名(徐福集団が住んだ集落)も鳥取県48ヵ所のうち伯耆国は41ヵ所(85%)、因幡国は7ヵ所(15%)である。

(4) 古事記において
 伊邪那岐命が三貴神に「~は私に代わって~を治めよ」と指示した場所は三貴神が到着した葦原中津国である。
 素戔嗚は泣いたが、伊邪那岐命は「この国に住んではならぬ」と命令した。この国とは葦原中津国である。素戔嗚が泣いていたのは倉吉市谷集落の朝日神社のあたりと思われる。祭神の素戔嗚を牛頭天王とする。
 素戔嗚は高天原(蒜山高原)に上がっていた天照大御神に暇乞いをしに行った。泊瀬の海原に降りて周辺を調べているうちに三朝町山田で八俣大蛇を見つけ退治した。
 「この伊邪那岐命はのちの近江である淡海の多賀に鎮座している」の文はのちの挿入であり、史実ではない。私見では伊邪那岐は黄泉国を嫌い鳥取県八頭郡那岐村に移っていた。南には那岐山、岡山県奈義町がある。素戔嗚は八岐大蛇を退治してから、鳥取県八頭郡にいた伊邪那岐を頼って同じく鳥取県八頭郡に御殿を建て稲田姫と住んだ。素戔嗚は伊邪那岐が亡くなってから伊邪那岐に治めよと言われていた根国(泊瀬の海原)に帰った。2番目の妻との間に生まれた須勢理姫と智頭町に降りていたが中山神社(御真木)→真庭市社→蒜山高原(高天原)→倉吉市余戸谷町(根国の清熊稲荷神社)のルートで根国に降りてきていた。谷田神社(清熊稲荷神社)が「根国での冒険」の舞台であり、1人になった素戔嗚は東山神社に移り、十握の剣を大原神社(石上神宮)に奉納した。須勢理姫は東山神社と宇迦能山(北栄町茶臼山)との間を行ったり来たりしていたようである。宇迦之御魂命を祀っている神社の並び方を見るとこういう結論になる。

東海の三神山とは日本海から見た大山・烏ヶ山・蒜山のことである

2018-05-24 07:00:33 | 天照大神(徐福)
 徐福が筆録したと伝えられている宮下文書(徐福文書)は、「一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった」とする。
 上陸した宇記島・原は鳥取県北栄町の島集落と原集落であった。どちらも、紀元前210年では海面が海抜4mであり、波打ち際であった。また葦原中津国を構成しており、天然の良港であった。徐福達は葦原中津国に到着し、蒜山(瀛州山)に上がった。蒜山高原(瀛州)は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。「富士山麓が高天原である」と改ざんしたのは、藤原氏である。
 
 宮下文書にある小さな入り江(葦原中津国の入口)より見た蒜山(瀛州山)。
 日本海の海上に出ても、同じように見える。右から上蒜山、中蒜山、下蒜山である。
 標高は1200m代でありその向こうが蒜山高原(瀛州)になっており、標高は400~500mである。
 徐福はここに上陸した。東海とは朝鮮半島の人は日本海をそう呼んでいたのであり、瀛州山とは蒜山のことであった。
 左側が普通の中国山脈である。蒜山(瀛州山)がいかに目立つか判る。
 大山(蓬莱山)は標高1700m代でありもう一つ抜きんでて大きいが、蒜山(瀛州山)も普通の中国山脈に比べると抜きんでて大きい。古代は大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)を目印にして、大陸(新羅)から渡ってきたものと思われる。この奥に宮下文書に書いてある宇記島(島集落)と原(原集落)がある。島の宮崎神社の由緒には「倭建命がここは浮島かと言われた」という記載がある。