「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか

2022-01-12 18:09:02 | 大国主と出雲族

 出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか

1 私見

出雲族は殷(いん)王朝(おうちょう)末裔(まつえい)の準王一族であった。準王一族はその王の名を代々長髄彦(ながすねひこ)・大己貴(おおなむち)神と呼んでいた。

大国主(大穴持(おおなむち))は歴代出雲国王の通称であり個人名ではなかった。

青銅器(銅鐸、銅剣など)を作る一族は青銅器を作っていた殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族しか思い当たらない。現在出土している国内最古の銅鐸は紀元前190年頃とされる。準王一族が倭国に渡ってきたのも紀元前194年頃である。出雲で発掘された沢山の青銅器は殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族が作ったものであった。出雲王家は紀元前195年衛氏朝鮮の難を逃れてきた人々の末裔(えい)であり、出雲王家は殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族であった。出雲族は鬼・土蜘蛛(つちぐも)・蝦夷(えみし)などと呼ばれていた準王一族のことである。出雲族は「竜蛇(りゅうじゃ)族」であった。
 八上姫(やかみひめ)をめぐる大国主のライバルは鬼(準王一族)であったから、天穂日(あめのほひ)が能義平野(のぎへいや)(安来市)に行ったときはすでに松江市南部(出雲熊野大社(いずもくまのたいしゃ))を本拠地としていた。

 紀元前2世紀頃、出雲にいたのは能義平野(のぎへいや)に天穂日(あめのほひ)であり、松江市南部(出雲熊野大社(いずもくまのたいしゃ))には殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族(出雲族)であった。島根県松江市乃白町の田和山(たわやま)遺跡は殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王たちの祭祀場跡である。これが事実であり、出雲に須佐之男(すさのお)や大国主命の足跡があるのは、後に藤原氏が創作したものである。須佐之男(すさのお)(倉吉市余戸谷(よどや)町と米田町)、大国主命(北栄町国坂の茶臼山(ちゃうすやま))、事代主(ことしろぬし)(湯梨浜(ゆりはま)町長和田(なごうた))、天忍穂耳(あめのおしほみみ)(北栄町下神(しもつわ)の三輪山)、邇邇芸(ににぎ)命(葦原中津国(あしはらなかつくに)=北栄町下種の大宮神社)、阿遅鋤高日子根(あじすきたかひこね)(倉吉市灘手(なだて)地区の鋤)の本拠地は鳥取県中部にあった。出雲には須佐之男(すさのお)や大国主命や事代主(ことしろぬし)の本拠地はなかった。
 国譲りというからには譲られる葦原中つ国が特定されなければならないが、葦原中つ国は宮崎県にあるとでもいうのだろうか。葦原中つ国は鳥取県中部にあった。

 出雲族は鬼・土蜘蛛(つちぐも)などと呼ばれ人をさらったりしていた。楽々福(ささふく)神社の由緒や溝口の鬼伝説に残る鬼は出雲から出ている。この戦いは宗教に基づくものであり、天孫(てんそん)族は彼らの宗教を変えさせるために戦った。崇神(すじん)天皇(てんのう)・倭健(やまとたける)命・卑弥呼(ひみこ)は全国の出雲族を祀る準王一族に強制的に道教の神道を押し付けた。
 出雲には「ヤマト朝廷が東から攻めてくる」という伝承が残っている。鳥取県中部は出雲の真東になる。倭建(やまとたける)命は出雲振根を騙し討ちにして殺した。このとき倭健(やまとたける)命は「つづらさわまき」の竹刀を持っていた、とされる。鳥取県中部の長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡より「つづらさわまき」と思われる鉄刀(てつとう)が全国で初めて発掘された。倭建(やまとたける)命は皇子であり、長瀬高浜(ながせたかはま)の被葬者は皇女(みこ)であった。
(1)須佐之男(すさのお)について
 島根県安来市の地域の人々は「記紀」にある須佐之男(すさのお)を開祖とする出雲王権設立の話に疑問を抱くものがいる。
 八岐大蛇(やまたのおろち)伝説の舞台は鳥取県三朝町山田(やまた)であった。その後、須佐之男(すさのお)は始皇帝のさらなる追っ手から逃げるため、伊邪那岐(いざなぎ)の後を追って、鳥取県八頭町の大江神社に櫛名田姫と御殿に住み大国主が生まれた。鳥取県智頭町那岐(なぎ)村に来ていた神大市比売(かむおおいちひめ)との間に須勢理姫(すせりひめ)が生まれた。始皇帝が亡くなったことを知り最初の約束通り、須勢理姫(すせりひめ)と根国(鳥取県倉吉市の清熊稲荷(きよくまいなり)神社)に移った。一人になった須佐之男(すさのお)は東山神社に移り対岸の石上(いそのかみ)神宮(倉吉市の大原神社)に十握剣を奉納した。
 須佐之男(すさのお)は人間であるので空を飛んで船通山の頂に降りたりしない。大江神社の祭神は当初、須佐之男(すさのお)・稲田姫(いなだひめ)・足名椎(あしなづち)命・手名椎(てなづち)命・天穂日(あめのほひ)命であったのを隠すために祭神を日本一多くした。
 元禄時代にも西日本の各地で記紀との辻褄(つじつま)合わせ(整合)が行われている。大日本史(だいにほんし)の編纂をしていた幕府に対し京都の藤原氏がおとなしくしていたはずはない。検閲・改ざんを行っている。元禄時代の頃に藤原氏は倉吉市大原の波波伎(ははき)神社を八岐大蛇(やまたのおろち)伝説と切り離すため大原神社とし、事代主(ことしろぬし)のいた福庭(ふくば)の神社を波波伎(ははき)神社とした。また岡山県の石上(いそのかみ)布都魂(ふつのみたま)神社の宮司の名前を物部(もののべ)にし、須佐之男(すさのお)が十握剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃である。
(2)大国主(大穴持(おおなむち))について

出雲国風土記の大穴持(おおなむち)は、人名でなく意宇国の王の意味であり、何代にもわたり大穴持(おおなむち)を名乗った。記紀に書かれ、実在した鳥取県中部にいた大国主(大穴持(おおなむち))はただ一人である。
 大国主の生誕地はBC5年頃、出雲王家の天冬衣(あめのふゆきぬ)神の子として杵築(きつき)周辺で誕生したという説がある。私見では、BC208年頃、須佐之男(すさのお)の子として鳥取県八頭郡の大江神社周辺で生まれている。須佐之男(すさのお)と稲田姫(いなだひめ)の御殿を隠すために、鳥取県八頭町の大江神社は祭神を多くした。祭神の多さは日本一である。
 大国主の本拠地は島根県の三刀屋(みとや)の三屋神社という説がある。私見では鳥取県北栄町国坂の大神山(おおみわやま)(茶臼山(ちゃうすやま))の松樹庵(しょうじゅあん)である。
 大己貴(おおなむち)命関連伝承地は農業関連が多い。伝承を分析すると、大国主命は少彦名(すくなひこな)命と共に行動した経路は3系統ある。①伯耆(ほうき)国→北陸地方 ②伯耆(ほうき)国→出雲→山口県→福岡県→大分県 ③伯耆(ほうき)国→因幡(いなば)国→播磨国24ヶ所→讃岐国2ヶ所→伊予国7ヶ所の3系統である。
 島根県下における大国主伝承地として、多根(たね)神社、佐比売(さひめ)山神社、加多(かた)神社、虫野神社がある。大国主が準王一族(出雲族)の妨害を受けずに出雲で生活の指導をしていたことが史実であっても、それは、全国(主に西日本)の移民の国造りの一環であるにすぎない。このことを以て出雲に大国主の生誕地や活動本拠地があったとは言えない。大国主は少彦名(すくなひこな)とともに東アジアの各地(北はシベリア・モンゴルから南はベトナム・ミャンマー)から移民してきた一族を西日本各地に住まわせ移民たちの国を訪れ、衣食住の指導をしていた。
 神祇志料(じんぎしりょう)(明治6年成立)に「昔、大国主と少彦名(すくなひこな)と須勢理姫(すせりひめ)は伯耆(ほうき)国の大神山(おおみわやま)に御坐し、次に出雲国の由来郷と田根(たね)で農業を教えた」とある。大神山(おおみわやま)は大山だけではない。鳥取県北栄町の茶臼山(ちゃうすやま)は伯耆(ほうき)国久米(くめ)郡大神(おおみわ)郷に属していた(北条(ほうじょう)八幡宮由緒より)。北栄町の茶臼山(ちゃうすやま)も大神(おおみわ)郷にあった山だから大神山(おおみわやま)と言っていた。この3人の本拠地は北栄町の茶臼山(ちゃうすやま)であった。 出雲大社のモデルについて、ある方は「記紀では、この国譲りの条件として、大国主が神殿を要求し建設されたように記述しているが、これは捏造である。「出雲」に神殿が建設されたのは、古事記によれば垂仁(すいにん)天皇(てんのう)の時代であるからだ」とする。
 長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡の発掘調査報告書ではSB40は古墳時代前期であるとする。垂仁(すいにん)天皇(てんのう)の在位は230年~260年(古墳時代前期)に比定しているので古墳時代前期であり、ある方の説と符合する。
 しかし、稲吉角田(いなよしすみだ)遺跡の絵画土器に描かれた4本柱の高い建物は出雲大社のモデルとする研究者が多い。稲吉角田(いなよしすみだ)遺跡の絵画土器は紀元前1世紀であるから、そこに描かれた4本柱の高い建物(出雲大社のモデルとされる)は弥生時代中期までに建てられていなければならない。稲吉角田(いなよしすみだ)遺跡の近くで、4本柱の高い建物の遺構は長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡のSB40しか見当たらない。私見では、出雲大社のモデルは長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡のSB40の4本柱の建物跡に比定している。弥生時代前期の土器が遺構外から大量に発見されているのでSB40も弥生時代前期の建物であった可能性が高い。SB40は弥生時代前期の遺構(紀元前160年頃)であり、大国主は長瀬高浜(ながせたかはま)(多芸(たぎ)志(し))の高い神殿(SB40)に移って住んでいた。
 天照大神(あまてらすおおみかみ)(徐福)と須佐之男(すさのお)は一緒に辰韓から倭国(鳥取県中部)に渡ってきた。天照大神(あまてらすおおみかみ)(徐福)は高天原(たかまがはら)(蒜山高原)に上がったが、須佐之男(すさのお)は八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して夫婦になった稲田姫(いなだひめ)と八頭町大江神社に住み、大国主を生んだ。天照大神(あまてらすおおみかみ)(徐福)は大国主より40歳くらい年上であり、天穂日(あめのほひ)に御殿を守らせていたくらいなので、大国主のことは生まれた時からよく知っていた。天穂日(あめのほひ)も大国主は生まれたときから知っていて、肉親のように思っていたはずである。天穂日(あめのほひ)は出雲で出会った準王をわが子のように可愛がり、大国主と同じ意味で大穴持(おおなむち)を名乗らせた。
(3)事代主(ことしろぬし)について
 ある方の見解
 出雲国風土記が編纂された当時、事代主(ことしろぬし)を祀る神社は、「出雲」には存在しなかった。つまり、事代主(ことしろぬし)は、「出雲」とは全然関係ない神と言えはしないだろうか。ということは、出雲の国譲り自体、出雲地方であったことではなく、本来、別の地方の出来事を、「出雲」という地名を借りて記されたもの、と考えられる。
 ※ 私見
 鳥取県倉吉市福庭(ふくば)の波波伎(ははき)神社(祭神は事代主(ことしろぬし))の由緒には「事代主(ことしろぬし)大神(おおみわ)、国譲りの後、己も天の使いの旨を諾(き)け給い、国向けの代と、天夷鳥(あまのひらどり)命の御子・国夷鳥(くにのひらどり)命に手組ましめ、一ツ木の神玖四浮根(くしふね)に座しし船足を、此の青柴(あおしば)の巻籬(まがき)内にと蹈(ふ)み方向けしめ来まして宣わく、吾心すがすがし幾世福庭(ふくば)曾此の青柴(あおしば)の弥栄に栄えゆく如く、皇孫命の大御代は栄え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天栄手(あめさかえて)を青柴(あおしば)籬(まがき)に拍誓て御隠坐しし天栄手(あめさかえて)の宮なり」とある(式内社調査報告・1983)。
 藤原氏が焚書にしたかった文書が明治になって出てきました。藤原氏はこの文書の存在を知りながら、隠されていたので、事代主(ことしろぬし)に替えて一言主を創らなければならなかった。この文章は「玖四浮根(くしふね)(クシフルネ)」とあるので、クシフルタケ(岳(たけ))と言う藤原氏が台頭する奈良時代までに存在した文章である。本来「玖四浮ル根」でなければならないが、「船足」に惑わされ「ル」が欠落している。新しく創作するならこのようなミスはしないため、高い自由度のもとに創作されたものではない。この文章で船着き場の場所も特定できる。海面が海抜3m以上(奈良時代以前)でないとその場所に船を停めることができないため奈良時代以降の者にはそれがわからない。事代主(ことしろぬし)は亀谷(かめだに)丘陵の先端から福庭(ふくば)の青柴(あおしば)巻籬(まがき)に移った。

 


鳥取県湯梨浜町の出雲山に行ってきました

2021-07-07 08:16:51 | 大国主と出雲族

1 出雲山について

 鳥取県琴浦町八橋の地名由来(高姫の伝承)は倭国の笠縫邑を消すために創作されていた。湯梨浜町宮内の下照姫(高姫)の伝承も何かを消すために創作されたのではないか、と推測される。下照姫(高姫)は天若日子と倉吉市寺谷で一緒に暮らしていた。蒜山(高天原)出身の天若日子が亡くなったら、少しでも旦那の出身地に近いところに住むはずであり、湯梨浜町より蒜山(高天原)に近い倉吉市志津の倭文神社に住んだ。湯梨浜町宮内の神社は元は倭文神社ではなかった。
 宮内という地名は孝霊天皇が住んでいたから付けられた地名である。また弥生時代後期の国内最長の鉄刀も宮内から出土している。湯梨浜町宮内の倭文神社が孝霊天皇(在位147年~172年)の皇居の黒田庵戸宮であった。 出雲山の由来伝承は倭文神社に孝霊天皇一族がいたことを消すために藤原氏が創作した伝承であった。

2 石山について
2019年頃に設置された案内板。
 確かな記録によると天神川の造成の跡として「古くから天神川は度々の氾濫で河道の位置を大きく変えていた。この河道が、現在のように直接日本海に流入するようになったのは、元文年間(1736-40)の河口開削工事によるもので、『天神川変遷略図』によると掘割を東村勘右衛門が設計し、米村所平が施工したとされています。これは天神山から東方の長瀬へ続く通称『石山さん』と呼ばれる安山岩の岩を撤去して今日の流路を作った」とある。
※ 私見
 江北浜集落の天神山から出ていた安山岩の岩の「石山」の読みはどう読んでいたのだろうか。江北浜集落には(いそえ)姓が多いのでこの辺りは(いそ)であった。石山の読みは「いそのやま」であった。
 河口開削工事は元文年間(1736-40)に行われているので、京都の藤原氏の証拠隠滅である。徳川光圀は大日本史で「石山が石上の地名由来であり、石山がタギシの柄である」と指摘していた。
 最近造られた案内板(2019年頃)には「石山」とは書かず、「岩山」(倉吉ロータリークラブ)「天神山」(北栄町教育委員会)と書かれている。以前は「石山」と書かれておりキワードになることを知ってわざと別の字を使っている。
3 教育委員会について
 福岡県教育委員会は各高校に部活として歴史研究会をつくることを推奨している。だから福岡県では歴史研究が盛んになる。鳥取県教育委員会に福岡県のように歴史研究会を各高校に置いたらどうかと進言してみると良い。「とんでもないことを言う」とはねつけられるのが落ちである。ただでさえ、真実の歴史を封印しようと頑張っている鳥取県教育委員会である。福岡県教育委員会とは真逆である。
 このように鳥取県の市町村の教育委員会は藤原氏の流れにある。ましてや、鳥取県教育委員会は藤原精神(歴史も強奪する)に支配されている。初代鳥取県知事は山田氏(藤原氏の系統)で教育に力を入れていたという。どういう教育かというと、考古学的新発見には蓋をし、この県には何もないと信じ込ませる教育であった。この地では京都の藤原氏 (今は東京の藤原氏)の証拠隠滅の精神が今でも支配している。

 

 

 

 

 


 天稚比古と高姫(下照姫)は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいた

2019-02-18 08:16:23 | 大国主と出雲族

 天稚比古と高姫(下照姫)は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいた。

1 灘手神社由緒には「大正5年11月灘手村大字寺谷字西前村社矢野宮神社祭神天稚比古を合併し灘手神社と改称す」とある。鳥取県神社誌のなかで天稚比古を祀る神社は湯梨浜町宮内の倭文神社と倉吉市福庭の波波岐神社と倉吉市寺谷の矢野宮神社である。
 倉吉市福庭の波波岐神社の祭神は国を譲った神を羅列して祀っているだけでそこに住んでいたわけではない。湯梨浜町宮内の倭文神社の祭神は孝霊天皇の皇居を隠すために波波岐神社の祭神を複写しただけである。天稚比古は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいたと思われる。

 倉吉市寺谷の矢野宮神社。
 
2 大国主と阿遅鋤高日子根
 神祇志料(明治6年)佐比売山神社の條に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」としていた。
 神祇志料の「伯耆国大神山」と出雲風土記の「伯耆国大神岳」とは同義である。どちらも伯耆国大山(ダイセン)を意味する、とするのが通説であった。しかし、伯耆国大神山(岳)の「大神」とは「大神郷」を意味している。奈良時代までは伯耆国久米郡北条郷を大神郷と呼んでいた。
 また、伯耆国大神「山」とは出雲風土記の伯耆国大神「岳」と同義である。「岳」とは百済語であり、より古い新羅語では「根」とする。したがって「岳」とは尾根を意味していた。
 「伯耆国大神山(岳)」とは伯耆国久米郡大神郷にある尾根を意味していた。伯耆国久米郡大神郷にある尾根のような山とは北栄町の茶臼山である。伯耆国大神山(岳)とは標高1711mの大山(ダイセン)ではなく標高93mの北栄町国坂の茶臼山であった。
 最近では大神岳は誤写であり、大山は火神岳であったとする。「岳」は奈良時代まで「根」であり尾根を意味する。火神岳は大山ではなく尾根状の低い山を意味することになりますます出鱈目になった。
 「御座」とは「本拠地」を意味する。大己貴命(大国主命)、少名毘古那命、須勢理姫命は鳥取県北栄町茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。
 また、日本地理志料は「茶臼山の北にある国坂神社は大国主の子孫が奉祀する所である」とする。
 天稚比古は倉吉市の寺谷にいたので倉吉市「鋤」で生まれた高姫の兄の阿遅鋤高日子根とは懇意にしていた。
 阿遅鋤高日子根の書き方は色々あるが、神名の「スキ」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神であり、「阿遅鋤高日子根」が本当と思われる。阿遅鋤高日子根は大国主命と宗像三女神の多紀理姫との間の子であり、妹に高姫(下照姫)がいる。阿遅鋤高日子根神は倉吉市「鋤」集落で生まれた。のちに別雷神となる。
 

 倉吉市灘手地区「鋤」に行ってきました。ここは、葦原中津国を形成する集落の一つです。

3 饒速日の降臨 

 

 天稚比古は饒速日の降臨コース上にいた。天稚比古が死んだのは、ニニギの降臨ではなく饒速日の降臨のときであった。
 天稚比古は倉吉市寺谷の矢野宮神社の地に高姫(下照姫)と一緒に住んでいた。天稚比古が返り矢で亡くなったのは矢野宮神社と思われる。国譲り後、高姫(下照姫)は湯梨浜町宮内ではなく、倉吉市志津の倭文神社に移った。
 天穂日の3年と天稚比古の8年で11年の間二人とも帰ってこなかった。天穂日が遣わされてから11年後、天照大御神一行(建御雷命・天照大御神・月読命・伊斯許理度売命・天手力男神・天石門別神)は神田神社の地から西の方見郷一帯に降臨した。饒速日一行(饒速日・天児屋根・天太玉・天鈿女・玉祖命・思金神)は神田神社から倉吉市清熊稲荷神社の峰に降り、倉吉市寺谷の矢野宮神社に寝所のあった天稚比古に雉の鳴女を遣した。
 天稚比古が死んでから饒速日は土下山に住んだが、天児屋根・天太玉・天鈿女・玉祖命は茶臼山の松樹庵を通り北条砂丘を東に行き長瀬高浜(タギシ)に至った。天児屋根・天太玉・天鈿女は長瀬神社の祭神になっている。玉祖命は長瀬高浜を終の棲家とし死ぬまでここで玉を作っていた(長瀬高浜遺跡より)。大国主も出雲大社のモデルの高い建物を建てる打ち合わせをするため松樹庵から長瀬高浜(タギシ)に行った。
 饒速日が亡くなりニニギが降臨することになったので天児屋根と天太玉は関金町の矢送神社に戻った。
 思金神は清熊稲荷神社の峰から長和田に、天鈿女は長瀬神社から泊村石脇字堀の石脇神社に移った。13代武内宿禰天皇の時代(在位280年~320年頃)、天孫降臨から約500年後、天鈿女の子孫は鳥取市の宮長にいた(宮長神社由緒より)。

4 参考
 阿遅鋤高日子根について
 古事記・天稚比古の段に「葦原中津国を平定するに当たって、遣わされた天穂日命が戻って来ないので、次に天稚比古が遣わされた。しかし、天稚比古は大国主の娘下照姫と結婚し、葦原中国を得ようと企んで八年たっても高天原に戻らなかった。そこで天照大神と高皇産霊神は雉の鳴女を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天探女が、不吉な鳥だから射殺すようにと天稚比古に進め、彼は高御産巣日から与えられた弓矢で雉を射抜いた。その矢は高天原まで飛んで行った。その為、高御産巣日は『天稚比古に邪心があるならばこの矢に当たるように』と誓約をして下界に落とすと、矢は寝所で寝ていた天稚比古の胸に刺さり、彼は死んでしまった。天稚比古の死を嘆く下照姫の泣き声が天まで届くと、天稚比古の父の天津国玉は下界に降りて葬儀のため喪屋を建て葬儀をした。下照姫の兄の阿遅鋤高日子根も弔いに訪れたが、彼が天稚比古に大変よく似ていたため、天稚比古の父と妻が『天稚比古は生きていた』と言って抱きついた。すると阿遅鋤高日子根は『穢らわしい死人と見間違えるな』と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった」とある。

長瀬高浜遺跡に近い神社である。

長瀬高浜遺跡の出雲大社のモデル。稲吉角田遺跡の土器絵画はこの建物。

裔胤とは子孫のことである。全国の神社の建立は10代の崇神天皇(在位188年~220年頃)が始めた。


鳥取県神社誌に見る天穂日を祀る神社

2018-06-22 03:38:57 | 大国主と出雲族

1 天穂日を祀る神社(大正合併後の神社)
《鳥取県東部》
中村神社      岩美郡福部村大字中字宮ノ谷
賀茂神社      八頭郡賀茂村大字宮谷字寺坂
大江神社      八頭郡大伊村大字橋本字馬場
都波只知上神社   八頭郡散岐村大字佐貫字林ノ谷
都波奈彌神社    八頭郡散岐村大字和奈見字林ノ内
湯谷神社      八頭郡西郷村大字湯谷字大瀧
隼神社       八頭郡隼村大字見槻中字宮ノ本
日下部上神社    八頭郡安部村大字日下部字宮ノ谷
諏訪神社      八頭郡智頭町大字智頭字宮ノ前
天穂日命神社    気高郡大郷村大字大畑字森崎
《鳥取県中部》
五郷神社      三朝町牧560の1 
大原神社      倉吉市大原619番 
田内神社      倉吉市巌城1494番 
松崎神社      湯梨浜町松崎566番
《鳥取県西部》
天萬神社      南部町天万1009番
多里神社      日南町新屋70
末尾神社      手間村大字田住字松尾
御崎神社      米子市尾高
北野神社      米子市赤井手
新印神社      米子市新印137番
古川神社      春日村大字古豊千字屋敷
豊田神社      米子市古豊千
東千太神社     米子市古豊千888番
御崎神社      米子市河岡630番
北原神社      米子市福万667番
巨勢神社      米子市八幡254番3
逢坂八幡神社    大山町松河原233番
小町神社      伯耆町小町455番
三部神社      伯耆町三部824番
上の荘神社     伯耆町福吉264番
安井神社      日野町津地423番


2 私見
(1)《鳥取県東部》
 天穂日を祀る神社は八頭郡に8社ある。天穂日は国譲りの交渉に派遣されるまで鳥取県の八頭郡にいたと思われる。天穂日を祀る神社は素戔嗚・稲田姫・その両親を祀る神社を守る位置にある。天穂日は素戔嗚・稲田姫の御殿を守るために、八頭郡にいたものと思われる。その中で、賀茂神社(土師神社)と諏訪神社(向山神社)の2神社は本来の天穂日の任務とはかけ離れたところにあるため、天穂日を祀っていた準王一族(ヤマト王権から見れば河童と鬼)のいたところと推定される。大江神社、都波只知上神社、都波奈彌神、湯谷神社、隼神社、日下部上神社の6神社に天穂日はおり、素戔嗚と稲田姫の御殿を守っていた。天穂日はこの御殿で生まれた大国主を生まれたころから知っていた。
(2)《鳥取県中部》
 大国主は鳥取県北栄町の大神山(茶臼山)の松樹庵を本拠地にして葦原中津国を造っていた。天孫族は葦原中津国を大国主に譲ってもらう交渉に天穂日を出向かせた。五郷神社、大原神社、田内神社の3神社は天穂日が国譲りの交渉に行くまでにいたところと思われる。 天忍穂耳や天穂日にとって荒神(荒ぶる神)とされる準王一族(出雲神族)が葦原中津国にいることは国譲りの障害であった。天忍穂耳と天穂日は準王一族の動向を探ることにした。天穂日は伊那佐山(北栄町国坂の茶臼山)の隣の三輪山(北栄町下神)にいた天忍穂耳に頼まれて、伊那佐之小浜での国譲りの交渉の時に、すでに葦原中津国に多くいた準王一族(出雲神族)の本拠地を大国主に聞いたと思われる。大国主は天穂日に準王一族の本拠地を教えた。
(3)《鳥取県西部》
 天穂日は大国主の計らいで出雲神族の拠点である熊野大社の近くの能義平野(安来市)に移った。天萬神社以下の17社は伯耆国の西部であり、能義平野(安来市)に移るまでにいたところと思われる。その後、天穂日は大国主の計らいで、島根県東部の能義平野(安来市)を拠点とし、松江市南部(熊野大社)を拠点としていた準王(タケヒラドリ、クナト神)に出会った。天穂日は準王(長髄彦)の娘と結婚した。饒速日と長髄彦の妹を結婚させたのも天穂日と思われる。富氏の口伝によると「神武から数代の王は出雲神族の反乱を抑えるため出雲王家の娘を妻にした」とする。天穂日は後続部隊の手引きをした。出雲神族の子孫の富氏は天穂日を「ヤマト王権のスパイであった」とする。
 大国主を生まれた時から可愛がってきた天穂日は準王を大己貴神(オオナムチ)と呼んだ。準王一族は出雲神族といいその王の名を代々長髄彦・大己貴神(オオナムチ)と呼んでいた。

 


否砂の小浜と葦原中津国

2018-06-21 03:15:25 | 大国主と出雲族
否砂の小浜と葦原中津国

1 伊那佐の小浜はどこにあったか。
 古事記の「伊那佐」とは発音だけであり「いなさ」とは本来の漢字に直せば「否砂」である。
 砂ではない浜であるから、周りは砂浜だったということである。そこに岩盤でできた波打ち際があった。天孫降臨が行われたのは紀元前160年頃であったから、今では完全に海抜5mくらいの陸地のはずである。その条件にぴったり合うのが北栄町の茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)である。大国主が造ったと言われる葦原中津国も同じ町内の近くにある。国譲りの交渉は大国主が住んでいた本拠地で行われた。
 北栄町の茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)はまわりが北条砂丘であり岩盤でできた山である。南側の水田も表面だけであって、その下は20数m下まで砂であり、その下にやっと岩盤があるそうである。その岩盤が尾根状に突き出ているのが茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)である。
 茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)のふもとの国坂神社の祭神は少彦名だけであるが、なぜ大国主が祭神でないのか、わざと消してあると思われる。大日本史・日本地理志料・特撰神名牒・神祇志は国坂神社の祭神を大国主であるとする。日本地理志料は「国坂神社は大国主の子孫が奉祀する所である」とする。国坂集落には大国主の子孫がいて、国坂神社を奉祀している。
 この岩盤の山に大国主は住んでいたのである。海抜10mくらいのところに岩を削って清水のでる狭いが平たいところがある。ここに庵(松樹庵)もあるがここで国譲りの交渉が行われたとみてよい。小さな砂でない浜である。実在した大国主が茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)の松樹庵に居た。

2  茶臼山を一周
 
 
3 葦原中津国を形成する十三集落の一つである穴沢集落にある天若日子(大正合併までは倉吉市寺谷の矢野宮神社)を祀っている灘手神社 
 
 穴沢集落の灘手神社に天照大神、天若日子命、鋤集落に阿遅鋤高日子根、亀谷神社に大国主、事代主、木花之佐久夜毘売、穂波神社に天児屋根命が祀られている。地形的にも葦原中津国であり、十三集落のうち四集落に天孫降臨に関係する神が祀られている。
 徐福(天照大神)は小さな湾(葦原の中津)に到着し(宮下文書)、原(北栄町原)・宇記島(北栄町大島)に上陸し灘手神社に来ていた。灘手神社の前は葦原の中津であった。
 神武天皇は掖上の岡(灘手神社)で国見をして、灘手の指(尾根)の重なりを秋津のトナメにたとえて北栄町大島を秋津島と名付けた。
 第5代孝昭天皇の葛城掖上宮は灘手神社にあった。

伯耆国久米郡大神郷

2018-06-20 05:04:20 | 大国主と出雲族
伯耆国久米郡大神郷

1 大神(みわ)山とは鳥取県北栄町の茶臼山であり、神(みわ)山とは同じく鳥取県北栄町の三輪山であった。
 北条八幡神社由緒より「上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神(みわ)郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ」とある。
 和名類聚抄(938年)に記される伯耆国久米郡内の郷に大神(みわ)郷はない。しかし神(みわ)の付く郷は10郷中3郷ある。その3郷とも大神郷の名残と思われる。
 「高城史」より。立縫(たてぬい)郷は楯縫郷であり、八橋郡は笠縫郡であった。上神(かみつみわ)郷・下神(しもつみわ)郷・神代(みわしろ)郷は大神郷であった。
 出雲風土記にある「伯耆国の大神岳」とは百済読みであり、奈良時代以前は新羅読みの「伯耆国の大神根」と表記して尾根を示していた。大神郷の中で尾根の形状をしている山は標高93mの茶臼山である。新羅読みの「大神根」(大神郷にある尾根)は茶臼山と思われる。
 出雲風土記にある「伯耆国の大神岳」とは、鳥取県北栄町の茶臼山のことであった。大国主と少彦名と須勢理姫は茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。松樹庵の案内板には「この庵の由来は明らかではないが境内には天明2年(1782年)に光明寺六世寂眼和尚が立てた石碑がある。また、石段上の地蔵は、寛政元年(1789年)『世出開了行者◯◯信女』の墓である」とある。

2 北栄町三輪山について
 奈良県桜井市三輪にある大神神社(大和国一宮)は旧来「大神大物主神社」と呼ばれていた。大神郷の大物主のいた神社であったから「大神大物主神社」と呼んでいた。大神郷は鳥取県北栄町にあった。大物主は鳥取県北栄町三輪山(神山)の三輪(神)神社にいた。奈良県桜井市三輪にある大神大物主神社名は鳥取県北栄町三輪山(神山)の三輪(神)神社から移されたものである。
 三輪山(神山)の近くの中浜遺跡からは古墳時代前期後半(4世紀前半)の山陰型甑形土器が出土している。また、三輪山のある下神集落からは弥生時代の土器(天忍穂耳の時代は弥生時代)が発掘されている。奈良の三輪山の遺跡は一番古いもので4世紀後半である。このことからも北栄町の三輪山のほうが古いことが分かる。
 北条町誌によると「三輪山は2万年前の火山灰が降り積もった地層で、標高は34mであった。土地の起伏は甚だしく険しい急な坂道のため人々が往来するのに大変な場所だった。昭和3年から開墾が始まり今はなだらかになっている。昭和45年頃から砂とりが始まった。三輪神社は宝暦3年(1753年)火災により焼失した」とある。
 大物主は天忍穂耳であり鳥取県北栄町の三輪(神)山にいた。大物主(天忍穂耳)は日向御子(瓊々杵命)や大国主の子が成長して瓊々杵命が葦原中津国を統治するようになるまで、北栄町の三輪山(神山)にいて、隣の茶臼山(大神山)にいた大国主を助けて水田稲作を全国に広めるという、大事業に携わっていた。

3 私見
 北条郷(上北条、中北条、下北条)は大神郷の中にあった。上北条(下古川、小田、古川沢、中江、大塚、新田、井手畑、穴窪)を神代(みわしろ)郷といい、下北条(松神、下神、曲、北尾、北条島、米里、弓原、田井、土下)と中北条(国坂、江北)は下神(しもつみわ)郷に属しており、大神(みわ)郷に含まれていた。
 北栄町国坂の茶臼山は大神郷(下神郷)にある山だから大神(みわ)山と言っていた。北栄町下神の三輪山は神(みわ)山と言っていた。大神山は大山ではない。波波伎神社名が移されたように大神山神社名も北栄町の国坂神社から移されたものと思われる。大山(蓬莱山)は徐福(天照大神)一行が 大山の秀麗な山容を目標に辰韓から次々に東海を渡ってきたのであるから大山(蓬莱山)で国見をするのは徐福(天照大神)が一番ふさわしい。神社名は変えられているが、今の大神山神社には徐福(天照大神)が祀られていたはずである。
 南部町の赤猪岩神社の祭神は大国主と素戔嗚と刺国若比売とするが、大国主は素戔嗚と稲田姫の子として鳥取県八頭町大江郷で誕生しており、刺国若比売は実の母ではない。大国主に対するいじめは鳥取県東部で完結しており赤猪岩の話は藤原氏によって創られたものと思われる。赤猪岩神社には赤猪岩の話より大事なものがあり、それを隠すためと思われる。それは倭国大乱における激戦地の伝承であったと思われる。どちらの伝承も手間山にいたのは出雲神族であった。

大国主の本拠地は鳥取県北栄町の茶臼山(宇迦能山=伊那佐山=大神山)であった

2018-06-19 05:37:05 | 大国主と出雲族
 大国主の本拠地は鳥取県北栄町の茶臼山(宇迦能山=伊那佐山=大神山)であった

1  鳥取県神社誌より抜粋
  鳥取県北栄町の茶臼山のふもとにある国坂神社
 祭神 少彦名神
 由緒 創立年月不詳、白河天皇承歴四年六月御卜に国阪神の祭を穢せる祟りあるを以て社司に中祓を科せらる(朝野群載)。当社の御祭神に就いて大日本史に土人の説として、大己貴命を祀ると云ひ日本地理志料も又大国主命を祀る乃ちその裔の奉祀する所と記す。当社前方に面積約二反歩の神池あり、一面に蓴菜河骨を生ず、往昔地方に疫病流行し或は難病人ある時当社に祈願し此の水草を煎用するときは神徳の霊験ありとて其の名遠近に高し、現今尚此の水草を刈取り毎年四月八日薬草祭典を行ひ参拝者に頒つ。
 国坂神社の祭神について、「特撰神名牒」には大穴牟遅神、少彦名神、事代主神、「神祇志」には大己貴命とある。国坂神社の祭神に就いて、「大日本史」に土人の説として、大己貴命を祀るという。「日本地理志料」もまた大国主命を祀るという。「日本地理志料」はさらに国坂神社は大国主の裔(子孫)の奉祀する所と記す。国坂集落には大国主の子孫がいて国坂神社を奉祀している。

2 伯耆国久米郡に大神郷があった。
 神祇志料(明治6年)佐比売山神社の條に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」とする。

 北条八幡神社由緒より「上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神(みわ)郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ」とある。上神郷・下神郷・神代郷は大神郷であった。下神郷(大神郷)にある尾根のような茶臼山を古代は大神根(岳)と言っていた。奈良時代までは伯耆国久米郡北条郷を大神郷と呼んでいた。

3 私見
(1) 大神山神社の由緒には「記録の徴すべきものなく」としながらも、「続日本記(797年)に『大山神』、文徳実録(879年)に『大山神』、三代実録(901年)に『大山神』とあり、出雲風土記(733年)に『伯耆国大神岳』、延喜神名式(927年)に『伯耆国相見郡大神山神社』とある」を挙げている。由緒の筆者の「その大山といい大神山というも同一の山なり」とするのは正しいか。
 神祇志料の「伯耆国大神山」と出雲風土記の「伯耆国大神岳」とは同義である。どちらも伯耆国大山(ダイセン)を意味する、とするのが通説である。しかし、伯耆国大神山(岳)の「大神」とは「大神郷」を意味している。
 また、伯耆国大神「山」とは出雲風土記の伯耆国大神「岳」と同義である。「岳」とは百済語であり、より古い新羅語では「根」とする。したがって「岳」とは尾根を意味していた。
 「伯耆国大神山(岳)」とは伯耆国久米郡大神郷にある尾根を意味する。伯耆国久米郡大神郷にある尾根のような山とは北栄町の茶臼山と思われる。伯耆国大神山(岳)とは標高1711mの大山(ダイセン)ではなく標高93mの北栄町国坂の茶臼山であった。
 「御座」とは「本拠地」を意味する。大己貴命(大国主命)、少名毘古那命、須勢理姫命は鳥取県北栄町茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。
(2)少彦名神は薬草の神様でもあるため、実際にここにいた。大国主命もここを拠点として活動していていた。藤原氏は下神の三輪山に放火して三輪神社をなくしたのをよいことに、土下集落に移転した三輪神社の祭神を大国主にしている。そして国坂神社の祭神から大国主を削除した。
 また、奈良の三輪山・三輪神社の祭神が瓊々杵命と天忍穂耳であることを隠すためでもある。天孫降臨に関係する二人が奈良の三輪山・三輪神社に祀られることは、宮崎県と重複するからである。
  
4  国坂の茶臼山について(当時は海に面していた)

 案内板を見ると弘法大師が茶臼山に来た可能性がある。
 松樹庵の奥にある清水。岩盤が露出している。茶臼山は草木で覆われていて、地質が何でできているかわかりづらいのだが、全体が岩である可能性が高い。この周辺は北条砂丘(鳥取砂丘に次いで広い砂丘)が広がっており(笠沙の御前とは海のほうに傘型になった砂丘があったということである)茶臼山の周りは砂地なのだが、茶臼山が海に面していたときは、砂浜でない浜があった。伊那佐小浜である。建御雷之男による国譲りの談判は鳥取県北栄町国坂の茶臼山(宇迦能山又の名は伊那佐山又の名は大神山)で行われた。
 大国主命、少彦名命、宇迦能御魂命(須勢理姫命)は鳥取県北栄町国坂の茶臼山(宇迦能山=伊那佐山=大神山)の松樹庵を本拠地として全国の国造りに出かけていた。

5  倭国発祥の地
 蜘ヶ家山(葛城山)より見る茶臼山(宇迦能山又の名は伊那佐山又の名は大神山)
 上の山は宇迦能山又の名は伊那佐山又の名は大神山(現在北栄町国坂茶臼山)。大国主が須勢理姫を連れて本拠地とした。国坂集落には大国主の子孫が住み、国坂神社を奉祀している。
 右下は島集落。島集落の丘陵地には縄文前期から晩期までの遺蹟遺構がある。そこに縄文人の猿田彦一族が住んでいた。
 蘇我馬子天皇の皇居もこの丘陵地にあった。
 蜘ヶ家山(葛城山)より見る茶臼山(宇迦能山又の名は伊那佐山又の名は大神山)と土下山(天香具山)。
 右に少し見えているのが天香具山(土下山)。天孫族は何度もこの山を通って大国主のいる伊那佐山に国譲りの交渉に臨んだ。
 神武天皇は伊那佐山を拠点として天香具山の麓にいた兄磯城と戦った。香具山の土を取って下したところが土下集落である。写真では香具山(土下山)と伊那佐山(茶臼山)の間の集落である。

葦原中津国(狭義)にいた大国主・大年神・準王一族(出雲神族)の妻子(娶るとは男の本拠地に女を来させることである)

2018-06-16 04:57:55 | 大国主と出雲族
葦原中津国(狭義)にいた大国主・大年神・準王一族(出雲神族)の妻子(娶るとは男の本拠地に女を来させることである)

 兎の予言したとおり大国主神は八上姫と結ばれ、やっとのことで国作りを完成させることができ、葦原中津国(狭義)を治める神様となりました。
 古事記には「大国主の命は葦原中津国(狭義)を中心に治めていた」とある。
 
1 葦原中津国を構成する集落
1 瀬戸  2 西穂波  3 亀谷  4 津原  5 谷  6 鋤  7 穴田  8 別所  9 尾原  10 穴沢  11 穂波  12 原  13 大島
 
2 大国主と少彦名と須勢理比売と八上比売は鳥取県北栄町の茶臼山(大神山=宇迦能山=伊那佐山)に住んでいた。
(1) 素戔嗚の娘の須勢理比売(鳥取県中部ー倉吉市出身)と大国主は異母兄妹である。子供もない。根国から大国主に背負われて黄泉平坂の麓まで行き宇迦能山(伊那佐山=茶臼山=大神山)の松樹庵に住んだ。素戔嗚は「・・・出雲の国を治めるがよい。お前の連れている、我が娘の須勢理比売を正妻として・・・」と言っているがこれも藤原氏による改ざんである。
(2) 八上比売(鳥取県東部ー鳥取市出身)は大国主の妹の須勢理比売とおりあいが悪かった、ということは宇迦能山(伊那佐山=茶臼山=大神山)の松樹庵に須勢理比売と一緒に住んでいたものと思われる。子供を置いて八上郡に帰った。
 
3 古事記・大国主神御末神等の段
 古事記には「この大国主の神は、后に歌われたように、多くの妻を持ち、したがってまた多くの御子を持った」とある。
(1) 胸形の奥津宮にいる神、多紀理比売命(鳥取県西部ー米子市出身)を娶って生んだ子は、阿遲鋤高日子根神、次にその妹高比売命、またの名は下光比売命。この阿遲鋤高日子根神は、今迦毛の大御神という。(鋤)
(2) 神屋楯比売命を娶って生んだ子が事代主神。(亀谷)
(3) 八嶋牟遲能神の娘、鳥耳神を娶って生んだ子が鳥鳴海神。
(4) 日名照額田毘道男伊許知邇神を娶って生んだ子は國忍富神。
(5) 葦那陀迦神、またの名は八河江比売を娶って生んだ子は速甕之多氣佐波夜遲奴美神。
(6) 天之甕主神の娘、前玉比売を娶って生んだ子は甕主日子神。
(7) 淤加美神の娘、比那良志比売を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神。
(8) 比比羅木之其花麻豆美神の娘、活玉前玉比売神を娶って生んだ子は美呂浪神。
(9) 敷山主神の娘、青沼馬沼押比売を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神。
(10) 若晝女神を娶って生んだ子は天日腹大科度美神。
(11) 天狹霧神の娘、遠津待根神を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神。
以上に述べた八嶋牟遲能神から遠津山岬多良斯神まで、これを十七世の神という」とある。
※私見
 大国主神御末神等の段とあるが「多くの妻を持ち、多くの御子を持った」のであるから、「この神」とは大国主と解すべきである。八嶋牟遲能神から遠津山岬多良斯神までも大国主の妻と御子と思われる。「十七世の神」は「合わせて十七神」を改ざんしたものと思われる。
 
4 古事記・大年神羽山戸神御子等の段
(1) 大年神が神活須毘神の娘、伊怒比売を娶って生んだ子は、大国御魂神。次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。
(2) 香用比売を娶って生んだ子は、大香山戸臣神。次に御年神。
(3) 天知和迦流美豆比売を娶って生んだ子は、奧津日子神、次に奧津比売命、またの名は大戸比売神。これは世の人々が斉拜する竃の神である。次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である。次に庭津日神、次に阿須波神、次に波比岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神。
 大年神の子は、大国御魂の神から大土の神まで、合わせて十六神である。
 この羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那賣神、次に彌豆麻岐神、次に夏高津日神、またの名は夏之賣神。次に秋比売神、次に久久年神、次に久久紀若室葛根神である。このくだり、羽山戸神の子、若山咋神から若室葛根まで、合わせて八神である。
※私見
 大年神羽山戸神御子等の段は大国主神御末神等の段との間に少名毘古那神の段と幸魂奇魂の段が入っているが大年神羽山戸神御子等も葦原中津国で生まれたものと解される。大年神は大国主の異母弟であるから、大国主は葦原中津国の国造りに須勢理比売だけではなく大年神を誘ったものと思われる。大年神が3人の妻を娶った場所は大国主と同じ葦原中津国と思われる。
 「次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である」とあるが、平安時代に京都の藤原氏が加筆したものと思われる。羽山戸神の子も国譲りの時までに葦原中津国で生まれていたものと思われる。
 
5 私見
 先代旧事本記によると「大国主は素戔嗚と稲田姫との御子であり、大年神と須勢理姫は素戔嗚と神大市比売との御子である」とする。大年神は大国主の異母弟にあたる。大国主は異母妹の須勢理姫と一緒に葦原中津国の国造りを始めたのだから同じ異母弟の大年神も誘ったものと思われる。古事記・神代10の巻(大年神羽山戸神御子等の段)に記載されている大年神の子は、大国主と同じく葦原中津国において生まれたと思われる。
 「百八十神」という表現や葦原中津国の広さからすると大国主、大年神、それに葦原中津国から逃げずに大国主に従った準王一族(出雲神族)の妻子も一緒であったと思われる。
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族が列島に渡ってきたのが紀元前194年頃であるから、その頃、大国主は14歳くらいであった。八上姫をめぐる大国主のライバルは鬼であった(千賊山の案内板より)から、因幡の白うさぎ伝説に出てくる兄の八十神は、のちに鬼と言われた準王一族(出雲神族)であったと思われる。準王一族(出雲神族)は大国主がまだ妻を娶る前から伯耆国より東の因幡国に来ていたのだから、その途中にある伯耆国の葦原中津国にも来ていたはずである。天忍穗耳命が「豊葦原の水穂の国は、ひどく騒がしい」と言っったのは準王一族(出雲神族)が豊葦原の水穂の国(葦原中津国・磐余邑を含む)を占領していたからと思われる。その後、大国主は父の素戔嗚から譲られた武器で八十神(準王一族)を蹴散らして葦原中津国の国造りを始めた。
 原古事記には瓊々杵命の降臨の前に饒速日の降臨が記されていたが、記紀においては削除されている(先代旧事本記による)。北栄町の土下山(天の香久山=鳥見の白庭山)に降臨した饒速日は準王一族(出雲神族)の妹を娶っている(先代旧事本記)。北栄町の土下山(天の香久山=鳥見の白庭山)には長髄彦の妹の登美夜須毘売が饒速日の妻になって来ていたから、土下山(天の香久山=鳥見の白庭山)周辺には準王一族(出雲神族)もいたものと思われる。同じ北栄町の葦原中津国にも準王一族(出雲神族)が残っていたと解するのが無理がないと思われる。大国主の妻子や大年神の妻子を合わせても五十五神ほどである。百八十神は大まかな数字だとは思われるが百八十神になるにはあと百二十五神必要である。
 饒速日の降臨は紀元前185年頃と思われる。饒速日が亡くなって瓊々杵命が降臨したのは紀元前180年頃と思われる。国譲りが終わったのは紀元前160年頃と思われる。国譲り(紀元前160年頃)の後、大平山に退いた事代主と一緒の百八十神の中には準王一族(出雲神族)も多くいたものと思われる。葦原中津国を退いた百八十神の多くは大平山を下り東郷池の波延の地に住んだと思われる。
 神武天皇が帰ってきたとき(紀元前60年頃)に、大平山を降りた東郷池周辺(磯城)には兄磯城・弟磯城がいた。日本書紀・兄磯城・弟磯城に「天神の御子が来られたと聞いて、朝夕畏れかしこまっていました。・・・。」とあるので兄磯城・弟磯城一族は天神の存在を以前から知っていたものと思われる。兄磯城・弟磯城は事代主と一緒に退いた百八十神の中にいた準王一族(出雲神族)の子孫と思われる。兄磯城は神武天皇に従わず戦ったので殺されたが、弟磯城は神武天皇に従い師木県主となりその住んでいる地名に因んでハエ(波延・葉江・蠅)と名乗った。
 百八十神は大平山の千坂を下り門田集落や佐美集落や埴見集落や長和田集落に住んだと思われる。百八十神の中にはのちに磯城県主(弟磯城)になる準王一族(出雲神族)も含まれていたと思われる。古事記・雄略・白い犬にある「鰹木をあげて屋根を作った志幾の大県主の家」は門田集落や佐美集落や埴見集落や長和田集落などの波延地域のどこかにあったと思われる。
 「千坂」は通行人が賊に襲われることがあったので、以前は「血坂」と書いていたと郷土史家はいう。
 
6 参考 古事記訳文
(1) 神代9の巻
 ◎ 須勢理比売の歌
大国主神の正妻である須勢理比売命は、すなわち多くの后の中の大后であって、すでに八上比売が御子を置いて稲羽へ帰ったことでも分かるように、ほかの后たちに対して嫉妬する心がとくに激しかった。・・・。
 ◎ 大国主神御末神等の段
この大国主神が、胸形の奥津宮にいる神、多紀理比売命を娶って生んだ子は、阿遲鋤高日子根神、次にその妹高比売命、またの名は下光比売命である。この阿遲鋤高日子根神は、今迦毛の大御神という。
大国主神が、また神屋楯比売命を娶って生んだ子が事代主神である。また八嶋牟遲能神の娘、鳥耳神を娶って生んだ子が鳥鳴海神。この神が日名照額田毘道男伊許知邇神を娶って生んだ子は国忍富神。この神が葦那陀迦神、またの名は八河江比売を娶って生んだ子は速甕之多氣佐波夜遲奴美神である。この神が天之甕主神の娘、前玉比売を娶って生んだ子は甕主日子神である。この神が淤加美神の娘、比那良志比売を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神である。この神が比比羅木之其花麻豆美神の娘、活玉前玉比比売を娶って生んだ子は美呂浪神である。この神が敷山主神の娘、青沼馬沼押比売を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神である。この神が若晝女神を娶って生んだ子は天日腹大科度美神である。この神が天狹霧神の娘、遠津待根神を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神である。このくだり、八嶋士奴美神から遠津山岬帶神まで、十七世の神という。
(2) 神代10の巻
 ◎ 少名毘古那神の段
この大国主神が出雲の御大の崎にいたとき、波間から、天の羅摩の船に乗り、鵝の皮を剥いで着物にしたものを着て、やって来た神があった。・・・。
 ◎ 幸魂奇魂の段
大国主神は愁い歎いて、「私一人で、どうやってこの国を作り終えることができよう。どの神と協力すればいいのだろうか。」と言った。このとき、・・・。
 ◎ 大年神羽山戸神御子等の段
その大年神が神活須毘神の娘、伊怒比売を娶って生んだ子は、大国御魂神。次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。また香用比売を娶って生んだ子は、大香山戸臣神。次に御年神。また天知和迦流美豆比売を娶って生んだ子は、奧津日子神、次に奧津比売命、またの名は大戸比売神。これは世の人々が齋拜する竃の神である。次に大山咋神、またの名は山末之大主神。この神は、淡海の国の日枝山(比叡山)に鎮座している。また葛野の松尾(松尾大社)の鳴鏑に化った神である。次に庭津日神、次に阿須波神、次に波比岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神。このくだり、大年神の子は、大国御魂の神から大土の神まで、合わせて十六神である。この羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那賣神、次に彌豆麻岐神、次に夏高津日神、またの名は夏之賣神。次に秋比売神、次に久久年神、次に久久紀若室葛根神である。このくだり、羽山戸神の子、若山咋神から若室葛根まで、合わせて八神である。
(3)神代11の巻
 ◎ 国平御議の段
天照大御神は、「豊葦原の、千秋の、長五百秋の、水穂の国は、私の子、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命が治めるべき国である」と言って、高天原から降らせた。天忍穗耳命は天の浮橋に立ち、下界を窺って「豊葦原の、千秋の、長五百秋の、水穂の国は、ひどく騒がしく乱れているようだ」と言って、再び高天原へと戻り、その由を天照大御神に説明した。・・・。
(4)神代12の巻
 ◎ 大国主神国避の段
・・・。すると大国主神は「私の子たちの言う通り、私も従おう。この葦原の中つ国は、天神の詔のままに、ことごとく差し上げよう。ただその後の私の住処は、天神の御子が住んで世をお治めになる宮と同様に、どっしりと宮柱が太く、千木を空高く掲げて造ってくだされば、私は黄泉の国に隠れよう。私の子の百八十神たちは、事代主神が指導者として天神に仕えたなら、反逆することはない。」こう言って、・・・。