「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

出雲国は天照大御神(徐福)の子の天穂日が建国したとされているが、その子の建比良鳥は殷の末裔の箕子朝鮮の準王(紀元前194年頃に渡来)であった

2018-05-31 05:29:23 | 天照大神(徐福)

 出雲国は天照大御神(徐福)の子の天穂日が建国したとされているが、その子の建比良鳥は殷の末裔の箕子朝鮮の準王(紀元前194年頃に渡来)であった。


 理由
1  殷の末裔の箕子朝鮮も出雲国も青銅器文化であること。


2  倭国で発掘された銅鐸の一番古いものは紀元前190年頃であり、それまで馬韓で踊りの拍子とりに使われていたという記述があること。


3  天穂日は天照大御神(徐福)の子であり紀元前210年には日本にわたってきているので、紀元前194年にわたってきた準王が天穂日の子供とされても、おかしくないこと。


4  箕子朝鮮の準王は漢人であるが、古事記は「建比良鳥は漢人であるから注意せよ」と書いていた節がある。


5  紀元前194年以降、箕子朝鮮は中国・朝鮮の歴史書では消息が分からないからあくまでも伝説上の国であり存在したかどうかは疑わしい、と通説はいう。しかし、日本に来ていたのだから、中国・朝鮮の歴史書からは消えている。藤原氏は同じ馬韓の地にいたということを知っていて、出雲国を厚遇したと思われる。


6  紀元260年頃に作成された「三国志魏略」に「準王海中、不興朝鮮相往来。準王は海中にあって(朝鮮と)行き来したが(箕子)朝鮮の再興はできず」とある。「海中にある」とは「対岸にいる」ということである。(事代主が海中の青柴垣に入ったというのも美保関の対岸の福庭の青柴垣に入ったということである)。行ったり来たりしたが箕子朝鮮を再興することができなかった。対岸とは出雲国のことである。


7  紀元前230年から紀元前195年まで平壌を中心に国を造っていたのだから、徐福一行三千人が通るのも知っていたはずである。徐福一行が蓬莱国(伯耆国)に行くことも聞いていたのかもしれない。


8  「史記」「漢書」では、箕子朝鮮の終幕は不確かなものとなっている。箕子朝鮮滅亡が同時代の史料には見えない。


 私見
 辰(秦)韓には秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人が集まった。馬韓はその東の地を割いて与え住まわせ辰(秦)韓人と名づけた。これは秦が敗れる前の徐福たちのことである。
 徐福一行(二次)は紀元前210年伯耆国に到着した。それより16年遅れて準王一行は出雲国に到着した(紀元前194年)。出雲国は殷王朝の末裔が建てた国である。準王一族は松江南部におり、天穂日は能義平野(安来市)にいた。
 箕子朝鮮は、紀元前195年に中国からの亡命者、衛満に簒奪される。「魏略」(260年頃成立)は箕準一族のその後を語っている。「衛満に破れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。国に残った箕子一族は韓を名乗り、準王は海中(対岸)にあって(朝鮮と)行き来したが(箕子)朝鮮の再興はできず」とする。
 「魏略」の書かれた紀元260年頃は、卑弥呼と崇神天皇が亡くなった直後であり、倭国大乱の後である。倭国大乱は天孫族と準王一族との争いであった。「魏略」は、準王一族は倭国で(箕子)朝鮮の再興を卑弥呼や崇神天皇に阻まれたことを記している、と解する。
 


熊野本宮大社の主祭神である家津美御子はヤマト王権と敵対していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である

2018-05-30 04:51:07 | 天照大神(徐福)

熊野本宮大社の主祭神である家津美御子はヤマト王権と敵対していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である


1  熊野三山の縁起(ウィキペディアより)
 熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社からなるが、当初は別個の展開をたどり、本宮は崇神天皇代、速玉は景行天皇代(扶桑略記)、那智は孝昭天皇代に裸行が開基した(熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記)とするが定かではない。正史において、神名が確実に確認できるのは806年の史料中にある記述で、766年付で「速玉神と熊野牟須美神にそれぞれ4戸の神封を施入した」とあるもので、これら2柱の神は今日の新宮に比定される熊野神邑に一緒に祀られていたと見られる。
 9世紀中ごろになると、単に熊野坐神とだけ呼ばれ、神名が明確でなかった本宮の神が家津美御子ないし証誠菩薩と呼ばれるようになり、新宮の牟須美・速玉とともに家津美御子が古くからの熊野神であるとの伝承が成立した(「熊野権現垂迹縁起・長寛勘文」所収)。
(私見)
 正史において神名が確認できるのは、速玉神と熊野牟須美神が766年、家津美御子(熊野坐神)が9世紀である。それ以前に熊野三山なるものはなく、熊野三山は伊勢神宮や出雲大社と同じく奈良時代後半になって藤原氏の列島における百済再興のあかしとして造られたテーマパークである。いくら、平安時代に歴代天皇が熊野詣でをしようが、所詮はUSJやディズニーランドと同じくテーマパークである。魂のない仏である。速玉男神と熊野牟須美神が熊野にいたのは短期間であり、船を造って伯耆国へ行った。

2  家津美御子神(別名 熊野坐神・素盞鳴神)
 家津美御子神は神倉神社に降臨した熊野権現である。
「昔、唐の天台山の王子信が日本の英彦山に天降った。その姿は高さ3尺6寸の『八角なる水晶の石』という。次に伊予国の石鎚峯、次に淡路国の遊鶴羽山、次に紀伊国の切部山付近にある松の木のもとに移った。それから熊野新宮の南の神蔵峯(神倉神社)に降臨した。その後、今度は新宮の東の阿須賀社の北、石淵谷に移る。ここではじめて『結玉家津美御子』という名を表わした。それから、神は『本宮大湯原』(明治22年まで本宮大社が鎮座していた大斎原)の、3本のイチイの木に3枚の月形となって天降った」とある(1163年の長寛勘文に引用の熊野権現御垂迹縁起より)。
(私見)
 熊野三山のなかで一番の主祭神とされている家津美御子は素戔嗚命ではない。熊野本宮大社の主祭神である家津美御子神は神武天皇と戦った兄磯城と同じ青銅器文化の一族である。早い時代に全国に展開していた鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる青銅器文化の一族である。家津美御子神のいた神倉神社から銅鐸が見つかっている。兄磯城のいた米里からも銅鐸が見つかっている。どちらも神武天皇に敵対する一族である。また、家津美御子神は青銅器文化の一族の拠点であった淡路島にもいたこともあるので、ヤマト王権に敵対する青銅器文化の一族であった。
 時代は唐ではなく漢の時代である。紀元前194年に列島に渡ってきた殷王朝の末裔準王の一族である。卑弥呼たちヤマト王権は熊野も巡行したが、家津美御子一族は石淵谷や熊野川の奥の本宮大湯原に逃げていたので平定できなかった。

3  私見
 神倉神社から銅鐸が見つかっている。家津美御子は淡路島にもいたが、淡路島は銅鐸が多くみつかり、青銅器文化の一族の拠点である。神倉神社にいた神は熊野権現と呼ばれ、徐福の7人の残り4人が仕えたという。仕えなければ殺されたから仕方なく仕えた。3人(速玉男命・熊野櫲樟日命・事解男命)は船を造って国に帰ったとするが、国に帰ったのではなく、海路吉備国に到着し陸路伯耆国に至って徐福に再会した。この7人は紀元前219年に熊野に漂着した7人である。3人(速玉男命・熊野櫲樟日命・事解男命)は伯耆国に行ったが残った4人は20数年後に熊野権現(家津美御子)が現れ熊野権現に仕えた。このことは伯耆国にいた神武天皇たちの耳にも入っていたはずである。熊野本宮大社の熊野12所権現のなかで主斎神とされる家津美御子だけが異質である。
 京都の藤原氏は熊野での主従関係を愉快に思っていた。天皇は伊勢神宮には行かなかったが、熊野詣では何度もしている。

4  (参考)
 鳥取県神社誌に見る、一時熊野にいて徐福に再会するために伯耆国に来た3人(船を造って伯耆国に来た)を祀る神社(3人とも因幡国より伯耆国に多い)
※速玉男命 因幡7社 伯耆21社 計28社 
熊野神社(浦富町)、長瀬神社(河原町)、高山神社、末松神社(気高郡)、新宮神社(宝木村)、新宮神社(逢坂村)、子守神社、立原神社(上余戸)、東郷神社、上小鴨神社、天乃神奈斐神社、柴尾神社(以西)、船上神社(以西)、葦原神社(安田)、日御碕神社(陰田)、熊野神社(東長田村)、熊野神社(賀野村)、岸本神社、岡成神社、熊野神社(アビレ村)、多里神社、宮市神社、大森神社(以西)、山根神社、中川神社、野上荘神社、福岡神社、神奈川神社
※熊野櫲樟日命(別名 熊野夫須美神または熊野牟須美神) 因幡3社 伯耆8社 計11社 
都波奈彌神社、諏訪神社(智頭町)、天穂日命神社、大原神社、松崎神社、日御碕神社(陰田)、逢坂八幡神宮、天萬神社、野上荘神社、厳島神社(日野村)、安井神社
※事解男命 因幡7社 伯耆15社 計22社 
熊野神社(浦富町)、長瀬神社(河原町)、高山神社、末松神社(気高郡)、新宮神社(宝木村)、新宮神社(逢坂村)、子守神社、立原神社(上余戸)、東郷神社、上小鴨神社、天乃神奈斐神社、柴尾神社(以西)、船上神社(以西)、葦原神社(安田)、日御碕神社(陰田)、熊野神社(東長田村)、熊野神社(賀野村)、岸本神社、岡成神社、熊野神社(アビレ村)、多里神社、宮市神社


速玉男命は徐福(紀元前219年の第一次)の重臣であった

2018-05-29 13:01:54 | 天照大神(徐福)
 徐福一行の第二次(紀元前210年)は辰韓に渡り次々に伯州(伯耆国)に向けて出港し伯州(伯耆国)に結集したが、第一次(紀元前219年)のときは、対馬海流を考慮していなかったため、船出した船は列島に散りじりに漂着した。熊野もその一地域であった。
 
1  新宮の徐福公園の碑より
 日本の書物の長寛勘文には「第五代孝昭天皇の時代に南蛮江の斉王が船で来る途中暴風雨にあって船がこわれ、やっと七人だけが助かった。その中の三人は船を作って本国へ帰ったが、四人は留まって神につかえ、魚を釣って来ては熊野権現に供えた。その子孫はとうとう新宮に住み着いて繁昌した。」とある。
 徐福公園の七塚の碑
 徐福の墓の横には、徐福の重臣7人を祀った石碑が立っている。7人の墓はもとは円墳で、蓬莱山を中心として北斗七星の形を表して造られていたらしい。明治時代にはこれらの墓が存在してたが現在は不明である。

※ 私見
 徐福の重臣7人の古墳を造ったのは京都の藤原氏であった。京都の藤原氏は徐福一行の古墳が円墳であることを知っていた。鳥取県中部に古墳は2395基あるが、そのうち2338基(97.62%)は箱式木棺・石棺を土で封じた円墳である。徐福一行の古墳は円墳であった。鳥取県中部にいた一族は徐福一行であった。徐福が留まった倭国とは鳥取県中部であった。

 
2  新宮市観光協会のホームページ  熊野速玉大社より

 「速玉」の社名の由来は、船の舳先で黒潮の怒濤を切り裂く水しぶきを聖なる飛沫として「速玉」と呼んだという説がある。
 社殿には七体の古神像(重要文化財)が安置されている。このうち四体は平安時代初期の作と伝えられる。 
 熊野権現御垂迹縁起によると、「唐の天台山から飛行し、日本国鎮西の日子山(英彦山)に八角の水晶の姿で降臨し、更に伊予国の石槌山や淡路の遊鶴羽の峰、紀伊国牟婁郡切部山を経て、熊野新宮の南の神倉山に天降った」とされる。
 神倉山のゴトビキ岩の下からは弥生時代の銅鐸が出土しているが、速玉大社からは山に遮られて見えない。すなわち、神倉神社と速玉大社は基本的には無関係な信仰である。速玉大社はやはり、立地から見て熊野川に坐す神への信仰である。本宮と同一の歴史を持つものである。
 神倉神社
 上がる途中の急な石段で久しぶりに蛇を見た。
 神倉神社より新宮市街を望む
 転んだら生きては帰れないほど急な石段である。降りてから新宮市の観光に携わっているという女性と出会った。「日本の歴史はすべてここから始まった」と言っていたが、伊勢神宮や出雲大社と同じく藤原氏に造られたテーマパークの一つである。熊野那智大社、熊野本宮大社、熊野速玉大社は本殿が3~4に分かれている藤原様式である。
 熊野那智大社
 
 熊野速玉大社

 速玉男命は少し居ただけで、本国ではなく伯耆国に行き、そこで生涯を終えた。藤原氏は原古事記を見ているからもちろん史実を知っているし、鳥取県中部が徐福一行が留まった倭国であり、奈良時代まで都であったことも知っていた。
 藤原氏は熊野に熊野速玉大社を造り、熊野本宮大社の祭神にもした。歴代藤原天皇も来たようである。速玉男命が実際に生涯を終えた福岡神社はほったらかしである。伯耆国の歴史を消し去るためである。

 熊野本宮大社
 主祭神の家津美御子神は素戔嗚神であるとするが、鬼・土蜘蛛・猿・蝦夷などと呼ばれている青銅器文化の一族であり、この地域を支配していた。天照大御神・素戔嗚命・速玉男命とは敵対した一族である。

3  速玉男命を祀る鳥取県の神社
※速玉男命 因幡7社 伯耆21社 計28社 
熊野神社(浦富町)、長瀬神社(河原町)、高山神社、末松神社(気高郡)、新宮神社(宝木村)、新宮神社(逢坂村)、子守神社、立原神社(上余戸)、東郷神社、上小鴨神社、天乃神奈斐神社、柴尾神社(以西)、船上神社(以西)、葦原神社(安田)、日御碕神社(陰田)、熊野神社(東長田村)、熊野神社(賀野村)、岸本神社、岡成神社、熊野神社(アビレ村)、多里神社、宮市神社、大森神社(以西)、山根神社、中川神社、野上荘神社、福岡神社、神奈川神社

4  鳥取県伯耆町福岡神社の蛸舞式神事
 福岡神社由緒(昭和九年の鳥取県神社誌より)
 「旧若一王子権現と称す。若一王子は熊野三社の内、速玉男神なり。上古、紀伊国熊野浦より海上大蛸に乗り、吉備国へ上陸。この地に至り給うと。故に俗称蛸大明神と云う。社後の岡に崩御所と伝うる墳墓あり」とある。
 福岡神社。地元が維持管理している。
 礎石の下にあった蛸の石像。
 社後の岡の崩御所

 速玉男命はここに眠る。
 福岡神社では、伯耆町が全国に誇る伝統行事「蛸舞式神事」が毎年10月に行われる。
 その昔、速玉男命が熊野灘(和歌山県)で遭難した際、大蛸に助けられ、無事吉備国へと上陸。その後、この地を訪れたという故事にちなみ、この祭りが行われてきた。

5  私見
 神倉山から銅鐸が見つかっているので、ここに降臨した熊野権現は青銅器文化の一族(準王の一族)であり、徐福の一行(ヤマト王権)とは敵対するものである。新宮市観光協会のホームページの熊野速玉大社にある「神倉神社と速玉大社は基本的には無関係な信仰である」と解するのは正しい。
 鳥取県の神社に多く祀られているのは、鳥取県でしばらく活動していたからである。速玉男命は蒜山(高天原)にいた徐福(天照大御神)を探して鳥取県に来ていた。徐福(天照大御神)も、うけいで鳥取県西部を探していたので速玉男命たちを見つけたものと思われる。福岡神社の日本の3大奇祭に数えられる蛸舞式神事は速玉男命が徐福(天照大御神)にあったときの喜びを表現した舞と思われる。

宗像三女神の本家は米子の胸形神社であり九州の宗像大社ではない

2018-05-28 09:33:15 | 天照大神(徐福)
1  米子の宗形神社  西伯郡成実村宗像向塔
 「祭神」田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命ほか十八神  
 ※三女神は天照大御神・素戔嗚命の御子神とある。血はつながっていないが親といえば親である。
 「由緒」 延喜式神名式に伯耆国会見郡胸形神社とある旧社にして古来上下の崇敬殊に篤い。古昔鎮座の地は現在地より北3丁(330m)あまりの宮谷というところにして本宮と呼ぶ。本殿ありしと伝える山頂の地には数多の小石あり。中腹に清泉ありて井戸といい断水することなし。
 古昔当社の祭神は今の大字長田(長砂町小林)に(宗像と隣接せる所にして当時この辺まで入海なりしという)海路御来着、宗像の地に鎮座せられしと云い、御着船の地を今に船塚と称え御舟は石に化したりと云い伝ふ。
 ※戦後宅地として造成されたが二千数百年で木が石になったりしない、と全国の神社を掌握していた藤原氏に一言。今でも宮司に多い。
 「当時この辺まで入海なりし」とは倉吉の住吉神社と表現が似ており、またその時の海抜は20mになるため、合併した住吉神社の由緒を転用したものと思われる。
◎ 重要だと思われる合併  
住吉神社 表筒男命、中筒男命、底筒男命  成実村日原中尾山
熊野神社 伊弉諾、伊弉冉、天照大神  成実村奥谷字谷奥山

2  古事記の「誓約」の所に、次の文がある。音を表すとしてある。
 その霧の中から生まれた神の名は、(タギリヒメ)、またの名は(オクツシマヒメ)という。次に(イチキシマヒメ)、またの名は(サヨリヒメ)という。次に(タギツヒメ)。合わせて三柱の姫神が生まれた。このとき、先に生まれた神のうち、(タギリヒメ)は胸形の奥津宮に鎮座している。次の(イチキシマヒメ)は同じく胸形の中津宮に、また(タギツヒメ)は辺津宮にいる。この三女神は胸形の君たちが奉斎する三前(ミサキ)の大神である。
 「三前」は、「岬」である。古事記に書かれている「胸形」とは延喜式神名式に伯耆国会見郡「胸形」神社とあり伯耆国の胸形の地のことである。延喜式神名式が作られたとき古事記はまだ隠されていたので藤原氏はそのまま胸形神社と延喜式神名式に記載したのであるが、その後古事記に胸形と書いてあることを知り、判らないようにすることを考えた。「宗形」神社としたのは宗像と胸形の一字づつを採った苦肉の策である。
 三女神は徐福の少女一行でありこの地に着船した年は紀元前210年である。目の前には秀麗な山容の蓬莱山(伯耆富士)が見える。徐福たちは、これを目標に東海(日本海)を渡ってきた。表筒男命、中筒男命、底筒男命はその時の船の船頭と思われる。
 米子市観音寺集落の藤内稲荷神社(保食神社)の祭神は市杵島比売である。海抜も20mの所にあり、古事記の「胸形の中津宮」のあったところと思われる。
 
3  宗像大社の沖ノ島の出土品の時代は主に4世紀後半~9世紀末であり、海上交通の安全のために供えられたと思われる。魏志倭人伝には「その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、キシツを去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり」とある。 魏志倭人伝には海上交通の安全のために命を懸けて、船に乗る持衰がいたそうである。それほど海上交通の安全は重要であった。いくら国宝があるからと言っても宗像大社は本家にはならない。胸形神社の創立は三女神が亡くなったときには祀ったであろうから紀元前であるし、三女神は実際に伯耆国に着船したと由緒にあるから、伯耆国の胸形神社が本家である。

4  宗像三女神
 宗形神社案内板には宗像三女神は天照大神と素戔嗚命の御子神である、とかいてある。天照大神は道教の方士であり占いや祈りが大事であった。三女神は方士徐福によって少女たちの中から選ばれた倭国での最初の巫女である。到着した順に奥津宮、中津宮(米子市観音寺の藤内稲荷神社)、辺津宮に分かれて、海上交通の安全を祈った。後に卑弥呼も伊射波神社の前に巫女として先輩である市杵嶋姫命を祀っている。直井裕氏も言うように、卑弥呼は倭国天皇家の子孫として徐福(天照大神)の子孫となる。

5  伯耆国の胸形神社です。
 



 この日は黄砂でかすんでいたのでシルエットだけであるが、秀麗な山容の大山

6  合併された近くの熊野神社です。
 ほとんど小さな祠状態。しかし、実際に祭神がいた可能性はある。

7  青森県の棟方さんよりコメントをもらいました。それによると「青森県の棟方一族はもともと山陰(米子)で胸形と名乗っており、江戸時代に北九州に行かされたが、今は棟方と名乗り青森県にいる」ということであった。

8 宗像大社のある地は641年に百済の船が筑紫に到着したところと思われる。
 2017年7月9日ユネスコ世界遺産に「沖ノ島」、構成資産8つすべてが登録された。当初九州本土の4構成遺産は除外するように勧告されていたが、8遺産すべてが登録された。延喜式神名帳(927年)には米子の胸形神社の記載がある。古事記の胸形氏が米子で祭祀をしていたのは712年よりずっと以前からである。宗像大社が造られたのは江戸時代初め頃と思われる。ユネスコ世界遺産に登録してもらうには、地元の強力な働きかけが必要だという。ただの穴倉にすぎない石見銀山が世界遺産に登録されたのは地元の有力者が20年かけて訴え続けてきたおかげだと聞いた。宗像も地元の強力な働きかけがあったものと思われる。やはり、宗像大社など(藤原氏の造った神社)4遺産も日本政府(藤原氏)が強力に登録申請を勧めていた。偽の胸形(宗像)が公認された。
 神武東征に関係する19自治体が日本遺産登録に向けて活動を開始した。橿原神宮が中心になっているが、これも「日本を取り戻す」といった藤原氏が橿原神宮に働きかけて、亡命百済人によって日本書紀に創られた神武東征関連地を日本遺産にし、また戦前のように軍国主義を復活しようとしている。

 おまけ

胸形三女神の子孫?!

天照大神と素戔嗚命のうけいは鳥取県淀江町の天の真名井で行われた

2018-05-27 20:57:50 | 天照大神(徐福)

 天の真名井の近くには、妻木晩田遺跡、上淀廃寺、稲吉角田遺跡、宗形神社がある。
 稲吉角田遺跡は弥生時代中期(紀元前100年~紀元前50年)であり、天孫族は大陸に行くルートの中継地として淀江町を重視していた。私見では神武天皇四兄弟の時代である。神武天皇四兄弟は淀江町を通って九州に行った。妻木晩田遺跡が出来たのは紀元元年頃である。地元の歴史家は妻木晩田遺跡の住民は下に降りて淀江町を作った、という。上淀廃寺は奈良時代ではなく天武期である。
 宗像三女神は連れてこられた徐福一行の少女たちだった。天照大神と素戔嗚との誓約は実際に子供を産んだのではなく、行方不明になっていた少年少女を探し出したということである。宗像三女神のように徐福一行の少女たちは米子周辺に漂着していた。のちに神武天皇の皇后となる比売多多良伊須気余理比売(日本書紀では媛蹈鞴五十鈴媛ー鳥取県伯耆町久古神社の祭神)も徐福一行の少女たちの子孫であると思われる。
 三女神は米子市の胸形(古事記)にいた。詳しくは「宗像三女神の本家は米子の胸形神社であり九州の宗像大社ではない」を参照されたし。
 天照大神と天忍穂耳や天穂日は血がつながっていない。連れてこられた徐福一行の少年たちと思われる。天忍穂耳や天穂日たち5人も鳥取県西部に到着していた。天忍穂耳の子は江府町や大山町で生まれている。天忍穂耳は後に関金町耳に居たので耳がつく。天穂日は素戔嗚と稲田姫を守るために鳥取県八頭郡に行っていた。

1  鳥取県淀江町の天の真名井
 湧水量は1日2500トンに及ぶ。
 きれいな清水である。
 

 柵を作る前は左下の石段を下りて水を使っていた。天照大御神と素戔嗚命もここでうけいをした。
 「この泉は、米子市淀江町高井谷泉川にあり、『天の真名井』と呼んでいます。『天の真名井』とは、『古事記』『日本書紀』において、高天原の『神聖な井戸』を意味し、神聖な水につけられる最高位の敬称です。高井谷の氏神である下津守神社の古棟札にも、『天乃真名井乃清久潔幾与 元水於降玉布(あめのまないのきよくいさぎよき もとつみずをくだしたまふ)』と古くから記されております。・・・この『天の真名井』泉川の下流の宇田川平野には、弥生時代の角田遺跡があり、すでに二千年もの昔から、人々の生活と耕作の水源として大切にされてきたことを物語っております。・・・」とある。

2  「天の真名井」の横にある「毘沙門堂」
 「毘沙門天は七福神の一つで、財宝や福徳の神様として信仰されています。一月三日の早朝にお参りすると福徳が授かるといわれています。元々は高井谷村内の山腹、毘沙門平にありましたが大正十五年に現在地に移されました。毘沙門天のほか、薬師如来、弘法大師も祀られています」とある。
 毘沙門天は仏教における素戔嗚の仮の姿であり、薬師如来は仏教における徐福(天照大神)の仮の姿、とされる。

3  サイノカミも祀られている。
 サイノカミ(猿田彦と天鈿女)
 「高井谷には、元治元年(1864年)作の神像と、小型の持ち回り用の神像があります。小型のものは良縁を願って、婚期の近づいた跡取りのいる家に持っていき、めでたく婚礼が終わると次の家に持ち運んでいくという風習があります」とある。
 淀江町にはサイノカミ(猿田彦と天鈿女)が多く祀られている。

4 うけいで生まれた八神を祀る伯耆国の神社
大原神社 倉吉市大原
松崎神社 東伯郡湯梨浜町松崎
日御碕神社 米子市陰田町(祭神 うけいの八神)
松河原神社 西伯郡大山町松河原(祭神 うけいの八神)
日御碕神社 西伯郡南部町三崎(祭神 うけいの八神)
野上荘神社 西伯郡伯耆町福吉(祭神 うけいの八神)
宮﨏神社 日野郡根雨町下榎(祭神 うけいの八神)
安原神社 日野郡根雨町安原(祭神 うけいの八神)

5 私見
 うけいで見つかった八神をまつる神社が鳥取県中西部に七神社あるが八神が七神社で見つかったのではなくそれぞれの神社で見つかった神は異なっていた。
 松河原神社は近くに瓊々杵命(史実は饒速日命)が生まれた壹宮神社があるので天忍穂耳命が見つかったところであると解する。
 南部町の日御碕神社は周りに天穂日命を祀る神社が多いため天穂日命が見つかったところであると解する。
 陰田町の日御碕神社は三女神がいた胸形神社に近いため胸形三女神が見つかったところであると解する。
 宮﨏神社と安原神社と野上荘神社は速玉男命と一緒に熊野から吉備に上陸して伯耆国の奥に到着していた速玉男命を祀る福岡神社が近くにあるため熊野久須毘命が見つかったところであると解する。
 松崎神社は津(東郷池)の畔にあるので天津日子根命、活津日子根命が見つかったところであると解する。


6 鳥取県西部の天穂日命を祀る神社
北原神社 米子市福萬
御崎神社 米子市河岡
北野神社 米子市赤井手
御崎神社 米子市尾高
巨勢神社 米子市八幡
大川内神社 西伯郡南部町上中谷
松尾神社 西伯郡南部町田住
小町神社 西伯郡伯耆町小町
三部神社 西伯郡伯耆町三部
渡神社 日野郡根雨町本郷
岩崎神社 日野郡日南町湯河
奥萩神社 日野郡日南町上萩山
 
 天穂日命は鳥取県西部に到着していたが、素戔嗚と稲田姫の御殿を守るように命じられ鳥取県東部の八頭郡に行っていた。

鳥取県西部の日御碕神社と大神山神社

2018-05-27 05:09:50 | 天照大神(徐福)


1  海岸近くの日御碕神社
(1)総社 現住所 島根県出雲市大社町日御碕455
   日沈宮はもと経島に鎮座した。
(2)鎮座地 東伯郡下中山村大字御崎字屋敷下通
   現住所 鳥取県西伯郡大山町御崎86
 由緒 天長年間島根県国幣小社日御碕神社の御分霊を鎮祭し瀧上神社と称し、当時出雲国日御碕神社宮司小野尊光の祖先小野政重この地に移住し宮司となり、政昭、昭高三代相継ぎて奉祀せしが、後昭高別に祭主を置きて帰国せしが、当時の領主厚く崇敬して箆津の庄を社領に附し、境内において殺生を禁じ、・・・。当社建立の際は出雲日御碕神社の古材を以て建立せられ、出雲日御碕神社造営の節は必ず当社も修繕せらるるを例とせり。現今の玉殿は日御碕の社より寄進せられしものなりと云えり。当社の北方境内に接する地に検校屋敷と称する所あり。これ天長年間より延長六年まで殆んど百年間、小野家の祖三代居住せらりし地なりと云う。
(3)鎮座地 米子市大字陰田字小天竺
   現住所 鳥取県米子市陰田町535番
(4)鎮座地 西伯郡渡村大字渡字宮前(境港)
   現住所 鳥取県境港市渡町1487-4
(5)鎮座地 西伯郡中村大字小篠津字本宮(境港)
   現住所 鳥取県境港市小篠津町1174


2 海抜20m以上にある日御碕神社
(1)鎮座地 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
   現住所  鳥取県西伯郡南部町東上656番
(2)鎮座地 西伯郡幡郷村大字岩屋谷字屋敷
   現住所 鳥取県西伯郡伯耆町岩屋谷453番
(3)鎮座地 西伯郡幡郷村大字諸木字中屋敷
   現住所 鳥取県西伯郡南部町諸木329
(4)鎮座地 西伯郡大幡村大字吉長字三才木 
   現住所 鳥取県西伯郡伯耆町吉長370番


3 大神山神社(鳥取県神社誌昭和9年刊より)
 主祭神 大巳貴命(又の名を大国主命)
 由緒 神代の昔、八束水臣津野命と大己貴大神が大山預上で神事を執行せられし以来、御神霊ましますとして、御神系の方々がその祭祀に奉祀せられ、爾来、大山中腹の現今の奥の宮所在地に、磯城の瑞垣神南備を築き南面して頂上を拝して奉斎せられたるものなるべけれど、記録の徴すべきものなく、唯、続日本記(797年)に承和四年授伯耆国無位大山神従五位下、又文徳実録(879年)に斎衡三年加伯耆国従五位下大山神正五位下、又三代実録(901年)に貞勸九年授伯耆国正五位下大山神正五位上とあり、又延喜神名式(927年)に伯耆国相見郡大神山神社とあり、又出雲風土記(733年)に固堅立加志者有伯耆国大神岳是也とあり、その大山といい大神山というも同一の山なり。


4 大神山神社奥宮(鳥取県神社誌昭和9年刊より)
 祭神 大巳貴命
 由緒 上古よりこの山に座す大山神の事は本社の由緒に記せり。大神谷に本社の大山権現又は大山智明権現と称し、例祭祭祀の典式等旧時の遺風を存し、全く神事を廃せざるものあり。
 特殊神事 古式祭 祭日7月14日15日
 御祭神は医薬の神にませば、古式により神職等は斎戒沐浴して、15日の午前1時に神水汲派遣祭(もひとり神事)を宮司以下奉仕執行す。派遣使は白の装束にて随行の白衣の参籠者と共に出発。頂上の池より神水を汲み、付近より薬草を採取して帰路につく。


5 私見
(1) 日御碕神社は全国的にも珍しい神社である。出雲市日御碕神社を総社としてほかに伯耆国に8社確認できる。日御碕神社の祭神は天照大神命と素戔嗚命であるが、徐福(天照大神)と素戔嗚が辰韓から鳥取県中部の葦原中津国に到着するまでに停船したところであると解する。
 海抜20m以上にある伯耆国の4社は遅れてくる徐福一行を迎えるために徐福(天照大神)と素戔嗚が蒜山から降りてきたところと思われる。
(2) 大神山神社の由緒には「記録の徴すべきものなく」としながらも、「続日本記(797年)に『大山神』、文徳実録(879年)に『大山神』、三代実録(901年)に『大山神』とあり、出雲風土記(733年)に『伯耆国大神岳』、延喜神名式(927年)に『伯耆国相見郡大神山神社』とある」を挙げている。由緒の筆者の「その大山といい大神山というも同一の山なり」とするのは強引すぎである。
 神祇志料(明治6年)佐比売山神社の條に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」とする。
 神祇志料の「伯耆国大神山」と出雲風土記の「伯耆国大神岳」とは同義である。どちらも伯耆国大山(ダイセン)を意味する、とするのが通説である。しかし、伯耆国大神山(岳)の「大神」とは「大神郷」を意味している。奈良時代までは伯耆国久米郡北条郷を大神郷と呼んでいた。
 また、伯耆国大神「山」とは出雲風土記の伯耆国大神「岳」と同義である。「岳」とは百済語であり、より古い新羅語では「根」とする。したがって「岳」とは尾根を意味していた。
 「伯耆国大神山(岳)」とは伯耆国久米郡大神郷にある尾根を意味する。伯耆国久米郡大神郷にある尾根のような山とは北栄町の茶臼山と思われる。伯耆国大神山(岳)とは標高1711mの大山(ダイセン)ではなく標高93mの北栄町国坂の茶臼山であった。
 「御座」とは「本拠地」を意味する。大己貴命(大国主命)、少名毘古那命、須勢理姫命は鳥取県北栄町茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。
(3) 大神山神社の由緒には「磯城の瑞垣神南備を築き」とあるが、大神山神社を築いたのは磯城の瑞垣(崇神天皇)であることを、暗に示している。卑弥呼と崇神天皇は天照大御神を擁して全国に神社を造っていった。崇神天皇が最初に大神山神社を創建したときは、天照大御神を祀っていたはずである。
 また、天照大御神(徐福)は大国主より40歳くらい年配であるから、天照大御神(徐福)が先に大山の薬草を採取していたはずである。不老長寿の仙薬を探しに東海(日本海)の三神仙(大山・烏ヶ山・蒜山)に来たのだから山を「セン」と読む蒜山高原周辺に50くらいある山には登っていた。大山(ダイセン)もその一つである。もひとり神事は白装束でなくてはならないのだから、これも徐福(天照大神)たちと重なる。


大山や蒜山などの山をセンと読む一族は、山を仙人や神仙の「仙」に置き換えて読む道教の方士徐福の本隊であった

2018-05-26 05:49:20 | 天照大神(徐福)

1 蒜山周辺の50余りの山をセンと読むのは春秋時代の呉から来た集団がつけた、という説がある。
 春秋時代の呉があったのは、現在の揚子江河口辺り(上海・蘇州のあたり)である。ここから船で出航すれば半分以上は九州に到着する。彼らは九州の山々にセンという読み方をつけていったと思われるが、九州にセンと読む山は少ない。従って、春秋時代の呉から来た者達が蒜山でも山をセンと付けたのだという仮説は成り立たない。そもそも、呉から来た集団は山に関心はなかったと思われる。
 山に関心があり、山の読みをセンと付けたのは、山に仙人がおり仙薬が山にあり神仙を追い求めていた道教の集団であった。それは、3千人余りの徐福の集団であった。徐福の集団は不老長寿を求めるという一つの目的によって結束していた集団である。これが、呉の集団であるならば、目的もなくバラバラであった。呉の集団が山に関心があり山に命名していたのならば、九州の山にもたくさんセンという山があるはずである。九州の山に少ないのは、蒜山にいて山をセンと名付けた集団は呉の出身者ではなかったということである。


2 なぜ、全国で蒜山高原の周辺の山だけをセンと読むのか、昔から疑問に思っていたのだが、道教の方士たちが蒜山高原にいたという前提にたてば、山は鉱物や薬草が取れる不老長寿には欠かせない重要なところだから仙人の住む仙という字を付けてもおかしくないと思われる。徐福は大山を蓬莱山だと思い小さな湾(葦原の中津)に到着し、蒜山高原に上がった。蒜山高原にしばらくいて周辺の山々を探索して薬草や鉱物を探したものと思われる。大山の大神山神社では頂上から薬草を採って帰るもひとり神事が今でも行われている。
 奈良時代までは蒜山高原周辺の山を「仙」と書いてセンと読んでいた。例えば大仙であり蒜仙であり烏ヶ仙であったと思われる。


3 道教の方士は不老長寿の仙人の住む海上の異界や山中の異境に楽園を見いだし、仙人たちを信仰し仙人にいたるための実践を求めようとした。その究極の目的は不老長生である。
 古代中国ではなんとかして東海中の三神山に住むという仙人に会い、長寿の薬をもらおうとした。道教の方術は気に満ち幽玄な環境をもつ山が修行に適していたことや、鉱物や薬草が豊富であったことから山と結びついていた。
 彼らは山に「仙」の字をあて「セン」と読んだ。大山(ダイセン)蒜山(ヒルゼン)烏ヶ山(カラスガセン)甲ヶ山(カブトガセン)矢筈ヶ山(ヤハズガセン)などの中心である蒜山高原には道教の方士のいる一族集団が住んでいた。それは、方士徐福の本隊であったと思われる。鳥取県・島根県・岡山県・兵庫県の四県あわせて50くらいの山をセンと読む。


4 蒜山高原一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。
 古事記における三貴神より以前の神は96神いたと思われるが、蒜山高原の神社の祭神は24神であり約4分の1が祀られている。珍しい神が多い。蒜山高原は日本最初の首都であり、天都と言ってもおかしくない。
 蒜山高原の神社の祭神は以下のとおりである。
福田神社-川上村
上筒之男命 中筒之男命 底筒之男命 大山祇命 火之迦具土神  久久能智神 志那津彦神 志那津姫神 彌都波能賣神 
長田神社---八束村
伊邪那岐命 伊邪那美命 闇淤加美神 
加茂神社--八束村
金山比古命 速秋津比古命 速秋津比売
茅部神社 大綿津美命  軻遇突命  大山祇命  神直日神  句々廼馳命   
徳山神社 伊邪那岐命 伊邪那美命 水分神(天之水分神 國之水分神) 三柱底男(上津綿津見神・中津綿津見神・底津綿津見神) 


5 徐福は方士と呼ばれる学者であり、彼らの学ぶ方術の中には「未来を予測する学」も含まれていた。
 道教では鏡を使って明照法を行なうことによってさまざまな方術が身につくという。たとえば、分身の術、一瞬のうちに千里の彼方まで行く術、雲に乗り氷を踏む術、天地の間のどこにでも出没できる術などである。これらの方術を体得すると、次には神の姿を見ることができるようになる。さらに修行を積むと、未来を予見できるようになり、ついには神仙になれるという。
 卑弥呼が習得していたのも道教の方術であったと思われる。


徐福は小さな湾(鳥取県北栄町)に到着し蒜山高原(岡山県真庭市)に上がった

2018-05-25 04:07:22 | 天照大神(徐福)
(1) 中国の政治家、文学者、詩人、歴史家である郭沫若(1892年~1978年)は「銅鐸は殷人の一種の銅器である」と述べ、春秋時代の徐国が、殷の文化伝統を忠実に継承し、そっくり出雲に移住していたという。
 昭和十六年の「日支交通史」の著者である王輯五は、出雲族は秦系大陸民族であり、考古学的には銅鐸民族であり、徐福集団に比定されるとしている。
 王輯五はさらに、徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集したとする。
 辰韓より出航すると、東に流れる対馬海流と南に流れるリマン海流によって、出雲から伯耆に流れるように到着する。
 徐福一行はまだ地続きでなかった島根半島と本土との間を通ってきた。大山(蓬莱山)は中海から見ると秀麗な山容となる。少女一行の多くは米子に到着した。徐福の本隊は鳥取県北栄町の小さな湾(葦原中津国)に到着した。徐福一行が2回目(紀元前210年)に来たときは仙人(伊邪那岐命)は小さな湾(葦原中津国)に降りてきていたようである。仙人(伊邪那岐命)は徐福に私に替わって蒜山高原(高天原)を治めよといい徐福のNO2(素戔嗚)には私に代わって泊瀬の海原(倉吉市中心市街地)を治めよ、と言った。その時に徐福のNO2(素戔嗚)は「母の国」と言って泣いた。徐福は三神山の大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)に止まって王(天照大御神)となった。
 伯州(伯耆国)には福付き地名が41ヶ所ある。このことより、王輯五のいう「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とするのは正しいと思われる。

(2) 郭沫若、王輯五のいう「徐福一行は出雲に移住し殷人の一種の銅器である銅鐸民族になった」とするのは正しいか。
 伯耆国は出雲の東にあり辰韓を出航すれば出雲を通り過ぎて伯耆国に到着する。出雲国に移住するのなら伯耆国まで来なくてもよい。伯耆国に来れば引き返さなければならない。
 徐福は不老長寿の仙薬を得る為に東海の三神仙に行くことが目的であった。始皇帝も徐福に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じている。三神仙とは大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)のことである。徐福は伯耆国の小さな湾(北栄町の葦原中津国)に到着しそこで待っていた仙人(伊邪那岐命)に会って蒜山高原(高天原)を治めるように言われた。徐福は蒜山に上がり、周辺の山々(山をセンと名付けた)で仙薬を探した。そして始皇帝の言ったように「三神山に止まって始皇帝に替わって王(天照大御神)となった」。
 徐福は蒜山高原(高天原)で王(天照大御神)となり降臨をして平原(伊勢野・斎王野・鈴鹿野・方見村)と広沢(葦原中津国)を得た。
 出雲族は徐福集団ではなく殷王朝末裔の準王一族である。徐福集団(紀元前210年)より16年後(紀元前194年)に出雲の地に到着していた。

(3) 素戔嗚が泣いていたのは葦原中津国であった。
 宮下文書に「宇記島原(浮島と原)に上陸し」とある。倭建命も北栄町大島のことを「こは浮島にや」(宮崎神社由緒)といった。葦原中津国には原集落(北栄町原)もある。倭建命と孝元天皇は大島で二尊(伊邪那岐命・伊邪那美命)を祀っている。
 伊邪那岐命は大島で徐福を待っていた。
 徐福は葦原中津国に到着し、しばらく灘手神社にいた。灘手神社の祭神は天照大御神である。天照大御神が降臨したのは、琴浦町斉尾(斎王)である。灘手神社は降臨した場所ではなく、到着した場所である。まだ徐福であったが、天照大御神に直している。徐福は小さな湾(葦原中津国)に到着し、北栄町大島にいた伊邪那岐命(仙人)に再会した。
 天照大御神を祀る神社は鳥取県に110社あるが、その中で伯耆国は87社(79%)、因幡国は23社(21%)である。総神社数は因幡国のほうが多いが天照大御神を祀る神社は鳥取県中西部が圧倒的に多い。
 あとから来る徐福一行の多くは秀麗な山容の大山を目標に鳥取県西部に到着したので、徐福(天照大御神)はそれを迎えるために鳥取県西部に降りていた。
 天照大御神を祀る神社は西伯郡51社、日野郡27社。
 東伯郡(鳥取県中部)は9社である。
 1 新宮山神社 西郷村下余戸 2 五郷神社 三朝町牧 3 国主神社 湯梨浜町北福 4 神田神社 関金町泰久寺 5 灘手神社 灘手村穴沢 6 上市神社 河来見 7 方見神社 市勢村上伊勢 8 日御碕神社 下中山村御崎 9 神郷神社 上郷村大杉
 福付き地名(徐福集団が住んだ集落)も鳥取県48ヵ所のうち伯耆国は41ヵ所(85%)、因幡国は7ヵ所(15%)である。

(4) 古事記において
 伊邪那岐命が三貴神に「~は私に代わって~を治めよ」と指示した場所は三貴神が到着した葦原中津国である。
 素戔嗚は泣いたが、伊邪那岐命は「この国に住んではならぬ」と命令した。この国とは葦原中津国である。素戔嗚が泣いていたのは倉吉市谷集落の朝日神社のあたりと思われる。祭神の素戔嗚を牛頭天王とする。
 素戔嗚は高天原(蒜山高原)に上がっていた天照大御神に暇乞いをしに行った。泊瀬の海原に降りて周辺を調べているうちに三朝町山田で八俣大蛇を見つけ退治した。
 「この伊邪那岐命はのちの近江である淡海の多賀に鎮座している」の文はのちの挿入であり、史実ではない。私見では伊邪那岐は黄泉国を嫌い鳥取県八頭郡那岐村に移っていた。南には那岐山、岡山県奈義町がある。素戔嗚は八岐大蛇を退治してから、鳥取県八頭郡にいた伊邪那岐を頼って同じく鳥取県八頭郡に御殿を建て稲田姫と住んだ。素戔嗚は伊邪那岐が亡くなってから伊邪那岐に治めよと言われていた根国(泊瀬の海原)に帰った。2番目の妻との間に生まれた須勢理姫と智頭町に降りていたが中山神社(御真木)→真庭市社→蒜山高原(高天原)→倉吉市余戸谷町(根国の清熊稲荷神社)のルートで根国に降りてきていた。谷田神社(清熊稲荷神社)が「根国での冒険」の舞台であり、1人になった素戔嗚は東山神社に移り、十握の剣を大原神社(石上神宮)に奉納した。須勢理姫は東山神社と宇迦能山(北栄町茶臼山)との間を行ったり来たりしていたようである。宇迦之御魂命を祀っている神社の並び方を見るとこういう結論になる。

東海の三神山とは日本海から見た大山・烏ヶ山・蒜山のことである

2018-05-24 07:00:33 | 天照大神(徐福)
 徐福が筆録したと伝えられている宮下文書(徐福文書)は、「一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった」とする。
 上陸した宇記島・原は鳥取県北栄町の島集落と原集落であった。どちらも、紀元前210年では海面が海抜4mであり、波打ち際であった。また葦原中津国を構成しており、天然の良港であった。徐福達は葦原中津国に到着し、蒜山(瀛州山)に上がった。蒜山高原(瀛州)は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。「富士山麓が高天原である」と改ざんしたのは、藤原氏である。
 
 宮下文書にある小さな入り江(葦原中津国の入口)より見た蒜山(瀛州山)。
 日本海の海上に出ても、同じように見える。右から上蒜山、中蒜山、下蒜山である。
 標高は1200m代でありその向こうが蒜山高原(瀛州)になっており、標高は400~500mである。
 徐福はここに上陸した。東海とは朝鮮半島の人は日本海をそう呼んでいたのであり、瀛州山とは蒜山のことであった。
 左側が普通の中国山脈である。蒜山(瀛州山)がいかに目立つか判る。
 大山(蓬莱山)は標高1700m代でありもう一つ抜きんでて大きいが、蒜山(瀛州山)も普通の中国山脈に比べると抜きんでて大きい。古代は大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)を目印にして、大陸(新羅)から渡ってきたものと思われる。この奥に宮下文書に書いてある宇記島(島集落)と原(原集落)がある。島の宮崎神社の由緒には「倭建命がここは浮島かと言われた」という記載がある。
 

徐福が見た大山(ダイセン)

2018-05-23 04:53:58 | 天照大神(徐福)
 徐福が筆録したと伝えられている宮下文書(徐福文書)は、「東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。しかし、近づいてみると、船上で遥拝した霊山とは違い、一行が上陸したのは。木日国(紀伊国)木立野の大山であった」とする。
 伯耆国の大山は西から見ると秀麗な山様に見えるが、東に進むとその姿を見失う。これこそ蒜山高原(瀛州)に伊邪那岐命(真人)のいた東海(日本海)の蓬莱山(大山)であった。
 「伯耆国の大山」ではなく、「木日国(紀伊国)木立野の大山」と書き換えたのは藤原氏である。
 伯耆富士。西北西より見た大山。秀麗な山様である。今の中海(なかうみ)から見ると秀麗な山様に見える。徐福は本土と島根半島の間を航海してきたものと思われる。
 旧名和町より見た大山。米子と北栄町の中間ではこのように見える。
 その裾野の小さな湾(北栄町の葦原中津国=豊葦原瑞穂国の入口)より見た大山(ダイセン)(陸地と大きな山)。手前の甲ヶ山(セン)と矢筈ヶ山(セン)の陰になって、頂上しか見えない。

徐福一行は朝鮮の辰韓にたどり着きしばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国、鳥取県中西部)に結集した

2018-05-22 05:23:45 | 天照大神(徐福)

 徐福一行は朝鮮の辰韓にたどり着きしばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国、鳥取県中西部)に結集した。

1 秦の始皇帝が天下を握った221年ごろには、秦以外のすべての国々は消滅した。燕・斉・趙の民数万人が、朝鮮に逃避した。朝鮮では、国を割いてまで秦の亡民の建国を許している。辰韓は秦の民が多く集まったので秦韓と呼ばれた。王輯五は、「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国のこと、鳥取県中西部)に結集した」とする。
『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝、『晋書』辰韓伝によると、辰韓には秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていた。また、辰韓人は馬韓人とは言語や風俗が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、言語や風俗は似通っていたという。弁韓は日本から渡海して来たものを受け入れるところであったと思われる。
第二段の徐福たち3000人もこの地にたどり着いたようである。そして一斉にではなく、次々にピストン輸送して伯州(伯耆国・鳥取県中西部)に結集した。辰韓は紀元前2世紀頃から朝鮮半島南部日本海側にあった後の新羅と重なる地域である。

2 「韓国の徐福伝説」許玩鍾より


 全羅北道 井邑郡 泰仁面弓四里 弓四老人会館にて七十七歳の男に聞いた徐福伝説(一九八五年・四月十八日)
 秦始皇に「それならどうかその不老草をあなたが探し求めてきてもらいたい」と言われると徐市は「あそこは遥か遠く、深いところで、一、二、三年間では出来ません。十歳前後の千人か二千人の童男童女を同じく区分けして、百隻ほどの船に乗せて、一、二、三年間を過ごしながら不老草を探し求めるわけであるので、一応農事をして食事を取らなければいけません。ですから豆の種や麦、種籾も要りますし、すべての種を備え、それにシャベルやくわ、ホミ(草かき)のようなもののすべてを備えてからこれらを乗せていかなければ不老草は求められませぬ」という。秦始皇に船や種、童男童女を要求し、また着る服のために綿布千匹を船に乗せて出発する。
 出発すると徐市は「まあ、これで俺たちの天下だ」と言いながら数日を掛けてたどり着いたのが日本であったが、そこは広々とした大平原だけあって野原も畑も何もない。
 (徐市は)どうしようもなく男女一人ずつを夫婦に添わせてやる。森林の山のところであればヤマ、野のところであればノハラ、畑のところが多ければハタケ、川のところであればカワと名付けてから全部を日本のあっちこっちの土地に割りあてた後、「鍬を持っている人、ホミを持っている人、種を持っている人、お前らはこの辺りで種蒔きをしてお前ら同士で食って暮らしていけ」とし、また持ってきた綿布千匹で着物を作ったという。
 結局、五十年間ぐらいが経ってしまい、血気盛りの童男童女たちが子供を生んで、人口が増え広がり、日本の土地に根付いてしまった。
※ 私見
 徐福たちは列島に地名をつけていった。海抜4mくらいのところの海岸であったような地名は徐福たちがつけた地名である。北栄町の瀬戸・穂波・津原・灘手などはその例である。
 そのほかの伝承地には「徐市過此」(徐市が此処を過ぎた)という岩文字などが残る。徐福たちは、半島の東(辰韓)に行っている。徐福は半島の東(辰韓)に至り、日本(東海の三神仙)に向けて出港した。

3 始皇帝は海外にも秦国の威勢を拡大しようとしていた。徐福に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じている。徐福は「東海王」の異名ももっていた。蒜山高原の周辺では山(ヤマ)を仙(セン)と読むところが多い(50くらいの山)が、これは仙人や仙薬を探していた徐福一行が名づけたものだと思われる。徐福は純粋に不老長生の仙薬を探しに日本にやってきた。丹後に行ってからも冠島で仙薬を探している。徐福は王になるために来たのではないが結果として平原・広沢(葦原中津国)を得て王(天照大神)となった。

4 『北史』新羅伝には、「新羅とは、その先はもと辰韓の苗裔なり」とある。新羅は紀元前57年に稲飯命(神武天皇の兄)によって建国された。「新撰姓氏録」では新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとする。神武天皇の四兄弟は紀元前70年頃、東夷を平定されるために伯耆国を発たれた。二男の稲飯命は辰韓に渡り鉄製の剣や刀や鏃を創って神武天皇たちのもとに送った。神武天皇の即位年は紀元前60年である。その3年後の紀元前57年に、二男の稲飯命が辰韓の地に新羅を建国した。着かれてから建国までにかなり年数がたっているが、人望を得るのには必要な時間であった。

5 伯耆という国名の由来
除氏は秦の姓も賜っている。伯太は「はた」と読む。魏志東夷伝には「辰韓は馬韓の東において、その耆老が言うには、古くの亡命人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を割いた」とある。
伯耆とは伯太の耆老から来ている可能性が高い。

6 続、宗像三女神
宗形神社案内板には宗像三女神は天照大神と素戔嗚命の御子神である、とかいてある。天照大神は道教の方士であり占いや祈りが大事であった。三女神は方士徐福によって少女たちの中から選ばれた日本での最初の巫女であった。到着した順に奥津宮、中津宮、辺津宮に分かれて、海上交通の安全を祈った。後に卑弥呼も伊射波神社の前に巫女として先輩である市杵嶋姫命を祀っている。直井裕氏も言うように、卑弥呼は天孫族を介してつながりがコの字になるが徐福の子孫である。


徐福(天照大神)が到着したのは伯耆国であった

2018-05-21 04:46:56 | 天照大神(徐福)
徐福(天照大神)が到着したのは伯耆国であった

 Ikko Kurosawa氏の文章を一部引用しています。

1 始皇帝は方士徐福に仙薬を求めることを二回命じている。一回めは紀元前219で、「蓬莱の薬を手に入れることができなかったのは、鯨に苦しめられて到達することができなかったからです。鯨をしとめる射手を供にして下さい。」徐福はそう奏上した。
 二回目は紀元前210年、大船40艘、良家のけがれのない少年・少女3千人を所望し、船工・百工・方士、金銀珠玉、五穀と機材を積んで神仙の山、蓬莱山、方丈山、瀛州山の三神山にむけ、およそ100艘の大船団を出発させた。始皇帝は滄海郡(旧斉国)に命じて船を建造し、千童城・丱兮城(かんけい)を築いて、これら技術者や童子を集めて渡海訓練をしている。この大プロジェクトに、始皇帝は巨大な費用を惜しみなく出した。始皇帝は徐福に八洞神仙に到達したら爵位を与え、水夫の税を免除する報償を約束した。
 徐福は斉の人で、琅邪(ろうや・山東省東南部)を出発したが、始皇帝は自ら強い弓をもって乗船して、鯨が邪魔をしたら自ら射撃しようと成山まで同行したが、鯨には遭遇しなかった。成山頭で下船して徐福らを見送った。「煙台」に至り、大魚に出くわし、これを射殺したという。(史記・秦始皇本紀三七年)
 始皇帝は、東の聖地、山東半島の「煙台」を、五回の巡行のうち三度も訪れている。この渤海湾の伝説の港町「煙台」から徐福一行は中国本土を離れた。
 中国の白蘭族の歌を始め、屈原の『少司命』『湘夫人』など、すべて五・七言であるので、須佐之男の八重垣歌も五・七調の歌謡であり中国の踏襲ということも言える。
 殷の王は鬼神を尊び、民を率いて神に仕え、何事につけても甲骨に卜占をしるして占いをもっぱらにして、族邑を束ねていた。紀元前千四百年、殷の中心が河南省の安陽市付近にあったことは殷墟の発掘で明らかになった。河南・山東は、後の六国の「斉」で、とくに崇神の念の強い地域だったと言われ、鬼神を畏れる人々だった。このことは魏志の「名曰卑弥呼。事鬼道、能惑衆」、卑弥呼の鬼道と気脈を同じくすると思われる。斉が殷の習俗の色濃い土地であることは確かである。そして、徐福の童子3千人が斉人であれば、なおさらのことである。
 
2  私見
 王輯五は「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とする。鳥取県中西部には福付き地名が他所より格段に多いから、王輯五のいう「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とするのは正しいと思われる。徐福一行は仙薬を求めて伯州(鳥取県中西部)に結集した。三貴神は大山の裾野の小さな湾に上陸し、伊邪那岐が禊をしていた北栄町の原に到着し、北栄町の大島に移って伊邪那岐は三貴神に収めるべき国を命じ、天忍穂耳に葦原中津国を治めさせるように言依さした。徐福(天照大神)は蒜山(瀛州山)に上がった。
 須佐之男は中国出身であり、徐福一行のNO2であった。八岐大蛇は始皇帝の追っ手であり、さらなる追っ手から逃れるために、徐福(天照大神)と一緒に鳥取県東部に逃げていた。始皇帝は徐福たちが出港した年(紀元前210年)に亡くなったが、亡くなったことはしばらく伏せられていた。徐福と須佐之男は始皇帝が亡くなったことを知って、始めに命じられた高天原(蒜山高原)と海原(倉吉市中心市街地)に戻った。
 Ikko Kurosawa氏は「徐福一行は斉人であり殷王朝の末裔だ」とするが、徐福一行は列島の縄文文化を取り入れて線刻土器祭祀をしていた。準王一族は紀元前194年(徐福たちに送れること16年)に出雲に到着した。殷王朝の銅鐸による生贄祭祀をしていたのは、16年遅れて出雲国・伯耆国・因幡国に来た準王一族であった。因幡国では大国主の兄の八十神であった。
 天穂日の子とされているタケヒラドリは殷王朝末裔の準王であった。天穂日は準王(出雲族)を監視するために安来市の能義平野に派遣された。そして、天穂日は準王一族(出雲族)と婚姻関係を結んだ。しかし、準王一族(出雲族)は残虐な鬼(殷王朝と同じく人間の生贄をした)として全国に広がっていった。

 福知山大江町元伊勢「皇大神宮」(この大江山に鬼の酒呑童子伝説がある)
 日本の鬼の交流博物館に行って館長に聞いたら「酒呑童子伝説は平安時代ではなく聖徳太子の頃だと思う」と言った。私見ではもっと古く垂仁天皇の頃と思われる。この末社の建て方は出雲大社と同じであり藤原氏が八世紀以降に建てたものと思われる。
 出雲国には藤原忠平関白が制定した延喜式の式内社が187社もあった。しかし、隣国の伯耆国に式内社は僅かに6社しかなかった。これは鬼と言われるほど残虐であった出雲族と藤原氏は同族であったからである。
 
 

鳥取砂丘に次ぐ鳥取県中部の北条砂丘(笠沙之御前)に漂着したハングル文字のゴミ

2018-05-20 04:49:04 | 天照大神(徐福)
(1) 鳥取砂丘に次ぐ鳥取県中部の北条砂丘(笠沙之御前)に漂着したハングル文字のゴミです。
 
 プロパンガスボンベまで漂着していた。
(2) 朝鮮半島からのゴミが鳥取県や丹後半島に流れ着くということは、対馬海流とリマン海流の作用によって鳥取県や丹後半島あたりに漂着するからである。日本列島と朝鮮半島との地形を見ても鳥取県あたりで日本海が広がっていてリマン海流が南に押す作用が理由であると思われる。
 この現象は2千年前でも同じであったと思われる。動力が人力だけの古代においては、この対馬海流とリマン海流の流れは非常に重要であった。
(3) 徐福は紀元前219年に最初の航海に出ている。その時は一斉に海に乗り出した。その結果、散りじりとなり日本全国に徐福の船が漂着した。徐福は北九州より朝鮮半島に渡り始皇帝に奏上して再度挑戦した。初回から九年後のことである。
 初回は失敗したが徐福は対馬海流のことが解かり朝鮮半島の東側から出航することにした。二回目は良家の子女3千人を引き連れて、辰韓にたどり着き、しばらくそこに止まって、伯耆国に向けて次々と出航していった。徐福一行は伯耆国に結集し蒜山高原(瀛州)に上がり周辺の山々から仙薬、薬草、鉱物を採取し、山をセンと名付けた。

新羅(斯蘆国)は鉄の武器を作りに渡った稲飯命が建国した

2018-05-19 03:30:08 | 天照大神(徐福)

1  辰韓の地名由来
 辰韓の地名由来は、秦の苦役を避けて韓にやって来た昔の逃亡者がいたから辰(秦)韓という、とする(三国志魏書辰韓伝・晋書辰韓伝・後漢書辰韓伝)。
 彼らは2次の徐福一行である。始皇帝はこの時まで徐福を信じていたようである。徐福は後に「秦の苦役を避けて韓にやって来た」と言った。徐福はここに来るまで始皇帝に「不老長寿の仙薬を探して帰ってくる」と言っていた。それを「実は秦の苦役を避けて逃げてきたのだ」と言った。まるで因幡の白兎が和邇(船)を数え終えて海を渡り終える前に、「今までの話は嘘で海の向こうに渡りたかっただけだ」と言ったのと似ている。

2  新羅(斯蘆国)の建国伝説
 閼川の丘(慶州)の上に、6つのを率いる長たちが集まった。相談も済んで皆が立ち上がろうとしたとき、丘のはるか向こうの方に、一筋の光がたなびいている。行って見ると、井戸のそばで、白い馬が1頭、大きな卵をしきりに伏し拝んでいる。6人が近づくと、馬は天に向かってひと声高くいなないた。すると卵が割れて、なかから一人の男の子があらわれた。泉の水で産湯をつかわせると、赤子の体から神々しい光が輝いて目もまばゆいばかりである。王と仰ぐべきお方を、天が賜ったに違いない。徳のある君主を得たいというのが、6人の長たちのかねての願いであった。
 長たちの手でだいじに育てられ、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから、13歳を迎えたときに王位に立った。卵が瓠ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。漢の宣帝五鳳元年四月である(紀元前57年)。

3  徐那伐という国号と赫居世居西干
 新羅本紀では新羅の原国号は「徐那伐」だという。韓音では「ソナバル」と言う。神武天皇が、倭地方を称して「ソラミツ倭の国」と言ったときの「ソラミツ」と似ている。
 「赫居世居西干」は「カクコセ・コセカン」と音読みできるが、「赫」は「日」と同義の「明るさ」を表しているが、「居世」の解釈はアイヌ語の「クシ」とすべきだろう。「クシ」とは「向う」という意味である。「日に向う」だから日向である。「赫居世居西干」は「日向の王」という意味と思われる。稲飯命四兄弟が住んでいたのも父親の火火出見命(鵜草葺不合命)の宮であった日向の四王寺山(倉吉市大谷)である。

4  新羅(斯蘆国)の始祖は稲飯命(上里神社由緒には前に伯耆氏がつくから出身は伯耆国)である。
 半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなした。
 瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴(瓠)赫居世を同定する説がある。
 「新撰姓氏録」は、新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしている。
 稲飯命は紀元前70年に辰韓の地(慶州)に現れ、弟の神武天皇が初代天皇に即位した紀元前60年に「10歳を越える頃には人となりが優れていたことから」信用も得て、紀元前57年(3年後)に新羅王になった。卵生神話はのちの創作である。
 三国史記に新羅王の出自は「倭種」と書かれている。三国史記の異説を紹介することで知られる三国遺事であるが、新羅王の出自については否定も異説の紹介も書かれていない。新羅本紀に新羅王の出自を倭人と直接書かなかったのは、稲氷命(稲飯命)の始祖は倭国に渡った中国出身の徐福・天忍穂耳であり、倭国で生まれた瓊々杵命の孫にあたるのを知っていたからである。
  第8代の阿達羅尼師今の20年(173年)に卑弥呼が遣使した。
 慶州のことを、韓国では「新羅千年の都」という。始祖・赫居世が王位についた紀元前57年から、最後の王である第56代・敬順王が西暦935年に高麗の王建に下るまでの992年間、一度も慶州から都を移したことがないためである。このあたりは、都城を何度も変えている高句麗・百済とは異なる。

5 以下の鉄鏃は稲飯命が建国した新羅で造られ、倭国の神武天皇たちに送られ、九州で使われたと思われる。
※(2015-07-19)  鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。
 昨年7~8月に「土坑墓」から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。
 副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる。


朝鮮半島に三韓ができる前後の中国・朝鮮の歴史

2018-05-18 05:24:22 | 天照大神(徐福)

朝鮮半島に三韓ができるまでの中国・朝鮮の歴史

1   中国の春秋戦国時代に河北省、遼寧省、山東省辺りにあった燕や斉は秦国に滅ぼされ、難民が朝鮮半島に流れ込んだ。韓も紀元前230年に秦によって滅ぼされ、韓の難民は山東省から朝鮮半島南部に辰国を建国した。韓族は当初、馬韓を支配し、辰韓を秦の始皇帝の労役を嫌った秦人に譲ったが辰韓の支配権は馬韓が握っていた。馬韓は山東半島にいた韓族だったので、長江文明の流れを汲む中国の南方系の民族であったし、辰韓と弁韓は鉄器製造技術を持った秦語(陝西方言)を使う中国の北方系の民族であった。鉄鉱山もある山東半島や北京以南から遼東半島に掛けて、いろいろな異民族が集まっていた。
※私見
 青銅器文化も、中国の山東半島や遼東半島にいた部族からきたと思われる。それは燕や斉の難民であった。馬韓は衛氏朝鮮によって滅ぼされた箕子朝鮮の残党によって、その支配権を奪われた。青銅器文化が日本に渡ってきたのは紀元前194年頃である。

2  高句麗 
 高句麗は紀元前3世紀頃から朝鮮半島の北部に建国していた。三国志魏書・高句麗伝には「高句麗は遼東の東千里に在り、南に朝鮮、ワイ貊、東に沃沮、北に扶余と接する。丸都の麓に都を置く、方形は二千里、戸数は三万。多くの大山や深い渓谷があり、原野や沢はない。山や谷に住居を置き、谷川の水を飲む。良田はない、農作業に努めているのだが、腹を満たすには至らない。その風俗は節食、宮廷は善政を行ない、王宮の左右に大きな建物を立て、鬼神を祭り、霊星や社稷(大地の神と五穀の神)も祀る。その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする。東夷の古い話では夫餘の別種だとするが、言語、諸事ともに多くが夫餘と同じだ」とする。「梁書」高句麗伝に「十九年(245年)春三月、東海の人が美女を献じた。王はこれを後宮に納めた。冬十月、軍を出して新羅の北辺を侵略した」という記述がある。
※私見
 不思議な記述だが、ここに登場する東海人とは、「日本海に面した国の人」という意味である。日本海に面した国とは新羅か対岸の伯耆国と思われる。公孫氏(189年~238年)がいなくなっても、高句麗が略奪を繰り返していた。倭国は陸路を確保するために高句麗にも貢物を献上していたようである。

3  百済
 百済は高句麗より出ず。藤原氏のルーツは高句麗にある。百済の建国神話は、高句麗と同様、扶余の東明神話のバリエーションとなっている。
(1)遼西経略説  百済は建国の当初、高句麗が遼東半島を征服した後、遼西地方に進出して百済郡を設置した。「宋書」「梁書」
(2)高句麗同祖説  百済は始め高句麗とともに遼東の東千里の地にあった。「宋書」「梁書」「南史」
(3)始祖仇台説  仇台という者が、かつての帯方だった地に百済を建国した。「後漢書」「周書」「魏書」「隋書」
※私見
 「梁書」には言語や服装などが高句麗とおおよそ同じであるとしている。これらを見ると高句麗と百済は兄弟国であったことが解かる。高句麗と百済は「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」ので新羅を襲ったり、百済は任那(全羅南道)を何度も侵している。百済は最終的には倭国を乗っ取った。

4 古事記序文に「そこで天武天皇は『私の聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。そうだとすると、ただ今この時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年も経たないうちに、その正しい趣旨は失われてしまうに違いない・・・』」とある。
 諸家とはだれのことか。藤原氏は亡命百済人(扶余族)である。扶余族は「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」とする(三国志魏書・高句麗伝)。扶余族は略奪に喜びを感じる一族である。人・物だけでなくなんでも略奪する。名前・系譜・歴史も略奪する。642年に倭国に来た百済人の翹岐は中臣鎌足と名乗った。中臣の名前と系譜を略奪した。難波を南場に変えさせて難波姓を名乗り、安倍を阿部に変えさせて安倍姓を名乗った。古事記
日本書紀の系譜も出鱈目である。倭国の歴史を略奪したのも藤原氏(扶余族)であった。帝紀および本辞を略奪したのも亡命百済人の扶余族(藤原氏)である。