「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

丁未の乱(ていびのらん)について

2022-02-18 20:24:30 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

丁未の乱(ていびのらん)について
1 宣化・敏達・用明・崇峻は百済王であった。
(1)宣化は百済王であった。
 この時の倭国王は蘇我稲目大王であった。別稿「535年から乙巳の変(いっしのへん)までの110年の間の倭国大王は蘇我氏三代であった」を参照されたし。宣化天皇は百済王だから宣化天皇の皇子とされる宅部皇子(やかべのみこ)も百済人であり朝鮮半島の百済でなくなっている。また、穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人は百済で殺されており倭国に実在した人物ではない。
(2)敏達は百済王であった。
 日本書紀・敏達天皇に「百済の大井に宮をつくった」とある。これについて、河内長野市太井とする説と、奈良県広陵町百済とする説がある。
 私見では「百済の大井」はそのまま「朝鮮半島の百済にあった」とする。巧みに倭国の地名と倭人の名前を混ぜているが、敏達天皇は朝鮮半島の百済王であった。この時の倭国王は蘇我馬子大王であった。別稿「535年から乙巳の変(いっしのへん)までの110年の間の倭国大王は蘇我氏三代であった」を参照されたし。
(3)用明は百済王であった。
 日本書紀・用明天皇において「用明天皇は穴穂部間人皇女(あなほべはしひとひめみこ)を立てて皇后とした。この人は4人の男子を生まれた。1番目を厩戸皇子(うまやどのみこ)という。またの名は豊耳聡聖徳という。あるいは豊聡耳法大王という」とある。穴穂部間人皇女(あなほべはしひとひめみこ)のモデルは蘇我馬子の妻の物部鎌姫大刀自であり、厩戸皇子(うまやどのみこ)のモデルは蘇我馬子の長子の蘇我善徳であった。用明の皇居の磐余池辺雙槻宮(いわれいけべなみつきのみや)は蘇我馬子の皇居であった。池辺皇子も蘇我馬子であった。どちらの池も鳥取県北栄町北条島の金繰溜池(かなぐりためいけ)であった。用明のモデルは蘇我馬子であった。別稿「蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮(いわれいけべなみつきのみや)は鳥取県北栄町島にあった」を参照されたし。
(4)崇峻は百済王であった。
 泊瀬部皇子(はせべおうじ)は崇峻天皇ではない。雄略天皇の皇居のあった泊瀬山(はせやま)は倉吉市の打吹山であり、天武天皇が建てた泊瀬の斎宮は倉吉市の大御堂廃寺であった。蘇我稲目大王の皇居は倉吉市打吹山の大江神社にあり、泊瀬部皇子(はせべおうじ)(長谷部若雀天皇(はせべわかささぎてんのう))とは倉吉市(泊瀬(はせ))で生まれた蘇我馬子のことであった。蘇我馬子は百済王の崇峻天皇を朝鮮半島で殺した(592年)。藤原氏は崇峻を殺した蘇我馬子の名を奪って崇峻に付けた。泊瀬部皇子(はせべおうじ)は蘇我馬子自身の名前であった。
2 丁未の乱(ていびのらん)について
 日本書紀・崇峻において「蘇我馬子らは炊屋姫(かしきやひめ)を奉じて、佐伯連丹経手(さえきのむらじにふて)・土師連磐村(はじのむらじいわむら)・的臣真噛(いくはのおみまくい)に詔して、『お前達は兵備を整えて急行し、穴穂部皇子(あなほべのみこ)と宅部皇子(やかべのみこ)を殺せ』と命じた」とある。穴穂部皇子(あなほべのみこ)と宅部皇子(やかべのみこ)は殺された。
 日本書紀・崇峻・丁未の乱(ていびのらん)において、蘇我馬子の軍勢が物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)の軍勢を討ったとき「厩戸の皇子は、軍の後ろに従っていた。『もしかするとこの戦いは負けるかもしれない。願をかけないと叶わないであろう』といわれた。そこで四天王の像を作り、誓いを立てていわれるのに『今もし自分を勝たせて下さったら必ず護世四王のため寺塔を建てましょう』といわれた」とある。「乱が収まって後に、摂津国に四天王寺を造った」とある。蘇我馬子は法興寺を建立した。太子が16歳の時に落成したことになる。
3 私見 
(1)丁未の乱(ていびのらん)について詳しく記す文献は「聖徳太子伝歴」と「日本書記」である。「聖徳太子伝歴」は太子伝説の集大成だとされるが、同時代の歴史が記される「古事記」、「先代旧事本紀」には、「丁未の乱(ていびのらん)」については全く記載されていない。また、丁未の乱(ていびのらん)のあとに蘇我馬子が建てたとされる元興寺(法興寺)の縁起「元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)并流記資財帳(るきしざいちょう)」にも、「大々王の前で、物部・中臣は過去の過ちを反省して神と仏を共に尊ぶことを誓い、諸臣らは和解した」旨が記されているが、「丁未の乱(ていびのらん)」についての記載はない。「聖徳太子伝歴」は百済寺の老僧所伝の古書により編述したとされるが、老僧が誰かわからないし古書も残っていない。
(2)丁未の乱(ていびのらん)の少し前に日羅は蘇我馬子に進言している(583年)。日本書紀・敏達天皇において、日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百隻の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。百済がそこで国を造ろうと思うのなら、きっとまず女・子供を船にのせてくるでしょう。これに対して、壱岐・対馬に多くの伏兵をおき、やってくるのを待って殺すべきです」という、とある。
 蘇我馬子は「百済は倭国を侵略しようとしている」という日羅の進言(583年)に基づいて百済を警戒していた。百済に不穏な動きがあったので兵を出して百済を平定した(587年)。そして百済兵273人を捕らえて奴婢(生口)にした。
穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人も朝鮮半島の百済で蘇我馬子に殺された。藤原氏(百済人)は名前も穴穂部皇子(あなほべのみこ)に変えて舞台を列島(大阪府八尾市)に持ってきた。藤原氏(藤原兼輔など)は倭国を乗っ取ってから百済であった争いを丁未の乱(ていびのらん)として大阪府八尾市を舞台にして「日本(百済)書紀」や「聖徳太子伝歴」に記載し首長の物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)(百済人)は殺されたとした。日本(百済)は倭国を乗っ取ってから、この事件を蘇我馬子と物部の宗教戦争に置き換えた。
 蘇我馬子と物部氏との宗教戦争(丁未の乱(ていびのらん))は作り話である。蘇我馬子は倭国大王だから乱ではなく平定である。蘇我馬子は朝鮮半島の百済(日本)を平定した。その孫の蘇我果安(そがのはたやす)(天武天皇)も亡命百済王朝(日本)を平定した。亡命百済王朝(日本)はこれを壬申(じんしん)の乱(らん)とした。丁未の乱(ていびのらん)の舞台は百済であった。「聖徳太子伝歴」と「日本書記」を改ざん創作したのは平安時代と思われる。蘇我馬子の軍勢は朝鮮半島に進軍した。敵は百済の軍勢であり物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)の軍勢ではなかった。
(3)法興寺の落成は596年(日本書紀・元興寺縁起による)である。これより早いとする説はない。596年落成の法興寺に16歳の聖徳太子像があるので聖徳太子は580年生まれであった。蘇我入鹿(聖徳太子)は65歳(645年)で殺された。別稿「『聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿』説について」を参照されたし。


「聖徳太子伝歴」は丁未の乱(ていびのらん)の時(587年)聖徳太子は16歳であったとする。飛鳥寺にある「16歳の太子像」は丁未の乱(ていびのらん)のとき(587年)の年齢ではなく落成の時(寺司になった時・596年)の年齢である。聖徳太子(蘇我善徳)は丁未の乱(ていびのらん)のときはまだ7歳であった。戦いに参加できるような年齢ではない。
(4)聖徳太子は蘇我善徳であり蘇我入鹿であるのは間違いないので、乙巳の変(いっしのへん)のときは65歳であった。もし570年生まれなら75歳であったことになり、蘇我果安(そがのはたやす)(天武天皇649年即位)はすでに大王になる年齢に達しているため、権力者はすでに蘇我果安(そがのはたやす)(天武天皇)に移っていて権力者でなくなった蘇我入鹿(善徳)をテロの標的にしない。別稿「『山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)』説について」を参照されたし。
 「聖徳太子伝歴」は伊勢神宮の「神道五部書」と同じく四天王寺の来歴を正当化するための後の藤原氏による創作である。後半部分は信憑性をもたすため原書に基づいて書かれているが、前半部分は創作である。
(5)四天王寺は伊勢神宮と同じく藤原氏によって創建された。聖徳太子を主題にした仏教におけるテーマパークである。
 聖武天皇の時代に地震が多かったが、藤原氏はこれを蘇我入鹿の祟りと思っていた。「聖徳太子伝歴」にも家が倒壊する地震について書かれている。四天王寺は蘇我入鹿(聖徳太子)の祟りを封じるためと、日本海側に四王寺(新羅の海賊に備えて建立された)を建てたように新羅の刺客から守るために聖武天皇(百済王)の時代に建立された。5の参考「四王寺・四天王信仰について」を参照されたし。
「四天王寺は元は丁未の乱(ていびのらん)を経て、玉造の岸の上(ほとり)に建っていた」とある。新しいといわれるのをかわすためである。伊勢神宮や奈良の長谷寺と同じである。史実より古く見せる仏教版である。
(6)丁未の乱(ていびのらん)は作り話であった。モデルになった事件は百済国が舞台であった。592年には百済王の崇峻も朝鮮半島で殺されている。 
4 参考「元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)并流記資財帳(るきしざいちょう)」
亡命百済王朝は倭国を乗っ取ってから新羅と百済を入れ替えているので元に戻して記載しています。別稿「倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった」と「飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルにして建立された」を参照されたし。
(1)丁未(ていび)の年(587年)に新羅国から客が訪れた。官が聞くには、「この三人の尼等は新羅国に渡って戒を受けたいと思っております。どうしたら実現できるでしょうか」と。そのとき、新羅の使者が言うには、「尼等が戒を受けるには、まず、尼寺のなかから十人の尼師に頼んで本戒を受けます。その後、法師寺に赴いて、十法師にお願いします。先の尼師十人と合わせて二十人の師から本戒を受けます。しかし、この国には尼寺しかなくて、法師寺も僧もおりません。尼等がもし法に則るとするならば、法師寺を設け、新羅国の僧や尼等に来て貰い、戒を受けるがよいでしょう」と言う。そのとき、池辺天皇は、命をもって、大々王と馬屋門皇子の二柱に仰るには、「法師寺を建てるべき場所を見定めなさい」と。そのとき、新羅の客が言うには、「我国では、法師寺と尼寺の間で鐘の音が交互に聞こえ、絶えることがありません。半月ごとに午前のうちに行き来出来るところに建てております」と。ときに、聡耳皇子と馬古大臣がともに寺を建てる場所を見定めた。丁未(ていび)の年(587年)に、新羅の客が本国に帰った。
(2)中臣連と物部連等をはじめとする、諸々の臣等は、心を同じにして、申し上げた。「いまから後は、三宝の法を、二度と破ったり、焼き流したり、凌げ軽ろしめたり、三宝の物を摂ったり、犯したりしません。いまから後は、左の肩に三宝が坐し、右の肩に我々が神坐して、並んで礼拝して尊重供養いたします。もしこの願がみだりに破られれば、まさに天皇の所願のように、種々の大きな災いを被ることになりましょう。仰ぎ願わくは、この善願の功徳によって、皇帝陛下が日月とともにあり、天下が安らかになり、後嗣が頼を蒙ふり、世時が異なっても得益が異なることのないように」と。
※私見
(1)丁未(ていび)の年(587年)に新羅国から客が訪れた。・・・丁未(ていび)の年(587年)に、新羅の客が本国に帰った。同じ丁未(ていび)の年(587年)に蘇我馬子は新羅を守るため百済に出兵している。この文章より、「大々王と馬屋門皇子」と「聡耳皇子と馬古大臣」の二人は同じはずだから大々王=馬古大臣となることがわかる。
池(金繰溜池(かなぐりためいけ))辺天皇も蘇我馬子である。一人で何役もさせられて蘇我馬子も忙しいことである。
(2)「中臣連と物部連等をはじめとする、諸々の臣等」とあるので物部一族は滅んでいない。
物部氏は647年まで中大兄皇子(豊璋)の策略で武器を奈良に移すまで、倉吉市大原の石上神宮で多くの武器を管理していた。587年に河内に別荘があるわけがない。
物部の子孫は滅ぼされておらず今でも倉吉市大原(始祖からの物部の本拠地)に連綿として生きている。倉吉市大原の倉〇氏(物部だから倉が付く)は倉吉市弓削に親戚があり法事に行かれた。物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)である。これは比定地が正しいからである。
奴婢(生口)にされたのは百済兵たちであり、それを物部一族に書き換えた。
 元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)はかなり改ざんされているが、それでも丁未の乱(ていびのらん)だけは挿入していない。丁未(ていび)の年(587年)に新羅から客が来た。蘇我馬子大々王は三人の尼を新羅に連れて行ってくれるよう頼んでいる。大々王は蘇我馬子であった。
 日本書紀・敏達天皇において「物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)は寺に赴き仏像と仏殿を焼いた。焼け残った仏像を集めて難波の堀江に捨てさせた」とある。このあと「中臣連と物部連等をはじめとする、諸々の臣等」は蘇我馬子大王に謝っている。史実はここまでであった。蘇我氏と物部氏の宗教戦争などという大げさなものはなかった。
5 参考 「四王寺・四天王信仰について」
出典文献:「むくげ通信」273 むくげの会 2015.11「『山陰道の古代寺院シリーズ 2』寺 岡 洋」を引用
 奈良時代後半、新羅との外交関係が悪化する中、新羅と向かい合う太宰府、山陰・北陸諸国で四天王に対する新たな祭祀が執り行われるようになる。
 宝亀五年(774)太宰府の裏山、大野城内に四王寺(院)が建立される。「近年新羅がしきりに呪詛を行うので、これに対抗するために四天王像を造り、高地でかつ浄地を選んで安置せよ」というもの(類聚三代格)。
 平安時代になると、貞観九年(867)には、伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の五国に「八幅四天王像」を送り、「四天王に帰依し、災変を消却すべきこと」を命じている。これらの国々の境界は新羅に近いので、「賊境」を望む「高地」に道場を設置せよとの下命である(日本三代実録)。
※私見
 新羅を恐れるのは百済である。亡命百済王朝(日本)は新羅の刺客から守るため四王寺・四天王寺を建立した。四天王寺の建立は聖武天皇(在位724年~749年)よりのちである。

 


藤ノ木古墳は鳥取県中部の一族が築造した

2022-02-07 01:04:30 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

藤ノ木古墳は鳥取県中部の一族が築造した

 藤ノ木古墳の4つの特徴
 1横穴式石室の円墳 2石棺が朱塗り 3同棺複数埋葬 4江戸時代まで陵堂があり墓守がいた
1 横穴式石室の円墳
(1) 鳥取県北栄町の瀬戸古墳群2号墳は巨石を5枚使用した横穴式石室の円墳である。6世紀中頃から7世紀初め。

出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書34を引用

(2) 鳥取県北栄町の上種(かみだね)西15号墳は6世紀後半の竪穴系横口式石室の円墳(上種(かみだね)西古墳群発掘調査報告書より)

 「竪穴系横口式石室」は5世紀後葉~6世紀前葉において朝鮮半島の栄山江(よんさんがん)流域に展開している。
 「竪穴系横口式石室」が、鳥取県中部のごく限られた範囲に所在している【上種(かみだね)西15号墳、上種(かみだね)東3号墳(6世紀中葉~6世紀後半)、大法3号墳、三保6号墳(6世紀中葉~後半)】ことから重要な問題提起となっている。

(3)まとめ

 植野浩三氏は「東伯耆が山陰地方の中でも、いち早く畿内型前方後円墳を成立させた地域であり、畿内との結びつきが非常に強かった地域」とし、「当地方にみられる階段状の施設をもつ横穴式石室は、北九州から直接導入されたと考えるよりは、むしろ一段階をおいて、近畿地方より東伯耆にもたらされたと考えるほうが妥当といえる」とされる。

出典文献名:大栄町教育委員会編、大栄町文化財調査報告書, 第13集「上種西古墳群発掘調査報告書」 1984.3を引用

2 石棺が朱塗り。

(1) 鳥取県北栄町の妻波古墳群発掘調査報告書のまとめにおいて「妻波古墳群では、箱式石棺が検出もしくは発見されている古墳では、朱はすべての石棺から認められている。したがって、妻波古墳群の周辺では朱塗りは、一般的な葬法であったと推定してもさしつかえないと思われる」とある。

出典文献名:大栄町教育委員会 1980 『妻波古墳群発掘調査報告』大栄町文化財調査報告書8を引用
(2) 鳥取県北栄町の瀬戸35号墳の石棺も朱塗りされていた。

出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書34を引用

(3) 鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡

 SX46・人骨は出土しなかったが棺内は赤色顔料が全体に塗られていた。赤色顔料は遣存状態が良く、塗る時に用いられていたハケの跡も明瞭に見ることができた。SX52・東西の両小口、北壁、南壁(東部のもの)の内面には赤色顔料ベンガラが塗彩されていた。SX79・石棺内に用いられている赤色顔料はベンガラであった。

出典文献名:鳥取県教育文化財団 1983 『長瀬高浜遺跡発掘調査報告書(本文編)5』鳥取県教育文化財団調査報告書12を引用

3 同棺複数埋葬

藤ノ木古墳について
※ 通説

 副葬品が金銅製の馬具や装身具類、刀剣類などであるからこの当時の支配階級の一人であったと考えられているが、円墳であることから大王クラスではないが、貴金属を用いたきらびやかな副葬品が多いことから強大な権力を持った人物であったと推測されている。

 6世紀第4四半期の円墳であると推定されているので「日本書紀」が記す587年6月の暗殺時期と一致する聖徳太子の叔父で蘇我馬子(そがのうまこ)に暗殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ)と、宣化(せんか)天皇(てんのう)の皇子ともされる宅部皇子(やかべのみこ)とする説が有力である。

※ 私見

(1) 天皇(てんのう)の古墳は円墳ではないとする今の考古学界は国民に嘘を教えている。時代については、聖徳太子が生前に自分のお墓をつくったという記録が残っている。596年法興寺完成。16歳の蘇我善徳(そがのぜんとく)が寺司になる。このころ、蘇我馬子(そがのうまこ)大王と蘇我善徳(そがのぜんとく)大王は生前墓として藤ノ木古墳を造っていた。

(2)被葬者について「日本書紀」が記す587年6月の暗殺があったかどうかも疑問である。そもそも、蘇我馬子(そがのうまこ)と物部氏との宗教戦争(丁未(ていび)の乱(らん))は作り話だからである。蘇我馬子(そがのうまこ)は倭国大王だから乱ではなく平定である。丁未(ていび)の乱(らん)の舞台は百済であった。蘇我馬子(そがのうまこ)は「百済は倭国を侵略しようとしている」という日羅の進言(583年)に基づいて百済を警戒していた。百済に不穏な動きがあったので兵を出して百済を平定した(587年)。そして百済兵273人を捕らえて奴婢(生口)にした。藤原氏(藤原兼輔(かねすけ)など)は倭国を乗っ取ってから百済であった争いを丁未(ていび)の乱(らん)として大阪府八尾市を舞台にして日本(百済)書紀に記載し首長の穴穂部皇子(あなほべのみこ)(百済人)は殺されたとした。物部氏は647年まで中大兄皇子(豊璋)の策略で武器を奈良に移すまで、倉吉市大原の石上神宮で多くの武器を管理していた。587年に河内に別荘があるわけがない。物部の子孫は滅ぼされておらず今でも倉吉市大原(始祖からの物部の本拠地)に連綿として生きている。蘇我馬子(そがのうまこ)は百済王の崇峻天皇(すしゅんてんのう)を朝鮮半島で殺した(592年)。穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人も朝鮮半島の百済で蘇我馬子(そがのうまこ)に殺された。藤原氏(百済人)は名前も穴穂部皇子(あなほべのみこ)に変えて舞台を列島(大阪府八尾市)に持ってきた。聖徳太子(蘇我善徳(そがのぜんとく))はこの時はまだ7歳であった。戦に参加できるような年齢ではない。四天王寺は聖徳太子(蘇我入鹿(そがのいるか))の祟(たた)りを鎮めるために聖武天皇(しょうむてんのう)の時代に建立された寺院である。奴婢(生口)にされたのは百済兵たちであり、それを物部一族に書き換えた。穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女も蘇我馬子(そがのうまこ)の妻の物部鎌姫大刀自(もののべかまひめおおとじ)がモデルであり泊瀬部皇子(はせべおうじ)は蘇我馬子(そがのうまこ)自身の名前であった。穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人は百済で殺されており倭国に実在した人物ではない。宣化(せんか)天皇(てんのう)は百済王だから宅部皇子(やかべのみこ)とされる百済人も百済でなくなっている。

(3)女性説について

 樋口隆康京大名誉教授は「馬具の鞍は三組のうち一組の鞍は把手がついていて横乗りの女性用のものだろう」と指摘する。同志社大学の森浩一教授は「南側の人にともなう歩揺付き筒形金銅製品は高句麗の壁画で女人が胸につるしている腰鼓とみる説がつよい」とする。

 出典文献名:アサヒグラフ1989.1「藤ノ木古墳の謎を解く」を引用

 古墳時代の玉類の研究者の玉城一枝は「2体のうち南側の人骨が、両足に濃い青色のガラス玉9個(足玉)と、左手首にガラス製棗玉10個(手玉)をそれぞれ装着した状態で出土しているので、人物埴輪の表現や古事記・日本書紀などの記述から考える限り、手玉や足玉は女性特有の装身具である可能性が高い」との説を発表した。

出典文献名:朝日新聞2009.9.14「男二人でなく男と女?」を引用

(4)『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書 付章 瀬戸35号墳出土人骨』において鳥取大学医学部法医学教室 井上晃孝は「被葬者同志の関係は、1人用の石棺に、あえて成人男女2体が特殊な埋葬形式(頭位を反対にして、下肢骨を交差する)で埋葬されたことは、生前かなり親密な間柄が思量され、 夫婦関係が推察された」とする。

出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書34の44頁を引用

 「島古墳群発掘調査報告書 鳥取県内における同棺複数埋葬について」において岡野雅則は「鳥取県北栄町の島古墳群7号墳では、一つの箱式石棺に二体を埋葬する埋葬形態がみられた。こうした同棺複数埋葬(合葬)は、西日本においては兵庫県以東の瀬戸内海沿岸や山陰東部、北部九州地域に分布することが知られている。
 かつて小林行雄は、横穴式石室と同棺複数埋葬を同系列上にあるものとして理解し、家族墓であるとした。

 箱式石棺でも極めて短期間に合葬されたとみられる例がある。鳥取県北栄町の瀬戸岩子山 35号墳1号埋葬施設、鳥取県北栄町の島7号墳第二埋葬施設、面影山 33号墳第1主体部では、対置の状態で埋葬された2体は、互いに下肢を交差させた状態であった。骨の配列はほぼ原位箇を保持するものとみられることから、同時埋葬かもしくは極めて近い時期の追葬とみられる」とする。

 出典文献名:財団法人鳥取県教育文化財団鳥取県埋蔵文化財センター 2000 『島古墳群 米里三ノ嵜遺跡 北尾釜谷遺跡 (北尾古墳群)』鳥取県教育文化財団調査報告書64の34頁を引用

これら3古墳で出土した2体は3古墳とも男女である。

(5)私見では藤ノ木古墳においても二人のうち一人は女性である。

「なぜ保管人骨をDNA鑑定しないのでしょうか?」と不思議がる人もいる。DNA鑑定しないのは日本書紀の嘘虚構がバレルからである。考古学会も藤原氏の組織だから当然である。

 膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)は聖徳太子と一緒に藤ノ木古墳の一つの石棺に抱き合うようにして葬られている人だと考えられる。この人は聖徳太子が最後に一緒に住んだ年若い愛人で、聖徳太子の死を傷んで後追い自殺したとみられる。被葬者は聖徳太子(首を斬られた蘇我入鹿(そがのいるか))と膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)であった。

4 江戸時代まで陵堂があり墓守がいた
 鳥取県北栄町の茶臼山松樹庵の案内板に「石段上の地蔵は寛政元年(1789年)世出開了行者〇〇信女の墓である」とある。大国主・少彦名・須勢理姫・八上姫のいた伊那佐小浜を守っていた。
5 私 見

以上のように藤ノ木古墳は鳥取県中部の古墳に符合する4つの特徴を備えている。法隆寺は鳥取県中部にいた一族が創建したので、法隆寺に関連付けられる藤ノ木古墳も鳥取県中部にいた一族が造ったと考えるのは当然といえば当然である。


蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった

2021-05-22 12:11:21 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1 磐余の地の旧名は、片居または片立という。神武天皇の時代は海抜4mに海面があったから、北栄町米里集落と島集落の地形は中央に池があり、片側に居るか、片側に立つことになる。だから、片居・片立と言っていた。奈良の磐余邑ではなぜ片居・片立といったのかの説明ができない。また、神倭磐余彦が家来二人に赤土を下ろさせた土下集落も近くにある。

 磐余邑は現在の行政区分とは異なり、米里だけではなく、島も含んでいた。
 
2 奈良の磐余邑の説明文に「履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています」とある。
 本当の磐余池は鳥取県北栄町島集落の金繰溜池であった。
 履中天皇は皇居の北に金操溜池(かなぐりためいけ)を造った。

3 金操溜池(かなぐりためいけ)

 右は島集落。左奥に金操溜池(かなぐりためいけ)がある。

 通りがかりの耕運機を運転していた人に「この堤は古いか新しいか」と聞いたところ、「大昔の堤だ」と答えた。「新しいように見えるが」と聞いたら、「台風で決壊し作り直した。以前はもっと低かった」と答えた。「島集落の所有である。管理は代表を決めて管理している。」「明治、大正の話ではない。大昔だ。」と言っていた。
 底に溜まった泥で年代測定はできるので、大昔が何時ごろかわかる。私は履中天皇の時代、5世紀初頭と推定する。
 池上の陵は島古墳群であった。5世紀・6世紀の古墳である。履中は5世紀の天皇である。一の崎の下を大(王)町という。一の崎にいたのは履中天皇であった。

4 島古墳群発掘調査報告書より

 池(金操溜池)上の丘陵から島古墳群が発掘された。
 7号墳をもとに岡野雅則は「同棺複数埋葬について」という論考を書いている。7号墳は「第一、第二埋葬施設同士の前後関係は不明であるが、本墳は古墳時代前期後葉~中期前葉に築造されたとみて大過なかろう」とある。7号墳は履中天皇の時代、4世紀末~5世紀初めである。
 5号墳は6世紀前葉段階で76cmの鉄刀が発掘された。第26代継体天皇の時代である。
 8号墳(6世紀後半~7世紀初頭)・11号墳(6世紀後半)は、蘇我馬子大王と同時代の古墳である。
 蘇我馬子(在位572年~626年)は長谷部若雀天皇であり鳥取県北栄町島(磐余池辺雙槻宮)に皇居があった。
 島古墳群 米里三ノ嵜遺跡 北尾釜谷遺跡 (北尾古墳群) 発掘調査報告書
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/13574
 島集落からは縄文前期~縄文晩期の遺物も出土している。猿田彦は土地勘のある土着の縄文人に比定したが猿田彦一族はこのあたりに住んでいた。
 島遺跡発掘調査報告書第2集
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14048
 ぜひご覧になってください。

5 日本書紀は亡命百済人によって百済王家の歴史を残すために作られた歴史書である。その際、乗っ取った倭王朝の歴史書である原古事記の記述を国史に取り込んだ。
 蘇我馬子大臣(王)は、百済国王の敏達、用明、崇峻、推古4代の間の倭国大王であった。
 用明天皇の皇居は磐余池辺雙槻宮とされる。用明天皇は百済王である。しかし、磐余邑は確かに鳥取県北栄町に存在していた。磐余池辺雙槻宮は用明天皇の皇居ではなく、大臣とされているが実は倭国王の蘇我馬子大王の皇居であった。崇峻の諱は泊瀬部、即位前は泊瀬部皇子と称した。古事記には長谷部若雀天皇とある。朝鮮半島にいた百済王崇峻は同じく朝鮮半島にいた蘇我馬子大王の部下に殺された。亡命百済人は百済王崇峻に倭国王蘇我馬子大王の諱を取り込んだ。用明の皇居と崇峻の諱は蘇我馬子大王の帝紀として原古事記に書いてあった記述を日本書紀に取り込んだものである。
 蘇我馬子大王の妻は物部鎌姫大刀自(実家は倉吉市大原で産屋は倉吉市馬場町)であり、子は蘇我善徳(聖徳太子)と蘇我倉麻呂である。
 蘇我馬子大王は鳥取県倉吉市(泊瀬)で生まれ育ったので諱は長谷部(泊瀬部)若雀天皇であり、皇居の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった。
 
 
 

「山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)」説について

2020-12-15 06:23:04 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

1 「古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)」説について

⑴ 「紀」は、古人大兄皇子と大海人皇子の二人だけに共通するキーワードを用いている。「仏道修行」である。「仏道」とは、「仏教と道教(神道)」を組み合わせた語であり、「紀」では二人に対してだけ使われている。 「紀」で仏教だけを指す場合は、「仏法」と書かれている。

⑵ このように、「紀」は天武天皇が古人大兄皇子に近い人物だったと臭わせているので、古人大兄皇子と天武天皇を同一人物とする説がある。「神皇正統記」は「不明な天武天皇の前半生に古人皇子を継ぎ足した」としている。

⑶  私見
 古人大兄皇子は、蘇我入鹿が中大兄と中臣鎌子(藤原鎌足)に暗殺された時、「韓人が鞍作臣を殺した」と言って、中大兄と藤原鎌足が韓国(百済)の人であることを証言した。
 古人大兄皇子は入鹿殺害の現場に立ち会っていた。この古人大兄皇子は誰であろうか。
 古人大兄皇子は蘇我馬子と蘇我善徳が創建した法興寺で頭を丸めて吉野へ逃げた。
 古人大兄皇子については、母親の父が蘇我馬子というだけで法興寺を自分の寺のようにして剃髪するだろうか。母方の祖父の家に行くのは大人になればなるほど抵抗がある。ここは父方の祖父が法興寺を創建した蘇我馬子と考えるべきである。
 古人大兄皇子のとった行動は、大海人皇子(天武天皇)が中大兄の策略を見抜いて吉野へ逃亡したのと瓜二つである。中大兄から逃れた大海人皇子(天武天皇)が吉野へ入る前に落ち着いたのが、蘇我馬子の邸宅「嶋庄の宮」であった。大海人皇子(天武天皇)についても、吉野に行く前に蘇我馬子の邸宅に泊まっているので、蘇我馬子の直系と考えるべきである。
 古人大兄皇子も大海人皇子(天武天皇)も、帝位(皇位)につくよう勧められたがそれを辞退して舎人に刀を解かせて仏道を修行するため僧侶になり、吉野に行っているので同一人物とみるべきである。古人大兄皇子は大海人皇子(天武天皇)と同一人物であった。

※ 参考
古人大兄皇子
 蘇我臣入鹿は独断で上宮(聖徳太子)の王たち(山背大兄王)を廃して、古人大兄(舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の娘)を天皇にしようと企てた。
 天皇は大極殿にお出ましになった。古人大兄がそばに侍した。・・・中大兄は平伏して奏上し「鞍作(入鹿)は皇子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか」といった。
 佐伯連子と稚犬養は入鹿臣を斬った。古人大兄は私宅に走り入って人々に、「韓人が鞍作臣を殺した。我も心痛む」といい寝所に入ってとざして出ようとしなかった。
 軽皇子は古人大兄に譲って「大兄命は舒明天皇の御子です。また年長です。この二つの理由で天位におつきになるべきです」といわれた。すると古人大兄は座を去り、退いて手を胸の前で重ねて「私は出家して吉野に入ります。仏道の修行(仏道修行)につとめ、天皇の幸せをお祈りします。」と言われお断りになった。言い終わって腰の太刀を解いて地に投げ出された。また舎人らに命じて、みな太刀をぬがされた。そして、法興寺の仏殿と塔との間においでになり、みずからひげや髪を剃って袈裟を召された。 
大海人皇子(天武天皇)
 天智天皇は東宮に皇位を譲りたいといわれた。そこで辞退して、「私は不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。願わくば陛下は、皇后に天下を託して下さい。そして大友皇子を立てて、皇太子としてください。私は今日にも出家して、陛下のため仏道を修行(仏道修行)することを望みます」と言われた。即日出家して法服に替えられた。それで自家の武器をことごとく公に納められた。
 吉野宮に入られることになった。左大臣・右大臣および大納言らがお見送りした。この夕方、嶋宮(明日香村島の庄の離宮)へお着きになった。翌日吉野へお着きになった。このとき多くの舎人を集めて、「自分はこれから仏道に入り修行(仏道修行)をする。自分と一緒に修道しようと思う者は留まるがよい。朝廷に仕えて名を成そうと思う者は、引き返して役所に戻るように」と言われた。しかし、帰るものはいなかった。

2 「山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)」説について
 私は、聖徳太子=蘇我入鹿=蘇我善徳とする(「聖徳太子=蘇我入鹿=蘇我善徳説について」を参照されたし)ので下記のような図となる。

 聖徳太子は山背大兄皇子を次期天皇に推していた。蘇我入鹿は古人大兄皇子を次期天皇に推していた。
 一人の人物が次期天皇候補に推す人数は普通一人である。聖徳太子と蘇我入鹿は同一人物だから次期天皇に推薦する人物も同一人物となり、山背大兄皇子=古人大兄皇子となる。山背大兄皇子は聖徳太子の子なので、古人大兄皇子は蘇我入鹿の子となる。古人大兄皇子は蘇我入鹿と一緒に殺害の現場に来ていた蘇我入鹿の子供であった。
 また、前述の結論より、山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)となる。聖徳太子=蘇我善徳だから大海人皇子(天武天皇)は蘇我善徳の子となる。
 蘇我果安は蘇我倉麻呂の子で、「紀」は吉野に行くのを見送ったとし近江朝廷側の一人とする説が有力だが、蘇我果安を蘇我善徳の子とする文献(中田憲信「皇胤志」・鈴木真年「史略名称訓義」では蘇我善徳の子とする)もある。ストレートに書くと今まで蘇我善徳を隠してきたことが無駄になるので、「紀」はここでも大海人皇子(天武天皇)に近い人物として一人二役をさせていた。蘇我善徳の子に大海人皇子(天武天皇)にふさわしい人物はいない、として調査をあきらめさせる効果を狙っている。
 山背大兄皇子も古人大兄皇子も蘇我果安も死に方が「自害」で同じである。藤原氏はよほど、天武天皇に死んでほしかったと見える。
 結論
(父)聖徳太子=蘇我入鹿(蝦夷)=蘇我善徳
(子)山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(蘇我果安=天武天皇)
  山背大兄皇子殺害事件は乙巳の変というテロ行為を正当化するために創作された一人三役の創作物語であった。


穂積大王の次の大王(在位715年~734年)は鳥取県中部(倭国)にいた

2019-11-14 06:14:35 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

 穂積大王の次の大王(在位715年~734年)は鳥取県中部(倭国)にいた


1 元明天皇と元正天皇と山上憶良と聖武天皇について
※ 元明天皇(女帝・中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は707年~715年である。
※ 元正天皇(女帝・中継ぎの中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は715年~724年である。
※ 山上憶良は伯耆守に任ぜられ(716年~721年)第34代倭国大王(在位715年~734年)に仕えていた。721年に奈良に帰り東宮・首皇子(聖武天皇)の侍講(家庭教師)となり倭国王家の王道を聖武天皇に教えた。しかし、長屋王暗殺計画の妨げになるため、筑前国に下向させられた(726年~732年)。大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。

※ 聖武天皇の在位は724年~749年である。火葬ではないから実在していた。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、たびたび遷都を行った。

(私見)
 元明天皇と元正天皇は「中継ぎ天皇」と軽んぜられ、実在したかどうか判らないようにするために火葬にした。元明天皇と元正天皇は倭国に実在した天皇ではない。


2 筑紫歌壇での大伴旅人の歌
 やすみししわご大君の食国は倭も此処も同じとぞ思ふ
(私見)
 大伴旅人は倭国大乱(146年~189年)のときに倭建命や倭姫命(卑弥呼)の全国巡行に随伴していた安倍、大伴、物部、中臣、和珥氏など五人の有力将軍のうちの一人である大伴氏の子孫である。大伴氏は倭建命や倭姫命(卑弥呼)の征西(九州)にも随伴して九州を平定している。大伴旅人は古来より倭国王家の腹心の部下である。
 旅人のいう「倭」とは鳥取県中部のことであり、此処とは倭奴国(北九州)のことである。北九州は倭奴国と呼ばれ倭国の防衛を担っていた。また倭国(鳥取県中部)から来た天孫族が半島に行くために一時留まるところでもあった。
 大伴旅人と山上憶良は長屋王の変を遂行するのに邪魔になるので九州に行かされた。


3 筑紫歌壇での山上憶良の歌
 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より 成りてし人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み 蟾蜍の さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 
(訳)
 父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、モチにかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。


4(私見)
 朝鮮半島から亡命してきた百済人たちは倭国の下僕として仕事をもらい、飛鳥や奈良で働いていた。しかし、百済人の鎌足や天智は蘇我入鹿大王を殺した。鎌足の子の藤原不比等も天武天皇、高市大王、忍壁大王、穂積大王を暗殺した。不比等の暗殺を倭国が気付かないわけがない。もともと倭国の大王家は長寿の家系だから、四人の大王の早い死は不思議に思っていた。奈良の危険性に気づき長屋親王だけを奈良に行かせ穂積大王の次の大王は鳥取県中部(倭国)に留まらせた。
 山上憶良のいう「大君」とは鳥取県中部(倭国)にいた倭国大王のことであり、元正や聖武のことではない。山上憶良は716年から5年間鳥取県中部(倭国)にいたからこの「大君」のことは知っていた。鳥取県中部(倭国)から奈良(倭国が造った京)に帰って、東宮・首皇子(聖武天皇)の侍講となり倭国王家の王道を聖武天皇に教えた。教え子の聖武が即位(724年)したことも知っている。「大君」とは元正や(新羅の疫病(?)から逃げ回っていた)聖武とは別人であり、鳥取県中部(倭国)にいた倭国大王のことである。
 倭国は倭国大乱(146年~189年)のときに、倭姫命(卑弥呼)や倭建命を擁する倭の王軍によって、東は岩手県から西は長崎県さらには半島まで統一していた。2世紀後半から8世紀前半まで500年以上列島はヤマト王権によって支配統一されていた。山上憶良は亡命百済人2世だが、鳥取県中部(倭国)に5年いたので親倭派になっていた。百済(日本)王として即位した聖武天皇の侍講もしていたが、親倭派であったために北九州に左遷された。
 この歌は誰に対して怒りをぶつけているのか解からなかったが、藤原氏によるクーデター計画(長屋王の変)のあることを知って詠んだ歌である。


5 鳥取県倉吉市の北野神社は山上憶良が仕えた第34代倭国大王(在位715年~734年)の宮であった。
(1)小鴨道祖神遺跡より

 「電波塔あたりでも飛鳥・奈良時代の住居跡が見つかっているので、小鴨道祖神遺跡まで遺跡は連続していたはずである」と現地説明者は言っていた。「硯転用土器も見つかっているので、国庁の役人が住んでいたのではないか」と言っていた。
(2)私見
 この遺跡の中央に北野神社がある。周辺の形状からしてただの神社ではなく大王の宮と思われる。蘇我入鹿大王の宮は由良にあり古墳時代中期から奈良時代にかけての遺跡であった。蘇我入鹿大王の子の天武天皇の皇居は倉吉市の賀茂神社であった。北野神社周辺の遺跡は飛鳥・奈良時代であり、天武天皇より新しく菅原道真より古い。在位715年~734年の第34代倭国大王の宮と思われる。
(3)余談
 菅原道真の生まれたところは諸説あり本当のところは定かではない。「菅原は蘇我原」と解することができるので菅原氏は鳥取県中部に居た蘇我氏の子孫と思われる。また母の伴氏は鳥取県に居た大伴家持の子孫である。菅原道真が倉吉市北野出身としてもおかしくない。ただし、北野神社は周辺の形状からして大王の宮と思われる。
 古くから、生田で八幡神社を祀っており、明治期になると饒速日のいた哮峰に八幡神社を遷して八幡町まで造っているので生田に住んでいたのは富海(鳥見邑)で長髄彦に率いられていた出雲族ではないかと思われる。

 


野口王墓古墳は八角墳であり、天武天皇の陵墓ではない。キトラ古墳の被葬者は高市大王であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である

2019-08-16 06:21:51 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

 野口王墓古墳は八角墳であり、天武天皇の陵墓ではない。キトラ古墳の被葬者は高市大王であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である。

1 野口王墓古墳は天武天皇の陵墓ではない。天武天皇は倭国王であり、倭国王の陵墓は円墳か前方後円墳である。

 

 御廟野古墳は八角墳であり、百済王の古墳である。天智は百済王であり、御廟野古墳は天智(豊璋)の古墳である。

 天武天皇の父は蘇我善徳大王であり、その陵墓は藤ノ木古墳であり、円墳である。天武天皇の子の高市大王のキトラ古墳も円墳である。また、天武天皇の子の忍壁大王の高松塚古墳も円墳である。天武天皇は倭国大王であり、その陵墓は円墳である。野口王墓古墳は八角墳であり、倭国王の天武天皇の陵墓ではない。


2  キトラ古墳の被葬者は高市大王である。
 現在は工事中である。
 キトラ古墳は平成28年度に開園予定である。

3  高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である。

 高市大王の次は忍壁大王であった。
 
4  私見
(1) 忍壁大王の皇居は鳥取県中部にあり、青谷で女子群像の描かれた木板が出土したが、何もおかしくはない。当時、都であった鳥取県中部に属していた鳥取県青谷町から高松塚古墳の彩色壁画によく似た女子群像の板絵が見つかっても不思議ではない。

 青谷横木遺跡で墨で描いた女子群像の板絵が出土したことについて、百橋教授は「中国大陸や朝鮮半島の墓葬文化が日本では都の奈良以外にも波及していた可能性を示す史料」とし、他地方でも次々見つかるであろうとするが、都は鳥取県中部であったから青谷で見つかるのは当然としても、他地方で見つかることはない。
(2) 大伴家持の奈良(?)の都大路を思って詠んだ歌「春の日に はれる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ」などで、都に通ずる道路には柳の街路樹があることが明らかとされていたが、鳥取県の青谷横木遺跡で柳の街路樹跡が全国で初めて見つかった。
 その解説として「平城京の朱雀大路(?)には柳の並木が植えられていた。地方(?)の街道にも街路樹が植えられていたことを裏付ける」とする。


 大伴家持は父旅人から都(16歳=734年まで鳥取県中部が都)のことを聞いて育っていたし、越中国に赴任する746年(28歳)までに鳥取県中部にも来ていた(難波高津宮=湯梨浜町松崎神社にも来ていた)ので、大伴家持の歌う「都」とは鳥取県中部のことであった。
 平城京の朱雀大路で柳の街路樹跡が見つかることはない。
(3) 倭国が指名した天武天皇の次は高市大王であり、次は忍壁大王であった。兄弟承継は過去にもあったことでありおかしくはない。「孝元・開化・崇神」、「仁徳・応神」、「履中・反正・允恭」、「安康・雄略」は兄弟承継であった。彩色古墳は現在のところ2つしか見つかっていないが、被葬者が大王にふさわしいすばらしいものである。高市王子も忍壁王子も大「臣」になったとされているが、それは亡命百済人の藤原氏が倭国の大王を下僕として描くための改ざんであり、高市王子も忍壁王子も大「王」であった。
 持統や文武の古墳を高市大王(696年没)や忍壁大王(705年没)の古墳よりもりっぱなものを造ることが難しいため、火葬にしたことにした。盗掘して壊そうとしたのは藤原氏である。キトラ古墳の獣頭12神図は統一新羅(668年~)に似たものがある。どの学者も日本書紀に騙されているのでこのことを指摘しない。
 キトラ古墳を描いたのは倭国(鳥取県中部)に来ていた統一新羅の職人である。倉吉市大原を流れる川を志(新)羅谷川といい、倉吉市駄経寺町にあった天武天皇の造った大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)(663年~)は新羅様式であった。倭国(鳥取県中部)に統一新羅の職人が来ていたのであり、統一新羅の職人は奈良でキトラ古墳の彩色を手掛けた。同じく高松塚古墳(705年の数年後)も高句麗の職人ではなく、倭国(鳥取県中部)から派遣された統一新羅(668年~)の職人によって描かれた。


 
 

初代神武天皇から第30代天武天皇までの皇居のうち29天皇の皇居は鳥取県中部にあった。実在しない天皇は除外しています

2018-08-04 10:36:54 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1 初代神武天皇から第30代天武天皇までの天皇の皇居(実在しない天皇は除外しています)

 初代神武天皇 畝火之白檮原宮 鳥取県倉吉市大宮。   第二代綏靖天皇 葛城高岡宮 鳥取県北栄町曲岡神社。   第三代安寧天皇 片塩浮穴宮 鳥取県湯梨浜町橋津観音堂。   第四代懿徳天皇 軽之境岡宮 鳥取県倉吉市小田。   第五代孝昭天皇 葛城掖上宮 鳥取県倉吉市穴沢灘手神社。   第六代孝安天皇 葛城室之秋津島宮 鳥取県北栄町大島。   第七代孝霊天皇 黒田廬戸宮 鳥取県湯梨浜町宮内倭文神社。   第八代孝元天皇 軽之堺原宮 鳥取県倉吉市小田。   第九代開化天皇(倭健命) 鳥取県北栄町瀬戸観音寺。   第十代崇神天皇 師木の水垣宮 鳥取県湯梨浜町長和田。   第十一代垂仁天皇 師木玉垣宮 鳥取県湯梨浜町川上。   第十二代景行天皇 奈良県纒向日代宮。   第十三代武内宿禰大王 鳥取県北栄町原元野神社。   第十四代仁徳天皇 難波高津宮 鳥取県湯梨浜町松崎神社。   第十五代応神天皇 軽島之明宮 鳥取県倉吉市穴窪。 難波大隅宮 鳥取県湯梨浜町小鹿谷。   第十六代履中天皇 磐余稚桜宮 鳥取県北栄町米里。   第十七代反正天皇 丹比柴籬宮。   第十八代允恭天皇 鳥取県倉吉市下古川。   第十九代安康天皇 石上穴穂宮 鳥取県倉吉市大原。    第二十代雄略天皇 泊瀬朝倉宮 鳥取県倉吉市打吹山長谷寺。   第二十一代清寧天皇 磐余甕栗宮 鳥取県北栄町米里。   第二十二代仁賢天皇 石上広高宮 鳥取県倉吉市大原。   第二十三代武烈天皇 泊瀬列城宮 鳥取県倉吉市打吹山。   第二十四代継体天皇 磐余玉穂宮 鳥取県北栄町米里。   第二十五代安閑天皇 勾金橋宮 鳥取県三朝町大瀬大宮神社。   第二十六代蘇我稲目大王 師木島大宮 鳥取県湯梨浜町龍島 泊瀬柴籬宮 鳥取県倉吉市打吹山大江神社。   第二十七代蘇我馬子大王 磐余池辺双槻宮 鳥取県北栄町島   第二十八代蘇我入鹿大王 等由良宮 鳥取県北栄町由良。   第二十九代蘇我倉山田石川麻呂大王 難波長柄豊碕 鳥取県湯梨浜町長江。    第三十代天武天皇 賀茂皇大神宮 鳥取県倉吉市葵町賀茂神社。   第三十四代 北野神社 鳥取県倉吉市北野神社

2  鳥取県中部に特定できなかった天皇
 第十二代景行天皇 奈良県纒向日代宮

3  私見
(1) 初代から第三十代までの大王(第十二代は除く)は、鳥取県中部に皇居があった。
 なぜこう言えるかというと、倭王朝の一族は一旦ここは良い地だと決めて都と決めれば、よほどのことがない限り、皇居のある都を変えない一族だからである。新羅も同じ一族の稲飯命が建国したのであるが、その都慶州は千年の都と言われた。同じように、瓊々杵命が「いと良き地なり」と言い、神武天皇が「狭い国だが良い国をえた」と言って初代天皇として即位し、倭健命が「ヤマトは 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる ヤマトし 美し」と歌を詠んでから、倭国の外を活動本拠地にしても、皇居は倭国(鳥取県中部)においていた。たとえ出張先が吉備であっても皇居は倭国(鳥取県中部)においていた。
(2) 宋書倭国伝には倭王武(雄略天皇)の父(済)と兄(興)は戦死したように書いている。
 第十二代景行天皇は卑弥呼(倭姫)が亡くなった後、都を志摩国から奈良の纒向に遷した。
 第十七代反正天皇 丹比柴籬宮。
 本当の河内国(戦前までの日下村と西郷村)にあった丹比柴籬宮は、候補地が12ヶ所あり、特定が困難である。
(3) 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。原文には「國之墺區」とある。これは厳密には「国の奥深く安住に適した地」と解釈するそうである。私見では歴代29人の天皇の皇居の中で一番山奥に位置する。第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の周辺に皇居を造ったが、神武天皇は倉吉市大宮に宮殿を造営した。

 

 

 


藤原四兄弟は新羅から来た疫病で亡くなった(737年)のではなく、新羅から来た刺客によって亡くなった

2018-08-04 10:23:52 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

1  藤原四兄弟と舎人・新田部は奈良にいた長屋親王を死に追いやってから、倭の都(鳥取県中部)にいた穂積天皇の次の天皇(大君)を死に追いやっている(734年)。倭の都(鳥取県中部)と新羅とは、火火出見(山幸彦)が辰韓に行き(紀元前130年頃)、神武天皇が倭の都(鳥取県中部)で即位し(紀元前60年)、兄の稲飯命が新羅国を建国した(紀元前57年)頃から800年ほど兄弟国として交流してきた。倭の天皇(大君)が殺されて、新羅が黙っているわけがない。


2  通説は、藤原四兄弟が亡くなったのは続日本紀から推測して死亡原因は疫病である、とする。737年の疫病について書かれている古文書は続日本紀以外には見つからない。続日本紀は藤原氏が作成した歴史書である。日本書紀と同じように虚偽が多くある。新羅の刺客によって藤原四兄弟が亡くなったとなれば芋づる式に別に倭の天皇がいたことが判って万世一系ではなくなってしまう。新羅の刺客によって藤原四兄弟が亡くなったことは隠さなければならなかった。
 新羅は事の真相を確認するために735年に使者を奈良に派遣した。新羅は、亡命百済朝廷が702年の遣唐使で唐に国号を「日本」に変えたと宣言したことを知っていたので、亡命百済朝廷の反応を見るため、国号を「王城国」に変えたと宣言した。新羅の刺客は同じ年に舎人・新田部を殺害した。737年にも刺客を送って藤原四兄弟を殺害した。亡命百済朝廷は京都に遷都後も新羅の海賊から守るために、日本海側5か所に四王寺を造った(9世紀)。


3  聖武が逃げ回ったのも、疫病からではなく、新羅の刺客からである。時の天皇が疫病のために4回も遷都するなどあるはずはない。倭は全国を統一支配しており、倭の拠点は全国に多くあった。倭の天皇ならば全国の拠点からもたらされる情報に即座に対応しなくてはならないのだから、そうそう遷都はできない。このことからも、聖武は亡命してきた百済王族の王であったことがわかる。百済のように簡単に遷都する。しかし、聖武の在位中に列島の王は1人になったので、天皇をつけてもよいかもしれないが、姓は天(アマ)ではない。阿毎(アマ)の姓を名乗る天皇は、鳥取県中部(倭の都)にいた天皇であり、穂積天皇の次の天皇で途絶えた(734年)。


4  藤原氏は741年ころより、伯耆国に新たに国庁をつくり、法華寺畑の処刑場も造って伯耆国(主に鳥取県中部)の粛清を始めた。
 大友皇子は飛鳥を倭京(日本書記・天武天皇・近江朝廷の対応)と呼んで百済王族の近江朝廷とは区別していた。亡命百済人の藤原氏は奈良で倭に助けてもらった恩を忘れて、奈良を倭京(倭が造った京)と言い、いつまた新羅の標的にされるかも判らないので、84年で奈良を捨てて京都に都した。京都に遷都(794年)してからも藤原道長が「望月の欠けることなし」と言った頃(1018年頃)まで、鳥取県中部(倭の都)の粛清を続けた。京都では新羅の都・慶州に負けじと千年以上我慢して遷都しなかった。その間も中国・朝鮮に怯えていたので、鎖国政策をとり続けた。藤原氏は「鳥取県中部は田舎であり、何もない」と言い、京都人にも言うように仕向けた。今でも京都人は鳥取県中部に来ると「鳥取県中部は田舎であり、何もない」と、他府県から来た者なら言わない言葉を突然、必要以上に言う。


日本書紀・天智・天武・持統について

2018-08-04 06:58:28 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

1  白村江の戦いの仕掛人
 斉明天皇・7年5月・において「智興の供人の足島のために讒言され、使人らは唐の朝廷からお褒めの言葉を受けられなかった。使人らの怒りは上天の神に通じて、足島は雷にうたれて死んだ。時の人は『倭の天の報いは早いことだ』といった」とある。讒言したのは足島ではなく数百年交流が続いてきた鳥取県中部にあった倭朝廷である。「百済の賊が倭国出身の蘇我入鹿天皇と蘇我倉山田石川麻呂天皇をテロで暗殺したので百済を滅ぼして欲しい」と倭国の使いは唐の朝廷に言った。唐は仕方なく新羅と組んで百済を滅ぼした。


2  不比等による暗殺
 天武天皇の壬申の乱から10年の間に20人の天武天皇の腹心が謎の死を遂げている。首謀者は不比等か持統である。不比等と持統は影で食事に毒薬を混入させた。669年父の鎌足が殺害された時は不比等はまだ11才であった。鎌足の子3人は天武天皇に引き取られた。不比等は権力者を徹底的におだてた。腹心の部下も不比等を信用していた。天武天皇の人気が上がれば上がるほど倭国を乗っ取りたくなった。父親(鎌足)の敷いたレールを歩むことになる。壬申の乱で手柄のあった天武天皇の腹心の部下を次々と暗殺(毒殺)していった。仕上げは天武天皇であった。
 天皇になった天武天皇の皇子も毒殺していった。権力のためには手段を選ばなかった。それが父親の遺志であった。
 天武天皇はどうしたのであろう。頭は良いし、勇気もあるし、人望も厚いし、実行力もあるのだが、人が良すぎて疑うことを知らない。一時全国の獄が空になったくらい恩赦をしている。不比等を疑って殺していたなら、日本の歴史は変わっていた。天武天皇にとってはみんないい人なのである。倭王朝の天皇は概しておおらかである。日本書紀・天武天皇の条は改ざんが少ないと思われる。天武天皇には壬申の乱で痛めつけられていたので、後の藤原氏も天武天皇に敬意を払っていたようである。口伝えに天武天皇の条は改ざんしないでおこうという暗黙の了解があったようである。読んでいて不自然さがない。


3  伊勢神宮について
 天武天皇・即位・2年夏4月14日において「大来皇女を伊勢神宮の斎王にされるために、まず泊瀬の斎宮にお住まわせになった。ここはまず身を潔めて、しだいに神に近づくためのところである」とあり、天武天皇・即位・3年冬10月9日において「大来皇女は泊瀬の斎宮から、伊勢神宮に移られた」とある。
 泊瀬の斎宮とは倉吉市駄経寺町にあった大御堂廃寺のことである。伊勢神宮と書いてあるが、三重県まで行ったのであろうか。この時は三重県に伊勢神宮はなかった。三重県ではなく、近くに伊勢神宮がありました。鳥取県琴浦町伊勢野にあった生きた天照大御神が降臨した天照皇大神宮である。鳥取県道151号線は泊瀬の斎宮と伊勢神宮を結ぶためにできていた専用道路であったと思えるくらい端と端にある。高姫(下照姫)が通ったのもこの道路である(八橋の地名由来)。
 持統・伊勢行幸・6年3月6日において「天皇は諌めに従われず、ついに伊勢に行幸された。17日、お通りになる神郡(度会・多気の両郡)と伊賀・伊勢・志摩の国造らに冠位を賜わり、当年の調役を免じまた供奉の騎士・諸司の荷丁・行宮造営のための役夫その年の調役を免じ、全国に大赦をされた。」。6年5月13日において「伊勢神宮の神官が天皇に奏上し、伊勢国の今年の調役を免じられましたが、二つの神郡(度会郡・多気郡)から納めるべき赤引糸三十五斤は、来年に減らしたいと思います、といった。」とある。
 持統の伊勢行幸の主目的は、千田寺の前に勅使門(不開門)を造って蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の崇りを封ずることであった。指示したのは不比等である。伊勢・度会の地名は鳥取県琴浦町にあったものを713年以降に付けているから、この部分は後世に書換えている。免じたのは志摩国の調役である。伊勢神宮の神官ではなく、志摩国磯部の伊雑宮の神官である。ここで天照大御神を祀っていた。現在の伊勢神宮のあたりには、瓊瓊杵命の社だけしかなかったそうである。今でも磯部の伊雑宮周辺では持統の人気は悪い。持統は伊射波の登美のいたあたりで見つかった財宝を総て持逃げしたという。そのように、卑弥呼の造った磯部の伊雑宮の栄光を総て伊勢神宮に持逃げしていった。


持統も大田皇女も百済滅亡の年(660年)に人質(采女)として鳥取県倉吉市に来ていた

2018-08-04 06:48:51 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

 
1 統一新羅の時代が終わり、高麗の時代になったので大陸の三国史記も改ざんされた。現三国史記は1145年に原三国史記を藤原氏が改ざんさせたものである。改ざん後原三国史記は焚書にした。
 三国史記では豊璋の父は義慈王とするが、原三国史記では豊璋の父は武王であった。中大兄王子は百済王子の豊璋であり、631年に6歳で人質として鳥取県中部に来ていた。その時の天皇は鳥取県北栄町由良に皇居のあった蘇我入鹿天皇であった。蘇我入鹿天皇はわが子大海人皇子と同じように豊璋を育てた。641年に豊璋の父の百済王武(舒明天皇のモデル)は亡くなった。16歳の豊璋(中大兄王子)は東宮(鳥取県北栄町由良は百済からみれば東の宮である)で誄を読んだ。642年1月、弟王子(?)の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが船で倭国に到着した。この中に豊璋の母親の皇極・斉明(武王の妻の善花公主か沙宅王后)もいたはずである。豊璋は643年に法興寺で開催した蹴鞠の会で翹岐(鎌足)と出会い、奈良に住んだ。蘇我倉山田石川麻呂は小さいころから百済王子の豊璋を知っていたので娘遠智娘を嫁がせた。豊璋は蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘を娶り、大田皇女(644年生まれ?)と持統(645年生まれ)は奈良で生まれた。


2 百済王家の本体は642年の島流し(?)の船の中にいた。百済は660年に滅び残りの百済王族は列島に亡命した。大田皇女と持統を采女(人質)として天武天皇のもとにいかせたのは、どちらがイニシアティブを取ったかわからないが、天智・鎌足は六韜に基づいて行動していたので、天智・鎌足のほうから申し込んだと思われる。大田皇女と持統は倉吉に皇居があった天武天皇のもとに行った。
 大来皇女は大田皇女と天武天皇との間に生まれた。661年に大来皇女が生まれ、662年に草壁皇子が生まれ、663年に大津皇子が生まれた。持統も大田皇女も采女(人質の子)として鳥取県倉吉市に来ていた。666年には天武天皇と大田皇女・持統は奈良の中宮寺にいたが、天武天皇と大田皇女は毒を盛られて岡山県の総社→鳥取県の伯耆町経由で倉吉に帰った。666年4月、総社市の寺で中宮天皇(中宮寺にいた天武天皇)の病気平癒を祈願している。翌667年2月、大田皇女は亡くなった。
 天智は倭国の王子のように葛城(北栄町由良)王子を名乗っているが、百済王子豊璋であった。それまでの百済王義慈王が660年に亡くなったので義慈王の弟の豊璋は鬼室福信に百済王になることを請われて百済に行ったが、百済で王になる気はなく、鬼室福信を殺害して「豊璋」の着ぐるみを大陸に投げ捨て、倭国に帰って倭国王子の中大兄王子になりすました。
 日本書紀の天皇のモデルは百済王が多い。天智天皇も百済王子豊璋であった。天智天皇の父母の舒明・皇極(斉明)も百済王族がモデルである。日本書紀に記されている41人の天皇の中で倭国の天皇がモデルと思われるのは数天皇しかいない。神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇などである。


3 日本書紀・天武天皇の段で泊瀬の斎宮の比定地が解からないのが通説である。この泊瀬の斎宮は倉吉市駄経寺町にあった大御堂廃寺のことである。雄略天皇の皇居は泊瀬の山にあった。それは、打吹山の長谷寺であった。泊瀬(長谷)とは打吹山を含む打吹山周辺のことであり、現在の倉吉市中心市街地である。また、倉吉市賀茂神社(江戸時代までは賀茂皇大神宮と呼んでいた)の由緒に飛鳥時代倉吉市駄経寺にあった神宮寺には僧侶のほか神官もいたことが記載されている。この天武天皇が造った大御堂廃寺が泊瀬の斎宮であり、斎王になるための訓練もしていた。天武天皇の皇居は倉吉市葵町の賀茂皇大神宮(現在は賀茂神社)にあった。
 大来皇女(661-701)は倉吉で生まれ、天武天皇が吉野に行った時も倉吉に残っていた。


4 つぎに問題になるのが額田王と尼子娘とカヂ媛娘である。
 この3人は伯耆国出身であり、持統や大田皇女よりも早く天武天皇に嫁いでいた。十市皇女は653年生まれで高市皇子は654年生まれであることや、磯城皇子や泊瀬部皇女は鳥取県中部(倭国)で生まれた名前であることからである。鎌足と天智の娘が天武天皇のもとに来たのは藤原鎌足の死(669年)と天智の死(671年)後と思われる。父が流罪になった大蕤娘は673年に天武天皇の夫人になった。
 日本書紀には天武天皇の妻の順位として、大蕤娘は7番目、額田王は8番目 、尼子娘は9番目、カヂ媛娘は10番目、とする。これが倭国の原古事記ならば逆転し、尼子娘は1番目、カヂ媛娘は2番目、大蕤娘は3番目、額田王は4番目となる。天智の娘や鎌足の娘は人質の娘(采女)であるから、順位は下であり、倭国の天皇になることはない。天武天皇はよくても倭国が許さない。もし天皇になったとすれば、それは列島に亡命してきた百済王家の天皇としてである。


5 持統の遺骨は天武天皇の陵に納められているという。それは藤原氏の作った日本書紀・続日本紀によるものであり、火葬にしてあれば誰の遺骨か判らないので火葬にした。火葬にすることは本人の遺言ではない。続けて4人もの天皇が火葬を希望したとは考えられない。聖武天皇からはピタリと火葬はなくなっている。持統・文武・元明・元正の4人は隠さなければならないことがあったからである。元正の時もまだ倭国(鳥取県中部)の影響力は奈良まで及んでいた。持統の火葬・夫婦合葬は本人の遺言ではなく藤原氏による作為的なものである。従って、野口王墓古墳(檜隈大内陵)は夫婦合葬墓ではなく、始めから野口王墓古墳(檜隈大内陵)に持統の遺骨はなかった。あったとしても他人のものである。


三徳山と大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)について

2018-08-03 13:59:51 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  鎌倉時代末頃の成立と考えられる『金峯山草創記』には、「役行者の前世の姿である震旦国の好積仙人が、『仏法を開き行う所に落ちよ』と願い、三本の黄色い蓮華を投げたところ、伊予国石辻(石鎚山)、大和国弥勒長(金峯野山)、伯耆国三徳山に落ちたため、この三所は『仏法霊験の勝地』である」とある。

2  源頼朝は三徳山に剣を奉納している。

源頼朝寄付の剣(伯耆国の三徳山の宝物殿にて)

3  「吾妻鏡」によると、文治二年(1185)源義経は兄頼朝の迫害を逃れ、吉野山の吉水院に潜居したとある。吉水神社の社伝によると、「吉水神社は役の行者の休息の庵室として創立された金峯山寺の僧坊(僧房)・吉水院であった」とある。

4. 大御堂廃寺は久米寺といっていた。
 泊瀬は長谷であり、来目は久米である。長谷はハセであり、ハッセではない。古事記の「長谷や久米」の文字は実際に地名や人名として残っているが日本書紀の「泊瀬や来目」の文字は実際の地名や人名としては残っていない。造語である。
 日本書紀の文字は古事記の発音を別の漢字をあてて改ざんした造語である。現実の地名とピッタリあてはまる古事記の文字が稗田阿礼が述べて太安万侶が書き留めた文字である。日本書紀は原古事記を改ざんしたものであり、古事記は原古事記の残欠である。
 大御堂は地名であり大は王であり「王の御堂」とよめる。
 
 久米寺(大御堂廃寺)は新羅系の道場であり、天武天皇や役行者や大来皇女や長屋王はここで格義仏教に混ざった道教の修行をした。

三徳山(鳥取県三朝町)の開祖である役行者は泊瀬の斎宮(鳥取県倉吉市)で仏教・道教を会得した

2018-08-03 13:20:26 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  鳥取県中部(倭国)の三徳山と泊瀬の斎宮
 鴨一族(事代主をリーダーとする百八十神)は国譲り(紀元前160年頃)で磯城(東郷池周辺)に移っていたが神武4兄弟が居なくなって(紀元前70年頃)から、一部は出身地の葛城に帰っていた。役行者は葛城出身の鴨一族という。

2  三徳山(鳥取県三朝町)
 三徳山の投入堂
 三徳山三仏寺本堂
 三仏寺の輪光院
 投入堂にあった蔵王権現像
 三徳山の宝物殿に役行者像があったのだが、日本遺産登録の記念行事があるので、貸出されてなかった。以前、吉野山の金峯山寺に行ったときに写した役行者像で代用します。鬼神を使役するのは道教である。

3  泊瀬の斎宮(鳥取県倉吉市)
 右の打吹山(泊瀬の山)のふもと(賀茂神社)に天武天皇の皇居があった。

 大御堂廃寺は広場になっている。右の建物はパークスクエア。山は打吹山(泊瀬の山)、麓の賀茂神社に天武天皇の皇居があった。

 僧房(修行する者の寄宿舎)が2棟あった。天武天皇・大来皇女・役行者・長屋親王は、一年半この僧房(修行する者の寄宿舎)に寄宿し仏教・道教(格義仏教)の修行をした。南半分は中部総合庁舎側(松ヶ坪遺跡)にあった。

 ここでは、仏教だけでなく、道教も教えていた。道教の混ざった格義仏教である。修験道は仏教と道教が混在したものである。
 

 奈良の寺院などとの関連が指摘され、大御堂廃寺を地方寺院と言うが、こちらが都であった。

鳥取県倉吉市の大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)では仏教だけでなく道教(神道)の修行もしていた

2018-08-03 12:53:24 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

日本書紀・天武天皇即位の段に「2年夏4月14日、大来皇女を伊勢神宮の斎王にされるために、まず泊瀬の斎宮にお住まわせになった。ここはまず身を潔めて、次第に神に近づくためのところである。・・・。3年冬10月9日、大来皇女は泊瀬の斎宮から、伊勢神宮に移られた。」とある。泊瀬の斎宮とはどこのことであろうか。
 泊瀬(長谷)とは雄略天皇の皇居の解明より、鳥取県倉吉市の中心市街地であることが判った。天武天皇の時代に倉吉市に斎王を養成するような施設があったのだろうか。


1  「伯耆民談記」松岡布政より 
 伯耆民談記に「久米郡駄経寺村の大御堂  これも今は堂閣なし。駄経寺村の前なる田の中に小さき董(とう)あり。それ即ち大御堂である。いにしへは大きな伽藍の道場なりと言い伝う。・・・。またこの連りに華表(とりい)縄手という径(みち)あり。駄経寺の埴守である新宮大明神への古道なり。」とある。
  倉吉市駄経寺町より7世紀後半創建の大御堂跡が発掘された。
 倉吉市文化財調査報告書  史跡大御堂廃寺跡発掘調査報告書
http://sitereports.nabunken.go.jp/13635
ぜひご覧ください


2  軒瓦からみた寺院の造営時期(報告書より)
 大御堂廃寺跡からは多種多様の遣物が出土しているが、これらの遣物のうち屋瓦をとおして寺院の造営時期について考えをまとめる。
 A群は軒丸瓦のなかで最も古式の要素をもつ1類である。これら瓦当文様の特徴から7世紀第3四半世紀代に位置付けられるものと判断される。
 B群の軒丸瓦2類から5類は、川原寺式の系統に属する瓦当文様を配するから、7世紀第4四半世紀代に位置付けられる。
 C群の軒丸瓦6類と7類は、外区の密珠文の配置が大官大寺式に共通するが、内区の瓦当文様は本薬師寺式ないし藤原宮式に近い。このような特徴から、7世紀第4四半世紀代、それも後半頃に位置付けることが可能と考えられる。
 (私見) 
 報告者には大御堂廃寺は川原寺や本薬師寺や藤原宮よりも後に出来たという先入観がある。遅くとも壬申の乱までには完成していた。したがって、造営時期は663年から672年であると解する。天武天皇は壬申の乱のときには仏教・道教を会得していたからである。
 藤原宮や平城京の造営計画は、新羅・中国との交流があった倭国(鳥取県中部)が行っていた。蘇我善徳(聖徳太子)は隋国から来た裴世清たちと奈良に出向き、大国維新之化の教えを請うた。729年までは倭国に力があった。


3  奈良との関係
 報告書 仏像
 連立塼仏と同形のものは、奈良県山田寺跡や奈良県朝妻廃寺跡、和歌山県佐野廃寺跡、大御堂廃寺跡近くの大原廃寺跡等で出土し、その他に奈良県橘寺出土と伝えられたものがある。また、塼仏以外にも唐招提寺に所蔵される銅板押出三尊仏像に類例がみられる。
 報告書 銅製品
 銅製匙は正倉院宝物・雁鴨池出土品に類似する円形匙である。
 銅製獣頭は造形意匠の優れたもので類例は知られていない。材料は新羅産である。 


4  鳥取県倉吉市葵町の賀茂神社の由緒(昭和9年鳥取県神社誌)より抜粋 
 「明治までは賀茂皇大神宮と称へ衆庶の尊信特に篤し。当社隆盛の時代には神坂の東方五丁余の地に神宮寺ありて、多数の僧侶神官と共に社務を執行し、四時の祭典殷賑を極めたりし。当時の神宮寺は七堂伽藍の構造なりしと云ふ。現に寺坊の跡より巨大の礎石布目瓦等出づ。その付近に駄経寺、少林寺等の地名あり。何れも神宮寺の末寺のありし所といい伝ふ」とある。
 (私見)
 中国の五胡十六国時代は、儒教、道教、仏教が混ざり合う時代であった。道教を真似る格義仏教が発生した。新羅を通って渡ってきた大御堂廃寺の仏教は道教が濃く混ざった格義仏教であった。
 「神宮寺では多数の僧侶神官と共に社務を執行し」とある。神官とは倭国の崇神天皇(在位188年~220年)と卑弥呼(151年~248年)が開いた道教に基づく神道の神官である。 
 大御堂廃寺(久米寺)は仏教だけではなく道教の修行場でもあった。伯耆民談記には道場なりとある。道場の字義は釈迦が悟りを開いたところであると言われているが、道教を修行したところとも解せる。天武天皇も役行者も大来皇女も長屋親王もここで仏教・道教の修行をした。大来皇女は約1年半、この道場(大御堂廃寺)で仏教・道教の修行をした。その後、大来皇女は泊瀬の斎宮から直線距離で14kmほど離れている琴浦町にあった伊勢神宮に行った。琴浦町にあった伊勢神宮については「伊勢野の天照皇大神宮」をご覧ください。


天武天皇の皇居、倉吉市の賀茂神社に行ってきました

2018-08-03 12:30:16 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1  倉吉市の賀茂神社周辺の神社と遺跡
 第8代孝元天皇は北栄町大島に伊邪那岐命・伊邪那美命を祀って、第9代開化天皇(倭建命)は征西が成功し伊邪那岐命・伊邪那美命に神助を謝した(宮崎神社由緒)のだが、倭国の天皇家は伊邪那岐命・伊邪那美命を祀っていた。

2  倉吉市の賀茂神社
 左に行くと二階建ての立派な社務所がある。神社は石段を上がった高いところにある。

 天武天皇の皇居があったと言われてもおかしくないような広さと威厳がある。

3. 伊邪那岐命が言った「素戔嗚命は海原をおさめよ」(古事記)について
 倉吉の住吉神社の案内板に「往古この一帯が入江であった」とあるので、この一帯が入江となる(海抜20m)海岸線を引いてみました。紀元前200年頃は縄文海退が進み(海抜4m)青いところは原になっていた。しかし、以前は海だったのでこのあたりを「海原」といっていた。大物主がやって来た時は「海」を照らしてきた、と表現し「海原」と区別している。

天武天皇の皇居は鳥取県倉吉市打吹山の賀茂神社にあった

2018-08-03 09:40:38 | 蘇我氏から倭国滅亡まで

 正倉院宝物に似た佐波理匙が出土した大御堂廃寺(7世紀中ごろ)は鳥取県内最古で最大の廃寺跡である。
 大御堂廃寺は賀茂神社の神宮寺であった。賀茂神社には天武天皇の皇居があった。


1  倉吉市文化財調査報告書 第107集 史跡 大御堂廃寺跡発掘調査報告書(抜粋)
 大御堂廃寺跡のことは、18世紀の中頃に著された地誌『伯耆民談記』に記載がみられる。大規模な寺院跡の存在が古くから知られていた。大御堂廃寺跡を白鳳期に造営された寺院とする。そこには大御堂廃寺(久米寺)は道場と書かれ、新宮神社を駄経寺の埴守であると書かれている。
(1)  報告書 瓦
 大御堂廃寺跡から出土した鬼瓦は、鬼面を大きく表し下方に腕と脚を配した鬼面文を飾る特異なもの。特異な鬼面文が、新羅統一時代の鬼瓦の系譜に属するものである
(2)  報告書 匙 斎轟
 大御堂廃寺跡から出土した匙は、鉛同位体比から材料の産地は朝鮮半島の新羅系統と示唆される。正倉院宝物の佐波理匙に寸法・形態とも類似する。
 斎轟12点が出土した。長さは30cm前後である。切り込み、切り欠けのあるものは飛鳥藤原宮出土(7世紀後半)遣物に類似する。
(3)  報告書 塼仏
 連立塼仏と同形のものは、奈良県山田寺跡や奈良県朝妻廃寺跡、和歌山県佐野廃寺跡、大御堂廃寺跡近くの大原廃寺跡等で出土し、その他に奈良県橘寺出土と伝えられたものがある。また、塼仏以外にも唐招提寺に所蔵される銅板押出三尊仏像に類例がみられる。
(4)  報告書 木材の年輪年代測定結果一覧
 溜析横板東2の年代663年  溜析横板東1の年代629年  溜析横板東3の年代626年  溜析横板南2の年代622年  建築部材の年代600年  建築部材の年代434年  曲物14 底板の年代652年  曲物21底板の年代309年
(5)  報告書 まとめ
 この寺域は長方形の区画で、規模は東西の築地塀の心々距離で約135m(450尺)、南北は不明な点もあるが165m以上(200~220mを推定する)である。付属施設としては、僧房西に、溜析(井戸)を確認した。
 E群の軒丸瓦10類は、新羅系軒丸瓦の影響を受けて成立したと考えられる地方独特の瓦当文様を配する。F群の12類も新羅系の要素が認められる。新羅的な要素の瓦当文様が用いられている。大御堂廃寺跡の軒丸瓦の一種と同類のものが、近くの大原廃寺跡や野方廃寺跡にあることが指摘されている。
 塼仏は方形三尊塼仏と六尊連立塼仏がありそれぞれ伯耆国内の斎尾廃寺跡、大原廃寺跡の塼仏の元型となっている可能性がある。
 石仏は非常に珍しく仏教美術の上でも重要である。
 銅製匙は正倉院宝物・雁鴨池出土品に類似する円形匙である。
 銅製獣頭は造形意匠の優れたもので類例は知られていない。
 特殊な遣物として、溜析・木樋・木簡・木製祭祀具・漆器などが加わる。
 これら豊富な遣物から、山陰を代表する本格的寺院であったと推定される。伽藍配置・規模・遣物から、中央と直結した技術援助がうかがわれ、国家仏教政策の拠点的寺院であった可能性が指摘される。


2  賀茂神社(昭和9年鳥取県神社誌より)  
 現在地 鳥取県倉吉市葵町586
 祭神 別雷神
 由緒(抜粋) 維新前までは賀茂皇大神宮と称へ衆庶の尊信特に篤し。当社隆盛の時代には神坂の東方五丁余の地に神宮寺ありて、多数の僧侶神官と共に社務を執行し、四時の祭典殷賑を極めたりし。当時の神宮寺は七堂伽藍の構造なりしと云ふ。現に寺坊の跡より巨大の礎石布目瓦等出づ。その付近に駄經寺、少林寺等の地名あり。何れも神宮寺の末寺のありし所と云伝ふ。


3  私見
 684年制定の「八色の姓」の最高位の「姓」は「真人」であり、天武天皇の和風諡号は「瀛真人」である。「瀛」とは道教における東海(日本海)の三神山の一つ瀛州(蒜山高原)のことであり、「真人」とは瀛州(蒜山高原)にいた伊邪那岐命のことである。道教では神仙(仙人)が住むという海中(海の対岸)の神山の「瀛州(蒜山高原)」の最高の神仙(仙人)を「真人(伊邪那岐命)」という。
 伯耆民談記には、倉吉市駄経寺町にある新宮神社の伊邪那岐命のことを天武天皇の造った「駄経寺(大御堂廃寺)の埴守である新(真)宮大明神」とする。新宮神社の由緒には伊邪那岐命のことを「古来真宮大明神と称せし」とある。真宮大明神とは真人のことである。天武天皇は倉吉市駄経寺町で伊邪那岐命(真人)を祀っていた。
 木材の年輪年代測定結果より一番新しいもので663年(白村江の戦)に伐採されたものであり、伯耆国の上淀廃寺、斉尾廃寺、大原廃寺に先立って、大御堂廃寺は天武天皇が創建したと思われる。大御堂廃寺は泊瀬の斎宮であり琴浦町の伊勢神宮とは直線距離で14kmほどである。伯耆民談記には「道場」とあり仏教と道教(格義仏教に伴う道教)の修行をしていた。天武天皇も大来皇女も役行者も長屋親王もここで仏教と道教(格義仏教に伴う道教)を覚えた。
 賀茂神社の由緒にあるように神坂邑の東方五丁余の地に神宮寺があった。その付近に駄経寺の地名がある。倉吉市駄経寺町に賀茂神社の神宮寺があった。それが大御堂廃寺である。
 倉吉市賀茂神社は江戸時代までは賀茂皇大神宮と言われており、天武天皇の皇居は賀茂神社にあった。泊瀬の山(倉吉市打吹山)に皇居の有った天皇は、雄略天皇、武烈天皇(百済の無道な天皇の事績に改ざんしている)、蘇我稲目天皇である。飛鳥浄御原宮は後の創建である。したがって、天武天皇の出身は倭国(鳥取県中部)であった。天武天皇は初代神武天皇の時から引き続き、新羅と親しく交流していた。
 こう解することで、発掘された銅製獣頭の材料の産地は新羅系統であること、鬼瓦の鬼面文は新羅の系譜であることの謎が解ける。倭国は東郷池を通じて新羅と直接交流をしていた。そのため、歴代天皇は東郷池にも宮をつくっていた。シキの宮という。
 創建553年の新羅慶州の皇龍寺は東西288m、南北284mの広大な境内に、80m近い九層の木塔がそびえ、金堂には丈六(約5m)の三尊像が安置されていたという。
 大御堂廃寺は東西135m、南北220m(推定)の規模の寺域を有していた。倭国と新羅は兄弟国であった。寺院においても新羅のほうが兄であった。