「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

「倭国在、東海中」とは、「倭国は日本海の沿岸にある」ということである

2018-04-20 05:40:58 | 序章
「倭国在、東海中」とは、「倭国は日本海の沿岸にある」ということである

 「義楚六帖」「一切経」「大正新脩大蔵経」「唐大和上東征傳」の中に「倭国在、東海中」とある。この意味するところは何であろうか。
 現代の日本人はこれを読んで、「大陸より東の海に日本列島があるということであたり前のことを言っているだけである」と解するものがほとんどである。

1 「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とある。
  「一切経」の中に、「倭国、発音はウワという。東海の海中にある小さな国である。身体に朱色の丹を塗っている。」との記述がある。
  「大正新脩大蔵経」には倭国は「烏波反郭注山海経云倭国在帯方東大海内以女為俗無針工以丹朱塗身也説文亦東海中国也従人委声」とある。
※ 私見 「義楚六帖」は954年に僧の義楚によって書かれたもので、倭国も日本も同じ国として書かれているが、倭国は日本海沿岸にある小さな国であった(一切経)。徐福一行は倭国(鳥取県中部)に止まった。
 「唐大和上東征傳」において「南岳慧思は東海中の倭国の王家に倭州天皇(聖徳太子)として生まれ変わった」とある。「大唐七代記」は、南岳慧思の六朝転生の記述につづいて、「身を第六の生に留め、機を第七の世に候つ(中略)所以に倭国の王家に生まれ、百姓を哀衿し、三宝を棟梁とす」と記している。これによれば、慧思の第七生は達磨の勧告にしたがって、東海中の「倭国の王家」に生まれ変わったことになる。
 また 「所以生倭国之王家、哀預百姓、棟梁三宝、碑下題云、倭州天皇彼所聖化、(中略)李三郎帝即位開元六年歳次戊午二月十五日、杭州銭唐館写竟」とある。南岳禅師は倭国の王家に託生し、倭州天皇が後身であるとしている。倭州天皇とは聖徳太子のことである。
※ 私見 
 聖徳太子は天皇ではないし577年までに生まれているから、この書は間違いである、とする方がいる。聖徳太子は580年生まれの倭州天皇であることを「大唐七代記」の著者は知っていて「大唐七代記」を著わした。矛盾していることが判っていたら最初から著わさない。
 日本の文献はすべて正しく中国の文献は間違っているという立場に立つと間違いということになるが、中国の文献には嘘を記す理由がない。日本の文献に虚偽が書いてある。倭国を乗っ取った藤原氏によって倭国の歴史書は書き換えられている。

2  「東海」とは日本海のことである。
 韓国を好き嫌いは別にして、韓国は日本海のことを「東海」と呼んでいるし、「『東海』の呼称は『三国史記』東明王本紀(紀元前50年頃)に初めて登場し、広開土大王陵碑、八道総図、我国総図をはじめ、韓国の数多くの文献、古地図などに記録されている。また、東海は日本海呼称の根源といえる日本という国号の登場よりも700年も先に使われていた」とする。
 ※ 私見
 日本という国号は669年に天智(豊璋)が考案し、702年に中国に示した。したがって、奈良時代以前は 日本海とは言わなかった。奈良時代以前は韓国が主張するように、日本海は「東海」といっていた。したがって、「倭国在、東海中」とは「倭国在、日本海中」と読める。

3  「海中」とは海の対岸のことである。
 日本書紀に「事代主は国を譲って波の上に幾重もの青柴垣をつくり、船の側板を踏んで、海中に退去してしまわれた」とある。また、準王も「海中」にありと書かれている。事代主は対岸の倉吉市福庭の地に引越しして生きていた(波波伎神社由緒より)。また殷王朝末裔の準王一族は馬韓から対岸の列島に渡り、のちの藤原氏の基礎を築いた。
 「海中」という表現は「海の対岸」という意味である。「倭国在、東海中」とは「倭国は日本海の沿岸にある」ということである。
 

縄文海進のピークは海抜20mあったとする倉吉住吉神社の案内板は正しいか

2018-04-19 04:51:44 | 序章
縄文海進のピークは海抜20mあったとする倉吉住吉神社の案内板は正しいか
1  「縄文海進のピークは6000年前から5000年前であり今より5m前後高かった」というのが通説であるが、倉吉市住吉神社の案内板には「往古この一帯が入江であった頃、海の守護神住吉神社をお祀りして植えた一本の欅の木が大きくなって住吉の船繋ぎの大欅と云って親しまれていた」とある。
 またNews Reader - German  my flood map | about | privacy  Data provided by NASA にお世話になりますが海抜20mのときに住吉神社の前が入江になります。
 海抜4m(紀元前200年頃)の鳥取県中部の地形は笠沙の御前が浮かび上がってくるが、倉吉住吉神社周辺は陸地である。
 海抜20mに海面がある鳥取県中部の地形です。これが「この一帯が入江になった」状態であり、住吉神社の前まで入り江になっています。住吉神社は中央下になります。茶臼山と三輪山が島になっています。
 住吉神社の部分を拡大したのがこの写真です。この一帯が入江になっています。
 住吉神社の前より撮影。交差点より向こうは入江であった。
2  私はこの住吉神社の伝承は正しいと思います。
 その結果、縄文前期から縄文中期に到る縄文海進のピークの時(紀元前3500年頃)に海面は今より20m高かったことがわかります。また、紀元前3500年頃に住吉神は船で海上交通をしていた。すでに大陸との行き来をしていたのではないかと思われる。
 なぜ通説はピーク時に4m位高かったとするのであろうか。それは、4mの時(紀元前200年頃)に地名を付ける一族が中国から渡来していたからである。彼らは、当時の海岸付近に灘とか穂波とか瀬戸とか津とかの地名を付けた。現在その地名のあるところが、海抜4~5mなので、地名から判断してピークが4~5mであるとした。
3. また、倉吉には縄文人がいて、今に伝承を伝えているということがわかる。近くの北栄町島から縄文前期から縄文晩期に続く遺跡が見つかっているので鳥取県中部には縄文前期(紀元前5000年)から人が住んでいた。
島遺跡発掘調査報告書第2集
http://sitereports.nabunken.go.jp/14048
 猿田彦一族は北栄町島にいて土地感があった土着の縄文人であったろうと思われます。天忍穂耳の指示に従って天孫降臨の道案内をした。天忍穂耳は北栄町下神の三輪山に、猿田彦はその下の北栄町松神を拠点としていた。松神(猿田彦の拠点)は北条島(猿田彦一族)の近くである。

列島への渡来人

2018-04-18 19:32:29 | 序章

 日本列島への渡来人

1  縄文人
 縄文中期(紀元前3500年頃~)頃は西日本は少なくて、主に東日本に多く分布していた。喜界カルデラの噴火が関係していると思われる。縄文海進のピーク時(紀元前3500年頃)に倉吉の住吉神社にいた住吉神は大陸と交流していた。

2  楚・呉・越の水田稲作渡来民(紀元前900年頃~)
 稲作渡来民たちは、もともと中国の春秋から戦国時代に楚とか呉とか越と呼ばれていた地域の住民。始め九州に漂着した。板付遺跡(福岡県博多区)、福岡平野の菜畑遺跡、野多目遺跡、早良平野の橋本一丁田遺跡等。その後、中西遺跡・秋津遺跡(奈良県御所市)、服部遺跡(滋賀県守山市)、池島・福万寺遺跡(東大阪市・八尾市)に住み着いた。水田址は彼らがこの地に来ていたという証である。しかしこれらは初期ヤマト朝廷の遺跡ではない。

3  第1次徐福一行(紀元前219年)
 どこに到着せよという指示がなかったため、日本全国各地に漂着する。徐福と素戔嗚は、伯州(伯耆国)に到着し大神(伊邪那岐)と会っている。「育ちの良い少年少女を多く渡来させれば、不老長寿の仙薬の在りかを教えてやる」と言われた。大神(伊邪那岐)は人口を増やしたかった。青谷上寺地遺跡から出土した32体の人骨のDNA解析により、弥生時代、青谷は国際都市であり、彼らの出身地は東アジアの北から南までの広範囲であった。この移民政策は奈良時代まで800年の間続いた。鳥取県が移民を受け入れる玄関口であった。移民だけでなく珍しい文物も。シルクロードの終点は鳥取県であった。
 始皇帝は家来に徐福一行のあとを追わせた。始皇帝の家来は湯梨浜町の東郷池に到着し、忍坂を上り、三朝町山田に住んだ。山田(ヤマタ)のオロチのモデルは始皇帝の家来たちであった。

4  第2次徐福一行(紀元前210年)
 百工や育ちの良い少年少女三千人を伴って辰韓から対馬海流に乗って伯州に次々と到着した。辰韓(秦韓)に残った者もいた。山幸彦(火火出見)が辰韓に行ったとき。海神族の長は山幸彦(火火出見)が誰かをわかっていた。山幸彦(火火出見)を虚空津日高(徐ラツヒコ)の君だといった。
 三貴神(天照大神・月読命・素戔嗚命)は徐福一行のリーダーであった。不老長生の仙薬を求めていたので、当時多くが海であった出雲や松江ではなく、伊邪那岐の待っている伯耆国の葦原中つ国(橘・鳥取県北栄町)に到着した。素戔嗚は三朝町山田(ヤマタ)で八岐大蛇(始皇帝の家来)と出会い、退治した。八岐大蛇は徐福を追ってきた始皇帝の家来であった。八岐大蛇伝説は鳥取県三朝町山田(ヤマタ)が舞台である。
 少女たちの多くは米子周辺に留まらせた。米子周辺の神社にはその頃誕生したと思われる女神が多い。その後の天孫降臨は蒜山から鳥取県中部において行われた。初期ヤマト朝廷は鉄剣・鉄鏃・鉄矛・銅鏡を造った。

5  殷の末裔準王(紀元前194年)
 馬韓の地から準王の一族数千人が出雲・九州に渡ってきた。
 松江南部・吉野ケ里を本拠地として銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈・銅鏃などを作り、殷王朝再興のためいち早く全国に展開した。奈良県・和歌山県・大阪府南部・大阪の南茨木や淡路島も拠点にしていた。
 周辺住民は鬼・土蜘蛛・猿・河童などと言って彼らを恐れ、神武天皇の時代(弥生時代中期)高地性集落を造って彼らから身を守った。
 初代神武天皇のときから天皇家とも戦っている。第7代孝霊天皇のときが最大の戦い(倭国大乱)で皇子(開化天皇・崇神天皇)や皇女(卑弥呼)の頑張りでヤマト朝廷は全国を平定していった。天皇家は従わせることを主として、殺すことは最小限に止めたようである。しかし祭祀の方法は変えさせた。神社を始めたのは崇神天皇と姉の倭姫命(卑弥呼)である。

6  百済からの亡命者
 642年の高名な40人余りを乗せた百済からの船には翹岐や皇極天皇(天智の母親)も乗っていた。白村江の戦いによる亡命百済人(660年頃)にも王族は含まれていた。白村江の戦い以前の高句麗による亡命百済人は亡命一世より数世代になっているので、紀元前194年に馬韓から渡ってきた殷王朝末裔の準王一族も含めると、奈良時代には30万人くらいになっていたと思われる。全人口の6%を占める。不比等は百済(ホゼ)出身の一族に藤(フジ)の字をつけている。たとえば、不比等の時代より古い時代であっても、百済(馬韓)から日本に渡来してきたことが分かれば、その一族に藤を含む二字姓を授けた。
 藤原氏は心情的に、同じ馬韓の出身でヤマト朝廷を苦しめた準王の青銅器文化の一族(出雲神族)に味方をしていたので 、出雲や淡路島を聖域にしている。
 百済は馬韓に残っていた準王一族と思われる。日羅は百済人が船にのって大量に渡ってきたら、殺してしまえ、と言った。日羅は百済(日本)の危険性がわかっていた。