現代の日本人はこれを読んで、「大陸より東の海に日本列島があるということであたり前のことを言っているだけである」と解するものがほとんどである。
1 「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とある。
「一切経」の中に、「倭国、発音はウワという。東海の海中にある小さな国である。身体に朱色の丹を塗っている。」との記述がある。
「大正新脩大蔵経」には倭国は「烏波反郭注山海経云倭国在帯方東大海内以女為俗無針工以丹朱塗身也説文亦東海中国也従人委声」とある。
※ 私見 「義楚六帖」は954年に僧の義楚によって書かれたもので、倭国も日本も同じ国として書かれているが、倭国は日本海沿岸にある小さな国であった(一切経)。徐福一行は倭国(鳥取県中部)に止まった。
「唐大和上東征傳」において「南岳慧思は東海中の倭国の王家に倭州天皇(聖徳太子)として生まれ変わった」とある。「大唐七代記」は、南岳慧思の六朝転生の記述につづいて、「身を第六の生に留め、機を第七の世に候つ(中略)所以に倭国の王家に生まれ、百姓を哀衿し、三宝を棟梁とす」と記している。これによれば、慧思の第七生は達磨の勧告にしたがって、東海中の「倭国の王家」に生まれ変わったことになる。
また 「所以生倭国之王家、哀預百姓、棟梁三宝、碑下題云、倭州天皇彼所聖化、(中略)李三郎帝即位開元六年歳次戊午二月十五日、杭州銭唐館写竟」とある。南岳禅師は倭国の王家に託生し、倭州天皇が後身であるとしている。倭州天皇とは聖徳太子のことである。
※ 私見
聖徳太子は天皇ではないし577年までに生まれているから、この書は間違いである、とする方がいる。聖徳太子は580年生まれの倭州天皇であることを「大唐七代記」の著者は知っていて「大唐七代記」を著わした。矛盾していることが判っていたら最初から著わさない。
日本の文献はすべて正しく中国の文献は間違っているという立場に立つと間違いということになるが、中国の文献には嘘を記す理由がない。日本の文献に虚偽が書いてある。倭国を乗っ取った藤原氏によって倭国の歴史書は書き換えられている。
2 「東海」とは日本海のことである。
韓国を好き嫌いは別にして、韓国は日本海のことを「東海」と呼んでいるし、「『東海』の呼称は『三国史記』東明王本紀(紀元前50年頃)に初めて登場し、広開土大王陵碑、八道総図、我国総図をはじめ、韓国の数多くの文献、古地図などに記録されている。また、東海は日本海呼称の根源といえる日本という国号の登場よりも700年も先に使われていた」とする。
※ 私見
日本という国号は669年に天智(豊璋)が考案し、702年に中国に示した。したがって、奈良時代以前は 日本海とは言わなかった。奈良時代以前は韓国が主張するように、日本海は「東海」といっていた。したがって、「倭国在、東海中」とは「倭国在、日本海中」と読める。
3 「海中」とは海の対岸のことである。
日本書紀に「事代主は国を譲って波の上に幾重もの青柴垣をつくり、船の側板を踏んで、海中に退去してしまわれた」とある。また、準王も「海中」にありと書かれている。事代主は対岸の倉吉市福庭の地に引越しして生きていた(波波伎神社由緒より)。また殷王朝末裔の準王一族は馬韓から対岸の列島に渡り、のちの藤原氏の基礎を築いた。
「海中」という表現は「海の対岸」という意味である。「倭国在、東海中」とは「倭国は日本海の沿岸にある」ということである。