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「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

新羅(斯蘆国)は鉄の武器を作りに渡った稲飯命が建国した

2018-07-15 21:39:20 | 火々出見と神武天皇4兄弟


1  辰韓の地名由来
 辰韓の地名由来は、秦の苦役を避けて韓にやって来た昔の逃亡者がいたから辰(秦)韓という(「三国志」魏書辰韓伝・「晋書」辰韓伝・「後漢書」辰韓伝)。
 彼らは徐福一行(二次)と思われる。始皇帝はこの時まで徐福を信じていたようである。徐福は後に「秦の苦役を避けて韓にやって来た」と言った。徐福はここに来るまで始皇帝に「不老長生の仙薬を探して帰ってくる」と言っていたはずである。それを「実は秦の苦役を避けて逃げてきたのだ」と言った。まるで因幡の白兎が和邇(船)を数え終えて海を渡り終える前に、「今までの話は嘘で海の向こうに渡りたかっただけだ」と言ったのと似ている。


2  新羅(斯蘆国)の建国伝説
 閼川の丘(慶州)の上に、6つのを率いる長たちが集まった。相談も済んで皆が立ち上がろうとしたとき、丘のはるか向こうの方に、一筋の光がたなびいている。行って見ると、井戸のそばで、白い馬が1頭、大きな卵をしきりに伏し拝んでいる。6人が近づくと、馬は天に向かってひと声高くいなないた。すると卵が割れて、なかから一人の男の子があらわれた。泉の水で産湯をつかわせると、赤子の体から神々しい光が輝いて目もまばゆいばかりである。王と仰ぐべきお方を、天が賜ったに違いない。徳のある君主を得たいというのが、6人の長たちのかねての願いであった。
 長たちの手でだいじに育てられ、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから、13歳を迎えたときに王位に立った。卵が瓠ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。漢の宣帝五鳳元年四月である(紀元前57年)。赫居世王は、61年の間、善政を行なった。


3  徐那伐という国号と赫居世居西干
 本紀では新羅の原国号は「徐那伐」だという。韓音では「ソナバル」と言う。神武天皇が、倭地方(鳥取県中部)を称して「徐ラミツ倭の国」と言ったときの「ソラミツ」と似ている。
 「赫居世居西干」は「カクコセ・コセカン」と音読みできるが、「赫」は「日」と同義の「明るさ」を表している。「居世」の解釈はアイヌ語の「クシ」とすべきだろう。「クシ」とは「向う」という意味である。「日に向う」だから日向である。「赫居世居西干」は「日向の王」という意味と思われる。稲飯命たち四兄弟が住んでいたのも日向の四王寺山である。


4  「新撰姓氏録」は、新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしている。新羅(斯蘆国)の始祖は稲飯命と思われる。上里神社由緒には前に伯耆氏がつくから出身は伯耆国と思われる。瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴(瓠)赫居世を同定する説がある。鳥取県北栄町では古くから瓢瓠に絵を描く趣味が根付いている。
 半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなした。
 稲飯命は紀元前70年に辰韓の地(慶州)に現れ、弟の神武天皇が初代天皇に即位した紀元前60年に「10歳を越える頃には人となりが優れていたことから」信用も得て、紀元前57年(3年後)に新羅王になった。卵生神話はのちの創作である。
 三国史記に新羅王の出自は「倭種」と書かれている。三国史記の異説を紹介することで知られる三国遺事であるが、新羅王の出自については否定も異説の紹介も書かれていない。新羅本紀に新羅王の出自を倭人と直接書かなかったのは、稲氷命(稲飯命)の先祖は倭国に渡った中国出身の徐福・天忍穂耳であり、倭国で生まれた瓊々杵尊の孫にあたるのを知っていたからと思われる。
 慶州のことを、韓国では「新羅千年の都」という。始祖・赫居世が王位についた紀元前57年から、最後の王である第56代・敬順王が西暦935年に高麗の王権に下るまでの992年間、一度も慶州から都を移したことがないためである。このあたりは、都城を何度も変えている高句麗・百済とは異なる。


5 倭国は414年までに新羅を高句麗から取返している。
 新羅城は391年から400年の間、高句麗に略奪され高句麗の居城となっていた(三国遺事)。倭国は414年まで(鳥取県北栄町米里に皇居があった履中天皇の時代)に新羅を取返して高句麗を半島北部に追い込んだ(広開土王の碑より)。その後履中天皇(在位395年より・倭王讃)より雄略天皇(502年に称号・倭王武)までの5代(倭の5王)は高句麗や百済の新羅に対する侵略を封ずるため、中国に安東(中国の東の朝鮮半島を安んじる)将軍の称号を求めた。
 珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)の時代(436年~477年頃)、新羅・倭国は高句麗・百済に敗戦し、新羅も累卵の危うきにあった。天皇も戦いで亡くなっていたかもしれない。その新羅を雄略天皇は復興させた(日本書紀は百済としているが原古事記では新羅であった)。


6 以下の鉄鏃は稲飯命が建国した新羅(斯蘆国)で造られ準王一族を平定するため倭国の神武天皇(紀元前60年即位)たちに送られた鉄鏃と思われる。
※(2015-07-19) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかったと発表した。
 昨年7~8月に「土坑墓」から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。
 副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる。


神武天皇の皇軍と兄磯城が戦った磐余邑は鳥取県北栄町である

2018-07-15 05:30:21 | 火々出見と神武天皇4兄弟

神武天皇の皇軍と兄磯城が戦った磐余邑は鳥取県北栄町であった。

1 日本書紀・神武天皇・兄猾弟猾・兄磯城弟磯城において
 兄磯城の軍は磐余邑にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地である。それで道は絶え塞がれて通るべきところがない。天皇はこれを憎まれた。夢に天神が現れ教えていわれた。「天の香久山の社の中の土を取って、平瓦八十枚をつくり、同じくお神酒を入れる瓶をつくり、天神地祇をお祀りせよ。また身を清めて行う呪詛をせよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう」と。天皇は夢の教えをつつしみ承り、これを行おうとした。その時弟猾がまた申し上げるのに、「・・・・今、天の香久山の赤土をとって平瓦をつくり、天神地祇をお祀りください。それから敵を討たれたら討ち払いやすいでしょう」と。
 天皇はやはり夢のお告げが吉兆であると思っておられた。弟猾の言葉をきいて心中喜ばれた。そこで椎根津彦に、着古した衣服と蓑笠をつけさせ、老人のかたちにつくり、また弟猾に箕を着せて、老人のかたちにつくっていわれるのに、「お前たち二人、香久山に行って、こっそりと頂きの土を取ってきなさい。大業の成否は、お前たちで占おう。しっかりやってこい」と仰せられた。
 このとき敵兵は道を覆い、通ることも難しかった。椎根津彦は神意を占っていうのに、「わが君が、よくこの国を定められるものならば、行く道が自らひらけ、もしできないのなら、敵がきっと道を塞ぐだろう」と。言い終わって直ちに出かけた。そのとき敵兵は二人の様子を見て、大いに笑って「きたならしい老人どもだ」といって道をあけて行かせた。

 北栄町土下山の頂付近の赤土層。
 二人は無事山について、土を取って帰った。天皇は大いに喜び、この土で多くの平瓦や、手抉(たくじり)、厳瓮(いつへ)、などを造り、丹生の川上にのぼって、天神地祇を祀られた。・・・・・。これまで皇軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。しかし、甲冑の兵士は疲労しなかったわけではない。そこで少し将兵の心を慰めるために歌を造られた。
 いなさの山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我らは腹が空いた。鵜飼をする仲間達よ。いま、助けにきてくれよ。

2 私見
 国譲りの交渉は伊那佐山(茶臼山)の伊那佐小浜で行われた。大国主は事代主さえよければ、天孫族に葦原中津国を譲りましょうと言って、天孫族は葦原中津国を手に入れた。神武天皇はその「伊那佐山」を拠点としていた。神武天皇は弟猾と椎根津彦に老人のかたちを造って香久山の赤土を取ってこさせた。土を下したところを土下(はした)という。現在の鳥取県北栄町の土下(はした)集落である。茶臼山(伊那佐山)と土下山(天の香具山=鳥見の白庭山)の間にある。土下山(天の香具山=鳥見の白庭山)には土下古墳群があり現在二百以上の古墳がみつかっている。
 紀元前60年頃は海抜4m位に海面があったので、北栄町米里集落、島集落は汽水池に面していた。磐余邑の中ほどは汽水池になっていたから、片居・片立とか西片の地名が付いたと思われる。神武天皇は西片(北条島あたり)にいた兄磯城の軍を打たれた。磐余邑は鳥取県北栄町の米里、島集落であった。

 ※ 参考 
 「北栄町米里集落の中央の田の下には葦の層が厚く堆積している」と地元の方は言う。随書倭伝には「倭国は湿地帯が多く平野が少ない」とある。
 北栄町北条川の分水堰で川鵜をよく見かける。偶然かもしれないが、そのあたりで北条島を本拠地としていた縄文人(猿田彦一族)は鵜飼いをしていた。
 

3 大国主の本拠地は鳥取県北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)であった。
  鳥取県北栄町の茶臼山のふもとにある国坂神社(鳥取県神社誌より抜粋)
 祭神 少彦名神
 国坂神社の祭神について、『特撰神名牒』には大穴牟遅神 少彦名神 事代主神、『神祇志』には大己貴命とある。『大日本史』に土人の説として、大己貴命を祀るという。『日本地理志料』もまた大国主命を祀るという。『日本地理志料』はさらに国坂神社は大国主の裔(子孫)の奉祀する所と記す。国坂集落には大国主の子孫がいて国坂神社を奉祀している。
※ 私見
 出雲風土記(730年)に「伯耆国大神岳」とある。「岳」とは百済語であり、百済人の藤原氏がこの国を乗っ取った奈良時代より古い新羅語では「根」と書く。その意味する所は「尾根」である。鳥取県北栄町の茶臼山は周辺が北条砂丘であり20m下の岩盤から突き出している標高93mの尾根である。茶臼山の周辺を古代は久米郡大神郷と言っていた。大神郷にある岳(尾根)だから大神岳と書いた。大神岳とは大山ではない。大神岳は後に藤原氏によって大神山と書くようになった。
 神祇志料(明治6年)に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命は伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。大神山は大神郷にあった山だから大神山という。大神山は鳥取県北栄町の茶臼山であった。


記紀の神武天皇・ヤタガラスの記述以降は鳥取県中部(内つ国)が舞台であった

2018-07-14 03:27:35 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 記紀の神武天皇・ヤタガラスの記述以降は鳥取県中部(内つ国)が舞台であった。

1 ヤタガラス
(1)古事記のヤタガラス
イワレヒコの夢の中に、タカギの大神が現れて、次のように教えていった。「天神の御子よ。この土地から奥のほうへ深入りしてはならない。この奥には、荒々しくすさまじい神々が、多勢いることだ。今、天から八咫烏(ヤタガラス)を送り届けてやろう。このヤタガラスが道案内をしようから、その飛び立ってゆくのに従って、道をとるがよい。」このように言った。
 そこで夢の中で教えられたとおりに、ヤタガラスのあとを追って旅を続けると、やがて吉野河の河上に達した。・・・。
この宇陀の地には、兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)と呼ぶ二人の兄弟が頑張っていた。そこでまずヤタガラスを使いに出して尋ねさせるには、「今、天神の御子が、このところにお出ましになった。お前たちはお仕え申すか、どうだ?」このように訊いた。
これに対して兄のウカシは、唸りをあげて空を飛ぶ鏑矢を手にして、使いのヤタガラスを待ち受け、矢を放って追い返してしまった。
(2) 日本書紀のヤタガラス
 皇軍は内つ国に赴こうとした。しかし、山の中はけわしくて行くべき道もなかった。進みも退きもならず、迷っているとき、夜また夢を見た。天照大御神が天皇に教えて言われるのに「吾は今、八咫烏を遣わすから、これを案内にせよ」と。はたして八咫烏が大空から飛び降ってきた。天皇が言われる。「この鳥のやってくることは、瑞夢に適っている。偉大なことだなあ。天照大神がわれわれの仕事を助けようとして下さる」と。このときに、大伴氏の先祖の日臣命は、大来目を率いて、大軍の監督者として、山を越え路をふみ分けて、烏の導きのままに、仰ぎ見ながら追いかけた。ついに宇陀の下県についた。・・・。
皇軍は大挙して磯城彦を攻めようとした。まず使者を送って兄磯城を呼んだ。兄磯城は答えなかった。さらに頭八咫烏を遣わして呼んだ。そのとき烏は軍営に行って鳴いていうのに「天神の子がお前を呼んでおられる。さあさあ」と。兄磯城は怒っていうのに「天神が来たと聞いていきどおえいるときに、なんで烏がこんなに悪く鳴くのか」と。そして弓を構えて射た。烏は逃げ去った。次いで弟磯城の家に行っき鳴いていうのに「天神の子がお前を呼んでいる。さあさあ」と。弟磯城はおじてかしこまっていうのに「手前は天神が来られたと聞いて、朝夕畏れかしこまっていました。烏よ、お前がこんなに鳴くのは良いことだ」と。そこで平らな皿八枚に、食べ物を盛ってもてなした。そして烏に導かれてやってきて申上げるのに「わが兄の兄磯城・・・」。
(3) 私見
 奈良の宇陀に住んでおられる方には申し訳ないが、本当の宇陀は倉吉市高城地区であった。イワレヒコが内つ国(鳥取県中部)に赴くためヤタガラス(鴨建津之身)の案内で降り立った宇陀とは倉吉市高城地区であった。蒜山高原(高天原)から倉吉市高城地区に降りるには、鏡ヶ成からスタートしなければならない。鏡ヶ成は饒速日が降臨するに際し猿田彦が待っていたところである。イワレヒコの降臨にはヤタガラス(鴨建津之身)がついて案内した。
 ヤタガラス(鴨建津之身)は古事記では宇陀の兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)に使いを出された。日本書紀では磯城の兄磯城に遣わして呼び、弟磯城の家に行って鳴いた。古事記では「宇陀」に遣わされ、日本書紀では「磯城」に遣わされている。古事記と日本書紀では遣わされた場所が違うが、どちらにしても鳥取県中部に八咫烏は降り立った。日本書紀では頭八咫烏とあるので、頭がおり、何羽もいたということである。ヤタガラスは鴨建津之身であり、倉吉市関金町鴨ヶ丘に一族で住んでいたと思われる。鴨ヶ丘には山守鴨ヶ丘地蔵堂がある。北栄町北条島にいた猿田彦一族は登美の地にいた出雲神族(ナガスネヒコ一族)に囲まれていたと思われる。 

2 饒速日(ウマシマジ)
(1)古事記の饒速日(ウマシマジ)
 ここにニギハヤヒが陣中に参上して、天神の御子に次ぎのように言った。「天神の御子が、高天原からお降りになっておいでになると聞きましたので、私もあとを追って降ってまいりました。」こう言って、同じ天神の裔(子孫)であることを示す、証拠の宝物を献上して神武天皇に仕えた、とある。
(2)日本書紀の饒速日(ウマシマジ)
 さて、長髄彦は使いを送って、天皇に言上し「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒速日(ニギハヤヒ)命といいます。この人が我が妹の三炊屋媛を娶とって子ができました。名を可美真手(ウマシマデ)命といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽物でしょう。」と。天皇が言われる。「天神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天神の子ならば、必ず表があるだろう。それを示しなさい」と。長髄彦は、饒速日命の天の羽羽矢とかちゆきを天皇に示した。天皇はご覧になって「いつわりではない」といわれ、帰って所持の天の羽羽矢一本とかちゆきを長髄彦に示された。長髄彦はその天神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。・・・。饒速日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。かの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分かりそうもないことを見てこれを殺害された。そして、その部下達を率いて帰順された。天皇は饒速日の命が天から降ったということは分かり、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である、とある。
(3) 私見
 日本書紀は長髄彦を殺害したのはニギハヤヒであるとする。先代旧事本紀は宇摩志麻遅とする。先代旧事本紀では、饒速日は降臨後、長髄彦の妹である三炊屋媛を娶って宇摩志麻遅ができる前に亡くなっており、追いかけてきて証拠の宝物を献上したのはウマシマジと思われる。ウマシマジは天皇に帰順したときにはすでに長髄彦(出雲神族の王)を殺害していたと思われる。そして、証拠の宝物を献上して神武天皇に帰順した。
 蒜山高原(高天原)から倉吉市高城地区(宇陀)に下りてくるには蒜山高原の鏡ヶ成から降りるしかない。イワレヒコは高天原(蒜山高原)の鏡ヶ成から降りてきた。このとき、ウマシマジは何処にいたのだろうか。私は蒜山高原の西の鳥取県江府町江尾にいたのではないかと思う。江尾神社の主祭神は饒速日命(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)である。鳥取県神社誌831社の中で饒速日命を祀る神社は江尾神社だけである。祭神は饒速日だがその子のウマシマジも江府町江尾に住んでいたと思われる。ウマシマジは江府町江尾から鏡ヶ成に上がり鏡ヶ成から神武天皇を追って倉吉市高城地区(宇陀)に降りてきた。追って降りてきたのは、饒速日命ではなくその子のウマシマジである(先代旧事本記)。
 古事記の文章は、ふつうに有りそうなことであるし、原古事記に書いてあったそのままだと思われる。問題は日本書紀である。初代の長髄彦ならばニギハヤヒの弟のニニギの存在は知っているはずである。もし、天神が二人いたことを知らないならばそれは2代目以降の長髄彦(出雲神族の王)と思われる。
 ウマシマジは北栄町の土下山(鳥見の白庭山のちの天の香具山)で生まれて、イワレヒコが福山市にいた時は江府町江尾に住んでいたようである。ウマシマジは母方の長髄彦を殺して父方のイワレヒコに帰順した。ウマシマジの子孫は倉吉市大原にいて石上神宮を守り、物部氏と言われていた。大原には倉◯、倉▢姓が多い。
 高天原とは蒜山高原のことである。神武天皇は内つ国(鳥取県中部)に帰るのに、岡山県の旭川を北上して蒜山高原に上がり、鏡ヶ成から倉吉市高城地区(宇陀)に降りてきた。鏡ヶ成は江府町江尾と近い。直線距離で11.5kmである。歩いても3時間余りで着く。江府町江尾にはウマシマジが住んでいたから、イワレヒコが高天原から降りて行ったことは誰かが伝えたと思われる。先代旧事本記はニギハヤヒではなくウマシマジとし、ウガヤフキアエズは彦火火出見のあだ名であったから、ウマシマジはイワレヒコの叔父くらいの年齢であったと思われる。ウマシマジは略奪集団の母方のナガスネヒコではなく人々の心をつかんだ父方のイワレヒコにつくことにした。
 長髄彦は、青銅器文化の一族の長であった。青銅器文化の一族は気性の激しい大国主の兄の八十神であり、大国主が鳥取県東部の八上姫を娶るときには出雲からきた八十神(長髄彦一族)は鳥取県中部に住み着いていた。当初は天孫族と住み分けていたが、イツセとイワレヒコが九州に行って帰って来たときには、鳥取県中部の宇陀も忍坂邑も磯城も葛城も青銅器文化の一族に占領していた。長髄彦は中洲の豪雄(先代旧事本紀)と呼ばれていた。中洲とは笠沙之御前の柄のことであり、鳥取県中部にあった。北栄町土下集落は神武天皇の家来二人が香久山の土を下したところである。北栄町土下集落は中洲にある。
 イワレヒコは「昔兄を殺した長髄彦」と言っている。イツセは長髄彦の矢で傷つき鳥取県智頭町で亡くなった。その後、イワレヒコは福山市で倭国を取り戻す機会をうかがっていた。そして、イワレヒコは内つ国(津のある鳥取県中部)に帰るのに、岡山県の旭川を北上して蒜山高原に上がり、ヤタガラス(鴨建津之身)の案内で鏡ヶ成から倉吉市高城地区(宇陀)に降りて行った。

3 参考
※ 内つ国 「つ」とは「津」であり奈良にはないが鳥取県中部にはあった。北栄町にあった葦原の中津を「御真津」といい、湯梨浜町にある東郷池を「師木津」と言っていた。
※ 宇陀  倉吉市高城地区であった。このことは、弥生時代後期の阿弥大寺遺跡や紀元前100年頃に始まる後中尾遺跡の存在より明らかである。
※ 忍坂邑 三朝町片柴であった。垂仁天皇川上宮から石上神宮に行くのに波関峠の坂を通らなければならないが、坂を下りた三朝町片柴集落が忍坂邑と思われる。
※ 兄磯城 忍坂から降りて行った先は湯梨浜町花見地区であった。兄磯城は湯梨浜町花見地区(羽衣石集落)にいた。
※ 墨坂  兄磯城を挟み撃ちにした墨坂は湯梨浜町羽衣石集落の坂と思われる。
※ 伊那佐山 北栄町の茶臼山と思われる。茶臼山は北条砂丘に囲まれていて砂でない(否砂)山である。
※ 香久山 北栄町の土下山と思われる。饒速日が降臨した登美の白庭山はこの山であった。饒速日の妻はナガスネヒコの妹であり、ナガスネヒコも麓の中洲にいた。天孫族の山になってからは、天の香久山と呼んだ。
※ 中洲  「中洲」とは笠沙之御前の柄の部分(伊那佐山から天香久山までの間の砂地)と思われる。天神川の度重なる洪水により東側から土砂が流れて中洲の跡もわからなくなっているが、中洲の上を土砂が流れた形跡は残っている。
※ 国見丘 北栄町の蜘ヶ家山と思われる。のちに葛城山と呼ばれるようになった。
※ 磐余邑 兄磯城の軍があふれていた磐余邑は北栄町土下山と蜘ヶ家山との間の米里集落と島集落であった。中央は汽水池になっていたから片方にしか居ることができなかった。今でも米里集落は西方と東方に分かれている。中央部分は池であった。
※ 畝傍山 倉吉市大谷の四王寺山であり、彦火火出見の宮があった。神武天皇の4兄弟はここで生まれた。ウガヤフキアエズは彦火火出見のあだ名であった。日向3代ではなく日向2代であった。豊玉姫も玉依姫も彦火火出見(ウガヤフキアエズ)の妻であった。
※ 吉野  奈良では宇陀に隣接して吉野があるから、倉吉市高城地区に隣接している北谷地区と思われる。北谷地区は古墳時代の遺跡が多い。長谷(泊瀬)の地名は北谷地区から出ている。細長い谷である。
※ 来目邑 倉吉市服部の北の丘陵まで久米ヶ原という。その南を流れる国府川を久米川と言っていた。久米川の南、上米積の南西に紀元前100年頃の後中尾遺跡があり、ここが来目邑であった。
※ 猛田  伯耆国河村郡竹田郷と思われる。弟ウカシは猛田(竹田)の県主に任命された。
※ 磯城(師木) 東郷池周辺であり兄磯城・弟磯城がいた。兄磯城・弟磯城は湯梨浜町花見地区にいたと思われる。弟磯城は磯城の県主に任命された。
※ 多芸志 湯梨浜町長瀬高浜である。当時は西に石山があり、石山が「船の舵の柄」に見えたと思われる。
※ 橿原  倉吉市大宮と思われる。この倉吉市大宮は四王寺山(畝傍山)から見れば、東南になる。また、歴代天皇の皇居の中で鳥取県中部(倭国)では一番山奥にある。
※ 耳   倉吉市関金町耳集落は倉吉市大宮(橿原宮)の川上4kmくらいのところにある。神武天皇の后の産屋があったところと思われる。子供に耳が付く。
※ 秋津洲 日本書紀・神武天皇・橿原即位・において「神武天皇の御巡幸があった。掖上の嗛間の丘に登られ国のかたちを望見していわれるのに、『なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉がトネメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国だなあ』と。これによって始めて秋津洲の名ができた」とある。倉吉市灘手神社の丘から見れば灘手の指にあたる数本の尾根が重なり、秋津がトナメをしているように見える。北栄町大島はこの秋津にあった洲(島)だから秋津洲と呼ばれた。


神武東征の目的は都を東に遷すのではなく東夷(青銅器文化の一族)を平定することであった

2018-07-12 18:37:54 | 火々出見と神武天皇4兄弟

1   鳥取県神社誌(昭和9年)より
 上里神社 村社 東伯郡

 東に向いている。
 高いところにある。
 鎮座地 東伯郡日下村大字清谷字宮下
 現在地 鳥取県倉吉市清谷1217番
 祭神 天津日高日子番能瓊瓊藝命、天児屋根命、天鈿女命
 由緒 紀元沿革不詳、御鎮座の由来と云へるものに、神倭天皇日向より東夷平定に山陽より給ひし際、伯耆氏稲飯命に神懸坐て曰く、神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給ふ、汝稲飯長人吾神魂を三子の嶋に対へる地の朝日の只刺夕日の日蔭る清の地に神籬を真日向に建て、吾神魂を齋奉れ、三子嶋に対へる海も陸も平かならん、吾は久志振陀計に天津神床を遷せし天津日高彦神なり、神伴に天津児屋根命、天鈿女命座しきとの神勅を畏み齋神籬を建て仕奉りし天の神の宮なりき、この里を清谷と曰ひしは、天上の清麗美潔の神地を遷したまひし御神霊を齋き奉る里と云ふ意を以て清谷と命名せしと伝ふ。

2  私見
 「神倭天皇日向より東夷平定に山陽より給ひし際」・・・「神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給ふ」とある。「東夷」とは東にいる蝦夷のことである。蝦夷とは鬼・猿・土蜘蛛などと呼ばれていた青銅器文化の一族であり、殷王朝末裔の準王一族のことである。紀元前194年に馬韓より列島に渡り早い段階で全国に展開していた。
 古事記には「神倭伊波礼毘古命は、兄の五瀬命とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。」とあり日本書紀には「塩土老翁によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た」とあるが、これらは藤原氏によって改ざんされている。神武天皇は鳥取県倉吉市四王寺山(日向)より殷王朝末裔の準王一族(東夷)の平定に旅立ち、山陽から帰ってきてからこの地でも準王一族(東夷)を平定した。兄磯城や長髄彦とは鳥取県中部に帰ってから戦った。鹿児島県大崎町の永吉天神段遺跡から出土した弥生時代中期前葉の鉄鏃5点は神武天皇の皇軍が放ったものである。弥生時代中期前葉の同型の鉄鏃は福岡県太宰府市の吉ケ浦遺跡と佐賀県鳥栖市の安永田遺跡でも見つかっている。
 「稲飯命」は神武天皇の兄である。瓊々杵命が稲飯命に神かかったのは紀元前60年~紀元前57年頃である。稲飯命は東夷の平定が終わった連絡を受けて辰韓より鳥取県中部に帰って来ていた。人力の船でも1日あまりで帰ってこれる。神武天皇が初代天皇として倉吉市大宮で即位する前である。稲飯命は神武天皇の即位を見届けてから、辰韓に帰って新羅を建国した。半島には準王一族の残党もいたから、辰韓の6村の信頼を得るのには時間がかかった。鳥取県中部の神武天皇を助けるためにも、神武天皇即位の3年後(紀元前57年)に信頼も得て新羅を建国した。
 四王寺山の大谷集落の外敵から守る構造や、倉吉市大宮の外敵から守る構造は、準王一族(東夷)に対する防御のためであった。私見では神武天皇の生年は紀元前112年頃であったから東夷の危険はすでに存在していた。神武天皇の東征の目的は全国に展開していた東夷(殷王朝末裔の準王一族)を平定することであった。吉備国や安芸国に長く居たのは鳥取県中部を準王一族に占領されており帰ることができなかったし、吉備国や安芸国の住民に高地性集落を造らせたのではないかと思われる。初代神武天皇から10代の崇神天皇が全国を統一するまで倭国天皇家は東夷(出雲神族)と対立していた。「福は内、鬼は外」である。

日本書紀・神武天皇にある畝傍山は四王寺山であった

2018-07-11 13:26:09 | 火々出見と神武天皇4兄弟

1  日本書紀・神武天皇・宮殿造営に「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。原文には「國之墺區」とある。これは厳密には「国の奥深く安住に適した地」と解釈するそうである。私見では倉吉市大宮は歴代31人の天皇の皇居の中で一番山奥に位置する。
 「橿原の地」とあるが、これは奈良ではなく倉吉市大宮であった。倉吉市大宮に宮殿を造営し、倉吉市大宮で初代天皇として即位した。紀元前60年のことである。倉吉市大宮は倭国(鳥取県中部)では「国の奥深く安住に適した地」である。第2代天皇からはニニギ命がいと良き地と言った笠沙之御前の周辺に皇居を造ったが、神武天皇は倉吉市大宮に宮殿を造営した。この倉吉市大宮は四王寺山から見れば、東南になる。
 「かの畝傍山」とは四王子が生まれ育ったところだから、「かの」とつけたのである。日本書紀を作っているときには「四王寺山」の麓に伯耆国庁を造って山上憶良に調べさせている。不比等たちはそれほど「四王寺山」を重視していたようである。特に百済を滅ぼした新羅の建国者である稲飯命が生まれ育った地ということは脅威であった。

2  橿原即位に「天皇は論功行賞を行われた。大来目を畝傍山の西、川辺の地におらしめられた。」とある。
 四王寺山の西の丘陵地を久米ヶ原という。大来目たちは久米ヶ原にいて皇軍を組織した。久米ヶ原には久米中学や久米支所などの名前が残っている。

3  「畝傍山の東北の陵に葬った。」とある。
 四王寺山の東北は寺谷古墳群・土下古墳群など数百の古墳があるので、その中にあるはずである。

4  このように3か所の方角が合うので日本書紀にいう「畝傍山」とは神武天皇たち四兄弟がいた倉吉市「四王寺山」のことである。神武天皇も橿原宮(倉吉市大宮)で即位してから、今の小鴨神社の地で畝傍山(四王寺山)をことあるごとに眺めていた。

5  奈良県橿原市大谷町と倉吉市大谷集落との写真比較
 奈良県橿原市大谷町 上は畝傍山
 倉吉市大谷集落 上は四王寺山
 どちらも大谷(王谷)だし、どちらも山の入山口を塞いでいるし、どちらかが真似をしているようです。倉吉市大谷集落の入り口には3mくらいの高さの土手がある。この土手の東側から紀元前100年頃の遺跡(中尾遺跡)が発掘された。東には不入岡(岡に入るべからず)という集落がある。土下山(天の香久山=鳥見の白庭山)にいた青銅器文化の一族(出雲神族)から守るために、外から大谷集落は見えないようにしてある。トンネルのような入り口を入っても真っ直ぐに行けば中腹の寺に突き当たり行き止まりである。そこまで行かずに途中で右に折れ200mくらい行ったところが入山口である。そこから上がってすぐのところに右に小屋でも建っていたような広場があり、今度は反対にバックするように、左にうねうね道を頂上まであがって行くことになる。まるで道教の橋を想像させる。奈良県橿原市大谷町は開放的で大谷町を隠す土手などまるでない。大事な4人の皇子を育てるとすれば、集落ごと隠す構造にする。奈良の畝傍山の大谷町は倉吉市大谷集落を真似て造っているが本物ではない。

四王寺山周辺の遺跡地図

2018-07-11 11:19:48 | 火々出見と神武天皇4兄弟
1  四王寺山周辺の遺跡

 鳥取県の遺跡・古墳の数は奈良県・兵庫県と比較されるほど多い。その中でも、鳥取県中部は県内の遺跡総数の3分の2を占め、特に四王寺山周辺は多い。おそらく、遺跡・古墳の密度は全国1位である。それはそうでしょう。蜘ヶ家山の島には縄文前期から猿田彦一族がおり、四王寺山には神倭磐余彦4兄弟がいたのだから。四王寺山の土塁上から紀元前100年頃(神武元年は紀元前60年)の鉄矛(国内最長)や住居跡が出土している。
 上神古墳群を見ると蜘ヶ家山(葛城山)に上がっているので黄泉平坂は蜘ヶ家山(葛城山)に上がっていたと推測できる。上神から男坂(急な坂)になる。不入岡から上神までが女坂(緩やかな坂)であった。遺跡・古墳の時代はご自分でお調べください。旧石器時代から古墳時代まであります。

2  主に奈良時代以降の遺跡
 法華寺畑遺跡と伯耆国分寺と伯耆国庁は同じ頃(741年頃)に倭国(鳥取県中部)を乗っ取った亡命百済王朝(日本)によって造られた。法華寺畑遺跡は発掘された建物の規模と配置からすれば国分尼寺ではなく「国庁に関連した役所」とされる。公的見解は「全国に類例がなく何のための役所だったか判らない」とする。私見は「銘のない多くの墓がそばにあり処刑場跡」とする。
 上から下を通っているのは県道倉吉東伯線(151号線)である。県道151号線は倉吉から琴浦町伊勢野に通じている。天武天皇の大来皇女は泊瀬の斎宮(倉吉市駄経寺町の大御堂廃寺)から伊勢神宮(琴浦町伊勢野)まで行くのにこの県道151号線を通っている。亀谷集落から邇邇芸の御所(上種の大宮神社)に行くこともできる。県道151号線は古代の幹線道路であった。

3  四王寺山より大谷集落を俯瞰
 

 土塁を通り抜けた先が法華寺畑遺跡になる。その右が伯耆国庁跡になる。このように四王寺山を意識して国庁・付属の役所が建っていた。
 四王寺山の麓に登山口を分からないように大谷集落をつくり、大谷集落を守るように3~4mの高さの土塁を造ったのは9世紀の四天王を祀る四王寺を守るためではなかった。四王寺山の大谷集落から出ている道路はまっすぐに福光集落に通じていた。その上に法華寺畑遺跡を造っている。従って大谷集落を外から判らないように守っている構造はまっすぐな道路とセットで、奈良時代以前から造られていた。
 後記ー土塁の上から紀元前100年頃(神武元年は紀元前60年)の鉄矛(国内最長)や住居跡が出土した。四王寺山全体の構造(北面と大谷の2集落からしか上がれないようにしてある構造)自体が紀元前100年頃すでに造られていた。
 大谷集落やその構造は奈良時代に藤原氏が造ったのではなく、倭国の彦火火出見(山幸彦)の宮として造られていた。また土塁は神倭磐余彦4兄弟を倉吉市富海にいた海幸彦(長髄彦=出雲族=準王一族)から守るために造られた。県道151号線を挟んで倭国と日本(亡命百済王朝)の遺跡に分かれる。
 以前は、彦火火出見と鵜草葺不合の二人は北栄町上種の邇邇芸の宮(大宮神社)に居候していたと思っていたが、鵜草葺不合(由緒・伝承がほとんど残っていない)は彦火火出見のあだ名であり、彦火火出見(山幸彦)は3年間、海幸彦から辰韓に逃げていたがまた帰ってきて四王寺山に宮を築いた。そして神倭磐余彦4兄弟(しおうじ)を生み育てた。
 藤原氏は同族の出雲族には寛容だが伯耆国にいた天皇の伝承は消し去ったので、大谷集落の誰も神倭磐余彦4兄弟について言う者はいない。藤原氏は鳥取県中部の多くの集落に本当の歴史を否定する者を有力者として配置している。
 「4人の王子がいたかもしれない」という大谷集落の若者はいたが、歴史に詳しいといわれる大谷集落の長老はそれを否定して「四天王を祀る四王寺があるから四王寺山という」といわれを述べた。

伯耆国の四王寺山(鳥取県倉吉市)に行ってきました

2018-07-10 11:52:04 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 四王寺山より大谷集落を俯瞰する。土塁の向こうは県道になっているが、県道を通る者は大谷集落があることが判らない。一部崩されて田になっているが、大谷集落を人為的に隠しているとしか考えようがない。土塁の向こうに公開処刑場であった法華寺畑遺跡(741年頃)がある。亡命百済王朝(日本)は729年に倭国親王(日本は臭いものには蓋でしょ)の長屋王を暗殺し、734年に倉吉市の北野神社を皇居にしていた34代倭国王を殺害し倭国を乗っ取った。780年に新羅と国交を断絶している。四皇子峰などを宮崎県に移し終えてから、倉吉市の国庁には生き証人を殺す暗殺集団が来ていた。
 土塁の入り口です。
 土塁を通って初めて四王寺山が見える。登山口はこの先を右に200mほど集落内を行ったところにある。大谷集落を通らないと四王寺山には上がれないようになっている。
 四王寺山の一番高い所です。ここから高見の見物をしていたのは誰でしょう。
 高見神社跡より200mほど先にある護国山四王寺(九世紀に四天王を祀る)です。その裏に展望台がある。867年伯耆、出雲、石見、隠岐、長門の5か国に対し、亡命百済王朝(日本)から四天王像各1鋪が下された。新羅からの船を監視し渡航させないためである。
 灘手地区の手の指(尾根)が重なっているように見え神武天皇はこの地を「秋津」と名付けた。上にある細長いのが「島」(秋津島)である。
 丘陵地は蜘ヶ家山(葛城山)である。その下を通っているのは黄泉比良坂の延長線に造られた道路。それまでは、上神から蜘ヶ家山を通り原集落に到着していた。黄泉国(倉吉市中心市街地)から津(葦原中津国)へいたる道路である。左側が葦原中津国である。
 展望台より日本海を望む。この日は中国のスモッグで先がかすんでいた。白くて大きな建物は、米を大量に貯蔵できるカントリーエレベーターです。その左が大島(秋津島)であり、葦原中津国の中心である。伊邪那岐・伊邪那美はここを拠点として葦原中津国の国造りをしていた。神武天皇たちの四兄弟は葦原中津国を見下ろせる四王寺山にいた。
 灘手地区の手の指(尾根)が重なっているように見え神武天皇はこの地を秋津と名付けた。
 北側から見た四王寺山。手前が北面集落。この集落を通らなければ四王寺山に上がれないようになっている。
 この四王寺山は北栄町由良宿の高江神社で生まれた山幸彦(彦火火出見)の本拠地であった。山幸彦(彦火火出見)は海幸彦(長髄彦)と折り合いが悪く3年間辰韓に逃げていたが、父の邇邇芸が「この地はいと良き地なり」と言っていたので取り返しに帰ってきた。1日で北面に船を着けた。土塁の上から辰韓で作られた国内最長の弥生時代中期の鉄鉾が発掘された(中尾遺跡)。海幸彦(長髄彦)は饒速日の義理の兄として饒速日が降臨した倉吉市の哮峰(清熊稲荷神社の峰)の近くの倉吉市富海にいた。土塁は倉吉市富海を意識して造られている。鉄鉾は薄く作られており、敵もいたので祭祀道具ではなく実用品であった。
 行かれた人はここに神武天皇4兄弟がいたかどうか聞かないほうがいい。絶対にそうだとは言わない。これは、天武天皇がいた賀茂神社や孝霊天皇一族がいた倭文神社でも同じである。聞けば必ず否定する。聞く耳ももたない。藤原氏は鳥取県中部に重点をおいて、否定する者を配置している。

神武天皇たち四王子は鳥取県倉吉市の四王寺(しおうじ)山にいた

2018-07-10 05:07:04 | 火々出見と神武天皇4兄弟

1  宮崎県高千穂町の四皇子(しおうじ)峰
 「宮崎県高千穂町の四皇子峰は神武天皇の兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御陵がある」とする。 
 四皇子峰の案内板には「神武天皇の御兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御聖域とされている。彦火火出見尊(瓊々杵尊の御子で山幸彦)の御子鵜鵝草葺不合尊は玉依姫と結婚され、彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四皇子がお生まれになっている。神日本磐余彦尊は高千穂の宮で東征について彦五瀬命とご相談され、日向から筑紫、安芸、備後熊野を経て大和に入られ、平和国家を築かれたという」とある。
※ 私見
 四皇子峰には四王子を守るための構造は何もなく、高いところに柵をして囲っただけのように見えた。鵜鵝草葺不合は彦火火出見のあだ名であり、彦火火出見尊(瓊々杵尊の御子で山幸彦)の御子ではない。日向3代ではなく日向2代であった。

2  鳥取県倉吉市の四王寺(しおうじ)山
 彦火火出見(鵜草葺不合)は鳥取県倉吉市の四王寺山に宮を定めた。
 宮崎県高千穂町の四皇子峰の周囲には何もない。遺跡もない。鳥取県倉吉市の四王寺山の周辺からは旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡や古墳が見つかっている。
 四王寺山の麓の集落は大谷と北面があるがこの集落を通らないと四王寺山に上がれないようになっている。
 倉吉市大谷集落。大谷集落の前にある高さ3mの丘陵地から紀元前100年頃の住居跡が発掘されたので、高さ3mの丘陵は紀元前100年頃には存在していた。高さ3mの丘陵地は大谷集落を守るために存在していたと思われるので、大谷集落も紀元前100年頃には存在していたはずである。
 下(南)の県道側の集落正面から3mの丘陵をくぐり抜け大谷集落に入っても、入山口はわからない。まっすぐ行けば寺に突き当たる。私は寺で聞いたが、誰かに聞かないと入山口はわからない。古代、準王一族(出雲神族)が入山口を尋ねたら殺されたと思われる。
 倉吉市北面集落。入山口が分からないとグルグル廻ることになる。分かってもしばらく監視が続く。怪しい者は殺されたと思われる。
 この2つの集落が四王子(しほっつぁん)の世話と守りをしていた。大谷集落の人々は親しみを込めて「しほっつぁん」と呼ぶ。
 四王子山に入る集落を二か所にし、しかも入山する者は集落の多くの家に監視されながら家の前を通らなければならない。その集落も外からは見えないようにしてある。大事な四王子を守り育てるならこの構造がベストである。寺を守るだけならここまでしない。このような細工をした山は全国でも倉吉市の四王寺山だけと思われる。「古代の山城」といっても過言ではない。
 「四王寺山に神武天皇の4兄弟がいたのではないか」と大谷集落の長老に質問してみるとよい。「そんなものはいなかった。四王寺があるから四王寺山という」と答えるはずである。おかしいと思いませんか。普通なら、「そうであったら、ここが全国的に知れ渡り有名になっていいのですが」と答えるはずである。全国から隠そうとしている。そう答えるように藤原氏に暗示をかけられていると思われる。同じように否定する人物は湯梨浜町の宮内にもいる。宮内の人物もそれ以上調べさせないよう話してくる。

3  鳥取県倉吉市の四王寺山の南には、伯耆国庁跡・法華寺畑遺跡・伯耆国分寺跡など8世紀に主要な建築物が建てられていた。鳥取県西部には、孝霊天皇の足跡が多く残っているにもかかわらず、鳥取県中部は伯耆国の中心として位置ずけられていた。それだけ大事なものがあったのである。
 この鳥取県倉吉市の四王寺山は9世紀に新羅の海賊から守るために四王寺を建てただけの山ではない。「しおうじ」は四王寺ではなく四王子であった。藤原氏は古事記の字を同じ発音の別の漢字に書き換えて日本書紀を作っている。同じ発音の別の漢字にあてるのが得意の藤原氏である。元は「子」とあったのを「寺」に書き換えている。
 筑前国の四王寺山は神武天皇たちがしばらくおり、天児屋根・建御雷神・事代主を祭っていたという伝承が残っている。鳥取県倉吉市の四王寺山から葦原中津国を見ると事代主は北栄町亀谷におり、建御雷神は北栄町妻波におり、天児屋根命は北栄町穂波にいた。神武天皇たちにとっては事代主も建御雷神も天児屋根も身近な存在であった。

4  鳥取県倉吉市の四王寺山のすぐ北には葦原中津国がある。日向とは葦原中津国と四王寺山のことであった。神武天皇たちは日向から出発したという。この地は日当たりの良い地であると瓊々杵命がいい、瓊々杵命は日向之御子というあだ名まで付けられている。日向とは葦原中津国と四王寺山のことであり、神武天皇の四兄弟は鳥取県倉吉市の四王寺山(日向)から九州の平定に出発した。九州平定後、船で倉吉市清谷(日下)に帰ってきたが、イツセが亡くなり、再び山陽に出て倭国を取り戻す機会をうかがっていた。
 藤原不比等は鳥取県倉吉市の四王寺山に神武天皇の四兄弟がいたことを知っていた。地名・伝承を宮崎県と奈良県に移し鳥取県倉吉市の四王寺山の伝承は二百年かけてきれいに消した。人的にも物的にもである。また鳥取県中部の各集落の調査を断念するよう仕組んである。

 おまけ
 宮崎県推薦の観光地。天真名井の滝

 宮崎県推薦の観光地。天真名井の滝
 高千穂町にはほかに天真名井がある。
 伯耆国(米子市淀江町)にも妻木晩田遺跡と稲吉角田遺跡の近くに天真名井がある。うけいが行われたのは、おそらくここである。三女神がいた米子市胸形にも近い。

鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名であった

2018-07-09 09:52:26 | 火々出見と神武天皇4兄弟


1 古事記・日本書紀は「鵜草葺不合は彦火火出見命の子である」とする。
  先代旧事本紀の天孫本紀には「天孫天津彦々火瓊々杵尊の孫、磐余彦尊が天下を馭ようとして東征した」とある。「瓊々杵尊の孫、磐余彦尊」とある。鵜草葺不合(産屋を建てるのが間に合わなかった)とは正式な名前だろうか。


2 ウィキペディアより
 ウガヤフキアエズ王朝は、「ウエツフミ」「竹内文献」「神伝上代天皇紀」などの古史古伝に記載されている神武天皇以前の古代王朝で、火々出見命の子鵜萱葺不合命が開いた王朝とされる。鵜萱葺不合命は、「古事記」、「日本書紀」の中では、神武天皇の父とされている。「ウエツフミ」、「竹内文献」、「神伝上代天皇紀」などの中では神武以前に何代か続いた王朝の始祖とされている。しかし、これらの文書の中でも天皇の数や王朝の継続期間は一致していない。そもそもこれらの文書は史料価値が認められておらず、ウガヤフキアエズ王朝とは近代以降に偽作された架空の王朝だとするのが妥当であるとされている。


3 私見
(1) 古事記・日本書紀ならば瓊々杵命と磐余彦命との間には彦火火出見と鵜草葺不合の二人が入るのだが、先代旧事本紀の天孫本紀には「瓊々杵尊の孫、磐余彦尊」とある。系譜に関しては、記紀より先代旧事本紀のほうが信用できる。先代旧事本紀は瓊々杵尊と磐余彦尊との間には一人しかいないとする。したがって、彦火火出見と鵜草葺不合は一人であり鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名ではないかと思われる。
(2) 「産屋を建てるのが間に合わなかった」はあだ名にはなるが、正式な名前とは思われない。これも、あだ名を付けるのが好きな鳥取県中部の住民が付けたものと思われる。
(3) 古事記・日本書紀には鵜草葺不合の事蹟はほとんどない。神社の由緒にもない。これは、旧辞のない欠史八代と同列に論じることはできない。名前自体があだ名にふさわしいので、鵜草葺不合の実態はなかったと思われる。
(4) 京都で暇を持て余していた藤原氏は空想科学小説が好きだったようで、あだ名に過ぎないウガヤフキアエズを独り歩きさせて、数十代にわたるウガヤフキアエズ王朝なるものを作り上げた。
(5) 豊玉姫と玉依姫の姉妹は2人とも彦火火出見の妻であった。豊玉姫は一人しか生まなかったから、産んだ子は五瀬命と思われる。玉依姫は次男の稲飯命、三男の御毛沼命、四男の磐余彦命を生んだ。こういう系譜なら今でもありそうである。
(6) そう解することで、高倉下命と宇摩志麻治命は磐余彦の叔父くらいの年齢になり同時代に生きていたことになる。
(7) 彦火火出見(鵜草葺不合)は父瓊々杵命のいた北栄町のクシフルタケではなく、倉吉市の四王寺山に宮を造ったと思われる。そこで、神武天皇の4兄弟は育てられた。
(8) 四王寺山(倉吉市)の防御の構造は彦火火出見(紀元前150年~)の時代に、近くに敵がいたことを想像させる。それは「トミ」と名乗った準王一族(出雲神族)と思われる。饒速日が降臨して長髄彦の妹の三炊屋媛を妻とした鳥見(トミ)の白庭山(北栄町の土下山)にもトミの一族(準王一族)はいたと思われる。
(9) 私は神武天皇の即位年600年水増し説をとる。神武天皇の即位が紀元前60年でその時52歳ならば誕生年は紀元前112年頃となる。また、瓊瓊杵命から
神武天皇までの世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢は34歳となる。
 饒速日の生年は紀元前210年以降である(天忍穂耳の伯耆国到着が紀元前210年)。饒速日は次男(宇摩志麻遅)がおなかの中にいるときに亡くなったのだから、享年25~30歳くらい。瓊瓊杵命は饒速日が亡くなった頃に生まれたから紀元前180年頃の生まれと思われる。天忍穂耳が伯耆国に到着してから30年後となる。紀元前180年引く紀元前112年(神武天皇の誕生年は紀元前112年)は68年であり、それを2で割ると34歳となる。火火出見命は3男、神武天皇は4男だからこの結果になる。天照大神は徐福(紀元前210年渡来)だったという仮説にも符合する。
(10)鵜草葺不合を生んだのは豊玉姫であり木花之佐久夜毘売であった。豊玉姫と木花之佐久夜毘売とは同一人物であった。鵜草葺不合の父は瓊瓊杵命であり、母は木花之佐久夜毘売(豊玉姫)であった。


豊玉毘売命・玉依毘売命は辰韓出身であった。海神(綿津見の大神)は船頭の頭領であり慶州近くの港にいた

2018-07-09 04:45:33 | 火々出見と神武天皇4兄弟

1  豊玉毘売命・玉依毘売命を記載する古事記の抜粋
(1) 塩土の神は、无間勝間の小船を作り、御子を乗せて、「私がこの舟を押し流しますから、そのまましばらく行きなさい。快適に進める海路があるでしょう。その海の道に沿って行くと、魚の鱗のように作った宮殿があります。それは海神の宮です。その宮殿にたどり着くと、門のところに湯津香木があります。その木の上に登っていたら、海神の娘に会って、彼女がはからってくれるでしょう」と教えた。
 彦火々出見尊は香木に登って座っていた。豊玉毘売は外へ出て火遠理命を見ると、すっかり一目惚れしてしまった。豊玉毘売と彦火々出見尊は互いに視線を交わし、思いは双方同じだった。豊玉毘売は父に「私の門のところに、とても美しく立派な殿方がいます」と言った。すると海神は自ら出て彦火々出見尊を見ると、「この人は、天津日高の御子で、虚空津日高でいらっしゃるぞ」と言い、宮の中に連れて入り、娘の豊玉毘売を彦火々出見尊に娶(めあわ)せた。その後三年になるまで、その国に留まった。
 鯛の喉を調べてみると、釣り針があった。それを取り出してきれいに洗い、彦火々出見尊に奉った。綿津見の大神は海の鰐たちをすべて呼び集め、「いま天津日高の御子、虚空津日高が地上の国に帰ろうとしておられる。お前たちの中で、だれが御子を何日で送って還ってこられるか」と尋ねた。一尋鰐は「私は一日で御子を送って帰ってこられます」と言った。そこでその一尋鰐に、「ではお前が御子を送れ」と命じ、その首に御子を乗せて送り出した。すると本当に言った通り、一日で送った。その鰐が帰ろうとしたとき、御子は持っていた紐小刀を鰐の首に付けて送り返した。その一尋鰐を、今は佐比持神と呼ぶ。
(2) ある日豊玉毘売の命が自分から穂々手見命のところへやって来て、「私は以前からあなたの御子を妊娠していたけれど、もうお産の時になったの。でも天神の子を海原で生むのはよくないことだわ。それでこちらへ来たのよ」と言った。そこですぐに海辺の渚に鵜の羽根で屋根を葺いた産屋を造った。ところがその産屋の屋根をまだ葺き終えないうちに、急に産気づき、産屋に入った。まさに子供が生まれようとするとき、彼女は夫に向かって「他国の人は、みな臨産の時に、本国の姿になって子を生むと言うわ。私も今元の姿になっているの。お願いだから見ないでね」と言った。彦火々出見尊はその言葉を奇妙に思って、子を生んでいる最中の姿を垣間見ると、毘売は八尋鰐の姿になって這い回っていた。穂々手見命はこれを見て驚き恐れて、逃げ去った。豊玉毘売命は彼がのぞいて見たことを知り、恥ずかしいと思って、生んだ子たちを放置し、「私はこれまで、海の道を通って(子育てに)通うつもりだったのに、生んでいるところを見られたのは、恥ずかしいことだわ」と言って、海の通い路を鎖して帰って行ってしまった。その生んだ子の名を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命という。
(3) 豊玉毘売命は恋しさに耐えかねて、姉に代わって御子を育てていた玉依姫に託して、歌を送った。この天津日高波限建鵜葺草葺不合命が、その叔母である玉依毘売命を妻にして、生んだ子は五瀬命。次に稲氷命。次に御毛沼命。次に若御毛沼命、またの名は豊御毛沼命、また神倭伊波禮毘古命とも言う。この御毛沼命は、波の穂を踏んで、常世の国に行ってしまった。稲氷命は母の国だからというので、海原に入ってしまった。

2 私見
(1) 1の(2)は京都でひまを持て余していた藤原氏が改ざん挿入したものと思われる。男性はこういう状況になれば身につまされるため、我が事のように思い、作り話だとは思わない。だから改ざん挿入説は出てこなかった。豊玉毘売は木花之佐久夜毘売であったという説がある。1の(2)は改ざん挿入されている。
 鵜葺草葺不合は彦火々出見のあだ名であった。彦火々出見(鵜葺草葺不合)は倉吉市の四王寺山に宮を定めた。神武天皇の4兄弟は四王寺山で育てられた。「鵜葺草葺不合は彦火々出見のあだ名であった」を参照されたし。
(2) 塩土の神が小舟を出したところは対馬と思われる。「快適に進める海路」とは対馬海流と思われる。
(3) 稲氷命は母の国だからというので、海原に入ってしまった。「海原に入ってしまった」の「海原」とは辰韓の「海原」(海抜4m~20mの平地)のことである。辰韓、慶州のあたりには徐福一行の子孫が残っていたはずである。玉依毘売命は辰韓に残っていた徐福一行の子孫である可能性が高い。綿津見の大神は徐福一行を伯州へ送った船頭の子孫と思われる。
 「天神の子を海原で生むのはよくないことだわ」と豊玉毘売命が言ったが、ここでも「海原」とは辰韓の海原(海抜4m~20mの平地)のことである。決して海中の竜宮城のことではない。
(4) 1の(1)にある「鰐」とは船の船頭のことである。彦火々出見は到着してからチップを渡しているので、綿津見は海上タクシーであった。竜王神社は綿津見神と住吉神を祀る神社である。「鰐=竜」という説がある。一尋鰐、八尋鰐は船の大きさであった。
 辰韓の慶州近くの港から伯州(倉吉市北面)に行くのに一日で到着するのは早い。直線で400kmくらいである。24時間で到着しようと思えば毎時16.6kmで進まなければならない。対馬海流は普通は毎時2.8km~4.3kmくらいであるから、海流を差し引いても毎時12.3Km~13.8kmのスピードで漕がなければならない。一日で到着するのは大変であるが速い海流に乗れば不可能ではない。
  火火出見が行ったのは島根県の隠岐の島とする説があるが、倭国(鳥取県中部)と隠岐の島の距離は90km程度であり24時間かかってやっと到着するような距離ではない。また、新羅を建国した稲氷命は母の国に行った。稲氷命の母は玉依姫であり、玉依姫の出身国は稲氷命が建国した新羅(辰韓)であった。

3 参考
 シーカヤックレースの上位入賞者達は、時速9~10km位を長時間維持するという。
 シーカヤックで大韓海峡を航海した人は「通常大韓海峡では、対馬海流は1.5ノット(時速2.8km)~ 2.3ノット(時速4.3km)です。ここも、海流と潮流が重なるとたいへんです。3.7ノット(時速6.8km)の時がありました」とする。時速6.8kmならば毎時9.8kmで漕げばよく、不可能ではない。