1 辰韓の地名由来
辰韓の地名由来は、秦の苦役を避けて韓にやって来た昔の逃亡者がいたから辰(秦)韓という(「三国志」魏書辰韓伝・「晋書」辰韓伝・「後漢書」辰韓伝)。
彼らは徐福一行(二次)と思われる。始皇帝はこの時まで徐福を信じていたようである。徐福は後に「秦の苦役を避けて韓にやって来た」と言った。徐福はここに来るまで始皇帝に「不老長生の仙薬を探して帰ってくる」と言っていたはずである。それを「実は秦の苦役を避けて逃げてきたのだ」と言った。まるで因幡の白兎が和邇(船)を数え終えて海を渡り終える前に、「今までの話は嘘で海の向こうに渡りたかっただけだ」と言ったのと似ている。
2 新羅(斯蘆国)の建国伝説
閼川の丘(慶州)の上に、6つのを率いる長たちが集まった。相談も済んで皆が立ち上がろうとしたとき、丘のはるか向こうの方に、一筋の光がたなびいている。行って見ると、井戸のそばで、白い馬が1頭、大きな卵をしきりに伏し拝んでいる。6人が近づくと、馬は天に向かってひと声高くいなないた。すると卵が割れて、なかから一人の男の子があらわれた。泉の水で産湯をつかわせると、赤子の体から神々しい光が輝いて目もまばゆいばかりである。王と仰ぐべきお方を、天が賜ったに違いない。徳のある君主を得たいというのが、6人の長たちのかねての願いであった。
長たちの手でだいじに育てられ、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから、13歳を迎えたときに王位に立った。卵が瓠ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。漢の宣帝五鳳元年四月である(紀元前57年)。赫居世王は、61年の間、善政を行なった。
3 徐那伐という国号と赫居世居西干
本紀では新羅の原国号は「徐那伐」だという。韓音では「ソナバル」と言う。神武天皇が、倭地方(鳥取県中部)を称して「徐ラミツ倭の国」と言ったときの「ソラミツ」と似ている。
「赫居世居西干」は「カクコセ・コセカン」と音読みできるが、「赫」は「日」と同義の「明るさ」を表している。「居世」の解釈はアイヌ語の「クシ」とすべきだろう。「クシ」とは「向う」という意味である。「日に向う」だから日向である。「赫居世居西干」は「日向の王」という意味と思われる。稲飯命たち四兄弟が住んでいたのも日向の四王寺山である。
4 「新撰姓氏録」は、新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしている。新羅(斯蘆国)の始祖は稲飯命と思われる。上里神社由緒には前に伯耆氏がつくから出身は伯耆国と思われる。瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴(瓠)赫居世を同定する説がある。鳥取県北栄町では古くから瓢瓠に絵を描く趣味が根付いている。
半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなした。
稲飯命は紀元前70年に辰韓の地(慶州)に現れ、弟の神武天皇が初代天皇に即位した紀元前60年に「10歳を越える頃には人となりが優れていたことから」信用も得て、紀元前57年(3年後)に新羅王になった。卵生神話はのちの創作である。
三国史記に新羅王の出自は「倭種」と書かれている。三国史記の異説を紹介することで知られる三国遺事であるが、新羅王の出自については否定も異説の紹介も書かれていない。新羅本紀に新羅王の出自を倭人と直接書かなかったのは、稲氷命(稲飯命)の先祖は倭国に渡った中国出身の徐福・天忍穂耳であり、倭国で生まれた瓊々杵尊の孫にあたるのを知っていたからと思われる。
慶州のことを、韓国では「新羅千年の都」という。始祖・赫居世が王位についた紀元前57年から、最後の王である第56代・敬順王が西暦935年に高麗の王権に下るまでの992年間、一度も慶州から都を移したことがないためである。このあたりは、都城を何度も変えている高句麗・百済とは異なる。
5 倭国は414年までに新羅を高句麗から取返している。
新羅城は391年から400年の間、高句麗に略奪され高句麗の居城となっていた(三国遺事)。倭国は414年まで(鳥取県北栄町米里に皇居があった履中天皇の時代)に新羅を取返して高句麗を半島北部に追い込んだ(広開土王の碑より)。その後履中天皇(在位395年より・倭王讃)より雄略天皇(502年に称号・倭王武)までの5代(倭の5王)は高句麗や百済の新羅に対する侵略を封ずるため、中国に安東(中国の東の朝鮮半島を安んじる)将軍の称号を求めた。
珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)の時代(436年~477年頃)、新羅・倭国は高句麗・百済に敗戦し、新羅も累卵の危うきにあった。天皇も戦いで亡くなっていたかもしれない。その新羅を雄略天皇は復興させた(日本書紀は百済としているが原古事記では新羅であった)。
6 以下の鉄鏃は稲飯命が建国した新羅(斯蘆国)で造られ準王一族を平定するため倭国の神武天皇(紀元前60年即位)たちに送られた鉄鏃と思われる。
※(2015-07-19) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかったと発表した。
昨年7~8月に「土坑墓」から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。
副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる。