「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

徐福が見た大山(ダイセン)

2018-05-23 04:53:58 | 天照大神(徐福)
 徐福が筆録したと伝えられている宮下文書(徐福文書)は、「東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。しかし、近づいてみると、船上で遥拝した霊山とは違い、一行が上陸したのは。木日国(紀伊国)木立野の大山であった」とする。
 伯耆国の大山は西から見ると秀麗な山様に見えるが、東に進むとその姿を見失う。これこそ蒜山高原(瀛州)に伊邪那岐命(真人)のいた東海(日本海)の蓬莱山(大山)であった。
 「伯耆国の大山」ではなく、「木日国(紀伊国)木立野の大山」と書き換えたのは藤原氏である。
 伯耆富士。西北西より見た大山。秀麗な山様である。今の中海(なかうみ)から見ると秀麗な山様に見える。徐福は本土と島根半島の間を航海してきたものと思われる。
 旧名和町より見た大山。米子と北栄町の中間ではこのように見える。
 その裾野の小さな湾(北栄町の葦原中津国=豊葦原瑞穂国の入口)より見た大山(ダイセン)(陸地と大きな山)。手前の甲ヶ山(セン)と矢筈ヶ山(セン)の陰になって、頂上しか見えない。

徐福一行は朝鮮の辰韓にたどり着きしばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国、鳥取県中西部)に結集した

2018-05-22 05:23:45 | 天照大神(徐福)

 徐福一行は朝鮮の辰韓にたどり着きしばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国、鳥取県中西部)に結集した。

1 秦の始皇帝が天下を握った221年ごろには、秦以外のすべての国々は消滅した。燕・斉・趙の民数万人が、朝鮮に逃避した。朝鮮では、国を割いてまで秦の亡民の建国を許している。辰韓は秦の民が多く集まったので秦韓と呼ばれた。王輯五は、「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国のこと、鳥取県中西部)に結集した」とする。
『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝、『晋書』辰韓伝によると、辰韓には秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていた。また、辰韓人は馬韓人とは言語や風俗が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、言語や風俗は似通っていたという。弁韓は日本から渡海して来たものを受け入れるところであったと思われる。
第二段の徐福たち3000人もこの地にたどり着いたようである。そして一斉にではなく、次々にピストン輸送して伯州(伯耆国・鳥取県中西部)に結集した。辰韓は紀元前2世紀頃から朝鮮半島南部日本海側にあった後の新羅と重なる地域である。

2 「韓国の徐福伝説」許玩鍾より


 全羅北道 井邑郡 泰仁面弓四里 弓四老人会館にて七十七歳の男に聞いた徐福伝説(一九八五年・四月十八日)
 秦始皇に「それならどうかその不老草をあなたが探し求めてきてもらいたい」と言われると徐市は「あそこは遥か遠く、深いところで、一、二、三年間では出来ません。十歳前後の千人か二千人の童男童女を同じく区分けして、百隻ほどの船に乗せて、一、二、三年間を過ごしながら不老草を探し求めるわけであるので、一応農事をして食事を取らなければいけません。ですから豆の種や麦、種籾も要りますし、すべての種を備え、それにシャベルやくわ、ホミ(草かき)のようなもののすべてを備えてからこれらを乗せていかなければ不老草は求められませぬ」という。秦始皇に船や種、童男童女を要求し、また着る服のために綿布千匹を船に乗せて出発する。
 出発すると徐市は「まあ、これで俺たちの天下だ」と言いながら数日を掛けてたどり着いたのが日本であったが、そこは広々とした大平原だけあって野原も畑も何もない。
 (徐市は)どうしようもなく男女一人ずつを夫婦に添わせてやる。森林の山のところであればヤマ、野のところであればノハラ、畑のところが多ければハタケ、川のところであればカワと名付けてから全部を日本のあっちこっちの土地に割りあてた後、「鍬を持っている人、ホミを持っている人、種を持っている人、お前らはこの辺りで種蒔きをしてお前ら同士で食って暮らしていけ」とし、また持ってきた綿布千匹で着物を作ったという。
 結局、五十年間ぐらいが経ってしまい、血気盛りの童男童女たちが子供を生んで、人口が増え広がり、日本の土地に根付いてしまった。
※ 私見
 徐福たちは列島に地名をつけていった。海抜4mくらいのところの海岸であったような地名は徐福たちがつけた地名である。北栄町の瀬戸・穂波・津原・灘手などはその例である。
 そのほかの伝承地には「徐市過此」(徐市が此処を過ぎた)という岩文字などが残る。徐福たちは、半島の東(辰韓)に行っている。徐福は半島の東(辰韓)に至り、日本(東海の三神仙)に向けて出港した。

3 始皇帝は海外にも秦国の威勢を拡大しようとしていた。徐福に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じている。徐福は「東海王」の異名ももっていた。蒜山高原の周辺では山(ヤマ)を仙(セン)と読むところが多い(50くらいの山)が、これは仙人や仙薬を探していた徐福一行が名づけたものだと思われる。徐福は純粋に不老長生の仙薬を探しに日本にやってきた。丹後に行ってからも冠島で仙薬を探している。徐福は王になるために来たのではないが結果として平原・広沢(葦原中津国)を得て王(天照大神)となった。

4 『北史』新羅伝には、「新羅とは、その先はもと辰韓の苗裔なり」とある。新羅は紀元前57年に稲飯命(神武天皇の兄)によって建国された。「新撰姓氏録」では新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとする。神武天皇の四兄弟は紀元前70年頃、東夷を平定されるために伯耆国を発たれた。二男の稲飯命は辰韓に渡り鉄製の剣や刀や鏃を創って神武天皇たちのもとに送った。神武天皇の即位年は紀元前60年である。その3年後の紀元前57年に、二男の稲飯命が辰韓の地に新羅を建国した。着かれてから建国までにかなり年数がたっているが、人望を得るのには必要な時間であった。

5 伯耆という国名の由来
除氏は秦の姓も賜っている。伯太は「はた」と読む。魏志東夷伝には「辰韓は馬韓の東において、その耆老が言うには、古くの亡命人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を割いた」とある。
伯耆とは伯太の耆老から来ている可能性が高い。

6 続、宗像三女神
宗形神社案内板には宗像三女神は天照大神と素戔嗚命の御子神である、とかいてある。天照大神は道教の方士であり占いや祈りが大事であった。三女神は方士徐福によって少女たちの中から選ばれた日本での最初の巫女であった。到着した順に奥津宮、中津宮、辺津宮に分かれて、海上交通の安全を祈った。後に卑弥呼も伊射波神社の前に巫女として先輩である市杵嶋姫命を祀っている。直井裕氏も言うように、卑弥呼は天孫族を介してつながりがコの字になるが徐福の子孫である。


徐福(天照大神)が到着したのは伯耆国であった

2018-05-21 04:46:56 | 天照大神(徐福)
徐福(天照大神)が到着したのは伯耆国であった

 Ikko Kurosawa氏の文章を一部引用しています。

1 始皇帝は方士徐福に仙薬を求めることを二回命じている。一回めは紀元前219で、「蓬莱の薬を手に入れることができなかったのは、鯨に苦しめられて到達することができなかったからです。鯨をしとめる射手を供にして下さい。」徐福はそう奏上した。
 二回目は紀元前210年、大船40艘、良家のけがれのない少年・少女3千人を所望し、船工・百工・方士、金銀珠玉、五穀と機材を積んで神仙の山、蓬莱山、方丈山、瀛州山の三神山にむけ、およそ100艘の大船団を出発させた。始皇帝は滄海郡(旧斉国)に命じて船を建造し、千童城・丱兮城(かんけい)を築いて、これら技術者や童子を集めて渡海訓練をしている。この大プロジェクトに、始皇帝は巨大な費用を惜しみなく出した。始皇帝は徐福に八洞神仙に到達したら爵位を与え、水夫の税を免除する報償を約束した。
 徐福は斉の人で、琅邪(ろうや・山東省東南部)を出発したが、始皇帝は自ら強い弓をもって乗船して、鯨が邪魔をしたら自ら射撃しようと成山まで同行したが、鯨には遭遇しなかった。成山頭で下船して徐福らを見送った。「煙台」に至り、大魚に出くわし、これを射殺したという。(史記・秦始皇本紀三七年)
 始皇帝は、東の聖地、山東半島の「煙台」を、五回の巡行のうち三度も訪れている。この渤海湾の伝説の港町「煙台」から徐福一行は中国本土を離れた。
 中国の白蘭族の歌を始め、屈原の『少司命』『湘夫人』など、すべて五・七言であるので、須佐之男の八重垣歌も五・七調の歌謡であり中国の踏襲ということも言える。
 殷の王は鬼神を尊び、民を率いて神に仕え、何事につけても甲骨に卜占をしるして占いをもっぱらにして、族邑を束ねていた。紀元前千四百年、殷の中心が河南省の安陽市付近にあったことは殷墟の発掘で明らかになった。河南・山東は、後の六国の「斉」で、とくに崇神の念の強い地域だったと言われ、鬼神を畏れる人々だった。このことは魏志の「名曰卑弥呼。事鬼道、能惑衆」、卑弥呼の鬼道と気脈を同じくすると思われる。斉が殷の習俗の色濃い土地であることは確かである。そして、徐福の童子3千人が斉人であれば、なおさらのことである。
 
2  私見
 王輯五は「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とする。鳥取県中西部には福付き地名が他所より格段に多いから、王輯五のいう「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とするのは正しいと思われる。徐福一行は仙薬を求めて伯州(鳥取県中西部)に結集した。三貴神は大山の裾野の小さな湾に上陸し、伊邪那岐が禊をしていた北栄町の原に到着し、北栄町の大島に移って伊邪那岐は三貴神に収めるべき国を命じ、天忍穂耳に葦原中津国を治めさせるように言依さした。徐福(天照大神)は蒜山(瀛州山)に上がった。
 須佐之男は中国出身であり、徐福一行のNO2であった。八岐大蛇は始皇帝の追っ手であり、さらなる追っ手から逃れるために、徐福(天照大神)と一緒に鳥取県東部に逃げていた。始皇帝は徐福たちが出港した年(紀元前210年)に亡くなったが、亡くなったことはしばらく伏せられていた。徐福と須佐之男は始皇帝が亡くなったことを知って、始めに命じられた高天原(蒜山高原)と海原(倉吉市中心市街地)に戻った。
 Ikko Kurosawa氏は「徐福一行は斉人であり殷王朝の末裔だ」とするが、徐福一行は列島の縄文文化を取り入れて線刻土器祭祀をしていた。準王一族は紀元前194年(徐福たちに送れること16年)に出雲に到着した。殷王朝の銅鐸による生贄祭祀をしていたのは、16年遅れて出雲国・伯耆国・因幡国に来た準王一族であった。因幡国では大国主の兄の八十神であった。
 天穂日の子とされているタケヒラドリは殷王朝末裔の準王であった。天穂日は準王(出雲族)を監視するために安来市の能義平野に派遣された。そして、天穂日は準王一族(出雲族)と婚姻関係を結んだ。しかし、準王一族(出雲族)は残虐な鬼(殷王朝と同じく人間の生贄をした)として全国に広がっていった。

 福知山大江町元伊勢「皇大神宮」(この大江山に鬼の酒呑童子伝説がある)
 日本の鬼の交流博物館に行って館長に聞いたら「酒呑童子伝説は平安時代ではなく聖徳太子の頃だと思う」と言った。私見ではもっと古く垂仁天皇の頃と思われる。この末社の建て方は出雲大社と同じであり藤原氏が八世紀以降に建てたものと思われる。
 出雲国には藤原忠平関白が制定した延喜式の式内社が187社もあった。しかし、隣国の伯耆国に式内社は僅かに6社しかなかった。これは鬼と言われるほど残虐であった出雲族と藤原氏は同族であったからである。
 
 

鳥取砂丘に次ぐ鳥取県中部の北条砂丘(笠沙之御前)に漂着したハングル文字のゴミ

2018-05-20 04:49:04 | 天照大神(徐福)
(1) 鳥取砂丘に次ぐ鳥取県中部の北条砂丘(笠沙之御前)に漂着したハングル文字のゴミです。
 
 プロパンガスボンベまで漂着していた。
(2) 朝鮮半島からのゴミが鳥取県や丹後半島に流れ着くということは、対馬海流とリマン海流の作用によって鳥取県や丹後半島あたりに漂着するからである。日本列島と朝鮮半島との地形を見ても鳥取県あたりで日本海が広がっていてリマン海流が南に押す作用が理由であると思われる。
 この現象は2千年前でも同じであったと思われる。動力が人力だけの古代においては、この対馬海流とリマン海流の流れは非常に重要であった。
(3) 徐福は紀元前219年に最初の航海に出ている。その時は一斉に海に乗り出した。その結果、散りじりとなり日本全国に徐福の船が漂着した。徐福は北九州より朝鮮半島に渡り始皇帝に奏上して再度挑戦した。初回から九年後のことである。
 初回は失敗したが徐福は対馬海流のことが解かり朝鮮半島の東側から出航することにした。二回目は良家の子女3千人を引き連れて、辰韓にたどり着き、しばらくそこに止まって、伯耆国に向けて次々と出航していった。徐福一行は伯耆国に結集し蒜山高原(瀛州)に上がり周辺の山々から仙薬、薬草、鉱物を採取し、山をセンと名付けた。

新羅(斯蘆国)は鉄の武器を作りに渡った稲飯命が建国した

2018-05-19 03:30:08 | 天照大神(徐福)

1  辰韓の地名由来
 辰韓の地名由来は、秦の苦役を避けて韓にやって来た昔の逃亡者がいたから辰(秦)韓という、とする(三国志魏書辰韓伝・晋書辰韓伝・後漢書辰韓伝)。
 彼らは2次の徐福一行である。始皇帝はこの時まで徐福を信じていたようである。徐福は後に「秦の苦役を避けて韓にやって来た」と言った。徐福はここに来るまで始皇帝に「不老長寿の仙薬を探して帰ってくる」と言っていた。それを「実は秦の苦役を避けて逃げてきたのだ」と言った。まるで因幡の白兎が和邇(船)を数え終えて海を渡り終える前に、「今までの話は嘘で海の向こうに渡りたかっただけだ」と言ったのと似ている。

2  新羅(斯蘆国)の建国伝説
 閼川の丘(慶州)の上に、6つのを率いる長たちが集まった。相談も済んで皆が立ち上がろうとしたとき、丘のはるか向こうの方に、一筋の光がたなびいている。行って見ると、井戸のそばで、白い馬が1頭、大きな卵をしきりに伏し拝んでいる。6人が近づくと、馬は天に向かってひと声高くいなないた。すると卵が割れて、なかから一人の男の子があらわれた。泉の水で産湯をつかわせると、赤子の体から神々しい光が輝いて目もまばゆいばかりである。王と仰ぐべきお方を、天が賜ったに違いない。徳のある君主を得たいというのが、6人の長たちのかねての願いであった。
 長たちの手でだいじに育てられ、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから、13歳を迎えたときに王位に立った。卵が瓠ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。漢の宣帝五鳳元年四月である(紀元前57年)。

3  徐那伐という国号と赫居世居西干
 新羅本紀では新羅の原国号は「徐那伐」だという。韓音では「ソナバル」と言う。神武天皇が、倭地方を称して「ソラミツ倭の国」と言ったときの「ソラミツ」と似ている。
 「赫居世居西干」は「カクコセ・コセカン」と音読みできるが、「赫」は「日」と同義の「明るさ」を表しているが、「居世」の解釈はアイヌ語の「クシ」とすべきだろう。「クシ」とは「向う」という意味である。「日に向う」だから日向である。「赫居世居西干」は「日向の王」という意味と思われる。稲飯命四兄弟が住んでいたのも父親の火火出見命(鵜草葺不合命)の宮であった日向の四王寺山(倉吉市大谷)である。

4  新羅(斯蘆国)の始祖は稲飯命(上里神社由緒には前に伯耆氏がつくから出身は伯耆国)である。
 半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなした。
 瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴(瓠)赫居世を同定する説がある。
 「新撰姓氏録」は、新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしている。
 稲飯命は紀元前70年に辰韓の地(慶州)に現れ、弟の神武天皇が初代天皇に即位した紀元前60年に「10歳を越える頃には人となりが優れていたことから」信用も得て、紀元前57年(3年後)に新羅王になった。卵生神話はのちの創作である。
 三国史記に新羅王の出自は「倭種」と書かれている。三国史記の異説を紹介することで知られる三国遺事であるが、新羅王の出自については否定も異説の紹介も書かれていない。新羅本紀に新羅王の出自を倭人と直接書かなかったのは、稲氷命(稲飯命)の始祖は倭国に渡った中国出身の徐福・天忍穂耳であり、倭国で生まれた瓊々杵命の孫にあたるのを知っていたからである。
  第8代の阿達羅尼師今の20年(173年)に卑弥呼が遣使した。
 慶州のことを、韓国では「新羅千年の都」という。始祖・赫居世が王位についた紀元前57年から、最後の王である第56代・敬順王が西暦935年に高麗の王建に下るまでの992年間、一度も慶州から都を移したことがないためである。このあたりは、都城を何度も変えている高句麗・百済とは異なる。

5 以下の鉄鏃は稲飯命が建国した新羅で造られ、倭国の神武天皇たちに送られ、九州で使われたと思われる。
※(2015-07-19)  鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。
 昨年7~8月に「土坑墓」から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。
 副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる。


朝鮮半島に三韓ができる前後の中国・朝鮮の歴史

2018-05-18 05:24:22 | 天照大神(徐福)

朝鮮半島に三韓ができるまでの中国・朝鮮の歴史

1   中国の春秋戦国時代に河北省、遼寧省、山東省辺りにあった燕や斉は秦国に滅ぼされ、難民が朝鮮半島に流れ込んだ。韓も紀元前230年に秦によって滅ぼされ、韓の難民は山東省から朝鮮半島南部に辰国を建国した。韓族は当初、馬韓を支配し、辰韓を秦の始皇帝の労役を嫌った秦人に譲ったが辰韓の支配権は馬韓が握っていた。馬韓は山東半島にいた韓族だったので、長江文明の流れを汲む中国の南方系の民族であったし、辰韓と弁韓は鉄器製造技術を持った秦語(陝西方言)を使う中国の北方系の民族であった。鉄鉱山もある山東半島や北京以南から遼東半島に掛けて、いろいろな異民族が集まっていた。
※私見
 青銅器文化も、中国の山東半島や遼東半島にいた部族からきたと思われる。それは燕や斉の難民であった。馬韓は衛氏朝鮮によって滅ぼされた箕子朝鮮の残党によって、その支配権を奪われた。青銅器文化が日本に渡ってきたのは紀元前194年頃である。

2  高句麗 
 高句麗は紀元前3世紀頃から朝鮮半島の北部に建国していた。三国志魏書・高句麗伝には「高句麗は遼東の東千里に在り、南に朝鮮、ワイ貊、東に沃沮、北に扶余と接する。丸都の麓に都を置く、方形は二千里、戸数は三万。多くの大山や深い渓谷があり、原野や沢はない。山や谷に住居を置き、谷川の水を飲む。良田はない、農作業に努めているのだが、腹を満たすには至らない。その風俗は節食、宮廷は善政を行ない、王宮の左右に大きな建物を立て、鬼神を祭り、霊星や社稷(大地の神と五穀の神)も祀る。その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする。東夷の古い話では夫餘の別種だとするが、言語、諸事ともに多くが夫餘と同じだ」とする。「梁書」高句麗伝に「十九年(245年)春三月、東海の人が美女を献じた。王はこれを後宮に納めた。冬十月、軍を出して新羅の北辺を侵略した」という記述がある。
※私見
 不思議な記述だが、ここに登場する東海人とは、「日本海に面した国の人」という意味である。日本海に面した国とは新羅か対岸の伯耆国と思われる。公孫氏(189年~238年)がいなくなっても、高句麗が略奪を繰り返していた。倭国は陸路を確保するために高句麗にも貢物を献上していたようである。

3  百済
 百済は高句麗より出ず。藤原氏のルーツは高句麗にある。百済の建国神話は、高句麗と同様、扶余の東明神話のバリエーションとなっている。
(1)遼西経略説  百済は建国の当初、高句麗が遼東半島を征服した後、遼西地方に進出して百済郡を設置した。「宋書」「梁書」
(2)高句麗同祖説  百済は始め高句麗とともに遼東の東千里の地にあった。「宋書」「梁書」「南史」
(3)始祖仇台説  仇台という者が、かつての帯方だった地に百済を建国した。「後漢書」「周書」「魏書」「隋書」
※私見
 「梁書」には言語や服装などが高句麗とおおよそ同じであるとしている。これらを見ると高句麗と百済は兄弟国であったことが解かる。高句麗と百済は「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」ので新羅を襲ったり、百済は任那(全羅南道)を何度も侵している。百済は最終的には倭国を乗っ取った。

4 古事記序文に「そこで天武天皇は『私の聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。そうだとすると、ただ今この時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年も経たないうちに、その正しい趣旨は失われてしまうに違いない・・・』」とある。
 諸家とはだれのことか。藤原氏は亡命百済人(扶余族)である。扶余族は「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」とする(三国志魏書・高句麗伝)。扶余族は略奪に喜びを感じる一族である。人・物だけでなくなんでも略奪する。名前・系譜・歴史も略奪する。642年に倭国に来た百済人の翹岐は中臣鎌足と名乗った。中臣の名前と系譜を略奪した。難波を南場に変えさせて難波姓を名乗り、安倍を阿部に変えさせて安倍姓を名乗った。古事記
日本書紀の系譜も出鱈目である。倭国の歴史を略奪したのも藤原氏(扶余族)であった。帝紀および本辞を略奪したのも亡命百済人の扶余族(藤原氏)である。