「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

八幡神社は藤原氏の神社である

2018-05-17 05:28:22 | 藤原氏
八幡神社は藤原氏の神社である。

1 八幡宮は、八幡神を祭神とする神社。全国に約4万4千社あり、大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社とする。
 和銅元年(708)に鷹居社を造立し八幡神として祀ったのが八幡信仰の始まりといわれている。そして霊亀2年(716)には小山田社に遷座、さらに神亀2年(725)には、小倉山の丘陵(現在の亀山)にさらに遷座した。
 八幡神社の祭神は応神天皇、比売神(宗像三女神)、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇、武内宿禰とともに祀っている神社もある。
2 私見
 八幡神社の始まりが当時最大権力を持っていた藤原不比等の時代であることと、新羅を攻撃して勝った神功皇后を立派だとして祭神としていることと、応神天皇(私見では在位354年~394年)の時代に百済は倭国に始めて朝貢しているので応神天皇は特別な天皇であったことから、八幡神社は倭国を乗っ取った百済出身の藤原氏によって創建され広められたものと思われる。
 現在では全国の神社(8万5千社ほど)の半数以上を占める。八幡神社でない神社(文部科学省の資料によると4万社くらい)よりも多い。八幡神社は日本各地の神社などに残るヤマト王権(紀元前60年~734年)の歴史・伝承を作り替え、あるいは消すために造られた神社と思われる。日本の本当の古代史や八幡神社の機能を知った徳川光圀は八幡つぶしをしている。徳川光圀の編纂した歴史書を読んだ京都の藤原氏は元禄時代に西日本のあちこちで徳川光圀に指摘されたところの辻褄合わせ(整合)をしている。伯耆国の大原神社もその一つである。元禄時代までは波波伎神社と称していたと由緒に残っている。八岐大蛇の伝承も残っていたものと思われる。台与(豊鋤入姫命)の伝承も神功皇后の伝承に置換えていった。それを完成させるためには、多くの八幡神社が必要であった。
 伯耆国には八幡と名のつく神社は少ない(鳥取県神社誌による)。鳥取県中部に限っては、藤原氏にとって本当に消さなければならない場所の近くに八幡神社を建立している。
 瓊々杵命の居た大宮神社の近くに高尾八幡宮。天忍穂耳のいた三輪山と大国主のいた茶臼山との間に北条八幡神社(周辺に大国主・大物主の本拠地と7天皇の皇居があった)。素戔嗚と須勢理姫(宇迦之御魂命)のいた倉吉の清熊稲荷神社の近くに八幡神社。あと一社が旧東郷町の小鹿谷桂男山八幡宮(秀尾神社だが祭神は八幡神)である。
 
3 高尾八幡宮
 
鎮座地 東伯郡栄村大字西高尾字八幡山 
現在 鳥取県東伯郡北栄町西高尾340番    
祭神 誉田別尊、帯中津彦命、気長足姫命、武内宿禰命、大已貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真
由緒 本社は陽成天皇元慶年中の創建にして石清水宮別宮種八幡宮として奉祭せられ、佐藤某なる者の献金によりて奉建せるものなり。爾来武門武将の崇敬甚だ厚く社領も亦多かりしか、平家追討の頃守護武士等社納米を抑留せる事ありしを、元歴二年源頼朝の令によりて是を停止せられ、事後一般の崇敬特に厚く、殷盛なる神社なりしが、群雄割拠の世に至り兵燹に罹り一時祭事微弱に陥りたるの時、本国の領主尼子晴久之を慨して社領を奉献して面目を革めたり。後尼子氏の滅亡とともに社領絶せり。下りて徳川氏天下一統の後も累代国主の祈願所として奉祭せられたり。
大正四年四月二十一日 
(1)大宮神社 東伯郡栄村大字上種字宮惣   
祭神 大己貴命、別雷命、素盞鳴命、瓊々杵命、菅原道真
(2)東高尾神社 東伯郡栄村大字東高尾字堂山  
祭神 素盞鳴命
を合併す。
 当社に古き経筒を蔵す、理学博士坪井正五郎、文学博士三宅米吉の鑑定によれば、藤原時代の献納物ならんと。尚当社か石清水八幡宮別宮なりし事、元歴二年正月十九日右大将頼朝の社領安堵の下文(石清水所蔵古文書)にあり。
※ 私見
 陽成天皇元慶年中の創建とは880年頃に創建されたことになる。
天孫降臨に際して、瓊々杵命は打吹山周辺をさけて山沿いを移動している。関金の北の鴨河内あたりが倉吉中心部にいた大物との境界であったようだ。瓊々杵命は関金ー志津ー福本ー上米積ー上福田ー下種と移動している。
 クシフルタケ(亀谷丘陵)の海側には木花佐久耶姫を祭る亀谷神社がある。葦原中津国を天児屋根(穂波神社)と挟んだ位置関係になっており、葦原中津国を平定した状態を確認できる。

4 北条八幡神社
鎮座地 東伯郡下北条村大字北尾字八幡山
現在地 鳥取県東伯郡北栄町北尾365
祭神 誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、大山祇尊、猿田彦神、素戔鳴尊、大己貴尊、少彦名尊、国常立尊、綿津見神、奥津彦神、奥津姫神、菅相烝、土御祖命、倉稲魂神、天児屋根尊、山神
由緒 当社は清和天皇貞観七年八月筑紫宇佐八幡宮の御分霊を奉祀して産土神とし尊崇するものにして郡内屈指の大社なり。
大正2年12月28日 
(1)苅山神社 東伯郡下北条村大字曲字苅山   
祭神 綿津見神
(2)岡神社 東伯郡下北条村大字曲字岡   
祭神 素盞鳴尊
(3)嶌沢神社 東伯郡下北条村大字米里字三ノ崎  
祭神 素戔鳴尊・大山祇尊
(4)田村神社 東伯郡下北条村大字島字田村  
祭神 猿田彦尊
(5)田井神社 東伯郡下北条村大字弓原字妙見  
祭神 国常立尊
(6)下神神社 東伯郡下北条村大字下神字南宮脇  
祭神 菅相烝
(7)三輪神社 東伯郡下北条村大字土下字野本  
祭神 大己貴尊・少彦名尊・猿田彦神・倉稲魂神・天児屋根尊
(8)弓原神社 東伯郡下北条村大字弓原字飯田  
祭神 奥津彦神・奥津姫神・菅相烝・土御祖命
の八神社を合祀する。
 (7)の三輪神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。
一、地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ。大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。
二、往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓字三輪脇に在りしが、宝暦三年の火災により野本山に移転せり。
三、鎮座地 土下(ハシタ)は往古土師部の此の地に移住せしより地名とす。土下山の頂には今尚数百の古墳散在し古器物を発見す。
※ 私見
 鳥取県東伯郡下北条村では大正2年に8つの神社を北条八幡神社に合併している。北条八幡神社(古くは山田八幡宮)は天忍穂耳のいた三輪山(神山)と大国主のいた茶臼山(大神山、宇迦能山、伊那佐山)との間にある。周辺には天皇の皇居の比定地が多くある。
 現在の国坂の茶臼山は大神山(オオミワヤマ)といい下神の三輪山も神山(ミワヤマ)と言っていたはずである。宝暦三年(1753年)の火災とあるが、大日本史の改ざん中であり、徳川光圀が矛盾を指摘していたので邪魔になり、藤原氏が放火したものと思われる。焚書・放火の好きな藤原氏である。「土師部の此の地に移住せしより土下の地名とす」とあるが、苦しい説明であり、納得できるものではない。土下は神武天皇の家来が土を下したところだから地名とされた。
 伯耆民談記には「山田家に古き伝記を所持せり。その文に『承平5年(935年)伯州山田別当下向八幡大菩薩奉還。当所号開発願主この子孫により山田を以て氏とす云々』。山田家承平の頃より天正年中まで連綿として続きたり(在承平5年(935年)~天正11年(1583年))」とある。
 創建は866年である。935年は統一新羅滅亡の年。山田氏は京都よりこの地に来たりて八幡大菩薩を奉還した。山田氏は京都から下向し六百年余りこの地を支配した。

5 倉吉の八幡神社
鎮座地 東伯郡倉吉町大字余戸谷町字四十二丸
現在地 鳥取県倉吉市八幡町3626-3
祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、素盞鳴尊、宇迦之魂命、武内宿禰命
由緒 創立年代不詳、文明十八年(1486)因幡守護山名豊明社殿を造営す。旧と八幡宮と称し倉吉町の西部及び小鴨村大字生田の産土神たり。
明治元年九月生田神社と改称、その後村社に列す。
大正二年九月
(1)谷田神社 倉吉町大字余戸谷字四十二丸
祭神 須佐之男命、宇迦之魂命
を合併す。
※ 私見
 倉吉市生田にあった久米八幡を明治時代こちらに遷した。
 伯耆国風土記残欠に、「伯耆とはもと母来といい、稲田姫が母来ませと叫んだからだ」と記されている。三朝町の坂本神社には稲田姫の両親が祭られ、三朝町大瀬には大瀬ほうきという地名(稲田姫はここで母来ませと叫んだ)があり、下っていくと大原神社(もと波波伎神社)がある。八岐大蛇伝説は三朝町山田(ヤマタ)が舞台であった。その後、素戔嗚と稲田姫は伊邪那岐命の後を追って、鳥取県八頭郡に行っていた。その後、素戔嗚は須勢理姫(宇迦之御魂命)と共に根国(倉吉市中心市街地)の清熊稲荷神社に戻った。明治維新の頃まで、清熊稲荷神社に大国主の根国での冒険の伝承が残っていたものと思われる。この丘陵全体の住所が倉吉町大字余戸谷字四十二丸であった。清熊稲荷神社はその中心部にある。
 素戔嗚と須勢理姫(宇迦之御魂命)が倉吉市の清熊稲荷神社にいたのを大日本史で徳川光圀は指摘していたはずである。藤原氏は明治時代になって八幡神社を造り根国での冒険の伝承を消した。
 また、饒速日一行の大勢は関金町の日吉神社より船で哮峰(八幡神社の峰)に降臨した。天忍穂耳・猿田彦・饒速日・天香語山・豊受姫ほか大勢はこの哮峰(八幡神社の峰)で素戔嗚に会った。素戔嗚は饒速日に十種の神宝を授け、天忍穂耳・猿田彦に大国主に協力してくれるように頼んだ。豊受姫は天香語山の子育てをしていた。4伴緒は長瀬高浜に行った。

6 東郷神社(湯梨浜町小鹿谷の小鹿谷桂男山八幡宮)
鎮座地 東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾
現在地 鳥取県東伯郡湯梨浜町小鹿谷768
祭神 國常立命、伊邪那岐命、素戔嗚命、速玉男命、事解男命、底筒男命、中筒男命、上筒男命、市杵島比賣命、大穴牟遅命、大山咋命、猿田彦命、誉田別命、足仲彦命、気長足姫命、大山祇命
由緒
(1) 引地神社 東伯郡東郷村大字引地字宮ノ峯
祭神 市杵島比賣命
(2) 森山神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字森山
祭神 素戔嗚
(3) 松上神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字杉ノ子
祭神 国常立命
(4) 秀尾神社 東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾
祭神 誉田別命・足仲彦命・気長足姫命
(5) 新宮神社 東伯郡東郷村大字川上字鍛冶屋谷
祭神 速玉男命・事解男命・伊邪那岐命・大山祇命
(6) 麻畑神社 東伯郡東郷村大字川上字奥山ノ神
祭神 素戔嗚命・大山祇
(7) 山邊神社 東伯郡東郷村大字国信字宮ノ前
祭神 伊邪那岐命
(8) 別所神社 東伯郡東郷村大字別所字宮坂
祭神 上筒男命・中筒男命・底筒男命
(9) 高辻神社 東伯郡東郷村大字高辻字屋敷
祭神 大山咋命・大山祇命・大穴牟遅命
(10) 松尾神社 東伯郡東郷村大字方面字屋敷
祭神 大山咋命
(11) 久見神社 東伯郡東郷村大字久見字梵天谷頭
祭神 猿田彦命
(12) 谷口神社 東伯郡東郷村大字中興寺字屋敷
祭神 素戔嗚
(13) 和田神社 東伯郡東郷村大字田畑字和田
祭神 素戔嗚
を大正2年4月合併す。
※ 私見
 鳥取県東伯郡の旧東郷町では大正時代に実に12もの神社を東郷神社に合併している。4の秀尾神社は小鹿谷秀尾にあり東郷神社と同じである。秀尾神社の祭神は誉田別命・足仲彦命・気長足姫命であるので八幡神社であった。小鹿谷桂男山八幡宮(伯耆民談記)と呼ばれていた。秀尾の八幡神社に12の神社を合併して名前は東郷神社とした。なぜ東伯郡東郷村大字小鹿谷字秀尾に八幡神社を造ったのか。近くに隠さなければならない重要なものがあったものと思われる。その中には、本田善光が仏像を引き上げた引地の引地神社や垂仁天皇の皇居があったと思われる川上集落の2神社も含まれている。12の神社にはそれぞれ立派な由緒があったはずである。12神社が合併され、消されてているのだから東郷池周辺のヒントが見つからないわけである。川上字鍛冶屋谷で刀を作ったものと思われる。南の波関峠から片柴集落(忍坂邑)に至る坂が忍坂に比定できる(当時川上宮から坂を越えて石上神宮に至るにはこのルートしかない)ので、東郷地域は重要な地域である。東郷神社のある小鹿谷にも天皇の皇居があったはずである。他にも調べれば史実がもっと現れるものと思われる。
 

藤原氏の明治政府で始まった大日本帝国軍隊の歴史

2018-05-16 02:53:02 | 藤原氏

1  ウィキペディアより
☆ 明治元年(1868年)
☆ 日清戦争(1894年)
☆ 日露戦争(1904年)
☆ 日韓併合(1910年)
☆ シベリア出兵(1918年)
 連合国の1国であるロシアで「ロシア革命」が勃発すると、西部戦線で手一杯になっておりロシアへの出兵の余裕がないイギリスとフランスの依頼により、陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対してシベリア出兵が打診され、1918年にはアメリカと共同歩調を取ってシベリア出兵を実施した。なお、イギリスやフランス、イタリアなども出兵したが、その規模は日本に比べ小さいものであった。
☆ 第一次世界大戦後
 連合国の勝利に大きく貢献したこれらの功績により、大日本帝国は連合国五大国の一国としてパリ講和会議(1919年)に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの山東省権益と、パラオやマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島を委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟の常任理事国となった。
 しかし、他国が兵を戻す中でもシベリア出兵を継続したことで各国の猜疑を招き、国際的立場が厳しいものとなっていった。1920年の停戦命令に従わずにシベリヤに居続けたため、日本がロシアや中国においてアメリカの利権を侵すのではないかという疑いを持たれた。
☆ 満州国建国(1932年)


2  私見
 第一次世界大戦後、日本は国際貢献を果たした国として国際連盟の常任理事国となった。何か今の政府トップの目指す戦後70年の日本のあり方と似ているような。
 停戦後もシベリアに居続けたことから世界に疑われるようになったのであるが、今日、モルディブに海賊のために派兵されている自衛隊の幹部が、ほかの名目で居続けるようにしたほうが良いといったそうである。目的が終われば引き上げるべきである。侵略とみられる。


大日本史と神祇志について

2018-05-15 05:50:34 | 藤原氏

1 大日本史と神祇志について(ウィキペディアなどによる)
(1) 大日本史は1657年(明暦3年)に編纂作業が開始され、編纂が終結するのが1906年(明治39年)と、実に250年もの長きに渡り続いた。
 まず「旧紀伝」と称されるものが完成する(1680)。天和二年(1682)に史臣の山県源七(元纜)が上京した機会に、公家の 土御門泰福 という人に、水戸からこういう書物を編修して差し上げるのは如何なものでしょうか、是非陛下にうかがって頂きたいと、光圀の意向を伝えた。霊元天皇は大変喜ばれ、是非献上せよ、とのお言葉があった。ところが、これを全面的に書き直すようにという命令が出る。そこで今まで編纂した「紀伝」は廃棄されることになり、新たに「新紀伝」の編纂が始まる(1683)。
(2) 徳川光圀の隠居(1690年)後 
元禄6年(1693年)から数年間、水戸藩領内において、八幡改めまたは八幡潰しと呼ばれる神社整理を行う。
元禄7年(1694年)11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を刺殺した。
元禄13年12月6日(1701年1月14日)に食道癌のため死去した。享年73(満71歳没)。
徳川光圀の正室である近衛信尋の娘・尋子(泰姫)は結婚5年後に21才で病死している(1658年)。
(3) 光圀が史員に命じた歴史叙述の方法は、「正確に事実を究明して記述すれば、そのことの意味はおのずから明白となり、その事実を明らかにするために必要な事項は繁雑をいとわずこれを記載せよ。そのように厳正に記録された事実は「善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべし、而して乱賊の徒をして懼るる所を知らしめることになるであろう」という。
 歴史編纂事業は進められて行くが、明治維新の時に出来上がったのは「紀伝」だけである。
 「志(神祇志など)」・「表」を含む大日本史編纂事業が終結するのは1906年(明治39年)である。
 神祇志は神祇官や出雲大社や伊勢神宮について書いている。
 神祇官は7世紀以来の律令体制下で、太政官と並ぶ中央最高官庁。朝廷の祭祀をつかさどり、諸国の官社を総轄した。明治4年(1871)神祇省と改称。現在の神社本庁はその流れにある。

2 私見
(1) 1581年(天正9年)、羽柴秀吉は鳥取城を兵糧攻めで落城させ、因幡国の鹿野・私部・若桜・岩常・雨滝などは秀吉方の城となっていた。因幡の神社の多くは秀吉の焼き討ちにあっている。鳥取城の落城後、毛利方は吉川元春が馬ノ山砦に、織田方は羽柴秀吉が御冠山の陣に布陣し対峙した。毛利方は6千騎、対する織田方は6万騎と約10倍以上の兵力差があったが、羽柴秀吉は吉川元春と直接刃を交えることなく播州へと撤兵している。それは、鳥取県中部に倭国の都があったことを知っていた藤原氏の指示と思われる。羽柴秀吉は、後に近衛の養子になり藤原の姓を名のる。この事実を徳川家康は知っていた。徳川幕府は明治維新まで鳥取県中部を優遇していた。
(2) 元禄時代に主に西日本の各地で歴史の辻褄合わせ(整合)をしているが、徳川光圀の「旧紀伝」を見た藤原朝廷は光圀が指摘した矛盾をなくすために各地で歴史の辻褄合わせ(整合)をしている。徳川光圀は奈良時代に藤原氏が倭国を乗っ取ったことを知っていた。隠居後の八幡潰しや藤井紋太夫の刺殺がそれを示している。藤原氏は時間をかけて大日本史の改ざんをしていった。古事記・日本書紀の改ざんと同じである。序文に徳川光圀の信念を残しているのも、内容の信憑性を増すためである。古事記序文に天武天皇の編纂理由を残しているのと同じ効果を狙っている。
 元禄時代に藤原氏は倉吉市大原の波波伎神社を八岐大蛇伝説と切り離すため大原神社とし、事代主のいた福庭の神社を波波伎神社とした。また岡山県の石上布都魂神社の宮司の名前を物部にし、スサノオが十握剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃と思われる。茶臼山の松樹庵にいた世出開了行者◯◯信女が亡くなったのと、北栄町下神の三輪神社が火災により焼失したのがどちらも1700年代であり、これも歴史の辻褄合わせ(整合性)のためにされた。藤原氏が仕掛け人と思われる。
 明治9年に鳥取県は島根県に併合される。理由は「鳥取県民がうるさかったから」とする。鳥取県神社誌を見れば鳥取県民が明治政府(藤原氏)に文句を言った理由がわかる。


明治初期の太政官制について

2018-05-14 03:49:43 | 藤原氏


1  ウィキペディアより
 政体書に基づいて1868年6月17日、日本の新しい体制が発足した。国家権力全体を支配する組織を太政官と称して律令制を導入した時よりあった。太政官は中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の八省を統括する最高機関である。
 1869年8月15日(明治2年7月8日)に、新しい太政官制が導入された。太政官の下には民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省が設置されるという二官六省制が採られた。また、三権がいずれも太政官の下に置かれた。太政官には左右両大臣と3名の大納言、3名の参議からなる「三職」が置かれて指揮をとった。
☆左大臣
 近衛忠房 (藤原五摂家)1867年10月24日 ~1867年12月25日
 九条道孝(藤原五摂家) 1867年12月25日~1869年7月13日
☆右大臣
 大炊御門家信(藤原北家師実流) 1867年12月25日~1868年7月13日
 三条実美(藤原北家閑院流の嫡流) 1868年7月13日~1869年8月15日
☆内大臣
 近衛忠房 (藤原五摂家)1864年1月31日~1867年10月24日
 大炊御門家信(藤原北家師実流) 1867年10月24日~1867年12月25日 
 広幡忠礼(藤原正親町天皇源氏嫡流)1867年12月25日~1869年8月15日
☆大納言 1869年7月~1871年7月
 岩倉具視(藤原村上天皇源氏久我家)
 徳大寺実則 (藤原東山天皇の流れ)
☆参議 1869年7月~明治18年
 西郷隆盛(藤原氏の子孫を自称)
 大久保利通(藤原氏末流を自称)
 大隈重信(菅原道真の血筋)
 前原一誠(長州藩士)
 木戸孝允(長州藩士)
 板垣退助(土佐藩士)


2  私見
 左大臣、右大臣に分ける制度(百済の制度)は天智(豊璋)が始めた。天武天皇は倭国天皇であったから両大臣制はなかった。持統と不比等は百済人であったから、両大臣制(百済の制度)をとっている。
 明治初期の左大臣、右大臣、内大臣、大納言までは藤原氏の正当血脈の華族が就いている。西郷隆盛と大久保利通は藤原氏の子孫であることを自称している。自称したくなるほど藤原氏の権勢が強かったと思われる。二人とも嘘をついたとして藤原氏に殺された。


百済精神を理解できない伯耆国

2018-05-13 05:00:00 | 藤原氏


  秀吉は1585年に近衛前久の養子となって藤原姓となり、関白となった。藤原氏は、養子・秀吉に戦争するようにそそのかした。朝鮮出兵(文禄の役)はその7年後の1592年である。中国、朝鮮を支配し、天皇を中国・朝鮮・日本共通の皇帝にしようという思想は、藤原氏が元々持っていた思想である。第二次世界戦中の、大東亜共栄圏建設の思想でもあった。このときの仕掛け人は近衛(藤原氏)文麿である。
 高江神社の由緒
 朝鮮の役で伯耆国領主の南條氏はその君臣を一人も従軍させなかった。豊臣太閤はこれを責めその封を減じた。また伯耆西三郡を割きて吉川に與へ、東三郡のみを南條領として存置した。
 伯耆国は新羅と兄弟国であり京都にいる藤原氏の百済精神が理解できなかった。
 ちなみに、高江神社は天正時代以前は境内神社子安神社(祭神 木花開耶比売命)が由良郷の総産土神であった。祭典の時には天正時代にできた神輿やだんじりではなく、神社総代たちは少女たちの曳く子安さんの後をついて歩く。ここに、有名な木花開耶比売命の産屋があった。「由良」とは木花開耶比売命が付けた地名だそうである。男性には「ゆら」の発音は難しいが、女性は「ゆら」の発音は自然に出てくるという。


倉吉市の法華寺畑遺跡は処刑場であった

2018-05-12 03:46:50 | 藤原氏
 法華寺畑遺跡は発掘された建物の規模と配置からすれば国分尼寺ではなく国庁に関連した役所です。全国に類例がなく何のための役所だったかは判らない。 (公式)
 「祭祀の場だったかも知れない。空間が広くとってあるのも儀式を行うためか。」という説もある。
※ 私見
 処刑場であった。
 伯耆国は他の国と違い、天照大神から34代倭国大王までの血筋の者も多くいた。藤原朝廷は鳥取県中部にあった葛城・軽・磯城(師木)・泊瀬(長谷)・宇陀・磐余邑・河内・難波・出雲大社・伊勢神宮・石上神宮・三輪神社などを宮崎県・島根県・奈良県・大阪府南部・和歌山県にテーマパークとして移したから、天照大神から34代倭国大王までの血筋の者が伯耆国にいては嘘になってしまう。そのような血筋は伯耆国にあってはならないので、家系抹消をするために特別に処刑場を造る必要があった。
  南の四棟に血脈狩りで見つけ出されたすべての男子を収容し、順番に処刑していった。理由は藤原氏得意のでっち上げである。だから、怨まれる、祟られる。また伝承を伝える者や神主や伯耆の風土記を書いた者や初期天皇がいたことの証人も殺していった。
 この建物は十世紀まで存在したそうである。すべてを消し去るのに二百年かかったことになる。藤原道長が望月の欠けることなしと言ったのもこの頃である。
 北東隅に銘のない墓石がたくさんある。祟られないように、国分寺で拝んだのだろう。この墓場の前に両墓制についての案内板があるが、誰の墓石か特定できないので、両墓制というようなものではない。
 これは法華寺畑遺跡の内側にあり発掘中骨が出てきたので新しい御影石で墓石(銘はない)を造った。
 逆さ戒名で有名な倉吉市関金町の地蔵院でも処刑が行われていた。731年頃に行基が創建したので首切りや残酷の好きな藤原氏の創建とわかる。憎しみを込めて逆さ戒名にした。

古事記・日本書紀について 2

2018-05-10 05:24:06 | 藤原氏

1 古事記序文に「そこで天武天皇は『私の聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。そうだとすると、ただ今この時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年も経たないうちに、その正しい趣旨は失われてしまう・・・』」とある。
 諸家とはだれのことか。藤原氏は亡命百済人(扶余族)である。扶余族は「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」(三国志魏書・高句麗伝)。扶余族は強奪に喜びを感じる一族である。人・物・金品だけでなくなんでも強奪する。名前・系譜・歴史・地名も強奪する。642年に倭国に来た百済人の翹岐は中臣鎌足と名乗った。中臣の名前と系譜を強奪した。橘を立花に変えさせて橘姓を名乗り、難波を南場に変えさせて難波姓を名乗り、安倍を阿部に変えさせて安倍姓を名乗った。古事記・日本書紀の系譜も出鱈目である。天武天皇のいう「帝紀と本辞」を強奪したのは亡命百済人の藤原氏(扶余族)である。倭国の歴史を強奪したのも藤原氏(扶余族)であった。そして出来上がったのが古事記・日本書紀である。

2 日本書紀・推古天皇・新羅征討の再開で田中臣が言う。「そうではない。百済は度々豹変する国である。道路の区間さえも偽りがある。およそその言うところは皆信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」とある。新羅王は「任那は小さい国でありますが、天皇につき従い仕える国であります。どうして新羅の国が気ままに奪ったりしましょうか。今まで通りの天皇の内官家と定め、心配なさいませぬように」といった。ここに書いてあることはほぼ改ざんがないと思われる。日本書紀はその百済人が制作した。

3 古事記・素戔嗚命・八雲立つの条に「素戔嗚命と稲田姫との間に生まれた八島士奴美神が刺国若比売を妻として生ませた御子が大国主神である」とする。しかし、根国での冒険の条で、大国主命は素戔嗚命の娘の須勢理毘売をさらって逃げているので素戔嗚命の孫ではない。先代旧事本記には「八島士奴美神又の名を大国主」とある。また、八橋の地名由来でも「素戔嗚命の孫である高姫」とある。高姫は大国主命の娘である。素戔嗚は大国主と血のつながった父子であると解される。したがって、「櫛稲田姫との間に生まれた八島士奴美神が刺国若比売を妻として生ませた御子が大国主神である」は改ざんされている。大国主は素戔嗚と稲田姫との間に出来た子であった。系譜の強奪の一例である。

4 日本書紀は系譜を倭国歴史書原本とは変えて書いている。たとえば、日本書紀では倭建命を景行天皇の皇子としているが、倭建命は孝霊天皇の皇子であった。西国遠征で鳥取県北栄町島に帰ってくるまでは皇太子であったが、孝元天皇が青銅器文化の一族に襲われ亡くなったので、東国遠征のときには卑弥呼の推薦により開化天皇になった。倭建命の名は、肥前国風土記では「日本武尊」、常陸国風土記には「倭武天皇」とある。尾張国氷上姉子神社元社の宮簀媛命宅跡の石碑には「倭武天皇皇妃」とある。
 景行天皇の「冬十月、碩田国に着かれた~」よりは大分県ではなく、鳥取県の因幡国が舞台である。主語の天皇は孝霊天皇である。孝霊天皇は皇居を去ってから、但馬に疎開していたが10年後、但馬より因幡・伯耆を通って青銅器文化の一族を平定した。因幡誌では「日本書紀の稲葉川というのは鳥取の因幡川のことである」とする。藤原氏は「稲葉」を「因幡」に変えさせている。
 出雲国(伯耆国にいた素戔嗚の歌より)・日向国(伯耆国にあった地名)・筑紫国(伯耆国にあった地名)・伊勢国(伯耆国にあった地名)・紀伊国(因幡国にあった木国より)などの国名は藤原氏の「好字二字化令(713年)」によって定められた。これは地名の強奪である。

5 古事記・神功皇后・新羅を伐つ・で神功皇后が新羅を伐ってから言った。「新羅の国を馬飼である御馬甘と定めた」とある。また「日本書紀・神功皇后・新羅出兵」にも「今後は末永く服従して、馬飼となりましょう」とある。新羅の古墳から馬具が発掘されている。新羅は馬と深く関係する。倉吉市馬場町で馬を飼っていた阿直岐(日本書紀)の出身国は百済国ではなく新羅国であった。新羅の歴史を百済が強奪した一例である。

6 天武天皇の時代も伊勢神宮は鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮であった。
 「日本書紀・天武天皇・即位」2年に「大来皇女を伊勢神宮の斎王にされるために、まず泊瀬の斎宮にお住まわせになった」とある。この時にはまだ伊勢国には伊勢神宮はなかった。あったのは志摩国に卑弥呼の造った伊雜宮と卑弥呼の終の棲家の伊射波神社と聖徳太子の造った千田寺であった。魏志倭人伝に「シマ」国はある。
 734年まで伊勢神宮は鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮であった。伊勢国の伊勢神宮はまだできていなかった。
 奈良時代に土佐の国から池田王が藤原氏から逃れて、伊勢野の皇大神宮に助けを求めて来て、神官になって助かったという記述がある(方見神社由緒より)。天武天皇が鳥取県中部の出身だということを知っていたから伊勢野の天照皇大神宮を頼ってきた。その後池田王は琴浦町逢束(王塚)で亡くなったという伝承がある。奈良時代すでに鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮は全国に知られていた。天武天皇の大来皇女が斎王となった伊勢神宮とは鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮であった。
 天武天皇の在位中に伯耆国に大御堂廃寺と斉尾廃寺と上淀廃寺と大寺廃寺を建立している。琴浦町の斉尾廃寺は伽藍配置が法隆寺と同じであり、蘇我氏の本宗家が近く(4km東方の北栄町由良)にあったことをうかがわせる。

 
 上淀白鳳の丘 展示館にて


古事記・日本書紀について

2018-05-09 05:40:15 | 藤原氏
1 古事記序文に「そこで天武天皇は『私の聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。そうだとすると、ただ今この時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年も経たないうちに、その正しい趣旨は失われてしまう・・・』」とある。
 諸家とはだれのことか。藤原氏は亡命百済人(扶余族)である。扶余族は「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」(三国志魏書・高句麗伝)。扶余族は強奪に喜びを感じる一族である。人・物・金品だけでなくなんでも強奪する。名前・系譜・歴史・地名も強奪する。642年に倭国に来た百済人の翹岐は中臣鎌足と名乗った。中臣の名前と系譜を強奪した。橘を立花に変えさせて橘姓を名乗り、難波を南場に変えさせて難波姓を名乗り、安倍を阿部に変えさせて安倍姓を名乗った。古事記・日本書紀の系譜も出鱈目である。天武天皇のいう「帝紀と本辞」を強奪したのは亡命百済人の藤原氏(扶余族)である。倭国の歴史を強奪したのも藤原氏(扶余族)であった。そして出来上がったのが古事記・日本書紀である。
 
2 唐曾要(旧唐書)には倭国と日本(百済王朝)は別に書かれている。唐の時代(660年~734年)列島は二朝が並立していた。
 倭は「古の倭奴国なり。新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏」とある。さらに「日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て、名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。」とある。
 初めて「日本国からの使者」を名乗った人物は、中国から疑われた。「倭国の別種」とは、「倭国にあるが倭人の国ではない」という意味である。
 ついで「新唐書」の日本国伝にも、「咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。」とある。
 日本という国号は近江に逃げていた天智(豊璋)が669年に立案しているので、亡命百済王朝による遣唐使は673年までの間に行われている。
 徐福は中国皇帝を表面上は立てていたから、その子孫の歴代大王も中国皇帝に朝貢していた。中国は日本国からの使者に対し、数百年の間朝貢してきた倭国王との連続性に疑問を抱いた。「日本国と名乗り倭国と連続していない」と思ったらしいことが旧唐書倭国日本伝に現われている。日本国の使者は亡命百済人が倭国を乗っ取って日本国と名乗ったのだとは言わなかった。しかし、態度が横柄であったため、中国皇帝の理解を得ることはできなかった。どういう態度だったかは公家(藤原氏)によって派遣された横浜鎖港談判使節団(1864年)の池田長発の写真を見ればわかる。
 日本(百済)は中国から連続性を疑われていたので始祖から連続した天皇家(万世一系の皇統)の歴史書を作る必要性を生じ、ちょうど712年に天武天皇が編纂を命じた倭国歴史書原本が献上されたので、不比等はこれを利用しようと考えた。そして出来上がったのが日本書紀である。

3 蘇我馬子大王と聖徳太子(蘇我入鹿大王)は天皇記・国記を作っていたというが、乙巳の変で燃やされてしまった。天武天皇の時代になって、正統な天皇家の歴史を残さなければならないという必要性を生じ、倭国歴史書の編纂を命じた。
 国家元首の正統性を示すための歴史書に「一書に曰く」などという無責任な書き方はしない。したがって、日本書紀は百済(日本)から来たものが、基本となる歴史書を参考にしながら文章を切り抜き、あちこちに張り付けて書き換えた歴史書である。

4 日本書紀には百済の話が多く出てくる。私見では倭国の親戚は新羅国であった(盟友関係)から、原古事記では百済に不利なことや新羅に有利なことが多く書いてあった。これも新羅の歴史の乗っ取りである。
 原古事記は歴代大王の帝紀・旧辞を整然と描いていたはずである。他人が読んでも嫌悪感をもよおすような事象は書くはずがない。今の古事記よりももっと分量は多かったはずだが、日本書紀を作ったために、14世紀に世に出るまでの600年あまりの間にかなり切り取りされている。それまで藤原氏のもとにあり、日本書紀に合うように、あるいは日本書紀より嫌悪感を感じるように改ざんを繰り返してきた。だから、藤原氏にとって不都合な旧辞(欠史八代)は削除してあるし、大碓・小碓のような話を創作することになる。原古事記には、初代から高市大王までの旧辞もすべて書いてあったはずである。

5 「壬申の乱」は「乱」ではなくヤマト王権が古くから行ってきた蝦夷(馬韓からきた準王一族)に対する平定であった。
 日本書紀・敏達10年(581年)に「蝦夷数千人が辺境を犯し荒らした。 蘇我馬子大王は首領の綾糟らを召して詔され、『お前達蝦夷は景行天皇(孝霊天皇)の世に討伐されて殺すべき者は殺され、許される者もいた。今、私も前例に倣って首謀者は殺そうと思う』といわれた」とある。
 壬申の「乱」の結果、「大友皇子、8月21日、首を吊って自決。右大臣中臣金、8月25日、近江国浅井郡田根で斬り殺された」。天武天皇も前例に倣って首謀者は殺した。亡命百済人(準王一族)の作った日本書紀はヤマト王権のする平定を上から目線で「乱」と書いた。
 隼人の乱(720年)も長年倭王権に属していた隼人を藤原氏が従わせようとしたため隼人が抵抗したのであり、テロリストは藤原氏であった。

6 左大臣右大臣制度は百済の制度である。天武天皇は新羅と親密に交流しているが、持統になって急に新羅にたいする態度が変化する。持統は新羅からの勅使に難癖をつけている(持統3年)。天武天皇は近江方の群臣の処分として右大臣を斬り、左大臣は流罪としてこの制度は無くしていたのだが、百済王朝の不比等と持統によって復活された。その後明治の太政官制まで続いた。
 後記ー660年より734年まで列島には2王朝が並立していた。左右両大臣制は百済王朝の官僚制度である。日本書紀は亡命百済王朝の歴史書であるから、基本的に大臣制度を採用している。倭王朝には大臣制度がなかった。聖徳太子(蘇我善徳大王)は自ら住民の陳情を聞いている。



藤原氏は焚書坑儒をした。「焚書」について

2018-05-08 05:07:14 | 藤原氏

藤原氏は焚書坑儒をした。「焚書」について

1 日本書紀
 日本書紀は天武天皇ではなく藤原不比等が作ったものである。
 日本書紀を作ったのは、天武天皇ではない。日本書紀は日本を征服した藤原不比等が、自分たちが、征服した「倭」を、これからは、倭ではなく、「日本」という国名にしますと、外国にも宣言する独立宣言の記念誌であった。
 702年の遣唐使では日本という国号を使った。しかし、中国はそれまでの倭国との連続性に疑問を抱いていた。藤原不比等は万世一系の天皇家でなければならないことの必要性を感じていた。不比等は原古事記を見て百済国の歴史書に倭国天皇を混ぜて作ることを考えた。それが日本書紀である。

2 古事記
 不比等は日本書紀を編纂するにあたって原古事記を参考にしている。
 何人かの天皇は、いかにだらし無かったかを書いている。天武天皇がつくるように命じたはずの原古事記に、天皇家の悪口を書くということはあり得ない。
 原古事記には神武天皇から高市天皇までの素晴らしい業績が書いてあったと思われる。
 原古事記は天武天皇が作るように命じたが、実際に出来たのは712年である。天武天皇や高市天皇のことは知っているから、古事記に書くことが出来たのに、推古を最後に終わっている。推古以降の天皇も書かれていたが、削除したと考えるべきである。 そして、天武天皇の壬申の乱の部分だけを古事記の序文に残した。壬申の乱は天武天皇の最大の業績であるのに本文に書いてない。原古事記に書かれていた天武紀は、消されたばかりではなく、古事記の他の天皇の所も、改ざんされている。原古事記は焚書にした。

3 各国の風土記
 713年に各国に風土記の提出を求めた。それも一書として参考にしたが、出雲国風土記・伊勢国風土記以外は焚書にした。焚書坑儒は大陸のやり方であり、藤原氏が大陸(百済)から来た証拠にもなる。

4 天皇紀、国記
 蘇我馬子天皇と聖徳太子(蘇我入鹿天皇)によって編纂された天皇紀、国記、など大事な歴史書はすべて焚書にした。

5 三国史記
 統一新羅の時代は藤原氏(百済)も原三国史記に手をだせなかったが、高麗国になって、日本書紀と矛盾しないように原三国史記を改ざんして、現三国史記を作成した。原三国史記は焚書にした。

6 宮下文書
 徐福が筆録したと伝えられている文書である。しかし、これも藤原氏が改ざんして、原本は焚書にされた。


藤原氏は大陸的手法である焚書坑儒をしているが、坑儒について

2018-05-07 03:08:39 | 藤原氏

 藤原氏は大陸的手法である焚書坑儒をしているが、坑儒について、奈良時代までは以下のとおりである。


 中大兄王子と中臣鎌足は蘇我入鹿天皇(蘇我善徳=聖徳太子)と蘇我倉山田石川麻呂天皇を殺した。
 中臣鎌足の子の不比等は天武天皇と天武天皇の側近20人ほどを毒殺した。天武天皇の毒殺の後にも、大津皇子、草壁皇子、高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇を毒殺している。
 長屋王の変で、藤原氏に濡れ衣を着せられて長屋親王一家は殺された。長屋親王、正室・吉備内親王、膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王など。
 伯耆国に住んでいた天皇家の生き証人も200年かけて殺していった。神武天皇の道案内をして名前を頂いた私の一族などもリストに載っていたはずである。どうして生き延びているのか解からないが、私が中学(蘇我入鹿天皇がいたと思われる丘陵地にある)の時に見た夢が半世紀近くたった今でも鮮明に覚えている。それは、私の父が斬首される夢であった。しかもそれで終わらず次は私の番であった。あまりの恐怖で目が覚めたが、大学の卒論で死刑制度の廃止について書いたのも、この夢が原因であったと思う。殺される理由も判らなかったし、殺す側が誰なのかも判らなかった。神武天皇が伯耆国にいたことを証明する私の一族を藤原氏は首を切って殺したかったのだろう。その思いが私の夢になって現われたのかもしれない。
 伯耆国の大神山神社の宮司の相見氏は阿遅鋤高日子根の子孫であり、長年家系抹消を恐れてきた。家系抹消とは、嫡男家だけではなく血筋の全てを消し去るということであり、全ての男は殺される。戦後、天皇は人間宣言をし、「神」ではなくなり、もはや血脈狩りなど考えられなくなった。それでもなお、相見家は警戒を解かず、現宮司まで一子相伝の秘密を維持していた。
 現在から見れば「何でそんなに警戒するの?」といった類のことですが、当事者にとっては生死を賭けた一大事だった。恐らく、祖に近い子孫は、「全ての男子が見付け出されては殺される現場」を見ているのだと思う。処刑が行われたのは、阿遅鋤高日子根のいた葦原中津国の近くの法華寺畑遺跡である。
 八世紀から倭国(鳥取県中部)のあちこちで血脈狩りが行われてきた。いわゆる恐怖政治である。倭国(鳥取県中部)の人間は、ここが都であったこと、天照大御神・素戔嗚・大国主や神武天皇以降の天皇がいたことは話さないようになる。
 11系統あった大国主命の子孫のうち阿遅鋤高日子根の系統以外の多くの系統は血脈狩りにあっている。


藤原氏について(日本書紀は偽書)

2018-05-06 02:34:30 | 藤原氏

藤原氏について(日本書紀は偽書)


1 藤原氏の始祖は藤原鎌足である。藤原鎌足は百済出身であり中国の兵法書「六韜」を暗記していた(藤氏家伝)。天武天皇は「子供は親とは違う」という考えに基づいて、鎌足の子供三人を引き取った。しかし不比等は「六韜」の「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行し倭国の天皇を毒殺した。
 太安万侶は天武天皇に頼まれていた原古事記を編纂し712年に穂積天皇に献上した。しかし、穂積天皇に渡る前に不比等に渡った。不比等は原古事記を読み、百済(日本)の歴史書を創ることを思い立った。720年に日本(百済)書記は完成する。その後、京都に遷都後も日本書紀の改ざんは藤原氏によって続けられていく。
 藤原氏は百済に残っていた準王一族ではないだろうか。百済出身の不比等やその後の藤原氏は、倭国に渡ってきてヤマト王権に敵対していた準王一族に、藤付き姓を与えたと思われる。
 数百年かけて日本書紀は改ざんされた後、世に出されたが、これは大日本史を250年かけて編纂した藤原氏のやり方と同じである。子供、若者に倭国を乗っ取る夢を託してつなげていけば、成し遂げることができる。


2 現在、「藤」付き姓の人が日本の総人口に占める割合はざっと6%だそうである。8世紀の日本の総人口が500万人ぐらいとされるから、「藤」付き苗字の人は奈良時代に30万人くらいいたことになる。藤付き姓の多くは紀元前2世紀頃から倭国に渡ってきていた準王一族(蝦夷)と思われる。東北、出雲、阿蘇に多い。藤原本家は、「福」付き姓に対抗して、百済出身者(準王一族)にあと一字に意味を込めて「藤」付き姓を与えたと思われる。
 島根県・宮崎県・奈良県・三重県・和歌山県に広くて大きいテーマパークを造り、東大寺の大仏を造るだけの人手は準王一族(蝦夷)でまかなえた。 全国に8万4千ほどある神社の宮司も藤付き姓が多い。
 不比等は日本征服の記念誌たる日本書紀を作るにあたって、伯耆国に天皇がいたことをことごとく消し去る作業をしている。それは恨みではなく征服を完全なものにするためと思われる。伯耆国の地名や神社や伝承を、百済の王族の正当性を作り上げるために、その外(九州や出雲や大和等)に移した。
 鳥取県北栄町にあった葦原中津国を宮崎県に持っていき、神武天皇の兄弟四人がいた四王寺山を宮崎県高千穂町の四王子峰と奈良の畝傍山に移し、大物主も、伊須気余理比売も溝咋姫も奈良と茨木市に移して伯耆国にいたことを解からないようにした。また、出雲大社と伊勢神宮も出雲国と伊勢国に創建した。
 宗形三姉妹も米子の胸形にいたのを北九州の宗像大社に移した。初代から31代までの天皇が伯耆国にいたことも、すべて消し去り、日本書紀には記載しなかった。天孫降臨で、葦原中津国を明け渡した大国主命がいたことは書いたが、事代主命・建御名方命のことも触れていない。
 京都の藤原本家は、神社の祭神を書き換えたり、潰したり、神主を変えたり、八幡神社やテーマパークを作ったり、新たに伝承を植え付けたり、新たな地名を創設したりした。
 また、原古事記にあった多くの「百済」の悪行の部分は「新羅」に書き換えた。「新羅」の善行の部分は「百済」に書き換えた。藤原氏は、「嘘も百回言えば本当になる」という信念を持っている。
 伯耆国、蒜山、美作国の伝承も恐怖政治によってきれいに消した。


飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルにして建立された

2018-05-05 01:09:17 | 序章
 飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルにして建立された。

1 飛鳥寺(法興寺)「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より
 
 伽藍配置 一塔三金堂
 南北293m、東西は北辺216m、南辺260mの台形
 飛鳥寺の伽藍配置は、一塔三金堂をもつ「飛鳥寺式伽藍配置」とよばれ、その起源は清岩里廃寺(高句麗) や王興寺(百済)や皇龍寺(新羅) に求められる。
 ※ 飛鳥寺の伽藍配置は独特なもので、ほかに例がない。通説は、「一塔三金堂の伽藍配置形式をとる寺院は、わが国はもちろん、飛鳥寺の造営にしたがった工人たちの故国百済の旧都でも発見されていなかった」とする。しかし、NHKはBS歴史館で百済の王興寺を取り上げた。私は仏教は新羅から公伝された、という立場であるから、新羅にモデルを求めることになる。

2 清岩里廃寺(金剛寺) 「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より

 場所・地域 高句麗 平壌郊外、大同江の河岸と接する台地
 創建 478年
 規模 東西100m、南北150m
 伽藍形式 一塔(堂)三金堂
 中央に八角形の基壇があり、大型八角堂建築と推定される。八角の遺址が塔か否かが問題となるが、村田治郎は「八角基壇の一辺が10m余もある巨大さから推定すると、驚くべき高さの塔になるわけであって、当時の高句麗の木造技術ではたしてこれを造ることができたか否か疑わしく塔よりも八角堂と考え・・・八角堂を中心にして東西南北の四方にそれぞれ堂や門があつたと考えられる」と述べている。

3 皇龍寺址 「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より
 
 場所・地域  新羅 慶州の月城の東北
 創建 553年
 規模 創建当時は東西288m、南北284m
 伽藍形式 創建当時(553年)は一塔一金堂式。再建(584年)時は一塔三金堂式 
 皇龍寺はもともと一塔一金堂式伽藍配置であったが、丈六尊像が造成されて(574年)からは金堂の左右に小さな金堂を配置する一塔三金堂式伽藍配置に変わった(584年)。
 ※ 創建時(553年)の伽藍配置は一塔一金堂式であった。再建(584年)の伽藍配置は、金堂並列配置の一塔三金堂式である。問題は東・西建物であるが、僧房は別にあるので東西建築物は僧房ではない。三国遺事に584年に東西金堂を造った、とあるので東西建物は金堂であった。西金堂・東金堂を塔に近づけて塔の横に持ってくれば飛鳥寺(法興寺)の伽藍配置になる。

4 私見
 他人に建物の設計図を見せて、こんな建物を造ったらどうですか、と勧めるときに、これは150年前の建物だがこれを造って見られませんか、とは言わない。最新のモダンな建物を提示するのが普通である。
 法興寺(596年)の伽藍配置は独特で、1塔3金堂方式であった。このモデルとして百済の王興寺と高句麗の清岩里廃寺と新羅の皇龍寺廃寺が候補としてあげられている。清岩里廃寺の八角部分は大きすぎるため塔ではなく八角堂ではないか、とする見解がある。清岩里廃寺の中心は塔ではなく堂であり、1塔3金堂方式ではない。また、150年前の建築方式を示すこと自体が相手に失礼でもある。百済の王興寺はNHKでも取り上げられたが、東西金堂とされる建物は回廊部分であり1塔3金堂式ではない。
 その点、飛鳥寺(法興寺)(造営発願は587年)は皇龍寺の左右金堂再建(584年)の3年後であり、模型製作段階で左右金堂を下げて塔を挟むように配置することができる。法興寺の伽藍配置は皇龍寺をモデルに進化させた最新様式である。
 「元興寺縁起」には、「戊申(588)年に六人の僧、名は令照律師、弟子の惠忩、令威法師、弟子の惠勳、道厳法師、弟子の令契、それに恩卒首眞等四人の工人を送ってよこし、あわせて金堂の基本様式(模型)を奉った。今この寺にあるのがこれである」とある。金堂の基本様式(模型)はすでに金堂が塔を中心にして東西に配されていたものと思われる。1塔3金堂方式の伽藍配置は新羅から来た寺工が皇龍寺をモデルとして造ったものである。六人の僧と四人の工人のうち寺工だけが新羅から来たのではなく全員同じ新羅から来ている。新羅は倭国に仏教を公伝した国だから、新羅から倭国の仏教興隆のために仏教集団として来させられた、と考えるのが自然である。
 また、聡耳皇子が大々王に申し上げた。「昔、百済国に法師と工人を遣わすよう乞いました。これにはどう答えたらよいでしょうか」と。六人の僧と四人の工人は新羅から来ているので聡耳皇子が大々王に申し上げたのである。藤原氏の厳しい検閲の中で、六人の僧と四人の工人は新羅から来ていたことを後世に伝えようとしてそれとなく書き残したのである。
 新羅は倭国と兄弟国であり、法興寺(飛鳥寺)の名は新羅の法興王の名に因んで付けられた名であり、法興寺の伽藍配置は皇龍寺の伽藍配置をモデルに作成されたものである。皇龍寺は規模の面でも法興寺と似ている。寺工は新羅から来ているが一人だけ新羅から来たとは思われない。新羅から一団として来たものと思われるから、僧やほかの工人も同じく新羅から来ている。書物には百済から来た、と記されているが史実は新羅から来ていた。ここでも日本書紀は新羅を百済に入れ替えている。
 新羅の僧円光は毎年隋に行っていた。600年にも円光は隋に行っているから、倭国の遣隋使と同伴していた可能性がある。倭国の遣隋使は「国の改革のすべて(大国維新之化)を教えてもらう」ために蘇我馬子天皇と聖徳太子(蘇我入鹿)によって600年に隋に派遣された。その際信用のある円光と一緒ならば心強い。倭国の遣隋使と新羅の僧円光は任那(全羅南道)を通ったはずである。百済は600年(推古8年)に任那(全羅南道)を侵している。おそらく百済は円光や倭国の遣隋使が通るのに気が付いて襲ったものと思われる。百済はまるで追い剥ぎである。倭国の大軍が来るとすぐに白旗をあげるのであるが、倭軍が去るとまた任那を侵す。その繰り返しであった。8年後に裴世清たちは倭国に来る。
 仏教の導入について反対者が多く出たのは倭国だけではない。新羅でも貴族や群臣の反対が強かった。しかし、法興王は仏教を公認した(527年)。それまで、新羅も倭国も徐福が持ち込んだ道教を信仰していた。彼らがこぞって反対した。
※ 新羅の善徳女王(在位632年~647年)の諱は蘇我善徳天皇(在位626年~645年)の名に因んで付けられた可能性がある。

5 参考ー日本書紀(※以下は私見)
◎敏達12年(583年)、詔して「自分は任那を回復しようと思う。いま、百済(新羅)にいる達率日羅は賢くて勇気がある。自分は彼と計画を立てたい」といわれた。・・・。日羅は答えて「・・・そして有能な人物を百済に遣わして、その王をお召しになるとよいでしょう。来ないようでしたら、その太佐平か王子らを来させましょう。その後で任那の復興に協力的でない百済の罪を問われるのがよいでしょう」と。また奏上して「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・。逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」といった。
※日羅の話の中の「百済」は改ざんされていない。達率日羅は新羅出身者を推測させる。日本書紀は「日羅は百済出身」とするが、史実は、新羅出身と思われる。
◎崇峻元年(588年)、善信尼らは大臣(馬子)に語って「出家の途は、受戒することが根本であります。願わくば百済(新羅)に行って、受戒の法を学んできたいと思います」といった。この月、百済(新羅)の調使が来朝したので、大臣は使人に語って「この尼達をつれてお前の国に渡り、受戒の法をならわせて欲しい。終わったならば還らせるように」といった。使人は答えて「私共が国に帰って、まず国王(真平王)に申し上げましょう。それから出発させても遅くないでしょう」といった。
 法興寺の創建。この年百済(新羅)が使いに合わせて、僧3人らを遣わして、仏舎利を献上した。同時に仏舎利と僧6人と工人8人をたてまつった。蘇我馬子宿禰は百済(新羅)の僧たちに、受戒の法を請い、善信尼らを百済(新羅)の使いらにつけて、学問をさせるため発たせた。
※1日余りですぐに安全に帰ってこれるのは新羅である。この時代に仏教活動が盛んであったのは新羅である。すでに皇龍寺もできており善信尼らが受戒の法を学びに行く条件がそろっていたのは新羅であった。この行ったり来たりしている使人は新羅の使人である。
◎推古4年(596年)、法興寺が落成した。馬子大臣の長子善徳臣を寺司に任じた。この日から、慧慈、慧聡二人の僧が法興寺に住した。
※善徳は聖徳太子であり入鹿である。慧慈、慧聡の出身国は疑問である。
◎推古8年(600年)、新羅(百済)と任那(全羅南道)が戦った。この年、境部臣に大将軍を命ぜられ、穂積臣を副将軍とされた。1万あまりの兵を率いて、任那のために新羅(百済)を討つことになった。新羅(百済)を目指して船出した。新羅(百済)に着いて5つの城を攻略した。新羅(百済)は白旗をあげて、将軍の印の下に来たり、6つの城を割譲して、降伏を願い出た。
※この条で「新羅」とあるのはすべて「百済」である。600年に倭国の遣隋使と新羅の僧円光が隋に行くために任那(全羅南道)を通ったので百済は任那(全羅南道)を侵した。
◎敏達天皇12年(583年)、日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」と言っていた。推古17年(609年)、大宰府の長官が奏上して「百済僧10人俗人75人が、肥後国の葦北の港に停泊しています」といった。徳摩呂・竜の二人を返して百済人らにつけ、本国に送り付けた。対馬に着いて、修道者11人が皆在留したいと願った。それで上表をして滞留を許され飛鳥寺に住まわされた。その後皇極元年(641年)、百済の従者たちは「弟王子に当たる子の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが島流しになりました」といった。
※本当に島流しで倭国に流れ着いたのか、最初から欺くつもりで綿密に計画された謀略ではなかったのか。一般人の中にテロリストを忍び込ませていたのではないか、それも上手口をたたくテロリストを、と疑われる。

倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった

2018-05-04 05:01:47 | 序章
 倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった。

 ※以下は私見
1 公伝年をめぐる諸説(ウィキペディアより)
(1)日本書紀では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。
 この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされ、上表文を核とした書紀の記述の信憑性が大きく疑われている。
 伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年となることや、『大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたとする説があり、これも後世の作為を疑わせる論拠としている。また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる。
(2)538年(戊午)説
『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)においては、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年が有力と考えられた。現在は両書に共通する「戊午年」を以って538年とする説が有力である。

2 私見
 通説は、仏教は欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた、とする。このことを反論する者はいない。未だかってこのことに疑いを差し挟む者はいなかった。しかし、日本書紀の公伝年は改ざんされている。なぜだろうか。それは百済の聖明王は仏像を贈っておらず、仏像を贈ったのは新羅の法興王だからである。百済史官は日本書紀を作るにあたり、百済と新羅を入れ替えたから、新羅王とあったのも百済王にしなければならなかった。
 三国史記だと思われるがそこには「538年、法興王は、釈迦仏の金銅像一躯(一光三尊阿弥陀如来像)・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった」とあった。2年後(540年)法興王は百済によって殺害される。百済が538年に都を熊津から泗沘へ移したのは、任那・新羅を攻撃するためであり、倭国に仏教を公伝するために遷ったのではない。
 仏教公伝も百済の聖明王に直さなければならなかった。聖明王は552年に釈迦仏の金銅像一躯(一光三尊阿弥陀如来像)・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつったとし、法興王と同じく公伝の2年後(554年)に亡くなったとした。
 日本書紀には「仏教公伝は欽明天皇13年冬10月。聖明王の死は欽明天皇15年冬12月」(12月9日に新羅は百済攻撃を開始している。翌年2月に倭国に王子が行き王の死を報告しているので葬儀の期間も考えると王の死は前年12月中と思われる)とある。法興王は仏教を公伝した538年の2年後に亡くなっているので、聖明王が亡くなる2年前の552年に仏教公伝があったことにした。
 また聖明王の死は7月とされる。しかし、日本書紀では「聖明王の死は欽明天皇15年冬12月」であり7月ではない。史実は新羅による仏教公伝は538年10月であり、新羅の法興王の死は540年の12月であった。
 新羅において527年に仏教を公認した法興王が倭国に仏教を公伝したのは538年であった。2年後の540年に法興王は百済に殺害された。新羅に仏教が伝わったのは高句麗からではなく、新羅から直接中国に行くルート(全羅南道の任那を通るルート)があり、直接中国から新羅は仏教を導入している。法興王の時代に公認された(527年)後、新羅は南朝梁との交流もあり、国家主導で仏教振興策をとっていた。大規模な寺院跡が見つかるのは百済ではなく新羅である。新羅の皇龍寺の規模は東西288m、南北284m。仏国寺はさらに大規模であった。倉吉の大御堂廃寺の規模は東西は135m、南北は220mである。また、法興王の名は法興寺(規模は南北293m、東西は、北辺215m、南辺260mの台形)や法隆寺や法楽寺の名と似ており関連があるように思われる。特に日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)の名は新羅の法興王の名に因んでつけられたものと思われる。
 またウィキペディアは「次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされるなど、逼迫した状況にあり、新羅に対抗するため、さかんに倭に対して援軍を要求していた。百済が倭国へ仏教を伝えたのも、倭へ先進文化を伝えることで交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があった」とする。
 倭に援軍をさかんに要求したのは新羅である。大して負けてもいないのに白旗を掲げるのは、六韜に基づいた行動であり、権力者に近づくためである。百済出身の鎌足は六韜を暗記するほど愛読していた。高句麗や百済の行動パターンを見ても六韜に基づいて行動していることが判る。権力者に近づいておだててみたり、時として蜂や大蛇のように牙をむきだしたりと、六韜に基づく行動である。六韜は高句麗や百済のバイブルであった。

原古事記にあった任那とは全羅南道の任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)のことであった

2018-05-03 03:58:57 | 序章
 原古事記にあった任那とは全羅南道の任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)のことであった。

 原古事記には「百済が任那を滅ぼした」と書いてあった。日本書紀では新羅と百済を入れ替えている。不比等と百済史官は日本書紀の作成段階で「新羅が任那を滅ぼした」と書き換えた。
 宋書倭国伝では、中国に行くのに百済まで陸路を通った、とする。しかし、百済は高句麗につくこともあった。

1 日本書紀における任那(※以下は私見)
◎垂仁天皇2年の条には「先帝(崇神天皇)の御真木に因んで御真奴(ミマナ)と名付けられた」とある。
※「奴」とは北九州を「倭奴国」と言っており、「倭奴国」を意識して、全羅南道の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を任那(ミマナ)と名付けた。崇神天皇の兄弟である卑弥呼と倭建命が中国に行くためのルートとして確立した。日本書紀では神功皇后の三韓征伐に替えられている。
◎応神天皇7年(361年)百済人・任那人らが来て韓人池を造った。
※百済人は後の加筆と思われる。
◎応神天皇25年(379年)25年の条は『百済記』の引用である。
※神功皇后62年と重複する。この年襲津彦(応神天皇)は新羅に行った。
◎神功皇后9年(326年?)・新羅出兵において、「高麗、百済2国の王は陣の外に出て頭を下げて『今後は永く西蕃と称して、朝貢を絶やしません』といった。それで内官家屯倉を定めた」とある。
※神功皇后(卑弥呼と倭建命)は馬韓も平定した。おそらく年代はでたらめ。私見では卑弥呼と倭建命の三韓征伐は173年である。
◎神功皇后46年(361年)斯摩宿禰は卓淳国から百済にいった。
※百済は新羅・倭国を乗っ取るために高句麗が346年に建国した。建国から15年後に作戦を開始した。
◎神功皇后47年(362年)百済が初めて朝貢した。新羅人は百済と新羅の貢物を入れ替えた。
※最初に貢物を与え、おだてておいて、後で奪い取る六韜の戦術である。
◎神功皇后49年(364年)
※新羅再征とあるが、これは倭国ではなく高句麗と百済が卓淳国に集まり新羅を討ち破った。後ろにいたのは高句麗であった。百済の朝貢品を新羅が奪ったからというのは後の創作と思われる。
◎神功皇后52年(369年)百済は七枝刀などを奉った。
◎神功皇后62年(379年)新羅(百済)が朝貢しなかった。襲津彦を新羅(百済)に遣わしたが、新羅王(百済王)に美女2人を差し出された。
※六韜に基づく行為と思われる。
◎雄略天皇8年(463年)の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。
※「倭府行軍元帥」を書き換えたものと思われる。
◎雄略天皇9年(464年)、新羅(百済)討伐「狼のような荒い心があって、飽きると離れ去り、飢えると近づいてくる。王師をもって攻め討ち天罰を加えよ」といわれた。
※倭王武の官号より雄略天皇は、高句麗・百済と敵対していたものと思われる。不比等・百済史官は「百済」とあったのを「新羅」に書き換えている。
◎雄略天皇21年(476年)、「百済国(新羅国)は一族すでに亡んで、倉下にわずかに残っていたのを、天皇の御威光により、またその国(新羅国)を興した」といった。
※雄略天皇がまた百済国を興したのなら、百済は倭国に頭が上がらないはずだが。雄略天皇が興した国とは新羅国と思われる。反正、允恭、安康の時代、新羅は累卵の危うき状態になっていた。反正、允恭の帝紀・旧辞はヒントが見つからないくらい大幅に改ざんされている。
◎雄略天皇23年(479年)、「筑紫の安致臣・馬飼臣らは船軍を率いて高麗を討った」とある。
◎継体天皇6年(512年)の条は「任那四県二郡割譲事件」の記事である。
※賄賂、詐欺が混ざり完全な割譲ではなく後々争いの種になった。
◎継体天皇21年(527年)の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。
※倭の軍を踏みとどまらせるために、賄賂を贈ったのは百済である。
◎継体天皇23年(529年)、加羅国の多沙津(帯沙江)を百済がいただきたいといった。加羅の王は苦言を呈した。「新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の3つの城をとり、また北の境の5つの城もとった」とある。
※近江毛野の派遣の条は改ざん無しと思われる。「詔して新羅に勧め、南加羅・㖨己吞を再建させようとした」とある。※任那王が大伴大連金村に「・・・新羅は・・・」と言った「新羅」は原古事記では「百済」であった。新羅は多々羅・須那羅・和多・費智の4村を掠め取ったとするが、百済から取り返したと思われる。
◎継体天皇24年(530年)にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。冬10月調吉士は奏上して「・・・加羅を・・・」は「・・・任那を・・・」である。
◎継体天皇25年(531年)、百済本記には「高麗は安羅に至り、安羅王を殺した。また、倭の天皇・皇太子・皇子皆死んだ」と。
◎宣化天皇2年(537年)、天皇は新羅(百済)が任那に害を加えるので・・・任那を助けさせた。狭手彦はかの地に行って任那を鎮めまた百済(新羅)を救った。
◎欽明元年(540年)新羅(百済)が任那地方を併合した。
※この年、新羅の法興王が亡くなる。百済に殺害されたものと思われる。
◎欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。※百済(日本)が置いた府だから日本府という。それまでは「倭府」としていた。
◎欽明天皇23年(562年)春1月、「新羅(百済)は任那(全羅南道)の官家を打ち滅ぼした。-ある本に21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国、合わせて十国である」とある。
※京都の藤原氏は任那は全羅南道の任那と思われないように、あえて具体的に10国の名を挙げて疑いを差し挟まれないようにした。
◎推古天皇8年(600年)、「新羅(百済)と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。新羅王(百済王)は白旗をあげて、倭国の将軍の印の旗の下に来たり、降伏を願い出た。・・・しかし、新羅(百済)はまた任那を犯した」とある。
※ 六韜に基づいた戦術である。
◎推古天皇31年(623年) 新羅(百済)征討の再開「この年新羅(百済)が任那を討った。任那は新羅(百済)に属した。天皇は新羅(百済)を討とうとされた。中臣連国がいうのに「任那は内宮家であるのに、新羅(百済)が取ったのです。新羅(百済)を討ち任那を取り返しましょう」と。田中臣がいう。「そうではない。百済は度々豹変する国である。道路の区別さえも偽りがある。おおよそその言うところはみな信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」と。百済と任那に使いを遣わしこの事件について問わせた。・・・数万の兵を率いて新羅(百済)を討った。新羅(百済)国王は大群がやってくると聞き、恐れて手早に降伏を願い出た。将軍らは上奏した。天皇は許された。

2 私見
 全羅南道で5世紀後半から6世紀中葉にかけての11基の前方後円墳が発見された。累卵の危うきにあった新羅・任那を復興した雄略天皇のあと、任那4県の割譲(512年)以前から百済(新羅)が任那地方を併合した(540年)まで、百済が侵略を進めていた時期である。
 ウィキペディアは「任那日本府(倭府)とは、任那や加羅地域とその西隣の地域において支配権、軍事動員権および徴税権を有していた集団が、ヤマト王権と深い関連を持つ者達だった。ただしそれらは、ヤマト王権に臣従した在地豪族であって、ヤマト王権から派遣された官吏や軍人ではないという意見が有力である。ともあれ少なくとも軍事や外交を主とする倭国の機関があり、倭国は任那地域に権限と権益を有していたであろう」とする。
※541年に任那日本府とするのは任那を百済(日本)が占領したからである。540年に新羅の法興王は百済に殺害された。雄略天皇の段にも任那日本府とあるがこれも百済が占領していたからと思われる。
 中大兄皇子は任那を侵さないように百済から人質として6歳で倭国(鳥取県中部)に来ていた百済王武の王子「余豊璋」であり(631年)、中臣鎌足は641年に自称百済から島流しになって倭国に来た「翹岐」と思われる。「余豊璋」と「翹岐」は645年に倭国大王(蘇我入鹿天皇)を殺害した。

3 中国史料における任那
 広開土王碑文(414年建立) には、永楽10年(400年)条に「任那加羅」とある。宋書では438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の南斉書も併記を踏襲している。梁書は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
※私見
 広開土王碑文にある「任那加羅」は、「任那と加羅」の意味であり、宋書、南斉書、梁書における「任那、加羅」の併記も、「任那と加羅」の意味で別の地域である。任那は加羅ではない。ここにおける任那は「全羅南道の任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)」を意味していた。

4 倭五王の官号
 倭王らが、「宋」に朝貢して封ぜられた官号は、「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・ 倭国王」であり、高句麗、百済がない。
 ウィキペディアは「任那は金官国(及び金官国を中心とする諸国)。同じく加羅は大加羅(及び大加羅を中心とする諸国)。秦韓はかつての辰韓12国のうちいまだ新羅に併合されず残存していた諸国、例えば卓淳国や非自本国、啄国など。慕韓はかつての馬韓52国のうちいまだ百済に併合されず残存していた諸国、例えば百済に割譲された任那四県など、にそれぞれ該当する」とする。
 ※この中に高句麗と百済がない。当時倭国と敵対関係にあったのは高句麗と百済であった。高句麗と百済が含まれていないのは当然である。ここでも任那と加羅は別々にかいてあるが、加羅は弁韓=弁辰=伽耶、任那は全羅南道の任那4県であった。

5 私見
 日本書紀を制作したのは、不比等と百済史官であった。百済系2世の藤原不比等と亡命百済史官である。彼らは原古事記を見て百済の悪行を改ざんすることを考えた。自分の母国を悪く書かれていて、改ざん出来る立場にあるなら改ざんするのは愛国心である。母国を悪く書かれないために、新羅と入れ替えることを考えた。それが現在の日本書紀である。
 倭国は鳥取県中部にあり、新羅から人力船で出港しても1日余りで到着する。紀元前57年から新羅と倭国は兄弟国であった。加羅の地は弁韓=弁辰であり、加羅と辰韓(新羅)とは雑居し同族であった。
 任那は全羅南道にあったにもかかわらず、それを侵すのは百済しかいないことになるため任那は全羅南道ではなく、新羅の隣の加羅の地だと書き綴った。「百済」も「新羅」に直した。そして新羅が任那(加羅)を侵したと改ざんした。沢山、書き換えているので読む者は暗示にかけられる。だから、任那は最初から最後まで全羅南道にあった任那4県とするものはいなかった。中国史料の「翰苑」(660年)も「通典」(801年)も「太平御覧」(983年)も「冊府元亀」(1013年)も朝鮮の「三国史記」(1145年)も日本書紀に従って書かせているのでよけいに違うとは主張できなかった。

「倭人が新羅を攻撃した」とする「三国史記」と「伝承」は改ざんされている

2018-05-02 03:13:56 | 序章
 「倭人が新羅を攻撃した」とする「三国史記」と「伝承」は改ざんされている。

1 原古事記(712年)には新羅は倭国と兄弟国であり、百済は倭国の敵国であったと書かれていた。藤原氏は百済は良い国であり新羅は悪い国であったことにするため、原古事記に書かれていた新羅と百済を入れ替えて記紀を改ざんしたから倭国と新羅との関係も悪かったことにしなければならなかった。倭国と新羅は神武天皇が即位した時から兄弟国であったことになれば、新羅と百済を入れ替えたことが徒労に終わるからである。すべてを整合させるためには倭国と新羅の関係は悪かったことにする必要があった。そのために、原三国史記を改ざんし、新羅に伝承を創っていったのは統一新羅が滅んで(935年)からと思われる。

2 文献に残る「新羅に対する攻撃」
(1)3世紀までの倭国と新羅との関係(ウィキペディアより)
 「三国史記」によると、新羅建国時より日本による新羅への軍事的な侵攻が度々記述されている。
 紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王(稲飯命)の説得に応じて倭軍は撤退する。
 14年 倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。
 72年 倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島)に進入してきた。角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏を派遣したが勝てず、羽烏は戦死した「三国史記」。
 107年 倭国王帥升(孝安天皇)らが後漢の安帝へ生口160人を献じた「後漢書」。
 121年2月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した「三国史記」。
 123年3月に倭人と講和した「三国史記」。
 208年夏4月、倭人が国境を犯す「三国史記」。奈解王は将軍利音に反撃させた。
第11代助賁尼師今
 奈解尼師今の太子でもあった伊飡の昔于老を取り立てて、国防に当たらせた。
 232年4月に倭人が首都金城に攻め入った「三国史記」。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。
 233年5月、倭人が東部国境に侵入「三国史記」。
 233年7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。
 239年 倭王卑弥呼は魏の明帝へ男生口4人、女生口6人を献上した「魏志倭人伝」。
 243年 魏の少帝へ生口を献じた「魏志倭人伝」。
 245年10月、高句麗東川王の侵入を受け、昔于老が出て防戦したが、勝てずに馬頭柵(京畿道抱川市)まで退却したという。
 第12代王沾解尼師今の時代(在位:247年 ~261年)
 247年7月に、父の骨正を世神葛文王に追封した。
 248年2月には高句麗に対して講和を行い、百済との交戦に集中する政策を採った。
 248年 倭王台与は生口30人を魏へ献じた「魏志倭人伝」。
 255年9月には百済の侵攻に対し、一伐飡の翊宗が百済軍を槐谷(忠清北道槐山郡)で迎撃したが、百済軍によって殺されてしまった。続けて10月には百済は烽山(慶尚北道栄州市) 城に攻め込んできたが、よく守って降伏せずに済んだ。
 261年3月には百済古尓王は新羅に和親の使者を発したが、沾解尼師今はこれを黙殺した。「三国史記」。
(2)4世紀の倭国と新羅との関係(日本書紀・三国史記より)
 368年(応神天皇14年)、弓月君が新羅から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の人民が帰化を求めています。しかし百済人が拒んでいるので、みな百済国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、百済国の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった「日本書紀」。
 370年(応神天皇16年)、天皇は平群木菟宿禰、的戸田宿禰を任那に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと百済が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて百済を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて百済の国境に臨んだ。百済王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた「日本書紀」。
 372年4月、(百済か高句麗)人が新羅の一礼部に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った(三国史記)。
 377年、(百済か高句麗)兵が新羅の沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、(百済か高句麗)軍が攻略した(三国史記)。
 379年、(百済か高句麗)兵が新羅の長峯城を攻略した(三国史記)。また、新羅の沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、(百済か高句麗)に備えたという。
 391年 倭軍が百済、新羅(高句麗に占領されていた)を破り、高句麗と戦う(広開土王碑)。
 393年 (百済か高句麗)が攻めてきて金城を包囲し、五日間、囲みをとかなかった。

3 私見
(1) 紀元前50年、新羅に侵攻するのは倭国にいた準王一族(出雲神族)しか思い当たらない。紀元前50年は神武天皇が新羅の稲飯命と協力して倭国の準王一族を平定し初代倭国天皇として即位した紀元前60年の10年後であり、稲飯命が斯蘆国を建国した紀元前57年の7年後である。倭国の準王一族が反乱を起こし、鉄製の武器を造っていた新羅(斯蘆国)を攻撃したとしても不思議ではない。その後の「倭人」も準王一族と思われる。
 原三国史記には「倭人」とは書いてなかったはずである。「倭人」とは倭国にいた準王一族だから藤原氏は「倭人」という表現を使ったと思われる。
(2)208年以降の「倭人」は陸上から新羅を攻めているので、朝鮮半島に残っていた準王一族(百済)と思われる。
 倭姫命(卑弥呼)と倭健命はは三韓征伐(173年)をし、朝鮮半島の西から中国に行くために任那の領域(現在の全羅南道)を造った。国境とは百済と任那の国境と思われる。その後、百済と任那の国境は百済によって度々侵された。そこで捕らえられたのが生口と思われる。
 生口とは朝鮮半島で使われていた用語と思われる。「広開土王碑」に396年、百済が高句麗に生口(新羅か倭国の捕虜)を献上した記録がある。したがって、107年(160人)、239年(10人)、243年(?人)、248年(30人)に、中国に献上された生口(百済か高句麗の捕虜)は朝鮮半島で倭に捕らえられた捕虜と思われる。朝鮮半島に倭国に敵対する勢力がいた、ということである。その勢力が倭国と兄弟国の新羅を攻撃していた。原三国史記にはそのことが記載されていたはずである。それを「倭」に書き換えさせたのは、藤原氏である。その一族は藤原氏に関係の深い一族であったと思われる。それは、準王一族であり、百済と思われる。特に、248年に倭王台与が魏へ献じた生口30人は248年2月に新羅と百済との交戦で新羅に捕らえられた百済の捕虜と思われる。
 藤原氏は原古事記に書いてあった新羅と百済を入れ替えて「百済と倭国は仲が良く新羅と倭国は敵対していた」と改ざんした日本書紀を中国に献上した。弓月君の条も百済と新羅・任那と加羅を入れ替えたと思われる。
 372年以降の「倭」は「高句麗か百済」を書き換えたと思われる。但し、391年は改ざんされていないと思われる。
 朝鮮半島には原三国史記があり、日本書紀とは違う内容であった。藤原氏は百済出身であったから、新羅を悪者にするために、また、倭国と百済は仲が良かったとする日本書紀との整合性を図るため、「倭国が新羅を何度も攻撃した」と三国史記を改ざんさせた。
(3) 日羅は百済の任那(全羅南道)に対する度重なる侵犯をやめさせるために、蘇我馬子天皇に百済国王か百済王子を倭国に来させることを進言した(583年)。百済はこの時すでに倭国を乗っ取る計画を立てていたようである。蘇我馬子天皇は百済に対し、百済国王自らか百済王子を倭国に来させるように伝えたと思われる。百済王武は蘇我馬子天皇が騙されないことを知っていた(609年百済からの船)。蘇我馬子天皇が亡くなり蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の時代(626年~)になり、蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は人が良いことを百済に知らせる者がいた(630年の唐からの使いか)ので、百済王武は次男の豊璋(中大兄王子)と三男の塞上を倭国(鳥取県中部)に人質として行かせた(631年)。豊璋(中大兄王子)は6歳で鳥取県北栄町由良宿の由良宮に来た。豊璋(中大兄王子)は18歳まで大海人皇子(天武天皇)と同じように、鳥取県北栄町由良宿の由良宮(葛城)で育てられた。亡命百済人たちは中大兄王子のことを葛城(北栄町由良)王子といった。642年に百済から自称島流しになったという船が筑紫(宗像大社)に到着した。その中に鎌足(翹岐)などの百済の要人が乗っていた。鎌足(翹岐)は中大兄王子(豊璋)と奈良法興寺の蹴鞠の会で合流(643年)し、談山で倭国を乗っ取る(テロ)計画を立てた。倭国大王である蘇我入鹿天皇は可愛がってきた中大兄王子や藤原鎌足たちのテロによって殺害された(645年)。中大兄王子が豊璋であることを悟られないようにするために、現在、豊璋の詳しい情報(生没年不詳など)は消されている。
 亡命百済人たちは、原古事記(712年)を読んで、百済の悪行が多く書いてあるので、百済と新羅とを入れ替えることにした。そして、出来上がったのが日本書紀(720年)である。734年に亡命百済王朝(日本)は完全に倭国を乗っ取った。
(4) 旧唐書(945年)は日本と倭国は別種であると記載している。「旧唐書東夷伝」の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、日本は倭国の別種で、もともと小国であった日本(亡命百済王朝)が倭国(鳥取県中部)を併合した、と記述されている。新唐書(1060年)は日本書紀に基づいて書かれている。統一新羅が滅んで(935年)から京都の藤原氏は朝鮮半島に渡ることができるようになり、1060年までに中国に日本書紀を認めさせたと思われる。三国史記を日本書紀に合うように改ざんさせた時期は統一新羅が崩壊(935年)してからと思われる(1145年完成)。
(5) 亡命百済人の藤原氏は日本書紀を中国や朝鮮半島にも及ぼした。朝鮮半島では現三国史記が編纂されるまで、原三国史記は存在していたと思われる。1145年まで高句麗、百済、新羅の歴史書がなかったと考えるほうが不自然である。原三国史記を日本書紀に合わせて改ざんした歴史書が1145年に完成した現三国史記と思われる。朝鮮半島の歴史書は日本書紀に合うように改ざんされたが、新羅には多くの伝承も残っていた。太閤秀吉の朝鮮征伐(1592年~1598年)でも分かるように、藤原氏は新羅地域を軍事力をもって制圧している。倭国における八幡神社(四万四千社存在する)による伝承の改ざんと同じく新羅地域における伝承も改ざんしていったと思われる。
(6) 斯蘆国は紀元前57年、神武天皇の兄稲飯命により建国された。倭国は鳥取県中部であり、倭国と交流するのに一番良い場所である朝鮮半島南東部に新羅は建国された。新羅と倭国は建国時から兄弟国であった。
 新羅の善徳女王は倭国の蘇我善徳天皇と交流があり親しい関係であったと思われる。蘇我善徳天皇の皇子の天武天皇も新羅と友好関係を結んでいた。紀元前57年より紀元734年まで倭国と新羅は兄弟国であった。倭国天皇家が新羅を攻める理由はない。紀元前57年から734年までの新羅に対する倭国(倭人)の侵攻は藤原氏による改ざんであり、伝承も改ざんされたと思われる。