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つれづれなるままに・・・・

永井隆博士

2011-04-04 | 
子どもたちの希望で長崎の平和公園へ行きました。
前回来た時には行かなかったので、私は25年ぶりに訪れました・・・




そちらで写真を撮ってくださったボランティアガイドの方が
「どちらから来られましたか?」と聞くので
「島根県です・・・どこにあるのかわからない人が多いですが
ご存知ですか?」と言いました。すると
「わざわざ遠くからうれしく思います。
長崎市民の多くが島根のことを知っています。
なぜなら永井隆博士の出身地ですから」
そう言うと、ガイドの方は永井隆博士のことについて
説明を始めました。
本当に詳しいお話で
出身地の私があまりにも無知なことを恥ずかしく思いました。
そして最後に、
「ぜひ、記念館に寄って欲しい」と言われたので
近くの記念館(如己堂)へ行きました。



記念館の入口には島根県雲南市三刀屋町のシンボル
御衣黄桜が植えられていました。
記念館には博士の生い立ちや活動がわかりやすく
展示してありましたが、
私は同じ病院で生まれていて
また高校の大先輩であることを初めて知りました・・・
無知とは本当に恥ずかしいことです。

永井博士とは長崎の鐘、この子を残してなどの著者としても有名ですが、
長崎に原爆が投下された後、
自らも被爆したのにもかかわらず
多くの市民の救護活動を行なった。
しかし、実は放射線の医師として診療して放射線をたくさん浴びたことで
原爆投下前にはすでに白血病と診断され
余命3年と言われていたそうです。

そんな自分のことは省みず
人々のために博士は力を注ぎました。
そんな無理がたたってか、自らも病気が悪化し寝たきりとなりますが、
その後は、原爆の病気を研究したり
たくさんの本を書いて、
本の印税は長崎市の復興に寄付をしたそうです。
昭和天皇をはじめヘレンケラーなどもお見舞いに
来てくださったそうですが、
43歳でその生涯を終えたそうです。

平和公園でボランティアガイドの方に出会ったことが縁で
私は永井博士の功績を知ることが出来ました。
縁というのはとても不思議で
今回の旅はこの場所に導かれていたように思いました。
大地震で多くの被害が出ている東日本、
地震によって壊れた原発の為に避難している人
原爆によって被害を受けた人、
いろいろなことを考えさせられました。
普段からいろいろなことに興味や関心を持って生活しているつもりでしたが、
ここを訪れて平和ボケしている自分がなんだか恥ずかしくなりました。
如己愛人(自分を愛するように周りの人を愛しましょう)
この言葉が今でも心に響いています。

子供達も同じ気持ちになったようです。
博士の本は読んだことがあるそうですが、
詳しくは知らなかったので
早速本を借りてきて読んでいました。
娘はこのことを英語スピーチで発表することにしました。
どんな平和へのメッセージが出来るのでしょう。

写真は浦上天主堂です。
永井博士はキリスト教徒でしたので
如己堂からこちらを眺めていたことでしょう
また、桜も咲いていました。
このあたりの桜は永井千本桜と言われていて
原爆で荒れ野の果てになった浦上地区を
花咲く丘にしようと桜の苗木を博士が贈ったそうです。
多くは枯れたり代変わりをしてしまいましたが、
今でもそのように呼んでいるそうです。