昨晩ブラジルへの日本人移民で現在は日本に出稼ぎに行かれている60歳の女性の方とお話する機会があった。彼女は介護ヘルパーのアルバイトとして老人ホームで寝たりきり女性のお世話をしているという。
夜になると暴れだす人、介護ヘルパーに継承人を頼む身寄りのない人、有名人、余命わずかの人。サッカーの試合で言えば、人生の後半戦最後の数分の人を扱う仕事のお話を伺うに当たって、考えさせられることが多かった。
人の一生とは生まれてから死ぬまでの期間である。生後まもなく死んでしまう赤ちゃんもいれば100歳以上生きる人も現代では珍しくない。どんな人生がいいかはその人次第である。要は本人が納得して生きているかということだ。だから、単純に長く生きればいいというものではない。
でも、一体どんな人生がいい人生なのであろうか?
僕の場合、好きな仕事をして、家族を含む多くの友人・知人に囲まれて、その人たちから愛され・信用されて、ある程度のお金を持って自由に自分がしたいことをできるというのが幸せな人生なのだと思う。
いくら社会的に大成功してお金持ちになっても、自分を本当に信頼し、愛してくれる家族がいなかったら、その死に際はあまり幸せなものとは言えない。財産を築き上げてもそれを残していく子孫がいないのは悲しい。ブラジル人がよく言うように、お金はあの世には持っていけない。
もちろん、ブラジルに限らず日本でもその息子たちによって親の財産相続で骨肉の争いをしているようでは、悲しい限りである。自分が死ぬのを望んでいるかのような息子たちの振る舞いに、自分の教育の仕方が悪かったのかと自分を責めたくもなるだろう。
ブラジル人はよく「今を大切にする」ことを強調する。未来を楽観的に考えすぎても、悲観的に考えすぎてもよくない。実際にいいことが起こるか、悪いことが起こるかは分からないからだ。でも、今を大切に生きていれば、いつ死んでも後悔しないし、今努力していることが未来に結果として出てくる。
ところで、「死」とは何なのだろう。簡単に言えば、この世には物質的に存在しえなくなる状態になることだ。だから、人が死ぬとその人にはもう2度と会えなくなる。はっきり言えばそれだけのことである。
ある特定の人と一生のうちに2度と会えなくなることは日常生活においてよくあることだ。そうなると、実はその人は自分の中では死んだも同然なのである。「死」とはとても曖昧な概念である。曖昧が故に僕らは「死」を恐れるのかもしれない。でも、本当はそんな大それたことではない。
僕は身近な人が死んだという経験がない。だから、「死」を本当の意味で理解していない。子供のころに亡くなった祖父母は年に2,3回しか会っていなかったし、大人になってから亡くなった祖父母は僕がブラジルに来てからである。
僕は30歳半ばになって初めて祖父母に色々聞いて見たいことが出てきた。「生きた甲斐がある?人生を振り返って幸せだった?どんな困難を乗り越えてきた?生まれ変わったらどう生きて生きたい?僕を初孫として迎えた時どんな気持ちだった?」
人生を長く生きた人から学べることは多い。それだけの年月を生き、実際に経験した人にしか分からないことがたくさんあるからだ。実際には自分が本当にその年月を生きてみないと、人生の諸先輩からのアドバイスを本当の意味では理解できない。しかし、生の声を聞けるというのは大きい。
僕が聞きたい質問を亡くなった祖父母にはもう聞けない。それが「死」なのである。だから、生きているうちに自分の感情・意見・質問を人にぶつけていくべきなのだ。やりたいことがあれば、即行動に移す。結果は気にしない。結果は出てから考えればいい。それが「生きる」ことなんだと思う。
「親孝行したいときには親はいない。」とはよく言われることだ。僕は幸運なことに両親ともにまだ健在である。だから、親孝行できる。でも、彼らは決して満足しないことを僕は知っている。いや、彼らだけではない。残念ながら、人というものは決して満足しない。だから、人を喜ばすことだけを目的にやるのはよくない。
単純に自分ができる範囲内でできることを実行し、自分を満足・納得させるしか方法がない。人の評価・満足だけを判断基準にすると、その人は他人の奴隷と化す。だから、他人の評価はあまり気にせずに、自分の評価を判断基準にすべきかと思う。
夜になると暴れだす人、介護ヘルパーに継承人を頼む身寄りのない人、有名人、余命わずかの人。サッカーの試合で言えば、人生の後半戦最後の数分の人を扱う仕事のお話を伺うに当たって、考えさせられることが多かった。
人の一生とは生まれてから死ぬまでの期間である。生後まもなく死んでしまう赤ちゃんもいれば100歳以上生きる人も現代では珍しくない。どんな人生がいいかはその人次第である。要は本人が納得して生きているかということだ。だから、単純に長く生きればいいというものではない。
でも、一体どんな人生がいい人生なのであろうか?
僕の場合、好きな仕事をして、家族を含む多くの友人・知人に囲まれて、その人たちから愛され・信用されて、ある程度のお金を持って自由に自分がしたいことをできるというのが幸せな人生なのだと思う。
いくら社会的に大成功してお金持ちになっても、自分を本当に信頼し、愛してくれる家族がいなかったら、その死に際はあまり幸せなものとは言えない。財産を築き上げてもそれを残していく子孫がいないのは悲しい。ブラジル人がよく言うように、お金はあの世には持っていけない。
もちろん、ブラジルに限らず日本でもその息子たちによって親の財産相続で骨肉の争いをしているようでは、悲しい限りである。自分が死ぬのを望んでいるかのような息子たちの振る舞いに、自分の教育の仕方が悪かったのかと自分を責めたくもなるだろう。
ブラジル人はよく「今を大切にする」ことを強調する。未来を楽観的に考えすぎても、悲観的に考えすぎてもよくない。実際にいいことが起こるか、悪いことが起こるかは分からないからだ。でも、今を大切に生きていれば、いつ死んでも後悔しないし、今努力していることが未来に結果として出てくる。
ところで、「死」とは何なのだろう。簡単に言えば、この世には物質的に存在しえなくなる状態になることだ。だから、人が死ぬとその人にはもう2度と会えなくなる。はっきり言えばそれだけのことである。
ある特定の人と一生のうちに2度と会えなくなることは日常生活においてよくあることだ。そうなると、実はその人は自分の中では死んだも同然なのである。「死」とはとても曖昧な概念である。曖昧が故に僕らは「死」を恐れるのかもしれない。でも、本当はそんな大それたことではない。
僕は身近な人が死んだという経験がない。だから、「死」を本当の意味で理解していない。子供のころに亡くなった祖父母は年に2,3回しか会っていなかったし、大人になってから亡くなった祖父母は僕がブラジルに来てからである。
僕は30歳半ばになって初めて祖父母に色々聞いて見たいことが出てきた。「生きた甲斐がある?人生を振り返って幸せだった?どんな困難を乗り越えてきた?生まれ変わったらどう生きて生きたい?僕を初孫として迎えた時どんな気持ちだった?」
人生を長く生きた人から学べることは多い。それだけの年月を生き、実際に経験した人にしか分からないことがたくさんあるからだ。実際には自分が本当にその年月を生きてみないと、人生の諸先輩からのアドバイスを本当の意味では理解できない。しかし、生の声を聞けるというのは大きい。
僕が聞きたい質問を亡くなった祖父母にはもう聞けない。それが「死」なのである。だから、生きているうちに自分の感情・意見・質問を人にぶつけていくべきなのだ。やりたいことがあれば、即行動に移す。結果は気にしない。結果は出てから考えればいい。それが「生きる」ことなんだと思う。
「親孝行したいときには親はいない。」とはよく言われることだ。僕は幸運なことに両親ともにまだ健在である。だから、親孝行できる。でも、彼らは決して満足しないことを僕は知っている。いや、彼らだけではない。残念ながら、人というものは決して満足しない。だから、人を喜ばすことだけを目的にやるのはよくない。
単純に自分ができる範囲内でできることを実行し、自分を満足・納得させるしか方法がない。人の評価・満足だけを判断基準にすると、その人は他人の奴隷と化す。だから、他人の評価はあまり気にせずに、自分の評価を判断基準にすべきかと思う。
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