社会で成功したければ、何かに秀でればいい。ただ、誰もがすべての分野に関して才能に恵まれているわけではないから、闇雲に頑張ればいいという訳ではない。
まず、一番大事なのは自己分析である。どんな自分になりたいのか。どんな仕事をしたいのか。どんな人生を送りたいのか。
僕はつい最近まで、仕事というのは生きていくためにしなければならない義務という捉え方をしてきた。だから、仕事はつらいものと決め込んでいた。でも、もし僕らが本当に好きな仕事を選んでいたら、仕事をするのは楽しいはずである。そして、何事も楽しければ一生懸命取り組むわけだから、いい結果をもたらすという好循環を生むのである。
つまり、何が大事かと言うと、自分が好きでやりたいことと自分自身の才能を照らし合わせてみて、進むべき道を定めるという作業を人生のどこかできちっとしておく必要があるということだ。
そして、1度その目標となる到達点を決めたら、後はそれを実現するためにひたすら努力を続ければいいだけの話である。注意点としては、目標を大学合格とかある会社への就職とか一過性のものにしないことである。なぜなら、その目標を達成した段階で満足し、大学に入ってからの勉強とか、会社に入社してからの仕事に満足できなくなってしまうからだ。
もちろん、その通過点である目標を達成した瞬間は大いにそれを祝うべきだが、そこでハッピーエンドではない。むしろ、そこからがスタート地点なのである。常に当面の目標の先にさらなる大きな目標を立てて、人生を過ごせば、目標達成後の脱力感や人生において自分を見失うことはなくなるであろう。
2009年の目標として、翻訳の仕事の量を増やすことを以前のブログで掲げたが、もう1つの目標として大学院合格を掲げたい。実は2005年に1度、地元の連邦大学の大学院の文学部の試験を受けて、筆記試験で落とされている。7,8ヶ月ほど準備期間をもうけてかなり一生懸命勉強したが、合格できなかった。
自分自身、語学に才能があるとは思わない。ただ、語学は好きだし、日本語教師の仕事も好きだ。授業をするのは楽しいが、僕の場合その理論的裏づけはない。小手先の文法知識で生徒達に日本語を教えている。
大学時代は日本語学科であったが、大学4年間は大学合格後の脱力感で自分を見失い、はっきり言って真面目に勉強しなかった。30代半ば。年は取ったが、自分を信じて、この辺でもう1度再挑戦してみるのはどうだろうかと思っている。
ブラジルの連邦大学は授業料がただ。だから、受験生の質も競争率も高い。そんなのは言い訳だが、今年は僕が勤める私立大学の大学院を受けたい。もちろん、授業料を払う必要がある。2年間でおよそ80万円程度。日本よりははるかに安いが、こちらの物価から考えれば高い。
でも、授業料を払ってでも勉強して、修士課程を是非とも取りたいという気持ちが強くなってきた。現在勤めている所はいつやめさせられるか分からず、何の保証もない。だから、修士課程を取って、きっちりどこかに就職したいというのが正直な気持ちである。
また、修士課程を取る過程で、僕のポルトガル語の能力もさらに伸ばしていけて翻訳の質を高められるとともに、日本語の授業の進め方にもいい影響が出てくるのではないかと思う。やって損することは絶対にない。
冒頭で述べたが、社会的に成功するのは何かに秀でる必要がある。一般庶民が社会で成功する一番効果的な方法の1つが教育、すなわち高学歴を獲得することである。もちろん、高学歴を達成したからといって、社会で成功することが保証されているわけではない。
学歴が高くても、約束を守らなかったり、陰口をたたくなど、社会人としての資質を備えていなければ、成功はおぼつかない。また、自分の守備範囲以外にもアンテナを張り、良好な人間関係を保ち、常に誠実であることも成功に必要な要素だと思う。さらに、運も必要だ。ただ、運も実力のうちで、成功している人はそういった運を見過ごさないで確実にものにする能力を秘めている。
僕は子供のころから、外国語に興味を持ち、人に何かを教えることに喜びを感じ、バイリンガルになりたいと憧れていた。なりたい自分とは、ポルトガル語をあたかも母語のように話し、どんな話題にも自分の意見をポルトガル語で正確に伝えられ、面白くてためになる日本語の授業ができる自分だ。
その実現の第1手段として大学院を受けたい。しかも、外国人には敷居が高い文学部。なぜなら、僕は日本で文学部を出ているわけで、修士のタイトルが欲しいからと言って、ほかの入りやすい学部に入ってもあまり意味がない。言語学を勉強して、理論武装もした素晴らしい日本語教師になりたい。
試験は12月。少しずつ勉強を始めようかなと思う。希望ある未来を目指して。
まず、一番大事なのは自己分析である。どんな自分になりたいのか。どんな仕事をしたいのか。どんな人生を送りたいのか。
僕はつい最近まで、仕事というのは生きていくためにしなければならない義務という捉え方をしてきた。だから、仕事はつらいものと決め込んでいた。でも、もし僕らが本当に好きな仕事を選んでいたら、仕事をするのは楽しいはずである。そして、何事も楽しければ一生懸命取り組むわけだから、いい結果をもたらすという好循環を生むのである。
つまり、何が大事かと言うと、自分が好きでやりたいことと自分自身の才能を照らし合わせてみて、進むべき道を定めるという作業を人生のどこかできちっとしておく必要があるということだ。
そして、1度その目標となる到達点を決めたら、後はそれを実現するためにひたすら努力を続ければいいだけの話である。注意点としては、目標を大学合格とかある会社への就職とか一過性のものにしないことである。なぜなら、その目標を達成した段階で満足し、大学に入ってからの勉強とか、会社に入社してからの仕事に満足できなくなってしまうからだ。
もちろん、その通過点である目標を達成した瞬間は大いにそれを祝うべきだが、そこでハッピーエンドではない。むしろ、そこからがスタート地点なのである。常に当面の目標の先にさらなる大きな目標を立てて、人生を過ごせば、目標達成後の脱力感や人生において自分を見失うことはなくなるであろう。
2009年の目標として、翻訳の仕事の量を増やすことを以前のブログで掲げたが、もう1つの目標として大学院合格を掲げたい。実は2005年に1度、地元の連邦大学の大学院の文学部の試験を受けて、筆記試験で落とされている。7,8ヶ月ほど準備期間をもうけてかなり一生懸命勉強したが、合格できなかった。
自分自身、語学に才能があるとは思わない。ただ、語学は好きだし、日本語教師の仕事も好きだ。授業をするのは楽しいが、僕の場合その理論的裏づけはない。小手先の文法知識で生徒達に日本語を教えている。
大学時代は日本語学科であったが、大学4年間は大学合格後の脱力感で自分を見失い、はっきり言って真面目に勉強しなかった。30代半ば。年は取ったが、自分を信じて、この辺でもう1度再挑戦してみるのはどうだろうかと思っている。
ブラジルの連邦大学は授業料がただ。だから、受験生の質も競争率も高い。そんなのは言い訳だが、今年は僕が勤める私立大学の大学院を受けたい。もちろん、授業料を払う必要がある。2年間でおよそ80万円程度。日本よりははるかに安いが、こちらの物価から考えれば高い。
でも、授業料を払ってでも勉強して、修士課程を是非とも取りたいという気持ちが強くなってきた。現在勤めている所はいつやめさせられるか分からず、何の保証もない。だから、修士課程を取って、きっちりどこかに就職したいというのが正直な気持ちである。
また、修士課程を取る過程で、僕のポルトガル語の能力もさらに伸ばしていけて翻訳の質を高められるとともに、日本語の授業の進め方にもいい影響が出てくるのではないかと思う。やって損することは絶対にない。
冒頭で述べたが、社会的に成功するのは何かに秀でる必要がある。一般庶民が社会で成功する一番効果的な方法の1つが教育、すなわち高学歴を獲得することである。もちろん、高学歴を達成したからといって、社会で成功することが保証されているわけではない。
学歴が高くても、約束を守らなかったり、陰口をたたくなど、社会人としての資質を備えていなければ、成功はおぼつかない。また、自分の守備範囲以外にもアンテナを張り、良好な人間関係を保ち、常に誠実であることも成功に必要な要素だと思う。さらに、運も必要だ。ただ、運も実力のうちで、成功している人はそういった運を見過ごさないで確実にものにする能力を秘めている。
僕は子供のころから、外国語に興味を持ち、人に何かを教えることに喜びを感じ、バイリンガルになりたいと憧れていた。なりたい自分とは、ポルトガル語をあたかも母語のように話し、どんな話題にも自分の意見をポルトガル語で正確に伝えられ、面白くてためになる日本語の授業ができる自分だ。
その実現の第1手段として大学院を受けたい。しかも、外国人には敷居が高い文学部。なぜなら、僕は日本で文学部を出ているわけで、修士のタイトルが欲しいからと言って、ほかの入りやすい学部に入ってもあまり意味がない。言語学を勉強して、理論武装もした素晴らしい日本語教師になりたい。
試験は12月。少しずつ勉強を始めようかなと思う。希望ある未来を目指して。
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