日本語教師ブラジル奮闘記

ブラジル生活裏話

自尊心

2008年10月30日 23時43分39秒 | 日本事情
すべての人に自尊心がある。乞食にもある。だから、人に好かれたいと思ったら、その自尊心をくすぐってやればいい。逆に、他人の自尊心を誤って傷つけてしまえば、確実に人から嫌われる。
 
自尊心を持つことは人間が生きていくうえで重要だ。しかし、自尊心を必要以上に持つことは危険である。自尊心があまりにも高い人は、周囲の人に相当に気を使わせてしまうので、付き合いづらいからだ。
 
僕は今年の3月末にORKUTなるものを始めた。これはいわばブラジルのMIXIで、自分のプロフィールや写真なるものを公開して他人とコミュニケーションなどをとって行くものである。
 
日本語の生徒Aさんが「僕の生徒」というコミュニティーを作った。別に頼んでもいないのだが、授業中に「どうだ?嬉しいか?」と問われ、返答に困った。
 
Aさんは後半になって休みがちになり、最後のテストで及第点を取れなかったために宿題をすることを条件に修了書を渡すと伝えた。僕としては彼が卒業できるようにという善意でしたことであったのだが、どうやら彼の自尊心を傷つけたようだ。
 
後日メッセンジャーを僕がつなげていると、コースに対する不満を僕にぶつけてきて、個人的な批判中傷をしてきた。僕としては批判するなら個人的に面と向かってしてほしいし、コンピューター上で言い合いをしても始まらないと考え、最低限の事だけを答えておいた。そうすると、彼は上層部に談判に行くと言い残してログアウトしていった。
 
昨日このコミュニティーに入って見た。Aさんがコースに対する批判、僕に対する批判をひたすら書きまくっていた。それに対してBさんが反論すると、Aさんはさらにエスカレート。ほとんどAさんの恨みつらみの吐露というコミュニティーになってしまった。
 
僕がどんなに素晴らしい先生でも全ての生徒を満足させることはできない。逆に、僕がどんなに変わった先生であっても、一部の人は満足してくれる。先生と生徒とは人間関係と同じで、相性がある。
 
また、外国語の教え方はいくつかあるが、どれが一番いい方法ということはない。どの方法にも長所・短所はある。それは生徒個人の好みの問題であり、そこにいる生徒すべてが好むような方法で授業を進めるのは不可能である。
 
僕が日本語を10年教えていて分かったのは、生徒の出来不出来は先生の能力によらないという事実である。できる生徒は先生が誰であろうと出来る。出来ない生徒は先生が誰であろうと出来ない。
 
だから、たまたま生徒のみんなができるからと言って、自分は能力のある先生だと思い込んではいけない。一方、生徒がみんなできないからと言って、自分は先生として失格だと思う必要もない。
 
僕が教師として気をつけているのは、生徒すべてを公平に扱い、評価することと授業中できるだけ楽しい雰囲気を作ることである。それはある生徒だけが特別扱いされるのは、他の生徒から見ていて不快であると思うし、教えることはもちろん、楽しくなければみんな来たくなくなると思うからである。
 
一人の人間としても、職業上の教師としても、すべての人は未熟であり、死ぬまで完成することはない。だから、人の批判は真摯に受け止め、それを反省材料として次の授業に生かして行きたいと思う。でも、批判するなら直接批判してほしい。
 
出来ない生徒ほど不満を述べる。出来る生徒ほど不満は述べず、逆に感謝してくる。これは授業に限ったことではないと思う。
 
人生を生きていくうえで不満を言ったらきりがない。でも、不満を抱えて生きていくより、自分が持っているもの、置かれている状況に感謝しながら生きたほうがずっと幸せに生きていける。誰かに何かをしてもらうのを待っているのではなく、与えられた状況の中で、自分の力で、時には人の力を借りながら、自分の本当にしたいことをやっていけばいいのだと思う。

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