雪姫鳥の独り語

雪姫鳥の山暮らし、日常に感じる事。
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食べ物や子育て、雪姫鳥のエコライフ。

1987年インド紀行 vol. 1 インドの洗礼

2018-07-18 21:43:27 | 

今年は、私とツレの事がTV朝日ポツンと一軒家に出たり、

平成最後の暑い夏が、インドを思い出させ、旅の記憶を今の心境で、書き換えます。

 

1986年8月末に神戸を鑑真で発ち上海へ、中国、チベットを経てネパール、

慣れない二人旅に、初めてのアジア。カルチャーショックを感じる余裕もなく、ツレとの関係に疲れていた。

翌年の御来光を、トレッキングの途中のプーンヒルで仰ぎ、もう、二人旅には限界を感じていた。

27歳の私は、将来に不安を感じていても、結婚対象になる人も居なかった。

経済的に自立して居ても、自分が何なのか、分からなかった。

今でいう、意識高い系の女子は少なく、東京に居た友人も結婚で故郷に帰って行く。

その頃、国分寺にあったほら貝で、ツレと出会い、インドへ誘ったのは私でした。

彼の旅費100万円を用意し、彼と世界を旅しようとひらめいた。

今、考えると、現実逃避だったのかもと思う。

彼となら一人旅より安く、経験した事の無い世界が見えるような気がした。

それは、私の直感のようなモノだったと思う。


旅の途中で28歳になり、ツレとは口論が耐えなかった。

全てが違うと言ってもいいほど、思考が異なっていた。

一般常識では考えられない、価値観や文化がツレにはあった。

それを求めていても、自分の我に振り回されていた。

ただ、食に関してマクロビは理にかなっていて、ツレの経験や知識は新鮮でした。


1月の中旬、パートナーが先に発ち、私は2~3日送れて、ネパールのポカラを発った。

目指すは聖地ベナレス、長距離バスに乗り、陸路で向かった。

国境の町、スノウリに一泊した。バス代に宿代も含まれていたように思う。

日没には時間が早いので、ブラブラしながら、食堂らしき所で、茶を飲んだ。

チャイではなく、ただの紅茶でしたが、この紅茶が変でした。

飲むのをやめれば良かったのに、喉が渇いていたし、生水ではないので、油断した。

その日の夜から、腹具合が変になり、下痢が始まりました。

腹痛はありませんでしたが、飲食をすると、もう我慢ができません。


翌日はベナレスまで、直行。お腹は空くし、喉は渇くし、気分は最悪。

親切な白人からは、話しかけられ、おまけに、食べ物を差し出される。

もう、一人になりたいと思い、事情をはっきりと伝えた。

バスに揺られたからか、胃にまだ残っていたのか、バスが止まる度に用を足す。

幸い、長いワンピースを着ていたので、インド人同様、外でしても問題なかった。


バスがベナレスに着いたのは、夜になっていた。

宿も決まっていないので、サルベーションアーミー(救世軍)の宿に行く事にした。

安宿からすれば高いが、ホテルよりは安いし、安心できる。

バスが止まると同時にやってきた客引きに、その宿に連れて行ってもらう。

ドミトリーにベッドを取り、とにかく寝た。

数時間すると、寒気がきた、エジプトでも経験があるので、焦りはなかった。

スタッフに余分に毛布を借りた、個室に同じ料金で良いと勧められたけれど、断った。

動くのが辛いので、寝れば大丈夫だし、経験があるというのは、心強い。

朝になると、熱は収まったが、体力がかなり落ちていた。

何か食べないとと、街へ出て、食事をした。すると、もう我慢できない、また下痢になる。

治まるまで、飲まず喰わずでいなくてはいけないのか?

味噌・醤油・自炊道具はツレにやってしまったが、彼はまだベナレスにいるはず。

とにかく、ガンガーに移動しなければと、3日目に気力で動いた。


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