今年は、私とツレの事がTV朝日ポツンと一軒家に出たり、
平成最後の暑い夏が、インドを思い出させ、旅の記憶を今の心境で、書き換えます。
1986年8月末に神戸を鑑真で発ち上海へ、中国、チベットを経てネパール、
慣れない二人旅に、初めてのアジア。カルチャーショックを感じる余裕もなく、ツレとの関係に疲れていた。
翌年の御来光を、トレッキングの途中のプーンヒルで仰ぎ、もう、二人旅には限界を感じていた。
27歳の私は、将来に不安を感じていても、結婚対象になる人も居なかった。
経済的に自立して居ても、自分が何なのか、分からなかった。
今でいう、意識高い系の女子は少なく、東京に居た友人も結婚で故郷に帰って行く。
その頃、国分寺にあったほら貝で、ツレと出会い、インドへ誘ったのは私でした。
彼の旅費100万円を用意し、彼と世界を旅しようとひらめいた。
今、考えると、現実逃避だったのかもと思う。
彼となら一人旅より安く、経験した事の無い世界が見えるような気がした。
それは、私の直感のようなモノだったと思う。
旅の途中で28歳になり、ツレとは口論が耐えなかった。
全てが違うと言ってもいいほど、思考が異なっていた。
一般常識では考えられない、価値観や文化がツレにはあった。
それを求めていても、自分の我に振り回されていた。
ただ、食に関してマクロビは理にかなっていて、ツレの経験や知識は新鮮でした。
1月の中旬、パートナーが先に発ち、私は2~3日送れて、ネパールのポカラを発った。
目指すは聖地ベナレス、長距離バスに乗り、陸路で向かった。
国境の町、スノウリに一泊した。バス代に宿代も含まれていたように思う。
日没には時間が早いので、ブラブラしながら、食堂らしき所で、茶を飲んだ。
チャイではなく、ただの紅茶でしたが、この紅茶が変でした。
飲むのをやめれば良かったのに、喉が渇いていたし、生水ではないので、油断した。
その日の夜から、腹具合が変になり、下痢が始まりました。
腹痛はありませんでしたが、飲食をすると、もう我慢ができません。
翌日はベナレスまで、直行。お腹は空くし、喉は渇くし、気分は最悪。
親切な白人からは、話しかけられ、おまけに、食べ物を差し出される。
もう、一人になりたいと思い、事情をはっきりと伝えた。
バスに揺られたからか、胃にまだ残っていたのか、バスが止まる度に用を足す。
幸い、長いワンピースを着ていたので、インド人同様、外でしても問題なかった。
バスがベナレスに着いたのは、夜になっていた。
宿も決まっていないので、サルベーションアーミー(救世軍)の宿に行く事にした。
安宿からすれば高いが、ホテルよりは安いし、安心できる。
バスが止まると同時にやってきた客引きに、その宿に連れて行ってもらう。
ドミトリーにベッドを取り、とにかく寝た。
数時間すると、寒気がきた、エジプトでも経験があるので、焦りはなかった。
スタッフに余分に毛布を借りた、個室に同じ料金で良いと勧められたけれど、断った。
動くのが辛いので、寝れば大丈夫だし、経験があるというのは、心強い。
朝になると、熱は収まったが、体力がかなり落ちていた。
何か食べないとと、街へ出て、食事をした。すると、もう我慢できない、また下痢になる。
治まるまで、飲まず喰わずでいなくてはいけないのか?
味噌・醤油・自炊道具はツレにやってしまったが、彼はまだベナレスにいるはず。
とにかく、ガンガーに移動しなければと、3日目に気力で動いた。