ゆきちゃん通信++tomiの日記++

自閉症の娘、由紀子の毎日と
母の生活を綴っています。

音楽療法 2 (自閉症の特性44)

2016年05月29日 | 自閉症の特性
昨日の続きです。

由紀子は長崎から大村へ引っ越しをして
養護学校の中学部へ入学をしました。

それから2か月ほどして
連日大きなパニックを
起こすようになりました。

環境の変化が引き金になって起きた
強度行動障害の急性期というやつです。

今だから、冷静にそんな言葉で書けますが
当時は、目の前で荒れ狂う由紀子の姿に
絶望しかありませんでした。


その大変な日々の始まりの前に
由紀子のSOSともいうべき言葉が
2005年4月の
音楽療法の日の日記の中にありました。

今回、この記事を書く為に
日記を読み返して
母も初めて気が付きました。
( ̄□ ̄=)ハッ!


ちょっと話が横道にそれるかもしれませんが
書き留めておこうと思います。


この日は、引っ越しをしてから
初めての音楽療法の日でした。

大村から現川までJRで行きました。

学校に迎えに行って
現川の教室へ行ったのですが

この日、学校では小さなトラブルを
たくさん起こして
先生方を困らせていた由紀子ですが

音楽療法では
機嫌よくレッスンを受けることができました。

・・・日記からの抜粋・・・

現川では久しぶりにピアノに触って
いろんな曲を即興で弾いたようです。 
楽譜なしで由紀子の感性で鍵盤を叩いて曲にします。 
その中で、自分が知っている曲の音を拾いながら弾いたり・・・
本当に楽しかったようです。 
 
でも、ここでも小さな事件がありました。 
レッスンが終わって帰る準備をしている時です。 
由紀子が「おうちに帰ろう!」といった後に、急に涙ぐんだのです。
 
最初は訳がわからなかったのですが、
「どうしたの?」の問いに涙を流しながら
「N町市場のお家!」
由紀子がそういいました。 
 
N町市場のお家・・・それは長崎の家です。
「N町市場前」というバス停を利用していたので
由紀子はそう表現したのです。 

現川から帰ることを考えた時に一瞬、
長崎に帰ると間違ってしまったのでしょう。 
胸が痛くなりました。
 
今由紀子の頭の中にはどんな思い出が
よみがえっているのでしょうか? 
友達のこと、学校のこと・・・
楽しかった2年間でしたからね。 
 
でも私は、
「大村の家に帰ろうね!」
としか言ってやれません。
 
もう、始まってしまった新しい生活に
馴染んでいくしかないのですから・・・。 
由紀子もその後、すぐに立ち直って元気になりました。 
きっと由紀子にもわかっているはずです。 


・・・ここまで・・・

「N町市場のお家」と言ったのは
間違えた訳ではなかったと
今は思います。

会話が苦手な由紀子が

「今の生活は辛いから
長崎の家に戻りたい!」


と、必死に訴えていたのだと思います。

音楽療法はいつもの場所で
いつもの先生と
いつものように楽しかった!

だから、他の生活も
いつもと同じにして欲しかったのでしょう。


長崎の家に戻ることは無理でしたが
由紀子が今の環境に適応できていないことを
もっと重く受け止めてやるべきでした。

この頃の日記を読むと、
自分の都合のいいように全てを解釈して
由紀子の気持ちを置いてきぼりにしていることに
心が痛みます。


この後、由紀子は
学校でも家でも暴れるようになって
最後はうつ状態になってしまいました。

感覚が過敏になって
光も音も受け入れられなくなり
学校にも行けず、
家の中にこもって
薄暗い部屋で、無音の生活をするようになりました。

外出もできなくなったので
音楽療法も無理になりました。


もう、これで音楽療法も終わりかも…


母はそう思っていたのですが
H崎先生は由紀子が立ち直るのを
待っていてくれました。


5か月後
由紀子はやっと学校へ行けるようになりました。


でも、強度行動障害は残ったままで
JRにも乗れないので
現川の教室へは行けませんでした。


すると・・・
由紀子が現川まで来れないのならば
先生が大村に来ると言ってくださって

大村市のお友達の教室を借りて
音楽療法を再開してくれました。


再開した音楽療法の様子は
次回へつづきます。

=END=
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音楽療法 (自閉症の特性43)

2016年05月29日 | 自閉症の特性
音楽へのこだわり その4の終わりで
音楽療法のH崎先生に話を聞いて
その5を書くと約束をしました。

それで昨日、H崎先生に時間を作っていただいて
一緒にランチをしてきました。

久しぶりにゆっくり先生と話ができて
本当に楽しい時間でした。

話をする間に
いろんな思い出が蘇ってきたので
これから数回に分けて
「音楽療法」について書いてみようと思います。


由紀子の音楽療法が始まったのは
2003年の8月でした。

今日もH崎先生と
13年も経ったんですねぇ~!?
と、しみじみしてしまいました。(笑)

私は、その頃の日記に

「音楽は一人で楽しむものだけではなく、
人と楽しむ事もできると由紀子に知って欲しい。 
会話はうまくできなくても、
音楽で人と心を通わせる事ができたら・・・。 
そんな思いでレッスンをお願いした母です。 」


と、書いています。

その頃、音楽へのこだわりが出てきて


音楽の教科書に載っている曲が
自分の知っているキーと違うと言って
パニックになったり!

人と一緒に歌ったりするのを嫌って
自分一人で歌いたいと言ってパニックになったり!

音楽の授業などに支障が出ていました。

それで、知人にH崎先生を
紹介してもらってレッスンをお願いすることになりました。


音楽療法を始めたばかりの頃は
教室に連れて行っても
先生とのレッスンを拒否して
ピアノにすら触ろうとしなくて・・・


でも、先生が部屋を出た途端に
ピアノを引きはじめたりして・・・(笑)

その頃の由紀子です。


母が側にいると甘えて
先生との関係ができないと思ったので
レッスンは母抜きでお願いをすることにしました。

その当時、教室が現川(うつつがわ)という
山に囲まれた場所にあって
レッスンの間、母はカメラを片手に
自然の中を散策していました。


そこへ、響いてくるのが
由紀子の泣き声と叫び声!!

きーーーーーっヾ(*`Д´*)ノ"彡☆


(ノ_-;)ハア・・・



・・・日記から抜粋です。・・・・

今日から私は別の場所でレッスンが終わるのを待つことにしました。
先生には「闘ってください!」
そうお願いをしました。(笑) 

「闘う!」・・・たぶんその意味はすぐに
わかって頂けたと思います。 


レッスンを始めてすぐに
由紀子の叫び声が聞こえてきました。 

「やだ~!ピアノは嫌いなの!!」
「○○の歌はきらいなの~!」 

先生も必死に由紀子とコミュニケーションを取ろうと
がんばってくださっていますが、
最近の由紀子はそう簡単には心を開きません。
 
「お母さんはどこ?お母さんを探しに行く~!」
 
ピアノを開く事さえ拒否してピアノをがんがん叩いています。 

久々のパニック状態! 
何度か部屋に入ろうかと思いましたが
今日は先生に任せよう・・・
そう思いとどまって外で腕を組んでじっとがまんをしました。


・・・ここまで・・・・

こんなに大暴れをしたのに
帰りの列車の中では笑顔で
「今日はたのしかったねぇ~?」
と、いう由紀子さんでした。(笑)

その笑顔を見て
きっとうまくいく!
そう確信をしていた母でした。


そんな事を何度か繰り返して
H崎先生は由紀子との関係を作ってくださいました。

本当にあれから13年です。



由紀子の音楽療法は
音楽を楽しめるようになることを
目的としているので
毎回レッスン内容が変わります。

一緒にピアノを弾いたりもしますが
由紀子が一本指で引くメロディーに
先生が伴奏を付けてくださったり

由紀子が耳コピーした曲を
ピアノで弾いたりします。


学校でドラムを連打していると話すと
ジャンベという太鼓を持ってきてくださって
一緒に叩いて、リズム遊びです。


由紀子が骨振動を好むことを
見つけてくれたのも先生でした。

これもディジュリドゥという楽器なんですよ!(笑)

耳骨に直接、音の振動が伝わってくるこの楽器が
由紀子のお気に入りになりました。


先生のおかげで由紀子は
音楽の楽しみ方をたくさん知ったと思います。

小学校の5年生の時には
H崎先生が学校に来てくださって
担任の先生と交流学級の先生と一緒に
音楽のセッションをしてくれたこともありました。

二人の先生とも音楽が好きで
教室にドラムセットやギターが
置いてありました。

由紀子にとって、一番音楽に恵まれた年でした。



小学5年生から始めた音楽療法でしたが
養護学校の中学部へ入学する為
私たちは長崎から大村へと引っ越しをしました。

引越しをしても音楽療法は
続けるつもりでいました。

しばらくは大村から現川の教室へ通っていたのですが・・・

中学部一年の時に
環境の変化と思春期の嵐で
由紀子は大きく変わっていきました。

強度行動障害の急性期でした。

車での移動もできなくなって
現川まで連れて行けないので
音楽療法は一時期休むことになりました。


次回へ続きます。


=END=
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