和貴の『 以 和 為 貴 』

論語:述而第七 〔36〕 君子は坦かに蕩蕩たり


論語を現代語訳してみました。



述而 第七

《原文》
子曰、君子坦蕩蕩。小人長戚戚。

《翻訳》
子 曰〔のたま〕わく、君子〔くんし〕は坦〔たん〕たらんとして蕩蕩〔とうとう〕。小人〔しょうじん〕は長〔ちょう〕たらんとして戚戚〔せきせき〕たり。




《現代語訳》


孔先生はさらに、次のように仰られました。


 "君子" というのは、〈つねに〉心は大らかではあるが、〈つねに〉人の考えや人格を意識し理解しようと努力する。

しかし "小人" というのは、〈つねに〉心に迷いが生じており、〈つねに〉自分本位でしかない、と。


〈つづく〉



《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。

この語句を語訳するにあたっては、孔子の、「 "君子"を目指し学を修めようとするからには、 "小人" の心に囚われてはならないのだよ」とする、子路へのことばとして訳してみました。

また、そのことによって、師である孔子の病いを気にするあまり(『長たらんとして』)、子路は孔子に対して祈祷することを願いつつ(『威威たり』)、しかし、その祈祷内容が子路の立場においては相応しくないのだよ、とする孔子からの戒め(『坦たらんとして蕩蕩』)ではあるけれども、しかし、前述の『奢なれば不孫、倹なれば固』と前々述の『丘の禱るや久し』のように、師弟の間柄であっても、子路に対しては "心の友" とする孔子の愛情みたいなものが含まれているというふうにも感じられてきます。

よって、子路のように孔子の病いを気にする(=心配)ことと、孔子のように相手の考えや人格を意識し理解する(=尊重)ことの違いを、自分なりにきちんと区別し実践できていなければ、結果、「気持ちは有難いのだけれども迷惑な行為(=不遜)」を犯す者として、相手からの信頼を失うことにも繋がる、と解することが出来るものと思われます。



※ 関連ブログ 君子は坦かに蕩蕩たり
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考


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